今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

鈴鹿・御池岳

2006年04月30日 | 山歩き

連休はどこにも行かないとか言っておきながら、久しぶりの日帰り登山をしてきた。
鈴鹿山脈の最高峰御池岳(1247m)へ。

●登る山の決定
名古屋に着任して今月で15年目を迎えるが、最初に名古屋に着く時、新幹線の車窓から真っ先に出迎えてくれたのはまだ雪が残る鈴鹿山脈だった。
しかし登山をやめたせいもあり、その最高峰に登る機会がなかった(鈴鹿山脈で登ったのは御在所岳・鎌ヶ岳・藤原岳)。
というのも、日帰り登山て、早起きする必要があるから苦手。だって休日はゆっくり寝てたいでしょ。
なもんで、前日に麓の民宿に泊ろうかとも思ったが、名古屋から高速で1時間ちょっとで行ける所にわざわざ泊るのも(中津川なら泊るくせに)。

というわけで、天気は問題ないようなので、早朝に目覚まし無しの自然な目覚めで起きれたら、という条件をつけて、御池岳に行く準備をした。
そしたら7時前にきちんとすっきり目が覚めた(自分の体内時計に感服)。
500mの山腹まで車で行けるし、どうせなら体脂肪を燃焼したいので、朝は食べず、昼の分もコンビニでおにぎり2個を途中で調達すればいい。
早起きさえできれば、日帰り登山て荷物がないから準備は楽(日帰りなら山でもできるだけ食べないようにしている。運動エネルギーを体脂肪にたよるため)。

●登山口へ
愛車ミニで東名阪ハイウエイを降りて、北勢(三重県)地方を北上し、国道306号線で鞍掛峠(滋賀との県境)をめざす。
実は今日の心配は、GWの日曜なので峠手前の登山口に車を止める余地があるかなのだが、道がすいているので大丈夫そう。
でもやはり登山口付近の駐車スペースはすでに満車。
しかたなくカーブの道が膨らんだ路肩に駐車する(ミニだから邪魔にならない)。
やはりこんな山の中までくるとはるか遠くに来た気分。
登る前にすでに旅情は満たされた。

●山頂へ
中高年グループなどを追い抜きながら残雪のある斜面を登る。
雪を踏みしめるなんてGWの登山にふさわしい(写真)。

御池岳の山頂(厳密には最高点の丸山)は混雑して展望もないので、奥にあるボタンブチという絶壁上の草原でリュックをおろす。
周囲ではコンロを囲んで暖かい味噌汁を食べながら「こんな景色の中で食べれて幸せ」とか言っているが、
自分は途中のコンビニで買った暖かくないおにぎり2つを、セロハンを解いて黙々と口に入れるだけ。
一人だとほかにやることもないので、食べたらさっさと出発(ホントは脚のためにもっと休むべきだった)。

●鈴北岳へ
帰りは鈴北岳(1182m)をめざす。途中石灰岩が地面から顔を出したカレンフェルトという地形の気分のいい平原(通称「日本庭園」)を通る。
しかしここで濃霧や吹雪にあったら恐い。今でも残雪は1m以上の所もある。
実際昭和32年4月29日の遭難碑があり、49年たった今日も真新しい花が献じられていた。
鈴北岳から今朝の登り口に直行するタテ谷ルートを降りようとしたが、
踏み跡が途切れているので戻って(戻るルートに迷ったがGPSの力で助かった)、
鞍掛峠経由で下山した(鈴北岳から駐車場まで1時間)。

●登ってみて
行程は3時間程にもかかわらず、久々の登山ということもあって、右膝が痛くなり下り道に難渋した。また靴に押された足の親指も腫れた。
荷が軽かったおかげで腰痛にこそならなかったが、登山て腰から下を必要以上に酷使することをまさに”痛感”。
若くない脚をもつ人はストックを使うべきだった。

帰宅して、湯舟に浸かり、湯冷ましにベランダでハンモック型の椅子に身を沈めていると、
入浴後のさわやかさと脚の軽い疲れの相乗効果で動きたくなくなるくらい気分がいい。
これでGWのレジャーは満喫したことにしよう。


これを読んでいる卒業生へ

2006年04月29日 | 時事
卒業以来、音沙汰のなかった元教え子から、このブログを見ているというメールをもらった。
音沙汰がなかっただけに、私にメールを送るのに勇気がいったようだ。
確かに「何年も前に卒業した自分のことなんか忘れているかも」という不安があると、コンタクトをとるのに躊躇するだろう。
でも、1年間指導してきた自分の卒業生は忘れないし、仮に忘れていたとしてもすぐ思い出せる。
そして、元教え子からコンタクトを受けるのは教師として何より嬉しいことなのだ(教師とはそういうもの)。
だから、もしこのブログに目がとまったら、遠慮しないで、メールかコメントをよこしてほしい。近況も忘れずに。
もちろん卒業生だけでなく、他の人でも。

墓選び

2006年04月24日 | 身内
●祖母キクの墓参
実家に帰って、菩提寺にある亡父の毎月の墓参をすませ、4月23日は祖母キクの命日だったので帰りに数十年ぶりに神楽坂にある墓を訪れた(弟は初めてだという)。
最近の来訪の形跡はない。
塔婆は毎年のがあるため、檀家として維持はされているようだが。
墓地には入れたが、本堂は閉まっており、墓参者も参拝できない雰囲気。

●一般墓地の問題
このような屋外の墓って「~家之墓」という文字が中心で、あとは墓誌が小さく彫られているだけで、まるで墓石が拝む対象のような印象を与える。
風雨にさらされているので、行ったらまずは水で墓をきれいにする必要があるし、供物もカラスなどの対策のため置いて帰れない。
献花もやがては枯れて、その遺体をさらすことになる。

●羅漢寺霊廟の良さ
それに対して、我が菩提寺は屋内の霊廟式なので、空調と照明のきいた室内で墓参りができる。霊廟は仏壇形態であるため、その扉をあけると本尊と遺影を拝める(遺骨は仏壇の下に安置)。
きちんと管理されているので、供物や献花もみじめな姿をさらすことはない。
線香だけでなくリンを鳴らして合掌する。
本堂には江戸時代作の巨大な本尊釈迦如来を中心に、迦葉・阿難の仏弟子や他の仏が居並び、説法のテープがエンドレスで流れている。
山の手線沿線にあるので行くのに楽で、観光的価値すらあり、毎月の墓参もまったく苦にならない(年越しの初詣でもここで墓参をする)。

墓地選びには家族の墓参のしやすさが大切だと思うよ。

速読の価値

2006年04月15日 | 雑感
昔、速読の教室に通ったことがある。
結局思ったのは、
速読トレーニングで速く読める本て、実はそもそも読む価値がないのかもしれない、ってこと。
そういう本は速読することさえ無駄だったりして。

綿密な思考過程をトレースするために一字一句を吟味して精読する必要のある哲学書や、何度も読み返す必要のある数式が多い理系の本。そういうじっくり読むに値する本こそ、価値ある本ではないか。
現代数学の書や微分方程式がずらずら出てくる理学書を速読できる人、いる?
私が速読に求めたのはそれ(高度な学術的知識・思考を簡単に頭に入れること)だった。
別に速読が無意味だとは言っていない。
世の中の大半の本は、速読で済むだろうから。
(あと読んでいることを楽しむ文学書も速読したくないよな。)

忘れ去られる人々

2006年04月10日 | 雑感
実家近所の桜の名所を散歩しようと、昨日は谷中、今日は染井(ソメイヨシノの発祥地)に行った。
どちらとも広い墓地だ。なので桜以外に墓にも目が行く。
けっこう立派な墓が手入れされずに荒れつつある。
昨年から、小笠原氏やウチの先祖の墓参りに行くようになって、身近な無縁仏を目の当たりにしてきた。
これは山根や寺島家だけの問題ではなく、日本全体が、
少子化によって家の墓を受け継ぐ者がいなくなっていることを意味する。
2つの家の一人っ子同士が結婚して1つの家になるとすれば、それだけで残る家は半減する。
更に家でなく個人の墓だと(有名人でないかぎり)、絶対に継承されないのでもっと悲惨(管理者には邪魔)。

あと谷中や染井などの大きく歴史のある霊園には、江戸時代からの碑がたくさん建っている
(曽祖父の碑に出会ってから、にわかに碑に関心をもったわけ)。
それらは個人(儒者や医者など)の業績を讚えたものだが、
その碑を読む人がまったくいない(花見客はなおさら)。
確かに碑文は漢文(白文)で句読点もないから読みにくい。
さらにこのままだと風雨にさらされて物理的に判読不能になる。
故人に対する特別な思いやエピソードを刻み込められた碑は、
歴史的にも意味があろうし、まずはその思いを知りたい。
霊園に建つ碑ひとつひとつを、読み下して解説してくれると、
その故人や建てた人の思いを忘れないで済むのに。
本ではなく、碑の横に解説板があるといい(碑として公開しているんだから個人情報は問題ないはず)。
こういうことやってくれる NPOとかないものか。

憂鬱のゆくえ

2006年04月06日 | 雑感
新年度の業務が始まった。
といっても新入生の”交流遠足”という、親睦のためのお遊びの付き添い(大学でも遠足がある)。
私にとっては移籍先の教員との交流でもある。
他者との”交流”、すなわち自分の関心を他者に照射し、他者の関心の照射を受けることは、他者と気分を交流することであり、一人の時に感じた私だけの憂鬱という気分を変えてくれる。
憂鬱の対象である”他”(自己に覆いかぶさってくる非自己)なるもの。
他者が、その”他なるもの”に私と共同で立ち向かってくれる時、私は憂鬱ではなくなっている。
憂鬱を忘れさせてくれるのは、時間そのものではなく、他者であったのか。

ただ、他者が”他なるもの”でしかない場合、その他者は私をよけい憂鬱にさせるが…。

春の憂鬱

2006年04月04日 | 雑感
春(4月)は憂鬱だ。
春という気候のせいではなく、年度が変わるという社会的変化のせいで。
前の年度との別れがつらいのではなく、新たな年度が始まるというプレッシャーのせいで。
また1から始めなくてはならないという、むなしさ・おっくうさ。
特に教育現場だと、学生ががらっと入れ替わるので、昨年の労働の蓄積感がない。

もっともこの憂鬱も、始まりを前にしている時に感じるのであり、
実際に業務がはじまってしまえば、忙しさに没入して忘れてしまうだろう。
時間に流され、時間とともに走ることで。

この憂鬱はその時間の流れ(忙しさ)に飛び込むことに臆していることなのか。
自分の何かが時間に奪われることを悲しんでいることなのか。

憂鬱になっていない時の自分が、本当のあるべき姿なのだろうか。

京都:小笠原貞宗の墓参

2006年04月02日 | 小笠原氏史跡の旅

名古屋の住人が余った「青春18きっぷ」を使いきりたいなら、京都に行けばいい(米原乗り換えで片道2時間)。
「小笠原氏史跡探訪」で丁度京都に行きたい所ができたので、片道2時間かけて行ってきた。

●事前の問合せ
ただし行く前には準備があった。
建仁寺の塔頭「禅居庵」に小笠原貞宗(南北朝時代の小笠原流礼法の開祖)の墓があることを知ったのだが、建仁寺のHPをみると禅居庵は非公開になっている。
墓参りならさせてくれないかと先方に電話した(建仁寺に電話したら禅居庵の番号を教えてくれた)。
小笠原貞宗の墓参りはできるかと訪ねたら、OKとの返事。
これで余った18きっぷで京都に行くことにした。

●建仁寺・禅居庵
建仁寺へ向う縄手通りの花屋で墓参の花を買い、禅居庵の摩利支(尊)天堂へ。
民間信仰の場であるここだけは建仁寺とは別の入口になって、自由に参拝できる。
摩利支天堂の奥に墓地入口があったので行ってみる。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ、しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これかなと思っても説明や刻印がなく誰の墓だかわからない(石には梵字が彫られているだけ)。

●貞宗の墓
もう一度摩利支天堂に戻って、お札などを売っている受付けのおじさんに、小笠原貞宗の墓の在りかを訪ねた。
すると貞宗の墓参りに来ることが寺から伝えられていたという(寺の配慮がうれしい)。おじさんが直々案内してくれたのはやはりさっきの五輪塔。
左右に花を献じて、合掌。
膝まづいた姿勢で見上げると、650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり(写真)、貞宗という存在の歴史的な重みがにじみ出てくる。
日本最初の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基・清拙正澄開山)。
「あなたの価値をもう一度世間に知らしめます」と心に誓う。

●隣の墓
貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
ここの開山の墓だという。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄の墓ではないか。
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり伝説のとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。
貞宗が新たに武家礼法を構想できたのは、禅の作法である清規を日本に伝えた清拙正澄が目の前にいたからだ。
この関係を否定する学者もいるが、私が作法(礼法と清規)の内側から証明してみせる。

堂にもどって本尊の摩利支天(正澄も貞宗もともに信仰していた)を拝み、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要の人の墓参ができて大満足。これだけで2時間かけて京都に来た甲斐があった(昨日の静岡から遠方への墓参続き)。
これで小笠原氏史跡探訪の旅は一段落(完全に終わってはいないが)。
余った時間で、特別拝観中の建仁寺本堂と、霊仙歴史館を観た。


臨済寺の造酒之助

2006年04月01日 | 身内

4月10日期限の「青春18きっぷ」を使い切る目的を兼ねて、名古屋から静岡市内の臨済寺を訪れた(片道3時間)。
臨済寺は今川義元にゆかりのある名刹だが、拝観は受付けてない。
それでも行ったのは、境内にあるという「東軍招魂之碑」と寺島(旧姓鎌田)造酒(みき)之助の墓参りのため。


●東軍招魂之碑
まず本堂へ向う石段横にあった碑を拝見(上写真)。
明治18年に建てられたが字はまだ読みやすい(漢文)。
文中に「寺島造酒之助素仕幕府戊辰国変戦而失右手後移静岡」とある。
箱館戦争で右手に重傷を負い、自らの刀でそれを切り落としたのだ。

明治政府は戊辰戦争での幕軍側の死者を慰霊することを禁じた(最初は埋葬することさえも。
靖国や各地の護国神社は新政府側のために戦った者だけを慰霊している)

その仕打ちを悲憤慷慨した造酒之助は、弟子の市川愛之助とともに貧しい中(官職につくことを拒否)工面してこの寺に招魂碑を建てた
(ここで思いだすのは、新選組隊士の慰霊碑を建てた永倉新八や近藤・土方両名の汚名をそそぐ碑を建てた小島鹿之助。ただし造酒之助らは幕軍全体を慰霊)

最初は旧主徳川慶喜に篆額を求めたのだが、文中に慶喜が大阪から江戸に逃げたと記した箇所を慶喜が修正を要求。
しかし造酒之助はそれを拒否。
それで慶喜は篆額を断り、代わりに市川三兼に願ったという。
造酒之助はあくまで筋・節を通す人だった。


●造酒之助の墓
その造酒之助の墓も境内墓地にある(といっても場所がわからなかったので寺の人に尋ねた)。
彼が眠る「寺島家之墓」は明治43年(没後2年=3回忌の命日)に建てられたままのもの。
周囲の真新しい墓石とは対照的。
しかも、今年の彼岸に誰も訪れた形跡がない(周囲の墓は花で満ちているのに)。
上部も朽ちかけており、忘れられた状態。
かくいう私も花も線香ももってこなかった。
せめても柄杓で水をかけて墓を濡らした。
墓の後ろには童女の小さな墓もあった。


●造酒之助の資料
臨済寺を後にし、近くの市立中央図書館に行って、郷土資料の棚を探した。
すると『明治初期の静岡』(池田次郎吉)という本に「寺島造酒之助」の記事が載っていた。
著者は造酒之助を直接知っており、著者の父は碑建立の世話人でもあったという。
もちろんこの部分をコピーした。


碑と墓参りと貴重な資料を得て、来訪の目的は充分に達した。
名古屋までまた鈍行3時間の旅はつらいので、気分もいいし帰りは新幹線にした。

なぜ寺島造酒之助とやらにこうもこだわるのかというと、実は彼が私の曽祖父だから。
つまり身内の話でした。失礼。