今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

膝痛の正体

2012年03月31日 | 健康
この冬から急に、右膝の内側が局所的に痛みだし、正坐や胡坐など膝を深く曲げる坐位が困難になっていた。
といってもそれ以外や通常の歩行には支障がなかったので、
痛み止めの塗り薬やスポールバン(針)を張ったりしていたが、一向に改善しない。

もうじき、礼法の授業でずっと正坐する状態が続くので、今のうちに治療しておこうと、
名古屋に戻ったのを機に、近所の整形外科に行った。

初診なのでレントゲンを撮る。
その他に問診や、歩行姿勢などをチェックされる。
その結果でた診断名は、「変形性膝関節症」。

これは高齢の女性に多い障害で、実は私の母も今、これになっていて治療中。
実家にいるとき、痛む場所や痛み方が母とまったく同じだったので、
うすうすそんな気はしていた。

だが、いざその病名を宣告されると、いささかショック。
なにしろ、老人がなるものと思っていたものに自分がなったのだから。

それに、正坐と長い歩行が禁止されるのも痛い。
坐位では正坐が一番好きで、特に茶の湯ではずっと正坐が必要。
それに4月からは月に1度は山にハイキングに行こうと思っていた。
これらがともに禁止になるとは…。
とりあえず治療に専念するしかない。

私にとっての熱海

2012年03月27日 | 
さて、熱海の旅。
私にとって熱海は、小学生の頃さんざん家族旅行で行った地で、
その頃は大好きだった。
だが、大人になり、主体的に旅をするようになると、選択肢から消えた。

なので、数十年ぶりの再訪となった。
なぜ数十年ぶりに熱海を選んだかといえば、
日光・福島と寒い地域の旅が続いたので、
暖かい、梅や桜が見れる場所ということで伊豆が念頭に浮かんだ。
ここ数年、三月は中伊豆に行ってきたので、今年は伊豆でも他の場所、
しかも一泊なので、交通の便がいい温泉地となると、
梅も桜もある熱海が筆頭候補になったわけ。

といってもいつものように質素な旅なので、
宿は「かんぽの宿」(別館)。
ここは熱海の西側の高台にあり、来宮で降りた私は徒歩で急坂を登っていった。
部屋からは市街と海が一望。

ただ温泉に個性がないし、そもそも大衆向きのこの宿の湯は、加水塩素循環湯。
料理もキンメダイに興味はない身だと、これといったものがない。
アジの干物も珍しくないし。
それにビルだらけの市街地を散歩する気もしない。
土産物も干物以外はこれといったものがない
(蒲鉾は小田原、温泉饅頭は長岡、寄木細工は箱根だし)。
というわけで、豪遊をしない自分には楽しめない所だ。
だから選択肢から消えていたのだ。

でも、午前10時にチェックアウトしてそのまま帰るのもつまらない。
そこで、快晴なので、子供の頃の記憶で一番頭に焼き付いていた「十国峠」に行く事にした。

元箱根行きの路線バスに乗ればいい。
標高700mを超えるその地に達すると、真っ白な富士が全貌をあらわす(写真)。
ケーブルカーで峠の頂上にいくと、
まず目に入る富士、その左に愛鷹山、駿河湾、伊豆の山々、初島、真鶴半島、相模湾、箱根の山と360°の大展望。
富士と愛鷹の間には南アルプスの3000m峰も並んでいる。
私にとっては、ここが一番お気に入り。
ここはどっちかというと、熱海というより箱根の続きだが。

来宮神社のパワーを測ったら

2012年03月26日 | パワー・スピリチュアル

3月も押し詰まった26日、年度末の慰労の大締めとして、
熱海に泊りに行った。
まずは、最初に訪れた来宮神社での事を報告したい。
熱海の鎮守、来宮神社には行ったことがなかった。
熱海から伊東線で一駅の来宮駅に初めて降りた。
神社の境内に入り、手水で作法通り、手を口を清め、
まず本殿に参拝して、

iPodtouchに入れたソフト「幽霊探知機」
(お化け探知器”ばけたん”のスマホ版)のスイッチを入れる。
なぜなら、ここ来宮神社はパワースポットとして有名らしいので、
そのパワーを測定しようというわけだ。
touchを向けて「探知」開始。
本殿付近は「何もない」という反応。

そして、パワースポットとされている神木である大楠に向かう。
この木は、樹齢二千年といわれる周囲23.9mのほ本州屈指の巨樹である(写真)。

まず参拝し、その後「探知」を開始した。

すると、なんと「守り神が出現」と出た!

実は、今まで幾多の場所で、このソフトや”ばけたん”を使って「探知」をしてきたが、
「守り神がいそう」(神社など)が最高だった。
”出現”と断言する結果が出たのは初めて。
この大楠のパワーが確認されたというべきか。

この大楠、社殿やほら穴や石像ではなく、実際に大地に根を張って現に”生きている”のだから、
生命エネルギーに基づくパワーを発していておかしくない。
しかも樹齢2000年という、われわれ動物にとっては不可能な桁違いの長寿。
この尋常ならざる存在者は、東アジアの宗教にとっては「神」の定義を満たしている。

大楠は正面で拝むだけではなく、周囲をめぐる道がある。
一周すると一年寿命が延びるといわれている。
欲張って二周した。
さらに、楠でできた「大楠健康お守り」を買った。

神社の入口近くにやや小ぶりな「第二大楠」なる木がある。
こちらは落雷を受けたとかで、根元部分が割れて一部が無くなり、
中ががらんどうになって痛々しい。
ただ葉は繁っており、生命は保っている。
かなりの病身といえるわけで、中の空間に祠と千羽鶴が飾ってある。

ここでも「探知」してみると、「幽霊がいるかも」と出た。
ちょっとパワーが悪い方向にあるようだ。
いたわる気持ちで、合掌した。


観音崎・浦賀

2012年03月25日 | 東京周辺
晴天の日曜、カメラを持って歩きに行こうと、三浦半島の観音崎と浦賀に行った。
半島の突端の”岬”って、惹きつけられるものがある。
山の頂と同じく、行き着くべき到達点であり、
身近に行ける”地の果て”だからか。

三浦半島の観音崎は、東京から一番近い”地の果て”だが、
近すぎてかえって行く決心がつなかなった。
石廊崎(伊豆半島)、犬吠埼(関東の東の果て)、野島崎(房総半島)、
それに真鶴岬(真鶴半島)は行ったので、東京近郊では観音崎だけが残っていた。

品川から京急に乗って「馬堀海岸」駅で降り、
そこからバスで終点の「観音崎」に行けばいいだけ。
海の向う、というより”対岸”には房総半島が指呼の先に広がっている。
その間の狭い”浦賀水道”には、東京港・横浜港に出入する貨物船や近場のヨットや釣り船が往来している。

今日は、なぜか大きな望遠レンズをつけた一眼レフカメラを、景色のいい側でない、
どんよりした東京港方面に向けて固定している人がたくさんいる(いずれも成人男性)。
観音崎灯台に登っても、展望テラスから望遠レンズをやはり東京港方面に構えた人たちが動かない。
なんでも、今日引退する船が東京港を出て、目の前の浦賀水道を通るのだという。
そのシャッターチャンスを狙っているのだ。
朝、お台場(東京)でその船を撮って、今観音崎に来てまた撮ると嬉しそうに話す人がいる。
列車のラストランに群がる鉄道オタク(鉄ちゃん)のような船オタクの存在を初めて知った。

この世の或る任意のモノに絶大な価値を見いだし、
それに愛情をそそぐことは人生を豊かにする。
なので、彼らの熱意には敬服するが、
いかんせん、私は船を追いかけ回す熱意がないので、
あと1時間で来るというその船を待つ気がせず、
むしろ観音崎の自然を知ろうと、「観音崎自然博物館」に向かった。

旅先での博物館や民俗資料館には必ず立ち寄ることにしている。
その地の個性を学術レベルで深く知ることができるから。
ここの博物館では、浦賀水道の海底地形によって発生する湧昇流に沿って、
魚が集るので、豊かな漁場となっていることを知った。
受付で、地元鴨居の養殖ワカメを土産に買った。

鴨居港を通り抜け、東叶神社に参り、
そして浦賀奉行で箱館で戦死した中島三郎助の墓を詣で、
浦賀の入江に達する。

入江は奥深く入り込んでいるので陸沿いに歩くと大回りになる。
なのでここには対岸への渡し船がある。
ただ時間が合うか気になっていた。
ところが客がいれば、一人でも渡してくれる(150円)。
なるほど地元の足だ。

対岸に渡って、西叶神社の彫り物が見事な社殿を見て、
愛宕山公園に登って、中島三郎助の立派な鎮魂碑を拝み、
その高台から浦賀沖を眺める。

房総半島を背景に貨物船が行き交うその海に、
四隻の黒船が停泊しているのを想像して。

そのまま道沿いにハンディGPSを頼りに、為朝神社を目指す。
宅地に入り、GPSを片手に歩いていると、
家の前にいた小さな男の子が、「何しているの?」と近寄ってくる。
この機械を頼りに、神社を探しているというと、
「つれでってあげようか」と言ってくる。
知らない男の人について行ってはよくないよ、と思いながらも、
男の子の親切心がうれしかった。
「これがあるから大丈夫。ありがとう」と手を振って別れた。

神社を過ぎ、最後の目的地、久里浜の「ペリー公園」まで歩く。
ここはペリー一行が上陸した場所。
そう、今日は、岬と幕末の激震の震源地を歩いたのだ。

定員確保

2012年03月23日 | お仕事
今年度で任期が終わる学科主任の最後の心配事は、
4月の新入生が入学定員に達しているかどうか。
今日の最終手続締切りの結果、わが心理学科は定員の1割増に達した。
定員の5分増という期待よりも多かった。

少子化なのに、各大学は強気の攻め戦略のため、全体では定員増になっている。
なので、現実には、定員割れの大学が全国で5割にもなるという。
つまり、大学の二極化(勝ち組と負け組)、すなわち淘汰が進行している。
負け組にならずにすんでホッとしている。

民間事故調の報告書を読んで

2012年03月21日 | 東日本大震災関連
日本で原発を再稼働するなら、その”最低条件”は、
まず福島原発の事故を総括して、その反省に基づいた(安全神話から脱皮した)施設と管理運用体制の改革を実行してから、
というのが常識”だろう。
それを待っていては今年の夏が乗り切れないという意見もあるが、
こんなこと消費税論議の前に早急にやっておくべきことでしょう。
だが現状は、国の事故調査報告書がまだ出ていない段階。

以前の記事で予告していたように、一足先に公開された民間事故調の報告書
『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』(一般財団法人 日本再建イニシアティブ)を読んだ。
はっきり言って読みやすさと視点の幅広さでは、前に紹介した『FUKUSHIMAレポート』の方に軍配が上がる。

こちらの本は、原発事故そのものの経緯や被害より、管理体制の問題点に重点が置かれている。
あと、取材拒否をした東電を除く関係者からのインタビューが生々しい。
その部分を読んで感じたのは、
当時の菅首相の暴走的な言動を引き起したのは、
東電経営陣・保安院・安全委員会のヘタレっぷりにあったということ。
これらが実質的に機能停止状態だったから、国のトップと現場が独自に動かざるをえなかった。

あと、当時政府内で想定された”最悪の事態”が具体的に紹介されている。
その事態とは、連鎖的な爆発が起きて、今回は無事であった4号機の使用済み燃料までが破損して、
大量の放射性物質が飛散するという状態。
その結果、170km以内は強制移転(地表1480000Bq/m2)となり、250km以内は任意移転(555000Bq/m2)となる。
すなわち、東京が今の福島市・郡山市のある”中通り”並の状況になり、福島県は無人となる
(戻れるのは何年先かわからない)。

実は、昨年の今ごろ、私はかたずを呑んでこの最悪の事態になる確率が減ることを祈っていた。
今はなんとか安定しているが、もう一度大地震がくれば、骨組みだけになっている4号機の建屋が崩壊する可能性がある。

福島原発以外の原発だって、今のヘタレ体制ではおおいに危険だ。
消費税をいくらにしても追いつかない損害の方を、まずは予防しておくべきなんじゃないの。

梅の木を観る

2012年03月19日 | 歳時
3月も下旬にならんとする晴天の日、
奥多摩の吉野梅郷に梅を観に行った。
なにしろ今月末まで「梅祭り」なのだ。
青梅線の日向和田駅で、観梅客の一団に混ざってぞろぞろ歩く。
沿道には客をあてこんだ出店もちらほら。

さて、梅の木がずらりと並んだ道に入る。
確かに梅の木が、枝一本一本まではっきり見える。
幹と枝だけが…。
花が無い。

ここで、私は自分の茶道の祖、(村田)珠光の美意識を思い出す。
茶の湯の開祖珠光は、後の侘茶につながる新しい美意識を打ち立てた。
それは「冷・凍・寂・枯」

色彩豊かで可憐な花を美しいと感じるのは当り前。
その花が無い、冬枯れの枝に、あえて美を見出す能動的な感性を珠光は求めたのだ。
”枯山水”を生み出した当時の前衛的な美意識を茶の世界に持ち込んだわけだ。

珠光の教えに従って、梅の枯れ枝群を眺める。
色がなくても枝ぶりが造形的に面白ければいいのだが、
花の観賞用に人工的に剪定された梅の木にはそれが感じられない。
結局枯れ枝に向かってシャッターを押すことはなかった。

こんな状態だから有料の梅園に入る気もなく、梅郷での観梅はあきらめた。
時間が余ったので、2駅先の青梅まで歩くことにした。
途中の寺にはしだれ桜のような見事な梅の花。
そして、青梅の住吉神社(社殿の彫刻が凝っている)の参道脇には、梅の木に止った鳩。
自然に伸びた梅の木は、花が枝にポツポツまばらでも絵になる。
鳥が止れば、なお更いい風情。
「梅に鴬」…、結局自分の美意識は既成のものなんだな。
まだまだ修業が足りん。

飯坂温泉

2012年03月17日 | 温泉

福島市の奥座敷である飯坂(いいざか)温泉って、名前だけは知っていて、
イメージ的には、観光地というより団体宴会向きの歓楽地という印象をもっていた。
なので、静かな温泉旅の対象にはならないと思っていた。

ただ、折角福島市に行くのだがら、駅前のビジネスホテルよりは近くの温泉がベターだと思い、
ネットで宿を探してみたら、意外にも飯坂温泉に素朴な宿が散見し、
しかも一人客OKの所はビジネスホテル並の価格で2食・源泉つきとお得感抜群。
アプローチも福島駅から私鉄で直行するので、時間は多少かかるが不便でない(駅前にコンビニもある)。

実際、飯坂温泉自体が、欲望を発散する旧来型の歓楽地から、
文化的で健全な温泉地に生まれ変わろうとしていたようだ。
そのポイントとなるのが、外湯めぐり(写真はその1つ鯖湖湯)。
飯坂の温泉自体は無色透明な単純泉なのだが、
それぞれの外湯で微妙に効能が異なるらしい。

それとここの特徴は、60℃の源泉をそのまま湯舟に流すので、”熱い”こと(浴槽内で47℃)。
そのような外湯が10箇所ほど(街中には7箇所)あり、
宿の内湯に加えて、それらを楽しむことができる。

もともと外湯(共同浴場)は、地元の人用なのだが、
観光客も受入れられるように整備した(加水してある”ぬる湯”を増設)。
関東の人間にとっては外湯巡りを楽しめる温泉地て珍しい
(草津とあと無理すれば箱根くらいか)。
外湯は、朝6時から夜10時までだいたい200円で入れ、それぞれ週一で定休日がある。
飯坂温泉の特徴である”湯の熱さ”に最初は閉口するが(水を足さないと入れない)、
外湯で観光客が熱がっていると、地元の人がホースで水を足してくれ、
それをきっかけに会話がはずむ。

泊まった「入舟」という旅館は、「仙気の湯」近くの閑静な宅地街にある。
建物は古く、従業員もいないので、室内にトイレ・洗面所はあるものの、
実質的には”民宿”と思った方がいい。
ただ風呂は源泉掛け流しで24時間入れるし、
宿代のわりに料理が充実しているのもうれしい。
地元(中通り)の家庭料理である「イカニンジン」を初めて味わった。

飯坂温泉の空間線量は0.3μSv/hほどで福島市より低い。
震度は6弱だったといい、倒壊した家はなかったらしい(明治建築の旅館も無事)。
旧堀切邸の土蔵が壊れ(修復)、灯篭は倒れたままっだった。
盛岡から観光に来ている人もいた。

外湯で耳に入った地元の人の話では、米は山形から購入しているという。
正直私も、福島土産として生野菜には手が出なかった
(土産としてもらった側が困惑するだろうから)。
結局、買ったのは漬物と地酒。
飯坂温泉の一番の土産は「ラジウム卵」という温泉卵なのだが…

あと、帰りの電車内で読むために、地元住民の立場での原発本を読みたかったので、
福島駅の書店で『裸のフクシマ』(たくきよりみつ著 講談社)を買った。
著者(前にデジカメの本を読んだ)は川内村で生活し続けており、
マスコミには流れない県内の人々の感情や行動が記されている。
たとえば、20km圏内の所よりも避難先の郡山の方が線量が高い矛盾など、
住民への理不尽な政策が具体的に述べられている。

急いで帰京する用事はないので、福島から郡山まであえて在来線を使い、
郡山から新幹線に乗った。


福島に来た

2012年03月16日 | 
今、福島に来ている。
ボランティアでも放射線測定のためでもない。
純粋に年度末の慰労の旅行として、福島市の北にある飯坂温泉に宿を取った。
つまり福島を被災地としてではなく、観光地として訪れたのだ。

実は、震災以前から福島市のとある所に行きたかった。
福島市の北東にある「鎌田」という所。
そこに昔、「鎌田城」なる城があったのだが、
そこに居た鎌田氏が私の祖先であることがわかったので、訪れてみたかったわけ。

私の曽祖父である鎌田造酒(みき)之助は、江戸で旗本を務め、最後まで幕臣を貫き通して、
箱館で戊辰戦争を戦い、その後は駿府(静岡)に住み、
臨済寺に東軍(幕軍)の戦死者を鎮魂する碑を建てた。
その曽祖父の出が福島の鎌田だという。

なので、福島駅に降りたってまず向かったのは、鎌田。
阿武隈鉄道の一駅目の「卸町」から歩いた。
鎌田の話はここでは飛ばすとして、
南東にある信夫(しのぶ)山(福島市の憩いのスポット)に行きたくなった。

城跡向かい側の「ドラッグ寺島」という店で
(奇しくも、鎌田造酒之助は維新後は”寺島”家に養子に入り、以降寺島造酒之助と名乗る)、
地元の人にバス停を教えてもらって、地方のバスは便数が少ないのを気にしていたが、
バス停に着いたら丁度バスがやってきた。

「岩谷」という所で信夫山が最接近したので、そこでバスを降り、
信夫山の麓にある岩谷観音に登る。

そこは、江戸時代に露岩に観音群が彫られた所で、
まるでシルクロードの石窟寺院みたいな光景(写真)。
と、ここまでは観光モードを維持できた。

ところが、この近所に「信夫山子供の森公園」を見つけると、
いつもの虫が騒ぎ出して、計測モードに変身。
徒歩旅行用の ハンディGPSの代りにガイガーカウンター(線量計)を取りだし、スイッチを入れた。
なぜなら、前日、サイトで福島の線量をチェックしていたら
この公園が異様に値が高かったから(地上50cmで1.5μSv/h、以下同単位)。

その「公園」の水路沿いの1区間に「この先危険につき、立ち入り禁止」の看板が付けられている(写真)。
その場所に線量計をもっていくと、確かに1.5μSv/hに達した(わがガイガーの値は信用できる)。

さらにわがガイガーでα線・β線込みのセッティングにして地上1cmの土の上で測ると、
値はさらに上がって3.8になった。
ただこの値は身体的危険度(被曝量)を指すのではなく、
地面にこびりついた放射性物質の量の多さととらえてほしい。
土ではなく塀として使われている岩(写真では看板の裏側)の上1cmで測ると、
さらにガイガーは激しく反応し、8.0という値になった。
すなわち土より岩の方がセシウム137がびっしりこびりついているのだ。
福島市の皆さん、ここの敷地の岩には触れないように(触れたら丁寧に手を洗おう)。

そして信夫山麓の水路沿いに空間線量(地上1mのγ線)を計りながら歩く。
ずっと値は0.8-9。
実は鎌田でも計ったのだが、そこは0.4だった。
すなわち信夫山の南東面が高い。
南下して信夫山から離れた途端に0.4-5に下がった。

だが、国道13号に出るとまた0.9に上がり、国道を横切って
曽根田方向の宅地に入るとまた0.4-5に下がった。

すなわち、原発から北西に進んできた放射能雲(プルーム)は、
福島市の信夫山の南東面にぶつかってそこに放射線を蒔き、
地形にそって南西に移動し、国道という広い空間(風の通り道)を出口として南下したといえる
(当然国道4号線沿いにも、そして阿武隈川沿いにも南下したはず)。

せっかく福島に”旅行”に来たのに、結局放射線を測りまくってしまった。
曽根田から今宵の宿・飯坂温泉に向かうことでまた観光モードに戻ることにする。

被災地に直行の義援金

2012年03月15日 | 東日本大震災関連
大震災から一年を過ぎたのに、ちっとも復興が進んでいない。
政府を批判するだけ(しかも地元への瓦礫搬入は拒否)では、他人事扱いだ。
各人ができる範囲で、復興への協力をしたい。

なので、気持ちを新たに、義援金を送った。
そんなこと一々記事にする事ではないが、具体的な方法などを記すことで、
読者のみなさんの参考になることを期待したい。

まず送り先だが、
「赤十字」宛だと、東日本全体へ”公平に”分配するのに非常に時間がかかってしまう。
それに懲りて、今回も郵便局経由で、被災地の自治体宛に送ることにした。

自治体といっても、県から市町村まで指定することが可能だが、
個人的に縁のある市町村は無いので、
県単位(岩手、宮城、福島、茨城、千葉)にした。
前回は東北三県だけだったが、今回は、マスコミではほとんど扱われていないが
やはり津波被害にあってそのままの茨城や千葉にも送った。

ちなみに、5万円までなら、寄付金控除となって、
納税の対象となる金額から差し引かれる(確定申告をする)。
それとこれらの地域への振込は手数料が免除される。

さて、問題なのは、郵便局に行っても、
以前は置いてあった被災地への振込用紙がおかれていないことだ。
掲示物もない。
なので、義援金の受付は終わったのかと思って、
一度はそのまま帰ってしまった。
でもネットで調べると、今月30日まではやっていることを確認
ゆうちょ銀行のサイト(他の災害被災地に対しても受付中)。

窓口で口頭で問い合わせると、やっと中から専用の振込用紙を渡してくれる。
これがわかりにくい。
期間中のものは掲示をしてほしい。

用紙に自分の住所・氏名などを記入して現金とともに窓口に出す。
返される受領証は確定申告の時、添付するのできちんと保管しておこう。

急いで帰京

2012年03月14日 | お仕事
昨日は今年度最後の教授会。
そして今日は卒業式。
学科主任最後の仕事として、卒業生一人一人に学位記(卒業証書に代わるもの)を授与する。
これで私の仕事も終わった。

そして自分も”春休み”として急いで帰京した。
卒業記念パーティも出ずに、なぜ急いで帰るかといえば、
昨年来、できるだけ”東日本”で過したくなったから。
心配だから。

実際、昨年の卒業式(3/15)も、午前中に東京での放射線量が急上昇したので、
「とうとう来たか!」と思って飛んで帰ってきた
(午後に風向が変わって、原発から北西方向が汚染域になった)。

案の定、今回も帰宅すると、まずは三陸沖での地震と津波、
そして晩飯後は千葉東方沖で震度5強のお出迎え。
やっぱり心配だ。

追悼の日

2012年03月11日 | 東日本大震災関連
今日3月11日は、自分にとっても東日本大震災一周年の追悼の日にしたかった。
それは犠牲者を悼むだけではなく、自分自身もう一度あの日に立ち返って、
被災地とのかかわりを再出発したかったため。

なぜなら、丸一年経っているのに、ちっとも復興が進んでいないから。
こんなはずではなかった。
今のままではダメだ。

昼までは、除染テープを使って、下の記事を書いていた。
そして午後2時46分。
もう一度あの日のあの時に立ち返るため、
一年前と同じ場所である近所のレンタルビデオ店に入った。
一年前は、店内のDVDが廊下に散乱したっけ。

きちんと追悼を執り行ないたかったので、
国の追悼式典が行なわれた国立劇場に献花にいった(花は持参不要)。

主催者側の人たちは皆喪服で、黙って我々一般の献花者に礼をする。
壇上に上がって献花用の花を受け取り、国旗の下の犠牲者の標柱にむかって合掌する。
当り前だが、ここまで来て合掌する人は、私も含めてそれなりの時間、真剣に合掌し続ける。
2万人にならんとする死者・不明者を思うと、胸がいっぱいになる。
合掌を終え、退室時に上の写真を撮らせてもらった。

除染テープを使ってみた

2012年03月11日 | 東日本大震災関連
福島県いわき市にある古藤工業が開発した「除染テープ」を使ってみた。
これはガムテープのようなもので、面に貼り付けてすぐにはがすと、
面に着いた放射性物質を取り除くというもの。
絶大な効果は謳っていないが、他の除染法の補助として使えそうだ。
値段も安く、ネットで840円で購入できる。

東京宅の雨どいの下が1.7μSv/h(α線・β線含む地上1cmの値。以下同)あったので、まずそこで使いたい。
しばらく雨天が続いたので、決行したのはくしくも3.11。

まず4ヶ月半ぶりに作業前に測定すると1.6μSv/h
(おやおや、ちょっと下がったのか?)。
そしてコンクリの上に貼り付けて、さらに丁寧に上から手で押して密着させる。
そしてゆっくりはがし(乱暴にはがすと放射性物質が飛び散る)、
それを手にくっつかないよう注意して、ビニールのゴミ袋に入れる
(ビニール手袋でやったが接着面にくっつくと簡単に破れてしまう。
同封の使用例にあるように、軍手の方がよさそうだ)。

使用後を測定すると1.4μSv/h(何度も計りなおしたので測定誤差ではない)。
確かに少し下がった。
ただそれほどでないのは、わが家のコンクリ面に小石が混じっていて凹凸があり、
きちんと密着できないためでもある。
凹凸がある面は真っ平らな面よりも効果が劣るのは致し方ない。
その後、3回同じ場所で使用したが、それ以上は下がらなかった。

結論として、使わないよりは使ったほうがいいのは確かだ。
なにしろ自宅のホースとデッキブラシでの高圧洗浄も、ゼオライトの粉末もまったく効果なかったが、
除染テープは明らかに効果があったのだから。
ちなみに使用後のテープはビニール袋に丸めて一般ゴミに出せる。

今後の開発を期待したいのは、
ゲル状のものにしてもらって、数時間で固まって簡単にはがせるもの。
これなら多少の凹凸があっても効果が期待できる。

大地震に季節傾向はあるか:記事更新

2012年03月10日 | 防災・安全

この記事(2012年3月10日配信)、地震があるたびに、アクセスが集中することもあり、グラフを追加するなど情報の一部を更新する(2021.2.14)。本文の記事はそのままにしてある。


東北地方太平洋沖地震(M9.0)が起きた3月11日は、
今を共に生きるわれわれにとって忘れられない日となったが、
過去の地震を思い出すと、
兵庫県南部地震(M7.3)は1/17、関東大地震(M7.8)は9/1、中越地震(M6.8)は10/23、
それに愛知県民として忘れてならない戦時中の三河地震(M7.1)が1/13、
昭和東南海地震(M8.0)が12/7、昭和南海地震(M8.0)が12/21と、
なんか寒候期(10-3月)が多い気がする。

そこで、過去の地震のおきた日などをきちんと調べてみた。
といってもすでにデータをまとめてくれた本と気象庁の情報サイトにあたっただけだが。
M7.0以上、もしくはそれ未満でも人的被害が大きかった地震(以下、大地震)を、
7世紀から21世紀まで(西暦679年から2016年まで)抽出してパソコンソフトでデータベース化した。
該当した地震は計215件(2021年2月現在:ただし東日本大震災をもたらした地震は1回としてカウント)。
平均すると6~7年に1回は起きている計算となるが、実際は静穏期と活動期に別れる。


1.まず一番気になった、季節差の有無を確認した(グラフ)。
発生した月日がわかっている213件の月分布からは、12の月にランダムに分散していた
(江戸期以前の記録はグレゴリオ暦に変換)。
しいて言えば1位は8月(25回)、2位は3月(24回,内3.11関連の地震が3つ)、3位が6月(22回)、4位は11月(21回)で、あとは団子状態。
これらを寒候期・暖候期でまとめると、寒候期は105回、暖候期は107回と差がない(暖候期の方が2回多い)。
以上から、「大地震は寒候期に多い」という仮説は支持されなかった。

すなわち、年間でみる限り、地震は確率(ランダム)現象とみたほうがいい。
主観的印象と客観的事実はかくも乖離しているのだ。
あらためて、統計をとることの重要さを痛感した次第。 

ただ、東海・東南海・南海の南海トラフの地震に絞ると、
暖候期(4-9月)5、寒候期12と大きな差があった。
トラフ続きの日向灘も暖候期3、寒候期5で同じ傾向。

また、M8.0以上の巨大地震に絞ると、上の南海トラフの影響もあって、
暖候期9、寒候期19と寒候期が多かった。
この差に科学的意味があるかは不明だが…。


2.集計ついでに、大地震の回数が多かった震源域はというと。
多い順に、宮城・金華山沖13、三陸沖11、紀伊半島沖11、青森沖11、
釧路・十勝沖10、根室沖9、日向灘8、相模(湾)7、房総沖7
といずれもプレート境界であった(空間的な差は明瞭にある)。
プレート境界では同じ場所で繰り返し地震が起きるわけである(北日本の太平洋側が多い)。
ただし東海地震の震源域(駿河湾~遠州灘)での大地震の回数は5で、
南海トラフの他の震源域(紀伊・日向)より少ないことも示された
(来る来ると言われてなかなか来ない東海地震は単独では来ないかも)。


3.逆に、大地震の震源から遠い県は、
山梨、富山、奈良、香川、岡山、山口、佐賀、大分、熊本※、鹿児島と、
東北・関東は0で、西日本、とりわけ九州が多かった。
これらの県は長い目て見て巨大地震に対しては安全といえる
(ただしM7未満の震源にはなっているし、
考古学・地質学レベルでの大地震の痕跡はあったかもしれない)

※追記:2016年4月16日の熊本の地震(M7.3)は、ここでの「大地震」の条件(M7以上)を満たしたため(しかも2回発生、だたし1回でカウント)、このリストから削除する。熊本の例のように、過去(歴史記録)に大地震がなかったからといって安全とはいえないことが身にしみた。

プレート境界から遠いのに、ここに入っていない県(日本海側や内陸など)は、
別種の地震である「プレート内(活断層)」の地震の震源に近いのである。


4.大地震の”特異日”というのはあるのか(あまり意味のない集計だが)。
過去に大地震が3回あったのは以下の日である(4回以上はなかった)。
3/11、8/2、8/12、9/5 、11/26、12/7
これらの日の前後も2回あった日が並んでいたりするので、
比較的発生確率の高い日として留意するにこしたことはない(客観的には偶然とみなせるが)。


5.東日本大震災より人的被害(死者・不明者)の大きかった地震。
過去の地震で今回の地震(19263人)より人的被害の大きかった地震は以下のとおり
(ただし明治以前のは正確な人数は不明)。

1341年 青森での地震? 26000?人
1498年 明応地震 (M8.4 南海トラフ) 40000?
1662年 琵琶湖付近の地震 (M7.6 活断層) 22300?
1828年 新潟での地震(M6.9 活断層) 30000?
1854年 安政東海地震(M8.4 南海トラフ) 30000?
1896年 明治三陸地震 (M8.5) 26404
1923年 関東大震災 (M7.8)  142807 
※:死者の9割は地震後数日間の大規模火災による。言い換えれば倒壊等による死者はこの1/10

三陸沿岸は今回以上の被害を過去に経験していたのだ。


書評:『FUKUSHIMAレポート:原発事故の本質』

2012年03月10日 | 東日本大震災関連

原発をどうするか。
原発事故が実質的にはちっとも収束していないのに、なにやら”再稼働”の動きが出始めている。
どうやら、われわれ国民一人一人が原発の是非についてきちんとした態度をとる必要に迫られている。
ならば、今回の原発事故をきちんと理解し、更には原発というモノにかかわる諸問題をきちんと理解しておきたい。

特定の問題だけを特定の視点から論じる本が多い中、私が読んだ中でイチ押しなのは、
『FUKUSHIMAレポート:原発事故の本質』(日経BP社 900円+税)

著者となるFUKUSHIMAプロジェクト委員会は、同志社大学を中心とする学者グループで、
あくまで第三者の立場で論じるために、活動資金を寄付で募り、
出版後も印税を受け取らず、活動費と寄付に充てられるという。
500ページに達する量だが、字が大きめなので、読みやすくページもどんどんすすむ。
なにより、値段が(儲けを求めないため)良心的なのがうれしい。

本書を勧める1番の理由は、原発問題を包括的、
すなわち技術的、政治的、経済的、社会的(文化的、集団心理的)に客観的データを元に論じている点にある。
なのでまずは本書で原発問題の概観を理解できる。
言い換えると、原発というシロモノはどれか単一の視点だけで判断できる問題ではないのだ。

本書を評価する第2の点は、副題に謳っているように、”原発の本質”をずばり指摘している点。
一種のタブーに触れる問題なので、マスコミを含め他書(とりわけ技術系)ではなかなか触れられていない。
原発の本質は政治的価値にある(あった)。
だから原発は国策だった。
それは経済的価値ではない。
原発が低コストだというのは詭弁であることが本書でも曝露されている。

それは、「核開発能力の保持」と「エネルギーの自給」である。
すなわち原発は安全保障のため。
ならば原発の是非の判断は、まずは安全保障の観点が必要となる。

タブーに触れる前者は、潜在的核武装能力を保持することで、
核武装に匹敵する抑止力をもつことである。
原発技術と核兵器開発とが密接なのは、今騒がれているイランと北朝鮮での問題をみれば分かる。
日本の安全保障そのものに反対する左翼が、反核・憲法9条と抱き合わせで反原発なのもこの理由。
ただし、核保有国となるためのプルトニウムはすでに充分な量を蓄積しているので、
今後も(危険な)原発を稼働させる必要はないという。

エネルギーの自給の問題はどうか。
まず基本的に、日本は人口減少フェーズがしばらくつづくので、
エネルギーの受給問題は今後は深刻でなくなるという(これはちょっと楽観的かな)。
すなわち需要的にも原発をこれ以上作る必要がないわけだ。

ただし、国際的には、開発途上国で原発ブームになる。
脱原発を進める日本は、ビジネスチャンスを失うことにはなる。

ちなみにエネルギー問題に関して、CO2削減の問題についても、
”温暖化”には罪だけでなく功の部分もあること述べ、削減にあくせくする必要はないと述べている
(これも一種のタブーになっている)。
私も同感で、地球規模では功の方が大きいとさえ思っている
(人口爆発している現状では、寒冷化の方がはるかに恐ろしい)。

さらにこの本が警告している事がある。
まず本書第1章で検証しているのは、地震と津波に襲われた後、適切な対応をしていれば、
東日本に放射能をまき散らした爆発事故は防げたということ。
それに対し東電は、津波直後、
早々にメルトダウンが起きたという事に”事実”を書き換えようとする動きが昨年の5月に始まったという。
その目的は、上の事実を隠ぺいするためらしい。
東電が自ら主張してきた原発の”安全神話”を捨ててまで守りたいのは、
自分たちへの責任追及の矛先なのだという。

個人的に興味深く読んだのは5章の原発事故の風評被害の話。
国内ではなく、海外でのそれを扱っている。
海外メディアは、直接取材する人間が脱出していなくなったので、
いいかげんな情報をもとに記事を書いたことを検証している。
たとえばアメリカの一流メディアほど危険を煽る記事を載せていた。

それで思い出すのは、日本のマスコミが信用できなかったネットユーザーたちが、
海外メディアの情報を信用して、実は日本がたいへんなことになっていると大騒ぎしていた事。
計測主義者の私は、東京での実測線量を知っている当時は数少ない人間として、
むしろ”火消し”を担当していた(内心では放射能汚染の”可能性”に怯えていたのだが)。

ただ本書に足りないと部分も感じる。
たとえば事故後の政府の対応への論評がほとんどない。
東電に対する批判はあっても、政府や官僚機関の対応の部分が少ない。
12日に発売されるという民間事故調の報告書を併せて読みたい。