”私”の二重性の心理学1の続き
自我が「極自我」(経験主体)と「自極」(絶対主観)に分離できるのは、自極はそもそも自我に先行して出現し、動物レベルで実現している「システム1」において発生しているのに対し、自我は人類の心が「システム2」を創発させることで後から発生して、現生人類に至って自極と接合したからである。
すなわち、これら2つはもとより心を構成する別個の部品であるため、構造的に最初から分離可能なのである。
個体発生的にも、胎児・新生児の段階では、自我はほとんど未発達であるため(個体発生は系統発生を繰り返す)、しばらくは意識(覚醒)では自極のみが作動する(この期間の記憶がないのも、自極自体には記憶能力がなく、それが可能な(極)自我が未熟だったためである)。
ただ、すでに極自我が自極とうまく接合している(自我が健常に機能している)健常者にとっては、気づいた時からそれらが統合された”1つの”私として経験され続けてきたため、これまでの二重性の議論は経験外の話でしかなかったろう。
でもそのような健常者(一般人)でも、極自我と自極の分離、すなわち「”私”の二重性」を、健全性を保ったまま経験できる手法がある。
それが瞑想である。
ただ、瞑想にトライした人なら実感したと思うが、統合された自我のままで”無心になる”というのはかなり不自然・無理な営為である。
自我(システム2)のままで瞑想、すなわちじっと坐るだけで何もしない(すなわちシステム1を停止する)と、その制御の任から解放されたシステム2(自我)が自由気ままにさまよい出す(睡眠中の夢もこれ系の現象だと思っている)。
それを「マインド・ワンダリング」(心のさ迷い)という。
瞑想初心者は、このシステム2にプログラムされた「マインド・ワンダリング」と必死に戦い、それを抑止しようと苦闘する。
これが問題なのだ。
何が問題なのか。
前書『〈仏教 3.0〉を哲学する』の著者が指摘した問題として表現すると、瞑想は自我の束縛から自由になることが目的であるべきなのに、多くの人はその自我のままで素朴に瞑想していること。
自我の束縛から離れるには、自我とは別の”私”を実現する必要があるのに。
すなわち、素朴な瞑想では、たかだかリラックスできる程度が関の山で、本来仏教が目指す根本問題(自己を苦しめている自我)の解決ができない。
自我の束縛から離れた私とは、もちろん自極のことである。
自極は本来的に、極自我に束縛されない独自の運動性を持っていて、自極が極自我から離れられるのは難しいことではなく、安永が理論的に保証している(実は自極は最初から極自我とズレているという)。
私から見ると、普通の「マインドフルネス」をやっていけば自然に極自我から自極を分離できておかしくないのだが(だがそう指導している本はない)、この分離可能性がそもそも頭にない人は、却って自我※に入り込んでしてしまうのかもしれない。
※:極自我と自極が接合しているシステム2の状態を「自我」と表現する。
ここでは”私”の二重性体験の一番簡単なエクササイズを紹介する。
これは安永の「姿勢覚」のエクササイズ(マインドフルネスのボディスキャンに相当)を応用したもの。
まず、任意の姿勢で坐って閉眼する。
そして自分の主観点(自極)が自分の身体から離れて、天井に達し、天井から今坐っている自分を見下ろすことを映像的に想像する。
これだけ。
これは大げさに言えば、「幽体離脱」の想像である。
ポイントは、坐っている自分の身体感覚(それを感じているのは極自我)を維持したまま、天井から見下ろす視野だけをイメージする点(こちらの身体感覚は不要)。
すなわち坐っている自分(極自我)と、そこから分離して天井からその自分を見下ろしている別の自分(自極)を、同時・二重に経験することのシミュレーションである(注意:このエクササイズは一種の精神の分裂(統合の解除)・人格の二重化の体験なので、自我が衰弱している人はやらない方がよい)。
これが副作用なくできたら、瞑想時にこれを活用する。
坐禅なら、坐禅をしている自分と、それを眺めている自分とを分離する。
この同時性が”私”の二重性である。
この二重状態になったら、坐禅をしている自分よりも、それを任意の方向から眺めている自分の方に主体の比重を移していく。
坐禅という行為をしている方の自分(極自我)は呼吸や足の痛みなどの身体感覚もリアルに感じ、さらに雑念も湧いている。
一方、それを眺めている自分(自極)は、ただ眺めているだけで、それ以外の何もできない。
でも自己の比重はこちらに移っている。
すなわち、今メインになっている私は、坐禅をしておらず、足の痛みも感じず、雑念も湧いていない※。
※書いていて気づいたのは、入門的瞑想の数息観(すそくかん:呼吸を数える瞑想)も呼吸している自分(極自我)とそれを数える自分(自極)の分離の訓練になりそう。
この極自我(システム2の自己)と分離した自極が、システム3の自己だ。
私にとって瞑想とは、意図的にこの二重経験をする、すなわち通常の生活では達成できない、システム3の創発という”心の次なる進化”のほとんど唯一の営為だ。
瞑想とは、健常者が心の健全な状態を保持しながら、極自我と自極の乖離を、病的な解離(極自我の衰弱)の方向でなく、正常に機能する極自我からの超出(システム3)として経験する、画期的方法である。
このような経験をしない瞑想(もどき)は、例えば接合した自我のままで必死に無心になろうとしているようなものは、苦しいだけで瞑想に値しない。
実はかつて瞑想をする時、自分が瞑想した気になっているだけで、きちんと瞑想ができていないのではないかという懸念があった。
瞑想の師についているわけでもなく、また自分の内的状態を他者に説明するのも難しく、そして心理学をやっている手前、より客観的に瞑想の質を評価する方法を求めた。
そこで Museというアメリカ製の4箇所からの脳波によるニューロ・フィードバック装置(タブレットに接続)を購入して頭につけて瞑想してみた。
この装置は、瞑想の熟達者たちの脳の状態※をデータに、それらと同じパターンを示した場合に、鳥の声などで瞑想者にリアルタイムでフィードバックするものである。
※:昔は1箇所の脳波がα波であればいいという単純な装置ばかりだったが、その当時でも禅僧が瞑想中は前頭部からθ波が出ることがわかったように、脳波の状態も複雑である。
まず、一生懸命に無心になろう(α波でβ波の出現を消そうと努力)としても鳥は鳴かない。
また、睡魔に襲われてウトウトして努力なしで無心になっている時(θ波が出ている?)も鳥は鳴かない。
ところが、自我と極自我を遊離して、瞑想している自分を眺める状態になると、鳥の鳴き声が止まらなくなる。
かくして、私は Museのトレーニング課程を卒業した。
私は瞑想を自己目的化したくないので、必要以上には瞑想はしない。
瞑想はある意味、とても心地よいので、依存(現実逃避)しないためである。
もっと正直にいうと、私の日常は、思考や判断などシステム2を高性能に作動することが無限に求められるので(日常生活にはシステム1・2が必要)、瞑想をやっている暇がない。
それに自我の束縛に苦しんでいないので、瞑想の方を優先する理由はない。
やろうと思えばいつでも二重になれるし。
”私”を二重にできる瞑想は”今”をたっぷり味わえる。
今よりも過去や未来ばかりを気にしている極自我(現存在)から離れて、逆に”今”しか経験できない自極に浸っていると、”今”がどんどん細分化されていく。
そしてアニメでスムースな”流れ”に見える動きは、実はセル画間の非連続的連結によるものであるように、”時”それ自体も流れ(流体)ではなく、一定幅の時間単位が消えては現れる非連続的連結であることが実感されてくる。
仏教でいう「刹那滅」だ(これも諸法無我?)。
仏教は、頭(観念=システム2)で思考されただけの”思想”ではなく、瞑想(瑜伽行=システム3)によって(のみ)体験された現象を記述しているものであることがわかる。
時の”流れ”は、アニメと同じく、(極)自我の錯覚なのだ。
かように瞑想は、日常生活では素通りしている”今(刹那)”をじっくり体験する充実感に浸れる。
同じ二重性は意識にも→意識の二重性