今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

流血の駐車場

2009年11月29日 | 失敗・災難
2本目の論文提出の慰労にと、
愛知県・幡豆郡吉良町の吉良温泉にある「三河湾リゾートリンクス」に泊まる事にした。
三河湾沿いは蒲郡以外は初めての地なので、途中の西尾城趾公園に立ち寄り(西尾産の抹茶を呑む)、
吉良町立図書館では小笠原流礼法の文献を複写(幡豆は小笠原分家の地)。
これらに立ち寄ったことで、宿の到着がちょうど午後3時のチェックイン時になった。

ただ、ホテル正面の駐車場は会員専用なので一般客の私は使用不可。
すこし下の立体タワー駐車場には、わが愛車のルーフキャリアがひっかかって不可。
なので、ずっと下の立体駐車場を案内された。
ここで私の運気が急降下したことになる。

鉄骨組の立体駐車場に車を置き、車の横で荷物もろとも立ち上がった時、
頭を思いっきり斜めの鉄骨にぶつけた。
ハンチングを被っていて、視界の上方が妨げられていたためでもある。
痛みで頭がクラクラしながらも、そのまま車のトランクを開けて手荷物を取ろうとすると、
手荷物にポタポタと鮮血がしたたり落ちてくる。

「やばい」と思い、被っていたハンチングを取ると、内側に血がべっとり。
掛けている眼鏡のレンズにも血がしたたり落ちて、眼鏡をはずす。
髪に手をやると、手にもべっとり血がついてくる。
血は私の顔を通り越して地面にまでしたたり落ちる。

顔中血だらけになりながら、駐車場の案内係の人に向かって声をかけるも、
私の姿が逆光になっているためか、平然と道案内をしてくる。
彼の目の前まで接近すると、さすがに私の異常な姿に気づき、
無線電話で人を呼んでくれた。

その間、トランクからタオルを出して、駐車場の隅で腰をおろし、タオルで血を拭いた。
白いタオルはたちまち紅白のまだら模様になったが、出血は止まらない。
近くでは女の子のグループが話し込んでいるが、
彼女たちには見つからないよう、車の陰に腰掛けた。
暴漢に襲われたり、交通事故にあったなら、彼女たちに救いを求めるが、
自分で頭をぶつけたというのでは、同情されるどころか物笑いの種になる。

やがてホテルのフロント担当らしききちっとした風体の人が救急箱持参でやってきた。
傷口を消毒し、包帯を巻いてくれた。
時間がたったことにより出血も止まったようだ。
でも頭の内外はガンガンと痛い。
彼は「応急処置だけなので医者に行った方がいい」というが、
私はとりあえずはチェックインをしたい。

ホテルの入口の水道でタオルに水をひたして血塗られた顔をぬぐってから、
フロントに行く。
フロントでチェックインをし、別の担当者から説明を受けるが、
頭痛のため頭に入りにくい。
とりあえず部屋で様子をみて、おかしくなったらフロントに連絡することにして
(救急車も手配してくれるとのこと)、
保険証持ってこなかったことを悔やみつつ、部屋に入って着替えた。

いつもなら、まずは大浴場に飛び込むのだが、
今は頭部に血流を増やさない方がいい。
だいいち頭内外の痛みもひかない。
なので、部屋で持ち込んだ仕事=論文1の校正ゲラをチェックする。

午後5時半をすぎ、夕食前の入浴予定時間。
痛みもだいぶ引いたが、念のためシャワーキャップをつけて入浴。
でも包帯が取れてしまったので、そのまま頭にシャワーをかけて、血の痕を落とす。
洗面器内はみるみる薄赤色になる。

湯舟につかりながら、今日の出来事を振り返った。
頭部からあれだけの出血をみたのは自分でも初めてで、我ながらびっくりした。
でも、鉄柱に頭を打ち付けて出血することなど、
プロレスラーだったら毎度の事。
流血のデスマッチを終えれば、彼らも入浴してさっぱりするだろう。
今の自分もそんなところだ。
ただ界面活性剤(シャンプー)はまだ頭皮につけない方がいいだろう。

バスタオルで慎重に髪の水分を取る。
まだタオルがうすく赤くなる。
それでも夕食をとる頃には、痛みもすっかり取れた。
今思えば、派手に出血したことで、内出血にならずにすみ、
その分痛みが尾を引くこともないだろう。

でも解せないのは、四角い鉄骨の面側に頭が当たったのに、
なぜ皮膚が切れたのか。
翌日、現場検証にあたった。

血痕も生々しい現場に行き、当の鉄骨をよくみると、
鉄骨の面の間に、鉄の板が挟みこまれ、
その板の厚みの部分が鉄骨の面からはみ出ている。
厚みの両端が角のでっぱりとなる。
頭をぶつけた鉄骨の真中が、運悪く90°の角となっていたのだ(写真)。

豆腐の角ならぬ、鉄板の角に頭を打ち突けたことになる。
これなら切れるわけだ。
2日目の晩、レストランのレジ係の人が、私が頭をぶつけて出血したことを知っていた。
フロントから連絡があったのだろう。
私が紹興酒を飲みながら中華バイキングを何皿も食べたのを知っている彼は、
「異状なし」と報告したはず。

パソコンが…でも

2009年11月27日 | パソコン・メディア

いつも持ち歩いているノートパソコン(MacBook)は13インチと画面が小さいので、
研究室では据置の iMacにFireWireでつなげてターゲットモードにして、
21インチ画面で使っている(つまりノートパソコンをiMacの外部起動ディスクで使用)。

次の授業にMacBookを使おうと(講義ノートとして)、 いつもならiMacをシャットダウンして、
その後MacBookもシャットダウンして、最後にケーブル接続を解除するのだが、
昨日に限って、ちょっと授業に遅れたため、
iMacをシャットダウンせずに、ケーブルだけはずして、
MacBookを再起動させながら、教室に向かった。

ところが、教卓上のMacBookは起動中画面のままでデスクトップが表示されない。
業を煮やして、シングルユーザーモードにして修復を試みたが、
英語で「修復できない」とのメッセージ。
授業中なので、いつまでもパソコンと格闘しているわけにもいかず、
講義ノートなしで、頭の中の記憶だけで90分しゃべり通した。
たぶん大事なことを言い忘れたろう。

家に帰って、修復ソフトで修復しても一向に起動中の画面から先に行かない
(修復ソフトでは「異常なし」になっても)。
症状からソフト的トラブルであることはわかっており、
そして何よりHDD全体を毎日外付けHDDにバックアップしているので、
喪失感で顔面蒼白になることはない。
これも OS10.5のTimeMachine機能のおかげ。

ところが、不運なことに、このOSの起動ディスクが見当たらず、東京の実家に持って帰ったままだったことに気づいた。
ここにある起動ディスクは、 一代前のOS10.4で、
こいつにはTimeMachine機能がついていないので、復旧ができない。

それでも好運なことに、研究室のiMacは OS10.5なので、そいつの起動ディスクを使えば、
外付けのノートとHDDの間の完全復旧はできるはず。
そう結論して、家でのパソコンの復旧はあきらめ、
非常に久々に、昨晩はネットもメールも、DVD鑑賞もいっさいなしですごした。

翌朝早く目が覚めたので、仕事はないがそのまま出校。
さっそく、MacBookと外付けHDDをiMacにつなげ、
iMac用の起動ディスク(OS10.5)で立ち上げ
(ホントはその前にMacBook内の壊れている設定ソフトの削除をしたが回復しなかった)、
起動ディスクのTimeMachineで本体以外のシステムを完全復旧にとりかかる
(起動ディスクでないと、本体の復旧しかできない)。
画面表示をみると、復旧が終わるのに2時間以上かかるとのこと。
その間、何もできない。

この段階になって、もうひとつ好運だったことに気がついた。
今日の午前中に論文原稿の締切だったのだ。
原稿は数日前に仕上がって、でも最後の推敲のため、
提出は当日にする予定だった。
でも、推敲はもう充分と思ってしまって、水曜に提出しておいた
(一番目の提出者とのこと)。

提出の翌日にパソコンがダメになり、復旧するのが締切に間に合わない時刻となった。
このまま最初の予定通りに行動していたら、真に顔面蒼白になっていたろう。

”毎日のバックアップ”は以前から肝に銘じているので、
データの損失の心配はなくなりつつある
(TimeMachineでHDD全体のバックアップが簡単にできるようになったというのが大きい。
ただし、保存先のHDDも壊れる物だから、ネットサーバーを含めて複数保存先を確保しておくといい)。

そして、今回、「済ませられる仕事は、早く済ませた方がいい」という教訓が身にしみた。
「トイレは行けるうちに行っておく」という教訓は外出時にいつも励行している。
ただ、似たような教訓でも、
「買いたいと思った時、買っておかないと、後で欲しくなっても、もう売り切れ」
というやつは、衝動買いで後悔することもあるので、教訓度50%だが。


自分の仕事

2009年11月25日 | お仕事
今週金曜締切の論文原稿を今日提出した。
締切当日だと、どんなアクシデントに見舞われるか知れないので、
出せる時に出しておいた。
これで、今年度のお仕事(論文書き)はおしまい。
今晩は軽く祝杯だ。

夜、帰宅して駐車場で車のカバーをかけていたら、
和菓子の訪問販売で戸別訪問している人(♀)が売り込みにやってきた。
「和菓子は食べないなぁ」と言ってことわると、あっさり引き下がった。

”訪問販売”にはハナからとりあわないことにしているが、
倫理に反するものでなければ、”仕事”には敬意を表するので、
とりわけ、今はどんな仕事もたいへんな時期でもあるし、
もっと丁寧に接してもよかったかと、少し反省した。
幼な子をかかえて一人で頑張っている人だったかもしれない。

ただ、暗い駐車場で、いきなり「和菓子はいかが」と言われても、
よほど空腹でないかぎり、買う気にはなれないよな。

一応の完了

2009年11月23日 | お仕事
論文原稿が一応の完成に達した。
問題設定から結論までの論理構成、そして項立てに文献リスト、
以上が終わった。
文字数も15000字台にシェイプアップ。

あとは表現の微調整だけなので、今週金曜の締切までに、
一旦、頭を冷やしてから見直せばいい。
これも三連休の三日間、図書館に通い詰めたおかげ。

三日目は早めに終わったので、帰りは銀座と秋葉に寄り道。
銀座はユニクロ、秋葉はレザーウエア専門店と、一見逆なような店をチェック。
やっぱ、アウターをユニクロにする気にはなれず、
しかも本物の革がいいので(ユニクロの新素材には一目置くが)、
アウターは専門店で買いたい。
そういえば、ソックスは数年前からショップ99ご用達だな。

図書館にお篭り

2009年11月21日 | お仕事
論文の締切が来週にせまってきたので、
業務のない週末はこの原稿仕上げに集中する。
毎年、学術論文は2本をノルマにしており、今はその2本目なので、
これが終われば、今年度の”お仕事”(勤務先でやるのは業務)はもうない。
早く楽になって、好きな本を読みたい。

幸い、締切直前の週末は3連休なので、
前日に帰京して3日間とも持込みパソコンで作業できる図書館に篭る予定。
まずは3日目に完成へもっていく進行予定を立てる。

一日目の今日は、国会図書館に篭って(連休のためか、利生者は夏より少なめ)、
予定の部分はなんとか9割仕上げにできた。
字数は17000字に達したので(論文としてはちょっと多すぎ)、
今後は余計な部分を減らす方向で編集する(段落ごと思いきって削除する)。

夕方5時の閉館直前までいて、実働は五時間くらいだが、集中しっぱなしなので頭はフラフラ。
と、充実した気分で国会図書館を後にする予定だったが、

退館のため、ロッカーをあけようとしたら、鍵が見当たらない。
ズボンのポケット、手荷物、手持ちのバッグの中を何度も探したが、
見つからない。
受付に戻って、再入館させてもらって、座席周辺を探したが、どこにもない。
鍵を作り直すはめになるのか、と出費を覚悟した。

ほとんどの人が退館したので、もう一度ロッカーを確認しに行った。
そうしたら、自分が使ったと思っていたロッカーは、鍵がついていて、中はからっぽ。
一瞬私の鍵を拾った誰かが、中の荷物をそっくり持って行ったのかと思ったが、
ここ国会図書館に来る客は、自分の手荷物が精いっぱいで、
他人の荷物なんか持っていく気はしないだろう。

鍵のついたロッカーの列を眺めていたら、1つだけ鍵がついておらず、
そのかわり貼り紙で封をしてあるロッカーがあった。
このロッカーは無施錠だったので閉鎖しており、心当たりの人は問い合わせるようにと書いてある。
そういえば、今日は、ロッカーに100円入れて施錠した記憶がない。
警備員の所に行って、その旨を話す。

警備員は中に入っている荷物は何かと細かく聞いてくる(当然だ)。
パソコンを入れておいた空のバッグと、黒の帽子だったと答え、
貴重品を入れてなかったことに安心しながら、
私は自信を持ってバッグと帽子の細かい形状も答えるが、
警備員は何か腑に落ちない様子。

それでも、私の目の前で、封印されたロッカーを開けてくれた。
すると、まず最初に丸めてある茶色の革のコートが見えた。
そうだ、これを着てきたんだった。
すっかり忘れていた(革なのでもちろん数万円はする)。

この二重の忘却は、図書館で頭脳を酷使するための代償か。
いずれにしろ、実質的損失はなく、警備員にお礼と謝罪のまじった挨拶をして、
存在感のうすい革のコートをはおり、
国立国会図書館を本日最後に退館する客となった。

ペットボトルワイン

2009年11月19日 | 歳時
ボジョレー・ヌーボーかボージョレ・ヌーボーかは、どちらでもいいらしい。
テレビなどはこぞって後者だが、日本ソムリエ協会は前者だという。
私も前者の方に馴染があるので、ボジョレーを使うことにする。

夜6時すぎまで授業(補講)で、しかも車なので、途中で買うこともできない。
なので、6時半すぎに、自宅そばの「やまや」に車を止めて、専用コーナーに直行。

ところが、おいしそうなのはすでに売り切れ。
のこっていたのは、安物(1100円)のペットボトルワイン。
仕方なしに、とはいっても今年話題のペットボトルワインなので、試しに買ってみた。

ボイルソーセージに、パスタを作って、ペットボトルワインのキャップを開けた(当然コルクでない)。

ボジョレー・ヌーボーはもともとライトタイプで、深みがないが、
その代り口当たりがよく、飲み易いのが特徴。
でも、このペットボトルワインは、深みがなく口当たりもよくない、単なる安ワインでしかなかった。
ボジョレーにこだわらなければ、1000円未満でももっとおいしいワインはたくさんある。
まともなやつに買い直しだな。

お篭り

2009年11月10日 | お仕事
毎月温泉旅行に行っている私だが、今回、温泉に2泊した目的は、旅行でも湯治でもない。
宿に篭(こも)って今月27日締切の論文原稿を進めに行ったのだ。
観光地でない榊原温泉は、出歩きたい所もないので、
2泊程度の短期のお篭りには丁度いい
(宿代は観光地並なので、長期だときつい)。

今回の論文テーマは感情シリーズの第6弾「感動」。
私の感情論文は、自分の思惟が主なので、
データ分析のような機械的作業部分がなく、
すべて1から文章を作らねばならない(もちろん先行研究となる資料は参考にする)。
しかも毎回「ぶっつけ本番・行き当たりばったり方式」を採用し、
結論が出ていないうちに書き始めて(正しくはパソコン入力なので「打ち始め」)、
進めていくうちに、論理の展開によって結論がおのずから導出されるのを期待するのだ。

いいかえれば、結論ありきでそれを正当化するだけのような予定調和的論文ではない。
だから、論文執筆中は、懊悩・苦悶の連続。
しかも、感情という非論理的現象を論理で説明しようとする無理を承知での作業。

かようなつらい頭脳労働なので、日常の合間には、そう簡単に手がつけられない。
ある程度集中して作業を続けないと、頭がこの問題に対応して働かない
(このブログ記事もウォーミングアップとして書いている)。
雑事に追われる日常(私宅・大学)では、その集中時間をもちにくい。

なので、他の作業空間から分離された環境に身を置いて、
これ以外にすることがない(他は入浴と食事だけ)状況にあえて我が身を追い込むのだ。
これを”お篭り”と称している。

お篭り中は、湯舟の中で体を伸ばしている間も、思索を進めることができる。
執筆する場所も、室内だけでなく、気分転換を兼ねて、
ノートパソコンを持ってロビーのソファに移動したりする。
本当なら夕食時に日本酒やビールでいい気持ちになりたいのだが、それを我慢し、
儀礼的に1合・1杯だけにする。

滞在の結果、原稿の文字数は12000字に達した。
目標は15000字なので、8割まで達したことになる。
構成(論理の骨組み)はだいたい完成し,資料からの引用も済んだ。
ただ、まだ「感動とはコレだ!」という結論には達していない。
すなわち、論文の内容としては、まだメドが立っていない。
いましばらく時間が必要だが、お篭りの成果は得たといえる。

ガイガーカウンター2

2009年11月09日 | 計測
携帯ガイガーカウンターを購入し、嬉しくて出先に持ち歩く。
とりあえず、どこでも測定したい。
意外に放射線が高いという場所が見つけられるかも。

とりあえず、榊原温泉に持っていった。
ただしここはアルカリ単純泉なので、ラドンは出ない。
実際、浴室(濡らしてはいけないので脱衣場まで)や宿内の源泉の真上に持っていったが、
値は自宅よりも低いくらい。
ただ、宿の川を挟んだ対岸では0.2μSvに達し、自宅の倍ほどあった。
川に露出している岩盤のせいだろうか。
だが、このあたりで最大の岩盤が露出している貝石山の真下に行っても、値は低かった。
他の源泉に持っていっても同じ。
ちょっとがっかり。
やはり、ラドン温泉に持っていくにかぎる。

榊原温泉

2009年11月08日 | 温泉

三重県津市の西端・青山高原東麓にある榊原温泉は、
かの清少納言が三名泉の一つに挙げたという由緒正しいわりに、
また大きな旅館が複数あるわりに、
通俗的温泉街を形成せず、
かなり素朴な温泉郷を保っている(むしろ温泉街に発展できないのかもしれない)。

なにしろ、土産店はおろか、コンビニすらなく、
訪れた者が足を運ぶ小売店がほとんどない。
だから滞在する時は、必要となるもの(酒・つまみ類)は
すべて持参しなくてはならない(車があれば5キロ先のスーパーに行ける)。
近くにないのは店だけでなく、著名な観光スポットもない。
あえて挙げれば、青山高原上の風車群(写真)だが、一度見れば充分。

名泉とはいうものの、泉質はアルカリ単純泉なので格別な薬効が売りということもなく、
実際客層は、秋田の玉川温泉にみられるような、湯治に来たのが一目でわかる痛々しい姿は見られず、
いたって健康な中京・関西からの中高年たち(若者グループや小さい子がいる家族連れはいない)。

他の客たちが、なぜ何もないここに来るのかわからないが、
私にとっては、半年に一度の頻度で来たい所になっている
(ということは、”数ヶ月に一度”泊まりたいお気に入り第一グループではなく、
第二グループに属する。第三グループはもちろん”年に一度”)。
私が泊まるのは榊原温泉の入口に近い「湯元榊原館」。

ここが第二グループになっているのは、
湯でもロケーションでも、いささか古い宿そのものでもなく、
食事かな。
もちろん従業員の教育も行き届いて、応対・サービスもいい。
宿泊者には抹茶やコーヒーもサービスしてくれる。
1階の川べりにある食事処自体の雰囲気もいいが、
夕食の会席は、天ぷらの代わりに数種類の野菜の蒸しなべなのでヘルシー。
たっぷりな量だが、総カロリーは低めに抑えられる。
それに素材は野菜も米も地産。

三種類ほどのデザートの後の淹れ茶(煎茶・焙じ茶)の自分でお好みブレンドが楽しい。
ここの食事で最後の淹れ茶セットから好みの茶葉をブレンドするたびに、
淹れ茶(煎茶)をもっと勉強したくなる。

夕食にたっぷり時間が使われ、一人客の私でも80分を要した
(私の旅行時夕食標準時間は半分の40分)。
どうせ温泉旅行って風呂と食事以外に用事はないのだがら、
これくらいたっぷり時間をかけるのもいい。

一泊15000円なので、温泉宿としては標準的な価格だが、
より安価な休暇村やグリーンプラザが標準の私にとっては、
半年に一度はリッチなサービスと食事を味わうことになる(部屋はこちらの方が古い)。


ガイガーカウンター

2009年11月07日 | 計測
先月より、(地震予知も兼ねて?)室内でラドン濃度の計測を開始した。
計測しているうちに、ラドンを含めた放射線そのものを測りたくなり、
しかもどこにでも持っていける携帯用のものが欲しくなった。

購入したのは、Inspector+というアメリカ製の8万円代のガイガーカウンター。
スイッチを入れると、30秒ほどで計測値を出す。
ためしに室内で測ってみると 0.1μSv/hr前後の数値(小数点以下3桁)を示し、
ちゃんと自然界の微量放射線が計測された。
室内のラドン濃度は80Bq(11月に入って高値安定)なので、そのラドンに対応する線量だろう。

温泉に行く時は、このガイガーカウンターを持っていくつもり。
いわゆるラドン・ラジウム温泉にはよくいくけど、
実際のラドン量がどれくらいかわからなかったが、この装置で計測できる。
「ラドン温泉」と銘打っているのに実はラドンが出ない所は覚悟しておくように。

気象オタクとしての大気計測がエスカレートし、とうとう空気中の放射線まで測ることになった。

そしてこのガイガーカウンター、ちゃんと音出力がある。
つまり、放射線を感受したら、「ガガガ」と鳴るのだ。
もちろん、わが部屋の放射線量は微弱なので、「…ジ…」と散発的。

この音を聞いて、そうえいばガイガーカウンターって、
あの東宝の「ゴジラ」シリーズに出てきたアイテムだったのを思いだした。
ゴジラ映画(初期)には、ゴジラの痕跡を探るものとして必ず科学者がガイガーカウンターを作動させて、
「ガガガ」と鳴らしていた。
水爆実験で太古の冬眠より目を覚ましたゴジラは、放射能体だからだ。

なので、このガイガーカウンターがあれば、ゴジラの出現や痕跡を確認することもできるわけだ。

私にとっての構造主義

2009年11月04日 | 雑感
私が2番目に入った大学で最初に接近したのは文化人類学。
その頃はレヴィ=ストロースが来日して、ネコも杓子も構造主義だった。

結果、私は、個々の人間にまったく興味を示さない文化人類学が大嫌いになり、
心理学に転向した。
われわれが今まで思っていた実体は単なる関係項で、関係こそが真の実体であるとする構造主義は、
心理学の出発点である「自我」の存在を否定する。
この関係主義的思考は実は確固とした自我にこだわらない日本人には受入れられやすい
(たとえば和辻哲郎の倫理学)。

だがその心理学は行動主義全盛というもっと悲惨な状況だった。
行動主義か精神分析かという低次元の選択肢しかなかった心理学から
思想的におさらばして、現象学に進んだ。

ところが、ビンスワンガーなどの精神医学的現象学のインチキ性
(恣意的意味づけ)に失望。

意味現象の源泉をソシュールの記号学に求め、バルトの軽快な分析に酔った。
その流れで”構造”という見えない枠組みを見透かすことの快感を知った。
ただそれを心理学にはまったく使わず(ラカンの思弁には興味なし)、
作法の分析に使った。

私が「作法学」という、既存の歴史民俗学的作法研究とは相異なる発想の学を作れたのも、
構造論的思考を学んだからだ
(直接にはグレマスの『構造意味論』を応用)。

というわけで、「構造主義」は、用途を限定すれば、充分使えると確信している。
大切なのは、構造”主義”という(実体を方法論的に無視しているだけなのに、
無視したものを「存在しない」と思い誤る非科学的)イデオロギーではなく、
構造的思考という(可視と不可視=実体と非実体のネガポジ関係を逆転してみる)
「1つのものの見方」だ。

…なんか「ニューアカ」っぽい衒学的文章になってしまった。

ラドン濃度上昇

2009年11月03日 | 計測
3日、名古屋に帰宅したら、室内のラドン濃度が77Bq(ベクレル)と過去最高値を示していた。
ラドン濃度は気温が低いと上り、気圧が高いと上がるという。
つまり、空気一般が重たくなると濃度があがることになる。
確かに室内気温は17℃に下がり(ホントは暖房入れたい)、気圧は1032hPaと高くなっている。
10月はじめの設置当初は、ずっと40Bqだったので、倍近くに濃度が上がったことになる。
木枯らし後の値としてはこんなものなのか(長期間の計測が必要)。

ラドンという放射線をずっと浴び続けることの問題と、
地震の前兆現象として意味があるのかという問題とで、
値に注目していきたい。
もうじきガイガー・カウンターも入手するし。

行ってみました:LABI日本総本店

2009年11月02日 | 東京周辺
連休は帰京したので、さっそく池袋にオープンしたばかりの
ヤマダ電機の「LABI日本総本店」に行ってみた。
別に私はヤマダ・ファンではなく、むしろビックカメラ・ファンの方だが、
その池袋の主・ビックカメラを挟撃せんと立ちあがるヤマダ電気の強気の意気込みを見たくなったわけ。

池袋駅から地下道経由で旧三越デパートを改築した店内に直行する。
実はこの”直行”自体が、感慨深い。
そもそも池袋は、わが実家から一番近い繁華街なので、小さい時から通っていたが、
ずっとしばらくは駅ビルの西武・パルコで事足りて、駅ビルの外に出ることもなかった。
それがビックカメラ、サンシャイン、東急ハンズが池袋東口の商圏を拡げ、
これらについ最近にヤマダ電気が加わったことで、
逆に駅ビルの西武・パルコの方を素通りするようになったからだ
(買いたい物が”衣料”でなくなったのも一因)。

といってもさしあたっての行き先は、7階のレストラン。
デパートのレストラン階だったので、高級感が残っている。
まずは出店している店の入口でメニューをチェックしてまわる。
ランチ1000円ほどで、ボリューム満点のしゃぶしゃぶ定食、多彩な種類のスパ、上海料理、
それに寿司店のにぎりセットを選べることがわかった。

上海焼そばにも心引かれたが、今日はにぎりセットにする。
この寿司店は「高級寿司食べ放題」を謳っている店なので一番気になっていたから。
幸い昼前なので、空席があった。
にぎりはネタが長くシャリの上を覆う。
いくらの軍監と巻き寿司もつく。
質・量ともに満足。
支払にヤマダのポイントを使え、またここの支払にポイントがつく。
ちなみに食べ放題は税込みで4000円ほど。
店を出ると、昼時にはいったので外は行列。

ついでに入店しただけでポイントがつくマシンにカードを入れる。
6階以下の各売り場をかるく巡った。
実は電気製品は買う予定はない。
確認したかったのは地下の書籍売り場の品揃え。
パソコン関係以外の普通の書籍、特に文庫と新書があるのがいい。

また日用品やスナック菓子も売っており、これらすべてポイントで購入できる。
私にとっては7階のレストランと、地下の書籍・日用品売り場に利用価値を感じた。

さて、肝心の買物だが、Wii Fit Plusをご祝儀代わりにここで買おうと思ったのだが、
この種の製品はここには置いていないく、置いているはずの別館は改装中。
なので、購入はいつものビックカメラと相成った。

「被験者」は不適切用語か

2009年11月01日 | お仕事
ある社会心理学書の共著者の一人として原稿執筆を進めている。
そこで編集側から指示されたのは、編集の方針として、
被験者という語を「実験対象者」に変更すること。
私自身は原稿にその単語を使わなかったので影響はないが、釈然としないものが残る。

なぜ「被験者」は使えないのだろう。
そのからくりはこうだ。
被験者は訳語で、その原語はsubject。
この原語は歴史的に「臣下」という意味があり、実験者の下位者というニュアンスがあるため、
アメリカで控えることになった。
それを受けたということ。
つまり、使用がふさわしくないのは、subjectという英語であって
(”主観”とか”主題”という意味のsubjectもダメなのか)、
被験者という日本語ではない。

被験者は実験者に対する用語として、つまり日本語レベルの関係内で誕生したのであり、
subjestの直訳ではない。
つまりsubjestという単語とは意訳という間接的つながりしかない。
だから、「被験者」という単語に不適切性がない限り、
被験者に対応する英語が変更されただけ、とすれば問題はないはず。

逆の例として、「精神分裂病」という表現はきついので「統合失調症」に日本語は変更したが、
schizophrenia(英語)という原語はそのまま。

ただ、いままで被験者の一員のフリをした実験者側の人間を、「サクラ」と称していたが、
これを「実験協力者」と称することにした方針は適切だと思う。
サクラは学術用語ではなく、的屋・香具師世界の符牒だから。

ちなみに読者の中には、ここで使った”的屋・香具師”の語に反応したい人もいるだろう。
ただ一般論的に言わせてもらうと、タリバン的な過剰で教条主義的な”正義感”に対してさえ、
その”正義”の名に屈服同調する風潮(その一翼となって”正義”をふりかざす輩)には危惧の念を禁じえない。
安直な”正義”ほど、怪しげで危険なものはないのだ。
「文句をつけられるのが嫌だから従う」という事なかれ主義は、
その”正義”を増長させるだけ。

ちなみに心理学の世界では「障害」はそのまま使われている。