今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

生成AIが作った観音像

2024年05月29日 | パソコン・メディア

マイクロソフト系の生成AI(Bing)は登録なしで気楽に使える。
しかも文章だけでなく画像生成AIのDesignerを使うとプロンプト(指示文)で指定した画像を作ってくれる。
 Adobeの FireflyだとPhotoshopのアプリを購入する必要があるが、Designerは無料。

早速、「美しい女神のような観音菩薩」とリクエストした(”観音様”では失敗)。
すると暫く時間をとった後、右のような画像を4パターン出してくれた。
ファイルはjpegで画質的にも満足。
周囲の羽の生えた魚などはあちらが勝手に作ったもの。
実はその前に「観音様のような美しい女神」としたら、着物を来た女性の画像となった。
すなわち、プロンプトにおける形容と主体の論理関係を意識する必要がある。
次に、観音菩薩の代わりに”如意輪観音”や”吉祥天”とするとこれらは全くダメ(全く外れた画像を作ってくる)。
AIのデータベース(参照先)にこれらの情報がないようだ。

Fireflyでも富士山の画像は山梨吉田口からの方向のものしかなく、静岡側の宝永火口が(指定しても)出せなかった。
これらはネット上の情報検索がうまくいってないからだろう。

これらを使ってイメージに合う画像を求めるには、プロンプトの工夫以前に、生成AIのデータベースを増やしてもらうのを期待するしかない(こちらがネット上に画像情報を提供すればいいか)。


本日の強風の理由

2024年05月28日 | お天気

本日、名古屋での午後4時ごろ、会議のため大学に行こうとして、傘をさして駅に向かっていたら、一陣の強風で傘がバラバラに壊れた。
強い雨も降っていて、雨を防ぐ道具がなくなったのでびしょ濡れになって家に引き返し、着替えて車で大学に向かった。


さて、気になったのは、台風からずっと離れているのになんで強風が吹いたのか(雨は梅雨前線で説明可能)。

Windyというアプリで日本付近の風の分布を見ると、風速の分布では紀伊半島南方に強風域があり、そこの風向を見ると南西と南南西の風が収束(合流)している。

そして大さっぱに言うと、台風の東側一帯は南寄りの風になっていて、それが本州上の梅雨前線にぶつかっている。
そこに風の収束帯ができて、収束すると速度が増し(運動量保存の法則)、気圧が低下し(ベルヌーイの定理)、上昇気流を生んで低気圧が発生する。
※:とても重要な法則で、台風や竜巻だけでなく、ビル風や隙間風も説明できる。要するに、風の強さは、風ベクトルの方向に沿った気圧差と、そのベクトルに直角に作用する収束度合い(”風束密度”とでも言うべき)によって決まるということ。
この収束帯と小さな低気圧が、東海地方の強雨と強風をもたらした。

この現象はフィリピンの北にある台風1号の直接の影響ではなく、台風の東側に広がる南風帯が本州上の停滞前線にぶつかることで、収束による強風と低気圧化による降水をもたらした。


台風でなくても、あるいは天気図レベルで等圧線が混んでいなくても、風の収束帯で強風が発生するということは、天気図では情報不足で、Windyのような風の分布もチェックが必要だと痛感した。

ついでに、風の収束帯は停滞性の強雨をもたらす「線状降水帯」も作りうる。


熱海の七湯巡り・MOA美術館

2024年05月27日 | 東京周辺

熱海に1泊したので、チェックイン前とチェックアウト後に熱海の街を歩き、また熱海第一の観光施設であるMOA美術館を訪れた。

思えば、幼い時から家族旅行で熱海には数え切らないほど訪れたのに、駅前のアーケードの先の街中を歩いたことはなかった。

熱海を観光地として再認識しているので、まずは熱海の街中のスポット巡りをする。


そのスポットといえば「熱海七湯」である。
駅前のアーケードから熱海銀座を抜けて、少し山側に入ると「野中の湯」がある。
こじんまりした温泉の湧泉であり、足を含めて入浴できるわけではない。
少し進んで藤森稲荷神社を仰ぎ見る所を海側に下りると小澤来宮弁天の小さな祠と付近に供給する温泉搭があり、さらに下るとバス停前に「小沢の湯」があり、ここは温泉卵がぎっしり詰まっている。

湯汲坂を右折すると「大湯間歇泉」があり、その先に湯前神社がある。
神社を先に参拝して、間歇泉に戻ると、今は人工的に操作される間歇泉が丁度噴き出していた(写真)。

高台にある温泉寺(臨済宗)に立ち寄り、樹木に彫られた仏像の写真を撮り、坂を下って国道135号線に出る。
ここから韓国系のスナックが並ぶ大通りを進んで、ホテル大野屋に着いた。


翌日、チェックアウトして、国道135号線を戻り、熱海銀座の通りに入って、「佐治郎の湯・目の湯」を過ぎて、暖かくない「水の湯」を過ぎて、熱海駅に達する。


駅前の8番乗場から「MOA美術館」行きのバスに乗り、急坂を上ってほどなくMOA美術館前に着く。

ここは世界救世教という新興宗教団体が経営する美術館だが、豪勢な建物の造りと収蔵品の質の高さで、熱海一のミュージアムとして有名(写真)。

ちなみに、MOAは「モア」と発音しても通じるが正式には「エム・オー・エイ」と発音する。
入口に100円が戻るコインロッカーもあり、チケットはネットで購入すると安く買える(シニア料金はどこでも同じ)。
まずはトンネル内のエスカレーターを乗り継いで、別世界に進んでいく。

安藤広重の東海道五十三次の特別展と仁清の茶壺(国宝)を含む常設展を見学。
その他秀吉の黄金の茶室の復元、屋外の茶の庭には光琳屋敷の復元がある。

そして教祖・岡田茂吉氏がなぜこのような美術館を造ったのかを説明するブース。
それによると、一般の人が芸術に接するだけで、宗教活動として意味があるという。
言い換えれば、われわれ一般人は、ただ芸術を鑑賞すればそれでよく、この教団を意識する必要はない。
実際、館内のミュージアムショップは芸術家の作品はあるものの、この教団に関する書物などは一切ない。
館外に隣接する店が教団グッズの販売を専門にしていた。

新興宗教に元々関心のあった私は、世界救世教の分派と接触したことがあり、”浄霊”を専らにするそれらは、心霊主義(スピリチュアリズム)という点で私とも接点がある。
ただ私は、教義に関心はあっても、”教団”という(あまりに人間的な)社会集団には関心がないので(実際、この教団も内部でもめているらしい)、美術鑑賞だけで満足してここを後にした。

もちろん、こちらの方が街中の七湯巡りよりよほど充実している。
ちなみに熱海駅前にある「家康の湯」という足湯は配管トラブルのため閉鎖されていた。


熱海の大野屋に泊まる理由

2024年05月26日 | 温泉

帰京して日曜の晩に、熱海のホテル大野屋に泊まる。

ここは3月にも泊まったばかりの3回目の利用で、いわば東京からの”定宿”の候補となりつつある。

ここのところ全国各地の宿が軒並み値上がりし、たとえば自分の標準価格帯とみなして年に数ヶ所利用する休暇村でも標準プラン12000円ほどだったのが17000円に、すなわち5000円ほど上がっている(休暇村は一人客だと割高になる)。
ここよりやや上のホテルだと、20000円の大台を超え出した。

もちろん円安による材料レベルの高騰、インバウンドでの需要高、人件費のアップが反映されていることは理解している。
ただ、こちらの収入はアップしていないのだ。

なので宿をグレードダウンせざるを得ない。
となると休暇村レベルからグッと下がる「安宿チェーン」がメインとなる。
安宿チェーンでも”大江戸温泉物語”や”湯快リゾート”はそれなりに宿代がアップし総じて5桁に達している中、伊東園はギリギリ4桁を維持してくれている。

そう、ホテル大野屋は伊東園の系列ホテルなので4桁で泊まれ、しかも伊東園なので食べ放題に飲み放題がつく。
これが理由の第一。


でも同一価格・同一サービスの伊東園ならどこでもいいというわけではない。
伊東園は発祥の地伊東をはじめとして伊豆に多く、北関東(群馬・栃木)にも多い。

伊豆において、熱海を見直している。
熱海は一時期、典型的な歓楽的温泉街だと思って敬遠してきたが、周囲の箱根湯本〜伊豆長岡・伊東の温泉地帯の中で、泉質が療養泉としてしっかりしていて、温泉として質が高いことを再認識した。
しかもこれらの地の中で交通の便が最もよく(新幹線も止まる)、周囲の観光スポットも充実している(伊豆大島にも日帰りで行ける)。
これが理由の第二。


その熱海において伊東園系列の宿が6館もある。
その中で大野屋を選ぶのはなぜか。

同じ熱海でも湯の泉質は宿によって異なる。
その中で大野屋の温泉は、すこぶる濃い(高張性:同じ系列のウオミサキホテルも)。
高張性の湯は日本では少ない(たいていは低張性)。
たとえば「花のお風呂」の浴槽内の電気伝導度を測ると、6350μS(41℃)で、私の定宿中津川温泉ホテル花更紗の2倍濃い。
温泉が濃いと成分が皮膚から浸透しやすくなるので、温泉の効果が効きやすくなる(はず)。
どうせ温泉に入るなら、濃い温泉がいいに決まっている
(単純泉などの薄〜い”温泉”は湯が皮膚に触れるだけで浸透しない。”温泉気分”を味わうだけ)。
これが理由の第三。


そしてここには、ローマ風呂という”テルマエ・ロマエ”的巨大浴場がある(ただし1日の中で男女入れ替え)
気分はローマ人のルシウス。
他の伊東園・熱海温泉では味わえない。
これが理由の第四。
※:寝る前に入れるローマ風呂の電気伝導度はなんと8600μS(42℃)! ここに入らずにおれようか。ちなみに他の露天や家族風呂は源泉が異なるようで3000台だった(3種の源泉があるようだ)。


伊東園系列なので、建物はバブリーながら古く、客室も古いか一人客用は狭い。
ただ、以前の伊東園よりはバイキング料理の内容がレベルアップし、そうなるとアルコール飲み放題が俄然ありがたくなる(ここが他の安宿チェーンより上)。

ということで、従来の宿を2万近く払って泊まるより、1万でお釣りが来ていい湯・浴室と食べ放題・飲み放題を堪能できる方を選ぶというわけ。


トイレの洗浄器が故障?

2024年05月23日 | 生活

2泊の旅行を終えて名古屋宅(賃貸)に帰宅した翌朝、いつものように朝のトイレで大をして、洗浄器※のスイッチを入れたが無反応。
※:後から個人の出費で取り付けたもの。年数はかなり経っているが、これより長い洗濯機・冷蔵庫・電子レンジがいずれも正常稼動。ちなみに便器に取り付けるので洗浄”器”とした。

旅に行く前は正常動作で、異状の兆候は全くなかった。
旅の期間中、工事による断水はあったが、電気的には問題ないはず。

改めてコンセントを差し込み直し、電源スイッチを入れ直したが、やはり無反応。
だが、便座と温水の温熱スイッチはちゃんと入る。

洗浄用のタンクの口を開けてみたら、水はちゃんと満タンだった。

電気的にも水的にも問題ないので、逆に無反応の理由がわからない。
考えられるとすればノズルが動きたくても動かない状態になっている以外にないが、ノズルが動こうとする気配がない。

こうなると作動しない現実が嘘っぽく思えて、そのうち幾度がスイッチを押せば直るだろうと楽観した。
機械は、生物のように自然治癒の能力がないので、この楽観に根拠は全くないのだが、なぜか致命的な故障とは思えなかった。

といっても、今さら洗浄器なしのトイレ生活は考えられないので、こういう時のために、手動の洗浄器を旅行バッグに入れておいた。

次回は、それに水を入れて、事後に手動の洗浄器を使用してみた。
ついでに機械の洗浄器のスイッチを押してみたら、そちらからの水が出てきた(手動よりそちらの方が的が正確だった)。
なぜか直ったのだ。

ライバルとして手動の洗浄器を使ったことが影響があるのか。
実は、パソコンなどで新機種を買った時、旧機種が不可解な(感情的と言っていい)反応をすることがままあった。
今回もその一種なのか。
いずれにせよ、直ってよかった。


カエル館のパワーが治癒効果?

2024年05月20日 | 茶臼山カエル館計測

20日はまずは1年ぶりに愛知最高峰の茶臼山(1416m)の山頂に登り、
茶臼山とともに茶臼山高原を形成している芝桜が盛りの萩太郎山(1359m)を望み、
カエル館に行ってその奥の山腹にある絶滅危惧種「ヤマシャクヤク」の群落を拝む(写真)。

茶臼山には、他にも絶滅危惧種の植物が見られ、また「ワン」と鳴く珍しい天然記念物のネバタゴガエルが生息する、動植物にとって貴重な場所。

そして以下に示すように人間にとっても貴重な場所となりつつある。

茶臼山の旅の主目的であるカエル館だが、館内のパワースポットの威力は健在どころか、むしろ効果がパワーアップしているようで、最近では館内の強磁場スポットに座ると四十肩・五十肩の痛みが取れたという人が続出しているとのこと。

昔は、手足のビリビリ感や温感などの”違和感”でしかなかった生体反応だったが、
体幹部の治癒効果が発生するのはパワースポットとして価値が上がる(その機序については全く不明)。
ただし、ここで症状が軽減しても、ここを離れると元に戻るようだが。
そういう人は、足繁く通ってもらうのがいいかも。


売木村に泊まる:追記あり

2024年05月19日 | 

毎年の今頃(と秋)、愛知の屋根・茶臼山高原に2泊する。

今や盛りの芝桜を見るためではなく、長野県側にあるカエル館内のパワースポットでの計測のため。
それについては次回の記事にし、ここでは宿泊先について述べる。


以前は、2泊ともカエル館に近い高原上の唯一の宿”休暇村茶臼山高原”にしていたが、コロナ禍以降、休暇村が強気の料金設定になったので、1泊目は他のもっと安い宿に変更することにした(私の旅の目的が”リッチな気分を味わう”のではないため)。

茶臼山周辺には、まず同じ愛知の豊根村・高原の中腹に民宿”清水館”がある。
ここには宿からのお誘いで泊まったことがある→記事
部屋も広く食事がすごい豪勢で、サウジアラビアからの女子学生の合宿先ともなっている。
また茶臼山高原道路を降りた麓には、山中の一軒家風の民宿”設楽山荘”があり、ここは一応風呂が温泉になっているし、食事も満足。


長野県側の根羽村には適した宿がないが、その東隣の売木(うるぎ)村には宿がいくつもある。
売木村は、南で愛知県豊根村と接する山に囲まれた盆地で、中央に売木川(天竜川に注ぐ)が流れ、村を囲む4箇所の峠のうち、2箇所が売木峠という”売木”に満ちた所。
南信の他の町村と同じく目立った観光地はないが、愛知からは気軽に高原気分が味わえる身近な信州である(豊田市と接する根羽村は谷なので高原気分は味わえない)。

軽井沢や富士見高原と違って東京からは遠いが、村内の名所・名物を歌った「売木音頭」という曲(歌:山門忠司)が発売され、私もここに行く時の車内音楽にしている。


まず、ちゃんとした温泉旅館の”森の宿遊星館”。
ここは目の前に間欠泉を見ることができ、夕食の豪勢な鉄板焼きも評判。

売木村には日帰り温泉”こまどりの湯”があり、さらに村の自然休養村にある”ささゆり荘”も温泉だ。
私が1泊目に利用しているのがここ。
料金が民宿並に安いながら温泉であること、さらに朝食なしでも泊まれるのが大きい(朝早くから豪勢な朝食は不要)。
夕食には地産の素材が使われ、中でも色々な植物・葉っぱの天ぷらが草食系の私には嬉しい。
売木村から茶臼山へは遠くないので1泊目で泊まって翌日もカエル館に気楽に行ける。
売木村には他に民宿やペンションもあるがこれらはまだ泊まったことがない。
2泊目の休暇村が温泉でないので、せめて1泊目は温泉にしたいのが一番の理由。


追記
翌朝、宿をチェックアウトして、売木の集落外れの岡にある宝蔵寺に行った。
ここは百観音の石仏が門の前に居並んでいる。
意外に近代的なお顔があって、十一面観音(写真)は私の美仏リストに登録したい。
また高台から眺める売木の里山風景も落ち着く。
この後、道の駅の食堂で「よりみちカレー」を食べ、茶臼山に戻った。


今まで訪れたスピリチュアル・スポット

2024年05月18日 | パワー・スピリチュアル

私が今まで訪れた場所で、強力な霊気を感じたり、計器が異常反応した所、すなわち心霊(浮遊霊)スポット+神霊(神格化した霊)スポット=スピリチュアル・スポットを紹介する(→記事元記事)。
※:何らかのパワー(力)が計測される”パワースポット”とは定義が異なる。


①東京大手町の将門首塚記事(訪問時の元記事、以下同)
ここはスピリチュアル・スポットとして既に有名だが、その客観的根拠を探りに行った。
その結果、地磁気(直流磁気)の計測によって、客観的な磁気異常を確認した。
まず首塚のある敷地内に入ると地磁気が減少し、首塚に近くにつれ、その減少度が増す。
塚の周囲を巡ると、塚の内部が磁気減衰の中心であることがわかる。
塚の中に強力な反磁性体が埋もれているかのようだ。
年をおいて複数回計測して同じ状態だったので偶然ではない。
そして、このような反応傾向の場所は、他にはない。


②埼玉狭山丘陵のトトロの森1号地付近記事
トトロの森1号地近くのある草むらに近づいたら、首から下げていた”ばけたん”が暴走反応を示し、制御不能になった。
※:固有のアルゴリズムによるお化け探知器。私は初代器から使っていて、霊感の師匠的存在。
いつもはばけたんは自動的に霊を探知していて、探知したのが心霊だと赤く、神霊だと青く光り、あえてその場を探知したい場合は探知ボタンを押すのだが(「何もいない」と緑に光る)、ここに近づくにつれ、赤と緑が交互に点滅し、それが止まらなくなった(こんな反応パターンは正常ではありえない)。
その後、電池切れになったらしく、反応が止まった。
帰宅して外電池を入れるとまたあの点滅になった。
あの場所で、回路が故障したようだ。

実は、ばけたんが暴走した草むらは、1週間前にキャミソールをつけた白骨遺体が発見された場所。
もちろん遺体の痕跡はなかったが、目に見えない何かがその場所に残っていたのかも。
ばけたんは霊の探知だけでなく、防御のバリアを張ることもできる。
ばけたんは身を賭して防御してくれたのか。


③群馬高崎の田村堂記事
ここは幕末の下仁田戦争で水戸の天狗党と戦って死んだ高崎藩士31名と民間人5名の全員が、当時の衣装をまとった木像として作られて祀られているお堂。
その姿が珍しいので、堂内の木像にデジタルカメラを向けて、電源スイッチを入れたら、カメラの動きが途中で止まって撮影不能になってしまった。
急いで堂から出て、外でカメラの電池を入れ直すと、今度は無事にスイッチが作動した。
これは「撮ってくれるな」という彼らの霊からのメッセージだと思い、もちろん堂内でカメラを向けることは止め、改めて合掌して死者たちの冥福を祈った。

このようにデジタル機器が反応することはよくあることで、それを利用した霊探知器もある。


④千葉県成田東勝寺の霊宝殿
江戸時代の義民・佐倉宗吾の墓のある東勝寺境内にある宗吾の遺品などを展示する建物。
館内に入ると”ばけたん”がにわかに青く光った。
館名はともかく、展示館の中で光ったことに驚いたが、後ろを振り返ると、そこには宗吾と連座した子どもたちの位牌が祀られていた。
彼らの死を悼む後世の人たちの祈りで霊が浄化されたのだ。


縁切榎・お岩墓・とげぬき地蔵

2024年05月12日 | 東京周辺

昨日の背中の痛みがすっかり癒えた本日日曜。
予定していた山の代わりに近所の散策に出かける。
お寺で御影を買う可能性もあるので、A4クリアファイルが入る昨日のリュックを背負って。

思いついた行先は、板橋の「縁切榎」(えんきりえのき)

別に縁切りの願掛けをしたいからでなく、こういう呪詛のような負の願掛けの名所も訪れてみたい。

場所は旧中山道の板橋宿にあり、都営地下鉄三田線の駅から近い。

どうせなら板橋宿の町中華で昼食をとろうと、三田線の「板橋区役所」で降り、
国道17号(現中山道)から東の細い道を通って旧中山道の仲宿の商店街に出る。
仲宿は日本橋から最初の宿場である板橋宿の中央の町で、今でも商店街で人通りが多い。
”旧街道を歩く”という趣味もじわじわ湧き起りつつある自分にとって、
こういう今でも賑やかな宿場町は楽しい。

さて、私が目をつけていた町中華は2軒とも、”日曜のランチを地元商店街の町中華で”という人たちの行列ができていた。
確かに閑散とした店は避けたほうがいいと思うが、行列に加わる気もしないので、
ある程度客が入ってしかも空席のあるチェーン店風の店に入り、
予定通り「五目かた焼きそば」を注文(可もなく不可もない結果だった)。

仲宿を北に進むとやがて石神井川に掛かる「板橋」を渡る。
そう、ここが板橋宿そして板橋区の地名の元。
昔は板製の橋だったわけだが、昭和になって車も通すため、コンクリの橋に変わった。
ただ雰囲気を残すため、色で板を演出している。

そこすぎて上宿のゆるい坂を上ると右手に縁切榎が見えてきた。
主役は榎なのだが、神社の境内のようになっていて、榎の前に立派な祠があり、その右側に、縁切りの願掛け用の絵馬が自販機で売られていて、その奥に絵馬に願掛けを記入する台がある(写真:下記の2人の背中が映っている)。
20代の女性が2人、それぞれ絵馬に記入中。
絵馬は願掛け記入部分をシールで貼って隠し、祠の左側の絵馬を掛けるスペースに、絵馬の側面を正面にして(普通の絵馬掛けと90°直角に)並べて掛ける。
その結果、膨大な数の縁切願掛けの絵馬が整然と並ぶ。
その風景を撮影したかったのだが、先の20代女性2人が絵馬を掛けるまで待っていると、
次に40代の女性が一人で来て絵馬を買って願掛けを記入し始める。
かように、次々と縁切りの願掛けの参拝者がやってくる。
ネットの口コミでも、現在もなお縁切りのパワーが落ちていないようだ。
そう、切るべき縁はスパッと切った方がいいが、
自力で切れない場合は、こうして大きな力に頼るしかない。
西新宿で殺された女性もここに願掛けしていれば…。

こういう怨念が溜まった場所には長居したくない。
それを祓う意味で、国道17号を渡って、浄土宗・智清寺(江戸時代の童女の墓が3基ある)、
そして本日訪れるにぴったりの真言宗・日曜寺(本堂の愛染明王を拝める)を参拝。

最寄りの「板橋本町」駅から三田線に乗って往路を戻り、豊島区の「西巣鴨」で降りる。
ここから17号を渡って寺町に入り、日蓮宗・妙行寺に行く。
ここはあの四谷怪談の”お岩さん”の墓がある所。

境内に入ってすぐの所に明治年間に建てられた「四谷怪談お岩様の墓」という大きな石柱がある。
さらに進むと、日蓮宗寺院に特有の水をかける浄行菩薩の石像があり、なかなかの美仏(写真)。

庫裡の入り口に境内の案内図があり、「お岩様の墓」の場所が示されている。
それに従って本堂左手奥の墓地に進み、正面に鳥居があるところに「お岩様の墓」の位置と説明がある。
その説明によると、「お岩」という実在の女性は、夫(入婿)伊右衛門と折り合いが悪く、病身となって亡くなって以来、その家では色々な禍いが続いたため、菩提寺であったこの妙行寺の日達上人の法華経の功徳で悪縁が取り除かれたという。
この実話を下地に戯作者・鶴屋南北が「東海道四谷怪談」という怪談を創作したようだ。
この寺も当時は四谷にあったが明治になって当地に移転したという。
そして今ではお岩様の墓に塔婆を捧げると願い事が叶うという
(すなわちお岩さんは成仏しており、祟る死霊ではない)。

上に記されてはいないが、四谷怪談でお岩を演じる際は、役者は必ずここに参拝する。
実際、墓の三方にずらりと居並んだ塔婆の中に、歌舞伎役者の名が散見する。
お岩さんの立派な層塔の墓を参拝(写真:周囲の塔婆の数がすごい)。
私は墓前で「南無妙法蓮華経」と10遍唱えた。

ここから、「お岩通り」を通って、17号を渡り返せば巣鴨のとげぬき地蔵に近い。

とげぬき地蔵高岩寺という曹洞宗の寺である。

只管打坐(ひたすら坐禅)が教えの曹洞宗は、本来なら霊験あらたかを謳わないはずだが、
ここの地蔵菩薩の霊験が江戸時代から評判で、しかもそれが現代にまで続いていて、
今では、本堂外にある「洗い観音」に自分の悪い身体部位をタワシ洗う人達の行列が絶えない(観光バスまで来る)。
本堂に参拝したら、ちょうど祈祷が始まるところで、曹洞宗の儀式は滅多に同席できないこともあって、
太鼓のリズムに合わせて般若心経をテンポよく一緒に唱えた。
真言宗のように護摩こそ焚かないものの、信徒の祈願成就を唱えるのは在家対象(衆生の与楽抜苦)の大乗仏教としては致し方ないか。
曹洞宗なら、本当は坐禅瞑想をすることで我欲への執着心から距離をとれる境地(システム3)に導いてほしいのだが。

そういば昨晩、身近にある地蔵菩薩をきちんと参拝する気になっていたのを思い出し、
本日の予定になくたまたま訪れた高岩寺で地蔵菩薩の祈祷も同席でき、さらに本尊の御影の掛け軸が1000円だったので迷わず購入。
地蔵通り入り口にある眞性寺(江戸六地蔵の1つ)の大きな笠地蔵も参拝し、徒歩で帰宅した。


背中の痛み

2024年05月11日 | 健康

帰京して、国会図書館の帰りに御徒町に買い物に立ち寄ったら、背中に背負っていたいバッグの重みに背中が悲鳴をあげているような痛みに見舞われ、仕方なしにリュックを外して肩掛けにした。

図書館通いの装備として15インチのノートパソコンとそれを卓上に設置する装備一式に本一冊と、それなりに重いが、いつものもの装備なので、今日に限って重いわけではない。

そもそも長年登山をやっていた我が身からして、この程度の荷物に耐えられないわけがない。

しかも今日の往きはなんともなかった。

痛いのは、リュックが当たる背中部分で、肩ではなく、腰でもない。

しかも皮膚や筋肉のような表面近くではなく、痛いのは背中の内部。

といっても、呼吸は問題ないので、肺や肋骨ではない。

先日何気なくチェックした「膵臓がん」の兆候に「背中の痛み」というものがあったのを思い出した。
ただ膵臓ならもう少し下で脇腹に近い位置のはず。

あまりの痛みに、電車内でも座席にうずくまり(リュックは床に置いている)、駅のベンチに腰掛けて休む。
なんとか帰宅して、そのままベッドに倒れ込む。

ただ横になっても痛みが取れない。
ずっとこの痛みと付き合っていくのは嫌だな。

いつの間にか一眠りして夕方になったら、少し痛みが軽くなった。
風呂に入って、背中を温めると、だいぶ楽になった。
実は明日は山に行こうか思っていたのだが、この背中に荷を背負うのが心配なので中止する。

少し前は両肩が痛かったが、今度は背中。
いずれも原因不明。
こういう原因不明の痛みって、霊障っぽい気がしてならない(私の方から扉を開けているから)。

追記:翌朝、痛みはすっかり癒えていた。結局霊障ですらなく、リュックの重みに耐えられなかった以外の何物でもなかったようだ。


『オウム真理教の精神史』をやっと読んだ

2024年05月06日 | 作品・作家評

以前読んだ『現代オカルトの起源』の著者である大田俊寛氏の『オウム真理教の精神史』を今になって読んだ。

元々宗教に関心があったため、前代未聞のオウム事件については、
いつか心の中で総括したいと思っていたのだが、むしろ事件そのものが私を宗教から遠ざけることとなり
(宗教教団の本質的部分と関わっていると思ったため)、そのままやり過ごしていた。

その中で本書が出たのだが、発行日が2011年3月20日で、
その頃の私は、それどころではなく、ガイガーカウンタの数値と睨めっこしていた。

やがて私自身が自分の心理学の流れで宗教に再接近するようになって、
やっとオウム事件を総括する気になれ、本書を手にした。


本書は、オウム真理教をあの時代固有の特異な現象とは見ず、
より広く近代宗教、すなわち近代国家成立後の社会における宗教の特質としての
ロマン主義・全体主義・原理主義を統合したカルトとして捉える。

宗教教団が暴走する要因は、このうちの全体主義と原理主義(キリスト教原理主義は終末思想を導く)によると思われるが、その一方でロマン主義はオウムと私との共通要素になっていることに気づかされた。

ロマン主義は近代啓蒙主義(理性信仰)に対抗する思潮で、
①感情の重視、②自然への回帰、③不可視の次元の探究、④生成の愛好、
⑤個人の固有性、⑥民族の固有性、の特徴を持つという。

ロマン主義に惹かれるのは、理性的思考では捉えられない”本当の自分”を探ることにある。
本書によれば、私が好きな心理学者であるW.ジェームズやC.G.ユングもこの系譜に入っている。
さらに私が準拠しているハイデガーもこの方向に傾いていそうだ(①と③と⑥)。

ロマン主義は、私の表現を使えば、”システム2”の肥大化した妄想体系に陥る危険を孕んでいる。
この危険を自覚している私は、思考よりも現実のデータを重視する実証主義を堅持し、
またシステム2に距離を措くシステム3(ハイバー覚醒)を経由して、
超個的なシステム4に達する手順を遵守することで、
妄想的思考の宗教化に陥らないようにしている。

それでも心をエネルギー論的に論じてみたり、存在の深層としての霊的次元に着目していることでロマン主義から離れない。
啓蒙主義ロマン主義という、アンバランスな二者択一的二元論ではなく(思考が極端化する)、
啓蒙主義ロマン主義という、陰陽和合の調和的二元論でいたい。


本書は、オウムを世俗化した近代社会そのものの鬼子とみなしている。
すなわち、死を隠蔽・忘却して現世の適応に集中させる社会の在り方がもたらした副作用と。
ということは、このままでは第二第三のオウムが出現しておかしくない。

忘却されている”存在の次元”を私が心理学的に扱いたいのも、
本来の宗教的問題をロマン主義に流れることなく、人間の全知を賭けて探究したいからだ(バランスを崩さずに)。


リニューアルした品川歴史館へ

2024年05月05日 | 東京周辺

私の新たな趣味となった”郷土博物館巡り”は、充実した県立博物館と近場の東京23区の区立博物館を優先している。

東京23区では、品川区の「品川歴史館」がしばらく改装中で”お預け”状態だったが、先月下旬にリニューアルオープンしたので、満を持して訪れることにした。

各地の郷土博物館は残念なことにたいてい駅から遠い所にあり、品川歴史館も例外ではなく、大井町駅からバスの便となる。
※:大森、品川、蒲田からの便もあり。

京浜東北線の大井町駅で降りる(この駅に下りたのは過去に1度しかない)。

こういう滅多に来ない地こそ、地元の町中華で五目焼そばを食べたいが、あいにく開店前の時刻(11時前)なので、チェーン店の「富士そば」で昼食を済ませる。

駅前(中央西口)から蒲田行きのバスに乗り、鹿島神社前で降り、少し戻ると、趣向を凝らした立派な建物がリニューアルした品川歴史館。


入館料は(たった)100円で、展示室入り口で、 渡されたQRコードをかざす(これが最新式の入場法?)。

展示スペースは1フロアのみだが、映像情報を駆使している(写真:上部壁面に区の歴史を網羅した動画が流れる。写真のシーンはモースが電車内から貝塚を発見する直前)。

まず品川区最古の人類の足跡は縄文時代の9000年前ということで、他の区よりは遅め。
ところが、ここ品川区には、日本で最初に発見された縄文時代の貝塚「大森貝塚」がある。
なので考古学そのものはここ品川区から始まった!

古代になると大井に東海道の宿駅ができた(次の駅は豊島)。
そして中世になると、大井氏とその系列の品川氏が鎌倉幕府を支える位置につき、室町時代になると、品川港が大繁盛し、寺町も形成され、文化人もやってくる。
品川があっから太田道灌も江戸城を建てられた。
すなわち、大都市東京いや大都市江戸の出発点は品川だったのだ。

江戸時代になると、東海道の一番目の宿場としての品川宿が栄える。
当時の旅人は日本橋をあえて夜に出発し、品川宿で朝食を摂ったという。
宿場裏の御殿山は、桜の名所として江戸市民の行楽の場となる。

明治になっての日本最初の鉄道は、新橋—横浜間ではなく、その4ヵ月前に仮営業した品川—横浜間だったとのこと。
その時もう八ツ山橋の陸橋ができ、後のゴジラ映画の重要ポイントとなる(この記述は展示にない)

関東大震災では都心の被災者たちの移住先になり、その後の発展の基礎になる。

2階には大森貝塚発見者のモースの展示スペースがあり、また一階の外には庭園があって、竪穴式住居の土台や移築された茶室もある(見学可)。
歴史館の敷地自体が、茶室の庭園と一体となっている。


ここを見学したら、南にある大森貝塚遺跡に行かねばならない。
その手前にある来迎院の念仏供養塔と鹿島神社も一緒に訪れる。

遺跡公園内の線路沿いに昭和初期に建てられた格調高い石碑(写真)がある大森貝塚は、大田区の大森ではなく、ギリギリ品川区にある。
ついでに、品川駅は港区にあり、しかも品川駅の品川駅がある(さらに目黒駅は品川区)。
すなわち新幹線も停まる品川駅は品川区の名所ではないが、大森駅に近い大森貝塚は品川区の名所なのだ。

大森貝塚遺跡からさらに南下して大田区に入り、本堂内に上がれる大森不動尊(成田山圓能寺)を詣で、隣の大森山王日枝神社を経て、大森駅に到着。
このように大森と結んで訪れるとよい。


半年ぶりの高尾山

2024年05月04日 | 山歩き

この4連休中に久しぶりに山に行く。
前回は昨年11月4日の高尾・城山だったから(→記事)、実に半年ぶり(しかも前回も8ヶ月ぶりだった)。
いつの間にかとんと山から遠のいてしまった。

かように久しぶりなので、弱った脚力に負担をかけないとなると、行き先はやはり最も手近な”高尾山”となる。

ルートは私の定番である琵琶滝道を上って薬王院を参拝して山頂に達し、下りは稲荷山コース。


自然な目覚めで7:30に起き、昨日買っておいておにぎりを2個食べて出発。
いつもよりやや早い時刻のためか、 JRも京王線も空いている。

終点の高尾山口駅からは高尾山に登る人たちの行列状態となるが、清滝登山口からケーブルでも1号路でもない谷沿いの道(6号路)に入ると人はまばらに。

6号路と分かれて高尾病院前を通って山道に入る。

山道に入ると都会から一番近い山ながら、平地の公園と比べて、木々の密度が格段に濃い。
しかも高尾山は奥多摩の山と違って自然林なので、多様な木々が混在して森の表情が豊か。
もう空気(雰囲気)が全然異なる。
やはり高尾山は、東京からもっとも近く”山”を味わえるいい所。

山道に入ってすぐ脇の道から離れた所に石碑があるのに今更ながら気づいた(幾度も通っている道なのに)。
よく見ると「中里介山妙音谷草庵跡」とある(写真)。
奇しくも今読んでいる『大菩薩峠』(往きの京王線車内でも読んでいた)の作者が結んだ庵(いおり)の跡だ。
介山は38歳の時、この庵で執筆活動に励もうとしたが、ケーブルカーの敷設工事の騒音に悩まされ、一悶着起こして奥多摩に去っていった。
実は『大菩薩峠』内にも、高尾山観光開発の件(くだり)があって、介山の思いが反映されている。
その庵跡を知りたいと思っていたのだが、ここにあったとは…

山道は琵琶滝(昨年、滝行をした)からの本道と合流し、尾根を直登して、やがて舗装道路の1号路との合流に達するが、まだ静かな山道を歩きたいので、その手前の分岐で2号路に進む。
2号路からさらに3号路を進むとずっと静かな山道が山頂まで続くが、中腹の薬王院に参拝したいので、参道入り口で1号路に合流し、ここからはケーブルに乗って来た観光客と一緒に舗装道路を進み、薬王院を経由して山頂まで達する。

人がぎっしりの山頂で、茶屋が空いていたらそばを食べようと思っていたのだが、すでに長い行列なので諦める。
山頂からは残雪の富士と対面できるが、私は立ち止まらずに、山頂を後にする。
一旦下って、鞍部から先は奥高尾という登山対象の山域で観光客はここから先には入らない。
そこを進んで「もみじ台」という高台に登ると、「細田屋」という茶店があり、ここでもそばを食せる。

この店で並ばずに冷やし山菜そば(1000円)を注文し、富士を正面に眺めながら(写真)、そばを食べる(山頂をすぐ後にしたのは、ここを目指したから)。


復路は、高尾山頂を巻いて、稲荷山道に出る。
この長い山道は、以前は露岩や木の根が出て凹凸が激しかったが、板が敷き詰められて歩きやすくなった。
その代わり、稲荷山山頂にあった東屋は解体された。

長い下りをスタスタ降りても、懸念した左脚の腸脛靭帯が痛むことなく、無事、清滝登山口に降り立った。
その広場では仮設された舞台の上でチャイナドレス姿の女性が日本語で歌っている。
雑沓の中、私は一人高尾山に振り返り合掌し、無事下山を感謝すべく光明真言を三唱した。

時刻は13時をまわっているのだが、山麓に軒を連ねる蕎麦屋は「高橋屋」をはじめとしてどこも行列(もみじ台で食べてきてよかった)。
高尾山口駅前から川に沿った一帯が親水公園に整備されていて、子どもたちが水遊びをしている。
その付近には木製のベンチも置かれているが、日差しを遮るものがない。
無事下山を祝して(精進落しの)ビールを飲みたいのだが、座って飲める場所はここしかない。
幸い、つば広の帽子をかぶっているので、駅のコンビニで缶ビールとつまみを買って、川べりの広場に座って缶ビールのタブを開けた。
大腿四頭筋の疲労感さえも、やり遂げた感を満たす要素として味わう。