今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

道志村不明女児の件:沢の上部がポイント

2022年04月30日 | 時事

3年前に起きたこの行方不明事件が骨片が発見されて以降、にわかに進展しだした。
私も無関心でいられないので、限られた情報を便りに考えてみた(タイトル一部変更5/7)

まず大事なのは、現地の地理的情報で、一番便りになるのは下記の図。
https://light.dotup.org/uploda/light.dotup.org29037.jpg

すなわち、家族がいたキャンプ場(リンク図の①~③)と、そこから東に頭の骨が発見された所に向かう林道(大室指椿線)と、その林道に南から交差する、靴が発見された枯れた沢、そしてその沢に近づくキャンプ場からの山道の詳細な情報が載っている。

ちなみにこの林道は国土地理院の地形図に載っているが、Googleマップには載っていない(県外の一般観光客は知らない道)。
この林道も当初の捜索範囲には入っていたので、少なくとも林道沿いには何もなかったはず。

頭の骨がみつかったのはこの林道近くの枯れた沢で(地形的には立派な谷なので、礫岩が表面を覆う伏流水になっていると思われる)、その沢のさらに上流部(図の下側)で靴が発見された。
骨による DNA鑑定は困難を要し、靴や靴下などの遺留品の方が決め手になりうる。
ただ今後発見されうる遺留品などは、さらに上流で見つかる可能性がある。
ただし、遺留品の持ち主がこの上流域に向かって急峻なガレ沢を登ったわけではない(林道から沢に降りる理由がないし、登高は装備のない大人でも無理)。

こういう物は沢の上から下に移動し、その逆方向はありえないので、これらが流れる元の場所は沢の源頭の948mの峰(リンク図の⑩)を中心とした沢の上流域となる。
すなわち、上から落ちてきたものといえる(以前の下側の捜索時にはそこになかった)。
そしてこの沢を囲む、すなわち源流部を構成する稜線には山道があり、特に西側の山道は行方不明になったキャンプ場に繋がっている(⑩〜④)。

ネットでは、スーパーボランティア尾畠さんの「子どもは上の方に行く」という言葉(2018年の山口県の2歳児の事例が該当→記事を信じて、当時7歳の美咲ちゃんがこの山道を登っていって遭難したという筋書きが描かれているが、この道はいわゆるハイキング道ではなく、踏み跡程度の不明瞭な道で、キャンプ場内の整備された道の延長上としてそのまま入り込む道ではない(家の2階程度の”上”とは訳が違う)。
この山道は、下の林道以上に、車移動の観光客は知らないはず(敢えてこう記す言外の意味有り)
さらに、踏み跡も不確かで急登が続くルートなので、体力的にも7歳児が1人で登りきれる道ではない。
ましてや、あえて家族から離れようとしたのなら(2016年北海道駒ヶ岳山麓の7歳児の事例→記事ともかく、家族・友人たちを探して入り込んだなら、標高差350mの、道とはいえない急な斜面を苦しんで登り続ける理由がない(風景の様相がキャンプ場と全く異なるので、7歳児ならそのへんの判断はつく)。
※:山のバリエーションルートを専門に歩く篤志家以外には”道”と認識できない踏み跡。2016・2018年の子どもが1人で歩いたのはいずれも林道。

ただし1人ではなく、大人が同行していれば話は別。
「探しているお友達はここを登っていったよ」とか言って7歳児をこの山道に誘い出し、なだめすかして登らせるのは不可能ではない(私も小学校入学直前の6歳の姪を300m弱の山に連れて行った)。
ただしその後の運命にはついては推理する材料がない(正直言って考えたくない)。

ネットでは誘拐か事故(遭難)かで意見が分かれているが、私は両方合わさった可能性を捨てきれない。

追記:5/6、私の推理通り、さらなる沢の上部で新たな骨片が発見された。
          5/14、発見された骨は美咲ちゃんのものと判断された。


還付金が振込まれた

2022年04月27日 | 生活

先日、国税庁から「還付金が振込まれた」という通知が来た。
実際、振込先にはその額(今年は5桁)が振込まれていた。

もちろん、3月に確定申告をして、その結果の払い過ぎた税の還付金である。

その額は確定申告時にわかっており、振込先(銀行か郵貯)はこちらが指定した。

このような仕組みだから、
①本人が予想していない還付金が支払われることも、そして
②その旨を伝える電話がかかってくることも、ましてや
③電話の指示に従って、 金融機関やATMに赴いて手続する事も
決してない。
あるとすれば、それは国がまったく関知してない、100%振込め詐欺

いまだに還付金詐欺が横行しているので、ネットにこの記事を挙げておく。


東京→善光寺→名古屋

2022年04月26日 | 

7年ぶりの善光寺の前立本尊御開帳(今年は6/29まで延長)。
7年前と同じく、東京から名古屋に帰る日に、立ち寄ることにした。
すなわち東京→北陸新幹線→長野⇄善光寺→篠ノ井線・中央西線→名古屋という遠回りルート(長野で途中下車)。
東京都区内→長野→名古屋市内の乗車券を 券売機で操作して購入し、北陸新幹線「あさま」は始発駅の東京から乗る(始発駅からでしかも空いているので自由席)。
長野で降りて、バスで善光寺の大門で降りる(190円、現金のみ!)。

本日はGW前の平日なので、善光寺サイトの混雑予想でも空いていると予想された通り、新幹線もバスも空いていた。
前立本尊(重要文化財)の拝観券(600円)を買って内陣に入ると、ここはそれなりの行列だが、7年前と比べると半分以下。
内陣から拝む前立本尊は(大きくないため)遠目になる(双眼鏡をもってくるべきだった)。
7年前は省略した「戒壇巡り」も今回は空いていたので参加。
通路は真っ暗ではなく、ごく弱い照明があるものの、戒壇の真下は暗黒で、右手の手探りで鍵を触る。

重要文化財の山門にも上がった(500円)。
山門から金網越しに本堂を見る(写真)。
善光寺は天台宗・浄土宗なのだが、山門内は真言宗的だった。
善光寺は歴史も格式もあるものの、境内にある仏像の造りは少々残念(仁王門の仁王は別)。

境内西側(大勧進)のわかりづらい所に宝物館があり、無料ながら、展示物以外にもいろいろ見るものがあってよかった。

本尊の御影を買いたかったが、売っておらず(昔買った掛け軸状のものが自宅にある)、代わりに本堂前に建っている回向柱の小ミニチュア(1200円)を買った。

門前を歩き、釈迦堂で釈迦涅槃像を拝み、名物の七味唐芥子を買う。

バスで長野駅に戻り、1時間に1本の名古屋行きの特急「しなの」に丁度いいタイミングなので、急いで特急券を買ってガラガラの自由席に座る。
ここから名古屋までは3時間。
長野駅で電車を待つようだったら蕎麦でも食べたが、待ち時間がなかったので売店で買った発泡酒とおにぎりを車内で摂った。

ちなみに、長野市内のバスはSuica(PASMO)が使えず、 JR長野駅の券売機ではクレカが使えなかった(さすが駅の売店ではSuicaは使えた)。
長野に行くなら現金を用意しておくこと。

7年前は、コインロッカーの前で携帯を紛失したのだが、今回は無事に帰れた。


舌ガンの疑い?:追記あり

2022年04月25日 | 健康

先月、近所の歯科に歯の定期チェックをしにいったら、自分の舌の両側面が変形していてしかも白い出来物ができていることを指摘された。
舌の側面なんて、普通見ないから全く気づかなかった。

歯ではなく舌なので、歯科ではどうすることもできず、大学病院の口腔外科でその組織を採って検査を受けることを勧められた。
同意すると、同じ区内にある東京医科歯科大学の口腔外科に紹介状を書いてくれた。

その紹介状は封がしてあるので中身を確認できないが、舌の生検を勧めることから、舌ガンが疑われているようだ。
実際、舌の変色と変形についてネットで検索すると、いずれも「舌ガン」の文字が出てくる。

私が生まれた数ヶ月後に他界した大叔母(祖母の妹)がいて、その独身の大叔母は生まれたばかりの私を可愛がってくれたそうなのだが(私には記憶がまったくない)、私の誕生と入れ替わりのように亡くなった死因は舌ガンだったという。
なにか運命的なものを感じる。

紹介状を頼りに東京医科歯科大学病院の初診外来に電話をかけるも、予約は先まで埋まっていて、予約が取れたのは約1ヶ月先。

その予約した本日、紹介状持参でお茶の水の医科歯科大に向かった(大学病院は紹介状がないと初診料5000円かかる)。
まず初診外来の手続きそのものに時間がかかり、口腔外科で受付を済ませると血圧測定とチェックリスト回答が求められ、1人目の医師にそのチェックリストを渡して軽い問診を受け、しばらく待たされて2人目の医師によってようやく診察を受けた。

歯科の診察台に仰向けになった私は、舌を思いっきり出した状態になって舌の左右側面の写真を撮られた。

そしてその医師が言うには、私の症状に該当するのは、①舌ガン、②カンジタの感染、それと歯との摩擦によっておきる③舌の角化の3つで、私の場合は、症状に変化(進行)がない点、白い部分が拭えない点から、角化と思われるという。

私の下の歯列は、少し狭いので、舌の側面が歯列に圧迫されるため変形し、歯との摩擦で舌が角化したという。
※:下顎の退化は人類の基本傾向。
実際、数日前、舌の側面が口内炎のような痛みをもっていたが、それは歯との摩擦による傷で、頻繁ではないが繰り返される。
現在は治癒過程で痛みがなくなったので、薬を断った。

一応、経過観察(進行がないことの確認)ということで、3ヶ月先の予約をとった。
これだけ余裕が取れるのも、進行性でないため。
実は舌のこの状態は一年前からなので(すっかり忘れていたが、昨年の歯科チェックで指摘されていた)進行性のガンでないことは確かだ。
とりあえずホッとした。

追記:3ヶ月後の7月25日に再診してもらった。
進行はしていない(びらんや潰瘍はない)。
組織を取っての検査は必要ないが、白板症※(はくばんしょう)の疑いは0でないということで、歯科による(長期の)経過観察ということで落ち着いた。
※:歯などの物理的刺激によって舌が白く角化する状態。舌ガンに進行することもあるという。
舌側面の白い部分は直線的で狭い歯列の圧迫によるものなので、状態は改善はしないという(支障はない)。
紹介状を書いてくれた歯科への返信を渡してくれた。


千葉の布施弁天

2022年04月24日 | 東京周辺

東京にいる日曜だが、午後から雨になる。
雨になる前に往復できる近場として、千葉県柏市の布施弁天東海寺)に行くことにした。

この寺の存在は今まで知らなかったのだが、先日の浅草弁天参詣の折り、”関東三弁天”として江島(えのしま)浅草(いずれも参詣済み)に加えてこの布施弁天があることを知った。
言い換えれば、関東三弁天の中でここが行き残っている。

いつのまにかテーマになってしまった”女神詣で”には弁天が含まれているので、ここは行かねばならない(前記事の観心寺・如意輪観音は女神詣でのクライマックスであって、しんがりではない)
しかもただ詣でればよいのではなく、女神様本体を拝まないと(それが楽しみなので)意味がない。
ここは拝観可能でしかも御影も購入できるという。

寺のサイトで寺へのアクセスを調べると、常磐線の駅からは遠く、柏・北柏・我孫子のいずれかからのバスとなる。
そのバスの便も寺のサイトにリンクがあり、それによると、同じ市内の柏・北柏の東武バスの便は実用的ではなく、別の市ながら直線距離が近い我孫子からの坂東バスは1時間に3本の割であり、これを使うことにする。

その我孫子駅には、弥生軒という有名な”駅そば”があるので、ついでにそこで蕎麦を食べることにする。

さて、常磐線快速で我孫子に達し、さっそくホームにある弥生軒に入る。
10時半という中途半端な時刻ながら、同じ電車から降りた客でとたんに満席となる。
ここの名物(有名な理由)は鳥のでかい唐揚げが載った「唐揚げそば」で、私を除いた全員(♂)がそれを券売機で選ぶ。
鳥の唐揚げが唯一駄目な私は、長い半切りちくわ天が一本入った「ちくわ天そば」(400円)にする(以前は2本だったらしい)。
同額の天ぷらそばではなく、ちくわ天にしたのは、脂質・糖質よりたんぱく質を選んだためだが、温まっていないちくわを噛んだ時、選択を悔やんだ。

駅前から時刻通りのバスに乗り、終点の「あけぼの山農業公園」で降りる。

向かいのあけぼの山公園(家族連れで楽しめる)を通り抜け、門前に鳥居が立つ布施弁天に達する。

派手な彩色の四天王像のある楼門(写真)を石段で上がると、正面にカラフルで立派な本堂がある(拝観料はなし)。

その左手前に観音堂があり、靴を脱いで堂内に入ると、結構ちゃんとした造りの聖観音像を拝めた。

本堂の内陣には、等身大ほどの彩色豊かな八臂弁天像(伝弘法大師作)が鎮座し、堂内の外陣から拝むことができる(撮影禁止)。
ただ外陣と内陣の間がガラスで仕切られていて、そこに背後から昼間の光が反射して、弁天様の全身がよく見えないのが残念。

本堂、楼門、多宝塔形式の鐘楼(写真)の3つの江戸期の建物は県の重要文化財となっているが、本尊の弁天を含め仏像は、伝説はともあれ、見た目は江戸期の地元の作という感じで、県の文化財にも指定されていない。

この他に三重塔(不動明王が祀られている)、新しい石像の布施観音像などがある。

受付で本尊の御影(500円)を買い(江島弁天の御影と比べると、持っている物の手の位置が異なっている)、千葉県に多い妙見菩薩の堂を巡って、往路を戻った。
常磐線を日暮里で降り、日曜の谷中銀座に寄り道していたら雨が降ってきた。
ということで、本日にちょうどよい外出だった。


はじめてのおおさか:国宝観音を巡る

2022年04月18日 | 

この歳になるまで、”大阪”に降り立ったことがなかった。
仕事での用事がなかったことが第一で、観光で関西に行くならどうしても京都になる(次点は奈良)。
ライフワークにしていた小笠原家史跡の旅でも訪れたのは京都と明石。
結局、私が関西で2泊以上滞在したのは、京都、明石、飛鳥、南紀、滋賀(湖東、甲賀・信楽)。
見事に大阪が避けられている。
なにも毛嫌いしているわけではなく、行き先がなかったのだ。

そして今年2022年、ついに大阪の行き先が発生した。
ただし、4月18日に限定の行き先。
そう、一年の一日だけ、4月18日は大阪が行き先になる日
この日、大阪にある国宝の観音様がすべて御開帳となるのだ。

まずは、観心寺の如意輪観音
年に4月17,18の2日間だけ開帳される貴重な観音様。
次いで道明寺の十一面観音
毎月18日と25日に開帳される。
そして、葛井寺(ふじいでら)の千手観音
今年は4月16−20日の間開帳。
以上3つの共通日は、4月18日しかない。
そして、今年の4月18日は月曜で、私は大学に出勤する用事がない曜日(来年は会議日の火曜になるのでダメ)。
観心寺と葛井寺なら17日(日)でもいいのだが、日曜は観心寺が絶対に混む。
なので、17日は名古屋城に行って、18日に”満を持して”どころか”生まれてはじめて”大阪に向った。

もともとは1泊で行くつもりだったが、観心寺の起点になる河内長野には1人客が泊まれる宿がなく、手前の堺でないとビジホがない。
よく考えたら、名古屋からなら新幹線を使えば京都や大阪は日帰り圏だから、泊まる必要はない。
名古屋を朝発てばよい。
というわけで、月曜の朝、早起きして、朝のラッシュで混雑する(階段規制!)名古屋から新幹線で新大阪に向った(車内で朝食としておにぎり2個食べる)。
大阪の鉄路は無知なのでネットの”ジョルダン”でルートを検索し、それに基づいて、新大阪から地下鉄御堂筋線で難波に行き、そこから南海で河内長野に向う。

なるほど、大阪はエスカレーターでは右側に立っている。
東京は左側で、名古屋も左側だったが最近は2列(両側)に立つように案内している。
立つ位置の境となる駅(名古屋〜大阪の間)はどこなのだろう(名古屋が境ともいえる)。
私個人は、どちらか開けてくれた方が急ぐ時にありがたい(実際、今回も空いた側を歩いた)。
ちなみに、安全を第一とする武家礼法の基準では、いざという時のために「利き手を空けておく」のが基本だから、左側に立つのが正しい。空いている右側を歩く人は動いている分だけ危険なので、いざという時(たとえばエレベータが停止した時)こそ利き(右)手で素早く確実に手すりにつかまる必要がある。そういう意味で、エレベータで歩く人の危険度は大阪>東京。武家礼法は実際、江戸の方が大坂より浸透していたらしい。

また、かつて大阪出身の人から、大阪では、東京のように降りる人が済んでから乗るような無駄なことはせず、電車に乗り降りするのは同時にスムースにすると自慢していた。これって乗客が少ないから可能で、東京のラッシュ時にできることではないと思っていた。而して今回、大阪のどの駅でも、東京と同じく降りる人が降りきってから乗るようになっている。

河内長野に降りると、観心寺を通るバスが丁度出るところで、急いで乗ると中は満員。
ほとんどの客が観心寺で降りた。
月曜の平日なのに、なんでこんなに人が多いの?
定年後の年齢層だけでない。
普通の会社員と学生は来れないはずなので、きっと月陽が休みの理・美容業界と博物館職員なのだろう。

開帳日だけの特別拝観料1000円払うと、12:30と書かれた紙とパンフをもらう。
これは80名・30分単位の予約票で、その時刻になったら金堂前に集まれという。
なるほど、これならずっと行列している必要はない(コロナ対策も兼ねている)。
まだ1時間以上あるが、それまで広い境内の諸堂(重要文化財建築が多数)を見学していればいい。
境内には開帳日臨時の弁当屋も出ていて、せっかくなので手製のすきやきおにぎり(300円)を買う。
昨日の日曜の人出はどうだったか尋ねると、今日は半分だという。
すなわち、昨日は拝観まで2時間待ちだったわけだ。
やっぱり休日ではなく平日に来たのは正解だ。

さていよいよ金堂(これも国宝)内に入る。
堂内正面に国宝・如意輪観音(坐像)の扉が開かれている。

まずは着席させられて僧侶による堂内の説明を聞く。
そのあと一列になって、如意輪観音の正面を巡回する。
真正面では、立ち止まって手を合わせることができるが、人の列は動いているので、じっくり眺めるわけにはいかない。
なので、座席に戻って今一度遠くから観音を眺める。
でも30分ごとに次のグループと入れ替わるので、最大30分しか拝めない。
しかも、距離を隔てての拝観なので、間近に見る事ができない。

それでも等身大の本物は違う(写真:寺で販売の絵はがきより)。
もし先入観なしで、開帳してこの像を初めて目にしたら、きっと生身の人間と見まがうのでは、と思うほど、人肌の色が”生々しい”(これほど色が残っているのは長年秘仏だったため)。
仏像でこれほど人間に近いのはこの如意輪観音だけ。
仏像にふさわしくない表現だが、生々しく”妖艶”なのだ。
薄衣から露出した肌の色だけでなく、切れ長の目、それになにより片膝ついて頬に手をやるアンニュイな姿(肢体)がその雰囲気を見事に造っている(如意輪観音以外では形態的に不可能)。
美仏は他にもあるが、上の特性をもったこの像に、私を含めた老若男女が魅了されている。
実は、本日のこの如意輪観音参拝こそ、私自身の”女神様詣で”のクライマックスでもあった。
※:一連の吉祥天・弁才天・美観音詣で

30分しか拝む事ができず名残惜しいが、※イスムで買ったこの観音の模像が我が書斎に飾ってあるので、実はそれを眺めて暮せる(でも本物にはかなわない)。→その記事

バス停に戻るとすぐにバスが来た(バスの便はいいらしい)。
河内長野から今度は近鉄に乗って富田林を北上する。
地元の高校生が乗り込んでくる。
コテコテの河内弁が聞けると思ったら、女子高生は「〜でさー」という口調で、東京と違和感ない。
もっとも名古屋でも、コテコテの名古屋弁を話すのは河村市長くらいだし。

道明寺駅で降りて、町中を抜けて、天満宮と宝物館を巡り、思ったよりこじんまりした道明寺に着く。
それでも国宝拝観日だからか観光バスが停車している。
500円払って本堂に上がると、尼さんの住職が説明をしている。
本尊の国宝・十一面観音(立像)は、観心寺よりは小振りで、黒ずくめなので、暗い堂内だとちょっと見づらい。
しかもガラスケースに入っているので、立体感もとらえにくい。
ここの十一面観音は、オーソドックスな造りだが、仏像にありがちな無機質な面立ちではく、ふくよかでやさしいお顔だ(写真:寺で販売の絵はがきより)。
なのでここの十一面観音もお気に入り(十一面観音ではベスト)。

ここから土師駅まで歩き、そこから一駅先の藤井寺で降りる。
おなじ発音の葛井寺は駅から商店街を抜けてすぐで、庶民的(商売熱心)な雰囲気。
重要文化財の本堂に入って拝観料500円払って内陣に入ると、奥に本尊の千手観音が開帳されている。
ここの国宝・千手観音(坐像)は、本当に手が千本(以上)あり、しかもぞれぞれの手に目がついているのだが、これらは東博で間近に見る事ができたが、こうやって本尊として開帳されると、遠目に拝むだけで、この像の本当の凄さを味わえない。→東博の記事

そう、今回はすべて本尊としての開帳だから、美術品としてじっくり間近に見る事はできなかった。
そういう鑑賞は美術展での出品に期待するしかない。
もとより、こういう室内の固定された位置からの見学には、双眼鏡などを持参すべきだった。

近鉄で阿倍野=天王寺に戻ったので、最後に大阪第一の寺・四天王寺を挨拶代わりに拝観しようかと思ったら、ネットのルート検索によると、到着する頃は拝観時間終了後と出たので諦め、大阪環状線で大阪→新大阪と進み、そこからのぞみで名古屋に戻った。

以上、それぞれ如意輪観音、十一面観音、千手観音の最高傑作であり、それらが大阪に集まっていて、しかも本日限定で一斉に拝観でき(交通の便がいいのも有難かった),”はじめての大阪”の目的は達した。
次回は、仏像以外の史跡などを巡ってみたい。


名古屋城本丸御殿を見学

2022年04月17日 | 名古屋周辺

珍しく名古屋に居る日曜。
天気が良ければ、「堀川」(→堀川を歩く1)の続きを歩こうと思ったが、午後から雨の予報なので、時間がかからずしかも雨に遭っても問題ない名古屋城本丸御殿を見学する。
名古屋城の天守閣は名古屋に住みはじめてほどなく訪れたが、2018年に復元された本丸御殿はまだ見てない。

地下鉄の「市役所」駅から、今にも雨が降りそうな曇天の地上に出ると、そこは名古屋城の入口で、御殿復元後にできたレストラン街である金シャチ横丁(宗春ゾーン、義直ゾーン)を通過する。
これらのどこかで昼食をと思ったのだが、昼食は軽く蕎麦一杯でいい私にはいずれも価格・カロリーともに基準越えなので、空腹のまま、正門の受付から城内に入る(500円)。

城内に入った所にある土産物店では五平餅が食べられるが、昼食には役不足。

昨年11月に開館したばかりの西の丸御蔵城宝館でまずは名古屋城の歴史を概観。
西之丸から本丸に向う道沿いには出店のテントが並んでいるが、あいにく今日はどこもやっていない(私向きの食べ物があったのに)。
本丸に入る門の向い側に私向きの蕎麦食堂があった。
そこで山菜きしめん(850円)を食べて、腹を落ち着かせた。

戦国時代の出で立ちの”おもてなし武将隊”を横目で見て、本丸に入り、いよいよ靴を脱いで御殿に入る(写真:中央奥は天守閣)。

天守・櫓の完成(1612年)後の1615年に造られた御殿は天守閣とともに戦災(米軍の空襲)で焼失したが、資料がたくさん残っていたので、かなり正確に復元できたようだ。
しかも本気の復元で、国宝だった名建築がそのまま復元されているので、国宝建築を建造された当初の新らしさで目の当たりにすることができる。
建物はもとより、襖や天井格子の国宝級の絵までもが復元されている(写真)。
もっとも見学者は廊下から室内を遠目に眺めるだけだが。

かように復元にかける本気度(相当な手間と費用)を痛感した。
なのでゆくゆくはこの御殿も文化財に指定されよう。

やはり「尾張名古屋は城でもつ」。
名古屋城は、名古屋市民にとってアイデンティティであり、これらからも誇りでありつづけてほしい。
なるほど、ここまでくれば、河村市長が言うように、次は天守閣の木造による復元だ(現在の天守はコンクリート製でエレベータ付き)。
その木造天守閣復元の募金箱が館内にあったので、ここは奮発して紙幣を入れた。
ちなみに、鉄筋天守閣は現在、耐震性の問題で閉鎖中。

本丸を出て、北西隅の御深井丸(弾薬庫があった)、そして庭園になっている二之丸(この庭園も復元中)を廻って東門から出た。

地下鉄の市役所駅に向うと、行く手に和洋折衷様式(洋風の建物に和風の屋根)の名古屋市役所と愛知県庁の建物が並んでいる(写真:左が市役所、右が県庁)。

それぞれ、”日本近代”建築として見栄えがする。
これらも名古屋を象徴する建物になっている。

とうとう雨が降ってきたので、地下に急いだ。
今日は、本丸御殿で丁度よかった。


浅草のダブル弁天開帳

2022年04月10日 | 東京周辺

本日「巳の日」は、巳(蛇)年生まれの守護神である弁才天の縁日というわけで、浅草寺内の普段は閉まっている弁天堂がこの日だけ開帳される。

最近の私の参拝対象は吉祥天や弁才天、あるいはどう見ても女性の観音像に集中していて、いわば”女神様詣”になっている。

それならなおさら、本日拝める弁天詣でをしないわけにはいかない。

いつものように自宅近くから都バスに乗り、「浅草六区」で降り、まずは挨拶の順として浅草寺本堂に参拝。
人出、とりわけ若者が増えた印象。
本堂内の本尊前で、若者たちが、私の目の前で、参拝の仕方について「二礼二拍手一礼」だと確認し合っていたので、さすが黙っているわけにいかず、彼らの肩を叩いて「お寺では合掌だけでいいのです」と諭した。
人気の寺に行くたびにこのような場面に遭遇するので、いっそのこと終日本堂内に待機して、仏教での参拝指導をしたい気持ちになる。

本堂の参拝をすませて境内の南東隅に進むと、小高い丘の上にある弁天堂の扉が開いている。
堂の正面で焼香を済ませて、堂内を見ると、正面奥に黒い八臂の弁天像が本尊としてあり、手前の厨子に収まっている小さめの白髪の弁天が開帳されている(写真)。
一度に2躰の弁天を拝めるわけだ。
背後の弁天は武器を手にして、白目だけが目立ってちょっと不気味。
手間の弁天は白髪なので「老女弁天」とも言われているが、お顔は皺1つなく、優しい面立ち。
弁天堂は参拝者が誰も来ないので、1人でじっくりダブル弁天を鑑賞できた。
堂内の写真撮影は禁止されているため、お堂全体を撮る位置に退いてズームで撮った。

この弁天堂についてのネットの書き込みに、「カップルで参拝するのは、弁天が嫉妬するから、避けるべき」などの邪説が騙(かた)られているが、そういう教典にない無根拠の大嘘(フェイク)がネットに書き込まれいるので注意が必要。
芸能神サラスバティは、そんな狭量な女神ではない(女=嫉妬、というステレオタイプの発想もさもしい)。
おそらく、日本の山の神あたりの俗説と混同しているのだろう(日本の神は、人間的感情に満ちていて煩悩から自由でないと自覚しているので、仏に救済を求めている、というのが神仏習合の出発点)。
※:大山津見の神の娘。女性は山に入ってはいけないのは山の神が女性に嫉妬するから、という俗説がある。江戸時代を通じて、女性が多くの専門業的空間から排除されていった論理の1つで、こういうイデオロギーに無批判であってはいけない

この後は、ここから北上して、二天門・被官稲荷を巡り、もう一度ダブル弁天を拝んで、西に渡って、東本願寺(立派な本堂)を参拝した。
浅草寺境内にも見どころはたくさんあるが→記事
浅草界隈は寺町を形成していて、浅草寺以外にも見る寺がある。


紫外線が「強い」ってどれくらい?

2022年04月09日 | お天気

昨日、テレビのお天気番組で、キャスターが「明日は紫外線が強いです」と言った。

気温や(相対)湿度、雨量も風速も具体的な数値で表現しているのに、なんで紫外線は強い/弱いという言語表現なの?
そもそも紫外線が強いってどの程度の現象なの?
実は、風速も雨量も「強い」は定量的に定義されている。

こういう説明が一切ないため、視聴者は紫外線を必要以上に警戒してしまうのではないか。

紫外線は広義には”放射線”の一種(いわゆる放射線とされるX線と可視光線の間の周波数帯の電磁波)なので、人体にもそれなりの影響がある。
日焼け(シミ、シワ)の直接原因だし、白内障の原因の1つともされる。
ただし悪影響だけではなく、皮膚の殺菌作用やビタミンD合成作用もある。
特に後者は貴重で、紫外線が不足だと、免疫力が弱まり、また骨形成に障害(くる病など)をもらたす。

要するに、ここにも「過ぎたるは及ばざるが如し」の法則が該当し、紫外線過敏症でない普通の人が紫外線を完全防御していると、骨粗鬆症になりやすくなる(可視光の防御は睡眠障害・うつ病も招く)。
ということは、防御が必要なのか、そうでないかの判断基準が必要で、そのためには紫外線量は定量的に表現すべき。
残念ながら、お天気キャスターは紫外線の定量的情報をもっていないのだ。

わが「私設:日進気象台」では、愛知県日進市にある大学キャンパスの”有害紫外線量”(UVIndex)を常時観測してネット配信しているので、勤務先のキャンパスでの紫外線量はリアルタイムで把握している。→日進気象台

気温は、春でも30℃を超える場合があるが、地上に届く最大紫外線量は、太陽高度角で決るので、その時の太陽高度角以上の紫外線量には絶対にならず、異常に強くなることは無い(逆に雲などの大気状態で本来の最大値にならないことはよくある)。
すなわちその時期の最大紫外線量は予測可能で、その値に対応すればいいだけ。

4月の時期の紫外線量は、冬至の頃の年間最小値と、夏至の頃の理論的には年間最大値の中間くらいの値。
※:太陽高度角は夏至の頃が一番高いが、日本の地上での紫外線量は8月が最大になる。上空のオゾン層が薄くなるためである。
さらに太陽高度角は、一日の内でも時間変化するので、毎日の南中時刻付近(約11時半)で日の最大値となる。

紫外線防御の観点では、最大値を気にすればいい。
日最大値は、UVIndexでいうと、冬至の頃は値が2程度で、夏は8程度。
4月の今は5〜6前後になっている(次第に強くなっていく最中)。

観測器販売元のDavis社の解釈指標によると、5〜6は「中程度」。

なので、せめて「明日の紫外線の強さは”中程度”です」というべき(上の理由で晴天日の最大紫外線量の予報は簡単)。
そのくらいの正確さは堅持してほしい。

ちなみに、今の時期でも快晴で気温が高いと、日差しを”強く”感じる。
この”強い日差し感”は、高い気温に付加される太陽の赤外線放射による皮膚の昇温によるもので、紫外線の強さを意味しない(赤外線は見ることはできないが熱として感じることはできる)。
なぜなら紫外線は他の放射線と同じく、その強弱を人はまったく感じることができないから(放射線の恐ろしさは、この点にある)。
だからなおさら、測定値に基づく正しい情報を提供すべきである。
福島原発事故当時と同様、愚かしい過剰反応(曇天での完全防御など)を抑制させたい。


新年度始まる

2022年04月08日 | お仕事

今週から新年度の授業と会議が始まった。

毎年3月末に陥っていた鬱気も、4月に学生のフレッシュな顔を見ると、これまた毎年吹っ飛ぶ。

新年度の初回授業は、リニューアルされた教室の機器に戸惑ったり、学生が教科書を購入していなかったりと、スムースにいかず、鬱にひたる余裕がない。

それに今年度は、役職から解放されて、一教員の立場の戻れた分、気が楽だ。
とりわけ会議の議長からの解放がありがたい。

ただ、コロナ感染の波が若者たちに襲いかかっている気配があり、それが気掛かり。
今年は、対面授業を通したい。


夢:表象と自我の分離現象

2022年04月04日 | 心理学

夢=非合理的という偏見」の記事で、夢を見させる主体は何なのか、が問題になった。
これを私の「心の多重過程モデル」で説明したいのだが、理論を元に現象を整合的に説明するという理論側に偏した記述をするより、まず現象をきちんと捉え、それを論理的に説明(理論化)する、という手順を踏みたい。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3以降は本記事の問題には関係ないので省略。

そこで、夢という意識現象を、現実との対比だけでなく、空想との関係も考慮し、さらには、覚醒と睡眠、夢見との移行段階の諸現象(開眼夢夢うつつ半睡)を材料に、捉え直してみる。

【夢になる瞬間】
覚醒から夢見に至る境界領域に着目し、意識的なイメージ表象が夢になる瞬間を捉えてみよう。
①知覚(像)が夢に転換する瞬間
居眠り時、”夢うつつ”状態になると、知覚像(たとえば本の文字面)が、それとは無関係な映像や音に切替わる。
同じ居眠りでも、開眼したまま夢を見る”開眼夢”状態(経験者は少ない)では、眼前の現実の風景に夢の像が重なる。
両者に共通するのは、夢の映像は、覚醒時のイメージ表象(想像)と違って、現実の知覚に匹敵する精細度があるため、そのリアリティ(現実感)に吸い込まれるが、静止画的で短時間で終わり、すぐ覚醒に戻ることである。

②空想が夢に転換する瞬間
こちらは毎晩の入眠時に経験できるかもしれない。
寝床について照明を消し、目を閉じ、感情的に興奮しない静謐な情景(人物がいてもよい)をイメージ表象(想像)する。
だんだん眠くなっていくと、イメージ表象が消えて睡眠に入ることの方が多いが、時折、そのイメージ(たとえば人物)が(自我の制御を離れて)自律運動を始める場合がある。
これが想像が夢に転換した瞬間だ。

以上の①②は、寝入りばなの浅い睡眠時に経験するもので、この転換過程だけで終わり、転換後に夢がさらに進展することはない(この経験に驚いて目が覚めてしまう)。
すなわち、夢イメージは、ダイナミックさも内容もないため、記憶に残らない。

この夢を見ている時、自我は夢をただ見ている(眺めている)にすぎず、夢の中で行動しない。
そのためこの種の夢は、ほとんどの夢理論で無視されているが、一方で「ノンレム睡眠で見る夢」と位置づけられて、それ以上の言及はない。
この浅い睡眠時のストーリー性のない夢を”夢1”としておく。

【自我を巻き込む夢】
たとえば朝目覚める直前に見る夢は、劇的なストーリー展開があり、自我(夢主)がそのストーリーに積極的に関与している(ストーリーの主人公になっている)。
巷間の夢理論が題材としている夢で、このような夢を”夢2”としよう。

ということで、私は夢を上の夢1と夢2の二種類に分類する(夢1を含めることが私の特徴)。

まず、夢1と夢2の共通性、すなわち夢の”本質”を捉えてみる。
夢(夢1と夢2の総称)は、ともに覚醒時の自我の能動的なイメージ表象(想像)とは異なり、自我の制御外で発生する。
自我が構成したのではないという意味で自動的な表象現象である。
ここが夢理解の出発点である。
また、現実と見まがうほどの高精細な表象である点も、覚醒時のイメージ表象と異なる。
たとえば、覚醒時にある楽曲をイメージ表象しても、それは音としては鳴っていない(比喩的な表現だが、頭の中で記憶の再生として鳴っているのであり、耳元でリアルな音として鳴っているのではない)。
ところが、夢となると、音が(耳元で)鳴り(聞こえ)、それまで聞こえていた環境音をマスクする。
こう断言できるのも、覚醒とダブっている過程の夢1の経験をしっかりとらえることで、その精細度を知覚像と比較できたためである。

自我が能動的に表象するのではなく、自我の意図とは無関係にリアルな精細度で表象され、自我はそれに受動的に対応するしかない。
これが夢である。

次に夢1と夢2の相違点に注目する。
夢1で経験される表象は、精細度が高くても、短時間でストーリー展開がなく、意味に乏しい。自我はそれを眺め聞くだけである。
夢2はストーリー展開があり、夢主を巻き込み、夢主は夢の中で思考し、会話し、行動し、さまざまな感情を経験する。
すなわち夢1は知覚対象としての距離にあるが、夢2は夢主を巻き込んで相互作用する近さにある。

この違いは、それぞれを構成する主体が異なるためといえる。
夢1は知覚像の記憶をもとにした(不正確な)再生ともいえ、それだけならシステム1で可能。
夢2は現実体験に基づかない物語化であるため、システム2の創造能力を必要とする(システム1では無理)。
動物も睡眠中に夢を見て不思議ではないが、システム2が発達した人類の見る夢(夢2)と、システム1中心の他の動物の見る夢(夢1)に違いがあるはず。

夢が自我と分離した表象現象というなら、分離した非自我は何か。
夢1ではシステム1という元より自我とは別の心のサブシステム(無自覚領域)が主体といえる。
夢2はシステム2における自我(夢を見る側)と物語作成機能が分離したものと見なさざるをえない→すなわち意識作用と意識対象とが分離する。

イメージ表象の自我からの分離(乖離)は、夢1から、入眠時でも簡単に起きることがわかる。
すなわちイメージ表象能力は、元より自我の制御から外れることが可能なのである。
これは絵画作家や文学者が、「筆がひとりでに動く」というように、創作活動中に時々経験されることかもしれない。
あるいはわれわれ読者が小説を読みふけっている時、文字情報を処理しているという意識がなくなり、映画を観ているように小説内容が映像化されるのは、紙上の文字列が自動的に(自我の関与を素通りして)イメージ表象化されていためである(自我はイメージ映像を鑑賞している)。
早い話、われわれは”幻覚”を経験する能力が備わっているのである。

言い換えれば、自我はシステム2を構成するその一部であって、システム2のすべてではない。
ましてや意識や心のすべてではない(自我はそう思っているかもしれないが)。
たとえば自我と表象とを分離するのは、システム2自身ではなく、システム2の作動を可能(不能)にする、より根源的な層であるシステム1(知覚・行動の主体)かシステム0(生命活動の主体)であろう。
われわれは自我の意思で夢のオンオフを制御できないからだ。

そもそも心の作動の制御は、システム2の一部でしかない自我だけでは無理で、心全体(システム0~)で分担するものである。
言い換えれば、心の作動の責任を、システム2の自我にだけ押し付けるのは、自我にとって酷である。

話が夢から自我に逸れてしまったので戻そう。
夢という現象を、特定のパターンに押し込めることなく、その多彩さを含めてきちんと受け止める事から始めると、その説明はそう簡単にはいかないものとなる。
考えれば考えるほど、夢は不思議な現象だ。

自我中心ではなく、心全体(システム0~)を見渡す視点から、夢(夢2+夢1)という不思議な意識現象を捉え直してみたい。


野川を歩く4:不動橋~水源出口

2022年04月03日 | 川歩き

国分寺崖線に沿って流れる野川は、多摩川との合流点(二子玉川)から3回に分けて遡上し(→野川を歩く3、水源に近い上流部を歩き残していた。
なぜならその水源は国分寺市の日立製作所中央研究所内にあり、4月の第一日曜か11月の第三日曜の年に2回の公開日でないと部外者は入れないため。
今日がその日だったので、雨の中、国分寺駅北口からほど近い中央研究所に向かった。
人の出入りがない入口には、看板があり、コロナ禍によって(おそらく3年目の)今年も「開放は中止」と記されていた…


水源はまたのお預けとなった。
仕方ないので、歩き残した短い上流部をやることにする。
まずはその前に駅南口近くの蕎麦屋で腹ごしらえ。

前回は、国分寺駅南方の不動橋で終わったので、今日はそこを起点とする。
不動橋は、石造りの歩行者専用の橋で(写真:桜の奥が橋)、橋の袂(たもと)に、橋の由来となる不動明王の字が彫られた石塔と青面金剛・三猿の庚申塔が立っていて、説明板もある。

肝心の野川は、国分寺市域内では邪魔物扱いされていて、住宅地の中を人と接することなく人工的な造りで細く流れている。
川沿いの道がないので、川に一番近い道路を進み、川を渡る橋だけが川との接点となる。
水源に向かう最後の橋は押切橋といい、そこには「野川同志会」による野川の昔の風景などの掲示がしてある。
邪険に扱われている野川だが、それを愛する人たちはいるようだ。
そもそも、この付近の町名は「泉」という。


さらに住宅街の奥に進み、中央研究所内の水源から、中央線の線路をくぐって初めて川として顔を出す所が見える場所に達した(写真:走っているのは西武国分寺線)。

ここが野川を見る最奥地。

対岸ではどこまで行けるか探ってみたら、ここよりもう少し先に野川の看板が立っていたが、私有地の庭先なので入れない。
これが今日の限界。


残すは水源のみとなり、これは次の機会(来年?)にするしかない。

国分寺駅に戻り、時間があるので、初めて単線の西武多摩湖線に乗って(国分寺駅は西武線が2本も乗り入れている)、萩山で西武新宿行に乗り換えて帰った。

●次回→川を歩く5
●「野川歩き」最初から:→野川を歩く1