今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

駒込の桜を観る

2018年03月30日 | 東京周辺

愛知の勤務先では4月2日から新年度が始まるため、春休み最後の数日を東京の実家で過す。
ホントは高尾山より1ランク上の山にトライしようと思っていたのだが、風邪で体調を崩したので来月に延期(腸脛靱帯の調子もイマイチだし)。

その代わり、今を盛りの桜見物といきたい。
といっても花見の宴を開くわけではないので、ブルーシートを敷ける所でなくてよい。
むしろ樹下で集団が宴会している桜を観賞する気にはなれない。

なので上野公園や飛鳥山公園クラスではなく、近所でよい。

近所で一番有名なのは、名勝「六義園」(文京区)の枝垂れ桜である。
とにかく有名なので遠方からも客が来て、園の入口は行列となる。
だが桜はたった1本なので(それなりに大木だが)、昼見てもしょぼい印象となる(ライトアップ向き)。
当然、園内で宴会は開けない。 

同じ駒込に、もう一つ桜の名所がある。
六義園とは山の手線をはさんだ反対方向の『染井墓地」(豊島区)である。 

そう、ここが「ソメイヨシノ」発祥の地。
ここ染井はもともと寺町で、その門前の店からこの桜は生まれたという。
墓が並ぶ霊園なので、こちらも宴会は開けない(墓場で宴会するのは鬼太郎たちだけ)。
木の密度が低くて壮観ではないが、人も少ないのでソメイヨシノ1本ごとじっくりつきあえる(写真:どう見ても普通のソメイヨシノだがこれぞ地元産)。

遠来の人なら、いっそ六義園と染井墓地を併せて観るのもいいと思う。
両者を結ぶ道は直線の1本道でわかりやすく、六義園側には洒落た食事の店が数軒あり、染井側には都区内で珍しい天然温泉施設がある(ここでも食事可)。
染井墓地からだと巣鴨駅が近いが駅に向わず、国道17号(中山道)を渡って”地蔵通り商店街”に立ち寄るとさらに都内散歩として充実しよう(染井〜巣鴨は寺巡りとしても充実)。

実は今日はこの逆ルートで歩いた(六義園には入らず)。
地元の私は、途中で今月中に済ませたい買物と散髪も済ませた。

明日ものんびりしたい。


風邪に対処するシステム0

2018年03月29日 | 健康

久しぶりの風邪がなかなか完治しない(別にじっくり味わいたい訳でない)。
その間、自分の身体システムが風邪に対して奮闘していることを実感している。

まず、仕事をする日中は症状がほとんど自覚されないレベルに抑えられる。
これは心身を緊張状態にする交感神経の興奮によるものだ。
身体システムが”元気”を実現すべく、正常な活動状態を遂行可能にしているわけだ。
だから昼の間は、体温は平熱を維持して、体調を正常に保っている。

そして夜、就寝中は交感神経に替わって副交感神経が支配する時間帯なのだが、
夜中、布団の中で体温が上昇して身体がやたら熱くなり、汗がびっしょり出て、シャツを着替えるはめになった。
実感的にも現象的にも体温が平熱よりもかなり上っているはず。

これは、夜間の非活動時間を利用しての、身体の修復作業だ。
だが、今は風邪という外敵侵攻事態いわば戦時なので、平時の副交感神経(リラックス)ではなく、
緊急事態対応の交感神経によって体温が上げられ、熱攻撃で寒さに適応したウイルスを弱らせ、同時に免疫細胞を活性化させている。

すなわち睡眠中の体内は合戦状態なのだ。
その結果となる朝、目覚めると節々が痛い(体の各地が合戦場)。
たまった鼻をかむと、ウイルスと免疫細胞との死闘の痕が視認できる。

すなわち、私の身体システムは、昼は(システム2主導の)活動に支障をきたさない状態を維持し、
夜、就寝中に、風邪との本格的な激戦が繰り広げられる(なので昼は不快感はないが、就寝中は寝心地が悪い)。

いずれも自分の意思(システム2)のあずかり知らないことが体内で起きている。
この身体システムが私の「心の多重過程モデル」における「システム0」に相当する。
その主役は自律神経系と免疫系だ。
なのでその本部は大脳ではなく、間脳の視床下部と脳幹(システム0の中枢)。
とりわけシステム0の免疫系は、心理的自我(システム2)を必要としない自己認識機能であり、
そのおかげで 風邪との戦闘が心理的自我の関与なしにフルタイムで遂行される。
自己という存在にとって、免疫系の自己認識の方が根源的であることはいうまでもない。
システム0は24時間戦っているのだ。


1年3ヶ月ぶりの風邪

2018年03月26日 | 健康

1年3ヶ月ぶりに風邪をひいてしまった。
風邪をひかないことが自慢の私としたことが、またしても不覚(どこかに油断があるんだな)。

一昨日の荒川20km強歩が、身体にはかえってダメージだったのか(その最中は寒い思いはしなかった。
ただ歩いて疲れ気味で不調だった)、その晩から咽頭とその上の鼻腔の裏側が痛くなり、鼻をかむとその部分がこすれてひりひりして辛かった。
その翌日の昨日、葛根湯を飲んだが、手遅れだったようで、鼻水が溜まり、節々が痛くなった。
それ以外には症状はないが、今日は大事をとって、外出しなかった。
なぜなら明日から大学で在学生相手に公認心理師のガインダスを担当するから。

今朝から陽気はいいので、まずは洗濯をし、布団を干した。
ガインダスの配布資料を作り終え、午後は読書(専門書読み)にいそしんだ。
先々週から”春休み”を謳っていたものの、身心ともに休む完全なオフの日は今日が最初で最後だ。


荒川を歩く1:河口から北千住まで

2018年03月24日 | 川歩き

桜の便りもちらほら聞こえてきた週末、天気も回復したので久しぶりに東京の川辺歩きをしたい。
前回は隅田川(両国橋〜南千住)だったので、今回はその東(墨東:東京低地、ディープ・イースト)を流れる荒川を河口から北千住まで歩くことにする。

荒川は奥秩父の甲武信岳を源流として埼玉県内のど真ん中を突っ切って東京に入り、東京の下町東部を縦断して東京湾に注ぐ。
東京を流れる川の中では長さも川幅も多摩川をしのぐ一番の大河である。

荒川はその名が示す通り暴れ川で、しかも流域の墨東一帯は海抜標高が0m以下なので、広範囲な洪水の危険地帯である。
その上、河口部の東京湾北部は首都直下型地震(前回は安政江戸地震)の震源地とも目されている。
その河口部は埋立地、0メートル地帯は沈下した沖積層なのでともに地盤が弱い。
すなわち、洪水・地震・津波の危険地帯として東京で最も災害リスクの高い地域である。
なので防災の視点をもって歩いてみたい。


河口は葛西臨海公園のある左岸より、右岸側の方が長く延びているので、右岸側の「新木場」で降りた。
ところがこちら側は河口に行く道も川に沿って上流に向う道も無いので、それらの道がある左岸に渡る必要がある(判断をミスった。次の「葛西臨海公園」で降りるべきだった)。
さらに新木場で駅そばで腹ごしらえをしようと思ったら、1軒ある蕎麦屋が開店前で、あとは私の選択肢外ばかり。
仕方なしにコンビニでおにぎりを買い、この先、川辺で食べる事にする。
このあたりは、大型の流通施設ばかりで、働く人はいても歩行者はおらず、住宅地ともオフィス街とも雰囲気が異なる。
もっとも元は「夢の島」として都民には不燃ゴミの集積場として知られた所で、しかも上述した災害危険地域なので、アスファルトの下を知っている者として長居したくない。
乗ってきた京葉線に並行している京葉道路を歩き、荒川にかかるその名も「荒川河口橋」を渡り、最下流の荒川の幅広さを歩いて実感する(写真:新木場で降りたからこの経験ができた)。
実際、荒川の河口部は東側に並行してきた中川放水路と合流するので、もともと広い川幅がさらに広がり、大河の風格を示す(荒川の河川敷を含めた川幅は、中流の鴻巣あたりで2500mを越える。荒川は関東でも利根川に次ぐ大河川だ)。

左岸の河口部(葛西臨海公園近く)に寄り道して、そこで河口を見ながらおにぎりを食べ、ここから荒川歩きを開始する(かなり時間のロス)。
堤防上は専用歩道になっているが、歩く人はほとんどおらず、ジョギングとサイクリングのコースとなっている。 
左岸からは広い川越しに都心のビル群、そしてもちろんスカイツリーが眺められる。
ただし左岸は、正式には合流元の中川側の岸なので、川の表示も「中川」となっている。 
これでは「中川」歩きになってしまうので、次の清砂橋で荒川側の右岸に渡り、ここからずっと右岸を歩く。
右岸も橋のやや下流あたりから河川敷が公園化され、野球やサッカー用のグラウンドが続く。
それらがあるおかげで、所々に公衆トイレが設置されているので助かる。


ここからずっと、この状態が延々と(本日の最後まで)続く。
向側の左岸も川に沿った高速道路がずっと延びている。
ときたま、川を渡る鉄道と道路の鉄橋をくぐる。

やはり川べりの人専用道路を進むのはジョギングとサイクリングの人ばかりで、はっきり言って、変わり映えのしない道を延々と歩いているのが苦痛になってくる。

神田川や野川などの町中を流れる中小河川は、邪険に扱われて川沿いの道がなかったり暗渠になっていたりするが、その一方で次々と雰囲気の変わる町歩きを堪能でき、また川沿いの社寺も参拝して歴史を感じることもできる。
それに対し、荒川のような大河川は、河川敷はグラウンド化され、堤防は歩道化されているので、川歩きそのものは延々とできるが、
その川が風景の主役となることで、都市の濁った川なので魚影もなく、 周囲は高速道路とビル群が延々と続くだけで面白くもない(隅田川も同じ。多摩川は武蔵野方向に続くので風景の変化はある)。
同じ歩行距離でも、山なら道や風景が変化に富んでいるので、疲労があっても心地よいが、単調な川歩きは精神的だけでなく同じ動作の繰り返しのためか身体的にも苦痛になってくる。


でもせっかくだから防災の視点で風景をチェックしよう。

まずは荒川の堤防が「スーパー堤防」として洪水に強い構造になっているのを確認。
簡単にいうと川側も外側も傾斜をゆるくして大きい空間をとっている。 

そして、堤防の外(左)側の住宅地面が川面(右)より低いことを確認する(写真)。
両者を区切る堤防高は、住宅の3階の高さに相当する。 

コース中の唯一の見学ポイントは、「荒川ロックゲート」。
荒川と町中を流れる旧中川との合流点なのだが、旧中川より荒川の水位が3mも高いので、パナマ運河と同じ閘門方式で荒川と江東デルタ地帯との水路による災害時の交通を可能にする。
丁度、閘門を開いて舟が出入りするタイミングだった。 

ここで「中川」が幾度も登場するのは、荒川と幾度も交差しているから。
両河川とも防災の理由で流路を変えられ、今の荒川(放水路)は旧中川を直角に突っ切って(分断して)東京湾に直行するようになったのだ。

川沿いにある小松川の千本桜の壮観を期待したのだが、残念ながら三分咲きというところで、バーベキューOKなのだが客はほとんどいない。
ここも含めて都内の河川歩きは桜の季節が一番いい(今日は数日早い)。


足立区に入ると現れる隅田川と結ぶ”堀切”も、荒川の洪水対策として水を隅田川に流すためのもの。

ようやく常磐線の鉄橋に達し、川から離れて北千住に向う。
荒川の堤防がここより上流(赤羽あたり)で決壊すると、北千住(足立区)から下流一帯(隅田・江東区)が数mも浸水するという。

今までのスーパー堤防や他の河川とを結ぶ流路の管理はここから下流の対策だった。
そういうわけで墨東地域の防災の最重要域を見てきたことになる。
危険地帯なだけに、それなりの対策が講じられているわけだ。 

河口から北千住付近の川辺までしめて4時間、道のり20km弱(歩数計だと25km)だった(道脇に河口からの距離が1kmごとに表示されるが、残念ながら河口との”直線距離”なので歩程の参考にはならない)。

さすがに疲れたので北千住からは都バスで家の前のバス停まで座って帰った。 

荒川を歩く2へ


名古屋に日帰り出張

2018年03月20日 | お仕事

春休みを堪能していた私だが、余儀なく中断せざるを得なくなった。
名古屋の職場で会議が招集され、また取りに行かねばない書類があるのだ。 

その会議は、今までならサブ要員であったため、欠席することも可能だったが、来年度(来月)から主要メンバーになるため、内容を把握しておく必要がある。
書類の方は今週中に対応しなくてはならない内容で、しかも学生の個人情報が盛られているため(要するに学生指導)、ネットで送ってもらうわけにもいかない。

もちろん、常勤教員としていつでも職場に馳せ参じる状態でなくてはならない。
幸い会議は昼過ぎからで、書類は自分用のボックスに取りに行けばよい。
なので、東京からでも時間的には日帰りが可能。
ただ運賃が往復2万円を要するのが痛い(額はいつでも同じだが、日帰りだと割高感が半端ない)。
私が勝手に実家に帰っているわけだから、自己責任として涙をのむ(自腹)しかない。

というわけで、 11時前の新幹線で名古屋に行く。
本部キャンパスでの会議はたった30分で終った。 
ついで数キロ離れたキャンパスに公共交通機関を使って行き(いつも利用する学内バスはこの時期、間引き運転なので)、事務室で書類を受け取り、ついでに捺印が必要な書類に捺印し、幸いタイミングが合った学内バスで本部に戻り、そこから帰宅の途につく。

実は、スムースに事が運べば、帰りは運賃節約のために18きっぷ(運賃が1/4)を使おうかと目論んでいたのだが、会議はスムースに終ったもののキャンパス間の移動に時間をくってしまい、今から18きっぷで帰ると東京に着くのが夜10時をまわってしまうので(しかも最短の乗り継ぎのため夕食抜き)、帰りも新幹線にした。
日帰りで2万の交通費の出費は痛い。 
せっかく湯河原の宿で1万円得したのが帳消しになった。 


湯河原城山・頼朝の史跡

2018年03月19日 | 東京周辺

私の春休み第三弾は、第二弾の湯河原温泉をチェックアウトしたところから始まる(すなわち2弾連続)。
宿のチェックアウトは遅くとも10時なので、そのままだと昼前に帰宅してしまう(これだと第二弾でおしまい)。
ならば、せっかくの湯河原をもっと堪能しよう。
アウトドア派なので、温泉街から外に出て空間的・立体的に歩き廻りたい。
具体的に挙がった行き先は、石橋山の合戦(1180年)に敗れた源頼朝が隠れたという
しとどの窟(いわや)」と湯河原温泉街の背後に聳える城山(563m)。
しとどの窟へは、湯河原から箱根芦ノ湖畔に往く路線バスに乗れば、バス停から歩いて20分ほどで行ける。
バスの便が午前9時と10時台しかないので、午後3時のチェックイン前よりも、チェックアウト後に訪れるのに丁度いい。

だが、あいにく昨日と打って変わって天気が悪く、雨が予想されている(折畳み傘は持参)。 
南向いの岩戸山(734m)はもう雲をかぶっている。 

9時46分に乗ったバスに揺られて、城山山腹の道をぐいぐい上り、山の上に出たところの「しとどの窟入口」で降りる。
バスの運転手は帰りの便がないことを心配してくれたが、ここから湯河原駅まで歩く予定なので、心配ご無用。
ここは椿台といって実朝が歌を詠んだ山上の名所。
今日は低く垂れ込んだ雲が手に届きそうだが、海側はまだ明るく、初島・大島が見える。

案内板に従いトンネルをくぐって、地蔵の石仏と石灯籠が並ぶ山道を下る。
この付近は関東山伏の発祥地で、山伏たちの行場だったという。
谷に降りていくと雲の中にはいった感じで、霧雨が降っている。
LLビーンの防水効果のあるハット(つばのある帽子)をかぶって傘代わりにする。

 地藏の列が終って今度はさまざまな観音の石仏が出てくると、まもなくしとどの窟
説明板によると、正式には「土肥椙山岩窟」で、なんか私と縁がありそう。
通称の「しとど」は、頼朝の追手の前で急に飛び出したのが「シトト」という鳥だったということから。
その岩窟は、思いの外奥行きはないが、間口が広く、上から滝状に水が落ちているので、飲料水に困らない(写真)。
今では写真のようにさまざまな石仏が置かれてあるので、なにか異様な霊気がたちこめている。
山中にかような自然の隠れ家があろうとは、地元の土肥氏や山伏以外は知るよしもないだろう(当時のものではないものの、石仏群からすると、少なくとも地元ではよく知られた場所かもしれない)。

ここから復路を椿台まで戻り、城山への尾根道に入る。
こちらは風上側で雲がなく、雨は降っていない。
軽い上下を繰り返して、城山山頂に出る。
ここは地元の豪族土肥氏の城があったといわれるが、小田原北条氏の物見跡ではないかとも言われる。
本当なら、目下に相模湾や真鶴半島が拡がる眺めのいい山頂なのだが、雨が降ってきたので、
直下の「硯石」(頼朝が蹴ったら硯のような形になったという)を見て、湯河原方面に降りる。

今回も ZAMSTのサポーターを左膝に巻いているので、スタスタ降りれる。
途中、これまた頼朝が放り投げて立ったという「立石」を見て
(付近はかように頼朝伝説が多い。実際に頼朝が歴史の表舞台に躍り出ようとして苦労した地である)、さらにスタスタ降り、
山の斜面の住宅街になったので、帽子から折畳み傘に替えて、急勾配の住宅街って歳とったらたいへんだろうなと思いながら、麓の城願寺に達する。

この寺(今は曹洞宗)は土肥氏の菩提寺で、一族の墓所が残っている。
土肥氏は平氏一族だが、坂東の平氏にとって清和源氏はわれらが棟梁(源義家)の家系であるので、
血縁より地縁を優先して頼朝側につき、石橋山の合戦で敗れた頼朝の命を救った(子孫に小早川隆景がいる)。 

この寺の柏槙(びゃくしん)は樹齢850年の巨樹で国の天然記念物になっている。
幹の一部はコンクリで補填されいるが、葉を茂らせて生命力は旺盛なようだ(写真:左奥は頼朝ゆかりの七騎堂)。
貴重な記念物なので囲いがしてあり、また雨天で傘をさしているので、
幹に手をかざして気の交流をするのに苦労。

ここからほどなく湯河原駅に出る。
丁度12時。
高尾山よりも高度差がある下りだったが、左膝はなんともない。
駅前の土産物店で、金目鯛入りのかまぼこ(伊豆と小田原をミックス)を土産に買い 、発泡酒とつまみを買って、グリーン車に乗り込んだ。


湯河原温泉に一泊

2018年03月18日 | 温泉

私の春休み第二弾は、湯河原温泉(神奈川)!

勤務先関係の共済組合からもらった1万円分の優待券(一生に一度だけもらえる)を使いきろうと、共済の宿の1つで実家から近い湯河原温泉に1泊する。
もともと宿代が1万ちょいなので、ほとんどただ同然となる。 

小さい頃の家族旅行の主な先は熱海だったため、湯河原は1つ前の通過点でしかなかった。
その実、湯河原は万葉集にも歌われている古い温泉で、熱海よりは俗化しておらず、三方の山が迫った谷にあり、木造建築のいい宿も並んでいて山の中の温泉街の風情である(写真)。

海より山の風情が好きなら湯河原はお勧めだが、本当に山の中がいいなら箱根がある、というのが辛い立場。
ようするにロケーション的に中途半端で、温泉以外に観光資源はなく(作ろうと努力はしている)、 少なくとも連泊する気にはなれない。

もっとも、せっかく温泉なのだから、観光資源やロケーションに頼らず、泉質で勝負できれば問題ない(草津のように)。

湯河原温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウム塩化物・硫酸塩泉。
どこにでもあるアルカリ単純泉でないだけましであるが、さほど個性的とはいえない(しいていえば硫酸が多めかな)。 
そういうわけで、今でも素通りしがち。 

以前、週一で通っていた企業の職場仲間と幕山(626m)登山を兼ねて別の宿に泊ったのが最初なので、今回は2回目。
今回の宿は、宿の前に源泉がある。
浴室は4階なので、そこまで管で昇らせているわけだ。
建物自体は年季が入ってしかも小ぶりで、さらに隣が「エクシブ湯河原離宮」(写真右上の建物)なので、差がついてしまうが、その分混雑せず、広くない浴室も混まずに使える。

源泉は65℃と高温だが、浴槽では41℃に下げられているので温度的には快適。
ただ、ということは、加水されているわけだから、温泉は希釈されている(掲示されている成分表は源泉の値だからね)。
そこで浴槽で湯の電気伝導率を測ると1878μS(1.88mS)なので、温泉としての濃さは相当程度維持されていると評価。
 塩素殺菌も循環もしていないので、いわゆる「源泉掛け流し」に該当する。
これが可能なのは湧出量が豊富だからであり、また自治体によっては塩素殺菌が義務づけられている地域もあるので、泉質はともかく、”温泉”のレベルとして価値がある。

夕食は食堂で、いわゆる温泉宿での料理が次々出される。
食堂だと客が一堂に集まるので客層がわかる。
時期柄・曜日柄もあろうが、大半は70代以上の夫婦。
子どもがいる家族連れは1組。若い女性も1組半。
この宿は一般客も受け付けているが、一般客にとってあえてこの宿を選ぶ理由が見当たらないので、いずれも同業者とその家族だろう(若い人が少ない理由もこれ)。 

温泉街ではあるが雰囲気は山中なので、外に出る気もせず(前の宿の時はもっと下流だったので、浴衣姿で外に出て射的をやった)、 ネットにつながる1階のラウンジのソファーに身を沈めて、こうして記事を打っている。

とにかく今日はつかぬまの”春休み”を味わうので、仕事や研究業務は一切しないで、温泉宿での一日を堪能したい。


みうらじゅんになれなかった私

2018年03月17日 | 作品・作家評

※本記事は、みうらじゅん(「ゆるキャラ」の命名者で有名)について最低限の知識があることを前提としています。 

私の春休み第一弾は、川崎市市民ミュージアムで開催中(3/25まで)の「みうらじゅんフェス!:マイブームの全貌展 SINCE 1958」の鑑賞。

私は氏(みうらじゅん=三浦純)とほぼ同世代で、同じく仏像が好きなので、根強いファンというわけではないが、親近感をもっていた。
実際、昨年はいとうせいこうとのポッドキャスト番組 「ザツダン+」をなにより愛聴していた。
なので、そろそろみうらじゅんなるキャラをきちんと知りたいと思っていた矢先の渡りに舟というわけ。

その川崎市市民ミュージアム(市が2つ続くのがミソ)へ行くには、今をときめく武蔵小杉からバスに乗る。
なので初めて降り立つ武蔵小杉から、私のワクワクは始まる。
なんで”初めて”かというと、ここを訪れる理由が今まで無かったからで、そもそも小杉は川崎市外の者があえて訪れる地ではない。
当然ながら地名は”小杉”であり、武蔵小杉は駅名にすぎない。 
「武蔵小杉」として有名になった理由は、駅前だけが固有に変貌したためだろう。
降り立ち記念に、駅構内か駅前で「駅そば」を食べようと目論んだが、蕎麦屋がまったく見当たらず(讃岐うどんは選択外)、仕方ないのでおにぎり屋でおにぎりを2つ買い、コンビニで天然水を買った(おにぎりはその場で作る店のがいいが、ペット飲料はコンビニのが安い)。 

ちなみに、降り立っただけの印象では、横須賀線沿いは並行している新幹線の走行音が大きい。
もっとも今どきの高層マンションなら窓の防音効果もしっかりして、高層階では窓は開けないだろう。 

駅前からバスに乗って、等々力スタジアム(川崎フロンターレのホーム)のある広い公園の一画で降りる。
まずはミュージアムの外のテラスで、おにぎりを食べる(空腹をかかえたままでは鑑賞に集中できない)。 

800円払って展示会場に入ると、意外に幅広い客層でそれなりに混んでいる。

「全貌」というだけあって、氏の生い立ちに沿って、膨大な展示が並ぶ(すべて氏のコレクション)。
それは氏自身の「マイブーム」の変遷を示している。
次々と続くマイブームの圧倒的なコレクションの前では、「マイブーム」って一時期流行った流行語で、今どき使うのは恥ずかしいなどとほざく底の浅いヤカラの心根も簡単に砕かれよう。
みうらじゅんの人生そのものが主体的感性にもとづく「マイブーム」の発掘と変遷の歴史なのだ。

その展示でわかったことは、氏は小学校時代にマンガを描きはじめて、いろいろなキャラクターを作り出し、中でもカエルのキャラがお気に入りだったということ。
これって、まさに小学校時代の私だ!
ここまでは同じだったんだ。 

そして氏は早くも小学4年で仏像にのめりこむ(京都の地がそれを有利にしている)。
悔しいことに私より数年早い。
しかも子どもなりに詳しく調べている。 

『見仏記』を読んだ印象では、仏像に対する蘊蓄はいとうせいこうで、みうらじゅんは感性的評価が主だと思っていたが、それは単なる役割分担で、氏の仏像に対する理解は筋金入りだった。

また高校の時、ホントに空手の通信教育を受講していた(お笑いのネタではなかった)!

そして自分の才能を開花すべく、2浪して多摩美術大学に入学(その時の受験票も展示)。
入学後はもちろん描画の腕を上げ、その延長で『ガロ』に掲載される。

一方、私は中学に入ってマンガからきっぱり足を洗い、二度と戻らずに現在に至っている。
小学校時代に描きためた幾冊ものマンガ集(4コマ、短編、長編)は今は1つも残っていない。
ここで大きく差がついた。
私はみうらじゅんになれなかった。 

捨てない、そして集めるコレクターとして(「断捨離」とは対極)の氏の生き方もすごい。
磯野カツオをまねたのか、小学生時代の「肩たたき券」も残っている。 
私も子どもの頃は氏と同じく「ゴムヘビ」が大好きだったが、遊んで壊すばかりでコレクターにはなれなかった。

氏の数々のマイブーム・コレクション(しかもこの展示がすべてでないという)を通覧して感じるのは、氏の(集めて命名する)行為そのものが、われわれが自明視しているモノに別の価値を発見させる「アート」であること。

かくして、私との子ども時代の共通点(マンガ、カエル、仏像、ゴムヘビ)を発見できた喜びを得た一方、その後に拡がる差異に打ちのめされた。

見終って、ミュージアムショップで買ったのは、昨年映画として観損ねた「ザ・スライドショー」のDVDと氏のメインキャラであるカエルが描かれたポーチ(私が持っているカエルのフィギュアたちを収納するつもり)、それに本展とは無関係ながら北斎の神奈川沖の浮世絵の3Dポストカード。
最後のモノは氏の3Dコレクションの影響を受けた。

そういえば、本展でのショップ一番の売りは「SINCE」Tシャツだと思うが、
美術展で売っているオリジナルTシャツって一見食指が動くけど、絶対着て歩けないので、いつも伸ばした手を引っ込める(ミロのTシャツ2着を例外として)。
あれって、買う人は何のために買うのだろう(着て歩いている人を見たこともない。私もミロのTシャツはもったいないくて着れない)。
この「ミュージアムショップのTシャツ」問題も氏に考えてほしい
(実際のところ、「SINCE」Tシャツはかなり売れているようだが、私にとってこのTシャツを着て街を闊歩する資格があると思えるのは”シンサー(SINCEを審査する人)”だけで、すなわちこの Tシャツはシンサーの制服であり、それは実質みうらじゅんただ一人だ)。

それと、これも美術展に必ずあるオリジナル・クリアファイル。
そもそもクリアファイルは透明で中が見えるからその名がついているのだが、美術展で売っているものは絵がぎっしり描いてあって中がまったく見えない(つまり実用的でない)。
これには氏がすでにその問題に気づいていて、これはクリアファイルにあらずということで、「アン・クリアファイル」と名づけている。 

かように、世の中の注目されない物に、その存在理由を見出す、あるいはその存在の不条理さを明らかにする、氏の今後の活動を楽しみにしている。


春休み!

2018年03月16日 | お仕事

昨日、卒業式と大学院の修了記念パーティに出て、今年度最後の行事を終えた。

来週も再来週も出校する用事があり、片づける書類もあるが、大きな作業・行事は終えたので、一応”春休み”。

1月から続いた年度末の連続作業をこなした後、新年度に向けた格別の準備がなければ、春休みは一年で一番のんびりできる時期である。

今日は、18きっぷでのんびり帰京(車内では6時間の読書)。

数日は仕事を忘れて休息モードを味わいたい。 


年度最後のヤマ越え

2018年03月14日 | お仕事

大学の年度末の採点・成績つけを1月末に終え、そして大学と大学院の入試と修論の最終試験という大きなヤマを2月前半に乗り越え、そして今年度だけ突如出現した「公認心理師の申請書類の提出」という最大のヤマを2月末に乗り越え、昨日は今年度最後の教授会と他の3つの定例会議(うち一つは私が議長)を終え、今日は(昨年分の)「確定申告」を終えた。

確定申告は、勤務先の仕事ではないが、私人としてはこれが一年で最大のヤマ。

といっても、最近はネットの作成画面に入力するだけで自動的に提出書類が出来上るので(ミスの懸念もなく)短時間で作成できる。
なので近年は3月に入ったらすぐ申告を済ませていたのだが、今年は公認心理師の作業が入ったので、締切一日前の提出となった。 

幸か不幸か昨年も事業が赤字でしかも一年分の医療費が一定額を超えたので超えたので還付となる(かようにきちんと確定申告して初めて還付の対象となるわけで、自分が申告していないのに税務署からご親切に還付の”電話”が来ることは絶対ありえない)。
これはちっとも嬉しいことではない。
以前のように確定申告で納税するくらいに事業収入を得たいものだ。 

というわけで公私ともに今年度最後のヤマを越えたので、夕食時に発泡ワインの栓を勢いよく抜いて祝杯とした。

ヤマを越えた明日は、昼は「卒業式・修了式」、夜は大学院の修了記念パーティ(学部の卒業記念パーティは毎年欠席)を残すのみ。
年に一度のスーツを着て、学生の前で何か喋るだけでいい。 


高校2年生に”心理的距離モデル”を講じる

2018年03月12日 | お仕事

大学の業務として、併設高校の2年生(♀)を対象に模擬授業を担当した。
オープンキャンパスで受験生・保護者を前にした模擬授業は毎年やっているが、受験にまだ遠い2年生を対象にするのは初めて。
しかも広報担当の教員から、私のライフワークである「心理的距離」についてやってほしいとリクエストされた(オープンキャンパスでは話しやすいノンバーバルコミュニケーションの話をしていた)。
心理的距離は自分で理論モデルを構築しているので話す内容には事欠かないが、いかんせん専門用語(しかも自分の造語)で構成されているため、それを高校2年生にどう説明したらいいか。

といっても他に言い換える事ができないので、「能動表象」「不整合」などの用語はそのまま使うことにした。 
心理学とりわけ社会心理学は、われわれの日常の体験を学術用語で説明するものである。
その用語の意味する現象は、誰でも体験済みの事なので、その関係づけができれば理解してもらえるだろう。

というわけで、学術的表現でいうと、自他の心理的距離を変化せる力の1つである”均衡力”に焦点をあて、距離の不均衡状態をモデル化して説明し、この均衡力を利用した心理的距離の調整法を説明した。
これを日常の対人関係での”片想い”やウザイ相手(いずれも距離が不均衡)を例にして、”告る”ことのリスクと効果、そして心理的距離を接近させる行動を紹介した。

私の冗談に生徒たちは反応し、幾度も笑いを取れた。
そして授業を終えると、思いがけず拍手が鳴った(大学の授業ではありえない)。

自分の理論モデルを、想定外の人たちに話して、受けが良かったのだから、こんな嬉しいことはない。


18きっぷで帰名:「原」で途中下車

2018年03月11日 | 

東日本大震災7年目の今日、毎年のように国立劇場での慰霊祭に行きたいが、今日は名古屋に帰らなくてはならない。
3月はゆっくり「18きっぷ」で帰り、交通費を節約しながら、乗っている6時間の間、車内で読書に励む。

いつもより早めに出たので、久しぶりに途中下車をして、沿線の気になるスポットを訪れたい。

18きっぷで名古屋から東京に帰る時は、毎回浜松で降りて(改札を出て)、浜名湖漁協のうなぎ弁当を買い、
電車を1便遅らせて、ホームのベンチに腰掛けて食することにしている(車内でうなぎの匂いを拡散させて食べるわけにはいかない)。

東京から名古屋に行く時は、今まででは根府川(目の前が相模湾)と金谷(最高地点の駅で大井川鐵道が発着)に途中下車した。

今回は、沼津の2駅先ので降りて、白隠禅師ゆかりの松蔭寺を訪れたい(沿線にあるので車窓から見える)。
ひとけのない原駅に降り立ち、東に進む。
旧東海道の宿に沿って歩くと、白隠禅師生誕地に新しく建てられたお堂(無量堂)がある。
堂内には、白隠の位牌のようなものと、パンフが置いてある。 
位牌の向こうに白隠禅師像が彫ってある石碑がある。 
パンフによると今月25日まで静岡市美術館で「駿河の白隠さん」展をやっているとのこと。

ここから松蔭寺は目と鼻の先。
松蔭寺は白隠が出家し、そして晩年に住職となり遷化した所。
松蔭寺の本堂前には白隠禅師ゆかりらしいすり鉢が樹齢350年の松で彫られてある。
奥の方の墓地に行くと白隠禅師の墓所(卵塔)がある。
3月末にこの寺で”白隠梅祭り”が開催されるらしい。
墓前に合掌して、駅に戻る(駅前の「白隠最中」の店は休み)。

往復して30分は要したので、結局いつもの便に乗る。

あと途中下車したいのは、興津(名刹清見寺)、新居(関所跡)あたりか。


「いいね」が消えた

2018年03月06日 | ブログ編集

私が利用しているgooブログの常時 SSL化(httpsに変更)に伴い、いままで読者のみなさんが付けてくれていた「いいね」やシェアの設定がすべて解除されてしまった。
無料で使わせてもらっているから文句もいえないが、ショックである。

気分一新、これからもよろしくお願いします。

記憶によれば、私のブログ記事で一番「いいね」が多かったのは、2011年5月7日の「facebookで有料サイトへの誘導詐欺に遭う」だった(コメントの数も群を抜いて多い)。
お役に立ててうれしい。 


高尾山を卒業

2018年03月04日 | 山歩き

山の下りで左脚の腸脛靱帯が痛んで歩行困難になる私は、それをなんとか克服しようと試行錯誤している。
試行錯誤のフィールドは、東京の人間が最初に登る入門の山・高尾山(599m)。

12月29日,1月21日に続く連続3回目の今回は心強い味方を得た。
その名は「ZAMST RK-1 」。
腸脛靱帯炎対策を目的としたサポーターだ(左脚用のLサイズ)。 

この効果を確認するのが今回の目的。
家で装着して出発。

高尾山口から、登りに使うのは、最も短時間で山上に達する高尾山で唯一の”無名ルート”(6号路から高尾保養院を抜けて2号路に達する ←「病院道コース」という名であった)。
山用の靴は足にぴったりしたサイズにしたのだが、いつにない爪先の圧迫感から、足の爪を切ってくるのを忘れたことに気づく(足にぴったりした靴なので、爪が痛むことはなかった。かえって余裕のある靴だと、爪が死ぬ)。
通い慣れた道でもあり、登りは快調。 

2号路に出てから今回は1号路を横切って4号路に入る。
4号路は北側の巻き道だが吊り橋があったり、道脇の杉の根の造形が面白い変化に富む道。
山頂直下でメインの1号路に合流。
山頂に着いたのは昼前なので、まだ席が空いている大見晴亭で、いかにも手打ち風の「もりそば」(520円)を軽くすする。
ただしこれは正式な昼食ではない。 

ZAMSTのおかげで左膝の違和感も少ないので、すぐには下山せず、もう少し頑張ってみたい。
といっても奥に聳える小仏城山(670m)まで行くのは頑張り過ぎと思い(昔だったら当然なのに)、その中間地点の一丁平まで足を延ばすことにする(片道30分)。
高尾山から先は「奥高尾」となり、ここから先は観光地ではなく本当の山の中に入る(装備も登山用となる)。
道脇に雪が出てくる。

大きく下って登り返し、季節になると桜が見事なはずの一丁平(570m)に達する。
目の前には、ずっと行きそびれている丹沢の前衛峰・仏果山(747m)の凹凸が見える(写真)。
行きそびれている一番の理由は、山中に跋扈するというヤマヒル(閲覧注意)のせい(こういう生き物に吸い付かれたくない)。
日陰を求めて無人休憩所に入り、持参した菓子パン2個を頬張る。
これが正式な昼食のつもり。

さて、ZAMSTを締め直し、ここから引き返す。
すなわちいよいよ問題の下山の始まり。

歩行補助用のストックを持ってきているが、これは最後の手段として使わず、
2本の足で下り通したい。
右脚中心に動いて左脚を楽にするという手もあるが、
そうすると右脚が過負荷で痛んでしまうと、両脚とも動けなくなる。

2本の足というより、左脚の問題は、左脚だけで解決したい。
腸脛靱帯が痛むのは、膝が”内旋”(≒内股)してしまうためらしい(自覚無し)。
その調整(内旋制限)をやってくれるのがこのサポーターなのだ。

左膝のバランスを確認すべく、歩きながら意識をそこに集中する。
そうすることで、左脚の動きが正しくなる感じがする(マインドフルネス効果)。

一丁平から下った後、高尾山へ上り返すが、山頂は迂回し、高尾山最長の下山ルートである稲荷山コースに入る。
 今回は一丁平からの下りに続くので、前2回より長い下り歩行となる。 

そもそも私の左の腸脛靱帯は、痛んで歩行困難になるのは山での下りに限定されるが、下界での階段の上り下りでも違和感がある。
つまり痛みはいつも潜在している。
これが顕在化した途端、歩行困難になる。
なので今できるのは、騙し騙し歩いて、顕在化させないことしかない。

前回までは、爪先着地など歩き方をあれこれ工夫したが、今回は普通の歩き(踵着地)でも痛みが顕在化しない。
普通にスタスタ降りれる。
といっても調子に乗り過ぎると、痛みが露わ(=歩行困難)になるので、
歩幅を小さく、あえてジグザグにルートを選んで、重力の衝撃を与え過ぎないようにする。
そうやって降りると、最後の階段でも(12月はここの下りに難儀した)普通にスタスタ降りることができた。
ZAMSTのおかげだ。 
もちろん足の爪も痛くない。 

この結果なら高尾山は卒業してよい。 
次は標高700m台に挑戦。
もちろんZAMSTは必携だ。
ただし仏果山は除く。 


「仁和寺と御室派の秘宝展」を二度観

2018年03月02日 | 東京周辺

同じ美術展を二度観することなど滅多にないのだが、「仁和寺と御室派の秘宝展」(東京国立博物館。3月11日まで)には時期をずらして2度訪れた。
もともと表題にあるように仁和寺系のこれらの寺の仏像は秘仏なので、滅多に拝められない。
その秘仏たちがいっぺんに観られるのだから、これは行くしかない。
何しろ私は、中学以来の仏像好き。

でもなぜ2度なのかというと、展示期間の前半と後半とで、展示される秘仏が交替するから。
一度目に行った時は、この企画の最大の目玉である大阪葛尾寺(フジイデラ)の千手観音はまだ展示期間でなかった。
そこで展示期間である今日に再訪したのだ。
平日なのに平成館入口で50分待ちの行列だった。 

ちなみに、仁和寺の観音堂を再現して配された江戸期の仏像群(千手観音と二十八部衆など)に限って写真撮影可(写真)。
一度目はカメラを持参しなかったが、二度目は持参して撮りまくった(ストロボ撮影は禁止なのでレベルの高いデジカメが必要)。

葛井寺の千手観音(8世紀作)は、手の数が1041本もあり真の”千手”観音ともいえる唯一の観音像として有名で、写真ではその存在を知っていたが、実物を拝める機会がなかった。
仏像好きにとってはこの観音像を間近に拝める(しかも周囲を一周できる)だけで価値がある(千の手だけでなく、その手にある目も確認しよう)。

実際、いくら観ても飽くことがなく、立ち去り難かった。 
その他各地御室派の仏像、とりわけ千手観音・十一面観音がたくさん展示され(それぞれ真後ろに廻って暴悪大笑面を確認できる)、仏像ファンにとっては、その前の「運慶展」に匹敵するくらい満足した。

とにかく、中学以来念願の本物の”千手”観音を拝めて満足。

道明寺(大阪)の十一面観音(8〜9世紀)もよかった。

あと私がこの目で観たい仏像は、観心寺(河内長野市)の秘仏・如意輪観音のみ。
これも大阪だ。