今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

高尾山で滝行

2023年05月06日 | パワー・スピリチュアル

先週の土曜は、奥多摩の御岳山にある御嶽神社で式年祭に参列し(→記事)、一週間後の今日は、高尾山の琵琶滝で滝行(高尾山の薬王院では”水行”(すいぎょう)という)に参加した。

滝行は、2009年のGWに、御岳山で神道式の行を経験したが(→記事)、今回は真言宗式。
もっとも滝行のルーツは修験道なので、御岳山も高尾山も根っこは同じ。

高尾山での水行の場は、琵琶滝と蛇滝、それにケーブル駅前の清滝の3箇所あるが、着替えなどの設備が整っているのは前の2つで、しかもそれぞれ毎月二回水行指導の日がある。

今年3月の高尾山行きで、蛇滝と琵琶滝の行場をチェックし(→)、アプローチのしやすさから琵琶滝での5月6日の水行指導を電話予約しておいた。

いつもは使わない目覚ましで目覚め、いちおう登山の格好(タオルと替え下着を追加)で出発。

琵琶滝の行場に着いて(写真:建物は不動堂)、行者だけが入れる右側(写真外)にある建物に入る。
そこで受付を済ませ、指導料3000円を払い、行衣を借りる。
私と同じく指導を受ける人たちが次々やってきて、20名以上になった。
年齢は10代の若者から私より年上らしき人まで幅広いが、それらの中間の中年が多い。
女性は5名ほど。

まずは服の上に借りた行衣を羽織って、館内で待機。
行衣姿の若い僧侶が来て、彼の説明を聞く。

まずは水行を含む”修行”の意味について。
御岳山では滝行はパワー(験力、神通力)をつける的なニュアンスだったが、真言宗のこちらでは、そういう志向性を否定し、水行のような山中の修行は、非日常性に身を置く経験によって、日常の有り難さ(感謝の心)を認識するためだという。
修行の目的は、苦るしむことではなく、心の在り方の(実感を伴った)変質にあるというわけだ。
仏教では、神通力のようなパワーは方便に過ぎず、それを目的とすることは低レベルの状態に満足する事であり、目指すべきなのは”悟り”という心の在り方の進化にある。

そして修行によって得られる”ご利益”というのは、個人的欲望を満たすことではなく(それは方便)、感謝を新たに感じる事で幸福感が増す事だという。
実際、汗水垂らして山に登って痛感するのは、冷房の効いた部屋でアイスを食べる日常生活のありがたさだ。

修行は身体を痛めつけること・苦しむことが目的でないという言葉を僧侶から聞けて安心した。

さていよいよその行が始まる。
まず塩で口を清め、滝手前の不動堂で、僧侶の読経の中、行衣姿のわれわれが「南無大聖不動明王」という名号を皆で唱える(珍しそうに眺めている登山客の視線を感じながら)。

ここから行者以外立入禁止の行場に入り、下着と行衣だけに着替えて、まず行場のゴミを払い、指導僧の指導の元、バケツに入った塩を両手でつかんで、全身を清め(最後は地面の塩を足で踏んで足の裏も清める)、一人ずつ順次、名号を唱えながらバケツで水をかぶってから、滝の下に進む。

滝の前で、指導されるままに、不動明王たる滝に向って名号を三唱し、滝つぼの石の座に右手をかけて名号を唱え、滝の真下の石の座に座ると、頭から落水を浴びて、いっきに体が冷たくなる。
ここでも指導僧の読経と名号に合わせて、名号を唱えるのだが、水の冷たさと滝の水圧に負けそうになる。
そんな中、あえて両手で脚や胴に滝の霊(冷)水を行き渡らせる。
寒さと水の力に負けまいと、大声で名号を唱えるために、
自分の力を内側から絞り出す。

自分の内に備えている力、それこそが自分自身の真正なパワーである。
その内なるパワーを”仏性”というなら、
滝に打たれてなお力強く名号を唱える瞬間、”即身成仏”を実現しているといえまいか。
これが水行(滝行)の意義だと実感した。
水行は単なる苦行ではなかった。

滝に向って今一度名号を三唱し、指導僧に一礼して、水行を終える。
一部記述を省略したが、おおむね以上のような流れ。

乾いた服に着替え、濡れた行衣は洗濯機で脱水し、元の場所に戻す。

待合室には、自前の行衣、袋入りの塩と一合酒の瓶を持参している人がいた。
尋ねると、今から一人で水行をするという。
水行の作法は先達から教わったという。

薬王院では指導を受けないと、個人での水行は受付ない。
ならば、今回指導を受けた私は、今後は一人で水行してもいいのか。
でも一回の経験では所作は覚えきれない。

指導僧が戻ってきたので、これについて尋ねると、今回の指導は団体用なので、個人で水行をする場合は別の指導をするという。
自立して行をするには3回ほどの指導が必要らしい。

10時半から説明が始まって、11時から水行が始まり、すべて終ったのが13時半頃(参加者数によって時間が異なる)。
なので高尾山に登るのはやめにした(水浴びした後は汗をかきたくないし)。
今日の水行に満足して下山する。

以前紹介した加門七海氏の本(→記事)の中で、修験本宗宗務総長が言うには、山で修行したまま下界(俗世間)に戻ると、”聖なるケガレ”を持ち帰ることになるので、「精進落し」をすべきということだ。
それに従って、高尾山口駅の売店で、缶ビールとつまみを買って、水辺の公園のベンチに腰掛けて精進落しをした。


(浮遊)霊の宗教的根拠

2023年02月10日 | パワー・スピリチュアル

”霊”という概念は、肉体的生命に対立する存在、という基本はあるものの、例えば現代スピリチュアリティ(霊性)論と日本の通俗的霊概念とではかなり隔たりがある。
このため、霊を学術的に扱う場合、概念定義を明確にする必要がある。
私は本来は霊性(スピリチュアリティ)の問題として接近したいのだが、当面対象とするのは「霊が視える」という現象なので、こちらの通俗的霊概念についてまずは整理しておく。

「霊が見える」という場合の見える対象の霊は、死霊でも生き霊でも、いずれも元の生体から遊離した”浮遊霊”を意味する(本体から浮遊している意味のため、地縛霊も含まれる)。
見えた対象としての”幽霊”は、死霊の浮遊霊に他ならない。

そもそも人は死ぬと上の意味での霊(浮遊霊)になるという考えはどこから来ているのか。
実は、既存のメジャーな宗教は上の意味での”霊”を否定している。
メジャーな宗教は、現世以外の別世界(他界)を想定していて、人は死ぬとこの世から離れてその他界に行くものとみなしている。
宗教としては素朴な神道でさえ、死者は”黄泉(よみ)の国”に行くし、民俗信仰レベルでは”山”が他界だった。→山は異界である
キリスト教では、審判の後、天国か地獄のどちらかに行き先が決まる。
仏教(本来は自我さえ否定するので死後の霊などありえないのだが)では、宗教(=物語)化された教理としては、人は六道という(人間界を含む)6種類の世界※への輪廻転生をしていて、仏道修行によってその輪廻の苦しみから抜け出られる(成仏)という。
※:天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄
これが通俗化されると、キリスト教と類似して、閻魔大王(道教の十王と習合)の裁きによって大抵は(誰でも何がしか悪いことをしたことがあるから)地獄行きとなるのだが、一部、阿弥陀如来の誓願によって、悪人ですら極楽往生が約束されているとみなす宗派(浄土真宗)もある。
※:極楽は天国ではなく、快適な環境で仏道修行ができる天界の1つ

要するに、宗教では本来は、人は死ぬと”他界”に行くと理論づけられているので、浮遊霊を認める余地がない。

もっとも、身の回りの現実の宗教・宗派では、この後示す霊を認める思想と習合するのだが、浄土真宗だけは今でもキッパリと浮遊霊の存在を認めない(なので浄土真宗の葬儀では「御霊前」は使わない)。

では、浮遊霊を思想的に認める宗教を紹介する。
儒教だ。
ここでいう儒教は、孔子を開祖として人倫思想的に発展したいわゆる儒学ではなく、孔子の生家が営んでいた当時の葬儀にまつわる民間信仰的な宗教(=儒)をさす(孔子自身はこの話題を意識的に避けて語ろうとしなかった)
この宗教は、日本の神道を含む東北アジアに共通する宗教メンタリティを持っているため、南アジア由来の仏教よりも、日本人に素直に受容された(仏教は儒教化されて受容された)。
ただし、仏教などに比べると、あの世に対する想像力が貧弱で、その後の儒学と同様、子孫の儀式という現世ばかりに目がいっているため(生き方の指針のための儒学ならそれでいいとしても)、死後の問題については浅さを禁じ得ない。
だが、その浅さゆえに、深遠な宗教思想よりは、庶民には理解しやすかったのも事実。
ではその霊思想を示そう。

生きている人間は、(こん)(はく)とから成り、魂・魄が一体となっているのが生きている状態である。
そして死とは、魂・魄が分離することであり、魄は遺体として残り(朽ち果て)、魂は魄(肉体)から離れて浮遊する。
浮遊して天に行きたいのだが(天の内実についての言及がない)、天に届かず、浮遊したままの魂もある。
その魂に対応する魄の名残があれば、再び合体して再生できるので、遺族は魄としての依代(位牌)を保管しておく(位牌・祖先崇拝は仏教ではなく儒教の風習)。
そして依代がなく、浮遊したまま行き場を失った魂を”(き)”という。

この鬼こそが、(浮遊)霊に相当する。
ただし鬼は日本ではご存知の通り、特定の形態をもった下等霊(妖怪)に限定され、形態のない状態は霊(御霊:ごりょう)と表現する。

御霊は、菅原道真のそれが有名なように、生前の怨念などがエネルギーとなって、落雷や疫病など人間業(わざ)を超えたパワーを発揮するとされる。
パワーを備えた形態のない存在は日本でいえば”神”に相当する。
なので神道では御霊を神として持ち上げ、その怒りを鎮める儀式が必要となった。
※菅原道真は天神様として祀られ、今では学問神(善神)となっている。平将門も怨霊ではなく神となって神田明神に祀られている。

また仏教においても霊を位置づけせざるを得なくなり、たとえば死から審判(結審)までの49日間は、霊(死後の仏になる前の状態)の行き先が決まらずに浮遊するとか、あるいは横死など葬儀・供養されなかった場合は、あの世に行けずに霊として浮遊するという考えも広まった。
そして仏教の法力によって、これらの霊を”成仏”させる(正しくは霊が本来行くべきの六道のいずれかに導く)という論理が成立する。
※:この安直な解決法が、死者=ホトケという仏教の論理に反する図式を蔓延させてしまう。

かように、浮遊霊の概念は儒教の”鬼”概念に由来するといえる。

ただ逆に言えば、なぜ”死者は(必ず)あの世に行く”という真っ当な宗教思想がほころんでしまったのか。
これは西洋においても同様で、キリスト教でも本来は幽霊(ゴースト)は存在しえないのだが、幽霊という概念がキリスト教徒の間にも存在している。
日本と違って、儒教の影響とは言えない。

高度に理論化された宗教の合間を縫って、その論理に反してでも湧き出てしまう幽霊。
その強固な基盤は、頭で考えられただけの”他界”とは違って、一部の人には確実に、否定しがたく”霊”が見えたからではないか。
というのも、霊視者はもともと浮遊霊の存在を信じていたわけではなく、外界に見えるから信じざるを得なくなったからである(逆に浮遊霊の存在を信じれば誰でも霊が視える、とはならない)。
ただ、浮遊霊の概念を理論化し、広めたのは、少数の霊視者ではなく、霊は見えないけど信じた人たち(流言の拡散と同じ社会心理メカニズム。人は物語を好む)。

ということもあって、私にとっても霊を頭で考える観念としてよりも、リアルな知覚対象としてまずはとらえてみようと思うわけである。

参考文献:加地伸行『沈黙の宗教−儒教』筑摩書房


「霊が見える」という心理現象の探求

2023年01月21日 | パワー・スピリチュアル

今年からの研究テーマとして「霊が見える」という心理現象を真面目に扱うことにする。

本当に「霊が見える」という人が少数ながら一定数いて、本人自身がその経験を扱いあぐねているようだ。
そして、そう言明することで周囲から変な目で見られてしまうため、秘匿していることが多い(幾人かはその経験を本にしている)。

私自身は、見えるとされる”霊”が客観的に実在するとは思っていない(思えない)。

ただし「霊が見える」という知覚経験(以下、霊視)を心理現象として存在することを認めることで、少なくとも心理学の研究対象としたい。

このように霊視現象を、素朴に”霊が外的に実在する”とは認めずに、まずは心理現象すなわち主観的経験として認め、その次元で霊視経験を批判的に精査することで、霊が外的に実在するか否かの判断に導きたい。

このような態度で心理現象として扱うには次のチェックを要する。

①虚言でないこと
この第一関門で、日常的に出回っている”霊視”言明の多くは脱落するかもしれない。ここをチェックするには、言明者の人格特性の確認が必要であるため、きちんとした面談が必要(それを経ない報告だけの情報は採用しない)。特に顕示性性格者が本人も信じてつく虚言癖※のチェックが必須(こういう人は霊視以外でも日常的にホラを吹く)。
※:霊が見えるお笑い芸人・シークエンスはやともによると、テレビに出る(自称)霊能者にも実は”見えていない”人がいるらしい。それは見える人からみれば分かるという(『ヤバい生き霊』より)。

②錯視(錯覚)ではないか
霊視を(検討もせずに)錯視と断じている科学者がいて、確かに瞬間的な”霊視”経験は錯視であることが多いが、その場合は一部の人ではなく、多くの人がそう反応するはず。さらによく見れば本人でも錯視と分かるもので(幽霊の正体見たり枯れ尾花)、実は本人でチェック済みが多い。ただし視覚上(網膜像)のトラブルの可能性があるので、視野のチェックは必要。

③幻視(幻覚)ではないか
視覚現象は最終的には脳の現象なので、網膜上に映らない映像も”見る”ことは可能(夢がその実例)。ただ覚醒中の幻視は錯視のように誰でも経験するものではなく、また一時的で再現性がない(錯視は恒常的)。
まずは、脳(視覚中枢)の機能障害の有無を確認する(専門的な検査ではなく、中枢性の視覚障害があるかの確認でよい)。
また幻覚症状を呈する精神病理(統合失調症、アルコール・薬物依存など)の有無もチェックする。

以上の虚言、錯視、幻視の可能性を徹底的にチェックし、これらで説明できるものは(””なしの)霊視現象とは認めない。

そしてこれらの関門をクリアして、霊視現象と認められた事例は、その内容を詳細にデータ(変数)化し、他の心理現象と同じく客観的な分析対象とする。
分析結果の考察(解釈)については、霊を実在視する既存の神話(宗教)的な解釈図式は採用せず、データのみを根拠としてボトムアップ的に理論化を試みる。

以上を今年から実行するつもり。
というのも、大学教員をやっていると、霊視者は意外に身近にいるから(統計分析に堪える人数には達しないが)。
来年度中に執筆するので、論文として公開されるのは、早くて来年3月となる。
※:多分データ量が乏しいことから、原著論文より格下の研究報告レベルとなろう。


付知峡の宮島源平古戦場跡を訪れる

2023年01月16日 | パワー・スピリチュアル

中津川に滞在するので、ここはひとつ付知(つけち)峡まで足を伸ばし、その入り口にある”宮島源平古戦場跡”を訪れることにする。

宮島源平古戦場跡とは、平安末の源平合戦跡の1つではなく、戦国時代になって、平氏の末裔の三木氏の軍が、源氏・木曽義仲の末裔義元を襲ったという平安末以来の因縁に基づく戦国合戦。
その跡地には、木曽氏側の義元をはじめとする戦死者を祀った宮島神社がある。

私が訪れる理由は、古戦場巡りではなく、この古戦場が、対岸のキャンプ場でキャンプをしていた小学生が生まれて最初に霊を視た場所だったから。

その小学生は今は成人しており、本人から上の話を聞いたばかりで、たまたま私が中津川にいるので、訪れようと思ったわけだ。

もっとも私自身は霊は視えないので、霊視が目的ではなく、そういう因縁のある場所の計測と必要なら浄化が目的。

GoogleMapを頼りに車で宮島神社を目指し、行きついた所は付知峡キャンプ場。
神社への道は今は閉鎖中のキャンプ場入り口にあるが、道が破壊されていてとても登れない。
その登り口に、石が置いてあって”塚”と見えるものが3つ並んであり、そこから少し離れた1つには日本酒が奉納してある(写真)。
なのでまずはこれらの塚に対して合掌して光明真言を唱え、その後”ばけたん”で探知すると、青緑に光った。

他に神社に行く道を探して歩きまわると、神社のある丸山の北側からかすかな踏み跡を発見。
そちらから登ると、案の定、山頂の神社に達した。

小さな社殿の脇には「南無阿弥陀仏」と掘られた真新しい石塔があり、地元の家の墓標のようだ(掘られている家紋は清和源氏の「笹リンドウ」ではない)
この石塔には念仏を、戦死者を祀る神社に対しては神式に参拝して光明真言を唱えて、ばけたんで探知すると、緑色に光った。
緑色は「何もない」、青緑は「良い霊の出現に期待」という結果。
きちんと祀れらていることでも納得できるように、少なくとも付近に悪い霊はいないようで、あえて浄化するまでもない(もっとも私にたいした浄化パワーはないが)。

神社のある丸山周囲の平地には、同様な塚があちこちあり、集落の周囲にある墓と区別がつかない感じ。

このように、これからは”霊”に関係する記事が増えていくと思う。


寺社で”礼拝”してます?

2023年01月07日 | パワー・スピリチュアル

多くの人が初詣に寺社に行くが、果たしてそのうち何割の人が礼拝しているか。
多くの人は、礼拝ではなく、祈願をしているのではないか。

祈願とは、神仏に対して、何らかの願い事の実現を祈ること。
絵馬や護摩木に書かれる内容であり、おみくじに書かれていることである。
実際、多くの寺社は”ご利益”を謳って参詣者を呼び込んでいるので、ご利益の祈願目当てに詣でるのも致し方ない。

ところが私は、寺社に足を運んだ時はもっぱら礼拝だけをし、よほどの事でない限り祈願はしない(ブログで寺社を訪問した時は全て参拝)。

礼拝とは、神仏を拝すること。
すなわち、神仏に対する敬の想念を心に満たし、それを所作(合掌)として表現すること。
なのでその瞬間は、想い(情)に満ちて思考は停止し、意識はほぼ無心になっている(ここが言語を要する祈願と異なる)。

礼拝することで、御神体や御本尊に対して敬の念(エネルギー)が放射される(という)。
このような参詣者たちの礼拝(エネルギー放射)によって、御神体や御本尊はさらにパワーが増す(という)。
そのようにしてパワーを高めた結果、人々の祈願を受け入れることが可能となる(という)
※こういう論理は、永久保貴一画・秋月慈童語り『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』第4巻にも載っている。

祈願だけの人は、自分の少ない賽銭だけで、神仏のパワーを過分にもらおうとする。
しかも祈願の内容は自己利益(欲の充足)そのものだったりする
※:ご利益が有名で参詣者が全国レベルで多い神社が、ばけたんで霊を探知すると”何もいない”と出たりする。祈願者のエゴの念が境内に充満しているためだろう。そもそも安易な欲の充足を謳うことは人の心を正しい方向に導かず、宗教としては悪手である。一方、山中の素朴な祠であっても霊は捕捉される。

私が礼拝だけをするのは、こういう場ではまずは礼拝(敬の念の放射)をすべきものだから。
祈願を滅多にしないのは、たいていの願い事は、人間の努力で達成すべき(できる)ものだから。
特に自己の利益に関する事は自分で何とかする(たとえば”健康”は生活習慣と医療によって祈らずとも実現している)。
唯一、姪の大手術の時は、自分は手術に関与できないため、護摩木に書いて成功を祈願した(手術は大成功)。

かように祈願で期待するパワーはそれまでの礼拝の念の集積が前提とされる。
なので、まずは(祈ることがなくても)礼拝しよう。


2023年を易で占う

2022年12月31日 | パワー・スピリチュアル

易では冬至の日に翌年を占う(年筮)ので、私も毎年そうしているが、今年の冬至の日を失念してしまったので、大晦日の今日、年筮をやってみた。

ちなみに、昨年の年筮では、今年は「天水訟」と出たので、争いが起きると読んだ。
果たして2月にロシアのウクライナ侵略が発生したが、「訟」は戦争というより言い争いレベル。
もっとも我々日本人にとっては、戦争の当事者でないので、対岸の火事的ということか。

さて、来年の卦は「山沢損」と出たが、2・3・4爻が変爻なので「離為火」に変わる。
よって、来年の前半は「損」、後半は「離」とみなす。
損は、まさに損(目減り)することで、物価高(値上げ)や増税に見舞われるようだ。
だが後半になると、正しい選択(特に相手)をすれば運気が上昇して、活性化できそう。
前半は自重し、後半は上昇気流に乗るといい。

皆さんにとっても、来年は良い一年でありますように。


将門塚のパワー再計測

2022年12月12日 | パワー・スピリチュアル

東京千代田区大手町にある将門(まさかど)の(首)塚は、以前(2012年)地磁気を測ったら、塚に近づくにつれて磁気の値が減少したと報告した(→記事)。
その後、塚が再整備され、計りやすくなったようなので、また当時は結構ビビっていて、正しく計測できなかったので、再計測に行った。

三井のビルに囲まれたそこは、以前よりも広々と整備され、また塚の前に「南無阿弥陀仏」という石碑が建っている(写真:南東下図③方向から)
平日の午前中というのに、参拝者が引も切らない。

早速、地磁気を測ろうとテスラメータのスイッチを入れたら、値が変動して落ち着かない。
近くの交差点に戻って、そこで計測しても変動するので、計測モードを交流にしてみたら0.9μTほどの強さで振動している。
普通屋外では(交流電気に伴う)交流磁気は計測されないが、周囲がビル街なので交流電気が強いようだ。
この地域のバックグラウンドとしての直流磁気としても50±3μT(以下、同単位)と高め。

さて再び、塚に赴き、まず敷地内のバックグラウンドとして、塚から西に離れた⑧(下図)は52。

次に石碑背後の石塔(埋まっているものの真上)周囲(石段の下の砂利に立って)を測定する(右図の①〜⑦。②と⑥の間にあるのが塚の上の石塔)。
整備前の前回は正面(⑧→④からの⑦-①面)以外の周囲には足を入れられなかった。
地磁気の計測は磁北極にセンサーを向けて(図の③→⑦方向)、緯度に等しい俯角に向ける必要がある。
なので周囲といっても、計測方向と塚中心部の位置が合うのは③のみで、⑤〜⑦は塚と反対側(図の上方向)にセンサーを向けなくてはならない。
各ポイントの計測結果を以下に示す。
①37,②35,③31、④31、⑤41、⑥45、⑦46

まず塚の周囲全体が、バックグラウンドたる⑧より低く、さらに塚の中心部にセンサーをむけている③とそれに近い④の値が最も低くなった。
やはり今回も、塚は異常に磁気が低いことが確認された(塚の外側でこれほど磁気が低いということは、塚の内部にあるのは強力な反磁性体か)。

次に霊気を測ろうと、首に下げた「ばけたん霊石」のスイッチを入れたが、つかない。
今朝はちゃんと室内の良い霊気を検知していたのに。

実は以前にも、ばけたんは強い霊気の場で反応がおかしくなったことがある→記事
ここの霊気が強すぎたのかもしれない。

霊気はともかく、物理的計測である磁気は異常値を示したのだから、改めてここをパワースポットと認定する(「パワースポット認定士」を自認する私としては、計測的根拠のない所はパワースポットと認めない)

将門塚を訪れた後は、将門を神と祀る神田明神に行って、将門の霊を敬したい。
神田明神は、あいにく境内の清掃中で落ち着かなかったが、社殿と大黒天像南側(写真:灯籠の左側)が31と低かった。
境内のバックグラウンドは42(この値は東京宅と同じでこちらが東京の標準値といえそう。将門塚周囲は値が高すぎる)。
ただ社殿のような建築物はあちこちに金属が使われているので、それらに近寄ると磁気値に変動を示すことが普通にある。
大黒天像(石像)は、将門塚に来ていた人から教えられたスポットで、見た目は心が動かされなかったが、測ってみると確かに異常値を示した(石像からは1m以上離れての計測)。


月瀬の大杉はパワースポット

2022年06月19日 | パワー・スピリチュアル

長野県根羽村月瀬(つきがせ)にある月瀬の大杉(県内一の巨樹で、天然記念物)は、過去2回の計測で、いずれも静電位異常を示した。

各地のスポットのパワー(力)を物理的に計測しているが、磁気の異常はあっても静電位の異常は珍しい。

今回、茶臼山カエル館(第一のパワースポット)に行く道すがら、月瀬の大杉の3回目の計測を行なった。

すると今回は、+0.11Vとプラス側に傾いていた。
これほどの値は、通常の屋外では計測されない(±0.02Vは誤差の範囲)。
また、以前は大杉周囲に張ってある縄の電位だけが高かったが、今回は大杉周囲の空気中で高かった(縄だけが高いのではない)。

ただ、写真をよくみると、電線が大杉に接近している。
仮に電線と接触していると、その影響での帯電ともとれるが、電線が木に接触していたら、電力会社がそれを放置しないはず。
実際、値が高かったのは電線の真下ではない。

以上から、3度の計測によって、静電位というポテンシャルパワーが偶然でなく存在していることが確認された。
来訪者による生体反応のデータはないが(虫歯に霊験ありという伝説はパワーとして採用しない)、県内一という巨樹(樹齢1800年ほど=卑弥呼の時代)であることそれ自体が生物学的パワーの証拠となるので、ここを「パワースポット」と認定したい。

根羽村においては、カエル館に次ぐ2つめの私(自称パワースポット鑑定士※)が認定したパワースポットとなる。
※:私はパワーの客観的根拠のないそこらの”パワースポット”は認めない。

ちなみに、同村内にある「亀甲(かめのこ)石」も磁気異常が計測されている。


大鹿村の新しい磁気スポット

2022年06月01日 | パワー・スピリチュアル

大鹿村の”磁場坂”は私の計測では、道路端のガードレールが帯磁していて、他方端が電気柵が作動中だったが、空気中の磁気は通常値なので、磁気スポットとは認定できない。

実は、大鹿村に行った目的はそこではなく、人づてに聞いた別のスポット。

そこは塩川にかかる橋で、近くの個人宅も磁気が高いといわれていた。

鹿塩温泉に泊まった翌日、その地に行き、さっそく計測開始(写真)。
まず、橋の手前の広い所(写真では奥)で基準となる地磁気の値を計測し、48.9μTを得た(納得できる値)。

目的の橋の欄干は左右両側とも350μT以上(計器の計測限界)に帯磁している(路上の鉄製構造物が帯磁しているのは、工事の時の電動ドリルによるもので、よくあること)。

ただ、橋の上流側(写真の手前)から4個目の欄干の位置にある道の中央(欄干の磁界の影響は受けない距離)で64.4μTと空気中で高目に出た(磁場坂にはこれがなかった)。
さらに橋の手前(写真の奥)から左側3個目の欄干の位置にある道の中央では、41.8μTと基準(地磁気)より低い値になった。
帯磁すればその分基準の地磁気より高い値となるが、人工物の影響を受けない空間で地磁気より低くなるのは珍しい(もちろん磁気は方位がずれると値が小さくなるので、計測値はその地点での最大値→地磁気の正しい測り方)。

次に個人宅にお邪魔して、家の周囲を測らせてもらった。
家の前にある長い鉄柵の両端が帯磁しており、これらは不要な帯磁と思い、許可を得て消磁した。
また壁面を伝う鉄管の一部が強く帯磁していたので、そこも同様に消磁した。
かように今回から、”消磁マン”としても活動する。

そこの主人から、付近で不思議な犬の現象(鹿の死骸を口を真っ赤にして食べる二匹の白いかわいい子犬が人の合掌の手のように互いに立って寄り添ってじゃれあっていたと思ったら、目を離した数分後に鹿の死骸ごと跡形もなく消えた)を経験(3名で確認)し、それと同じことが20年前にもあったことを知ったというのを聞いた。

書籍にもなっている”山の不思議な話”においても、山の動物はそれなりに登場する(山は”異界”なのだ)。

実はここの近くに”三峯(みつみね)”という祠があり、それについて尋ねると、最近の大雨による出水時(そのせいで林道が破壊されたので改修工事中)に溢れた塩川の水が、三峯様の鳥居を避けるように道路を越えたという。
そもそもなんで大鹿村の山奥に、秩父の三峯様が祀ってあるのかというと、主人によれば、同じ大鹿村の荒川岳(3083m)を開いた人が三峰※の人だったという(秩父の三峰の前を流れる川も”荒川”)。
※:地名は三峰、神社名は三峯

三峯神社の御眷属である大口真神(おおくちのまがみ)はオオカミ(山犬)。
ということは、さきほどの山の犬の不思議な話も三峯様と関係ありそう。
そう話していたら、ここの宅内にも三峯神社のお札が祀ってあった。

三峯様は、道路脇の岩山の上にあり、この家を含めた塩川最奥の集落で管理しているという。
岩山を登って、祠に参拝し、祠の前でバケタンのスイッチを入れて探知したら、水色となり「守護霊の出現を期待できる」とのお告げ。
これは宅内での探知結果と同じだったので、この付近一帯が三峯様に守られているようだ。

磁気計測に来て、この地は”磁場坂”以上の磁気スポットと確認できた。
それだけでなく、この地は”三峯様”のパワーの圏内でもあるようだ。


新城のパワスポ計測:百間滝、鳳来寺の弁天堂

2022年05月17日 | パワー・スピリチュアル

今回の旅の目的の1つは、愛知県新城(しんしろ)市内のパワースポットの計測。

このあたりのパワースポットとして一番有名なのは百間滝
滝としてはより手前にある阿寺七滝の方が有名だが、パワスポとしては百間滝の方が知られているようだ。

といっても、私にとってのパワースポットは、何らかのパワーが計測され、しかも生体反応を及ぼすレベルでないと認定しない。

すなわち、パワーの正体と効果が明確でない、口だけの自称”パワースポット”は認めない。
それらの多くの”パワースポット”は、無根拠の僭称か、生体反応らしきものでも主観的な思い込みやプラシーボ効果にすぎない。

百間滝は、茶臼山カエル館の常連客の一人から、ここはパワーがあると言われたので、行ってみる事にした。
前の晩に浜名湖に泊まって、そこから北上したが、こちら方面からの滝までの道は工事による通行止め(5月31日まで)のため、北の貯水池からの迂回路を通った。
滝入口には車2台分の駐車スペースがあり、1台分空きがあったので、そこに止めた(結構次から次に車が訪れる)。
まずはここで地磁気を測ると49.1μTの正常値。
静電位は+0.03V で、イオンバランスを測ると+側に5V。
急な道を下っていくと、まず滝の頭への左へ分岐があり、さらに下っていくと、滝見台的な場所に出て、滝の上部から滝つぼまで見渡せる(写真)。
水量も落差もある見事な滝だ。
滝の飛沫が届く所で測ると、電位は-0.07Vとなり、イオンバランスは-側に5Vとなった。
地磁気は変化なし。
バケタン(霊気探知器)のスイッチをオンにすると、緑となり、「何もない」という反応。
パワーの有無の判定をしようと、ダウジング・ロッドを握ってみたが、滝からの風でロッドが動かされ、判定不能。
このように、陰イオンに傾いたが、パワーは計測できなかった(もちろん滝は、位置エネルギーを運動エネルギーに変換する重力パワーを発揮しているが、そういうシンプルな力学現象ならあえてパワースポットという必要はない)
滝の近くで空気が陰イオンに傾くのはよくあることで珍しくはない(いわゆる”マイナスイオン”)。
なので、私はここをパワースポットとは認定しない。

ここから湯谷温泉に向う途中に「不っ田の七滝」というのがあったので、立ち寄った。
その奥にはその奥に中央構造線の露頭がある(日本最大の活断層の活動の跡)。
不っ田の七滝入口には、私設の駐車スペースがあり100円入れる。
七滝は遠方からだと全部見えるが、近づくと上部は視野から外れる。
滝の近くには自由に突ける鐘があり、苔むした石の不動様が祀ってあるので、不動の印を結んで真言を三唱する。
かように宗教的なパワーが期待される所だが、静電位は-0.01vで、百間滝より低かった(百間滝の方が物理パワーがあるといえる)。

湯谷温泉で泊った翌日、鳳来寺の参道沿いにある「なんじゃが池弁財天」に立ち寄る。
ここはパワースポットとしては知られていないが、私のブログの読者から、ここで強い生体反応を得たので調べてほしいと前々から依頼されていた。

鳳来寺の参道を進むと、高校の先の道路右側に幟が立っていて、池を渡った先に小さな祠(弁天堂)がある(写真)。

まず、池の手前で地磁気を計測し、49μTの正常値を確認(静電位は計測されない)。
池を渡る通路上(写真中央)で(直流)磁気の値が上がり、渡った先の弁天堂の前でも同じく高い。

通路の両側にある(幟の立っている)鉄製の欄干が磁化したものと思い、欄干に計器を近づけると値はどんどん上がり、堂側に立って右側の欄干の端(下写真右手前)でも200μT(以下同単位)、左側の欄干の端(下写真左手前)で300を超えた(地磁気の6倍の値)。
振り返って弁手堂のトタンの屋根を測ると、向って左端が90、中央が130、右端が200。
弁天堂の右端と、欄干の左端は同じ側(下写真左側)なので、弁天堂に向った位置(上写真)でいうと右側の空間の値が高い。
ちなみに、弁天堂周囲の土の地面の上は正常値。

実は屋外にある鉄の構造物が磁化することは珍しいことではない。
実際、弁天堂に沿った道路の向い側にあるガードレール(上写真を撮った場所の背後)も100を超えている。
バケタンでの探知結果は緑で、霊気的には「なにもない」という結果。

といっても人工構造物でも強く磁化している場合、生体反応をもたらすことがあるのも事実(茶臼山カエル館のように)。
実はいくら300あっても、直流磁気の場合はμTレベルでは本来なら生体反応は起きない(磁気ネックレスは千倍のmTレベル)。

磁気が自然状態よりは強く計測されるも、同時にその磁気の強さでは説明できない生体反応が起きるのは、磁気としても測定される別のパワーの存在が示唆される。
そのパワーこそが、パワースポットの正体といえる。

ここ”なんじゃが池弁財天”は、まずは生体反応が報告され、そして今日、磁気異常が確認されたので、パワースポットと認定せざるを得ない。


スピリチュアリティ(霊性)の世界へのいざない

2021年12月25日 | パワー・スピリチュアル

「日本人は無宗教だ」、という言説は正しくない。
なにしろその論拠が、クリスマスを祝った一週間後には初詣に神社と寺をハシゴするという(あるいは、七五三は神社、結婚式は教会、葬式はお寺という通過儀礼における)”無節操さ”におかれている点が間違っている。
無宗教なら、そもそもクリスマスも初詣も宗教的行事は一切無視するはずだ。
上を論拠(無節操=無宗教)にする発想は、行動も思考も特定宗教にがんじがらめにされた一神教原理主義者的な偏ったものだ。

そもそも”八百万”の神という、密教の”三千仏”をはるかに凌ぐ超多神教の神道を宗教心の根源とする日本人は、特定の宗教・神に拘泥しない寛容さ(無節操さ)こそが宗教心の発現にほかならない。
たとえば、自分が目にしたところでは、青森のキリストの墓※1(墳墓には大きな十字架)の祭りも、岐阜のウェストン(明治期に日本に滞在した英国教会の牧師で登山家)※2祭も、ともに神主による神道式でなされた。
これも”無節操”といえよう。
※1:もちろんキリスト教はここをイエスの墓と認めていない。あくまで日本のトンデモ系の言説に地元の村が観光資源として飛びついた例。
※2:ウェストン自身は、日本での教会活動にさして熱心でなく、日本の山に魅せられて登山ばかりしていた。南アルプスの地蔵岳に初登頂したら、地元民から”神主”になれと勧められたという。それを知った私は、外国人(しかも異教の宣教師)を神主にするのに抵抗感のない"無節操さ”に感心した(地蔵岳の直下には賽の河原があり地蔵尊が祀ってるように明らかに仏教信仰の山なのに、神主というのも民間神道らしいメンタリティ。しかも民族性をも超越して、神道の普遍宗教性を表現している。神道において山それ自体が神(の依代)である)。ただし北アルプスの笠ケ岳では、外国人が登ると山が穢れるとして地元で妨害された。

神道は、特定の唱道者(教祖)や聖典(教義)に依らない、その意味では宗教としては自然(原始)的段階にありながら、(自然宗教にありがちな)迷信的呪術という非科学方向に流れることなく、超越的なもの(山や巨樹の自然物を含む)に対する敬意という、宗教の本質を実現している貴重な宗教である(ただし「国家神道」は敬意の対象を皇祖神に収斂したので含まない)。

そのような特定の神も教義(教典)も必要としない、純粋な心で感じる超越的な存在者への敬意、これこそ現代のスピリチュアリティ(霊性)にふさわしいアプローチである。
目の前の巨樹に自然に手を合わせることができる、頭ではなく、心で超越者に向き合えるという意味では、日本人は最もスビリチュアルな人々といえる。

スビリチュアリティは、超自然的な超能力の世界ではない。
”現に在る者”に対する、それに名称を付与し、存在理由を思考する以前の、素直な感動の心が出発点である。

ただし、ここで終ってしまうのが、神道の限界でもある。
神道の視界は「在る者(存在者)」(不可視であっても)にとどまり、在る者を在らしめている「在ること」(存在)への深い眼差しがない(死をケガレとして忌避するのみ)。

その限界を補っているのが仏教だ。
仏教は、創造神を措定せずに存在の問題を解いている(なので神道とも量子力学とも共存できる)。

話を戻すと、特定の宗教神話(国家神道的記紀神話を含む)に束縛されない現代日本人にこそ、既成宗教や一神教的”神”概念に束縛されないスピリチュアリティ(霊性)の扉が開かれている。

なのでスピリチュアリティ儀式としての初詣では、神社と仏閣をハシゴしてかまわない(神仏習合の方が日本人の宗教心にとっては自然)。
その際、神社の祭神は、維新後に無理矢理皇祖神に統合されたケースが多いので、こだわる必要はない。
ハシゴ巡りの典型である”七福神”は、恵比寿様以外は神道の神様でも仏様でもなく(布袋様は単なる坊さん)、ヒンズー教や道教の神様たちなので、まさに世界の多神教(ヒンズー教、仏教、道教、神道)巡りだ。
多神教こそ、互いに他を認め合い、他と共存できる多様性を実現できる!(多神教は一神教を容認できるが、一神教は多神教はもちろん、他の一神教も容認しない)

ちなみに、この記事を、クリスマスの日にバッハのカンタータを聴きながら書いている。


冬至の年筮2021:2022年を占う

2021年12月22日 | パワー・スピリチュアル

易者は冬至の日に、来年を占う”年筮”(ねんぜい)をする。

大学の「易学研究会」の顧問である私も、授業の空き時間に研究室で筮竹を裁いて、中筮法で来年を占った(対象は自分個人でなく、皆さんも含まれる)。

結果は、天水訟(てんすいしょう)だが、二・三・五爻が変爻なので、火山旅(かざんりょ)に変じるとみた

天水訟は、柔(陰)の上に剛(陽)が乗っているため不安定で、争いごと(訴訟)が起きる卦。
火山旅は、少しはバランスは良くなるものの、そこに留まることを得ず、他所に行く卦。
これらを合わせると、トラブってうまくいかないので、そこから逃げると解釈できる。

ちなみに昨年の年筮の結果(すなわち今年)を検証してみる。
兌為沢(だいたく)で、四爻が変爻なので水沢節(すいたくせつ)だった
前者は喜びがあるものの、後者は大人しくしていろというもので、停滞の卦だ。
実際、コロナ禍が続いて停滞も続いた。

それに対して来年は、あまりよくない意味で、変動が起きる(特に春と秋)。
その不安定さにつきあわない方がよいようで、方策や気分を転換した方がよさそうだ。
災害が起きそうな時には、踏ん張っていないで避難した方がいい。
年の後半、旅には適している。

2017年末から年筮を始めているが、なかなか良い卦にならないなぁ。


パワーストーンの店はパワースポット?

2021年10月23日 | パワー・スピリチュアル

帰京した週末。
秋葉を逍遥して、そのまま御徒町に向い、天然石の店に立ち寄る。
こういう店には、アメジストの立派な晶洞(結晶がぎっしり詰まった洞)が置いてある。
値段は数十万円クラスなので、比喩としては「手が出ない」が、実際に洞内に手を入れてみる。
まずは温感を得て、その後、手の上下から圧迫感に等しい気感を得る。
さすが晶洞、かように強いパワーに満ちている。

店内は、商品として大小の晶洞が置いてあり、他には大小のいろいろなパワーストーンが所狭しと置かれている。
中には、ラジウム鉱石であるバドガシュタイン鉱石もたくさん置いてある(我が家の浴槽にもこの石を置いていて、ラジウム温泉にしている)。

そして客は、限られた予算で一握りのパワーストーンを買って帰り、家のパワーを高めるわけだ(私もアメジストの玉を購入)。

ということは、パワーストーンに満ちた天然石の店こそ、最も強力なパワースポットといえるのではないか(少なくとも、”自称パワースポット”よりは直接的なパワーを実感できる)。
ならば、店自体、さらには従業員の人たちは、そのパワーの恩恵を受けているのだろうか。

同じ論理で、温泉宿の従業員の人たちは、人一倍健康なのだろうか。
温泉医学の研究によると、温泉地の住民は、健康度に差があるというわけではないとのこと。
環境に馴化してしまって、温泉が生体に刺激にならないためと解釈されている。
”湯治”という数週間レベルの滞在がもっとも効果があるらしい(1泊では効果なし)。

ということで、私も帰京時には、こうして時折、この種の店を訪れるようにしている。


サイキック・パワー講座8:終講・参考図書

2021年05月03日 | パワー・スピリチュアル

サイキック・パワー講座として、基本スタンスを気の理論におき、ペンデュラムダウジングオーラなどを紹介してきた。
この講座は、「初級」講座のつもりで、こういう経験を0から始めるためのものであった。
いずれも私自身、特別なトレーニングをせず、やってみたらその場でできた。
そしていったんできると、いつでもできるようになる。
講座としてはこれで終りにする。

ここでの講座でうまくいかなかった人は、成書あるいは直接指導者にあたるか、パワー・スポット(無根拠の”観光パワスポ”ではなく、きちんとパワーが確認されている所※)で受動的に経験してみることをお勧めする。
※:本ブログで紹介している茶臼山カエル館(長野県根羽村)近くにある岩に手をかざすと、たいていの人が”気”の触感を得られる。

これらのパワーを何かの目的のために使うには、さらに強いパワーが必要になる。

ただ、これらのパワー(システム4※)がこれからの人生で必要かどうか。
少なくとも、社会生活を営む上では必要ないだろう。
むしろ普通の心身の能力・技能(システム1・2※)、あるいは瞑想法(システム3※)をマスターした方が役に立つ。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の心はここまで。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。ニュートン的物理法則を超えるサイキック・パワーの領域

システム4を開発してこういう分野を極めたい、という人はさらに頑張ってほしい。

その場合、注意したいのは、サイキック・パワーは元が生命エネルギーなので、使いすぎると生命エネルギーが衰弱するということ。
成書の著者(指導者)に意外に短命者(平均寿命未満)が多いのは、プロスポーツ選手が身体の故障を抱えやすいように、指導者なればこそ自分の生命エネルギーを酷使したためかもしれない。
パワーを向上させるには、日々のトレーニングが必要だが(成書はそう勧めている)、やり過ぎると、生命力を酷使してしまうことになる。

なので、力を抜いてリラックスしてやってほしいし、”気”についてはむやみに外に放射せず、収功(終了動作)を忘れないこと。
そして外気との交流を盛んにすること(内部の邪気を出し、外部の清気を取り入れる)。

気功もヨーガも本来は健康増進が目的なはず。
まずはそれを目的にし、強いパワーを得られたなら、ヒーラーの道に進んでほしい。

最後に、”成書”って言われてもいったい何を読めばいいのか困る人のために、参考となる図書を紹介する(『書名』著者 出版社)。もちろんこれがすべてではない。
また以下の著者のスタンスでわかるように、気功やヨーガが理論的にも実践的にもサイキック・パワーのベースになる。ただし欧米人は気功には馴染みが薄いようだ(個人的には密教が理論・実践に貢献していないのが残念)。

●『サイキック・バイブル』 ジェーン・ストラザーズ ガイアブックス
この世界の入門にはいい本(広く浅い紹介)。いろいろなエクササイズが(西洋人向けに)紹介されているが気功は載っていない(易は載っている)。実践の最初に「グラウンディング」の必要性を説いている点が参考になった。

●『秘法 超能力仙道入門』など 高藤聡一郎 学習研究社 
道教起源の仙道は気功より広い領域で超能力要素を含む。説明も図もわかりやすく実践に裏打ちされたオリジナリティもある。この著者の他の本もすべて読んだ方がいい。ただ、元は新書サイズで安価だが中古でしか入手できない状況。

●『スピリチュアリティの真実』など 本山 博 PHP
ヨーガをベースにサイキック・パワーを実証的に研究していた人。この人の一連の著作は研究書レベルのもあるため、学問的水準で参考になる。いわば私が進みたい道の先を行く人。この本にはクンダリニーについても書いてある。ヨーガ系だが気功系(気の理論)にも言及。

●『スピリチュアル・レッスン』など 井村宏次 ビイング・ネット・プレス
鍼灸が元だが、この人も科学的態度を貫いている。この分野の翻訳も手がけている。

●『あなたにもオーラは見える』 テッド・アンドリューズ 成甲書房
見えたのがオーラなのか自信がない場合にいい。オーラを見るための訓練もわかりやすい。ヨーガ系。

●『気功革命』など 盛 鶴延 コスモス・ライブラリー
日々やる気功の練習(練功)ならこの本がわかりやすい。著者の気功は、道教だけでなく、仏教・儒教も含んだ総合的なもの。ただエクササイズはDVDでないと”動き”がわかりにくい。数冊ありしかもDVD版、さらに『秘伝奥義 集大成』まで揃えると財布が痛い。

●『ヒーリング・パワー』など  ドロレス・クリーガー 春秋社
セラピューティック・タッチという著者が開発したサイキック・パワーの実践法。パワーをヒーリングに使う好例。

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サイキック・パワー講座7:オーラを見る

2021年05月02日 | パワー・スピリチュアル

講座6の潜在意識の開発から、テーマをオーラ(aura)に移す。

オーラは人体から発している可視的な生命エネルギーで、聖像の頭の後ろから発している”後光”がそれに相当するといわれる。

ヨーガ理論に基づけば、人体は外側に幾重の層構造があり、それらがオーラとして(多層に)見えるという。
欧米では、これに基づいた詳細な説明がされているが、実はオーラは”気”の可視化とも解釈できる。
どちらも生命エネルギーの発露だから同じ現象の2側面、すなわち気は講座2のように触覚や内臓感覚で感じ、オーラは視覚対象という違いがあるものの、気=オーラであることは私も実感しているので、その視点で説明する。

講座2の方法で、まずは両手から気を出してみよう。
気を出す時、閉眼したかもしれないが、今回は、気が出た両手を、開けた目の前に掲げてみる。
この時、手の奥の背景は黒(オフにしてあるテレビ画面)か白、少なくとも単色であることが望ましい(室内の壁面でよい)。
オーラは、常時見えているのではなく(それならすでに誰もが見えている)、オーラを見るモードにしないと見えない。
オーラを見るには、手を凝視するのではなく、力を抜いて焦点を絞らずに、ぼんやりと指先に目をやる(剣道の「遠山の目付」)。

すると、両手の指先から1〜数センチの幅(厚み)でうすぼんやりした明るめの輪郭が指の外側に出ているのが見えるとしたら、それがオーラだ。

気を出す時のように、両手を数センチ開けて向かい合わせても見えるし、
手を、裏・表に向けても見える。
さらに指先からは、直線上にオーラが薄く伸びているのが見えるかもしれない。
両手の指先を向かい合わせると、指先から出る双方のオーラが融合して、指の間の空間でオーラの面ができる。

でも、冷静に考えると、目の錯覚(錯視)、すなわち生理心理的なメカニズムによる残像現象かもしれない(私のブログの読者は、このような科学的・批判的視点を堅持しておいてほしい)。

そこで、両手を向かい合わせて、片方の指を他方の手のひらに向けて気を発すると、
オーラの範囲内の距離で気を感じることがわかる。
すなわち視覚的なオーラの領域と触覚的な気の領域が一致している。
細かく言うと、手のひら(労宮)から発する気・オーラより、人差指の先から発する気・オーラの方が長く伸びているから、それぞれの届く距離の違いが視覚と触覚で確認できる。
かようにオーラには触覚的根拠があるので、残像現象(錯視)ではないといえる。

以上のやり方でオーラが見えない人は、オーラを見るトレーニング法が成書にあるので、それを参考にしてほしい(本は「オーラ」で検索。ただ、そのトレーニングって、心理学的には、残像視のトレーニングそのものだったりする)。

自分の手のオーラが見えた人は、つぎに鏡を使って自分の頭から発するオーラ、あるいはクリスタル(水晶)などのパワーストーンが発するオーラ視に挑戦してみよう。
クリスタルなら、6角柱で先の尖った形状が適している(指先と同じく、尖った先からオーラが発する)。
クリスタルのオーラが見えたら、それとの気の交流もしやすくなる。

ちなみに、欧米のオーラ書ではオーラの色について詳しく述べられているが※、気の理論に基づく日本の本では、色は見えないとするものもある。
※:残像視では元の視覚像の補色が見える。なので補色(赤⇄緑、青⇄黄)が見えるなら、その”オーラ”は残像現象だろう。

私も、白を背景にした場合は色が見えるが、黒を背景にした場合は色相はなく明度差だけだ。
そもそも”気”に色はない(気は可視光線波長の電磁波ではない。講座4でやる内気の移動速度は光速より遥かに遅い)。

講座8:終講・参考図書
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