今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

愛知日進・東京文京区の気象観測値の閲覧

2024年03月31日 | お天気

アメリカDavis社製の気象観測装置(Vantegeシリーズ)を使って、
タイトルの2地点の15分ごとの気象観測データを個人研究用にサイトにアップしている(4月から 無料レンタルサーバーfc2に移転)。

自分がどこにいても現地の値をいつでも確認するためなのだが、
あくまで”参考値”として参照する分には問題ないので、誰でもアクセスできるようにしてある。
ただしごくたまに観測の異常値が発生するので、それを承知の上で参照してほしい。
また、両地とも更新タイミングが遅れがちとなっている(これは多分サーバーの都合で故障ではないので、容赦してほしい)。


2地点の観測態勢を以下に示す(それぞれ当地の私設気象台と名乗っている)。
観測表示画面に英語が混じるのは、表示テンプレートがアメリカ製のため。

我ながら実感するのは、経時グラフがとても参考になること。
とりわけ、気温・気圧の変動は気象病の原因とされるので、症状と変動との関係を事後的ながら確認できる。


私設日進気象台:愛知県日進市竹の山3。建物の屋上
日進市はアメダス名古屋・豊田から離れている。
URL:https://yamaneich.web.fc2.com/nissin/Vantage_Pro_Plus.htm
【使用機器】: Vantage Pro2
【観測項目】
①気温、相対湿度、体感温度、露点温度、気圧(海抜0m補正)、風向、風速、日射量、UVIndex、雨量(降水強度、積算雨量)
②それらの本日の極値
③それらの経時グラフ(8時間/3日間の交代表示)
④当地の日の出・日の入り時刻、簡単な予報(英語)

観測項目の説明は、ページ右の「観測値の説明」をクリックすると詳しい説明画面に飛ぶ。

【特徴】
①風速は気象庁では10分間平均風速で示されるが、ここのグラフは、あえて10分間の最大風速を示している。なぜなら、風害は最大風速によって起こされるから。
②気温のほかに複数の体感温度指標を示す(指標の説明は「観測値の説明」にて)
②有害紫外線量(UVIndex)が定量的に計測されるので、より適切な紫外線対策が可能。

【問題点】
①更新タイミングが遅れがち。
②ごくたまに雨量がありえない値になる(異常値とすぐわかる。3月30日にも発生)。そして年間雨量にその値が反映されてしまう。
③最大風速30m/sを越えると観測機が倒れ、その間風・雨の計測が不能となる。
④大学が保守点検の定期的停電時にデータが配信されない。


私設本駒込気象台;東京都文京区本駒込4。建物の屋上
URL:https://yamaneich.web.fc2.com/honkoma/Vantage_Pro_Plus.htm

【使用機器】: Vantage Vue
【観測項目】
上の①〜④から日射量とUVIndexを除いた項目。
ただし「観測項目の説明」リンクはまだ。

【特徴】
①上の①②については同じ。
②「東京」の気温とされる気象庁の「アメダス東京」は千代田区北の丸公園内の林に囲まれた地にあるため気温が低く計測される傾向にある(樹木から冷気を発する)。本機の気温の方が都心部の生活空間の気温に近い(特に夏季)。

【問題点】
①更新タイミングが遅れがち。
②設置場所の周囲に高いビル群があるため、風向が常に正しくない(南風が西風となる+90°の系統誤差が発生)し、風速も影響を受けているはず。
③ごくたまに気温がありえない低温になる(異常値とすぐわかる)。


私のように上の2箇所(愛知県日進市・東京都文京区)を同時に1画面で見たい場合
URL:https://yamaneich.web.fc2.com/duo/duo.html


旧年度の懸念全て解決

2024年03月31日 | お仕事

昨日の3月30日をもって、旧年度最後の3月中にやり終えるべき作業を全て順調に終えることができ、
これで本日清々した気分で、18きっぷでのんびり帰名できる(明日朝から早速新入生と顔合わせのため)。

まず個人的なところでは、半年ごとの歯科で定期検診を兼ねた歯石除去(春休みと夏休みに実施)、
確定申告による還付金のゲット(一部手続きミスがあったがそれも解決)。

大学業務では、新年度の新しい担当授業の準備と新委員への対応。

私的ながら研究と関連する大事なものとして、自分のサイト(ホームページ)を置いていた大学のサーバーが3月で廃止されるに伴って自分のサイトも閉鎖されるので、アップしていたいくつかのページをネット世界に残す作業に追われた(これが例年にない今年だけの大きな懸念)。

まず「小笠原家史跡の旅」(自分でも充実している思っている)と「気象についての Q&Aコーナー」、祖母キクとキリストの墓についてのページを、数日要してこのブログに移行した(いずれも今月の記事リストに掲載)。

一番の懸念だったのは、勤務と東京宅の2ヶ所から自分の確認用にネット配信している気象観測データ。
これは15分ごとに自動更新しているのでブログには移行できない。

ただ予算をとっている研究活動ではないので、有料サイトと契約するなどあえて金をかけるものでない
※:実は観測機器を販売しているアメリカの会社のサイトにアップして実況データをネット表示できるので、まずはそれを実行したが、経時データを示すには有料契約が必要。

そこでfc2という無料でサイトを作れるありがたいサービスを利用し、試行錯誤の結果、
まずは東京宅からの経時データ配信が可能になった(勤務先からの接続は4月になってから)。

最後に、教え子が公認心理師試験に合格したとの連絡を受けた。

年度末はいつもなら固有の鬱っ気に見舞われるのだが、今年はこれらの対処に追われ、しかも解決したので、いい気分で新年度を迎えることができる。


上座・下座の基準2種

2024年03月30日 | 作法

今週の『問わず語りの神田伯山』を聴いていたら、寄席の楽屋で偉い師匠が上座に座らないので同席者たちが困ったという話があった。
ちなみに、寄席の楽屋の上座は”柱の前”とのこと。
どう困るかというと、上座が空席になるので、末端の者の座る場所がなくなるのだという。

私が教えている「小笠原流礼法」では、これは困った事象にならない。

こんな現象は昔からあって、いうなれば、一番偉い人は、席を指定されること自体が不要で、好きな場所に座っていい。
そうなると、その場所が上座になるのだ。
「座の次第は御前にてさだまるなり」(万躾方之次第)ということ。
※:小笠原総領家に伝わる最も正式な礼書の1つ。

上座・下座(じょうざ・げざ)※すなわち座席の序列には、空間の基準と人の基準の2つがある。
※:これを「かみざ・しもざ」と発音する人が芸能界とりわけ古典芸能界に散見するが、彼らが演じる舞台の上手・下手(かみて・しもて)と一緒くたになった発想だろう。「かみざ」は”神座”に通じて神聖な座という余計なニュアンスを与えてしまう。ちなみに鎌倉時代は、座上・座下と言っていた。

そして小笠原流礼法では、両者の基準が不一致の場合、人の基準を優先する。

もちろん、次席は上座の隣で、そこから遠くなる程下座になる。
すなわち、上座・下座は相対的なのだ。
これを「上座・下座の相対性理論」と言っておこうか。

ところが世間では、空間の基準(絶対性理論)しか教えられていない。
空間の基準では、例えば和室では床の間が上座ポイントで、出入り口が下座ポイントである。
ただ上座ポイント(例えば床の間)がない部屋は普通にある。
その場合どうする?
問題ない。
どの部屋にも下座ポイントである出入り口は必ずあるので(ない部屋には入れない)、下座の対角線先が上座となる。
なので、どんな部屋でも(空間の)上座・下座は瞬時に判断できる。
ということで、まずは人がいなくても決まる空間の基準をデフォルトにしてよい。

ところが、ある部屋の上座ポイントは庭がよく見えないとか、エアコンの風が当たるとかで座としてベストでない場合が発生する。
となると、人が一番座りたいと思う場所を上座(最も尊敬される人の座)とした方がよい、というのが空間ではなくの作法を考えた小笠原流礼法である。
人を優先するとはこういう柔軟な対応をするという意味だ(作法は最適性の追求)。

「座の序列は人の基準を優先する」という論理を突き詰めると、同輩同士が座る空間には上座・下座は存在しないことになる。
実際「同輩の時などは高下有るべからず」(同上)と述べている(なんと論理一貫していることか)。
多分昔から、同輩同士が上座を勧め合い遠慮し合う、無駄な時間が多かったのだろう。
小笠原流の人は、そういう空虚な儀礼を馬鹿らしいと思ったのだ
(作法の第一の敵は無作法だが、第二の敵は作法を形骸化する形式主義)。
※:形式主義でない作法とは如何なるものかについては、このカテゴリーの他の記事、例えば「作法のタブーと本質」を参照。

話を最初に戻すと、既定の上座に座らなかった師匠は、伯山氏も述べているように「謙虚でやさしい」人と言える。
礼書でも「我が有るべき座よりもさがりて居べきと思う心持肝要なり」(同上)と教えているように礼に叶っている。
逆に「高座を心懸くるは田舎の人のわざなり」(同上)という。

というわけで、小笠原流礼法の論理では、上座を遠慮する上位者がいても、他の者たちは相対性理論を適用することで困らない。
ただし、神仏の面前など、人を超越した基準で空間の座が決まる場合はその限りではない
(楽屋の柱がそれに相当するかは知らない)。


八菅修験復活の日

2024年03月28日 | 東京周辺

相模(神奈川)の修験道の地といえば、伊豆山(伊豆国に位置)を含む箱根修験が有名で、
先日その伊豆山神社を訪れ、この地を訪れたという役行者(えんのぎょうじゃ)※の木像を見た(→記事)。
※:役小角(えんのおずぬ)。7世紀に実在した修験道の開祖。大和の生まれだが、伊豆大島に流罪になったことがあり、伊豆国周辺にも伝説を残す。

実はそこ以外に、丹沢の東麓、相模川が作る平野との間の八菅山(はすげさん:225m)を中心とした丘陵地帯に、
八菅修験という修験道の地がある。

丹沢の霊山といえば大山(阿夫利山)だが、そこからは少々離れている(大山修験とは別集団)。
修験集団としてはマイナーだったようで関東でも知られていない。

明治政府の「神仏分離令」の際、修験道も廃止させられた(日本の山岳宗教の破壊といえる)ため、
神仏習合を維持できなくなった修験の地は、神道か仏教のどちらかの帰属を迫られた。
教義的には仏教の方が近いはずだが、当時は仏教は貶められ、神道が神聖視されていた。
神道を選んで神社となった所は、結果的に修験道を排除する方向となった
仏僧が開いた箱根権現も同じ運命。例外は羽黒山神社)。

ここ八菅修験も、神社となってからは修験の行場ではなくなったが、
年に一度の本日、大祭に山伏が参加し、修験道が復活する。
そして神社の宝物殿もこの日に開かれる。


ということで、小田急線の本厚木駅から神奈中バスで「一本松」で降りて、中津大橋を渡って対岸の八菅神社に行く。

麓の参道入り口前には出店が数軒出ている(焼きそば等があり昼食可能)。
社務所奥にこじんまりした宝物殿があり、100円払って入る(館内撮影禁止)。
やはりこの地を訪れたという役行者の木像があり、他に中小の仏像が並ぶ。

この神社は村社で、地元の氏子の人たち(皆ご老人)が、烏帽子に神官の衣装をつけて、
(のぼり)や長持を持って行列を組んで上に登る準備中。

私は先回りして本殿に向かう急で長い男坂を登る(写真)。
上に行くと、氏子の人たちが、護摩木を販売している。
さらにその上に広場があり、その中央に青々とした杉の葉が山盛りになっている。
本日の火渡り儀式用だ。
さらにその上に本殿があるので、ますは本殿を神社式で参拝し、
儀式の場となる広場に降りて、見物客の輪に加わる。


程なく(12:00)、下から法螺貝の音が響いてきて、先ほどの氏子たちの行列に続いて、
法螺貝を吹きながら8名もの山伏がやってくる。
まず氏子たちが広場に入って四色の幟を四方に立て、すでに供物が備えられている神棚の蝋燭に点火する。

先頭の山伏が、広場の入り口で振り返って、後続する山伏と儀式的な問答をする。
その問答の後、後続する山伏たちが、広場に並び、弓で四方に矢を放ち、剣や槍を振るって邪を清める。
そして杉の葉の山に火をつけ、まずは灰色の煙が濛々(もうもう)と立ち上がる。

先頭だった山伏が太鼓を叩き、それに合わせて他の山伏たちは手持ちの短い錫杖を振りながら般若心経を唱える。
私も日光中禅寺で買ったミニ錫杖を持ってきたので、一緒にそれを振って般若心経を唱える。

山伏が葉の山の下部を竹竿でこじ開けて空気を入れると、煙の下から真っ赤な炎が舞い上がる(写真)。
杉の葉の山が”護摩壇”になった。
正面に座った山伏が護摩木を炎に投げ入れる。
周囲の見物客も四方八方から自分の護摩木を炎に投げ込む。

炎が下火になると、山伏たちは不動明王の真言を唱えながら、
半ば灰になった護摩壇を金属の熊手で整地し始め、中央部を平らな地面にして火渡りの通路を作る。

そのまま土の面にして、熱を冷ますのかと思っていたら、その面に新たに木片を敷いて、再び炎を立てる。
そしてなんと、裸足になった山伏がその炎が立っている面を歩き抜ける(写真:山伏が動いているのでピントが乱れている)。
本物の火渡りだ。
これには周囲から歓声が上がった。

そして、灰になった木片を退けて、完全に土の面を出して、周囲の見物客たちが渡ることになる。
私は、この後の丘陵歩きのため脱ぎにくい山靴を履いてきたのだが、この場に臨んで、火渡りに参加しない選択はない。
火渡りの行列に加わり、裸足になって、熱くない土の面を歩き抜いた。
濡れ手拭いを渡され、足を水に浸す場を抜けて、足を拭いて靴をはいた。

以上で、大祭の儀式はおしまい。


儀式内容は真言密教そのもので、高尾山の火渡り(→記事)と同じだった(ちなみに私の火渡り経験はこれで3回目)。
日頃は無人の村社に、今日だけ修験道が復活し、自分もそれに参加できた。

本殿直下には、不動明王を祀る護摩堂があり、参道沿いには石仏が並んでいる。
すなわち、この神社は神仏習合という修験の伝統を保持している。

本殿裏を登って丘陵の上に出ると、そこは整地された「八菅修験ハイキングコース」になっていて、
その先に行場跡が点在している(説明板あり)。
こうして跡地としてでも修験道を身近に感じる所があるのは関東では珍しく、貴重だ
※東京の高尾山が”修験の地”を売り出したのは明治以降で、今では関東有数の修験の地になっている(私も火渡り・滝行に参加)。

といっても200m程度の穏やかな丘陵なので里に近く、
修験の行場としては(山をやっていた者としては)難易度が低すぎて、行場としての魅力・価値も落ちると思う。
この丘陵の奥にある仏果山(747m)・経ヶ岳(633m)の山塊がもう少しマシな行場たりえたろう。
更に丹沢表尾根の行者岳(1209m)付近の岩崚ならば本格的な行場たりえた
※:場所と山名からして、丹沢修験の行場だったようだ。ちなみに相模の修験集団は、箱根・神縄・丹沢・大山・日向・八菅などに分れていたらしい(川島敏郎『大山詣り』より)。


「山根一郎の世界」のサイトが閉鎖されます

2024年03月27日 | ブログ編集

このブログは、私のサイト「山根一郎の世界」のトップページからもリンクされいるので、
この画面を使って告知します。

「山根一郎の世界」は親サーバーの閉鎖に伴い、2024年3月をもって閉鎖いたします。
具体的には3月30日から閲覧不可になります。

今までのご愛顧に感謝いたします。

今後は、こちらのブログ「今日こんなことが」(https://blog.goo.ne.jp/yamanei)をご覧ください。

なお、サイトにあったいくつかの特集ページ(小笠原史跡旅、天気の疑問など)はこのブログ内に移転しました。

なお、気象観測については、他のサイトで継続されます→紹介記事


マグニチュードと震度は対応する?

2024年03月26日 | 防災・安全

3月21日の茨城南西部の地震はマグニチュード5で震度5
23日の岐阜西濃の地震はマグニチュード4で震度4

このように内陸直下型地震では、マグニチュード(地震のエネルギー)と震源地に最も近い観測点の震度(揺れの大きさ・被害の目安)とは相関どころか"一致"していることが多い。

震度は物理量ではなく単なる判断指標にすぎないのだが、
結果的に物理量によく対応していて、優れた指標といえる。

ということで、私は両者を同じ値になるものとして、マグニチュードが出れば、
その値を震度として被害の程度を想像する。

ただし震源が海洋だと、陸地の震度とは対応しないし、同じマグニチュードでも震源の深さによって地上の揺れは異なるので、あくまで”およその目安”だ。
なので「震度5弱」はマグニチュード5.0-5.4の間で、「5強」は5.5-5.9という細かい対応づけは無理。

また、震度は最大値が7だが、マグニチュードは8以上もある。
ということは、内陸最大の地震であった1891年の濃尾地震(マグニチュード8)は、
”震度8”という地上で空前絶後の揺れの大きさだったといえよう(実際、根尾谷断層が地上に出現した)。


群馬県立歴史博物館を見学

2024年03月25日 | 東京周辺

”郷土博物館巡り”をして感じるのは、市町村レベルのそれは充実度の落差が大きいのに対し、
県立レベルのそれは、県の意気込みと対象が県全体であるため展示が充実していて、
どこも見学に値する(行って損はない)こと。

休日に暇でどこにも行く宛がないなら、近隣の県立博物館をお勧めしたい。
じっくり見学すれば数百円の入館料で半日潰せて、色々な知識を得られる。

昨日は、群馬県立歴史博物館(高崎市)を訪れた。
県立博物館でも、埼玉や茨城は歴史博物館と自然博物館とを分けていて、ここ群馬も分けている
(しかも3県とも、歴史博物館は都市部にあるものの、自然博物館は交通の便がよくない地にある。
なので双方を一度には廻れない)。
県庁所在地ではないものの群馬一の都市・高崎市にあるのは歴史博物館の方で、
関東でも古墳が多い地だけに埴輪の展示が充実。


東京から高崎まで18きっぷで往復すれば約4000円のところを2400円ですむ。
高崎駅東口からぐるりんバスに乗って、「群馬の森」で降りる。
ここには県立の歴史博物館と美術館がある。
美術館は時間が余ったら入ることにし、まずは歴史博物館に入る(300円)。

展示室入口の自動ドアが開くと、さっそく近くの観音山古墳から出土した国宝の埴輪群などがお出迎え。
千葉を除く南関東では見られない、無傷で(復元したのではない)大型の埴輪が居並ぶ。
その中に昔の大映映画の「大魔神」のモデルとなった武人埴輪(写真右)も立っている。
馬の埴輪は、すべてご丁寧に尻の穴が開いている。
あと馬につける金属の飾りは、それで音を出すためで、いわば”チャグチャグ馬コ”の起源だ。
これらがかくも無傷で出土したのは、全国的に珍しく盗掘を免れていたから。

今まで訪れた南関東の郷土博物館では、どうしても古墳時代からの”古代”の展示がスカスカだった。
だがここ群馬は、まさにその古墳時代の展示が自慢(古墳の規模と出土品の充実度は畿内に匹敵する)。

なら、古代以前の充実度はどうかというと、
旧石器時代の日本最初の出土地はここ群馬の岩宿であることから当然充実して、
3万4千年前からの石器(複製)の展示がある。
石器の作り方の映像があり、それによると各地で人気の黒曜石は、
鋭利に形成しやすい柔らかさでいて、獲物を仕留める硬さはある便利な石だった。

そして縄文土器ももちろん並んでいて、縄文晩期には、精巧な透かし彫りの装身具が作られていた(写真)。

弥生時代末の3世紀の土器は、東海地方(今の愛知)からのオリジナルスタイルが入ってきたということで、愛知は縄文期はスカスカだが、弥生末期以降から焼き物の先進地に躍り出たようだ(それが現代まで続く)。

ヤマト政権成立後の古代群馬は、有力豪族の上毛野(かみつけの)氏の支配で、大陸との交流も盛んだった。
あと有名な”上野(こうづけ)三碑”(実物大の複製が並ぶ)も関東では珍しい古代(7-8世紀)の史跡。

(みやこ)一極集中が今より酷かった平安時代はさすがに展示が乏しくなるが、
中世になると在地武士の新田氏の活動が盛んになり、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞で頂点に達する
(でも隣国下野の足利氏に敗北)。

戦国になると、上州は関東内部(古河公方)・外部(越後・甲斐)からの騒乱に巻き込まれ、その中で上州独特の兜が作られる。
当時の”城”が、織豊期以降の石垣天守閣中心のそれでなく、曲輪(くるわ)という空間中心であったことが復元模型で示される(写真)。
この模型は山城好きに参考になる(山城巡りでは、地面の凹凸だけの縄張り跡に立って当時の城を想像するから)。

江戸時代になると中山道(新町〜碓氷峠)が賑わい、大田の養蚕・織物産業が発達し、
後者の伝統は明治の富岡製糸場(世界遺産)に受け継がれる。
その間、草津をはじめとする上州の温泉場も観光客で賑わう。
ただ、古代の榛名山、そして江戸時代(天明)の浅間山の噴火による災害も、三方(東・北・西)を火山に囲まれた群馬の特徴。

戦時中は、中島飛行機が頑張り(栃木に疎開した母も現地の中島飛行機に勤労動員)、それが戦後のスバル360につながる。

さらに自慢の埴輪については、デジタル技術を使って3Dで任意の角度から見れるコーナーもある。

以上を見学するのに2時間強を費やした。


次は隣の美術館のつもりだったが、展示を見てぜひ観音山古墳を訪れたくなり、
群馬の森から出て観音山古墳を中心とした綿貫古墳群の地に向かう。

まずは不動山古墳の頂の不動堂に参拝し、途中の普賢寺古墳と小さな古墳は私有地で入れないので近くを通り、公園状に整備された観音山古墳に達する(写真)。

前方後円墳の頂稜部に上がれて、埴輪が並んでいた中腹部の回廊も歩けて、
石室内部にも入れる(畿内の古墳と違って宮内庁管轄でないのが幸い)。

不動山古墳の前に戻るとそこにバス停があり、程なくぐるりんバスが来たので、
高崎駅より手前の倉賀野駅前で降り、そこから帰京した。

倉賀野駅はほぼ無人で構内に何もないので(トイレはある)、
食事や土産を求めるなら始発駅でもある高崎に戻った方がよい。

ちなみに、リアルな群馬を知るには、まず映画『お前はまだグンマを知らない』から。
※:映画『翔んで埼玉』(第1作)の群馬描写はやや誇張が入っているので注意


開眼夢 2

2024年03月24日 | 心理学

開眼夢」とは、
開眼した状態で視覚(網膜像)を経験しながら、同時に夢を見てその脳内映像も見る現象(私が発見・命名)で、
開眼見という本来なら両立しない行動が重なり合って、2つの互いに無関係な視覚像が二重写しに見える。
もちろんたいへん珍しい現象で、報告例は、私自身の1例(2020年)しかない。→開眼夢を見た

今回、電車の中での読書(タブレットでの電子書籍)中、開眼夢の別タイプを経験した(2例目)。

読書中に睡魔に襲われ、でも読み続けようとしていたら、画面の縦の文字列(読んでいる行だけでなく、
視野に入る全ての文字列)が、鈍い金色の畝状になった。
すなわち文字列の文字形が全て崩壊して、金色の細かい塊からなる棒状になり、
列の間の空白部を挟んで、視野には縦の畝が複数並んだ。

文字が文字でなくなったので、当然読書は中断される。
ハッと我に帰ると、視野は元の文字列に戻った。
開眼夢の持続時間は1秒ほどだった(睡魔の方が負けた)。

前回の”開眼夢1”(二重写し)と異なるのは、視覚(網膜像)そのものが夢化(変容)した点。

普通(の人)だったら、読書中に睡魔に襲われたら、素直に本を閉じて目を閉じる。
すなわち読書行動を停止して睡魔に委ねるものだが、
(だけ)がこのような開眼夢を見るのは、そういう状態になっても意地を張って読書を続けようとするためだろう。
行動としては、睡魔に負けて寝落ちする瞬間まで開眼を維持し続ける。

ということで、開眼夢が発生する条件がわかったので、
読者の皆さんもぜひトライしていただきたい。


※:夜間長距離運転のトラックドライバーなどが睡魔と開眼を戦わせていると、開眼夢としての幻覚を視野に見ることがあるかもしない。


睡眠はどう健康にいいのか:『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』

2024年03月23日 | 作品・作家評

睡眠は重要だ、とよく言われる。

ではどういう風に重要なのか。
睡眠をないがしろにするとどうなってしまうのか。

これらについて具体的・医学的に論じたものは意外に少ない。

そこで出たばかりの本書『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(西多昌規 2024 草思社)を読んだ。


著者は精神科医なのだが、ここで紹介される内容は、身体医学の研究結果。
巻末の膨大な参考文献がほとんど海外の医学論文であり、著者の個人的な臨床経験ではなく、
きちんとした身体医学研究のレビュー(概観)にもとづく著作である。

ということで睡眠時の体の状態について、
内分泌系・免疫系・消化器系・循環器系・脳神経系・筋骨格系・泌尿器系・皮膚と、総合病院的に網羅している。

睡眠とは、要するに昼の活動に対する、安息だけでなく整備(修復)作業も兼ねている状態。

自家用車だったら半年か1年ごとの定期点検を、専門分化した整備士たちが毎晩時間をかけてやってくれているのが睡眠だ。
このおかげでわれわれは翌朝から元気に活動できる。

それだけでなく、徐波睡眠(深い睡眠)時の成長ホルモン放出による筋・骨格・皮膚の合成、
そして脳神経の再編による記憶の固定は、覚醒時にはない積極的な働きだ。

睡眠不足による悪影響は、内分泌系・免疫系のアンバランスがベースとなって全身に及び
(ホルモンバランスの乱れ、免疫力の低下)、最終的には皮膚の老化(たるみ、しわ)に達する
※:朝、顔がむくむのは枕が低過ぎるためという。これを繰り返すと”たるみ”に至る。うつぶせ寝はさらに良くない(眼圧にもよくない)。

ただし呼吸器系については、睡眠時の方が脆弱で、その典型が睡眠時無呼吸症候群で、これは筆者も患っているという。
※:睡眠時無呼吸症候群は私も高校生以来かかっていたが、私の場合はレム睡眠中の口呼吸が原因だったので、寝る前に口にサージカルテープを縦に貼って開口しない措置をした結果、無呼吸から解放された。

健康問題とは直接関係なくても、長い睡眠時間を経てもなぜ空腹にならないのか
(睡眠中は消化活動を促進する副交感神経が優位になるのに)とか、なぜ睡眠中尿が溜まらないのかについても説明されている。


一箇所気になったのは、レム睡眠での夢見の所で、人は悪夢を普通に見ることを前提としている点で、私自身は少なくとも成人してからは悪夢の記憶はない(幼少時はよく悪夢を見て、夜驚を起こした)。
このブログにも自分の見た夢を記事にすることがあるが悪夢は1つもない。
なので夢≒悪夢という記述は違和感を覚えた(これって私だけだろうか)。

実は精神医学では、うつ病にかかると(成人でも)悪夢を見るという(うつ病は悪夢以外にも睡眠障害を併発)。
穿(うが)ってはなんだが、本書に睡眠時無呼吸症候群の人はうつ病の有病率が高くなると書いてある(免疫系のサイトカインが関連)。
実際、私はうつ病とは無縁。


では良い眠りとは何か。
それは本書の「あとがき」で語られている。
自分でよく眠れたという感じ(睡眠休養感)があればよいという。
客観的な睡眠時間では計れない。

なぜなら、質のよい睡眠なら、比較的短時間でも満足するし、質の悪い睡眠だと8時間寝ても寝たりないと感じるから。
その睡眠の質は、ノンレム睡眠とレム睡眠の両方にかかっている。
徐波睡眠を含むノンレム睡眠だけが高質な睡眠ではなく、レム睡眠は脳をリフレッシュし、これが短いと寿命も短いという。

私は、目覚まし時計を使わない理想的な生活をほとんど実現しているので
(目覚ましを使うのは入試業務の時だけ)、毎朝自然な目覚めで起きられる。
逆に、本来は趣味であるはずの登山を実行しがたくなっているのは、休日に早起きしたくないから。
ということで山よりも睡眠休養感を優先している。


良い眠りをさらに実行しやすくするには、生活の価値観として睡眠を無駄扱いする発想ではなく、睡眠こそ有意義という発想がいいかもしれない。

仏教は睡眠を結構敵視し、他の宗教も”不眠”を修行にしている。
その点で参考になるのはヒンズー教の教えかな→睡眠という至福


ギャンブル依存症の心理

2024年03月22日 | 心理学

大谷選手の通訳・水原一平氏がギャンブルにハマって、負けが6億8千万円に達していた。

ギャンブルで負けが続くと、その負けを一挙に回収しようと、より大胆(ハイリスク・ハイリターン)な賭けに手を出す(その結果、負けの桁数が雪だるま式に増える)ことが行動経済学(人の経済行動を心理学的手法で実験する分野)でも実証されている。
彼の行動は行動経済学の説明通りだ。

ギャンブル依存症は、ギャンブルにおけるリターンしか目に入らない。
言い換えればリスク(損失の可能性)、さらにすでに確定した損失の総計も鈍感になっている。

そして金額の桁が大きくなるほど、金の出入り自体に鈍感になるのも行動経済学で確認されている。

 

通常では、人は損失の方に敏感になっている(行動経済学で「損失回避」という)。
すなわち、1万円得た時より、1万円失った時の方が心に響く(喜びの度合い<ショックの度合い)。

ギャングブルは客観的・積算的には、胴元が得をし、参加者は損をする仕組みだから、
たいていの人は、興味本位に手を出しても、まず損を経験するから、損失回避の心理によって早々に手を引く。
私もその1人で、結局は、宝くじを含めて、ギャンブルに手を出すこと自体が損だと認識している※。

実際、ギャンブル好きに金持ちはいないし、現実の金持ちはギャンブルに手を出さない。
なので、本気で裕福になりたい・資産を形成したい人は、ギャンブルに手を出さないし、
逆にギャンブルにハマっている人は、資産形成が目的ではない。
別の理由だ。

残念ながら、損失回避と矛盾する心理も人に存在する。
宝くじを買った場合に誰もが経験する、結果が出るまでのワクワク感だ。
ほとんどあり得ないリターンの可能性が有る(未決定)状態に固有に感じるあれ。

この固有のワクワク感が、ギャンブルでしか得られないなら、
損を承知でそれにハマっていく(=リターンしか目に入らない)。

同様な現象が、アルコール・万引き・痴漢等の行為にも存在しうる(薬物は少し別)。
すなわち心理的快感の誘惑。
これにハマると、損失回避が二の次になり、上述した一挙の損失回復をすればいいという心理になる。

これを防止するには、損失回避のメンタリティが有効な段階で手を引くのが一番だ。
その段階で下手に儲かったりすると、逆にハマってしまうから要注意。
そのためには、家計(出入り)を細かく認識しているとよい(小さな損に敏感な段階で実行しやすい)。
あるいは行動経済学を勉強するのも、”平気で損する人生”から脱却できるだろう。


※:宝くじを1枚(300円)だけ買うと、たいてい(9/10の確率で)300円丸々損する。10枚(3000円)セットで買うと、損は2700円となる。すなわち損の比率が減った(期待値は同じ)。すると、宝くじをたくさん買うほど、当たる確率は増えるので、損する割合は減っていく※※。この理由で宝くじをたくさん買う人が出てくる。損する金額の桁自体は増えているのに。

※※:この記述について疑義のコメントをいただいたので、この記述が宝くじのコンピュータシミュレーションに基づいていることを右のリンクに示す→年末ジャンボ宝くじの神聖シミュレーション結果

宝くじを100枚買と、1枚買うより当たる確率は確かに100倍になる※※※。
だがこの100倍は、10の-10乗が、10の-8乗になったに過ぎない(小数点以下の微細な変動)。
※※※:この表現は確率論として正しくなかった。サイコロを6回振れば1が出る確率は1/6の6倍=1にならない。1-(当たらない確率**100) という式になる :**は累乗


青森キリストの墓訪問記:2001年

2024年03月20日 | 

※この記事は2024年3月に閉鎖する私のサイトに掲載していた2001年6月に訪問した記録の加筆転載です。


私の祖母山根キクは,昭和12年に『光は東方より』という書で,
かのイエス・キリストの墓が青森県戸来(へらい.現,新郷村にあると公表した。→山根キクの紹介

この書は翌年に発禁となったが(さらにキクは皇統研究をしたかどで不敬罪で逮捕.竹内文献も没収),
墓とされた地元ではおおいに喜び,大々的に観光名所としてアピールした
(さらにアメリカで映画化の話が進んだが戦争となりたち消え).

’キリストの墓’は今でも新郷村の貴重な観光資源となっているらしい.

毎年6月第1日曜に「キリスト祭」が行なわれ,
「ナニャドラヤ」という歌詞(古代ヘブライ語との説あり)の踊りが披露されるという.
どうせ行くならその時期を選んで青森に飛んだ。

以下新郷村に入る所から掲載


十和田湖から新郷村の入り口は,眉(迷)が平(現地ではマユガタイと発音)という山上の平地(別天地)で,
キクが「エデンの
園だ!」と感動した場所(右写真).
でも今は,ドライブインがあり,車のエンジンの園.
山菜取りの基地になっているらしい.
つられて車を停めれば,十和利(とわり)山の登り口があり,そこに鳥居が建っている.
奥には
社殿はないので,十和利山そのものがご神体のようだ.
ちなみにこのあたりの地名・戸来(へらい)は”ヘブライ”から来ているという。

店に入ると,なんと「キリストもち」なる餅が墨の上に櫛にささっている(左写真).
60年の歴史だというから,戦前からだ.
丸餅で,味噌だれの麦80円,蕎麦90円、キリストにしては安いものだ.


そこから車でどんどん下って,集落となり,大石神ピラミッドへの道を分けると,
まもなくキリストの里公園
駐車場に車を置いて緩い坂を登ると,ここの地主でキリスト塚の墓守の家系である沢口家の墓所がある.
墓石の紋章はダビデの紋章✡️に似ている.

その上の階段を上がると立派な2つの盛り土(土まんじゅう)がある.

ここある2つの盛り土は,昔から埋葬者不明ながら存在を知られていて,
墓所館(ぼしょやかた)と言われていた.

地主である沢口家が代々「殿様の墓を守れ」と言われてきたという.
それをキリストの墓,すなわち「十来塚」(写真奥)と,弟イスキリ(身代わりで十字架に架けられた)と父母(ヨゼフとマリア)の分骨の「十代墓」(写真手前)と断定したのは,
竹内巨麿と酒井勝軍(かつとき)※らであり,翌年,キクが詳しく調査してその話を上の本として世に出した.
※:ピラミッド日本起源説・日ユ同祖説の提唱者。戦前に日本人とユダヤ人が同祖であるというこの説がある程度広まっていたせいもあって、
 日本人はナチスのユダヤ人迫害には同調しなかったと言われている。

ちなみに『キリストは日本で死んでいる』(昭和35年)では,キリストは十和利山に埋葬されていると書かれている.

今では両方の塚に立派な十字架が建てられて,すっかりキリスト教的な雰囲気.
ここは高台にあり,しかも周囲は明るい木々に囲まれているので,とても気持ちが落ち着き、このままずっと居たい気になる.

墓所の奥に沢口家と新郷村の第三セクターによる伝承館がある.
受付の婦人は,沢口家の分家だそうで,祖母の『キリストは日本で死んでいる』を読んでいる最中だった.
そこへ著者の孫が忽然と目の前に現れことになる.

館内には,新郷村の習俗も紹介されており,この地では赤子の額には十字を入れていたという祖母の記述通りの展示があった(写真)

※この伝承が本当にキリストにまつわるものだとすれば、私は”かくれキリシタン”がかかわるのではないかと推測する。
 諸星大二郎の作品「生命の木」のように(「奇談」というタイトルで映画にもなった)。戦国時代の津軽氏はキリシタン大名だったし。


キリスト祭り

伝承館受付の女性から,祭り関係者や村長にも紹介してもらった.
そして急きょ,翌日のキリスト祭りの来賓席に坐るはめとなった.
正装で名札を下げたいかめしい来賓の面々の中に,ポロシャツにVTRカメラを持った私の姿は場違いだが,
まぁ,縁故がある人間の一人(他に墓守の子孫沢口氏も列席)だからいいだろう.

祭りは,けっこう儀式的で,村長挨拶から始まって,地元鎮守の三嶽神社(?)の神官が重々しい祝詞を唱える.
墓前のキリストを神道の神主が祈祷するというおかしな風景
(竹内文献によればおかしくないし、神道の寛容さの現れでもある→関連記事).
※:竹内巨麿の神社に代々伝わる文書で、世間では「竹内文書」、山根家では「竹内文献」。→山根キクの紹介内に解説

次いで村長から始まってお歴々(地銀の支店長やJR東日本の駅長までも)の玉串奉奠.
さらに地元の獅子舞奉納.

そしていよいよ,キリストの墓前でのナニャドラ踊り
とても単調なメロディの繰り返しで,南部地方(岩手〜青森東部)一帯に拡がった踊りの原形である雰囲気.
「ナーニャードヤラー,ナーニャードナァサァレノー ナーニャードヤラー」と歌っており,
土産の湯飲みにもそう書いてあるが,
正確には「ナーニャードヤラヨ,ナーニャードーナァサァレダーデサイ ナーニャードヤラヨ」という.
この意味不明な歌詞は,川守田という神学博士によれば古代ヘブライ語で,
「御前に聖名をほめ讚えん 御前に毛人を掃蕩して 御前に聖名をほめ讚えん」という意味なのだという.

ちなみに南部地方の伝説では,この歌はこの地を訪れた南朝の長慶天皇が作ったともいわれている
(南朝伝説も竹内文献と無関係でない).

こんな短い歌詞の単調な繰り返しだから,どうやって終わるのかといえば,
祭りの進行係の人が太鼓のたたき手に「そろそろ」と伝えると,太鼓が音を抜く,それでちょっと遅れて踊りが終わる.

この後、酒井勝軍が発見したという大石神ピラミッドにも車で立ち寄った(現地に解説板がある)。
道路標識に「キリストの墓」「ピラミッド」とそれぞれ表示されているので迷わないが、ここが日本の気がしなかった。


春分・秋分の日出・日没時刻

2024年03月20日 | 歳時

昼夜の長さが等しくなる春分・秋分の日の日出・日没の時刻は?

およそのところ、日出は午前6:00、日没は午後6:00(昼の計=12時間)。

とてもわかりやすい。

なんでこんなわかりやすい時刻かというと、太陽が南中する時刻(日出と日没のちょうど中間)を12:00(正午)に設定してあるから。

そして春分以降は、日出が午前5時台に早くなり、日没は午後6時以降に伸びていく。

ただしこれは理論(理想)値であって実際の値(観測値)はこれからズレる(日本標準時の明石でも)。
そこより東にある関東ではさらにズレが大きくなり、上よりも日出は16分早い。

でもおよその値として理解しておいて損はない。


熱海に泊まり伊豆山に行く

2024年03月19日 | 

職場の大学の卒業式も終わって春休みに入ったので、年度末の慰労に、昨年行った熱海のホテル大野屋に泊まった。

ここは安宿チェーンの伊東園系列ホテルなので、宿代が安く・夕食は食べ放題に飲み放題がつく。
昨今の情勢に応じた値上げをしていないのが嬉しい。

ただいくら安くても、部屋や料理が貧乏臭くて気にくわなければ利用しないが、
この宿を再訪したということは、”気に入った”ことになるのかもしれない。

まず、最安値のシングル部屋(そこしか空きがなかった)は、ベッドの足元の壁面にテレビが掛かっている作りで、
ビジネスホテルの”狭めのシングル”だと思えば我慢できる。
少なくとも、部屋の作りは新しい(特に洗面所・トイレ)ので不快でない。
そもそもここの宿の売りは客室の居住性ではなく、籠っての原稿執筆が目的ではないから、寝れればいい。
そうそう、昨年と違って、今年は客室にWi-Fiがつながっていた。

料理は、昨年の記事にあるように「伊東園の中ではいい方」という評判。
少なくとも、同じ系列で「次回はない」と思った宿のレベルではない。

元々安宿チェーンのバイキングに豪勢さは期待していない。
平凡な料理でも、自分の好みであれば喜んで食べる。
実際、マグロの刺身、えび天とエビフライ、牛の焼き肉、浜松餃子、タケノコの煮物、
五目煮、それに小皿のフェットチーネ(具・ソースは3種類から選択)を堪能した。

嬉しいのは飲み放題で(他の安宿チェーンはここまでやらない)、ワインや日本酒・焼酎などがある中、
バイキングでガツガツ食べ・グイグイ飲むならやはりビールが合う。

そして風呂。
大野屋ならではの売りは巨大なローマ風呂だが、男女入れ替えのため、
4回の入浴のうち寝る前の1回しか入れないのは残念(早起きすればもう1回入れるが)。
いくつかある貸切風呂は、予約なしで空いていたら入れて、そこは唯一源泉掛け流しで、
ここの源泉本来の濃さ(高張性!)を堪能できた
(この濃さを堪能しないとここに泊まる意味がない。同じ熱海でも宿で泉質が異なる)。
この他に、真鶴岬を眺めながら入れる露天風呂もあるが、湯はぬるめで薄い(加水)。
ローマ風呂は露天より濃いが源泉よりは薄い。

以上を堪能して、1万円でお釣りが来る(しかも2ヶ月以内利用で1000円の割引券をくれる)
諸物価高騰の折り、高張性の温泉+飲み放題付きでこの値段は貴重。

客層は、この宿だけでなく熱海全体で、若い学生グループ(男女別)が目立った
(私が学生の頃は、「温泉なんて年寄りの行く所だろ」って思ってた)


さて今回は、チェックアウト後、熱海温泉街の北に隣接する伊豆山を訪れることにした。

熱海は小学校の頃から家族旅行で”通って”きたが、伊豆山にはついぞ足を運ばなかった
(下に記すように石段がきつく家族向きではない)。
歴史に興味があって初めて伊豆山に関心をもつことになった。
そう思っている間に、2021年7月、あの土砂災害(土石流)が発生。→記事

しばらく行くことがためらわれた(実際、現地では興味本位で立ち入らないでほしいという看板がある)。

伊東園の送迎バスで熱海駅に着いて、そのまま路線バスのターミナルに行き伊豆山神社にを通る4番で待つ。

伊豆山は、独立した山ではなく、山の急斜面なのだが、
※:急斜面で土石流が作った地形。本来的には人が住むには向かない。
地面に湧出してる温泉(走り湯)で、歴史的にも熱海より古く、
宗教的にも箱根・三島と並ぶ格の高い神社(元は”権現”で神仏習合)であり、
関八州(伊豆も関東)の総鎮護とされてきた。
熱海温泉は、ここの参詣の湯治場として発展したのだという。

そもそも”伊豆”の名は、ここ伊豆山(寺の山号?)が発祥という。
ということで、伊豆の玄関・熱海に行ったらむしろ最初に訪れるに値する所だ(特に関東人は)。

熱海から乗ったバスは急勾配の細い道を唸りながら登り、
そして道が水平になって山ひだを進むと、あの土石流の現場(再建中)を通過し、
その少し過ぎたひだの峰の所が伊豆山神社のバス停。

ここから170段あまりの参道の石段を登って(この石段の登りがこたえた)、
途中、役小角(えんのおづぬ)の木像(写真)がある堂を見て、
伊豆山神社がある広場に着く。
※:修験道の行場であったことがわかる。
ここから初島・大島、伊東の小室山などが見渡せる。

境内には、源頼朝と北条政子が逢瀬(デート)で座った岩(ちょうど2人がけの椅子状態)があり、ハート型❤️のオブジェもあって今では、修験道ではなく縁結びの霊験の地となっているらしい。

社殿の奥に郷土資料館👍があり、鎌倉時代の精巧な銅製の神像などが展示されている。

社殿のずっと山の上に本宮があるのだが、片道40分の登りなのでそれは諦め(十国峠・岩戸山からの下りに使える)
むしろここから参道の石段を海岸まで降りて(837段!)走り湯に向かう。

走り湯は、海岸近くの洞窟内に湧出している横穴式源泉(写真が入口:入浴はできない)。
でも「走り湯」という名称から、以前はもっと高所に湧出して、急斜面を走るように流れていたのではないかと思ったら、
走り湯の説明でそれが正解だった(今は送湯管で再現しているとのこと)。
そういう神秘的な自然現象こそ、本来の御神体に値する。

石段とは別の道で斜面を上がって娘・大姫の延命祈願として母政子が建立した逢初(あいぞめ)地蔵を見て、(土砂が流れた)逢初橋からバスで熱海に戻る。

かように、熱海の周辺部は頼朝・北条氏にまつわる史跡・伝説が豊富。
温泉で泊まる以外にもこうした訪問先が豊富なのも熱海の強み。

ちなみに、帰宅後、地元スーパーの階段を降りる時、左脚の腸脛靭帯が痛んだ。
837段の下りが響いたか。


天気の素朴な疑問に回答

2024年03月18日 | お天気

※このコーナーは、2024年3月に閉鎖される私のサイトからの転載です。

気象学超入門

天気の基本的な疑問に気象予報士の私が答えます。


ただし、気象予報士を目指すなど気象現象を科学的に理解したい人向けなので、気象(大気の物理現象)学の専門用語による説明を理解する意欲のあることを前提とします。

下の欄のどれでもクリックで飛べますが,知識の蓄積を必要とするので,できるだけ上から順を追って読んでください.

申し訳ありませんが、このコーナー続ける意味を感じなくなったので(この程度の情報なら他のサイトや本で充分)、記事の追加・質問への回答は停止しています。

1.山の上は太陽に近いはずなのに,なんで下界より寒いの:気温減率
2.なんで上層の冷たい空気は地上に降りてこないの:温位
3.雲はどうしてできるの:凝結
4.雨が降る雲と降らない雲との違いは:雲の名称
5.なんで低気圧だと天気が悪いの:擾乱

6.前線て何物?低気圧でないのになんで天気悪いの:収束

7.高気圧はなんで天気がいいの:発散
8.台風はなんで風が強いの:気圧傾度
9.なんで強い雨と弱い雨があるの:対流雲

10.台風は前線がないのになんで強い雨が降るの:潜熱

【読者からの質問】
1:天気予報をみると、全般的に夜から朝にかけて風は弱いが、日中になると強くなるのはなぜですか?

2:「空気が膨張すると温度が下る」というのがピンときません

3:成層圏には水蒸気量が少ないために温位の変化があまり無いように思えるのですがどうなのでしょうか?

4:対流圏上層では温位が下層より高いというのがピンとこないのですが

5 :約2平方メートル四方で、沢山の野焼きをし、周囲は高温になる。気温は、約23度、瞬間最大風速6.5m/s この環境で、つむじ風が生じる現象はありえますか?

6:なぜニュージーランドでは雲が近くみえるのですか?


中級講座
気象予報士試験受験者向け

1:収束・渦度の式の理解


目黒区の歴史資料館・美術館

2024年03月17日 | 東京周辺

日帰りの行き先として、気楽に行けてタメになる”郷土博物館巡り”。
関東での行き先は都内23区を優先していて、前回の世田谷区に続いて今回はそこより渋谷に近い(都心寄りの)目黒区。


最寄駅の東横線・中目黒に降り立つ。
中目黒は”おしゃれな街”として変貌中で、駅前にビルやマンションが建ち始めている。

まずは駅前のビルにある日本蕎麦屋で昼食。
ちゃんとした蕎麦屋での、いわゆる”蕎麦通”的な食べ方
(まずは板わさなどをつまみに日本酒を味わい、締めにせいろ)は私はできないので、
少しひねっただけの”田舎もり”(蕎麦が太い)を注文。
ちゃんとした蕎麦屋では天ざるはカロリー的に受け付け難いので、結局は一番シンプルな”もり”になってしまうのが残念
(蕎麦はもりで完成されてしまって、バリエーション化できない)。
※:蕎麦は「もり」か「かけ」。「せいろ」・「ざる」は容器の名称で「かけ」を「どんぶり」というようなもの。

食は栄養バランスを一番大事にしたいのに、もり一択の蕎麦はそれができないから(うどんは可能)。
せめて、最後に蕎麦湯を飲んで蕎麦本来の栄養を吸収する。

ここから中目黒銀座通りを抜ける。
おしゃれな街に変貌中の中目黒だが、路地に入ると戦後に建てた古い木造住宅が残っていて、
新旧入り混じった状態(言い換えれば再開発の余地がある)。


途中、地元鎮守の中目黒八幡神社を詣で、
小学校校舎を利用した受付のないめぐろ歴史資料館(無料)に入る。

目黒の旧石器時代は2万年前からなので、人が住んだのは都内では新しい方。
出土される縄文土器がここでも愛知に比べて豊かなのは、東日本だからだろう。
逆に古墳時代など古代は国府以外は情報量に乏しくなるのも東日本の特徴。

武蔵の中世遺構は、板碑が中心となるのはここも同じ。
あと鎌倉時代に目黒氏がこの地を支配していたという(吾妻鏡)。
在地武家は地名を名字にするから、すでに地名が目黒だったのだろう。
ただ目黒氏は、その後出雲そして奥羽に移るため、目黒の地との縁は早々に切れる。

ということで、目黒という地名は、江戸時代に制定された”五色不動”の1つである目黒不動が由来ではないようだ
(平安時代からある瀧泉寺が”目黒不動”とされたのが江戸時代)。

江戸時代は、江戸(府内)の郊外として観光と農作物の供給で江戸と繋がっていた。
目黒には立派な富士塚が二つあり、そのうち新富士(最上徳内の家にあった)の跡地から、
人が入れる規模の胎内窟が最近発見され、その実物大の復元が館内にあって、見学者は胎内潜りができる。

また、目黒はタケノコが固有の栽培法によって名産だったという(目黒名物はサンマではなかった)。


この近くに「長泉院附属現代彫刻美術館」なるものがGoogleマップにあったので、そこに行ってみる。
丘の上の長泉院というお寺の敷地(斜面)いっぱいに現代彫刻が屋外展示してある。
さらに美術館もあり(写真)、午前と午後(昼休みを除く)に見学できる(いずれも無料)。
宗教法人長泉院は、増上寺系の由緒ある浄土宗の寺で、
そこの住職が個人の意思で若い彫刻家の作品発表の場を提供しているのだという(館内の説明)。
この広い敷地を墓地にすればそれなりに収入源となり、一方作品の維持費がかかるだろうに。
それを広く無料公開することが宗教活動としても意味があるとしたのだ。
その意気や立派。
並んでいる作品も、木像の人物像から、ブロンズ像、抽象的な造形物まで多彩で、
特に現代彫刻は”立体的な形そのもの”との出会い(再会)が促される。


ここから庚申塔のある馬喰坂を下って、山手通りを渡り、目黒区民センターの一画に目黒区美術館がある。
区立の美術館があるのは、裕福な東京23区でも少ない(他に世田谷区・板橋区・練馬区)。
入館料700円を高齢者割(550円)で入館すると「広がるコラージュ」展をやっていて、
日本人作家のコラージュ作品が展示してある。
コラージュといっても、既存の画像素材を貼り合わせただけでなく(今だとPhotoshop使えば色々できそう)
物を立体的に貼り合わせたり、とにかく既存の物を組み合わせて新しい表現世界を構築する試みだ。

特に化石というもの自体が、言ってみれば「生物と鉱物のコラージュ」であり、
生物の形態も化石だと生きた状態とは違った形態になるという視点が新鮮だった。

あと草間彌生の作品もあり、その説明で、幼い時から幻覚・幻聴を体験していたことを知った。
「霊が見える」現象を研究している者として、統合失調症や薬物によらない幻覚体験に興味があるので、もう少し本人について知りたくなった。

同時開催の「飯田善國」展では、彼の金属を使った風を受けて動くマケットという一連の作品がとても興味があった(風車が大好きなので)。

このようにふらりと訪れる美術館だと、かえって新鮮な出会いがあるものだ。