今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

都心(上野、日本橋)のミュージアムはしご:連休4日目

2019年04月30日 | 東京周辺

平成最終日は雨天になることがわかっていたため、あまり歩かないですむ近場(すなわち都心)のミュージアムに予定どおり行った
(”ミュージアム”とあえて英語表現を使うのは、博物館と美術館を一緒に扱うため)。

まずは上野の東博(東京国立博物館)で開催中の「東寺展」(-6/2)。
雨天といえども連休中だからか、東博の入口は券売機の所ですでに長い行列。
幸い、私は前売り券を買っていたので、そこを素通りし、行列かと思った会場の平成館は混んでいなかった(平成最後の日の平成館!)。
最近密教づいている私は、東寺展を楽しみしていたので前売り券を買っていたのだ。
2階に上って求めたイヤホンガイドの声は京都出身の佐々木蔵之介。

第1会場のハイライトである後七日御修法(みしほ)を再現したセットは、
十二天の図像に囲まれた空間で、チベット密教とも共通する神秘的な雰囲気にひたれた。
第2会場のハイライトである国宝仏像群による立体曼荼羅の再現も(本尊の大日如来と不動明王はさすがに非展示)、密教世界に入り込んだ気分になれる。
この中の帝釈天だけ撮影OK(写真)。

以上すべて見終って、両会場の間にあるミュージアムショップに向う。
実は、先の立体曼荼羅を構成している明王たちの東寺が監修によるフィギュアを、
アマゾンで購入しかけていたのだが、
この東寺展ならサービス価格で販売しているのではと期待して、購入ボタンを押さないでいた。
そしたら期待通り、こちらの方がネットより2000円以上も安く売っていたので(8600→6500円)、ほしかった降三世明王を迷わず購入。
またこの特別展記念で限定販売の海洋堂作の帝釈天フィギュアも購入(7200円。精巧だがちょっとプラモっぽい)。
なにしろ帝釈天は、わが小笠原流礼法の開祖・小笠原貞宗が信仰していた仏様。
以上の立体曼荼羅のフィギアはネットより安く購入できたが、それ以外の展示とは無関係の仏像・仏具はネットの方がはるかに安い。

見学と購入両方の目的を達して、次の目的地に向う。

上野駅から銀座線に乗って「三越前」で降り、案内に導かれて格式のあるビルの7階に重厚な内装のエレベータで上がると、そこは三井記念美術館。
特別展「円覚寺の至宝 」(-6/23)を見に来たのだ。

鎌倉の円覚寺は、通常時は建物だけしか見学できず、11月の風入れ公開時も見れるのは書画ばかり。
ところが今回は、数々の仏像が間近で拝められる。
円覚寺には塔頭がたくさんあるので、仏像も集めればたくさんあるようだ。
しかも鎌倉の地独自の作風で、東国の鎌倉がいかにオリジナリティある文化の地であったかを物語っている。
仏像だけでなく、開山の頂相もリアルな造形で、しかも建長寺の蘭渓道隆と円覚寺の無学祖元の二大開山坐像が並んでいるのは壮観。
あと雪村周継(せっそんしゅうけい)なる人の絵があったが、どこかで見覚えのある名だと思ったら、
昨日の「へそまがり日本美術」で布袋があくびしている絵などの作者だった。
こちらの「滝見観音」などはいたってオーソドックスな絵だが、そうでない絵も描くわけだ。

片や京都の密教、片や鎌倉の禅、それぞれの独自世界を堪能できた
(ただし胸に下げたバケタンはいずれも無反応)。
これで、連休中に訪れる予定の所はすべて廻った。


多摩(府中、日野)のミュージアムはしご:連休3日目

2019年04月29日 | 東京周辺

連休中に出かける先は、期限が限られているものを優先している。
昨日の茅ヶ崎も「年に一度」なので最優先したつもりだった… 
あと山にも行きたいのだが、山は期限がないし、どうせならいい天気の時に行きたいので、優先順位はさがる。

連休3日目の今日は、曇天の予報なので、山ではなく期限が限られているミュージアムの”企画展”にし、
かといって雨ではないので近場ではなく、東京の西部・多摩に足を延ばす。

まずは府中市美術館
京王線の東府中で降りて、まっすぐ北に伸びる道を進み、緑豊かな広い公園を抜けて(調布や府中にはこういう所があってうらやましい)北西の隅の建物に入る。
今回の企画展は、「へそまがり日本美術」というもので、へたくそに見える作品ばかりを集めたもの。
こういうへそまがりの企画が面白い。

日本でのこの手の絵のルーツは、自由闊達な禅画(室町期〜)であるらしく、
その代表格といえる仙崖義梵・白隠慧鶴などの絵も複数展示されているが、
個人的には禅画ではないが長沢蘆雪(応挙門下)の「なめくじ図」(なめくじが這った痕を絵にしている)が面白かった。

また近代になると、西洋のヘタウマ絵の元祖アンリ・ルソーの影響が加わってくる。
ちなみに、ルソーの「フリマンス・ビッシュの肖像」(硬いポーズの漫画のキャラを無理に油絵にした感じ)を観ていた時に、胸に下げていたバケタンが青く光った。
守り神が通り過ぎたようだ。

この企画展の目玉は、徳川家光の「兎図」で(右図、府中市美術館サイトより)、
ミュージアムショップではこの絵が布バッグや絵葉書になっている(絵葉書を購入)。
家光は狩野探幽に師事したので、その成果といっていいのか。
いずれにせよ、自分の趣味で描いた素人くさい絵が、四百年後に美術館で展示され絵葉書になっているとは、まさか三代将軍家光様も思っていなかったろう。

その他に文豪・夏目漱石の絵や、ヘタウマ漫画の湯村輝彦や今を時めく蛭子能収の漫画も展示されていた。

これらの珍しい絵は、その性格上個人蔵が多いこともあり、こうして人の目に触れることはとても貴重。
といっても美的感動には至らなかったこともあり、カタログまで買う気にはなれない。
そもそも美術展のカタログって、買っても一度読めば二度は見ないので結局本棚の肥しになってしまう。
この企画展、一度入館すると、期間中(-5/12)二度目は半額で入れる(半券を持参)。

以上を80分ほどかけて鑑賞し、美術館前からコミュニティバスで府中駅に向い、駅前で「元禄そば」を食べる。
昨日は天ぷらそばだったので、今日は糖質ではなくタンパク質と摂ろうとあえて月見そばを注文したが、
どんぶりに生卵を落としただけだと、つゆを全部飲まないと卵を回収できないのは、塩分を控えたい身にはつらい。
ここはひとつ、生卵ではなく温泉卵にしてほしい。

府中駅のポスターによれば、府中市の鎮守・大国魂神社の「くらやみ祭」が5月の連休中(3-6)に開催されるという。
GWは祭りの集中日でもあるんだな。

さて、次なる目的地を目指して再び京王線に乗って高幡不動に向う。
高幡不動からバスに乗る予定なのだが、その前に、高幡不動にお礼のお参りをする。
今年の1月に姪の大手術の成功を願うため、ここの不動様に生まれて初めて護摩木なるものを奉納したのだ。
手術は無事成功し、驚異的な回復までしたので、ついでで申し訳ないがお礼に参上しなくては。
不動堂にお参りをして、次の目的地関連で境内の土方歳三像にも立ち寄る。

駅前に戻って、日野駅行きのバスに乗り、途中で降りて、日野市立新選組のふるさと歴史館に行く。
日野市にはこの館のほか、土方歳三資料館、井上源三郎資料館、佐藤彦五郎新選組資料館、日野宿本陣(天然理心流道場)など、
新選組とその周辺の関連施設が林立し(佐藤彦五郎は新選組隊士ではないが、ネットワークの中心的存在)、
今や日野市は”新選組の地元”というアイデンティティを確立している。
実際、昔と違って、新選組の顔は隊長の近藤勇(調布出身)から日野出身の副長土方歳三に移った感がある。

このふるさと歴史館での特別展が「土方歳三」なのだ(-6/30)。
なぜなら、今年が彼の没後150年だから、それを記念して。
実は何を隠そう、私も土方の大ファンで、彼の史跡を訪れるサイトを持っているくらい。☞「山根一郎 旅と山の世界」へ
なので、たいていのことは既知だが、ファンなので企画展には足を運ぶし、カタログも躊躇なく購入する。

歳三忌にあたる連休明けの週末(11,12)は、日野市をあげての「新選組まつり」で、
150年忌の今年はかなり盛大な内容なのだが、私は残念なことに帰京できない。 
そういうこともあって、本日訪れたのだ。 


1日早かった茅ヶ崎:連休2日目

2019年04月28日 | 東京周辺

連休2日目の4月28日の日曜は、神奈川県の茅ヶ崎を訪れた。
茅ヶ崎は、20代の時に対人関係上の用事で行って以来の訪問で、今回は年に一度開帳される重要文化財の仏像の拝観が目的。

駅の北口に出て、まずは駅前の”箱根そば”で腹ごしらえ(私の昼食は駅そばで充分)。
ところがその間にバスが行ってしまったので、予定を変更して駅から歩くことにした(20分余分に歩くだけ)。
どうせ茅ヶ崎を訪れるなら、ついでに立ち寄ろうとしていた他の寺社を、駅に近い順に巡ることにする。

寺社情報に詳しいGoogleマップをナビにして住宅地の中の細い道を進み、最初の訪問地輪光寺(真言宗)に到着。
本堂の隙間から厨子に入った細長い観音像が披露されている。
裏手の墓地に山王様と眷族の猿の石像があり、寺の近くにも山王神社があることから、
真言宗寺院ながら山王信仰(本来は天台)と関係あるのか。
境内には三猿(見ザル・聞かザル・言わザル)が主題的に彫られた石塔があり(右写真)、最古級の庚申塔とも言われているが、
庚申塔としては主役たる青面金剛がないので、山王の眷族から庚申塔への移行過程の像かもしれない。

次の訪問地・神明大神宮に向う途中に点在する墓地は、この輪光寺の墓地で、かつては広大な寺域をもっていたようだ。
住宅地の中の神明大神宮は、地元の円蔵地区の鎮守で、本殿の奥には、地元の鎌倉武士・大庭氏の居館址の碑と大庭氏の像、それに幾つかの五輪塔がある。

西に進んで、茅ヶ崎中央通りを横断して、いよいよ本来の目的地・宝生寺(真言宗)に着く。
この付近は住宅地と畑地が混在して、風景にのどかさを感じる。
さて、宝生寺だが、開帳しているはずの阿弥陀堂が閉まっている。
庫裡に行って、呼び鈴代わりの鐘をついて、出て来た若い僧に、阿弥陀堂を開帳しないのか尋ねたら、なんと開帳日は明日29日だという。
年に一度の開帳日を私が一日間違えてしまったのだ。
私が参考にした『神奈川県の歴史散歩 下』(2011年)の「4月の最終日曜もしくは30日」という情報が古かったのだ(ネットで確認が必要だった)。

一日遅れではなく、一日早かったので、明日来れば見れるのだが、同じ地に2日続けてはるばる訪れる気にはなれない。
仕方なしに、開いている観音堂だけを拝観して、宝生寺を後にする。

主目的は見逃したが、立ち寄る予定先がまだあるので、気を取り直して次の目的地に向う。
宝生寺への道しるべとなる北向い地蔵を過ぎ、ナビに従って住宅地の中の細い道を進む。
車はもちろん人通りも少ないせいか、新しめの住宅の玄関脇で家族が卓を拡げてバーベキューを楽しんでいる。
都会の住宅地では(臭いと騒音のため)できないことで、ここだと居ながらにしてレジャー気分が味わえるわけだ。 

次の目的地・龍前院(曹洞宗)に着く。
ここにも庚申塔があり、真正な庚申塔(青面金剛の下に三猿)としてはこちらの方が古い。

ここからすぐに、鶴嶺八幡宮に達する。
ここは茅ヶ崎の総鎮守ともいえる神社で、ここを主目的としてもいいくらい。
本殿の右側に、樹齢1000年の大銀杏があり(右写真)、複数の幹が合体した特異な姿からは、尋常でない雰囲”気”が出ている。
この銀杏が御神体といってもおかしくない感じで、実際この巨樹には四手がついた注連縄が飾られ、その前には石が置かれた祭壇がしつらえてある。

ここで持参した秘密兵器バケタンの探知をすると、反応が青緑になった。
これは上から2番目の評価で(一番上が青)、「守り神の出現が期待できる」というもの。
また境内には、仲良く並んだ夫婦楠があり、その前には落ち葉で♥型が作られている。 

北側から来た私は北隅にある鶴嶺八幡の本殿を真っ先に訪れたが、
実はこの神社は南側に松並木の参道が700m以上も伸びている。
鎌倉鶴岡八幡宮の若宮大路には及ばないが、相模ではそれに次ぐ格の八幡宮ではないだろうか。
ただし、参道の幅は狭く、両側も普通の民家や畑地だったりで、無理に伸した感は否めない。
その参道の起点は、旧東海道(現国道1号)で、しかもその場所は、
江戸から出発する東海道で唯一富士が左側に見えるという「南湖左富士」の地。
実際、その碑がある橋に立つと、裾野を延ばした富士山が左側に意外に大きく見える(右写真)。
東京から見る富士は、丹沢山地の上に頭だけをちょこっと出した姿だが、
神奈川のここまで来ると、かくも富士が立派に見えるとは。
茅ヶ崎市民は、自宅の庭で大きな富士を眺めながらバーベキューができるのだ。

国道1号を左に折れて一路茅ヶ崎駅に向う。
途中、第六天神社に立ち寄る。
第六天とは本来は仏教に付属した神なのだが、神仏分離で神道側の神になってしまった。
境内には多くの石地蔵があるが、皆首が切られて本来の頭の代わりに石が載せてある。
排仏毀釈という維新前後のファナティックな思想運動の痛々しい痕跡だ。
実はこの極端な神道原理主義が維新後の国家神道と皇室典範を形成し、
それが現在に至っても影を落としたままなのが気になる。 

この境内の裏にパワースポットがあるという立て札に導かれると、そこに一本の黒松があり、
この松が雑誌でパワースポットと紹介されたという。
確かにそれなりの雰囲気を醸し出してはいるが、鶴嶺八幡のあの大銀杏に比べるとなぁ…、と思ってバケタンで探知すると、
結果は、緑、すなわち「何もない」。
自分の霊感はこのバケタンで鍛えられたので、師匠たるバケタンの探知結果を尊重する。 

ちなみに、バケタンは、探知のスイッチを押さなくても、異常を検知するとひとりでに反応するようにできている。
実は、往きの東海道線の車中でバケタンは勝手に青く光って「守り神登場」と訴えた。
急いで車外を見ると、鶴見駅の手前だった。
総持寺(曹洞宗の本山)に反応したようだ。
そして、帰りの車中、今度は赤く光って「警戒が必要」と訴えた。
川崎駅での停集中でのこと。

話を戻して、第六天神社は明日が祭りで、神輿が出て、舞台で出し物があるという。
やはり一日早かった。 

ほとぼりがさめた数年後の4月29日に再び茅ヶ崎に訪れるとしよう。
でも他の名所は廻ってしまったので、宝生寺と第六天だけだと物足りない。
いや、そんなことはない。
今回廻ったのは茅ヶ崎の北側だけだ。
茅ヶ崎には南側があり、そこにはあの湘南海岸がある。 
駅からサザン通りが南に延び、海岸の沖には湘南海岸のシンボルことエボシ岩がある。
エボシ岩には遊覧船が出ている。
私はまだ茅ヶ崎の一番の魅力を味わっていないのだ。 

それにしても茅ヶ崎市民はうらやましい。
彼らは、富士を見ながらのバーベキューだけでなく、湘南海岸でのリゾートを居ながらにして楽しめるんだ。 


10連休1日目をすごす

2019年04月27日 | 生活

10連休1日目の4月27日は、普通の土曜で、休日ではない。
明日以降の本当の休日・祝日ヘ向けての準備に充てたい。
明日から9連休の国会図書館は、今日が10連休中唯一の開館日なので、最初で最後の仕事集中日として行かないわけにはいかない。
さぞかし混んでいると思ったら、普通の土曜並みの混雑だった。
連休用に放り込んでいた仕事の半分弱をこなして、午後3時に帰宅。

帰宅すると、アマゾンで注文していた令和を祝う日の丸が届いていた。
これで5月1日の準備はOK。 

次に、これも月末にすませておきたい散髪のため、近所の1500円の床屋に行く。
ここも混雑を危惧したが、順番待ちの客は1人だけ。
待つこと数分だけで呼ばれた。
安い床屋はカット以外の余計なサービスがないので、(あの不自然な体勢を) 早く終れるのがいい。

床屋を出て、唯一の平日のうちに ATMで金を下ろす。
私は(預金額のおかげで)休日でも平日のサービス(手数料無し)で利用できるのだが、長い連休中はATMに在庫がなくなりそう。

夜は、今日が誕生日の義妹の祝宴。
といっても歳を重ねることは受け入れ難いというので、あくまでも好物の寿司パーティという名目。
それでもケーキのローソクの火を消し、子どもたちから花束を受け取る。 

かくして連休初日はそれなりに充実したが、 まだあと9連休ある…。


嬉しさも中くらいなり10連休

2019年04月25日 | 歳時

皆さんは、きたる「10連休」をどうすごすご予定か。
わが勤務先も、土曜に授業がなければ、そして5月6日の月曜は授業日なので(月曜に授業日数が足りなくなるため)、
月曜にも授業がなければ、10連休となり、私も該当する。 

正直言って、長過ぎるよね。
春と秋に5連休ずつ宛てがわれてくれたら、嬉しかったのに。
10連休は5連休の2倍嬉しくはならないのだ。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」 という至言どおり、
人間の身心は最適値のある二次曲線で変化するのであり、
クソ単純な直線ではない、ということを為政者はわかってほしい。

すなわち、長過ぎるとあれこれ弊害が発生するので、
ありがたいのは半分であって、残り半分は、生活物資の調達や時間の使い道などいろいろ困ることになる。 
経済的にも、余暇による消費が活発化しそうな反面、仕事という経済活動自体が停滞するおそれがある。

かくいう私は、旅行の予定はあえて立てない。
どこも混んでいるし、第一宿代がバカ高いうえに予約も取れず、そもそも一人客は受け付けてくれない。
しかも往復の交通も混んでいて、いい事ない(私はGWでなくても連泊できる)。
昔だったら、残雪の春山に登って、下界の混雑からは脱出できたが、
今はそれが出来ない体になってしまった。

なので、たまった仕事を、どんどん10連休に放り込んでいる。
そう、皆が観光地に繰り出している間に、秘かに仕事を片づける、これが私の予定。
かくして私自身は消費を控える期間となるため、経済の停滞の方に貢献してしまう。

ところが、私の”仕事場”である国立国会図書館がなんと自ら9連休となる(休日が休館日)。
行き場がない

実家にいると、幼稚園が休みの4歳の姪の遊び相手をさせられることは必定(たぶん「プリキュア」ごっこ)。

国民を一斉に過分に暇にさせるこの政策の犠牲者が、ここにも出現してしまうのだ。


運転免許を自主返納した母の生活

2019年04月24日 | 生活

今年90歳になる母は、30代から運転を始めたこともあって、老齢になっても運転には自信あったというが、
運転を失敗した時の損害しかも他者に与える損害の大きさを鑑み、元気に歩けるうちに運転免許を数年前に自主返納した(まさに”自主”的判断で私が勧めたわけではない)。

まだ「運転できるから」という自信ではなく、いざという時の損害の重大さを考慮した判断というのは、まさにリスク管理の鑑というべき英断で、元高級官僚の叙勲者に教えてあげたいくらいだ。 

実は母がそうできた理由は他にもある。
東京に居住の70歳以上であれば、年1000円程度で、頻繁に運行されている路線バスと都営地下鉄が乗り放題の「シルバーパス」を使えるのだ。
路線バスは都バスだけでなく都内を運行している私鉄バスも含まれる。
なので、少なくとも同じ都内に出かける時は、縦横に走る路線バスと都営地下鉄をうまく乗り継げば、まったく問題なく移動できる。
都区内住民、とくに高齢者は車を運転する必要がない。
むしろ都内(とりわけ都心部)で自家用車を使うと、頭の痛い駐車場問題が発生するため、よほど車に詰め込む大きな買物をしない限り損である。 

もちろん、今の都バスはノンステップ方式で、膝の悪い母でも乗り降りできる。
かくして母は、「シルバーパス」を片手に元気に外出している。


『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(石平)を読んで

2019年04月21日 | 作品・作家評

私は、いわゆる儒教経典の四書の1つの『論語』は学生時代に読んで以来ご無沙汰だが、
五経のうちの『易経』と『礼記』は研究にも関係しているため精読しているので(『大学』『中庸』も読んでいる)、
”儒教”について少しは理解していると思っていた。

私自身、儒教は”孔子の教え”だと思いながら、いつのまにか後々の(孔子ではない)儒家による経典に基づくものであることを当然視してきた。
つまり儒教全体あるいは孔子と儒教との関係を見渡す視点をもっていなかった。

そんな中、目に止まったのが2019年3月に出たばかりの石平(せきへい)氏による本書。

テレビでおなじみの石平氏は、日本に帰化してからは中国共産党政府を厳しく批判しているので、
政治学者かと思っていたら、もともと哲学専攻なので、このよう思想批判の書を書く理由も理解できた。

まず孔子に直結した資料である『論語』から、
孔子は思想家や哲学者でも、ましてや聖人ではなく、常識知に長(た)けた一知識人である(にすぎない)ことを示す。
そして孔子以後の孟子・荀子によって思想的に体系化されて儒学となり、
前漢の董仲舒に至って、儒教という皇帝統治のための御用教学となる。
そこで制定された儒教経典の”五経”は、上の2つをふくめていずれも孔子の著作ではない(この時点で孔子と無関係)。 

さらに儒教は、南宋の朱子によって人間性(人欲)を否定する抑圧的なものとなり、
その朱子学が明・清の5百年間、中国人民を苦しめ、
とりわけ清朝では夫を失った女性に殉死を強要する、すなわち”殺”を奨励するようになり、
その犠牲者は260年間で500万人に達したという。
これを「悪」と言わずにおれようか、と怒るのが氏。
要するに、孔子の教えと、その孔子を始祖にまつり上げている儒教とは、
内容的にも価値的にもまったく異なるということを主張している。

孔子の教えが儒教に発展したという系譜づけは、董仲舒や朱子が捏造したもので、
それを最初に見破ったのが、なんと日本近世の儒学者・伊藤仁斎だという。
仁斎は、人心とは無縁の天の理を第一義とする朱子学が、孔子の教え(=論語)、すなわち第一義とするのが人の愛(仁ではなく”愛”と記した)であるそれとはまったく接点のないものであることを看破した。

私は恥ずかしながら、江戸時代の儒学者たちにはほとんど関心がなかったため(例外は中江藤樹と山鹿素行)、
仁斎の名前だけは知っていたがその功績は知らなかった。

そして仁斎以降、日本の知識人たちは、幕府によって”異学の禁”まで出された官学の朱子学の欺瞞性に気づいて、
ことごとく朱子学から離れていった。
このように脱朱子学を達成した日本と、朱子学支配に屈した明・清そして李氏朝鮮との違いが、
近代以降の両者の”道徳の格差”につながっていると氏はいう(これが本書の副題—日本と中韓「道徳格差」の核心—になっている)。
そして氏は自らを仁斎の後継として(仁斎は孔子と儒教とを分けるには至らず)、孔子の血の通った『論語』を愛し、孔子を騙る偽物の儒教を断罪する。

私自身は、董仲舒の悪影響、すなわち陰陽に迷信的五行を合体させ、また本来対等な陰陽を”陽尊陰卑”に序列化し、それが”男尊女卑”の論拠となったことは実感しているが、
朱子学(宋学)については、むしろ宇宙論的で面白いと能天気に思っていたのだが、これは日本で朱子学の悪影響が軽微だったためかもしれない。

そして何より、儒教への関心の割りに、孔子その人を軽視していた自分に気付かされた(諸星大二郎の『孔子暗黒伝』は大好き)。
孔子その人の情報は『論語』においてほかはない。

朱子学から脱した江戸期の日本人は正しくも『論語』に回帰をしたという。
そういえば、新一万円札になる渋沢栄一も『論語と算盤』という本を書いていた(明治以降も日本の道徳は『論語』に準拠した)。 

実はその本、王子の渋沢栄一記念館で数年前に買ったまま読んでいなかった。
私の中に『論語』を軽視する心があったためだ。
『論語』は儒教の入門書で、『易経』や『礼記』のような専門書ではないと位置づけていたから。 
それでも孔子の教え(『論語』)にこそ、私が求める「礼」があることはわかっている。
初心に立ち返って、『論語』 を座右に置くとしようか。

→関連記事:湯島聖堂孔子祭に行く


運転の無思考(システム1)化が原因か

2019年04月20日 | 防災・安全

東京池袋での自動車暴走による事故は、横断中の母子が死亡するという痛ましい結果になった。
運転していたのが87歳の老人ということで、いわゆるアクセルとブレーキの踏み間違えを予想させる。
本人の言では「アクセルが戻らなかった」 ということだが、
事故後の調査では、アクセル周辺に異状はなく、またブレーキ痕もなかったという。
なので、ペダルの踏み間違いに気付かず、本人はアクセルから足を離して懸命にブレーキを踏んでいるつもりで、
アクセルを踏みっぱなしだったという可能性が高い。

もし本当にアクセルペダルが入りっぱなしで戻らないなら、
ギアをNにしてアクセルを無効にし、ブレーキを踏めばいいだけ
(絶対にエンジンを切ってはならない。ハンドルが操作不能になる)。

あるいはフットブレーキが効かないのなら、ギアをシフトダウンしてエンジンブレーキを効かせて強制的に減速し、
さらにサイドブレーキを引いて減速を促進する。

こんなこと教習段階で教わるはず。
それなのに、この手段がとっさに思い浮かばなかったとすれば、
それは AT車運転での悪習(無思考化=システム1化)によるものだろう。

私はそもそも、人間の能力を拡張するためのメカ(M,マクルーハンの定義する「メディア」)は称賛するが、
人間の能力を退化させる(怠惰にするだけ)のメカはそれに親しむほどマイナス面が増すと思っている。
MT派からみると、AT車って後者のメカに思えてならない。

車の速度とエンジンの回転数とのバランスをいつも最適に保つことを人間がコントロールするMT車に対して、
AT車だとギアをDに入れた後の速度調整はアクセルとフットブレーキだけとなり、
シフトダウンもサイドブレーキも、ましてやギアのニュートラルも動作の選択肢から外れてしまう
(駐車時もPにしておけばサイドブレーキも不要)。

だから、とっさの事態で、これらが行動選択肢にあがらず、
ひたすらフットブレーキ(のつもりのアクセル)を踏み続ける単一行動に執着するしかなくなる。 
悪習(システム1)の結果なのだ。

私がAT車を運転していた頃、坂道などではあえてシフトダウンしていた
(エンジンブレーキを効かせて事前に減速して、カーブでもブレーキを可能な限り踏まないことを運転の美学にしていた)。
長い下り坂をフットブレーキ踏みっぱなしの(私の美学の逆をいく)AT車をよく見かけるが、
それこそブレーキが効かなくなる危険な運転だということを知っているのだろうか。

ちなみに、リアルタイムの燃費が表示されるわが愛車FIAT500(ルパン三世の車の後継)では、

アクセルから足を離してエンジンブレーキをかけている走行時は燃費が最高の50km/Lになる。
これも快感。
加速が終ったなら、アクセルから足を離し気味にしてエンジンブレーキ走行を励行すれば(しかも足をブレーキペダルの上)、燃費も安全性も格段にアップする。 


慈光寺の観音を観に行く

2019年04月14日 | 東京周辺

今日は、埼玉の”ときがわ町”にある天台宗の古刹(白鳳二年、673年創建)都幾(とき)山慈光寺の本尊・千手観音の開帳日。

寺のある場所は、天文台のある堂平山(876m)から東に延びる都幾山(463m)の8合目、すなわち山の上にあり、
しかもアクセスに本数の少ないバスを2本乗り継いでいかなくてはならない。
つまり、人里離れた山に行く覚悟が必要なので、気軽に足を運べない。
どうせこういう所に行くなら、普段は秘仏の本尊を拝める日にしたい。

というわけで、帰京しているこの機を逃すまいと、天気は下り坂ながら昼はもちそうなので、
前日にバスとそれに合う電車の便をネットでチェックし、
幸い遠方ではないので、当日は、ゆっくり9時に家を出た。

休日だと乗り継ぎ後のバスは山上の慈光寺まで行ってくれ、
急坂を登りきった山の中の駐車場で下車。
バスの乗客は私を含めて2人だったが、駐車場はぎっしり満車で、皆車で来るようだ。

山門をくぐり、人の流れに合せて境内の道を進む。
”申八梵王”という珍しい猿の石造(江戸時代作)の奥に心経堂というお堂がある。
靴を脱いで入ると、「慈光寺経」と名のついた国宝の法華経(のレプリカ)や伝・空海筆の般若心経などが展示されている。
これだけでも由緒ある寺だとわかる。

宝物殿を横に見て、さらに石段を登っていくと本尊がいる観音堂に達する。
堂の前は、人でぎっしりで、地元の人たちによる出店が並び、たぬきそばや焼きそばを良心的な価格で売っている。
丁度昼時でもあり食指が動いたが、本尊の参拝を優先して、”ちんどん屋”の演奏を聞き入る人々の中を通り抜け、本堂に達する。
本堂では地元高校のブラバンが次の演奏の準備をしており、その間を通り抜けて、
本日御開帳の黒光りする千手観音様とご対面(写真)。

像の高さは265cmもあるのだが、 堂内の奥にいるので遠くから拝むだけとなる。
県指定文化財だけあって、黒い身体からの眼光が鋭い。
といっても厳しさではななく優しさが滲み出ていて、いいお顔だ。
そもそもちゃんとした千手観音像自体が東国では貴重な存在。 

堂内は制服姿の高校生たちが楽器の設置をしているので、居続けるわけにいかず、すばやく写真を撮って堂から降りる(急いで撮ったので、他の写真は手前の房にピントが合ってしまった)。

堂の裏手に山道が上っているのを見つけた。
寺の背後に聳える都幾山への登山道と確信して、焼そばより山を優先する。
なにしろ、せっかく来たので山内を歩き回りたく、同時に少ないバスの便に合せるには、立ち止まって食べる暇がないのだ。
ゆるい登りで最奥にある霊山院への道を分けて、あとは傾斜がきつくなった登山道を登る。

一汗かいて着いた山頂には、モトクロスのグループが降りたバイクで山頂を囲んでいる。
木の根の出た山道をタイヤで削り、山の中に騒音と排気ガスを撒き散らす彼らは、
我らにとっては山中で同席したくない者たちであるが、
そのような態度を隠しながらも、彼らのせいで山頂を踏めないので、
「ちょっと山頂を通らせてください」と言いながら、彼らの囲みに割り込んで、山頂を踏んだ。
彼らも私にそう言われて「あ、山頂だったのか」と気づいたようだ。

こちらも時間との戦いの最中なので、山頂に立ち止まることなく通過し、そのまま来た道を下る。
分岐まで戻って霊山院への道に入り、すぐに舗装道路に降り立って、平坦な道路に沿って霊山院に向う。

そこは慈光寺の塔頭(たっちゅう)の1つで、奥の院に相当するのだが、宗旨は臨済宗で、東国最古の禅寺だという。
山の上にある慈光寺自体が、東国における比叡山延暦寺に相当する感じなので、 ならば禅や浄土も包含できる。
実際には、明治政府によって慈光寺から分離させられたらしい。
山奥ながら坐禅教室もやっている霊山院は山桜が満開だった。

それにしても、なんでこんな山の上に古くからそれなりの規模の寺があるんだろう(不便ではないのか)と疑問に思ったが、
比叡山や高野山に倣ってのことともいえるが、実はこの”奥武蔵”の山地には、当たり前のように山の上に集落がある。
昔の人にとっては、危険な川沿いより山の上の方が生活するのに適していて、まさにその生活圏に居を構えるのは当然だったのかもしれない(実際、奥武蔵には山上の寺が他にも幾つかある)。

さて、最奥のここが折り返し地点となり、これから往路を戻って帰路につく。
目指すバス停は、山の下の「慈光寺入口」。
すなわち、慈光寺の山を降りた先にある(乗ってきた便とは違う便ということ)。
バスの時刻は30分後。

山上の車道を歩いて慈光寺まで戻ると、往きに素通りした宝物殿に出た。
今後来ることのなさそうな寺に来て、その寺の”宝物”を見ないわけにはいかない。 
拝観料300円を取るということは、それだけ見るに値するものがあるはずだ。
受付で、山の下まで徒歩での所要時間を尋ねると15分程度だというので、
それなら観る時間はとれるとふんで、300円支払った。

「金蓮蔵」という名の蔵内には、慶派の流れをくむという阿弥陀像や、元型をとどめない天平時代の仏像、家康の肖像画などがあり、見るに値した。
また多数の山王神像群があることから、やはりここは東国における比叡山上の延暦寺とその麓の三井寺を兼ねた位置にあったようだ。
明治政府が霊山院を分離させたのも、山王神道につながる慈光寺の勢力を削ぎたかったためかも。
もっとじっくり見たかったが、先を急ぐので、本尊の千手観音についての説明書(20円)だけを購入し、
宝物殿を後にした。

ここからは山を下る。
つづら折りの車道をショートカットする旧参道があればそちらに入り、スタスタ小走りに下る。
あちこちにシャガの花が咲いているが、盛りにはちょっと早い感じ。
後ろから、トレイルランニング(山の中を走る)のグループが近づいてきたが、
いよいよバスの時刻が迫ってきたので、こちらも走り出して、彼らに差をつけた。

山を下りきった所にある女人堂は、スルーすることなくきちんと参拝し(こんな低山でも女人禁制だったのか)、
やっと「慈光寺入口」のバス停に着いた。
ほどなくして、時刻どおりにバスがやってきた。

あとは往きと同じようにバスを乗り継ぎ(乗り継ぎの連絡がよくて、数分待つだけ)、
往きに降りた東武東上線の武蔵嵐山駅に着いた。
途中、都幾川沿いに延々と続く桜並木が見事だった(大きな自然風景の中の桜並木は都内では観れない壮観)。

都幾川流域を含んだ埼玉の比企郡は、歴史(山城)と自然に囲まれたウォーキング向きの所で、
とても気に入っており、これまで幾度か記事にしてきた。
でもそろそろ行き先に尽きてきたようだ。 


星5つレビュー(評価)に対する評価

2019年04月12日 | 生活

私はネットで製品やサービスをレビュー(評価)する場合、
満足していても★5つは付けないことにしている。
つまり、たとえ欠点がみあたらなくても★4つを最高としている。
職業柄、年中”採点”をしている者として、
冷静なればどうせ欠点の1つくらい見つかるものなので、
冷静さを欠いた反応は控えたい。
それに、なにより、★5つはやらせと区別がつかない。

言い換えれば、他者の★5つレビューを私は信用しない。
実際、ネットで購入すると、業者から★5つの評価を依頼するメールが届くことがある。
そして★5つにすると何らかのサービスを提供してくれるところさえある。
そういう場合、たとえその商品が気に入っても、私はレビューそのものをしない
(そういう依頼メールがこなかったら★4つで讃めたのに…)。

私のようなひねくれ者は珍しいようで、最近どうも安易な★5つが目につく。
みんなそんなに規準が甘いの? 
それとも利益誘導に弱いの?
中には、日本人らしいネームなのに不自然な日本語で、情報量に乏しい讃め言葉で★5つの場合もあり、
さすがにこれはやらせとわかる。

一方、★1つも眉に唾をつけて読む。
こちらはライバル側による誹謗中傷の場合があるからだ。

そもそも同じ製品やサービスに、★1つと★5つが併存しているのがへんだ。
実際、両者の内容は互いに矛盾して、同じ商品に対する評価とは思えない。
なので少なくとも片方はやらせか誹謗中傷と判断したいが、どちらがそうなのかは判断材料がないので、両方とも参考としない。

それに、利害関係と無縁であったとしても、
極端な評価をする人というのは、思考や判断あるいは態度が歪んでいる可能性が高い。
つまり、極論的な評価は、利害や判断の歪みが作用しているため、情報的信頼性が劣るわけで、無視しても支障がない。


竹成大日堂に立寄って新湯の山温泉に泊る

2019年04月07日 | 

長い修理を終えたわがFiat500(チンクエチェント)。
今日は三重の湯の山温泉に行くので、久しぶりに高速を飛ばしてやろう。

その宿に行く途中、同じ菰野町の竹成という集落に、二体の大日如来を祀る大日堂(正式名は太平山松樹院)がある。
ここは、境内の築山にある五百羅漢の石像でも有名で、
私にとっては年に一度は利用する(新)湯の山温泉の近くということもあり、幾度か訪れたことがある。
五百羅漢だけが目当てだったが、堂内の大日如来が日曜に開帳されることをつい最近知った。

私が(新)湯の山温泉に泊るのは決まって日曜の晩で、
今までは月曜の帰途に立ち寄っていたから、この開帳と遭遇しなかったわけだ。
ということなので、今回の新湯の山温泉泊りでは、日曜の往きに立寄ることにした。

 名古屋宅からだと、名古屋の北半分をぐるりと半周する名二環(名古屋環状二号という意味)とその延長である東(ひがし)名阪道を通って、四日市ジャンクションで開通したばかりの新名神道に移り、
さらに一部開通の東海環状道に移って1つめの東員インターで降りる。
大日堂へは新名神の菰野インターが一番近いが、新名神は割高なのだ。

そこから田舎の狭い道を通って、竹成に達する。
寺の向い側に駐車場があり、境内に真新しい公衆トイレもある。
開いている大日堂に上ると、普通の格好をした老爺が中にいるので、
挨拶をして須弥壇に座っている二体の大日如来をおがむ(写真)。

二体の大日像は、密教の二元宇宙である胎蔵界と金剛界と意味し、
向って右の定印を組んでいるのが胎蔵界、左側の智拳印を組んでいるのが金剛界に対応するという。
二体とも装飾がない質素な木造で、室町時代の作だという(県文化財)。
近くに寄って見ることは勿論、写真撮影もOKとのこと。 

堂内では、地元の窯で作ったのか(菰野は焼物の地)、陶製の茶碗や小さな手作りの仏像が売られており、
収益は文化財保護に充てられるというので700円の大日如来(金剛界)を求めると、
老爺はいたく恐縮した様子で、朱印も無料で書くとのことだが、
朱印のコレクションはしていないので遠慮した。

朱印を集め出すと、それが寺社に行く第一目的になってしまうものだ。
参拝に記念品はいらない。

老爺はこの寺を地元集落で管理していることなどを語ってくれた。

外の五百羅漢の築山は、石像崩落の危険のため立入り禁止になっていた。
以前中に入ったことがあるので、今回入れなくても私はかまわないが、
管理者たちも年老いて、責任をもった管理が難しくなっているのだろう。

さて、寄り道を終えて、今日の宿「ホテルウェルネス鈴鹿路」に到着。
わが愛車も複数の高速道を思い切り走れて、満足したことだろう。

この宿は、近場だが転地効果のある鈴鹿山麓に、ビジホにちょい足しほどの料金で、
まともな二食と温泉を堪能できるので、ふらりと温泉に一泊したくなったときに重宝している。
昨年一部リニューアルして、”デラックスシングル”という客室ができたので試しに今回そこに泊ってみた。
だが部屋の広さは従来のシングルとたいして変わらず、設備が新しいことで料金が割高になったので、
設備の新らしさを格別求めない私にとっては従来のシングルでいい。
その他、無料で使えるマッサージ機が浴室近くに配置されたのは加点したい。
あと、ロビーのあちこちにLEDキャンドルが置いてあるのだが、
私はこのアイデアを研究室に借用している。
この宿の温泉については→「忙中閑の湯の山温泉」  

翌日は、天気もいいので、チェックアウト後、近くの尾高山(531m)に軽登山した。
私の登山限界(700m)以下の標高なので、腸脛靱帯はまったくうずかず。
山頂からは鈴鹿山脈主脈に鎮座する釈迦ヶ岳(1092m)が間近に望めた
(尾高山が釈迦ケ岳の前山の位置)。
いつかは涅槃像に見まがう釈迦ヶ岳にトライしたい。


気☯の理論の生気象学:気圧低下による気逆

2019年04月07日 | パワー・スピリチュアル

私が進めている陰陽論現代化の第5弾として、
気圧低下で身体に不調がくるような生気象学的現象を、
外気による内気(ないき)の作用という気の理論で捉えてみたい。

外気が邪気になってしまう場合は、次の2つが考えられる。
1つは、外気自体が凶暴(ストレッサー)化する場合で、これによって人体の内気のバランスが強制的にくずされる。
 たとえば異常な寒波や熱波におそわれる場合で、それに曝されると、たいていの人は低体温症や熱中症になって体温調節機能が障害される。 

2つめは、内気側の失調によって、本来は邪でない外気が邪気として作用してしまう場合で、
もちろん1つめの異常気象にも通底する現象だが、ほとんどの人には異常と感じないのに、
一部の人に作用する場合である。
ここでは、こちらの場合を問題にしたい。

人体にとっての外気の要素として、温熱の影響が最も強く、次いで乾湿であり、
気圧はほとんど影響がないはず(だから理論化されなかった)。
ところが一部の人は、気圧低下によって症状が引き起こされる。
もちろん、低気圧は雲を発生させ降水をもたらすので、寒気・湿気も二次的に発生するが、
気象病になる人は、顕著な低気圧ではなく、晴天・乾燥状態の気圧低下時でも発症する。

(西洋医学にもとづく)生気象学では、気圧低下は交感神経の興奮をもたらすといわれている(緊急事態という反応?)。
しかし、実際の気象病の症状は片頭痛、咳、吐き気、下痢などで、
これらは副交感神経興奮の症状といえる。
私の同僚は身体運動(交感神経の興奮)をするとこれらの症状が軽快するというから、
やはり副交感神経の過剰反応といえる。
結局、自律神経の説明では、原因(交感神経興奮)と結果(副交感神経興奮)の関連がつかめない。

そこで気の理論、すなわち大気(外気)と体内の内気との関係として解釈してみる。

そもそも気圧は、それ自体でいかなる影響を人に与えうるのか
(人体に気圧センサーが見当たらないので、生気象学にはここの説明がない)。
気圧は外気の軽重を意味することから、気圧低下(外気の減圧)は、
外気が外邪となるよりは、内気へのエネルギー源としての清気の供給を減らすことになる
(気の理論では、人体以上に実体的である気の流れを問題にすればよい)。
内気と外気とのバランスがくずれることで、
内気は本来とは逆の動き、たとえば下にあるべき気が上にいってしまう。
この状態を中国医学で「気逆」という。
実際、吐き気、咳、頭痛は気逆の症状とされる。

”気の虚実”のメカニズムとしては、気圧低下で外気がに傾くため、
その制御を外れた内気の動きがとして過剰になると説明できる。
”陰陽”のメカニズムで説明すると、気圧低下という”陽の上昇作用”を内気が受けて、
体内の気が”上昇”してしまうと解釈できる。


以上から、気圧低下による身体の不調を「気逆」という既存の概念に当てはめめることができた。
となると、対処法も既存のものから選択できる。

気逆の対処法として、まず上った気を力学的に降ろす「降気」という方法がある。
肺臓の粛降作用を利用するもので、たとえば呼気に重点をおいた呼吸をする。
それによって気の下降をもたらし、また整腸作用もあるという(下痢に効くかもしれない)。
身体運動もいいようなので、動きのある気功で降気をやってもいいかもしれない。 

次いで、漢方としては「理気薬」が対応しており、同じ辛味・温性の「辛温解表薬」も適応症が一致する。

症状に該当する生薬を紹介すると、理気薬では、陳皮(胃腸虚弱)、木香(下痢)、縮砂(下痢)。
辛温解表薬では、浜防風(頭痛・めまい)、防風(片頭痛)、白芷(頭痛)、蒺梨子(頭痛)など。

既存の漢方薬では、これらが組み合わさった調合薬はないので、
漢方薬局で自分の症状に合わせて調合してもらう必要がある。
ちなみに、漢方薬でも甘草麻黄が入っていると副作用がありうるので、
自己判断で市販薬を服用しない方がよい。 

ただし、これは根本的な解決ではない。
他の人では平気な気圧低下に反応してしまう内気の脆弱性をなんとかすべきである。
気逆しやすい体質を改善する方法を探りたい。 


明治村に「遠足」

2019年04月06日 | お仕事

大学1年生の遠足で今年も「明治村」に行った。
今日は陽気もよかったせいか、例年より人出が多かった。 

今の大学で遠足は当たり前だし、
その内容(見学した建物や”300円”など)も、毎年の記事と同じなので、もう記さない。

新入生が同級生や教員に馴染んでくれればいい。

個人的には、明治建築に特化した明治村よりも、世界の住居があつまる(同じ名鉄が経営する)「リトル・ワールド」の方が好きだが、

明治村1番の建物といえるフランク・ロイドライト設計の帝国ホテルロビーは、
見るたびにその意匠(デザイン)の効果に感心させられる。

明治期に日本に入ってきた煉瓦造りの建物は、地震国日本では人的被害を高めることがわかったので、
その後は衰退したのだが(現存しているものは耐震補強されている)、
大正12年8月、東京日比谷に完成したこの”煉瓦”造りは、
完成の翌月に発生した関東大地震(大震災)に見事に耐えた。

なぜ耐えたのかは、建物の中を見ればわかる。
柱を多用し、天井を低くすることで、内部で支え、上からの崩落を避ける構造になっている。
そして、内部空間が狭くなった分、それを逆用して、フロアを多様な空間に分割した。
そのような空間の細分化は、狭い空間を有効利用する日本人の嗜好に合っている。

彼の意匠をまねるわけではないが、私の研究室も、不必要に明るい照明を使わず、
間延びした1つの空間を複数空間に分割しようと思っている。


車を保険で修理

2019年04月05日 | 生活

わが愛車(FIAT500)に気がついたら傷がついていたので、
保険会社に連絡して、修理してもらうことになった。
ただし、運転には支障がないので、ほとんど使わなくなる春休みまで修理を延ばして、
やっと先月に修理に出した。

ただし、保険会社の査定によると、私が指摘した傷は、私が推測した原因では起こり得ず、
別の長く延びた傷がそれで起きたとみられるとし、
結果的に私が指摘した傷と別の傷の両方が修理対象になった。

もちろん、保険の等級は3つ下って、保険料の支払額は増えたが、
修理に80万円もかかったので(ボディの片面を総入替え)、
財布の痛みはたいしたことない。

すなわち、任意保険に入っていて良かった〜!という結果になった。

ちなみに経済の原理として、こういう恩恵に浴する人はほんの一部で、
大部分の人は、毎年保険料を払っているだけということになる(私も今までこちら側だった)。

それなりの大修理なので、その約一ヶ月間、国産の軽の代車があてがわれた。
日常的な通勤や買物なら、なるほど国産の軽でも支障はない。
もちろん ATなので、本当に気楽な足代わりで、走ればいいので、運転する”楽しみ”とは無縁。
それでも ATの運転に慣れてしまうと、
もどってきた愛車(MT)のギア操作が面倒に感じてしまう(つい、低速ギアのままで走ってしまう)。

愛車は安物といえど一応欧州車なので、運転操作だけでなく、
乗り心地も車内環境も全然違う(車体の大きさは日本の大柄な軽と大差ない)。

約1ヶ月間におよぶ整備工場内での入院を終えた快気祝いに、
週末は久しぶりに思い切り走らせてやるか。


壇上からみた入学式

2019年04月03日 | お仕事

勤務先の大学の入学式に出席した。
先月の卒業式と同じく、壇上の最前列に坐って、お辞儀要員としての仕事を果たすため。

緞帳が上って、壇上から客席を一望すると、前月の卒業式のようなカラフルさがまったくなく、
ほぼ入学生の全員が黒のスーツ姿(例外を発見できず)。
髪も黒くしかも量も多いので、襟から覗くブラウスの白と顔の肌色以外は客席はほぼ黒色で占められていた。
なので卒業式よりも、学園葬の風景に近い印象。

以前の入学式では、スーツにしても明るいグレーなど、カラフルではなくても明度はもう少し幅があったと思う。
ただ、壇上のこちらも黒の礼服集団の一員だから文句をいう資格はない。
まぁ大学入学の時点で、就活にも礼服にも使える服を揃えておくのは悪くはない。
あまり壇上でキョロキョロできないので、客席の観察はこの程度にしておく。

次いで、式が始まり、お辞儀要員としての作業をこなしながら、
在学生代表や入学生代表の壇上での振舞いをチェックする。
いずれも、お辞儀は両手を体側面に当てての学校式(小笠原流とは微妙に異なる)で(もちろん学長・理事長も)、
誰かが”ビジネスマナー”として拡げた拱手(肘を不自然に張って両手を前で重ねる)でなかったので安心した。

ここまでは卒業式とほぼ同じだが、
入学式の時だけ、式典が終わって学長・理事長と来賓が退席した後、
壇上の我々だけが残されて、大学の役職者として紹介を受けるのだ。
今までは我々役職者集団は一緒に坐ったままで浅いお辞儀(会釈)をしたが、
今度は一人づつ紹介され、立って客席に向ってやや深いお辞儀(敬礼)をする。
お辞儀要員の一番の見せ場だ。

こういう儀式の場合、最初の人の振舞いが模範として続く者たちに踏襲される。
以前、最初の教員がお辞儀した後、退席して消えてしまったので(本来は着席するだけ)、
続く教員たちも次々そうせざるをえなかったという(最後の教員はたった一人残された)。
今回の最初の教員は、幸い、退席することも、尻餅をつくもともなく、
つつがなく振る舞ってくれたので、2番目の私もつつがなく振る舞えた。

実は、今回の入学式だけ、例年の国際会議場が借りられなかったため、
会場が名古屋市公会堂になった。
そこは狭いため、入学式が午前と午後の2回に分けられた。
なので、客席の風景から私のお辞儀までの流れは、そっくり2回繰り返された。

ちなみに名古屋市公会堂は、東京の上野公園に相当する鶴舞(つるま)公園内にあるため、
今日は(平日にもかかわらず)満開の桜の花見客でぎっしり(露店もずらり)。
しかも、春の甲子園での決勝で、地元愛知の東邦高校が平成の最初に続いて最後も優勝した。
この地で入学式を終えた今年の新入生は、最高のお祭り気分になれたろう。