今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

野川を歩く6:真の水源に到達

2023年11月26日 | 川歩き

「三度目の正直」という言葉通り、野川の真の水源がある日立製作所中央研究所内に、三度目の訪問でやっと入れた。

元々、ここは年に2日だけの公開の日(4月第一日曜と11月第三日曜)があるだけだが、コロナ禍の煽りで過去の2度はいずれも門前でシャットアウトを喰らった。
なぜ門前まで達してこのように憂き目にあったかというと、国分寺市の観光サイトにも当の日立中央研究所のサイトにもいずれも今年度の公開について情報が載っていなかったため。

その代わり、たとえば前回(今年の4月第一日曜)は、野川に流れ込む別の水源に切り替えて、一応の到達(完歩)ということにした☞記事
だが、それは自分にとっても誤魔化しであることは明白なため、コロナ禍の影響が完全に吹っ切れた今年の11月こそ、真の水源に達したい。


そこで今年は事前に確認するため、日立製作所中央研究所に直接電話して、今年の公開の有無と公開する場合の日を尋ねた。
すると、11月26日に公開するという。
それって第四日曜ではないか。
電話で確認しなければ、今回は公開日のズレでまた入園できない羽目になっていたところだった(実は公開日が第三日曜だったら、大学で仕事があって無理だった)


中央線の国分寺駅の北口から、3度目の訪問で歩き慣れた道を地図を見ずに進む。
過去2回と違うのは、研究所入口のある通りに、人が行き交っていること。
そしてその人たちが出入りしている所こそ、中央研究所の正門だ。

警備員が立っている前を抜け、開門している扉を抜け、木立が密の敷地内に入る(10:00-14:30の間、入場無料で、自由に出入りできる)。
ここは日立製作所の創設者である小平浪平が「良い木は切らずによけて建てよ」と指示したため、自然に育った木が立派に成長している。
※:もらった案内図による。

研究所の建物の前で園内の案内図をもらって、広場に出ると、出店用のテントがあって、地元野菜や軽食を販売している。

いつもの川歩きなら、まずは出発駅付近で腹ごなしにそばを食べるのだが、今回は、研究所に入れるのを一刻でも早く確かめたかったのと、公開日用の出店で食にありつけることを期待して、空腹のままここに来た。

期待通り、地元国分寺ではないが、東村山の黒焼きそば(500円)を売っていたので、迷わず買って、付近の木の根元に座って食べた。
※:東村山の「黒焼きそば」は、村山産の黒いソースがオリジナル。東京の多摩って区部(江戸・旧東京市)とは違うオリジナル文化がある。今や全国区になった「油そば」も元は多摩オリジナル(区部の私は大人になるまでその存在を知らなかった)。


人心地ついたので、野川水源の大池に向かう。
池の周囲の自然林は赤や黄色に色付いている。
まずは池の南側にある水門に達する(写真:この水門の右下にある暗い流れが最初の野川の姿)。
水門脇には、ここが野川の源流であるという説明板がある。

そもそも川歩きは、河口から水源に遡(さかのぼ)る方向で歩く方が最後に盛り上がりがあってよい。
しかも武蔵野の川は水源が池になっているため、池から最初の川となる水門とさらにその池に注ぐ湧水とで二重にクライマックスが味わえる。

大池から野川の一滴となる水門の先は野川の最初の流れが庭園の境界から西武線・ JR中央線の線路をくぐって、園外で野川として顔を出す。
その庭園の境界内に入るのにこうして「三度目の正直」を経験したわけだ。

ここの大池は人工池というが、鯉や水鳥が泳ぎ、池の先端では2羽の大きな白鳥が池から上がって、来園客の目の前で悠然と歩き回って地面の食べ物を探している(写真:目の前に来たので、カメラに全身が収まりきらない!)。

池から少し離れた所に湧水の看板(一方通行)があり、そこに行くと、国分寺崖線(通称”ハケ”)からの湧水だった。
ここから始まって世田谷で多摩川に合流するまで、野川はずっと国分寺崖線に沿って流れており、その間の支流はもとより水源そのものも国分寺崖線によって生まれたのだ。

池の畔(ほとり)には、ヤマモミジの紅枝垂(べにしだれ)がひときわ鮮やかなオレンジの葉をまとっていて(写真)、皆そこで記念写真を撮る。

カメラを首からぶら下げたまま広場に戻ると、国分寺観光協会のテントから人が出てきて「こくぶんじ写真ウォーク」の応募案内を手に、私に写真の応募を誘ってきた(道行く人全員に誘っているわけではない)。
来園者の中には、望遠レンズをつけた大きいデジタル一眼を抱えている人などがいて、彼らは見るからに写真愛好家とわかるが、私は単なるコンパクトデジカメを首からぶら下げただけなのに、あえてその私に写真コンクールの応募を誘うとは、私の一見平凡そうなカメラが、実はライカのカメラだと目ざとく見つけた結果かもしれない。
確かに、私が下げていたカメラにはライカの赤いロゴがついており、レンズキャップにもLeicaの文字が入っている。
そうだとすれば、その人はそれなりにカメラに詳しいのかも(かようにライカを持つと、どうしてもライカ自慢をしたくなる)。

かくして、源流に達するのに苦労した野川遡行の旅も、6年半かかって、これでやっと終わった。

野川を歩く1に戻る


野川を歩く5:もう一つの水源

2023年04月02日 | 川歩き

多摩川の支流で、国分寺崖線に沿って流れる野川は、二子玉川の合流点から遡ると、
延々と並行する崖を見ながら調布の深大寺の脇を流れ(深大寺そばを2度食べた)、
この川が主人公となる楽しい野川公園を抜けて、国分寺界隈の”はけ”(お鷹の道)への支流を分けて、最後は日立製作所中央研究所内の池に達する。

過去4回に分けて下流から歩いて、歩き残した最後のこの水源の池は上に示した企業の敷地内なので、年に2回ほどの特別公開日でないと部外者は入れない。
4月の第一日曜がその日だというので昨年行ってみたら、コロナ禍のため公開中止だった。→野川を歩く4


今年は、脱コロナ禍の状態だから大丈夫だろうと、一応前日にサイトで確認しようとしたが、
当のこの研究所のサイトにも国分寺市の観光サイトにも情報がない。

まぁ、当日は近くの祥應寺で地元商店街のイベントがあるという情報は得たので、
そっちに立ち寄るつもりで、4月2日の10時過ぎに国分寺駅に降り立った。

早速、昨年通った道を研究所に向かうと、昨年と違って研究所の門が開いている(昨年は、中止の看板のみ)。
ただ、見学客の出入りの姿がない。
門に入った受付で、本日は一般公開しているか尋ねたら、申し訳なさそうに「中止になりました」と答える。
またしてもだ。
遠方から来る者もいるので事前に情報公開してくれないかな(公開は企業の厚意だから、強くは出れない)。


気を取り直してスマホのナビを祥應寺に設定する(ここから9分)。

祥應寺の広い境内はイベント参加の地元の親子連れで満員状態で、
期待した出店の焼きそばの前も長蛇の列ながら、人気がありすぎて、焼きそばが足りず、
近くの店で焼いている最中という(すなわちしばらくありつけない)。
行列のないフランクフルトを買って食べるが、これだけでは昼食にはならないので、ここを後にし、近くのでスーパー中華丼弁当と缶発泡酒を買う。


中央研究所の池の外の南側にある線路沿いの野川の暗渠付近にベンチがあり、
そこに座って、中華丼を発泡酒で流し込む。
この地は水源の池に一番近い野川上の場所なので、この暗渠手前の線路(JRと西武)の南側まで達した昨年よりは、ほんの少し川歩きを進んだことになる。

このベンチ脇に周囲の散策路の地図があり、それによると野川は今では暗渠のまま西側に伸びて「姿見の池」というのが水源になっている。
本来の野川の水源はもちろん研究所内の池だが、水路の長さで見ると姿見の池の方がより上流となる。
しかもここから西武国分寺線の下をくぐって一本道で行ける。


姿見の池は、住宅地内でJRの線路脇にあり(車窓から見える)、その場の説明によると、この付近は鎌倉時代の鎌倉街道の宿場で、そこの遊女たちがこの池で鏡の代わりに姿を映したという。
昭和になって一度は埋め立てられて消えたものの、自然に対する意識の変化で、平成になって復活したという。
自然な雰囲気が残された池には鯉が泳いでいる(写真)。

しかもこの池の東側付近(歩いてきた道)は、古代の東山道武蔵路(相模の東海道と上野の東山道を結ぶ幅12mの公道)が南北に縦断していたという。

この付近は「恋ヶ窪」といって(西武線の駅名にもなっている)、窪地なので地形的に池に入り込む流れがあり、川としてはさらに上流がある。

それにしても「恋ヶ窪」とはロマンチックな地名だが、こういうのは、えてして後世の当て字で、
地名は生活感覚でつけるから本来は「肥(こえ)が窪」などの無粋な地名だったに違いない(鯉が窪という説が有力)。
ただ、せっかくの当て字にふさわしく、遊女の恋にまつわる中世の伝説も誕生しているようで、
ここ姿見の池こそ、恋ヶ窪を象徴する地と言ってよい。


ここから”恋ヶ窪分水”沿いに歩けば西国分寺駅が近い。
散策路としては駅を越えて南の武蔵国分寺跡に続くが、今回は野川が目的なので西国分寺を終点とした。
これで一応、野川を”歩き通した”ことにする。

追記:こう自分に言い聞かせたが、この7ヶ月後、満を持して野川の真の水源に達した☞野川を歩く6


名古屋の堀川を歩く2:納屋橋〜河口

2022年05月05日 | 川歩き

連休は東京との往復以外はどこにも行かなかった。
天気のせいだけでなく、休日の早起きに腰が引けたため。
早起きしなくてすむのは、近場の川歩き。

 GW最後の5日は、名古屋にいるので、昨年末に歩いた堀川(→堀川を歩く1)の続きを歩く事にした。


前回の終点納屋橋から下流に左岸を南下する。
名古屋城の堀から下流は緑色で魚影のない都市の川の様相。
だが横切る橋は、それぞれに意匠が凝らしてある。

納屋橋の下流側の左岸に江戸時代初期に堀川開削を担当した福島正則の銅像がある。

堀川は名古屋城から熱田(名古屋よりも古く、また東海道の要衝)に延びる(名古屋の旧市街を形成する)台地の西端を画する運河で、左岸を歩くと、常に左手に台地の微高地(ゆるい坂)が平行する。
まさに堀川に沿って名古屋が発展したわけで、堀川を歩く事で名古屋という都市を地形的にも実感できる。

少し進むと船着き場があり、中に人がいるので降りてみると、ここから上流の名古屋城までのクルーズ船の便があるという(大人3500円)。
川旅はそれに沿った歩きよりも、川面の水上の船こそが至上である。
だが残念なことに、私が目指すの下流の熱田(そちらの便はならしい)。

ここから木挽(こびき)町にそって歩くが、日陰がない(つばの広い帽子とUVケア済み)。
州崎橋を過ぎると親水広場があって、ベンチにがあるので、ここで座って昼食用のおにぎりを食べる。


大須通りを横断して、さらに南下すると、右手に凝った造りの水門が見えてくる(写真)。
堀川から西に分岐する中川運河の水門だ(閘門形式になっていて、ブラタモリでも放映された)。

さらに南下して、 JRと名鉄の線路をくぐると、右岸に名古屋国際会議場のシンボルタワー、左岸は熱田球場などがある森になり、堀川も川幅が拡がり、さらに右岸も白鳥公園となると、都市内の洗練された優雅な川の景色となる。
この付近は散歩にいい。

国道1号線が横切る所ではこのまま直進する道がないので、右岸に渡り、そこから「堀川千年プロムナード」という気分のいい道を歩く。
置かれた花束も真新しい「空襲跡の碑」を過ぎ、庭園風の散歩道を気分よく歩く(周囲には熱田神宮や白鳥古墳もあり、このあたりは観光地として訪れる価値がある)。


橋を左岸に渡り返して、熱田の「七里の渡跡」に着いた(写真)。
ここは本来の堀川の終点すなわち河口で、昔はここから東海道の海路が桑名に向う”渡し”の出る海岸だった。
現在では埋立てが進んで、新堀川との合流点となり、新しく伸びた堀川は埋め立て地の先、現在の名古屋港に延びている(写真の中央)。
納屋橋からここまで90分。
無人の休憩所(自販機)とトイレがある。
陸地側の熱田側には古い旅籠家(丹羽家住宅)が残っている。


現在の堀川はここから名古屋港まで延びているので、新堀川側の内田橋を渡って、再び延長された堀川の左岸を歩く。
ここからはさらに広くなった川には船が係留され、右岸には小型船の造船所が並ぶ。
そして川も緑色に茶色が混じり、海に近い産業用の河川の風貌となる。

新幹線の鉄橋を過ぎ、国道23号線の陸橋を通って右岸に渡り、さらに南下して、名古屋港の公園(堀川の河口部)に達する。
ここは名古屋港だが、周囲は埋立地で工場が建ち並び、海(伊勢湾)らしい景色からは遠い(東京港も同じような感じ)。
七里の渡からここまで70分。

名古屋港は広い公園があり、バーベキュー場もあり、テントを張っている家族連れもいる。
さらにその奥には、シンボルタワーのポートビル・博物館、南極観測船ふじがあり(写真)、その奥には広大な名古屋港水族館がある。
ポートビルからは金城ふ頭にいく船便もある。
ポートビルの休憩室でアイスクリームを食べ、南極観測船ふじを見学した(300円)。
今回は堀川歩きが目的なのでこれで帰るが(地下鉄の名古屋港駅が近い)、名古屋港水族館や船便を含めると、名古屋港は一日使って楽しめる空間だ。

久しぶりの長距離歩行のためか、両脚の殿筋が痛くなった。
自宅に帰ると体重も減っていて、いい運動になったようだ。


野川を歩く4:不動橋~水源出口

2022年04月03日 | 川歩き

国分寺崖線に沿って流れる野川は、多摩川との合流点(二子玉川)から3回に分けて遡上し(→野川を歩く3、水源に近い上流部を歩き残していた。
なぜならその水源は国分寺市の日立製作所中央研究所内にあり、4月の第一日曜か11月の第三日曜の年に2回の公開日でないと部外者は入れないため。
今日がその日だったので、雨の中、国分寺駅北口からほど近い中央研究所に向かった。
人の出入りがない入口には、看板があり、コロナ禍によって(おそらく3年目の)今年も「開放は中止」と記されていた…


水源はまたのお預けとなった。
仕方ないので、歩き残した短い上流部をやることにする。
まずはその前に駅南口近くの蕎麦屋で腹ごしらえ。

前回は、国分寺駅南方の不動橋で終わったので、今日はそこを起点とする。
不動橋は、石造りの歩行者専用の橋で(写真:桜の奥が橋)、橋の袂(たもと)に、橋の由来となる不動明王の字が彫られた石塔と青面金剛・三猿の庚申塔が立っていて、説明板もある。

肝心の野川は、国分寺市域内では邪魔物扱いされていて、住宅地の中を人と接することなく人工的な造りで細く流れている。
川沿いの道がないので、川に一番近い道路を進み、川を渡る橋だけが川との接点となる。
水源に向かう最後の橋は押切橋といい、そこには「野川同志会」による野川の昔の風景などの掲示がしてある。
邪険に扱われている野川だが、それを愛する人たちはいるようだ。
そもそも、この付近の町名は「泉」という。


さらに住宅街の奥に進み、中央研究所内の水源から、中央線の線路をくぐって初めて川として顔を出す所が見える場所に達した(写真:走っているのは西武国分寺線)。

ここが野川を見る最奥地。

対岸ではどこまで行けるか探ってみたら、ここよりもう少し先に野川の看板が立っていたが、私有地の庭先なので入れない。
これが今日の限界。


残すは水源のみとなり、これは次の機会(来年?)にするしかない。

国分寺駅に戻り、時間があるので、初めて単線の西武多摩湖線に乗って(国分寺駅は西武線が2本も乗り入れている)、萩山で西武新宿行に乗り換えて帰った。

●次回→川を歩く5
●「野川歩き」最初から:→野川を歩く1


境川を歩く2:藤沢から河口・江の島

2022年02月23日 | 川歩き

武蔵と相模の国境(神奈川県内)を画した境川を歩く第2弾(前回は町田から上流方向→境川を歩く1)
今回は中流域をすっ飛ばして、藤沢から下流の河口部を歩く。

一般的に、河口部は源流部とともに”川歩き”のクライマックス部分といえるが、東京などの大都市部の河口部は、濁って淀んで死んだ川になって感動どころか気分が沈んでしまうため、都内では河口を起点に源流に向かって歩くようにしている。

境川は、神奈川でも川崎・横浜の都市部から西にはずれて流れ、河口は東京湾ではなく太平洋に開いた相模湾に注いでおり、しかも河口の先、延長上に江の島がある。
江の島はほとんど陸続きの島のため、古来から普通に行き来があり、鎌倉に近いこともあって歴史を刻んでいて、今では”湘南”の起点として海水浴やマリンスポーツの地となって単独で観光地となっている。
もちろん私も過去幾度も訪れたことはあるが、せっかくなので久しぶりに島も堪能したい。


歩く起点の藤沢までは交通費節約(片道235円分)を優先してJRではなく小田急で行く。
小田急沿線の歩きでは、駅に隣接する「箱根そば」で歩き前のエネルギーを充塡する。

駅から東に進み、大道橋という橋で境川に達する。
街中の川なので両岸はコンクリ壁だが、流れもけっこう速く、水は澄んでいる。
ここから川の右岸沿いの歩道を南下する。 ※:上流から見て右側
ここの歩道も桜の並木になっていて、一般的に”川歩き”は桜の季節がベストだといえる。

河口から4kmという標識があり、海抜高度も記されている(この先0.5kmごとに標識がある)。
川には鯉が群れていて、鴨などの水鳥もいる。
川沿いにずっと歩道があるので、川歩きとして楽しい。
時折、川を横切る道路を横断するが、いずれも車が途切れたタイミングで、立ち止まらずに渡ることができた。

江ノ電(藤沢に向かう)が走る鉄橋をくぐると、道沿いの木々は松になり、川の鳥もカモメになって、海が近いことを知らせる。※松は潮風に耐えられるので海岸は松林ばかり。

行く手に江の島が見えてきた(写真:中央やや右奥のタワーが目印)。
川の対岸の奥の丘には龍口寺(鎌倉腰越)の仏舎利塔も見えてきた。

行く手の江の島が大きくなり、川沿いの家にサーフボードが立て掛けられるのを見るようになると、小田急の「片瀬江ノ島」駅は近い。
※この地では、江の島、江ノ島、江島表記が混在している。
駅前で左折して、もう河口と言っていい弁天橋を、観光客と一緒に渡る。
ここまでで約1時間だった。


観光案内所の脇からいったん地下に下って(道路をくぐって)再び地上に出ると、江の島に渡る道となる。
私の気持ちはまだ境川にあるので、江の島に向かう観光客の行列から外れて、境川の河口部の左岸に向かう。
ここからクルーズ船(1人1000円)が出て、江の島付近を一周している。
乗ってみたいが、1人客だと乗りにくい(かといってカップルと相席になるのもどうも…)。
実は江の島に行く遊覧船もあるのだが、残念ながら今は運休中。
境川左岸の突端近くまで行き(そこから先は立入禁止)、境川歩きは終了。

ここから江の島弁天橋に移って、境川の河口を真横に見ながら、江の島に向かう(写真:右中段が河口)。


江の島に達した先は土産物屋と食堂が並ぶ一本道で、そこを抜け、石段を上がると弁天が祀ってある江島神社(辺津宮)。
500円払ってここだけにある裸弁天と定番の八臂弁天を拝む。
ここの参拝客は皆、静かに合掌し、柏手を打つ人はいない。

弁天は(今でこそ維新後の)神社に祀られているが、本来は仏教に属するインド由来の神(サラスバティ)であるから、少なくとも神道神ではないので、参拝は神式より仏式の方が妥当といえる。
なので、参拝客の”妥当”な所作に感心した。
またここは弁天と表記しているが、ご本人が琵琶を弾いているように、本来は芸能神なので、弁天が正しい(元のサラスバティもビーナというインドの弦楽器を弾いている)。

私はこの神社で弁天の御影を買う(八臂弁天のみ:500円)。

ここから先の道には、エスカというエスカレータもあるが、今日は歩きが目的なので歩いて坂を上る。
中津宮を巡って、タワーのある高台(江の島の最高点)に出て、下りに入った所にある江の島大師という真言宗寺院に入る。
靴を脱いで本堂に入り、本尊の不動明王を参拝する(不動明王の印を結んで、真言を唱える)。
道沿いには、おいしそうな海鮮料理の食堂が並ぶ。
今回は川歩きが目的なので事前に箱根そばを食べたが、江の島を目的にするなら、こういう店で食べたい。

「山ふたつ」という地名の江の島を二分する断層部に出ると、南の海側に関東大震災で隆起した海蝕台が見える(写真)。
ここから見るそれは、幼い私を夢中にさせた「キングコング対ゴジラ」の映画で、キングコングが棲むファラ島の上陸場面のロケに使われた、忘れることのできない風景。
映画では、今私が見ている場所はファラ島の奥地に当り、私の背後にキングコングが棲んでいるのだ。
さらに映画では小山のような大ダコ(本物の蛸が出演!)が上陸してこの地にあった小屋の島民を襲うが、さらに巨大なキングコングに撃退される。


奥津宮と昔はなかった龍宮を巡り、石段を下って島南部の隆起した海蝕台に降り、
さらに進んで、江の島の岩屋に入る(500円)
ここが江の島(弁天)の”秘所”で、最も神聖な場所。 ※:推理作家松本清張の解釈
一番の奥地には、あえて気分がでるようにと蝋燭の灯火を手にして進む。
ここは波の侵食を奥まで受けた所が、その後隆起して海水が抜けて洞窟になったもの。
洞内には弁天や観音などの石仏が並ぶが、いずれも女性を模している(写真は弁天)。
ここを訪れたという弘法大師は伝説だとしても、源頼朝、北条時政、そして一遍上人も来ている(江戸時代にはもう観光地になっていた)。

ここが到達点で、あとは往路を引き返す。
途中、海蝕台で潮だまりを見て、高台のサムエル・コッキング苑に200円払って入って、売店でコップの周囲をぐるぐる回るストロー付きのコップを2人の姪向けに購入(このコップここでしか見たことがない。これを買うのも目的だった)。


2つの弁天橋を渡って小田急の片瀬江ノ島駅に達する。
駅のコンビニで、江の島名物の蛸の丸焼きせんべい(400円)を2枚土産に買った(映画の大ダコを思い出す)。

江の島はただ島内を歩いただけだが、往復して3時間かかった。
それだけ観光地として充実しているということ。
ここに来るなら、ストイックな”歩き”の延長ではなく、遊覧船で渡って、しらす丼を賞味し(できたら江の島ビールも)、富士を眺めながら温泉に浸かれば、さぞ充実した観光となる(サムエル・コッキング苑では夜のイルミネーションもきれいらしい)。
観光に足りなければ、江ノ電に乗って鎌倉に行くのもいい。


名古屋の堀川を歩く1:取水口〜納屋橋

2021年12月19日 | 川歩き

帰京も温泉旅もせず、名古屋に留まった本日の日曜。
部屋の大掃除は先週済ませたので在宅での用事はなく、また買い物の用事もないので、ここはひとつ”川歩き”の名古屋版をやってみよう。

名古屋に来て30年にもなるが、週末は上記理由で不在が多いため、栄・大須の繁華街以外にはめったに足を運ばない。
なので恥ずかしながら、いまだ”名古屋知らず”のままの状態。
もちろん、名古屋の川歩きも今回が初めて。
最初に歩く川は選択の余地がない。
名古屋の川といえば、まずは堀川だから(「ブラタモリ」名古屋版でも紹介)

堀川は、その名が示すように、名古屋城から港があった熱田に至るまでの水運用の水路として、名古屋城築城とほぼ同時期の慶長15年(1610)に福島正則によって開削された人工河川で、人工河川ながら名古屋が都市として発展する基礎を作った重要な川。
位置的にも名古屋の中心部を南北に縦断する。

ところが、日本が近代化・産業化してから、特に高度成長期には、用無しとなった川は邪魔者扱いされ、ゴミや廃水の捨て場となり下り、堀川も例外でなくなる。

幸い、堀川を見直す気運が生まれ、ドブ川からの脱却が進行中らしい。

堀川を歩く場合、名古屋城と熱田の間の堀川核心部だけなら6km ほどなので1回で歩けるが、地図を見ると、河口はずっと南の名古屋港に伸び、また上流も名古屋城から北東方向に庄内川にまで延びて、総延長は16kmになっている。
タモリ的な歴史地理散策ではなく、こちらは川歩きなので、やはり水源から河口まで歩きたい。
ということで、今回は堀川の前半、すなわち庄内川の取水口から、名古屋城を越えて、中間地点といえる名古屋中心部である納屋橋まで歩くことにする。


さて、わが藤が丘(名東区)から地下鉄・名鉄と乗り継いで、味鋺(あじま)駅(北区)に降り立つ。
ここから南下して、名古屋の外郭を西から北に大きく巡る庄内川を渡る(この川はJR中央線に沿って岐阜県に達し、土岐川と名を変える)。
庄内川の左岸に、「荘内用水頭首工」と大きく記されている場所があり、そこが堀川の取水口だ。
車が行き交う道路の歩道を歩いていると、後ろから自転車のベルの音がし、私を追い抜きざまに、自転車に乗った若い男が邪魔者を見るように私を振り返っていく。
歩道は歩行者優先で、歩行者は自転車に邪魔者扱いされるいわれはないんだぞ。
腹立たしく思いながら、橋を渡りきると、左側に石造りの施設が見えてきた。
明治期に作られた荘内用水元杁桶門だ。
そちらに行くべく、歩道から左折すると、私のすぐ後ろに、ヘルメットをかぶったサイクル集団がゆっくりペダルを漕いでいた。
彼らは交通マナー通り、歩行者優先を守っていたのだ。

この門から堀川が始まり、左岸に川に沿った静かな道があるので、自転車も来ないその道を進む。
川の水は澄んでいて、川藻が揺らいでいる。
川には大きな白いサギがいて、スマホのカメラを向けると、それを察して飛んでいった。

川沿いは立ち入り禁止ながら、公園風に整備されて、草が♥マークに刈ってある。
このように川に対する愛情が見られることで川歩きが楽しくなる。

堀川が暗渠になって、道がせり上がるところに、矢田川を渡る三階橋があり、堀川沿いに三階橋祠がある。
川に対する敬意が表現された場所なので、私もきちんと手を合わせる。


庄内川よりは小さい矢田川を渡ると、それと直交する方向に堀川がまた出現する。
堀川が矢田川を横切っている形になるわけで、それなら堀川は矢田川から始まってもいいのに、水は矢田川を越えた庄内川から流れてきている。
後で知ったが、堀川の開削後、寛文3年(1663)に名古屋城から上流に延長する時にすでに矢田川を越えて庄内川から取水したという。
そして矢田川の部分はなんと当初から暗渠にして川の下をくぐらせたという。
江戸時代初期でそんな高度な工事ができたことに驚いた。


矢田川を越えると、黒川桶門という木造の水門(景観重要建造物)がある(写真)。
近くに地蔵尊と庚申塔もあり、江戸時代の雰囲気を味わえる。
大きな道路と交差する所では、川沿いに降りる歩道で道路の下をくぐる。
その先は、直線の川に沿った広い遊歩道が続く公園の雰囲気。
道脇の説明板によると、この川は明治になって黒川氏によって開削されたその名も黒川で、堀川の上流部である「御用水」という水路は黒川に沿ったこの広い歩道の下だという。
ということで御用水に並んで流れる黒川が、今では堀川の上流部とされている。

緑に囲まれた快適な遊歩道を進むと、地名自体が黒川となり、頭上に名古屋高速の円形のループ橋が見えてくる(写真)。
面白い風景のためか、若い女性とカメラを構えた1団が川沿い降りてきて、撮影を始める(邪魔にならないよう急いで通り過ぎる)。
川べりに湧水もあったりする。


広い大津通りの信号を渡ると、ここからは名城公園、すなわち名古屋城のある公園内となる。
そうなると川は直角に左折して、いわゆる名古屋城のお堀を形成する。
このあたりから先は川の水は緑に濁っている。

堀川自体は名古屋城の西側を南下し、右岸の道路沿いの歩道を進む。
名古屋城天守閣が見える地点で、堀川の左岸に工事中の壁が続く。
全面改築中のホテルキャッスルだ。

名古屋城エリアから南下するも、ここは地名も「丸の内」で昔なら城内。
でも普通の民家が建ち並ぶ。
かくも江戸城(皇居)の丸の内とは大違いなのは、明治維新時の名古屋城の惨状のため。
気持ちを江戸時代初期に戻すと、名古屋城から南に伸びる名古屋台地に丸の内が伸び、さらに名古屋の都市部を形成して熱田まで延びている(熱田が名古屋の南端)。
その台地の西に沿った低地に堀川が開削されているのだ。


五条橋という由緒ありそうな橋は、城下町名古屋が出来る前の尾張の中心地であった清州からもってきた橋で、中山道をつなぐ美濃路の分岐でもあり、さらにその西には円頓寺商店街が見える。
由緒ある商店街なので心引かれるが、今回は余計な買い物をせず、川歩きを優先する。
といってもこのあたりは川沿いがビルで囲まれて道がないので、一本脇に入った普通の道を歩く(近代都市はかくも川から背を向ける)。
高層ビルが建ち並ぶ名古屋駅にほど近いこのあたりはさすがに民家はなく、オフィス街的雰囲気となる。
歓楽街の錦に通じる錦橋を越えると、川沿いに石畳の遊歩道が始まり、右岸のおしゃれな店のオープンカフェの先を歩く。


橋自体もしゃれた造りとなり、本日の目的地の納屋橋に着く。
欄干も凝っていて、上流側の錦橋ともにライトアップされると映えそう(写真)。
納屋橋の左岸には昭和6年(1931)築の洋館(有形文化財)があり、その1階には堀川ギャラリーという写真ギャラリー兼堀川の案内所がある。
ここは名古屋市管理の施設で、中に入ると、床には堀川全域の航空写真が張ってあり、また堀川に関するパンフが沢山おいてある。
それらを見ると、名古屋市はもちろん名古屋市民も堀川を愛して、きれいで楽しい川にしようと盛り上がっていることがよくわかる。
もとより、この施設自体がそれを証明している。
川歩きを趣味とする者としての堀川に対する好印象を所員に話すと、素直に喜んでくれた。

以上、ここまで8km、2時間の歩き。
次回は、ここ納屋橋から南下する。
ギャラリーを出て左岸の遊歩道を錦橋まで戻り、地下鉄東山線の伏見駅から帰宅した。

川を歩く2:納屋橋〜河口


境川を歩く1

2021年12月05日 | 川歩き

境川とは、東高尾の草戸山(東京都町田市)を水源とし、武蔵と相模の国境(くにざかい)を形成して、最後は片瀬川と名を変えて江ノ島の正面で相模湾に消える、全長50kmほどの二級河川。
今でも上流域では東京都町田市と神奈川県相模原市の都県境を形成している。
川自体は小さい二級河川であるが、水源部と河口部に興味をそそられていたので、その両端部は川歩きの候補になっていた。

ある本を呼んでいたら、水源部手前の流域にある”田端遺跡”(町田市)に行きたくなったので、にわかに町田から遺跡のある多摩境までを今回歩くことにした(前の晩にGoogleマップで流域の見所をチェック)。


川歩きなので、家をゆっくり出ても大丈夫で、小田急線で12時15分に町田に降りる。
東京都の南の半島部にある町田だが、八王子や立川並みの繁華街になっている。
小田急沿線なので歩きの前に駅そばの「箱根そば」を食べるつもりだったが、おしゃれな駅ビルには見当たらず、しかたなしに、空腹のまま、JR横浜線の町田駅を抜けてすぐの境川を歩きはじめる。

この川は両岸に徒歩と自転車専用の道がずっと続いているのがありがたい。
町田駅前の境川ですでに都県境になっていて、右岸の神奈川側を歩く。
すぐそばにミニストップがあったので、おにぎり2個と飲物を調達。

川は護岸はされているものの、川べりは草が生い茂り、川底も自然石などが敷かれて、東京区部の3面コンクリの川とは違う。
なので、川べりには白鷺が大小10羽ほどたむろしている。
こんな多くの白鷺(それに青鷺も1羽)がいる川は、今までの川歩きではなかった。
さらに進むと、鯉の群れがいて(小さくても50cm、大きいのは1m近く)、私が護岸の上から川をのぞくと、鯉が寄ってきて、水面に口を開ける(私は餌はやらない)。

境川は、基本は都県境で、南側の右岸は神奈川県相模原市なのだが、ときたま「東京都管理地」という立て札がでてくる。
wikiによると、もともの境川は小さく蛇行していて、20世紀になってからそれを直線に直したらしい。
なので蛇行時に決めた境だと、北側の東京都の領土が直線化した川の南側に達する場所が断片的に残ることになる。
それでなくても二級河川の小さい川なので、もともと都県境という雰囲気がない(東京区部だと埼玉も千葉も神奈川も境はいずれも大河川なので、他県は川向こうという感覚になれる。その意味でも町田はほとんど神奈川)。

川の両側に樹木が増えてきて、自然豊かな雰囲気になってくると、道から川に降りられる親水広場があって、案の定小学生男子が網を手に長靴で川に入っている。
小学生男子が大の川好きであることは、川歩きのたびに実感する(伝説では、川にいる童子を”河童”という)


神奈川側は「古淵鵜野森公園」に入る道があり、その脇にベンチがあったので、腰掛けておにぎりを食べる。
この公園内に、関東ローム層の露頭があるとGoogleマップで知ったのだが、マップには公園内の道は描かれておらず、ネットで調べても場所がわかりにくいという。
川から離れて公園に向うか迷ったが、川歩きを優先して、露頭近くに入口があったら入ることにする。
やがて横浜線が川を渡る橋の手前に公園に入る道があった。
入ってすぐになんと「露頭」を示す道標があり、その通りに進むとすぐに露頭に達した。
説明によると、上層から富士の噴火によるローム層、その下はなんと九州の姶良火山の火山灰、そしてずっと下に箱根山の分厚いローム層がある。
南関東を噴火で埋め尽くしたのは富士山よりもむしろ箱根山で、さらに九州(鹿児島)の姶良火山は、日本に甚大的な打撃を与えたことがわかる。


さらに川沿いの道を進む。
川はゆるいカーブが続き、対岸の町田側は団地が続く。
相模原側のちょっと入った所にある龍像寺は、Googleマップの投稿で石仏があるということだったので寄り道する。
さまざまな観音の真新しい石仏があった(あと釈迦の一生を浮き彫りにしたものとか)。

川にもどって先に進み、近くの「縁切り榎」に寄り道する。
縁切り榎は、南朝の親王に同行する覚悟を決めた武士がここの榎で妻子と縁を切ったという。
その榎はもう枯れていて株だけが残っている。

川は次第にカーブが明瞭になってくる。
桜美林大学入口を過ぎる頃、あらためて地図をみたら、まだ半分ほどしか歩いていない。
のんびり歩きすぎたようなので(むしろ歩程をきちんと計測しなかった)、ペースを上げることにする。

道脇にある上矢部の御嶽神社(木曽御嶽ではなく、武州御嶽)に参拝し、さらに進むと、道は民家の軒先を通る通路のように心細くなるが、なんとか続いていて、さらにその先では、狭いながらも普通の車がやっと通れる道路になる。
腰に鴻江ベルトをしてこうして長距離を歩いていると、左の股関節が痛くなってきた。
これは鶴見川1を歩いた時と同じ。
鴻江ベルトはバランス矯正用なので、これを着けて痛くなるのは、むしろ歩行バランスが悪いためか。


やっと京王相模原線の陸橋をくぐって、川を離れて坂を上って今回の目的地である田端遺跡に到着。

ここは都内ではめずらしい環状列石の遺跡で、そのレプリカが配置されている。
石の配置は、冬至の太陽が丹沢最高峰の蛭ヶ岳(1673m)に重なるようになっているという。
要するに日時計ならぬ、年間”日カレンダー”なのだ。
時刻は3時半過ぎで陽は西に傾いているが、冬至には半月ほど早い。

丘陵を登って隣接する小山白山公園でトイレを借りる。
この公園は、地下に貯水池があるという(境川が増水した場合の対処だ)。
このあたりは多摩丘陵で、そこに大規模な多摩ニュータウンが建設されたわけで、いかにも人工的な街の風情。
昔から人が住んでいたのは、丘陵を下った境川沿いで、そこには古い神社や史跡があった。


京王相模原線の多摩境駅に着いたのは15時40分。
3時間半かけて歩いた距離は13km。
思っていたより長丁場だった。
※:今回、写真は編集前に誤って削除してしまったので、1枚もなし

境川を歩く2:藤沢から河口・江の島


荒川を歩く3:赤羽から彩湖

2021年10月24日 | 川歩き

晴天の日曜、再開した山歩きに行きたかったが、山手線内回り(池袋→渋谷)が運休のため、新宿経由で山に行けない。
なのでこちらも途絶えていた”川歩き”に切り替えて、荒川(河口→赤羽)の続きをやることにした。→荒川を歩く2
ただし東京の川歩きとしては赤羽で終了したので、今回は埼玉の川歩きとする。


自宅から地下鉄南北線で終点の赤羽岩淵で降り、セブンイレブンで昼食用におにぎり1個と100円のフランクフルトを買う(このサイズのフランクフルトが売っているセブンイレブンは貴重)。

広い車道沿いに埼玉県境の新荒川大橋に向う。
前にも書いたが、最近では、東京側よりも川向こうの県側の方が高層ビルが多い(写真:新荒川大橋からの荒川上流側。右が埼玉、左が東京)。
ただしいずれも高層マンションで、住民は東京に通勤・通学する人たちのはず。
今回は埼玉の川歩きなので、その高層ビルが並ぶ埼玉県川口市に入る。

河川敷には舟戸野球場というグラウンドが広がり、その先の川沿いの歩道に達するには遠回りになるので、グラウンドを突っ切ると、案の定フェンスの切れ目があったのでショートカットできた。


荒川の左岸の河川敷の道を上流に向って進むと、「川口緊急用船着場」という所に出た。
ここは緊急時専用の船着き場で、大災害で陸上交通が寸断された場合、荒川の水路を使って、たとえば東京港から埼玉に物資を運ぶ事ができるという(この上流にも同様な船着場が設置されている)。
過去の洪水での水位が電柱の上の方に記されていて、新しいところで平成11年8月の熱低による増水で、荒川の基準面(東京湾よりは1.1m低い)より6.4mの高さ、すなわち今の水面からおよそ5mの高さに達した。

荒川のような大河川だと河川敷はグラウンドや自動車学校などがあり、さらに川との間には潅木が茂っているので、道はあっても川を見ることができない。
むしろ堤防に上がれば川面と周囲の風景を眺めながら歩ける。
ただ日射を遮るものがないのでツバの広い帽子は必須。

行き交う人は、球技や釣り、あるいはサイクリングやジョギングが多く、歩く人は多くはない。
振り返ると、対岸の東京側にスカイツリーが見えてきた。
あの群を抜いた高い建造物が加わると、建物の高さ競争は、一挙に東京側が逆転する。

堤防上に珍しく「桜堤」という木陰があったので、その下に坐ってフランクフルトとおにぎりを食べる。

堤防上の道は川が内側にカーブすると大回りになるので、そういう箇所は河川敷の道を歩く。

荒川支流の菖蒲川の水門を過ぎ、行く手に新幹線の鉄橋が近づく頃に堤防上にあがると、堤防外の下には「中山道戸田渡船場跡」の石碑が見える。


今の中山道である国道17号線の下をくぐり、ボート競技場のある戸田公園に達する。
ここには大学の漕艇施設(合宿所)などがある。
驚いたことに、大阪大学のボート部の人たちがいた。
試合があるのだろうか(長いボートを大阪から運んでくるのだろうか)。

この公園でトイレを借り、再び堤防上の道を進む。
荒川は微妙に屈曲して、そのおかげで河川敷の潅木帯の緑が視野に拡がる。

川の奥には上流域の秩父の山々が拡がっている(写真)。
こういう壮大な風景は街中の小さな川歩きでは味わえない。

戸田ボートレース場の大きな建物を過ぎ、笹目橋を横切ると、川全体が向って右にカーブして、流れは北西に傾く。


ここから荒川本体は左岸の堤防から離れて、その間に彩湖(さいこ)という長大な調整池が入りこむ。
これは荒川の氾濫原を貯水池にしたもので、利根川の渡良瀬遊水池に相当する。

といってもしばらくは、彩湖自体も(立入禁止区域のため)遠くに眺めるだけ。
高速道路となっている国道298号線(東京外環道)をくぐると、やっと彩湖の湖畔沿いの道となる。

令和元年の増水時の浸水高が頭上はるか高い所に記されている(写真:柱中央の白い横線)。
平時では公園にもなっている彩湖一帯がすべて水没したのだ。
そのおかげで、下流の東京の東側の0メートル地帯が水没しないで済んだ。

埼玉はこうして実際にわが身を犠牲にしながら、黙って首都東京を守っている(東京は埼玉のこの度量に感謝すべきだ)

ここから先は湖畔の公園になっていて、多くの人がテント持参で、休日を楽しんでいる。
ボードセーリングに興じている人もいて、海無し県なのにマリンスポーツを楽しめる。

行く手のJR武蔵野線が走っている所で彩湖は終りとなるので、その手前で水辺から離れて武蔵野線の西浦和駅に向った。

ここから先の荒川は、しばらく(熊谷まで)は鉄路から離れてしまう。
スマートウォッチによると歩程は16km、歩数は25000歩に達した。
帰宅後体重計に乗ったら1kg以上減っていた。


鴻巣の川幅を堪能

2020年02月24日 | 川歩き

この時期の連休、出かけるなら開放空間ですごしたい。

”広々とした空間”で頭に浮かんだ場所は、川幅日本一を誇る鴻巣(こうのす:埼玉県鴻巣市)。

埼玉最奥の甲武信岳(2475m〕を水源とする荒川は、奥秩父の山中を下って、秩父を横断し、さらに熊谷から川口までの高崎線に沿って県内を縦断し、最後は都内に入って東京湾に注ぐ南関東一の大河川(この川の都内部分は歩いた)。
荒川は、その名の通り暴れ川で、中流の鴻巣付近で、川に沿った氾濫原(河川敷)がやたら幅広くなって、なんと幅が2537mに達して日本一広い(平成20年に判明)。

そして、それをヒントに、新しい地元名物として「川幅うどん」が誕生した。
もともとこのあたりには、「ひもかわうどん」という幅広うどんがあるのだが、その比ではない幅広さで、こちらも日本一である。
日頃はうどんより蕎麦を選ぶ私だが、このうどんにはぜひお目にかかって賞味したい。

そこで、前日に鴻巣観光協会のサイトから「川幅グルメマップ」をダウンロードして、それを参考に歩くルートを決める。


そして、晴天の今日、 JR高崎線に乗って、11時15分に鴻巣駅に降り立った。
駅西口から南に歩き、最初の訪問先は、人家の中にある、鴻巣御殿跡にあったという東照宮
こちらは敷地内の祠をもってきたので日本一小さい東照宮。

そこからほど近い所に、川幅うどんを出す店の1つ長木屋に達する。
11時半の開店時間前だが、先客が1組店の前で待っていて、その後ろに並ぶと、私の後ろにも人が並んだ。
開店時間になって店に入り、3つある川幅うどんのメニューの中から「川幅御三家うどん」を注文(税抜き920円)。
なんでも、鴻巣が誇る3つの日本一、水管橋・お花畑・雛壇ピラミッドを、ちくわ天・彩豆腐・卵焼きで模したという。

さて出てきた川幅うどん(写真)。
麺が”面”になっている。
うどんのラザニアだ。
でも軟らかさと歯触りはうどんそのもの。
ちゃんと箸ですくえる。
見た目が尋常でない割りに普通においしかったし、話題性抜群。
名物開発の成功例といえる。


この地に来た目的の1つを早速終え、さらに街中を進む。
浄土宗の勝願寺(真田信重とその母(信之妻)・小松姫の墓がある)を詣で、観光協会が経営する「ひなの里」に入る。
ここは鴻巣オリジナルの物産が販売されている。

そういえば、先日の草加もそうだったけど、埼玉の街って、地元の物産を販売する店舗をきちんと構えていて、観光で訪れる者にとって、いわゆる有名観光地の無個性な土産(まんじゅう、スイート)とはちがう、個性的な土産物を買えるようになっている所が多い。

埼玉って、観光資源に乏しいといわれてるが、普通の市がオリジナルな観光資源を大切にしている姿勢は頼もしいし、観光に来た者には思いがけないグッズに出合えて嬉しい。

ではここ鴻巣の物産はというと、まずは雛人形だという。
人形というと岩槻(さいたま市)が有名だが、雛人形に関しては鴻巣が岩槻を凌駕しているらしい。
それと人形作りの関係で、”赤物”という赤く塗った縁起物も特産で、正月に我が家でやる手で口をぱくぱくあける獅子頭もこの地の産という。
それにもちろん「川幅うどん」もあり、さらにそれを摸した「川幅せんべい」まである。

家族の土産に川幅うどんを人数分買い、口をあける獅子頭も来年の正月用に買った。
このようにかさばる土産を持ち帰る予定だったので、物がたくさん入るトートリュックで来ている。


早めに土産も買ったので、本来の目的である荒川の河原に向う。
2kmほど歩いて大木が三本並んでいる観音堂を巡って、いよいよ広い河川敷に降りる。

視界のほとんどを占める日本一の河川敷の広さはさすが(写真)。
幅が2500m余ある河川敷だが、中を流れる荒川そのものの川幅は30mたらず。
広大な河川敷を東西に横断する細い一本道を歩く。

道のまわりは、最近まで湿っていた感じのヒビの入った乾いた泥が続く。
どうやら昨秋の台風で荒川が大増水し、この河川敷一杯に水が広がったようだ。
すなわち、その時は実際に川幅が日本一の2537m達したようだ(見たかった!)。
今だにその泥が干からびた状態で残っているわけだ。
でもそのおかげで、東京を含む下流一帯が浸水被害から免れた(荒川が東京で氾濫すると、銀座を含め0メートル地帯が大規模に冠水する)。

ある埼玉本によれば、同じ武蔵国の首都東京を背後から支えていることに埼玉の自負があるという。
この日本一の河川敷はそれを象徴している。

晴天の上流(北)側には、群馬の赤城山と雪を頂いた栃木の男体山が並んでいる。
西側には、秩父山系から奥多摩(東京)の山が続くが、富士は見えない。
風景的にはここは北関東。

河川敷を東から横断し、西端にある川端地蔵尊に達し、西端に沿って北上して、歩道のない車専用の御成橋(県道東松山鴻巣線)を横断して、橋の北側の河川敷に降りて、今度は東に向う。
すなわち、最大川幅を謳う御成橋をはさんで、最大川幅を東→西、そして西→東と往復するわけだ(それだけで5km歩く)。


御成橋東のたもとの「川幅日本一の碑」を確認し、ここからは荒川から離れて北上し、源経基館跡に行く。
経基といえば、下総を拠点に関東を一時制覇した平将門の乱を治めた清和源氏の武士。
埼玉は、かように武士黎明期の史跡が多い(武蔵は武士のふるさと)。


ここから東に進んで高崎線の線路をくぐって、最後の訪問地である鴻神社に着く(写真)。
鴻巣という地名発祥の地で、地元の鎮守。
私は、観光で来た地の鎮守を、挨拶として訪れることにしている。

”鴻”にちなんでコウノトリが西洋風解釈でアピールされて、子宝・安産祈願を旨としているため、若夫婦の参拝が目につく。
その事項に無縁な私は記念にコウノトリの土人形おみくじを買う。

ここから駅に向って歩き、駅前のショッピングモールに入ると、丁度「鴻巣びっくりひな祭り」が開催中で、雛人形のピラミッド(31段)が飾ってあった(これも日本一)。
駅に15時15分に着いたので、丁度4時間で一周したことになる。

2種類の”川幅”を堪能し、貴重な土産も買い、丁度時期的に雛人形の祭りも見れて、日本一がいくつもある鴻巣を満喫した。
埼玉って、派手な観光地こそないが、日帰り旅に向いたところがいくつもある。


鶴見川を歩く2:鶴川〜源流

2019年05月04日 | 川歩き

連休後半は山に行くつもりでいたが、連休前半で朝寝坊する癖がついてしまって早起きがつらくなり、
また近場の炊(かし)き登山の対象も見当たらないので、
行き先を川歩きに切替え、3月末の鶴見川歩き(鶴見川を歩く1:河口〜新横浜の続きをやることにした。

順序でいけば、前回の終点・新横浜からになるのだが、中流域の20kmあまりは、地図を見ても見所がなく退屈することが目に見えている。
別に川歩きを仕事にしているわけではなく、好きでやっているのだから、
誰にも気兼ねすることなく、歩きたいと思う区間を歩けばいいはず。
なので中流部は飛ばして、流域の1/4にあたる上流部に行くことにした。

この区間には別の理由で訪れたいと思っていた「小山田」(甲斐武田氏家臣・小山田氏の名字の地)があり、しかもそこにはちゃんと鶴見川の源流といわれる場所がある。
なにもない中流部とは魅力に大きな差があるのだ。 


というわけで、今回の起点である小田急線の「鶴川」(東京都町田市)に降り立つ。
この駅名(地名)は、すぐ南を流れる鶴見川に由来しているという。
小田急線の駅前にある「箱根そば」でエネルギーを充填し、
踏み切りを渡ると、もう鶴見川に出る(河口から32kmの地点)。
鶴見川は、ここから源流まで東京都内の町田市の川となる。

下流と同じく両岸に歩道があり、川に沿って歩ける。
下流とちがうのは、水が透明で、鯉が泳いでいること。
こういう川だと歩くのが楽しい。

日差しが強いのでつば広の帽子をかぶり、GPSをオンにして、首から下げたiPadminiのGoogleマップを見ながら、
左岸ときには右岸を上流にむかってどんどん歩く。
ときどき川面に降りれる親水区間が設けられており、町田市の鶴見川に対する姿勢を評価したい。
河面に降りると、鯉が寄って来て、また鳩も降りてくる(ただし私は何もやらない)。

川畔のレストラン「霜月亭」を過ぎると、右手の高台に自由民権資料館の立派な建物が見えてくる。
以前そこを見学した折りに、ここの鶴見川を歩いて、とてもいい気分になった所。
その時は、進行方向に丹沢山塊が聳えていたが、今日は晴天だがあいにく雲が多くて、山が見えない。
それでも両側が丘陵の伸びやかな谷地形で、緑豊かな川べりなので、気分よく歩く。

広い車道の鎌倉街道を横断すると、鶴見川にまたがって鯉のぼりがたくさん吊り下げられている〔写真)。
川の両側には人が繰り出し、道が広い左岸側では出店が並んでいる。
地元野津田の恒例の行事らしい。
両岸だけでなく、川の中洲も草原状になっているので、家族連れがくつろいでいる。

川歩きをしていて一番うれしくなるのは、地元の人たちが川を愛し・親しんでいる姿を見ること。
川と人が一緒になって幸せな空間をつくっていること
(逆に悲しくなるのは、川が邪魔者扱いされ、無視され、うち捨てられていること)。
うれしくなった私は、出店でフランクフルトを買い、地元の人にまじって、ベンチにすわって食べる。
出店に並んだ主催者の掲示を見ると、この行事は今年で最後になるという。
なんでも主催者が高齢になり準備がきつくなったことや会場確保のための地権者との交渉がうまくいかないことなどが理由だという。
少子化によって、鯉のぼりも集まりにくいのではないか。 

この付近の鶴見川は、田園地帯をうるおす自然な姿の川になって、地元の人たちの川遊びや釣りの場となっている。
南北朝の合戦で死んだ武士の鎧が重なって堰になったという堰堰跡は公園状になっていて、
めずらしく小学生の女の子(たいていは男の子)たちが、整備された用水路で遊んでいる。 

こういう幸せな空間は、川歩きの一部の区間に限られることもわかっている。
図師という所に達すると、川沿いの歩道そのものがなくなった(ここから上流にはまったくなし)。
仕方なしに一般道(芝溝街道)に出て、業務用リカーショップでトイレを借り、川に一番ちかい(付かず離れずの)道路を進む。


川の方角も、今までは南南西にまっすぐ流れていたのが、北西方向に切り替わる。
いよいよ水源となる町田市の北限を画す丘陵地帯に向うのだ。

甲子園によく出る「日大三高」入口をすぎ、川に一番近い道なのに急坂の上り下りをするようになる(谷が狭くなってきたのだ)。
やがて、川沿いの平地に神社が現れる(写真)。
小山田神社だ。

そう、鶴見川の源流部は、小山田の里でもあるのだ。
小山田神社は、無人だが、社殿の背後には数々の神像が並んでいる。
この付近の風景は山里そのもので、とても東京都の市部だとは思えない
(町田は実質神奈川だともいわれているし、横浜市を潤す鶴見川の上流部だけ東京というのも不自然といえなくはない)。 

ここから、少し鶴見川から離れて、北側の丘陵地帯(実質的な都境)に入った所にある大泉寺(曹洞宗)に向う。
りっぱな参道が伸び、その脇に神社やお堂がある。
山門も立派で、山門奥の石塔には、内部に達磨を彫った珍しいものがある。
境内も広いが、曹洞宗固有の見物客を歓迎しない雰囲気が強く出ていて※、
本堂の参拝もそこそこに、裏手の高台を伺う。
寺の裏手に小山田城趾があるらしいのだ。
ただ「檀家以外立入り禁止」の立て札を越えては入りにくい。
※総門の写真をあとで見て気づいたのだが、「山門不幸」という札が立っており、住職が亡くなって喪に服していたようだ。 

本堂脇にあった小山田高家(南北朝時代に新田義貞についた武将)の顕彰碑を読んでみたら、
裏手の中腹に三基の宝篋印塔があり、それが小山田高家らの墓らしいと書いてある。
ぜひそれを見たいと思って、本堂裏の中腹・卵塔(歴代住職の墓)が並んでいる所に卵塔以外の塔が見えたので行って見ると、
期待通り、まさしく三基の宝篋印塔だった(写真)。
前日のネットで小山田城趾の記事を見ても、この宝篋印塔に言及したものは見当らなかった。
実にもったいない話。
実際、私以外に若い男の来訪者が複数いたが(たぶん城趾目当て)、この宝篋印塔に達したのは私だけ(顕彰碑読めばいいのに)。

こうして念願の小山田氏の墓も詣でたので、満足して寺を後にする。


川に近い道路も細くなり(路線バスは走っている)、ゆるい上り坂が続く。
路線バスの終点を過ぎ、さらに細い車道(車はけっこう頻繁に通る)を進み、左にあるバイオトイレ(もちろん借用)をすぎると、
右側に勢いよく水が出ている池に達する。
ここが「水源の泉」だ(写真)。

以前は周囲にいろいろ看板があったようだが、私有地であるため今はすべて撤去されており、
Googleマップで確認しないとわからない状態。
いちおう、公式な水源に到達したことになる。

といっても、この池に水を供給している流れが存在している。
地形的にも尾根筋とはまだ距離がある。
なので更に奥の町田北限の丘陵のふところに入り込む。
だが、町田市による自然保護のための「立入り禁止」の立て札に阻まれる。

地形図をよく見ると、沢筋がもっとも長く伸びているのは、尾根筋を縦断する南多摩尾根幹線道路に向う狭い車道に沿った谷。
なのでその谷に沿った車道を進む。
気がつくと空は暗くなり、雷鳴もする。
その車道が上る先には、リサイクル工場のような大きな施設があり、道路脇であるため、谷にはゴミが散乱している。
地形的な水源地は、残念ながら自然環境は跡形もなかった。
鶴見川の”水源”は人の届かない所で保ってもらいたい。


細い車道が尾根に上がったところで並行する南多摩幹線道路に入り込み(歩行者だけ可能)、
ここから北に下って最寄り駅の京王線の南大沢に向う。
ここからは八王子市だ。
空は午後三時とは思えないほどに暗くなり、雷鳴の下、大粒の雨が落ち始めた。
一応傘は持参している。
大雨が始まると同時に南大沢駅に到着した。 

帰り、京王線の車内から外は土砂降りだったが、文京区の自宅付近は雨の痕跡はなかった。
ただし空には不気味な乳房雲が垂れ下がって(写真)、発達中の積乱雲の真下にいることがわかった(この後、東部で雹が降った)。


鶴見川を歩く1:河口〜新横浜

2019年03月31日 | 川歩き

里川歩きは、山歩きとちがって、早起きも装備もいらず、ふらりと出かけられる。
それでいてけっこうな長距離歩行になるので、休日の運動としては充分な効果。

川さえ選べば、ルートは川が決めてくれる(川沿いに歩くだけ)。
あとは、上流からか下流からか、右岸か左岸かを決めればよい。
今までの経験から、河口から始めて、水源をゴールにしたい。
右岸か左岸かはどちらに立ち寄る箇所があるかで決める。

都内の名だたる川はだいたい歩いたので、いよいよ他県に足を延ばそう。
以前、町田あたりで鶴見川を一部歩いたら、川沿いの歩道が整備され、
進行方向(上流側)に丹沢山塊が正面にひろがってとても気分がよかった。
ここはひとつ正式に鶴見川を歩いてみたい。

鶴見川は、その名の通り、横浜市の鶴見を河口とする川で、水源は東京の町田の多摩丘陵の奥。
全長は45kmもあるので、4回ほどに分けて歩くことになろう。


1回目の今日は、河口から新横浜あたりまで。
まず京浜急行の花月園前で降りる。
住宅地なので商店街は日曜が休み。
なので、歩く前の腹ごなしは、コンビニで買うおにぎりしかない。

おにぎり2つを入れた白い袋を持って住宅地を抜け、1mほど高い鶴見川の堤防に上がると、
河辺が白い干潟になっている(写真)。
ここは鶴見川河口の干潟で、白いのは全部貝殻。
河口の先には(写真中央)埋立て地が海に伸びているが、本来の河口はこの干潟で、
鶴見川の道程標もここが河口として出発点になっている。

大都市の河口の例にもれず、周囲は大きな建造物が囲んでいるが、
干潟側は住宅地で、人々の憩いの場になっている。
河口に干潟がある(残っている)川は、今までなかった(神田川、隅田川、荒川、渋谷川など)。
河口だけでも鶴見川は個性を発揮。 

まずは堤防の石段に腰を下ろし、水辺で遊ぶ子供たちを眺めながら、おにぎりを口に入れる。
干潟の上流側には釣り船がずらりと繋留されている。
川崎港と横浜港の間ながら近くに魚河岸もあり、魚が獲れるようだ。

さて、ここから鶴見川の右岸(下流から歩くと左側)を歩く。
鶴見川は、両岸の川べりと堤防上の両方に歩道がずっと続いているので、
ルート選定は楽だし、ずっと川を見ていられる。
1キロごとに道程標があり、ジョギングやサイクリング、犬の散歩の人たちとすれ違う(ずっと歩きそうな人はいない)。

さきほど乗ってきた京急線の鉄橋をぐぐると、左側に「鶴見川水難者慰霊供養塔」がある(写真)。
石塔は昭和5年に建てられたもので、さほど古くない千羽鶴(写真左の縦長ビニール袋)が奉納されていた。
特別な水害でなくとも、鶴見川にはよく水死体が上ったそうだ。 
だからこういう慰霊塔は珍しい。

東海道線などのJRの鉄橋をくぐると、対岸に横浜市の漕艇場がある。
さっきから、川上を漕艇用のボートが行き来していた。

第二京浜の道路を横断し、病院脇の下末吉公園では、テントを持出して花見の宴。
左側の自動車教習所越しに台地が見えてくる。
下末吉台地だ。
南関東の地層として有名な「下末吉層」由来の場所。
末吉橋を過ぎた所で、あえて一旦川から離れて、左奥の高台に向う。
そこには甲(かぶと)塚古墳があり、6世紀の古墳の上には太田道灌由来の兜塚があり、
さらに奥に上ると浅間神社がある。
神社のある稜線をさらに登ると、東芝のグラウンドの向こうに横浜中心部の高層ビル群が望める。

また川に戻り、堤防上の道を進む。
ここまでは、河辺の歩道が川に接していたが、
だんだん川と堤防の間に河川敷の空間がひろがりはじめ、草原や公園になっている。

新幹線の鉄橋をくぐると、河川敷が野球のグラウンドになっていて、
堤防の外側に公衆トイレがある(写真)。
これ幸いと男子トイレのドアをあけると、ドアには施錠用のでっぱりが出たままになっているので、
ドアノブ内を回して出っ張りを引っ込めてドアを閉め、
用を足して(ちゃんと手洗いもできる)ドアのノブを回すと、空回りしてドアが開かない。
トイレに閉じこめられた状態になったので、
あせってノブを回しているうちになんとかドアが開いた。
最初の状態にしてある理由が理解できた。
このトイレを使う時は、以上に注意。


東急東横線の鉄橋をくぐると、また左側に大きな自動車教習所が現れ、
こちらはバスやトラックなどの大型車にも対応している。
ここから先は、道も風景も変化のない単調な歩きとなり、
いいかげん退屈してくる(山道のような微妙な変化がないのが里川歩きの欠点か)。

川が左に大きく曲がり、川幅は幾分狭くなり、河川敷が自然状態になって、今までの下流とは様相がちがってくる。
行く手に新横浜の高層ビルや日産スタジアムの白い屋根が見えてくるが、かなり遠い。

左側が公園や浄水場になってくると、桜並木がずっと新横浜まで続く(写真)。
残念ながら花はまだ二分から三分咲きで、裸の枝の方が目立っている。
数日遅ければ、壮観のフィナーレとなったことだろう。

逆に今日は、退屈な風景の延長でしかなく、さらに左脚の付け根・臀筋が筋肉痛になってきた。
左脚ということは山の下りで痛くなる腸脛靱帯と同じ側。
実は、腰にコウノエベルトを巻いているので、アンバランスになった殿筋が鍛えられているのだ。
腸脛靱帯が痛むのも殿筋の弱まりで骨盤がふらつくためと言われている。
だからこの左臀筋の筋肉痛は、私にとって必要な痛みかもしれない。

道程標は河口から12kmを示す。
3時間はゆうに歩いた(時速4km)。
といっても山だったら3時間程度の歩きは、軽いハイキングで物足りないくらい。
平地の川歩きなのに3時間で辛くなるのはどうも解せない。
はっきり違うのは、歩く楽しさは断じて山(の中)が勝っていること。 

というわけで、身体的にも気分的にも限界にきたが、
次回は新横浜の1つ先の駅の小机から出発したいので(小机城趾立ち寄りのため)、
新横浜側にある、太田道灌が小机城攻略のために陣を敷いた跡地は今回まわっておきたい。

新横浜駅とは正反対の「ワールドカップ大橋」という自動車用の広い道を通って
鶴見川左岸に今回はじめて渡って、亀之甲山陣跡に達した。
実際にはそれを示す標識など見当たらなかったが、
ほぼ同じ場所の浅間神社からは、鶴見川の向こうの小机城趾がよく望めた。 


ここから、駅まで歩くには左臀部の筋肉痛がつらいので、丁度来た路線バスで新横浜まで乗った。
新横浜は今では都会の一角をなし、バスも渋滞に巻きこまれた。

新横浜駅の利用は、ラーメン博物館のオープン時以来で、横浜土産に崎陽軒の”シウマイ”(真空パック)を買う。
JR横浜線はホームも電車も満杯で、横浜市内の従来からの交通機関はキャパシティを越えている感じ。
菊名で東横線に乗り換え、武蔵小杉で鈍行の都営地下鉄に乗り換えると、やっとゆったり坐れた。

次回は、小机からということになるが、小机城趾から先は立ち寄る名所もなく、退屈しそうだ。

さて、5月4日に歩いたのは→鶴見川を歩く2へ 


荒川を歩く2:北千住から赤羽

2018年10月08日 | 川歩き

連休最後の体育の日。
昨日と打って変わって気温が低く曇天。
これって絶好のウォーキング日和。

実はスクワットのやり過ぎでか、階段の昇降時に両膝が痛むので、山には行けない。
となると次善の選択肢は平坦な”川歩き”となる。

そして選択肢として頭に浮かぶのは、以前に河口から歩いて足立区の千住まで歩いた荒川(→荒川を歩く1)と隅田川(→隅田川を歩く1)。
この両河川、(河口から見て)千住から赤羽まではほぼ隣接して流れている。 
しかも赤羽にある岩淵水門は荒川と隅田川の分流点。 
なので両者をひとまとめに歩くつもりで、荒川の前回の終了点・北千住から歩くことにする。
隅田川は不必要に湾曲してしかも河川敷がないので、荒川の方を選んだ。


さて、前回の終点千住大橋から歩くため、JR北千住駅に降り立つ。
東京東北部一の繁華街なので、まずは地元の店で腹ごしらえのつもりでいたが、手ごろな蕎麦屋が見当たらず(飯やラーメンでなく、軽く蕎麦でいい)、旧・日光街道の宿場通り(都内でも珍しく宿場の風情が残っている)を進んでいくうち、由緒ある名倉医院(各地に支院があり、母も世話になった)の本拠地を過ぎると、荒川の堤防(前回の終了点)に達してしまった。
しかたないので、空腹をかかえて歩き始める。
この先、川沿いにコンビニなどないだろう。 

荒川は、都内を流れる川では一番の大河川で、河川敷が広く、(少年)野球のグラウンドが続いている。
河川敷の道は、川には近いが、川べりとの間には潅木林が続いているため川はほとんど見えない。
むしろ堤防上の道の方が川を見下ろせ、対岸も上流も見渡せて、見晴らしがいい。
といっても、川も河川敷もそしてその周囲の景色もいくら歩いても変わり映えしないのが辛い。

歩きはじめて1つめの橋である千住新橋(現・日光街道)に、足立区立中央図書館がある立派なビルが堤防上の道から入れるので、レストランがあるのを期待して行くと、最上階にあった。
川沿いで地元の店で蕎麦(たぬきそば)を食べれて満足。


トイレもすませて再び歩き出す。
この付近は、下流と同じく、川面よりも堤防外側の住宅地の方が低い(写真:左が堤防下の住宅地、右の白っぽい線が荒川水面)。
なので荒川が氾濫したら、流域一帯、すなわち足立区南部から隅田・江東区に到るまで水没する。
しかも海抜0m以下なので、その水は海に流れず溜まる一方。
かくも荒川の治水は東京の防災の最重要問題なのだ。

ほどなく、左側に隅田川が近寄ってくる。
堤防下の道路一つ隔てて、両河川が並び、左手に隅田川、右手に荒川と視野で180°離れて並行する(両方を同時には見れない)。

無人モノレールの舎人ライナーが走る扇大橋をくぐると、隅田川が離れていく。
堤防上の道は眺めがいいが(たとえば隅田川を見れる)、川を横断する道路にさしかかると信号待ちになる。
一方、河川敷の道は、眺めは悪いが、横断する道路の下をくぐり、また川の屈曲に対して円周の無駄がない。
なので、基本は堤防上を歩くが、横断道路とカーブでは河川敷を歩く。
いずれにせよ、川歩きは日差しを遮るものがないので、今日のような曇天日に歩きたい。


江北橋を過ぎると再び隅田川が左から接近してきて、今度は歩いている堤防が隅田川の堤防も兼ね、すなわち両河川の間の堤防を歩く状態になる。
丁度堤防上が拡がって「宮城ゆうゆう公園」になって一帯が芝生状になっているので、隅田川にも行ってみる。
隅田川は河川敷がなく、人工のコンクリ板状の堤防で囲われている。
川沿いに遊歩道こそあるが、広い眺めでゆったり歩くなら荒川の方がよい。

左手の隅田川は、半島状に突き出た北区の豊島五丁目団地を左カーブして、左手奥に遠のいていく。

荒川の河川敷もここからは、今までのようなグラウンドではなく、池などがある公園状になっていて、川べりまで近づける。
せっかくなので川べりに行き、川の流れを目の前で見る。
川は濁っているが、釣り糸を垂れる人もいることから、死んだ川ではない。

行く手の対岸に見える高層ビルは、川口(埼玉県)にあるエルザタワーという55階建ての高層マンションだ。

昔は、東京と川向こうの県とでは、東京側の都市的風景が勝っていたが、最近は、川向こうの川崎(武蔵小杉)や川口の方が東京側より都会的。


鹿浜橋を過ぎると、三たび左から隅田川が近寄ってくる。
右手の荒川対岸に新芝川が直角に合流してくると、対岸は足立区から埼玉県川口市となり、ここから荒川も県境の川となる。
左の隅田川の上流に岩淵水門が見えてくる。
左手に隅田川、右手に荒川、そして正面に荒川と隅田川の分流点である水門という雄大な風景の中を歩く(写真:左が隅田川、その奥が岩淵水門、中央のビルが川口のエルザタワー、その右が荒川河川敷)。

河口から千住までの荒川・隅田両河川の川歩きは、はっきり言って単調でしかなかったが、今回の千住からの上流部は、両河川が3たび並んで視野いっぱいに川の風景が拡がるので、変化があってそれなりに楽しめた。


いよいよ岩淵水門(新と旧の2つある)に達する。
隅田川はこの水門で荒川とつながっている。
実は隅田川は元は荒川の下流だったのだ。
ところが荒川の治水のため、隅田川とは別に放水路を造り、それが今の荒川下流となった。
新水門は、荒川が増水時に、余った水を隅田川に流すための役割を担っている(ただ隅田川は河川敷がないため、あまり余裕はないと思う)。
ということで荒川と隅田川は元は、そして今でも一体なのだ。
今回の川歩きでその一体性を確認できた。

旧水門奥の島状になっている緑地で一休みし、堤防向こうの「荒川知水資料館」に入って、トイレを借りてペット飲料を買う(ここは数年前に見学済み)。
河川敷は有料のバーベキュー会場になっていて、道具などは貸してくれるようだ。


ここを今日の終点とし、赤羽(東京東北部で北千住に次ぐ繁華街)に向うため、荒川から離れる。
すぐに渡った橋に流れる先ほどまでの隅田川は、水門の上流ですでに「新河岸(シンガシ)川」と名を変えている。
新河岸川は隅田川の(荒川に代わる)新しい上流になっているのだ。 

新河岸川を渡ってすぐの小山酒造(都区内唯一の地酒醸造所)の店で、「丸真正宗」ではなく「どぶろく」を買った。

この先の荒川も新河岸川も川歩きの対象にしたら埼玉県に入り込んでたいへんな長丁場になるので、とりあえず東京の川歩きとしては、これで完歩としたい。

荒川を歩く3:赤羽から彩湖


渋谷川を歩く

2018年09月16日 | 川歩き

久しぶりに都内の川歩き(川に沿って歩く)に出た。

そもそも、東京区部を南北に縦断する京浜東北線を境とした西側、北の荒川(埼玉県境)と南の多摩川(神奈川県境)との間に拡がるのは山の手台地だ。
その山の手台地を削って東西に流れる都区内の川が3つある。
まずは神田川、 南に目黒川、そしてそれらの間の渋谷川。
私がまだ歩いていないのは渋谷川。

渋谷川は、その名の通り、あの”渋谷”を流れる川。
渋谷は東の宮益坂、西の道玄坂に挟まれた、まさに谷の底。
川が流れていておかしくない。

渋谷川はその渋谷から恵比寿、広尾、白金、麻布十番、三田、芝を経て、竹芝で東京湾に達する。
列挙した地名でわかるように、都心南部の一等地を流れるから、川歩きしながら東京見物できるかも。


その前に、川を歩くには、2つの選択をしなくてはならない。
まずは河口から遡るか、水源から下るか。
経験上、最後は水源に達した方が、達成感を得やすいが、今回の渋谷川は水源から渋谷までが暗渠なので、川が地上に顔を出す渋谷が最上流となる。
一方、河口は竹芝埠頭に隣接しているので、港の風景が期待できる。
暗渠で終るよりは、港で終りたい。
ということで、今回は河の流れと同じく、上流から河口に向って歩くことにする。 

もう一つの選択は、右岸と左岸のどちらを歩くか。
荒川のような大河とちがって、街中を流れる川は、川沿いの道そのものが無いことが多く、あってもどちらか一方なので、選択の余地はない。
基本は川に近い側、ただし大通りでなく、のんびり歩ける細い道を選ぶ。


と、方針が決ったので、まずは山手線で出発地の渋谷駅に行く。
いつもなら歩く前に駅そばで腹ごしらえをするのだが、「しぶそば」は先日の世田谷観音の時に利用したばかりだし、今回は道沿いに店がたくさんあるので、食べずに歩き始める。

渋谷駅の東口を出て南進し、駅南端の玉川通りを越えると、渋谷ストリームという高層ビルの下から、渋谷川が顔を出している。

丁度、渋谷の鎮守である金王八幡(ここは単独で訪れる価値がある)の祭礼で、川の出口の上の稲荷橋はテラス状になっていて提灯が飾られ、お囃子が流れている。

この場所、祭礼でなくても、人々が集うように整備されており、川の両側(コンクリートの側壁だが)から壁を伝って水が流れ(「壁泉」と称している)、夜間はぼんぼりでライトアップされる(写真:暗渠口を臨む)。
すなわち、渋谷の名の元となっているこの渋谷川を、邪魔者扱いせず、きちんと渋谷の街の一部として盛り上げようとしている。
これが街中の川に対するあるべき姿勢だ。


当の渋谷川は3面が無粋なコンクリートで固められ、川床はコケ色に変色していて、まだまだ美観にはほど遠いが、源流となっている浄水場から透明な清流がきており、魚影こそないものの、ゴミもない(もっとも、9月13日にオープンしたばかりだし)。
その川にそって軽食やビールが飲める店が続き、上の写真のように川側に寄りかかってビールを飲める。

私は、予定していた「小諸そば」で軽くすませたが、いろんな種類の軽食を選べて楽しそう。
渋谷に遊びに来たら、ここに足を運んで一休みするといいかも。 

このような楽しい川沿いの道は並木橋で終る(写真。渋谷川を振り返る)。

ここからは、ふつうの舗装道路を川から離れないよう自分で選んで進むしかない。 
しかもあちこちに、あの醜いスプレーの落書きの跡。 
町内会の神輿の倉庫もその難をこうむっている。 

渋谷川は明治通りが左岸を並行しているが、静かな道がいいので、右岸の住宅地内のほそい道を進む。
庚申橋のたもとの背の高い庚申供養塔をみて 一旦明治通に出て、立派で近代的な福昌寺を通り、恵比寿駅前の広い道路を横断し、再び川に並行した裏道を進む(川からは離れているので川は見えない)。

恵比寿と広尾の間は、明治通りに沿った裏道ながら、ところどころに隠れ家風のこじんまりしたレストランが散見する。


天現寺橋では、地名になっている天現寺を参拝。
道路向いの慶應幼稚舎側に、この川の清流化工事の碑がある。
幅広くなった川を見下ろすと、川辺にカモが数羽泳いでいる。

だが、このような風情を楽しめるのは、ここだけ。
この先から首都高目黒線が川の上を覆うようになるから。
たとえば、白金公園内には親水広場があるのだが、高架の下の渋谷川は暗くてずっと下方を流れていて、まったく水に親しめない。
いつも五百羅漢寺に墓参りに行く時は上の高速を通るのだが、今回だけはそれが邪魔に見えて仕方ない。
言い換えれば、このあたりから下流は、渋谷川(港区では古川と名を変える)は、上に高速を通すしか価値のない邪魔者となる。


その古川橋で、上の高速と並行する麻布通り(天現寺橋以東から)とともに川は左に直角に曲がって北上する。
この間の川は高速道路に覆われてずっと日陰で暗いので、様子がわからない。
麻布十番にさしかかると、川は今度は右に直角に曲がる。
ここはいわゆる「麻布十番」だが、裏道の商店街はいいとして、表通りの交差点の風景の無粋なこと。
周囲のビルたちの統一感の無さも相当なひどさだが、一番風景を醜くしているのは広い道路の中央に我が物顔に並んでいる首都高速の薄汚れた橋脚。
東京の風景の破壊者である。 
正直、ここまで歩いてきて、都市の造形美を感じた所はなかった。
残念ながら、渋谷川を歩いても、東京を楽しめない。
その残念さに輪をかけるように、ここから渋谷川(古川)は濁って淀んだ死んだ川になる。
しかも川に沿った裏道もなくなり、広い車道沿いの歩道を歩くしかない。 


それでも赤羽橋の交差点にさしかかると、左手に東京タワーが間近に聳え、天に伸びる自らの尖塔形によって、周囲の雑多なビル群の不統一感を無きものにしている。
まるで近隣の中小大名を蹴散らす信長のような異質の存在感。

各国の都市にタワーが建てられる理由が 判った気がする。

徳川家重ゆかりの妙定院に立ち寄って、本堂内の阿弥陀三尊を望見し、境内の石仏を撮って、芝公園の南端を横断(北側に増上寺の門が見える)して東に進む。

さて、最後の一本道を東京湾に向う。
金杉橋に達すると、渋谷川は釣り船の繋留所となっている。
もう川というより海の入り江なのだ。
ちなみに、この通りにも「小諸そば」があった。

入口に地蔵尊のある古びたトンネル状歩道で山手線・京浜東北線・東海道線・新幹線そしてモノレールまでの線路をくぐり、首都高浜崎ジャンクション下を過ぎると、渋谷川(古川)の前に海が拡がり、河口になる(写真)。


首都高下の広い道路を渡って、終着点の竹芝埠頭に入る。
海を隔てて右手にレインボーブリッジが海の上にかかり、その左の対岸のお台場に特徴あるフジテレビのビル。
その手前を遊覧船が走っていく。 
左手に眼を転じると、海と区別がつかないほど拡がった隅田川の河口があり(大川の名に恥じない)、その奥にスカイツリーが東京タワーを凌駕する存在感で聳える。 
海を中心にした東京の風景というのもあるわけだ。
人は川に対しては邪険に振る舞えても、巨大な海に対してはそれができない。

実際、海の存在感は、さきほどまで歩いてきた川のことを忘れさせるほど。
私自身、まるで海を見に来たかのように、眼を海に向けたまま、ベンチにゆっくり腰を下ろす。

川は海に吸収され、その存在をなくす。
そのような川の運命を辿って歩くのもいいかもしれない。 


荒川を歩く1:河口から北千住まで

2018年03月24日 | 川歩き

桜の便りもちらほら聞こえてきた週末、天気も回復したので久しぶりに東京の川辺歩きをしたい。
前回は隅田川(両国橋〜南千住)だったので、今回はその東(墨東:東京低地、ディープ・イースト)を流れる荒川を河口から北千住まで歩くことにする。

荒川は奥秩父の甲武信岳を源流として埼玉県内のど真ん中を突っ切って東京に入り、東京の下町東部を縦断して東京湾に注ぐ。
東京を流れる川の中では長さも川幅も多摩川をしのぐ一番の大河である。

荒川はその名が示す通り暴れ川で、しかも流域の墨東一帯は海抜標高が0m以下なので、広範囲な洪水の危険地帯である。
その上、河口部の東京湾北部は首都直下型地震(前回は安政江戸地震)の震源地とも目されている。
その河口部は埋立地、0メートル地帯は沈下した沖積層なのでともに地盤が弱い。
すなわち、洪水・地震・津波の危険地帯として東京で最も災害リスクの高い地域である。
なので防災の視点をもって歩いてみたい。


河口は葛西臨海公園のある左岸より、右岸側の方が長く延びているので、右岸側の「新木場」で降りた。
ところがこちら側は河口に行く道も川に沿って上流に向う道も無いので、それらの道がある左岸に渡る必要がある(判断をミスった。次の「葛西臨海公園」で降りるべきだった)。
さらに新木場で駅そばで腹ごしらえをしようと思ったら、1軒ある蕎麦屋が開店前で、あとは私の選択肢外ばかり。
仕方なしにコンビニでおにぎりを買い、この先、川辺で食べる事にする。
このあたりは、大型の流通施設ばかりで、働く人はいても歩行者はおらず、住宅地ともオフィス街とも雰囲気が異なる。
もっとも元は「夢の島」として都民には不燃ゴミの集積場として知られた所で、しかも上述した災害危険地域なので、アスファルトの下を知っている者として長居したくない。
乗ってきた京葉線に並行している京葉道路を歩き、荒川にかかるその名も「荒川河口橋」を渡り、最下流の荒川の幅広さを歩いて実感する(写真:新木場で降りたからこの経験ができた)。
実際、荒川の河口部は東側に並行してきた中川放水路と合流するので、もともと広い川幅がさらに広がり、大河の風格を示す(荒川の河川敷を含めた川幅は、中流の鴻巣あたりで2500mを越える。荒川は関東でも利根川に次ぐ大河川だ)。

左岸の河口部(葛西臨海公園近く)に寄り道して、そこで河口を見ながらおにぎりを食べ、ここから荒川歩きを開始する(かなり時間のロス)。
堤防上は専用歩道になっているが、歩く人はほとんどおらず、ジョギングとサイクリングのコースとなっている。 
左岸からは広い川越しに都心のビル群、そしてもちろんスカイツリーが眺められる。
ただし左岸は、正式には合流元の中川側の岸なので、川の表示も「中川」となっている。 
これでは「中川」歩きになってしまうので、次の清砂橋で荒川側の右岸に渡り、ここからずっと右岸を歩く。
右岸も橋のやや下流あたりから河川敷が公園化され、野球やサッカー用のグラウンドが続く。
それらがあるおかげで、所々に公衆トイレが設置されているので助かる。


ここからずっと、この状態が延々と(本日の最後まで)続く。
向側の左岸も川に沿った高速道路がずっと延びている。
ときたま、川を渡る鉄道と道路の鉄橋をくぐる。

やはり川べりの人専用道路を進むのはジョギングとサイクリングの人ばかりで、はっきり言って、変わり映えのしない道を延々と歩いているのが苦痛になってくる。

神田川や野川などの町中を流れる中小河川は、邪険に扱われて川沿いの道がなかったり暗渠になっていたりするが、その一方で次々と雰囲気の変わる町歩きを堪能でき、また川沿いの社寺も参拝して歴史を感じることもできる。
それに対し、荒川のような大河川は、河川敷はグラウンド化され、堤防は歩道化されているので、川歩きそのものは延々とできるが、
その川が風景の主役となることで、都市の濁った川なので魚影もなく、 周囲は高速道路とビル群が延々と続くだけで面白くもない(隅田川も同じ。多摩川は武蔵野方向に続くので風景の変化はある)。
同じ歩行距離でも、山なら道や風景が変化に富んでいるので、疲労があっても心地よいが、単調な川歩きは精神的だけでなく同じ動作の繰り返しのためか身体的にも苦痛になってくる。


でもせっかくだから防災の視点で風景をチェックしよう。

まずは荒川の堤防が「スーパー堤防」として洪水に強い構造になっているのを確認。
簡単にいうと川側も外側も傾斜をゆるくして大きい空間をとっている。 

そして、堤防の外(左)側の住宅地面が川面(右)より低いことを確認する(写真)。
両者を区切る堤防高は、住宅の3階の高さに相当する。 

コース中の唯一の見学ポイントは、「荒川ロックゲート」。
荒川と町中を流れる旧中川との合流点なのだが、旧中川より荒川の水位が3mも高いので、パナマ運河と同じ閘門方式で荒川と江東デルタ地帯との水路による災害時の交通を可能にする。
丁度、閘門を開いて舟が出入りするタイミングだった。 

ここで「中川」が幾度も登場するのは、荒川と幾度も交差しているから。
両河川とも防災の理由で流路を変えられ、今の荒川(放水路)は旧中川を直角に突っ切って(分断して)東京湾に直行するようになったのだ。

川沿いにある小松川の千本桜の壮観を期待したのだが、残念ながら三分咲きというところで、バーベキューOKなのだが客はほとんどいない。
ここも含めて都内の河川歩きは桜の季節が一番いい(今日は数日早い)。


足立区に入ると現れる隅田川と結ぶ”堀切”も、荒川の洪水対策として水を隅田川に流すためのもの。

ようやく常磐線の鉄橋に達し、川から離れて北千住に向う。
荒川の堤防がここより上流(赤羽あたり)で決壊すると、北千住(足立区)から下流一帯(隅田・江東区)が数mも浸水するという。

今までのスーパー堤防や他の河川とを結ぶ流路の管理はここから下流の対策だった。
そういうわけで墨東地域の防災の最重要域を見てきたことになる。
危険地帯なだけに、それなりの対策が講じられているわけだ。 

河口から北千住付近の川辺までしめて4時間、道のり20km弱(歩数計だと25km)だった(道脇に河口からの距離が1kmごとに表示されるが、残念ながら河口との”直線距離”なので歩程の参考にはならない)。

さすがに疲れたので北千住からは都バスで家の前のバス停まで座って帰った。 

荒川を歩く2へ


隅田川を歩く1:両国橋から南千住

2017年10月09日 | 川歩き

秋晴れの連休。しかも体育の日。
山に行きたいが、休日こそ論文の原稿を進めないと。
そこで半日で済む川歩きにして、帰宅後論文を進めよう。
遠出をせず近場の都区内がいい。
南千住にあるダイソーで買い物をしたかったので、そこをゴールにするには、隅田川を歩けばいい。


以前、神田川歩きを河口の両国橋(隅田川の花火で有名)から始めたので、そこを起点にする。
総武線の浅草橋で降りて、屋形船の店が並ぶ神田川河口部を歩いて「柳橋」に出る。
ここは神田川が隅田川に合流する所。
だがここからじかに隅田川の河畔に行けないので、北上して総武線のガードを抜けて、「隅田川テラス」入口から河畔にでる。
隅田川は両岸とも河畔に「隅田川テラス」という幅広い遊歩道が続いている
(ただし神田川など流入河川がある所がそのテラスが途切れる)。

隅田川は下流の都心部においては、荒川・多摩川に負けない大河川の貫録がある。
川幅が広いので、川歩きも右岸か左岸かどちらかに絞らねばならない。
今回は、寄り道したい所とゴールを基準に右岸を選んだ。


そういうわけで右岸のテラス伝いに、川歩きを開始するが、
こだわりとして、神田川河口部まで一旦戻り、そこを今回の隅田川歩きの開始点とする。
広いテラスでは、モデル撮影、ジョギング、楽器の練習などそれぞれ好き勝手に楽しんでいる。
ただ、日陰がないのがつらい。
時たま大きな水上バス(遊覧船)が川を通り、川面にゆったりとした波を作る。
隅田川は水上バスの便があるのでここから南の河口部はそれに乗って巡るつもり。
川を味わうには、河畔歩きより川上での船がベストだから(歩きにはこだわらない)。

行く手右側には、スカイツリーがそびえている。
これがどうしても視線の中心となり、写真を撮るにもそれを入れないわけにはいかない(写真)。
川には屋形船の店が続いている。
こと都心部の隅田川に限っては、日差しが強い日中より、屋形船が出る夕方以降の方が風情があるかも。


浅草に達し、外国人観光客が多い水上バス乗り場に行ってみると、午後もずっと満席。
さらに墨田公園添いのテラスを北上すると、浅草発着の水上バスとは別の遊覧船(東京水辺ライン)乗り場がある。
それを見ると、非定期だが、なんとずっと上流の板橋区小豆沢(そこでは新河岸川と名前が変わっている)から出る、すなわち”隅田川”部分を全て航行する便がある。
これに絶対乗りたいが、平日の運行なので乗れる可能性は限りなく低い。

両岸にかかる橋がそれぞれ2つに分れる造りである桜橋の、まさにその部分を川を渡らず通り、いったん川から離れ、
今戸川神社に寄り道する。
この神社、私にとっては沖田総司終焉の地として訪れたいのだが、
世間的には縁結びの神社で有名らしく、参拝者のほとんどが女性。
境内にぎっしり飾ってある丸い絵馬を見ると、彼女たちの願いの強さがわかる(英語の表記も)。
スカーフをまとったムスリムの外国人女性もこれらの絵馬を写真に撮っていた。
そういうわけなので、本殿の参拝も、ここでは一度に数名での形式的な参拝ではなく、
一列に並んで、一人づつ真剣にお願いをしている(なので時間がかかる)。

こういう個人的利益への念に満ちた所は、欲望由来の邪念に充たされるため、神社本来の霊力は却って弱まると思う。
それを確認しようと、自分の前の人が参拝している間に、iPadのカメラを本殿に向けて、アプリで霊気の探知をやってみた。
そうしたら、あに図らんや、「守り神の出現を期待していい」と出た。
なるほど、これだけ人気があることは、御利益があることの証しかもしれない。
私自身は、もちろん、邪念を交えず崇敬の念で参拝するだけ。


さらに河畔を北上する。
周囲はマンションとなり、雰囲気も落ち着く。
白髭橋から荒川区に入ると、ここからは再開発の住宅街(都営アパート群だが、安っぽくない)となり、
のびやかな風景になる(写真)。

荒川区側も対岸の墨田区側も横長の重厚な住宅ビルが幾重にも重なる。
これらは、大地震の時に延焼を防ぐ防火帯の役目をしているのだ。
幾度もの江戸の大火、そして関東大震災の広域の火災を経験したがゆえの対策である。
東京の下町は総じて防災上の弱点地帯だが、防災用に再開発したこの地域は安心できる。

河畔はススキが背高く伸びて川が見えないので、堤防の上の眺めのいい道を進む(写真)。
今まで北上していた川が、ここでヘアピン状に大きく屈曲して西向きになる。
しかもその屈曲点に、すぐ向こうを流れる荒川からの運河が繋がっている。
ここを「堀切」という。


常磐線の鉄橋の下で隅田川から離れ、この住宅街の入口にあたる南千住の商業エリアに向う。
そこのダイソーは床面積が広く、買いでがあるのだ。
予定どおりダイソーで買い物をして帰宅した。

わが歩数計によると自宅から自宅までの歩程14km、歩数は19425歩ほどだった。
それで、帰宅して論文原稿を始める前に、まずはこの記事を仕上げている。

→「荒川を歩く2」へ(隅田川を歩く2の代わり)