今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

仏教の超多重意識論

2022年10月28日 | 仏教

期待の仏教改革者らの”私の二重性”の言を紹介し、それと関連して私の「心の多重過程モデル」による”意識の多重性”を論じたが、考えてみれば、すでに伝統仏教において、意識は2重・3重どころか、”8重”にもなっていた。

まずは五感に対応する五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。すなわち、各感覚相ごとに識がある)、それを統括する第六識としての意識(「意識」の原語はここ)。
ここまでは仏教全体に共通。
さらに大乗仏教の唯識思想では、第七識としての末那(マナ)(自我意識)、そして第八識としての阿頼耶(アーラヤ)が想定されている。
五感(知覚)も識(認識作用)だという発想は、それらを統覚する高次の意識を前提としない発生論的視点としてむしろ科学的でさえある。
また仏教(唯識)で夢を明瞭な意識作用とみなしている(”唯識”の重要な論拠が夢の意識経験)のは、私の考えと一致している。

末那識は自我意識で、システム2に対応する。
システム2はすばらしい人間的心だと思っているが、仏教では苦の源泉の1つとみなしている。
仏教では苦の原因を、渇愛我執においているが、この二つは、動物的欲望(システム0)と人間固有の執着(システム2)という互いに異質のサブシステムであるのだが、この点(異質性)を仏教は強調しない(後者を強調するのは大乗仏教のようだ)。

阿頼耶識は、いわゆる無意識を含めるが(仏教はとっくの昔に無意識を認めていた)、それにとどまるものではでなく、輪廻を超えて作用する(カルマ)の原因とされ、いわゆる生死を超えて輪廻する当体とされる(中村元氏の解釈)。
すなわち、来世とか前世とかを巡るのはこの阿頼耶識であって、生命活動によって現世のみで作動する意識や末那識(自我)は決して来世や前世を体験できない。

ただし、このような宗教的神話を心理学的意識論としては認めるわけにはいかないので、阿頼耶識については私のモデルとの接点はない。

もっとも、(大乗)仏教の目的はこれら識にあるのではなく、これらの識を””に変換するところにある。
すなわち識のままではダメで、それを超克しなくてはならない。

心の多重過程モデルは、スピリチュアル系の心のモデルと同じく、意識の進化・高次化を志向しているが、仏教では、識がいくら進化しても、識である限りは”悟り”には至らず、識を智に質的に変換して初めて意味があるという。

それを明確に述べているのが空海だ。
空海の『十住心論』、すなわち心の10段階進化モデルでは、阿頼耶識にまで達した”唯識”は、レベル6の「他縁大乗心」で、大乗仏教段階としては最初期で最低レベルにすぎない。
最高位のレベル10の「秘密荘厳心」(密教)では、五識、意識、末那識、阿頼耶識がそれぞれ成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智に転換し(ここまでは唯識レベル)、さらに阿頼耶識の先に第九識「菴摩羅(アンマラ)」を追加し、その識が大日如来の智である「法界体性智」となるという(合せて五智)。
識のままでいてはいけないのだ。
かくも伝統的仏教の心の理論は、私の心の多重過程モデルのはるか先を行っている。


景信山~高尾縦走での腸脛靱帯

2022年10月23日 | 山歩き

山靴も6月に新しくしたし、腸脛靱帯炎で行けなくなった山歩きを徐々に再開し、月1回くらいは山に行きたい。
※:腰から膝までの大腿外側に延びている靭帯。ランナーなどが長期的に酷使すると炎症を起こす。

再開の始点となった高尾山(599m)、次の小仏城山(670m)もクリアしたので、その奥の景信山(727m)に行こう。
ここはJR高尾駅からバスで小仏まで行けば直登でき、下りも小仏峠ルートで(旧甲州街道を)周回できて、たいして時間はかからない。
それに頂上に茶店が2軒あって、そば・うどんのほか葉っぱの天ぷらが有名。
それを期待して昼食を持参せずに、水だけ持って行く。

休日の高尾駅前のバス停は、陣馬高原行きの登山客がズラリと並び、その後小仏行きのバスが2台で客を乗せる。
狭い道の終点の小仏バス停で、トイレを借りて、帰りのバスの時刻を確認(1時間に3本も出ている)。
ここから旧甲州街道である舗装道路を少し進むと、景信山の登山口に出る(10:30)。
そこからは山道となり、樹林の中、チャートの露岩が多い窪みの道を登って、やがて2軒の茶店が堂々と居座っている頂上に達する(11:30)。
奥多摩側は見えないが、都心・丹沢・富士の眺めが開けている(写真:小仏城山と右奥に丹沢大山。次回はこの大山に行った→記事)。

さっそく天ぷら(500円)※となめこ汁(300円)を注文。
※2軒で微妙に値段が異なるので見比べるとよい。
昼食としてうどん(700円)にしようかと思ったが、どうせならダイエット登山も兼ねて、カロリー0の”なめこ”にした。
天ぷらといっても葉っぱの天ぷらなので、これだけでは腹の足しになならないが、下界では味わえない。

茶店の客たちは、それぞれビールの缶を開けている。
皆さん、天ぷらとビールが目的でここに来るようだ。
一方、高尾山ですら山頂でのビールを我慢している私は、当然手を出さない(ノンアルコールがあればいいのに)。

まだ正午前だが、小仏峠へ下る。
予定では小仏峠から小仏のバス停に降りるつもりだったが、時間がまだ早いし、体・足の調子もいいので、このまま小仏峠(548m)を通過して小仏城山さらには高尾山を越えて、高尾山口まで歩き通す事にした。
すなわち、奥高尾縦走路の後半部だ。
6年前、その前半部である陣馬山(855m)から景信山まで歩いて小仏に降りたので(→その記事を読むと、当時は腸脛靱帯炎との認識がなかった、今回はその続きということになる。
もっとも、全部通しての奥高尾縦走なら中学時代にやっていた(なので今の私は中学時代の自分以下ということ)

そこで心配になるのは、山の下りで痛み出す左脚の腸脛(ちょうけい)靱帯。
高尾山の稲荷山コースを下っただけでも痛んだのに、今回は縦走なので景信山からの下り+小仏城山からの下り+稲荷山コースの下りを全て歩く事になる。

今回強気に出れたのは、左脚の腸脛靱帯がちっとも疼かないから。
それに新しい山靴も、初回(御岳山)の下りでは爪先の痛みがひどかったが(→記事)、今回はなんともない。
小仏城山を越え、人が増えた高尾山までの下りも快調。
途中、白い小さな花を房状にまとめたサラシナショウマが道脇に群れで咲いていた(写真はその一房)。

いよいよ高尾山の稲荷山コースを下るが、左脚の腸脛靱帯はいっこうに静かなままで、そのままスタスタと快調に下り、無事に高尾山のケーブル駅前に下り立った(13:55)。

これは私にとってうれしい快挙だ。
いったん痛み出したら歩行困難になる腸脛靱帯炎が、これだけ長く下っても発症しなかった。
それに靴の中の足も3回目にして初めて痛まず、すなわち痛い所がどこにもない。
久々の”無痛下山”を祝して、高尾山口駅の売店でビールとつまみを買って、ホームのベンチで祝杯を上げた。

それにしても、なんで今回は腸脛靱帯が痛まなかったのか。
心当たりがあるとすれば、筋膜をほぐずマッサージャーを買って、日ごろから痛む脹脛(ふくらはぎ)や腰だけでなく、腸脛靱帯もほぐしていたこと。
あと、今回は踵にクッションのついた靴下だった。
これらが効いたのかもしれない。


ブレーキが利かなくなる問題

2022年10月19日 | 防災・安全

ブレーキが利かなくなると、暴走して事故を起こす。

富士山麓のバス横転事故の話だけではない。

頻発する山での滑落事故しかり。
山の下りは、自重が加速度の原因となり、沢や高山のガレ場で滑落すると止めるものがなく、さらに加速度がついて、衝突の衝撃で死亡する。
山では体力的にきついのは登りの方だが、危険なのは下りの方。
なのに、下りの惰性(加速度)にまかせて降りて転倒・滑落する人が絶えない。

いったん加速度がつくとブレーキが利かなくなるのは、物理現象だけではない。

まずは行動習慣。
いくら好きで健康にいいからといって、納豆を日に6パックも食べて痛風を発症したマツコは、ブレーキが外れた”無節操”状態。
「過ぎたればなお及ばざるが如し」の格言を地で行ってる。

人間の思想も、加速度がつくと極端化して、暴力的な過激思想に変貌する。
”環境保護”という正義が、いつのまにか人類の美術遺産を毀損するまでに過激化した。

はるか古代において、思考・行動のブレーキが利かなくなる傾向に気づいたギリシャ・インド・中国の哲人は、中道・中庸(節度)を唱えたのだが
※:ギリシャ哲学や仏典を読まなくても『論語』で充分。”最適値”という工学的発想も同じ。

相変わらず現代人はあちこちでブレーキを踏み外ている。
もちろん反動でブレーキを踏んだままにすることも逆の極端化。

無限の極端化に進む一次直線(y=ax)思考を脱して、最適値が求まる二次曲線(y=-ax^2)思考への転換が、システム2(自我機能)の成熟の鍵といえる。
一次直線は小学校の算数、二次曲線は中学校の数学で習う。
どちらも義務教育内だから、誰でも後者に変換可能なはず。


カエル館内外のパワースポットの謎

2022年10月17日 | 茶臼山カエル館計測

カエル館という正真正銘のパワースポットに関与して長いが、ますます謎が深まっていく。
※:客観的になんらかのパワー(力)が観測され、そのパワーが人に影響を与えるほど強いことが確認されている場所のみ、「パワースポット」と認定する。

カエル館内の強磁場スポットが与える生体反応には、筋肉の凝りや拘縮を一時的に改善するほどの効果が出ている(帰宅すると症状が戻るという)。
一方、その強磁場スポットに隣接する0磁場スポットに反応する人もいる。

それだけでなく、最近は館内の対角線先の、磁場が正常な一角に反応を示す人も出てきた。

館外の”ビリビリ苔岩”やキャンプ場への道も多くの人が反応を示すが、そこはもとより磁場は正常。

すなわち、総合的に見ると、人々の反応は磁場の強弱では説明できない。

そもそも、人の感覚的反応は、プラシーボ効果などの心理的原因でも発生しうる。
反応に個人差があるのも、被暗示性の強さがまずは考慮されるべき。

つぎに反応性そのものの個人差もある。
気象病・天気痛のように、気圧の変化が身体症状として表れる人がいる。

なので磁場の変化に強く反応する人がいてもおかしくはないが、カエル館での強磁場といってもその値は、市販の磁気ネックレスの1/1000なのだから、これに反応するなら、日常環境では生活に支障をきたすはず。

最近では、カエル館の常連たちがいろいろなパワーストーンを持ってきて、カエル館はパワーストーンの展示場になっていることも、来館者の反応の拡大に影響しているかもしれない。
これらの石は、茶臼山産以外は磁気を帯びてはいない。

生体反応を示す原因が、客観的に測定できる磁気ではないとすると(放射線と静電位も測定している)、科学的には存在が確認されていない別のパワーなのかもしれない。
ただ、その仮説は検証できないので、そっち方向に走らずに、なんとかその手前で踏みとどまりたい。

生体反応を客観的に確認するには、サーモグラフィ(皮膚温)が手っ取り早いが、温冷感を訴える人は多くなく、一番多いのはビリビリ感だが、その人の静電位や経絡の電導性を測っても差が出なかった。
あとは筋肉の硬度を測れそうなので、拘縮が解除された人などに適用してみるか。

環境側の要因としては、磁場以外の計測不明な要因を想定せざるをえないが、反応側の個人差要因としては、外的刺激に対する反応性の高さ、言い換えれば恒常性維持機能(システム0)の弱さがあるのかもしれない。
気象病もそれで説明できる。

すなわち、反応が出ない人が問題ではなく、反応が出る人の方が何らかのアンバランスを内蔵していると思える。


全国旅行割りを利用してみた

2022年10月17日 | 

茶臼山高原の旅で、全国旅行割りを利用した。

まず、この実施が決まる前に予約を個人的に取っていたので、宿に電話して、私が該当するか確認した。
宿によってはこの事前確認が重要な所もあるようだ。

実際に割引を受けるために必要な物は、3回以上の接種証明書(私は4回接種済)と住所を確認できる免許証やマイナンバーカードなど。
私は車で行ったので免許証。

宿のフロントで、チェックインの後に、上の2つを提示してこの割引手続をする。
私の場合は日曜泊だが、平日扱いとなり宿代は5000円引き。
それと宿の地元県の買い物割引(県によって名称が異なる)クーポンが1泊につき3000円分くれる。

前回の「Go Toトラベル」と異なるのは、有効期限が宿泊当日と翌日の2日間のみで、さらに使える店がその県内である点は前回と同じだが、店がかなり限定されている。
つまり使用期限と店が限定される2点で使い勝手がすこぶる悪くなった。

もちろん、宿でも売店や食事の追加注文に使えるので、まずは夕食時の酒をいつもより贅沢にする。
それでも余るので、いつもなら摂らない翌日の昼食を、使える店を選んで、豪勢なメニューを選んだ。

長野県の「信州割」は、500円券が6枚なので、500円単位での買い物となる(不足分は現金か、さらに500円券を使って釣銭なし)。
愛知県の「あいち旅」は QRコードが付いた紙カードで、こちらは購入した金額が差し引かれるので使い勝手はいいが、利用可能な店舗が少ない(「信州割」と違って道の駅やコンビニは×)。


売木村の花崗岩を測る

2022年10月16日 | 茶臼山カエル館計測

愛知と長野の県境に聳える茶臼山(1416m)は玄武岩質だが、その西方には花崗岩が広く分布している。
さらに西に離れた岐阜県東濃地域は顕著な花崗岩帯で、ラジウム温泉や花崗岩の採石場が点在し、空気中の放射線量は日本有数の高さである→東濃の高放射線帯を走る

茶臼山北側の南信地域には日帰り温泉は点在しているが、その中にラジウム温泉がない。
そのため、カエル館内外の私の計測も地磁気ばかりで、ガイガーカウンターを使う所に乏しい。

そんな折り、カエル館の館長から、茶臼山の東北麓の売木村(長野県下伊那郡)に花崗岩の採石場があった事を教えてもらい、興味を示したら、館長が村長に掛け合って、採石場跡地での計測を可能にしてくれた。

そういうわけで、本日、カエル館館長とともに、村長の先導で(通行止めのゲートの鍵を開けてもらうため)、花崗岩の採石場跡地に入った。

富山県の会社が墓石の材料として採石した(5年程前に閉山)というそこの花崗岩は、粒子がきめ細かで上品な墓石になりそう。

まず、茶臼山のカエル館の空気中(γ線)での放射線の計測値0.1μSv/h(以下同単位:ちなみに上リンクの東濃高放射線帯の記事では単位がnSv/hなので値が千倍表記になっている)をバックグラウンド(比較対象)とする。

ゲートを3つ越え、車を降りて採石場に向かう途上、両脇に花崗岩(片方は自然の岸壁、他方は採石した岩)がある空間(γ線)で0.2に上がった。
この値は、東濃の高放射線帯の空気中および福島原発事故後の東京(関東地方は元々ローム層の影響で東海地方より低い)での最大値に等しい。

採石場跡地に立ち(写真)、白黒のコントラストが明確な岩を選んで測る(γ線+β線)と0.4に達した。
中津川温泉の花崗岩には及ばないが、バックグラウンドの4倍の値だ。

さらに採石場で使われていた水場があり、天井と両側の壁が整形された花崗岩で支えられている。
水は今でも絶え間なく流れていて、飲料に使えるという(水があるとわかっていれば、水質検査キットを持ってくるんだった)
天井の岩では0.3あり、三方が花崗岩に囲まれた空間は、空気中でもそれなりに高い。
しかも湧水も花崗岩層から出ているので、飲泉可能なラジウム鉱泉の可能性がある(手持ちの計器では水中の線量は測れない)。
※:ラジウム温泉で有名な山梨県の増富温泉の源泉は冷鉱泉

値自体は採石場の岩の方が高かったが、水場空間や途中の両側に花崗岩がある通路は”気場”の気配を感じたし、通路の下には花崗岩で囲まれた池もあるので、環境を整えれば、カエル館のように人が訪れる”パワースポット”になるかもしれない。
※:パワーの強さでいえば、放射線は地磁気と比ぶべくもなく強大。また放射線を含む電磁波の健康への影響については、脊髄反射的に恐れるのではなく、科学的エビデンスを参考に。

ただ、カエル館と違ってそこに達するアプローチに難有りで、その部分まで整備するのは非現実的だろう。
なんかもったいない。


富士山麓でのバス横転事故に思う

2022年10月15日 | 防災・安全

13日に起きた、富士山麓でのツアーバスの横転事故について。

まずは、運転手によると「ブレーキが利かない」状態に陥ったということで、「フェード現象」が疑われている
※追記:2023年2月16日、静岡県警はフェード現象によるものと断定した。

運転手はバスの運転自体は経験者だが、このルートは初めてだったというから、”富士山の特殊性”が頭になかった可能性がある。
富士山の特殊性とは、可能な限り高所まで延びた道路の斜面(坂道)が異様に長いこと。
なので普通の坂道いや山道のつもりでブレーキ操作をしていると、フェード現象を招きやすいということ。

一般車でも、 AT車でギア操作が習慣づいていない人は、つづら折りの下り道で、カーブの間の直線部分も含めてブレーキをずっと踏みっ放しとなり、それが富士山の下りだと、ブレーキ踏みっ放し時間が限界を越すおそれがある。

もっともバスの運転手の場合は、最低限ギア操作はできているはずだが、重量の重いバスは、カーブ間の直線部分で大きく加速してしまい、カーブの手前で急ブレーキが必要になると、乗客の乗り心地に悪影響を与える。
そういう理由で直線部分もブレーキを利かさざるをえないだろう(もちろんギアを落としてエンジンブレーキを最大限に利かすのは前提)。

実際、かなりブレーキを利かしていたようで、後続車の人は、異常に遅い速度と感じていたという。

ただし、だんだん速度が上がったようで、直線部分から右にゆるいカーブの所で、車体が左の山側に乗り上げ、右下に横転した。
現場の直前に薄いタイヤ痕が残っているので、サイドブレーキは利かしていたようだ。
現場のカーブは緩いから、ハンドル操作の誤りというより、バスにかかる遠心力に負けたのだろう。
遠心力は、質量と速度の二乗の積に比例するから、この力を下げるには(角)速度を落とすのが最も効果的(私は下りの直線はエンジンブレーキを充分に利かせ、カーブの手前だけブレーキをかけて速度をぐっと落とし、カーブはブレーキペダルから足を外して回り、カーブの後半でアクセルを踏んで加速する。すなわちフットブレーキは最低限の使用を心がけている)
ただし、今回は乗客数の多さから、予想外に質量が高かったのも事実。
すなわち、直線部分での重力加速度の制御とカーブ部分での遠心力の制御の連続が、富士山の坂道では異様に長いのだ。
その分(カーブの多さとブレーキの酷使によって)、制御が失敗する可能性が増える(あるいは、ブレーキが利かないため、あえて山側に突っ込んで停止しようとしたのかもしれない)。

では、そうなった場合、乗客はどうすればいいか
今回死亡した人は、倒れた側の窓側の席で、地面側の右腕を損傷し、そこからの出血多量が死因だったという。

バスが横転するとは、強制的に地面に90度倒されることだから、その強制力に抵抗するには、まずはシートベルトで身体が座席から離脱しない措置が必要。

次に、特に倒れた窓側の席の人は地面に衝突する衝撃をくらうので(腰だけのシートベルトは上半身を背面に固定してくれない)、体のそちら側を咄嗟に保護する必要がある(頭部も含めて)。
それには、手荷物をクッション代わりにするしかない。
手荷物がない場合は、両手で前の席にしがみつくのも、やらないよりはましだと思う。


意識の二重性

2022年10月11日 | 心理学

瞑想やシステム3と関係する私”の二重性について議論したので、それよりは了解しやすい”意識”の二重性を論じたい。

意識の二重性は、”私”の二重性に対応したものではない
なぜなら、意識は私(自我)とは別の現象で、むしろ”私”の経験を可能にする、より根源的な現象だから。
意識があって初めて”私”が可能となる。
なので、意識の二重性は、”私”の二重性よりも根源的な現象である。
ということで、”私”の二重性を結局ピンと来なかった人でも、意識の二重性はずっと了解しやすいと思う。

意識には、意識がある/ないというレベルと、何を意識しているかというレベルの二重性がある。
前者(レベル1)は日常的には覚醒/睡眠という意識水準の問題で、後者(レベル2)は覚醒(一定以上の意識水準)を前提とした意識活動の問題である。
レベル1の中枢は脳幹・視床下部で、レベル2は大脳皮質の前頭前野である。
すなわちそれぞれの中枢が異なることで、メカニズム的にそれぞれ活動は独立しうる。

もっとも、レベル1がレベル2を可能にするという階層関係が基本なので、覚醒→意識活動という連動関係が基本となるが、その関係に例外がないなら、すなわちレベル1とレベル2がいつも一体なら、意識を二重とする必要はない。

その階層関係を詳細に論じたのは、このブログでも紹介した安芸都司雄で(→記事)、昏睡から~意識清明までの可逆的移行段階を示した12段階の意識水準のうち、意識水準の低い順でⅠからⅣまでは、昏睡状態を含む高度意識障害に相当し、その上の意識水準Ⅴにおいて「意識があるとみなせる」状態(命令された身体運動ができる)となる。
ただし健常者の覚醒状態に相当するのは、ずっと上の意識水準ⅩⅠで、臨床的に問題なく、ほぼ意識清明の状態という。
すなわち、「意識がある」水準と、意識活動が問題なく作動している水準の間には、安芸の基準で6段階存在し、その間は”意識はあるものの、意識活動は十全に機能していない”という中間的状態になっている。
さらに意識活動が臨床的に問題ない水準以上(Ⅹ−ⅩⅡ)においても、意識活動の能力に差があり、意識水準が最高度の水準ⅩⅡ(意識清明)に至って初めて、自我という人間固有の高度な意識活動が可能となる。

この意識水準とは別のアプローチとして、レベル1が作動(覚醒)しているものの、レベル2(意識活動)に支障がある固有の病理現象について、脳科学者のA.ダマシオがまとめているのでそれを紹介する

ダマシオは、意識を覚醒・中核意識・拡張意識の3段階に分け、それに対応する自己(意識)を、原自己・中核自己・自伝的自己に対応させている。
自伝的自己は、ジェームズの「客我」として対象化された自己で、まさに清明な自我活動の証拠である。
そして覚醒はしているが、中核意識・拡張意識がともに作動していない重篤な意識状態として、「持続性植物状態」(無反応だが開眼し、睡眠覚醒のサイクルが見られる)、「欠伸発作」(てんかん発作における意識障害で姿勢は維持)、「無動無言症」(覚醒は認められるが、応答性がない)、「アルツハイマー病」(重症化するにつれ、自伝的自己→中核自己が順次消えて、最後は覚醒だけになる(=痴呆))を挙げている。
さらに覚醒と中核意識が作動していながら、拡張意識が作動しない(自伝的自己のみの障害)より軽度な状態として、「欠伸自動症」と「一過性健忘」を挙げている。
これらを見ても、意識のレベル1とレベル2は必ずしも連動しないことがわかる。

ではその逆の、”覚醒していない状態で意識活動が作動する”という(階層の逆)現象はあるのか。
むしろこちらの方が臨床的な問題はなく、健常者でも頻繁に経験している。
「夢」である。
私は、夢を、”睡眠中におけるかなり清明な意識活動”とみなしている。

夢は決して誰かさん(フのつく人)が唱えたような無意識の活動ではない。
もしそうだったら、覚醒後の意識(自我)が夢を”覚えている”ことは原理的に不可能である。
なぜなら、無意識とは、意識に上がらない心の活動をいうから。
そして無意識を意識化できるのは熟練した専門家の介入による精神分析療法しかないというから。
だから素人の我々が日常的に(睡眠中ならなおさら)、無意識を意識化することはありえない。

そもそも意識と自我(私)とは別の現象である。
夢はまさに意識が自我の制御から離れて自律的に活動している現象である。
夢を無意識側においやる発想は、自我と意識とを同一視している(意識を自我に矮小化している)ためだろう。

人間並みの自我が認められないたくさんの動物種においても、意識は間違いなく発生している(睡眠行動が観察されるならそれ以外は「意識がある」)。
すなわち意識の方が自我よりも発生が古く、活動域も広い。
なので自我は意識と同じでもその主人でもなく、意識活動の(進化的には最近の)一部にすぎない。

以上を整理すると、意識の”2”重性は、意識についての最小の分類数にすぎず、詳細にみるとダマシオの3種、多いと安芸の12種に達する。
私の「心の多重過程モデル」では、システム0、1、2がダマシオの3種にそれぞれ対応する。

安芸との対応では、システム0だけが作動しているのが意識水準Ⅰから Ⅶ(昏睡~中程度意識障害)まで、それに加えてシステム1が作動するのが水準Ⅷ(軽度意識障害)以降、それらに加えてシステム2が作動するのが水準ⅩⅠ(正常な意識活動)からとなる。
そしてダマシオや安芸の視野にはないシステム3(自極の極自我からの分離)は、安芸の12水準を私なりに拡張して、「意識水準ⅩⅢ(超意識清明)」すなわち”ハイパー意識”に相当する。

多重過程モデルでは、自我や意識だけでなく、心の機能(働きの単位)はみな多重過程を示している。

【参考文献】

・安芸都司雄 1990 『意識障害の現象学』 世界書院

・ダマシオ, A(田中三彦訳)  2018 『意識と自己』 講談社

・山根一郎  2020 「心の多重過程モデルにおける意識の多重性」 椙山女学園大学研究論集 人文科学篇(51) 87-98


新幹線の車窓が雨で不透明になった件

2022年10月10日 | お天気

前の記事「久し振りの”寒さ”」で、新幹線で雨水が窓面全体に張り付いて、景色が見えなくなった件。

その記事の主題の現象ではないこともあって、元記事の追記ではなく、記事を改めてきちんと考えたい。

まず元記事に追記した以下の部分を、こちらに移動する。

「新幹線の車窓で雨滴が横の川になるのは、鉛直軸で落下する雨滴が、高速で疾走することで発生する強い横風の風下方向を曲げられて(↳)、しかも車体構造の理由で下からも煽られることで、雨滴が特定の水平軸上に集中するためと思われる。
そうならずに、車窓に均等に雨滴が拡散したのは、まずは下から煽られる力が欠如したことが原因と考えられる(上からと横からの力の存在は同じ)。
こう書いていて思い出したのは、この新幹線は新しい型の車両だった。
それときちんと理由を考えるには、当時の速度・進行方位・雨量・風速・風向のデータが必要である。これらは全てその時入手可能であった。」

こちらの記事でさらに追加すべきなのは、窓面に広がった水の層が透明でなく、景色を遮るほどの不透明になった理由。

これは窓に広がった水面が、平面あるいは球面ではなく、細かく凹凸になって光を乱反射させたためといえる。

なぜ細かく凹凸したかというと、水面が細かく振動したためだ。
振動の原因は列車を走行させるモーターの回転などの列車本体の振動によるかもしれないが(レールの継ぎ目による振動は波長が大きすぎる)、高速走行における絶え間ない風圧によって発生する水面上の進行波が、反対側の窓枠に遮られて反射波となって進行波とぶつかって干渉し、停滞した合成波がほぼ一様に分布したかもしれない。

以上は、窓枠の構造が未確認なので頭で考えた仮説にすぎないが、波動としての側面を考慮に入れたかった。


横須賀の自然・人文博物館に行く

2022年10月09日 | 東京周辺

降水予報下の日曜は、アウトドア活動には向かないが、屋内で時間を過ごす郷土博物館なら問題なかろうと、少し遠方の神奈川県横須賀市の自然・人文博物館に行くことにした。
その名が示しているように、展示内容に”自然”を加えるのはそこらの郷土博物館には無理で、それだけでも充実度が伺える。

横須賀といえば”スカジャン”が思い浮かぶように、同じ港湾都市の横浜以上にアナーキーなイメージなのは、米海軍基地があるためで、さらに海上自衛隊の基地もあり、旧日本海軍の戦艦三笠も浮かんでいる、ということは知っている。

私がかつて横須賀に行ったのは、中学時代の友人たちと卒業後に猿島(横須賀沖の無人島)に海水浴に行った時だけで、街中も三笠もまだ見ていない。

このように、まともにその地を見ていない段階だからこそ、地元の情報がたっぷり詰まった郷土博物館を、まずは訪れるべきである(と、各地の郷土格物館を巡って感じた)。

博物館へは京急の”横須中央”駅が最寄りなので、品川で京急に乗り換えると、快速特急三崎口行きの二人シートに座れた。
京急の快特は、東武や西武の有料特急並みの車内ながら、特急料金がかからないのが嬉しい。

横須賀中央駅に降り立つと、セーラー服で連れ立って歩いているのは女子高生、ではなく海上自衛隊の男子。
まずは駅前の町中華で、我が定番「五目焼きそば」を食べる。
結構な大盛りで最初はビビったが、盛り付けの半分は野菜などの具なのですんなり食べれた。
ただ注意が必要なのは、神奈川の店の価格表示は断りなく外税方式なので、メニューの価格以上の支払いを要する。


駅から龍本寺に上がる急な石段を登る。
すごい急で、こういう地形は横浜から三浦半島にかけて多く、土砂災害の危険はあるものの、海辺の住民にとって津波避難はしやすい。
上がりきった境内には、「ここは神聖な場所だから、飲食禁止」という旨の英語の立て札がある。

この寺の東に「お穴さま」なるものがあるのをGoogleマップで見たので、そこに向かってまた急な石段を降りて行く。
龍本寺は日蓮聖人ゆかりの地でもあり、洞窟内に聖人像が祀ってあるようだが、洞内の椅子にホームレスの人が寝ているので、入らずに外から写真だけを撮った(写真:確かに日除け・雨除けになる)。


そこから程なく公園になり、西村西望(長崎原爆像の作者)作の馬に乗った「自由の女神像」を見て、その先の自然・人文博物館に入る(無料)。

まずは「自然」のゾーンで、ナウマン象の全身骨格が出迎える。
そう、ここ横須賀は、ナウマン象発見の地なのだ。
横須賀市は横須賀の街だけでなく、三浦半島の中央〜南部を占めているので、展示内容は三浦半島全体に及ぶ。
三浦半島の南部(先端部)は、元はプレート沈み込みの付加体で、それが隆起して陸地になったもので、(火山島を除けば)世界でも最新の陸地だという。
見上げる分厚いローム層の標本は、豊島区のそれよりはるかに大規模。
階下に行くと、三浦半島及び周囲の海の生物標本が並び、中でも発光生物(陸と海の)のコーナーはここの特色という(様々な種の蛍の発光パターンが周波数の波で示される)。

別棟の人文館に行くと、まずは旧石器時代、次いで縄文時代(特に早期)の多様な土器が並ぶが、古墳時代以降の古代になると展示が乏しくなるのは首都圏の他の所と同じ。
中世になると三浦氏の支配地となり鎌倉幕府と関係してくる。

横須賀市がにわかに日本の注目地になるのは幕末のペリー来航以後。
浦賀は今は横須賀市なので、浦賀の歴史も展示対象。
そして明治になると、横須賀製鉄所ができて、日本の近代化(工業、特に造船)の発信地の1つとなる。
横須賀製鉄所はその後、海軍の造船所及び基地となり、横須賀は軍港となって現代に至っている。

かように充実した内容で、全部見るのに2時間半を費やした(千葉県立博物館レベル)。
それでいて無料なのは太っ腹、きっと市の財政が豊かなのだろう(本館のほかにに3つの付属施設を持つ)。


館外に出て、同じ敷地の平和中央公園に行くと、まずは戦没者慰霊塔があり(合掌)、さらに進むと、横須賀港の奥に猿島(写真)、そして東京湾、対岸の房総半島(富津付近)が見える。
公園内には米ヶ濱砲台跡もある。

今日は時間があったら三笠の見学もと思っていたが、ここだけでお腹いっぱいで、雨も降りそうなので帰宅することに。

横須賀中央駅の外に観光案内所があり、そこで猿島で取れた海草の入った刺し身コンニャクを土産に買った。
あと横須賀市内の観光案内パンフを見ると、横須賀港内の「軍港クルーズ」というのがある。
次回は三笠見学だけでなく、これに乗れば横須賀港を堪能できる。

京急は1本おきに特快が来るが、青砥行きなどはロングシート車両だが、泉岳寺行きを選べば二人掛けの特急車両だということもわかった。
雨の前に横須賀を去ることができたが、東京は雨になっていた。


2022年度健康診断結果

2022年10月08日 | 健康

読者の皆さんお待ちかねの、私の今年度の健康診断結果を発表する。👏

一番のニュースは、手元に診断結果の記録がある2007年以来、はじめて総コレステロール値が200(mg/dℓ)を切ったこと。
総コレステロールは219が基準値の上限で、少なくともこの15年間ずっとそれを上回っていた。
ただ、総コレステロール量だけが高くても、それほど重大問題ではないので、かかりつけ医ともども放置していたのだが、昨年LDL(悪玉コレステロール)が131に達し(基準値上限は119)、なんとかした方がいいということで、コレステロールを下げる薬(アトルバスタチン)を処方された(ずっと処方中の降圧剤2錠に追加)。

5mgの小さな錠剤を毎夕食後に1錠飲む生活の結果、見事に総コレステロールが188と、ここ15年で最低の値となった。
それだけでなく、LDLも77と過去最低値を更新し、HDL(善玉)の方は107とこちらは最高値を更新した。
さらに脂質異常症の別の指標「nonHDL」は基準値が150未満で、過去幾度もそれを突破したことがあるが、今回は初めて3桁を割った81とこれも最低値更新。

中性脂肪は2008年以降は正常値を維持していることもあり、これで動脈硬化の原因となる脂質異常症を脱したことになる(2007年までは中性脂肪値までも高かった)。
あんな小さな錠剤でこんなに変化するとは(健康診断2日前から断酒・断つまみの影響も少しはあるかも)。

一方、血糖値は基準値上限の99(mg/dℓ)を越えてはいるが、超過量はたいしたことなく、また昨年より下っている。
より定常的な指標であるHbA1cは基準値内から外れたことはない(動脈硬化も怖いが糖尿病も怖い)。

基準値より高目が続いている尿酸値(mg/dℓ)も、昨年よりは下り(8.1→7.4)、通風の恐れも遠のいた。

あと左目の視力が落ちた(1.2→0.9)のが気になり、眼圧の薬を定期的にもらいに行っている眼科でそのことを話すと、左目に白内障が進んでいるという。
右目の白内障はだいぶ前に手術をしており、次は左目だということは覚悟していた。
でもまだ視野に曇りなどの異状はないので、しばらくは手術には及ばない。

白内障は老化だから仕方ないが、高血圧と脂質異常は薬でコントロールできている。
糖尿病と痛風は生活習慣レベルでなんとか凌げている。

言い換えると、毎年の職場の健康診断と定期的に通っている医療機関(循環器科、眼科、歯科)のおかげで、健康管理ができている。

私と同年代で、脳梗塞を患って後遺症に苦しんでいる人や、糖尿病で逝去した人が周囲にそれぞれ複数人いる。
彼らはもともと元気で、医者いらずの生活だったため、逆に内部で進行している異状に気づくのが遅かったといえる。


久しぶりの”寒さ”

2022年10月07日 | お天気

ここ数年、夏が延長して10月に入っても衣替えができなくなった。
だが寒気はきちんとやってくるので、結果的に秋がなくなり、夏から冬に直接移行する(四季から二季へ)感じになっている。

つい先日まで冷房を入れていたのに、今日は忘れていた感覚「寒さ」を久しぶりに感じた。
なので下着のシャツを数ヶ月ぶりに着て、中着のシャツも長袖にし、さらに薄手のジャケットも羽織った。

新幹線で帰京中、すごい雨で、車窓が全面的に雨水に覆われ景色が見えなくなった(写真)。
数週間前の台風接近時でも、新幹線の車窓に降りかかる雨は時速270kmの速度によって、雨滴が横に流され、大げさに言えば車窓を横に流れる川ができるため、その川以外からは景色が見えたのだが、今回のように窓全面が水面に覆われる(しかも私の座席だけでなく周囲の両側の窓が全て同じ状態)のは、長い新幹線経験でも初めて
ちなみに、雨量が弱くなった下では、横の川状態に戻った。

東京に降り立つと、それなりに強い雨で風もあり、しかも気温が低く(12℃)、どうしても雨に濡れるため、余計に体が冷える。
折り畳み傘がお猪口になり、ゴアテックスの靴の中まで水が滲み、文字通り濡れ鼠になって帰宅した。
私の帰宅を見越して、母が風呂に湯を入れてくれていたので、すぐに暖まることができた。
自宅も今日は床暖房を入れたという。

だが、これで冬に向かうかというと、そうはいかず、来週明けは29℃、すなわち夏日(最高気温25℃)を通り越して真夏日(最高気温30℃)手前に達する見込み。
なので、夏物はまだしまえない。

※追記:研究者の端くれとしたことが、珍しい現象(しかも広義の気象現象)に感心するだけで、その解明を試みなかったのは汗顔の至り。
右の別記事としてそれを試みる→新幹線の車窓が雨で不透明になった件


事件か事故かの二価論理

2022年10月05日 | 時事

江戸川で発見された少女の遺体は、溺死ということだった。
これで、世間は一気に事故死説に傾き、ネットでは事件説を唱えた者への揶揄が始まった。

私は、この件は、道志村での行方不明少女の件と同じく、事件と事故の合わさった内容の可能性を否定できないと思っている。
すなわち少女はともに、自発的に最後の場に赴く可能性が物理的障害によってかなり低く、誰かにその場所に連れていかれ、突き落とされた結果の死亡、言い換えれば、犯人は少女を直接自らは殺害はせず、「未必の故意」の状況に持っていって、結果的に死に追いやった可能性である(犯人がいるとすれば、衝動的でなく、特殊な嗜好性を持っていて、犯行を繰り返しそう)。

もちろんそれは、状況証拠をすべて考慮した結果で、証拠を自分のストーリーに合わせて任意に取捨選択し事件が事故のどちらか一方に結論を持っていくことをしなかったためである。
事件と事故は両立せず、どちらか一方しか該当しない、という発想は、私が本来的に採用を控える”二価論理”である。

二価論理は、素朴な概念操作(論理)に潜むバイアス(判断の歪み)であり、二価的でない、より複雑(確率論的)な現実事象に適用できない(二次元は三次元を正確に記述できないように)。

単なる思考癖に過ぎない二価論理に甘んじている限り、主観的に解った気になるだけで満足する通俗知に止まり、複雑性に満ちた現実をその複雑性もろとも理解しようとする学知には永遠に至らない
※:大学では複雑性に謙虚に立ち向かう探求姿勢を教えているが、社会に出ると単純化することだけが求めらるようだ(単純化の限りを尽くしてA4一枚に収める思考の節約が求められる)。私がマスコミの関与を避けるのも、心理現象を暴力的なまでに単純化をしたがる姿勢に迎合したくないため。

こういう人には、瞑想する暇があったら、まずはシステム2の知を洗練させることをお勧めする。


”私”の二重性の心理学2:瞑想で体験すること

2022年10月03日 | 心理学

”私”の二重性の心理学1の続き

自我が「極自我」(経験主体)と「自極」(絶対主観)に分離できるのは、自極はそもそも自我に先行して出現し、動物レベルで実現している「システム1」において発生しているのに対し、自我は人類の心が「システム2」を創発させることで後から発生して、現生人類に至って自極と接合したからである。
すなわち、これら2つはもとより心を構成する別個の部品であるため、構造的に最初から分離可能なのである。

個体発生的にも、胎児・新生児の段階では、自我はほとんど未発達であるため(個体発生は系統発生を繰り返す)、しばらくは意識(覚醒)では自極のみが作動する(この期間の記憶がないのも、自極自体には記憶能力がなく、それが可能な(極)自我が未熟だったためである)。

ただ、すでに極自我が自極とうまく接合している(自我が健常に機能している)健常者にとっては、気づいた時からそれらが統合された”1つの”私として経験され続けてきたため、これまでの二重性の議論は経験外の話でしかなかったろう。

でもそのような健常者(一般人)でも、極自我と自極の分離、すなわち「”私”の二重性」を、健全性を保ったまま経験できる手法がある。
それが瞑想である。

ただ、瞑想にトライした人なら実感したと思うが、統合された自我のままで”無心になる”というのはかなり不自然・無理な営為である。
自我(システム2)のままで瞑想、すなわちじっと坐るだけで何もしない(すなわちシステム1を停止する)と、その制御の任から解放されたシステム2(自我)が自由気ままにさまよい出す(睡眠中の夢もこれ系の現象だと思っている)。
それを「マインド・ワンダリング」(心のさ迷い)という。
瞑想初心者は、このシステム2にプログラムされた「マインド・ワンダリング」と必死に戦い、それを抑止しようと苦闘する。
これが問題なのだ。

何が問題なのか。

前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』の著者が指摘した問題として表現すると、瞑想は自我の束縛から自由になることが目的であるべきなのに、多くの人はその自我のままで素朴に瞑想していること。
自我の束縛から離れるには、自我とは別の”私”を実現する必要があるのに。
すなわち、素朴な瞑想では、たかだかリラックスできる程度が関の山で、本来仏教が目指す根本問題(自己を苦しめている自我)の解決ができない。

自我の束縛から離れた私とは、もちろん自極のことである。
自極は本来的に、極自我に束縛されない独自の運動性を持っていて、自極が極自我から離れられるのは難しいことではなく、安永が理論的に保証している(実は自極は最初から極自我とズレているという)。

私から見ると、普通の「マインドフルネス」をやっていけば自然に極自我から自極を分離できておかしくないのだが(だがそう指導している本はない)、この分離可能性がそもそも頭にない人は、却って自我※に入り込んでしてしまうのかもしれない。
※:極自我と自極が接合しているシステム2の状態を「自我」と表現する。

ここでは”私”の二重性体験の一番簡単なエクササイズを紹介する。
これは安永の「姿勢覚」のエクササイズ(マインドフルネスのボディスキャンに相当)を応用したもの。

まず、任意の姿勢で坐って閉眼する。
そして自分の主観点(自極)が自分の身体から離れて、天井に達し、天井から今坐っている自分を見下ろすことを映像的に想像する。
これだけ。

これは大げさに言えば、「幽体離脱」の想像である。
ポイントは、坐っている自分の身体感覚(それを感じているのは極自我)を維持したまま、天井から見下ろす視野だけをイメージする点(こちらの身体感覚は不要)。
すなわち坐っている自分(極自我)と、そこから分離して天井からその自分を見下ろしている別の自分(自極)を、同時・二重に経験することのシミュレーションである(注意:このエクササイズは一種の精神の分裂(統合の解除)・人格の二重化の体験なので、自我が衰弱している人はやらない方がよい)。

これが副作用なくできたら、瞑想時にこれを活用する。

坐禅なら、坐禅をしている自分と、それを眺めている自分とを分離する。
この同時性が”私”の二重性である。
この二重状態になったら、坐禅をしている自分よりも、それを任意の方向から眺めている自分の方に主体の比重を移していく。
坐禅という行為をしている方の自分(極自我)は呼吸や足の痛みなどの身体感覚もリアルに感じ、さらに雑念も湧いている。
一方、それを眺めている自分(自極)は、ただ眺めているだけで、それ以外の何もできない。
でも自己の比重はこちらに移っている。
すなわち、今メインになっている私は、坐禅をしておらず、足の痛みも感じず、雑念も湧いていない※。
※書いていて気づいたのは、入門的瞑想の数息観(すそくかん:呼吸を数える瞑想)も呼吸している自分(極自我)とそれを数える自分(自極)の分離の訓練になりそう。

この極自我(システム2の自己)と分離した自極が、システム3の自己だ。

私にとって瞑想とは、意図的にこの二重経験をする、すなわち通常の生活では達成できない、システム3の創発という”心の次なる進化”のほとんど唯一の営為だ。

瞑想とは、健常者が心の健全な状態を保持しながら、極自我と自極の乖離を、病的な解離(極自我の衰弱)の方向でなく、正常に機能する極自我からの超出(システム3)として経験する、画期的方法である。
このような経験をしない瞑想(もどき)は、例えば接合した自我のままで必死に無心になろうとしているようなものは、苦しいだけで瞑想に値しない。

実はかつて瞑想をする時、自分が瞑想した気になっているだけで、きちんと瞑想ができていないのではないかという懸念があった。

瞑想の師についているわけでもなく、また自分の内的状態を他者に説明するのも難しく、そして心理学をやっている手前、より客観的に瞑想の質を評価する方法を求めた。

そこで  Museというアメリカ製の4箇所からの脳波によるニューロ・フィードバック装置(タブレットに接続)を購入して頭につけて瞑想してみた。
この装置は、瞑想の熟達者たちの脳の状態をデータに、それらと同じパターンを示した場合に、鳥の声などで瞑想者にリアルタイムでフィードバックするものである。
※:昔は1箇所の脳波がα波であればいいという単純な装置ばかりだったが、その当時でも禅僧が瞑想中は前頭部からθ波が出ることがわかったように、脳波の状態も複雑である。
まず、一生懸命に無心になろう(α波でβ波の出現を消そうと努力)としても鳥は鳴かない。
また、睡魔に襲われてウトウトして努力なしで無心になっている時(θ波が出ている?)も鳥は鳴かない。
ところが、自我と極自我を遊離して、瞑想している自分を眺める状態になると、鳥の鳴き声が止まらなくなる。
かくして、私は Museのトレーニング課程を卒業した。

私は瞑想を自己目的化したくないので、必要以上には瞑想はしない。
瞑想はある意味、とても心地よいので、依存(現実逃避)しないためである。
もっと正直にいうと、私の日常は、思考や判断などシステム2を高性能に作動することが無限に求められるので(日常生活にはシステム1・2が必要)、瞑想をやっている暇がない。
それに自我の束縛に苦しんでいないので、瞑想の方を優先する理由はない。
やろうと思えばいつでも二重になれるし。

”私”を二重にできる瞑想は”今”をたっぷり味わえる。
今よりも過去や未来ばかりを気にしている極自我(現存在)から離れて、逆に”今”しか経験できない自極に浸っていると、”今”がどんどん細分化されていく。
そしてアニメでスムースな”流れ”に見える動きは、実はセル画間の非連続的連結によるものであるように、”時”それ自体も流れ(流体)ではなく、一定幅の時間単位が消えては現れる非連続的連結であることが実感されてくる。
仏教でいう「刹那滅」だ(これも諸法無我?)。

仏教は、頭(観念=システム2)で思考されただけの”思想”ではなく、瞑想(瑜伽行=システム3)によって(のみ)体験された現象を記述しているものであることがわかる。
時の”流れ”は、アニメと同じく、(極)自我の錯覚なのだ。

かように瞑想は、日常生活では素通りしている”今(刹那)”をじっくり体験する充実感に浸れる。

同じ二重性は意識にも→意識の二重性


"私”の二重性の心理学1:病理現象として

2022年10月03日 | 心理学

前記事(『〈仏教 3.0〉を哲学する』:”私”の二重性)で問題となった"私の二重性について、心理学の立場から解読する。

まず、アメリカ心理学の祖であるW.ジェームズにおいて、自我の二重性が説かれている。
ジェームズは自我(ego)を主我(I)客我(me)に分けた。

「私は〜だ」(I am  〜.)と言う場合の、「私」が主我で、その主我が自分だと認識している諸属性「〜」が客我である(I am me.)。
客我は主我が(認識)対象化した自我の構成分であり、主我は対象化する側の自我で、意識主体であり、これは意識対象化されない(といっても客我の根拠は主我である)。

客我は対象化された主我の(意識、思考、行動)の記憶的累積物で、心理学用語でいう自己概念、自己イメージ、アイデンティティ、自分らしさ等は客我を意味する。
なので質問形式の心理テストでの自己についての回答は、主我が認識している客我の内容である(投影法テストでの反応は主我の内容)。
アイデンティティがそうであるように、客我は主我にフィードバックされ、主我は客我と整合した状態であろうとする。

この主我と客我の二重性は、システム2の意識活動において容易に自覚されるものであり、これが哲学者や瞑想経験者が説明に腐心した”私”の二重性ではない
ただここから始めたのは、前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』では”私”は本来は主我を指すべきなのだが、説明の一部に客我が混じっていたため、まずはこの区別から出発したかったのである。

言い換えると、通常、主我と客我の区別(客我の自覚)ができる人でも区別がつかないのが、前書の主題であるはずだった。

自我機能は人類において創発された心のサブシステムである「システム2」に至って作動する。
それは心の反応主体を自覚する機能である。
システム2の主役はこの自我であり、自我の主体は主我である(以後、客我は議論の枠から外す)。

その主我自体が、2つの機能体の合成であること(=”私”の二重性)は、通常は気づかれないが、自我機能の不全によって、それが顕在化することがある。
その微妙な二重性を病理の視点から理論的に明らかにしたのが、精神医学者の安永浩である。

彼は統合失調症者における、させられ体験、すなわち自己の背後から自己に行動を命令する力(声)を感じる状態を彼独自の「ファントム空間モデル」で示した(そのモデルの説明は省く)。
そのモデルによれば、自己、心理的には自我が、心的空間(こればこのモデルのミソ)を構成していて、その中に複数の自我図式群(身体図式の図式と同じく、図式という内実を備えている)があり、その中で体験起点に位置するのが(ジェームズの「主我」に相当する)「極自我」である。
極自我は通常は絶対主観点である「現象学的自極」(以下、自極)と概ね一致している(心的空間内で同位置。ただし健常者でも微妙にずれているという)が、たとえば統合失調症における「させられ体験」では、自極が対象(外界)側にのめり出ることで極自我と乖離し、自極にとっては背方の極自我からコントロールを受けている実感を覚える(図の「のめり体験」)。

極自我と自極の乖離は、健常者においても一時的な変調として経験できることを私は実体験した(右図そして以下は、著書『私とあなたの心理的距離』(青山社)より)。

「スピードを出して車を運転し、カーブを曲がったらその先に大型車が出てきた。 あわててブレーキを踏むのだが、車がスリップしてハンドルをとられる。「このままではぶつかる!」と思ったその瞬間、以下の体験した。
反射的に自分の心理的位置が、運転している自分から更に後ろに引き離れた。自分が後ろに退(ひ)きながらも、運転している自分は、頼もしくも危機回避行動反応(ハンドルを切る、ブレーキを踏むなど)をし、視線はもちろん前方を凝視していた。そして危機を脱すると 再びもとの状態に戻った。この間の出来事は一瞬(1秒前後)である。」

この現象は、その瞬間、自己が主観性を維持したまま、自極と(知覚・判断・行動主体としての)極自我の2つが分離し、自我分裂を生じるまでもない間に、元 の1つの主観に戻ったのである。
その瞬間は自我の分裂であるから、二重意識のような状態になる。
ひとつは危機に際して目を見開いて対処しようとしている意識(知覚内容はこちらのみ)、他はその現実に対して離人症的な距離感をもって上の自己の背後に隠れるという実感だけの意識である。
前者(リアルな世界に主体として 対処している自己)から後者(何もしない主観機能のみ)が分離したようである。
分離しただけであるから、前者の自我の行動も記憶も阻害されない。
といっても鮮明に体験したのは、一瞬の自我の分裂感、その瞬間生じた異様な「すき間」である。
この時は、あまりに突発的な危機のため、情動反応は間に合わず、情動的パニックとは正反対の、情動が凍り(フリーズ)、一見冷静ながら、実は自分に対して無責任になっているような状態だった。
これは死に瀕するほどの強い刺激を外界から受けた場合、その体験強度を弱めるために、自極が行動主体である極自我の背後に逃げ込んで(図の「退き体験」)、心的空間内のバッファ(余裕)を取ろうとしたものと安永理論的に解釈できる(この反応のより強い形態が”失神”という自我のシャットダウン)。

ついでに、分離した2つのどちらがより自分自身に近いのかと問われれば、迷うことなく退いた自極の方を選ぶ。
運転していた極自我は、危機回避のための心身の反応図式を所有している主体であり、その時の内的・行動的状態を反省(図式対象化)できる。
それに対して「退いた」自極は図式とえる中身をもたない。
その自極は時として自我図式空間の中さえも移動する究極の我(コギト)である
※:生命の危機に瀕する時に、懸命に事態に対処している自分(極自我)とそれを無責任に眺めている自分(自極)とが分離することは、2015年新幹線放火に遭遇した時にも経験した。

この自極と極自我との分離は、安永が説明した統合失調症だけでなく、失神を含んだ解離性障害(古い表現だと「ヒステリー反応」)においても異なる様相で発生するといえる(これを記述するのは本記事が初めて)。
まず解離性健忘・解離性遁走のようないわゆる「記憶喪失」・「蒸発」は、心因性の力によりかつての極自我が自極から離れて、その自己としての内実が自極に把握できなくなった現象と説明できる。
つまり自極は明晰に覚醒して、世界との前面に位置しながら、私としての内実(アイデンティティなどの記憶内容)が離脱しているため、極自我にもとづく対応がまったくできなくなっている状態である。
このような大きくしかも持続的な乖離は、私が経験したような瞬間的な自我の変調(最も軽微な変調症状は「離人感」)とは異質の病理現象である。
※:離人感は統合失調症と解離性障害に共通する症状で、私は小学校6年の夏祭りの場で初めて経験した。ちなみに私は2つのどちらも発症していない。

ただし、あくまでシステム2レベルの自我乖離であるため、システム1における、無自覚的に反応できる生得行動や学習行動との関係は支障がなく、言葉も普通にしゃべれるし、習熟したピアノを弾けてもおかしくない。
すなわち自我乖離はあくまでシステム2における自我内の乖離であり、他のサブシステムおよびそこと自極との間は問題ではない。

さらに解離が重篤な解離性同一性障害(多重人格)は、極自我が複数発生し、それらが交代で自極と接合するようになった異常状態である。
自極と接合可能な複数の極自我が、それぞれ固有(別個)の内実(性別、年齢、パーソナリティ、記憶)を保持している(客我も異なっている)。
またそれら複数の極自我の間で自極との距離(接合しやすさ)に差があり、もっとも接合しやすい極自我が”主人格”とされる。
ただし自極と極自我との接合・乖離の動きの主体は、現在において任意に可能ならば、自極が主体といえるし(自極は心理作用は持ちえないが)、勝手に人格が交代するならば、極自我間の力関係に依存しているといえる。
※:自極と極自我の分離現象を”乖離”と表現し、それが障害となる場合を”解離”とする。

このように極自我と自極の一体性が阻害される病理現象(乖離→解離)が存在し、それらは健常者にとってはすこぶる異様な自我障害の様相を呈する(その意味では、以上の”私”の二重性についての心理学的説明も了解しにくかったかもしれない)。
だがたとえ病理的であっても、これらの現象から、自極と極自我は分離可能であることには変わりなく、それは人の自我のあり方の可能性を示している。

そして、この現象を非病理的に、自我の行き詰まりを打開し、自我からの束縛を解放する、すなわちシステム2の限界を突破するために積極的に活用しようとするのが、瞑想である(すなわち前書の主題)。
瞑想は既存のシステム2による黙考や単なるリラックス法ではなく、心の多重過程の進化を引き出す画期的な心の開発法なのである。