今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

今まで訪れたスピリチュアル・スポット

2024年05月18日 | パワー・スピリチュアル

私が今まで訪れた場所で、強力な霊気を感じたり、計器が異常反応した所、すなわち心霊(浮遊霊)スポット+神霊(神格化した霊)スポット=スピリチュアル・スポットを紹介する(→記事元記事)。
※:何らかのパワー(力)が計測される”パワースポット”とは定義が異なる。


①東京大手町の将門首塚記事(訪問時の元記事、以下同)
ここはスピリチュアル・スポットとして既に有名だが、その客観的根拠を探りに行った。
その結果、地磁気(直流磁気)の計測によって、客観的な磁気異常を確認した。
まず首塚のある敷地内に入ると地磁気が減少し、首塚に近くにつれ、その減少度が増す。
塚の周囲を巡ると、塚の内部が磁気減衰の中心であることがわかる。
塚の中に強力な反磁性体が埋もれているかのようだ。
年をおいて複数回計測して同じ状態だったので偶然ではない。
そして、このような反応傾向の場所は、他にはない。


②埼玉狭山丘陵のトトロの森1号地付近記事
トトロの森1号地近くのある草むらに近づいたら、首から下げていた”ばけたん”が暴走反応を示し、制御不能になった。
※:固有のアルゴリズムによるお化け探知器。私は初代器から使っていて、霊感の師匠的存在。
いつもはばけたんは自動的に霊を探知していて、探知したのが心霊だと赤く、神霊だと青く光り、あえてその場を探知したい場合は探知ボタンを押すのだが(「何もいない」と緑に光る)、ここに近づくにつれ、赤と緑が交互に点滅し、それが止まらなくなった(こんな反応パターンは正常ではありえない)。
その後、電池切れになったらしく、反応が止まった。
帰宅して外電池を入れるとまたあの点滅になった。
あの場所で、回路が故障したようだ。

実は、ばけたんが暴走した草むらは、1週間前にキャミソールをつけた白骨遺体が発見された場所。
もちろん遺体の痕跡はなかったが、目に見えない何かがその場所に残っていたのかも。
ばけたんは霊の探知だけでなく、防御のバリアを張ることもできる。
ばけたんは身を賭して防御してくれたのか。


③群馬高崎の田村堂記事
ここは幕末の下仁田戦争で水戸の天狗党と戦って死んだ高崎藩士31名と民間人5名の全員が、当時の衣装をまとった木像として作られて祀られているお堂。
その姿が珍しいので、堂内の木像にデジタルカメラを向けて、電源スイッチを入れたら、カメラの動きが途中で止まって撮影不能になってしまった。
急いで堂から出て、外でカメラの電池を入れ直すと、今度は無事にスイッチが作動した。
これは「撮ってくれるな」という彼らの霊からのメッセージだと思い、もちろん堂内でカメラを向けることは止め、改めて合掌して死者たちの冥福を祈った。

このようにデジタル機器が反応することはよくあることで、それを利用した霊探知器もある。


④千葉県成田東勝寺の霊宝殿
江戸時代の義民・佐倉宗吾の墓のある東勝寺境内にある宗吾の遺品などを展示する建物。
館内に入ると”ばけたん”がにわかに青く光った。
館名はともかく、展示館の中で光ったことに驚いたが、後ろを振り返ると、そこには宗吾と連座した子どもたちの位牌が祀られていた。
彼らの死を悼む後世の人たちの祈りで霊が浄化されたのだ。


人間存在の分かれ道

2024年04月23日 | パワー・スピリチュアル

人間の在り方そのものの岐路がある。

動物としての人間(サピエンス)を超越し、よりハイレベルの存在になるか、
その逆に、動物性に負けて、人間より下のレベルに落ちていくか。

この論議を仏教に備わって入ってきた六道思想(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)で論じてみる。

人間を超越したハイレベルな存在とは、人が「」になること。
天とは、仏教でいう天部すなわち、神道やヒンズー教のような多神教的神のレベル。
実際、日本の神道では、すでに歴史的人物が神になっている(菅原道真、徳川家康)。
天部(神)は、人間の限界を超えたパワーを備え、物事を思い通りにできる。
ただ、神話の神々がそうであるように、自己であることの執着・限界があって、それなりに欲や悩みがあり、他の神と揉めたり、人間が信仰しないと気分を害す(この程度で気分を害するような神は宇宙創造の”絶対神”ではなく、天のレベル)
すなわち、菩薩や如来の域には達していない。

個人的には、人間が一挙に菩薩や如来になるのは無理なので、まずは来世に一歩前進の天部になることを目指して現世を生きればいいのではないかと思っている。
そのためには人間性を向上させる必要があり、私がスピリチュアルに目覚めたのもこの理由。

それに対して、人間性を高めるどころか、もったいないこと(せっかく人間に生まれたの)に逆方向の在り方を進む人がいる。
動物由来の欲を満たすことを人生の目標とした在り方は、畜生の道。
子孫や財産を増やす生き方もこれに該当し、それなりに満足・幸せになれるが、我欲の満足でしかない。
残念ながら、生きる目標がこのレベル(家内安全・商売繁盛)に留まっている人たちが多い。

さらにその欲に支配されひたすら飢えた(欲が満たされない)状態になった在り方は畜生より劣る餓鬼の道で、こちらは飢えに苦しみながら生きる哀れな存在。
最悪なのは、それのために平気で悪事をするような地獄の道。

注意してほしいのは、一見人間的に見えるが、やたらと人を悪意で見て、憎悪/軽蔑する人たち(ネットの世界にも多数棲息)。
本人は正しい道を進んでいるつもりだろうが、これは人間より一段劣る修羅の道。

日本人の多くが、自民党政府に批判的ながらも、野党の支持に向かわないのは、野党の人たちってなんか修羅的だから。
修羅の成れの果ては、かつての連合赤軍やオウム真理教、イスラム国(IS)、北朝鮮の政権。

多くの日本人はもとより真っ当な人間レベルだから修羅に権力を託そうとはしない。
人間ならば愛と信頼がベースになっている。
憎悪と不信がベース(マルクスレーニン主義者の基本メンタルもこれ)の修羅とそこが違っている。


スピリチュアルブームの危険性

2024年02月10日 | パワー・スピリチュアル

私自身のスピリチュアル志向には論理的必然性があるものの、世のスビリチュアルブームには全く関心ないし、危険だとすら思っている(それだったら超能力ブームの方が、超心理学という実証的心理学に準拠するので、まだマシ)。

最もストレートな危惧は、自称”霊能者”に騙されること(詐欺やセクハラの被害を受け、果ては人生を狂わされる)。
なぜなら、システム2が心の最上位レベル(=システム3に達していない)の常人には、霊能者の真偽の区別がつかないため(尤も、大抵の偽者は、システム2の科学的・論理的思考で見破れる)。

私自身のスピリチュアル志向は、人間の心を構成しているシステム2(思考・想像する心)の欠点に達し、その欠点に対処するためで、その結果より超越的なシステム3(瞑想)、そしてシステム4(スピリチュアリティ)の扉を開けた(仏教もこれに対応している)。
すなわち、知性(システム2)が十全に作動していることが前提となっている。

システム2をきちんと鍛えない人は、システム2を超越するどころか、システム2の欠点である神話的思考(想像と現実の混同)の罠に嵌(はま)っていく。
自称霊能者の頭(システム2)が捏造した神話(お話)を、スピリチュアルな世界と思いこまされる。
素朴なシステム2だと”辻褄が合う”だけで納得してしまうから。
実はそれこそがシステム2の限界(欠点)なのだが、本人はそれを超越したと思い込んでしまう(その人の霊的成長は低レベルで停止する)。

スピリチュアリティ(霊性)の世界は、確かに”念”の力が発揮されるが、それはシステム2の単なる頭の中での念(妄想)とは異なるもので(そのレベルでいくら強く念じてもパワーにならない)、心がシステム4に達していない常人ではその違いがわからない。

そういう危険性があるから、「正しい師につけ」(正しくない師につくな)という教えがあるのだが、上述したようにそもそもこのレベルの人は師の正邪を判断する眼を持っていない。

あえて「師を求めるな」と語ったクリシュナムルティは、安易に師を求めることは、自分の願望を投影した”師”に嵌ってしまうことを危惧した。
まさに、麻原彰晃を師(グル)としたオウム真理教の信者たちがそうだった。
※:子供時代に神智学のトップに見出され、やがて自身が神智学協会のトップに立った途端それを解散した。教団という社会集団自体が反・霊的であることを痛感していたのだ。ちなみに、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)も満足する師に出会えず、結局一人で悟りを開いた。その後の釈迦はサンガ(出家集団)を組織したが、そのサンガこそ仏教史上最も”正しい師”の元にあったといえる。

現世レベルでの正邪を見極める眼は、システム2(思考能力)を正しく鍛えることで達成できる。

正しいスピリチュアリティに達するのに抜け道はない(能力差はある)。
システム2をきちんと鍛え(正見=正しく見る努力)、システム3(正定=正しい瞑想による正見の実現)でシステム2の妄想支配から脱し、そしてやっと真正のシステム4の扉を開けられる。

こう言ってもいい。
システム3に達しないと、すなわち通常のシステム2レベルだと、システム4(霊性)とシステム2(妄念)との区別がつかない。
真っ当な霊性に達したいなら、きちんと手順を踏んでシステム3を作動させ、システム2から解放されること。


心理現象としての宗教:システム4

2024年02月03日 | パワー・スピリチュアル

瞑想でシステム3を作動し、自我の束縛から離脱した釈尊自身は、さらに次のシステム4を作動したか。

少なくとも仏教の理論は、釈尊個人の事績を超えてさらに発展し、システム4を射程に入れている。

このシステム4は、私自身のリアルな体験ではなく、その入り口に立っただけの私が、はるかに見渡せる未知の心の風景なので、以下、不確定性を含意して説明する。
※:システム3までは脳波(大脳皮質の活動電位)でその活動状態を特定できるが、システム4は確認されていない。尤も「心の多重過程モデル」は、心を大脳活動に還元するものではない。基底層のシステム0が身体の免疫系・消化器系などを含んでいるように。


自我から離れたシステム3の自極が、自我ではないより超越的な存在と出会う心的空間がシステム4だ。

そして、システム3によって一旦は否定されたシステム2の諸能力、すなわち思考や想像の力が、自我という束縛(我執)を離れることで、新たなパワーをもつ。
それは念の力(心的エネルギー)と言っていい。
その実践法は→サイキック・パワー講座1

この力によって、システム0〜2が対処する知覚可能な物理世界とは異なる次元の世界との交流が可能となる。

システム2における心的パワーは思考や想像として発揮されるだけだが、システム4に至ってリアルなパワーとなる。
釈尊やイエスが、神通力(今でいう超能力的パワー)を発揮したと言われているのも、彼らがシステム4に達した証しかもしれない。
ただし、このパワーを手品師のように人前で披露することがシステム4の目的ではない。
このパワーで利益・名声を上げようと思う欲心(システム2)はすでに超克されている。

システム4に達した人は我執がなく、そのパワーはヒーラーとして他者へのヒーリング(癒し)に使われる(このレベルの超能力的ヒーラーは世界中に存在する)。

心はすでに個体存在(自己)を超えている。
自己を超越してさらに心の階梯を上げることこそが目的となっている。


ところで、心的エネルギーは、エネルギーの一種として、エネルギー保存の法則に従う。
なので、それは他のエネルギーに転換、あるいは他のエネルギーから転換される関係にある。
システム4は心のエネルギー化であり、それをスピリチュアリティ(霊性)ともいう。

霊性の発現によって、システム0(システム4の元のシステム3の元のシステム2の元のシステム1の元)における物質代謝の束縛から離れる(生命エネルギーから心的エネルギーへの転換)。

このエネルギー転換過程を最もわかりやすく表現しているのはインドの仏教ではなく、古代中国の気の理論である。
気功はこの力を使って”気”を出す。
気は本来、宇宙を構成するエネルギー体であり、それが人体にとっては”外気”として存在するが、その一部(酸素、栄養素)を摂取して人体は生命エネルギーを得る。
人体化された気は”内気”として、身体と心を動かす(気は心身一元論的概念)。
その中で、気を”心的エネルギー”化するのが気功で、念の力によって気は体の内外を移動する。


実は気の存在は、科学(物理)的には確認されていない(磁気あるいは温度として間接的に測定されることもある)。
その意味では神話の域を出ていないが、
ただ気功をはじめとして、気の理論に基づく鍼灸・漢方、さらには易などの実効性は認められているので、実効的パワーのある”神話”といえる。
念の力は実在する物理力ではなく、心の力、想像の力であり、物語の力とも言える(システム4段階においては、神話か否かの論議は無意味)。

カロリー(熱量)換算可能な生命エネルギーが心的エネルギー(波動)化することで、物質(粒子)的制約を超越できる。
なので己れを心的エネルギー体にすることで、身体的死の超克が可能となるかもしれない
※:現代スピリチュアリティでは、物質的身体の外側にエーテル体、アストラル体などを想定しているが、実証されたものではない。

そのためには、日常的なシステム2で生きることに終始せず(この世で適応的に生きるにはそれで充分だが)、システム3を作動させて、自己をシステム2(自我)の桎梏から解放し、さらにシステム3からシステム4を創発させることで、自己の心的エネルギー化を推進し、物質的存在としての制約から脱する。


多分その先の状態は心の究極段階としての涅槃(ニルヴァーナ)に相当し、
その段階を”システム5”を呼びたい。

心を構成する多重のサブシステムとして、システム0は生物一般、
システム1は動物レベル、システム2は人間(サピエンス)のレベルである。
ほとんどの人間はこれらの作動だけで一生を終えるが、
人間(サピエンス)にはさらに上のシステムを作動させて心的にハイレベルなる能力があることが、2500年前からわかっている(もちろん釈尊のこと)。

人間は本来的に自己超越できるのだ。
それを既存の仏教的神話で表現すると、
システム3は阿羅漢の境地、システム4は菩薩の境地、
そしてシステム5は仏(如来)の境地といえる。

このような心の多重的発展モデルは、既存の仏教との関係では、心を単層かつ細分的にみるアビダルマ(倶舎論)とは大いに異なり、むしろ空海の「十住心論」に近い。
※:単層モデルでは、欲界に対応した心が自らそれを超克(自己否定)して色界以上に達するという難行を前提とするが、多層(重)モデルでは欲界に対応した心はそのままで、それとは別の心を創発するというもので、自分の心を一切否定しないのが特徴(この点が大乗的)。


以上、宗教的メンタリティを(神話的要素の少ない仏教を題材として)私の「心の多重過程モデル」で足早に説明してきた。
これで説明可能なら、神話的要素に満ちた既存の宗教教義は私には不要となる。
※:例えば仏教は心の高次化モデルとして参考にするが、非科学的な要素もあるため、準拠はしない。仏教以外の宗教の教義は、神話的部分をその本質としているため、参考にもしない。ただしこれら宗教における純粋な宗教的メンタリティは尊重したい。神道の本質は教義ではなくこのメンタリティにある。

機会があれば、より具体的・現実的なメンタリティ(主にシステム2)での問題を扱ってみたい。


仏教における神話:輪廻転生

2024年01月30日 | パワー・スピリチュアル

システム2で構築される物語すなわち、事実でない空想に基づくストーリーが、宗教の構成要素となっている部分が”神話”である。
そしてその神話性が、科学的知性を持った現代人にとっては、宗教のアキレス腱となる。

旧約聖書(創世記)や古事記が典型的神話だが、本来は神話的でない釈尊の仏教にもその要素がある。

これは釈尊が創作したというより、当時のインドで常識となっている神話、すなわち仏教においてもデフォルト(所与)の部分である。
つまり仏教もそれを前提せざるを得なかった神話である。

何かといえば、輪廻転生

釈尊自身の教え(仏説)は、輪廻転生の無限のサイクルから脱することを目標としたものだが、それは論理的に輪廻転生が前提(承認)されている。

例えば、日本で活躍しているテーラワーダ仏教の長老・スマナサーラ師が説く「アビダンマ講義」においても、大乗仏教の数々の神話(例えば阿弥陀如来や釈迦の前世譚)は批判するものの、やはり輪廻転生を前提としている。
※:『ブッダの実践心理学』サンガ新書

しかもただ前世があるというだけでなく、日本仏教でいう六道、地獄とか天界の存在を前提としている。

例えば、人間レベルで真っ当に精進して欲界を脱すれば、来世は梵天(ブラフマン)の世界に転生できると述べている。

それに対し、前記事ごまかさない仏教で紹介した佐々木閑氏と宮崎哲弥氏は、輪廻転生を信じることができないと述べている。
それは現代の科学教育を受けた知性にとっては当然で、ある現象が存在すると主張するなら、主張する側がその現象の存在を立証しなくてはならない。
そしてきちんと立証できないものは、存在すると認められない。
なので、輪廻転生の確たる証拠が提示ない限り、それを信じないのは、現代的知性にとって当然。

本来、こういう再生の繰り返しは、死(無)の恐怖を和らげるための霊魂不滅的な神話化だったはず。
たとえば、「死ねばあの世(死後の世界)に往く」というのが最もシンプルな神話。

ところがインド固有の業(カルマ)の応報と再生レベルの多層化という物語の複雑化によって、輪廻転生自体がとても面倒で苦痛なものになってしまった。
そこで仏教では、現生の苦(生老病死)のより根源的な輪廻転生の苦(生老病死の無限サイクル)から脱する方向を志向した。

目指すそれは「無為」の「滅尽定」の世界、すなわち「涅槃寂静」の世界である。
どんな世界かというと、光も時間経過もない世界、すなわち「永遠の暗黒」という無の世界だ。

待てよ、それって、唯物論的科学思想が想定する死の世界ではないか。
我々はその永遠の暗黒を恐れたはずなのに、仏教ではそれが目指すべき境地になっていた。

という事は、輪廻転生を信じず、死とは永遠の暗黒に帰する事という現代人の死生観は、そのまま涅槃寂静への道を進むことになる。
すなわち輪廻転生を信じない我々現代人にとっては仏教は不必要となる。

これでいいのだろうか。

実は、スマナサーラ師によれば、輪廻は死後の世界の現象ではなく、現世で既に発生している、すなわち我々はすでに現生で死と再生を繰り返しているという(刹那滅)。

ただし、多くの人はすでに輪廻転生を信じていないだろうから、この神話を批判する作業は省略する。
続く。


2024年を易で占う

2023年12月22日 | パワー・スピリチュアル

毎年冬至の日に、易で翌年の占筮(せんぜい)をする。
占う対象は、自分を含む漠然とした”世間”。

2023年の冬至の今日は、今年最後の担当授業と会議を終えて帰京したので、夕食後、東京宅で「冬至の占筮」をした。

筮竹をさばいて中筮法で爻(陰陽の確定)を6度出した結果、得た卦(か)は「火水未済」だが、初爻と上爻が変爻だったので、それが「雷沢帰妹」の卦に変わると出た。
前者の「未済」は未完成の意で、「成らぬ」というより「まだ成らぬ」卦。
後者の「帰妹」は「そうしない方がよい」という、再選択を求める卦。

前者を来年の前半、後者を後半とみなすと、前半は混沌として動き出すには早い状態で、後半は動こうとした方向には実は進まない方がよい(政策ミス?)、という、いずれも慎重運を示したもの。

ちなみに、昨年の年筮で出た今年の卦は、前半が「山沢損」、後半が「離為火」と出たので、前半は停滞するが、後半は上向く卦だった。
それに対し来年は、今年後半の上昇機運から再び混沌に陥り、しかも選んだ方向が誤るという、年間を通して未達成となる良くない卦だ。
ここ数年、年筮を続けているが、一向に確固とした良運にならない。


霊の音声探知機を購入

2023年06月23日 | パワー・スピリチュアル

「ばけたん」という信頼性のある霊の探知機を長年(初代ばけたん以来全てのバージョンを)愛用しているが、客観的に探知するには、1機種だけに頼らず多重性が必要。

そこで、海外で定評のある外国製の Sprit Box(P-Sb7T)なる霊の音声探知機を購入した。
かように、私こと”計測マン”はスピリチュアルの領域にも進出している。

この装置はラジオ波(AM,FM)を走査するもので、原理はラジオそのものだが、ラジオ視聴より周波数走査を優先しているのが特徴。
走査帯域と速度(精度)を変更することで、探索的に霊の声を拾おうというもの。

この装置の仮説は、霊はラジオ周波数帯域(AM:520-1710kHz,FM:87.5-108MHz)で音声を発するということ。
ちなみに生身の人間の声は、大まかに100-3000 Hz程度だ。
霊の声がなんでラジオ周波数帯域なのか私は知らないが、霊の姿を可視領域よりも高周波帯域を測定する電磁波計で捕捉しようとしているのと対応しているのか。

ネットなどでは、この装置を夜の墓場などで使用したりしているが、”夜の墓場”に霊がいると思うのは、霊が見えない人の恐怖心を根拠とした主観的思い込み(墓場にいるのは魂ではなく肉体の残骸の魄)。

そもそも霊は怖くはい。
実際の霊視認者(霊が視覚像として明確に見える人)によると、地上に残っている霊は、人恋しいのだから、昼間、人が大勢集まる所にこそいるという(霊はドラキュラではないので、太陽光下でも平気)。


手相は統計学ではない

2023年06月14日 | パワー・スピリチュアル

「手相は統計学である」という嘘を、いまだに言う人がいて呆れる。

その人は「統計学」がなんたるかを知らない。
知らない概念を使って断定しているのであるから、その命題は意味不明な妄言でしかない。

統計学とは、データを集計する応用数学である。

データを集計する基本は、データ数とのその合計である。
この計算結果に準拠しないものは統計学ではない。

特定の手相の人が、どういう状態(知性・寿命など)だったかという、2つの変数間の相関性を判断するには、データをとった人たちから、ある状態だった人は幾人、そうでない人は幾人という集計結果を明らかにする必要がある。
そして、それらのデータによって、2変数間の関連性の強さの指標である「相関係数」が算出される(上の場合、正確にはクロス表分析による連関係数の算出だが、ここでは2変数間の相関性を説明したいので、より一般的な相関係数に置き換える)
それによって特定の手相たとえば生命線の長さと寿命の長さとの相関関係が強いか弱いか、0(無相関)とみなして良いかまで判断できる。
これが統計学。

こういうことを一切しないどころか、幾人のデータを元にしているか、それに該当すのは幾人かの%すら示さないのは、小中学生レベルの集計ですらない。

なので手相は統計学ではないと断言する。
それでも統計学と強弁するなら、統計学の数学的根拠は確率論であるから、手相は確率現象ということになり、決して”断定”できない(手相が真にデータに基づいているなら、あなたが○○である確率は65%というように確率表現ができる)

いやしくも「〜学」というなら、その学の要件を満たさなくてはならない。
それが知性ある人間が構成する世界の常識というものだ。

それに対し、易(えき)占いは、データに基づいて帰納的に構成されたものではなく、陰陽理論に基づく演繹的論定であるから、原理的に統計学ではない。

一方手相は、陰陽理論に基づくものでもない
なら手相の論拠はいったいどこ(那辺)にあるのか。
※:易は運気の絶え間ない変動を重視する運命論、手相は誕生時にすでに決まっているという宿命論という違いもある。


高尾山で滝行

2023年05月06日 | パワー・スピリチュアル

先週の土曜は、奥多摩の御岳山にある御嶽神社で式年祭に参列し(→記事)、一週間後の今日は、高尾山の琵琶滝で滝行(高尾山の薬王院では”水行”(すいぎょう)という)に参加した。

滝行は、2009年のGWに、御岳山で神道式の行を経験したが(→記事)、今回は真言宗式。
もっとも滝行のルーツは修験道なので、御岳山も高尾山も根っこは同じ。

高尾山での水行の場は、琵琶滝と蛇滝、それにケーブル駅前の清滝の3箇所あるが、着替えなどの設備が整っているのは前の2つで、しかもそれぞれ毎月二回水行指導の日がある。

今年3月の高尾山行きで、蛇滝と琵琶滝の行場をチェックし(→)、アプローチのしやすさから琵琶滝での5月6日の水行指導を電話予約しておいた。

いつもは使わない目覚ましで目覚め、いちおう登山の格好(タオルと替え下着を追加)で出発。

琵琶滝の行場に着いて(写真:建物は不動堂)、行者だけが入れる右側(写真外)にある建物に入る。
そこで受付を済ませ、指導料3000円を払い、行衣を借りる。
私と同じく指導を受ける人たちが次々やってきて、20名以上になった。
年齢は10代の若者から私より年上らしき人まで幅広いが、それらの中間の中年が多い。
女性は5名ほど。

まずは服の上に借りた行衣を羽織って、館内で待機。
行衣姿の若い僧侶が来て、彼の説明を聞く。

まずは水行を含む”修行”の意味について。
御岳山では滝行はパワー(験力、神通力)をつける的なニュアンスだったが、真言宗のこちらでは、そういう志向性を否定し、水行のような山中の修行は、非日常性に身を置く経験によって、日常の有り難さ(感謝の心)を認識するためだという。
修行の目的は、苦るしむことではなく、心の在り方の(実感を伴った)変質にあるというわけだ。
仏教では、神通力のようなパワーは方便に過ぎず、それを目的とすることは低レベルの状態に満足する事であり、目指すべきなのは”悟り”という心の在り方の進化にある。

そして修行によって得られる”ご利益”というのは、個人的欲望を満たすことではなく(それは方便)、感謝を新たに感じる事で幸福感が増す事だという。
実際、汗水垂らして山に登って痛感するのは、冷房の効いた部屋でアイスを食べる日常生活のありがたさだ。

修行は身体を痛めつけること・苦しむことが目的でないという言葉を僧侶から聞けて安心した。

さていよいよその行が始まる。
まず塩で口を清め、滝手前の不動堂で、僧侶の読経の中、行衣姿のわれわれが「南無大聖不動明王」という名号を皆で唱える(珍しそうに眺めている登山客の視線を感じながら)。

ここから行者以外立入禁止の行場に入り、下着と行衣だけに着替えて、まず行場のゴミを払い、指導僧の指導の元、バケツに入った塩を両手でつかんで、全身を清め(最後は地面の塩を足で踏んで足の裏も清める)、一人ずつ順次、名号を唱えながらバケツで水をかぶってから、滝の下に進む。

滝の前で、指導されるままに、不動明王たる滝に向って名号を三唱し、滝つぼの石の座に右手をかけて名号を唱え、滝の真下の石の座に座ると、頭から落水を浴びて、いっきに体が冷たくなる。
ここでも指導僧の読経と名号に合わせて、名号を唱えるのだが、水の冷たさと滝の水圧に負けそうになる。
そんな中、あえて両手で脚や胴に滝の霊(冷)水を行き渡らせる。
寒さと水の力に負けまいと、大声で名号を唱えるために、
自分の力を内側から絞り出す。

自分の内に備えている力、それこそが自分自身の真正なパワーである。
その内なるパワーを”仏性”というなら、
滝に打たれてなお力強く名号を唱える瞬間、”即身成仏”を実現しているといえまいか。
これが水行(滝行)の意義だと実感した。
水行は単なる苦行ではなかった。

滝に向って今一度名号を三唱し、指導僧に一礼して、水行を終える。
一部記述を省略したが、おおむね以上のような流れ。

乾いた服に着替え、濡れた行衣は洗濯機で脱水し、元の場所に戻す。

待合室には、自前の行衣、袋入りの塩と一合酒の瓶を持参している人がいた。
尋ねると、今から一人で水行をするという。
水行の作法は先達から教わったという。

薬王院では指導を受けないと、個人での水行は受付ない。
ならば、今回指導を受けた私は、今後は一人で水行してもいいのか。
でも一回の経験では所作は覚えきれない。

指導僧が戻ってきたので、これについて尋ねると、今回の指導は団体用なので、個人で水行をする場合は別の指導をするという。
自立して行をするには3回ほどの指導が必要らしい。

10時半から説明が始まって、11時から水行が始まり、すべて終ったのが13時半頃(参加者数によって時間が異なる)。
なので高尾山に登るのはやめにした(水浴びした後は汗をかきたくないし)。
今日の水行に満足して下山する。

以前紹介した加門七海氏の本(→記事)の中で、修験本宗宗務総長が言うには、山で修行したまま下界(俗世間)に戻ると、”聖なるケガレ”を持ち帰ることになるので、「精進落し」をすべきということだ。
それに従って、高尾山口駅の売店で、缶ビールとつまみを買って、水辺の公園のベンチに腰掛けて精進落しをした。


(浮遊)霊の宗教的根拠

2023年02月10日 | パワー・スピリチュアル

”霊”という概念は、肉体的生命に対立する存在、という基本はあるものの、例えば現代スピリチュアリティ(霊性)論と日本の通俗的霊概念とではかなり隔たりがある。
このため、霊を学術的に扱う場合、概念定義を明確にする必要がある。
私は本来は霊性(スピリチュアリティ)の問題として接近したいのだが、当面対象とするのは「霊が視える」という現象なので、こちらの通俗的霊概念についてまずは整理しておく。

「霊が見える」という場合の見える対象の霊は、死霊でも生き霊でも、いずれも元の生体から遊離した”浮遊霊”を意味する(本体から浮遊している意味のため、地縛霊も含まれる)。
見えた対象としての”幽霊”は、死霊の浮遊霊に他ならない。

そもそも人は死ぬと上の意味での霊(浮遊霊)になるという考えはどこから来ているのか。
実は、既存のメジャーな宗教は上の意味での”霊”を否定している。
メジャーな宗教は、現世以外の別世界(他界)を想定していて、人は死ぬとこの世から離れてその他界に行くものとみなしている。
宗教としては素朴な神道でさえ、死者は”黄泉(よみ)の国”に行くし、民俗信仰レベルでは”山”が他界だった。→山は異界である
キリスト教では、審判の後、天国か地獄のどちらかに行き先が決まる。
仏教(本来は自我さえ否定するので死後の霊などありえないのだが)では、宗教(=物語)化された教理としては、人は六道という(人間界を含む)6種類の世界※への輪廻転生をしていて、仏道修行によってその輪廻の苦しみから抜け出られる(成仏)という。
※:天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄
これが通俗化されると、キリスト教と類似して、閻魔大王(道教の十王と習合)の裁きによって大抵は(誰でも何がしか悪いことをしたことがあるから)地獄行きとなるのだが、一部、阿弥陀如来の誓願によって、悪人ですら極楽往生が約束されているとみなす宗派(浄土真宗)もある。
※:極楽は天国ではなく、快適な環境で仏道修行ができる天界の1つ

要するに、宗教では本来は、人は死ぬと”他界”に行くと理論づけられているので、浮遊霊を認める余地がない。

もっとも、身の回りの現実の宗教・宗派では、この後示す霊を認める思想と習合するのだが、浄土真宗だけは今でもキッパリと浮遊霊の存在を認めない(なので浄土真宗の葬儀では「御霊前」は使わない)。

では、浮遊霊を思想的に認める宗教を紹介する。
儒教だ。
ここでいう儒教は、孔子を開祖として人倫思想的に発展したいわゆる儒学ではなく、孔子の生家が営んでいた当時の葬儀にまつわる民間信仰的な宗教(=儒)をさす(孔子自身はこの話題を意識的に避けて語ろうとしなかった)
この宗教は、日本の神道を含む東北アジアに共通する宗教メンタリティを持っているため、南アジア由来の仏教よりも、日本人に素直に受容された(仏教は儒教化されて受容された)。
ただし、仏教などに比べると、あの世に対する想像力が貧弱で、その後の儒学と同様、子孫の儀式という現世ばかりに目がいっているため(生き方の指針のための儒学ならそれでいいとしても)、死後の問題については浅さを禁じ得ない。
だが、その浅さゆえに、深遠な宗教思想よりは、庶民には理解しやすかったのも事実。
ではその霊思想を示そう。

生きている人間は、(こん)(はく)とから成り、魂・魄が一体となっているのが生きている状態である。
そして死とは、魂・魄が分離することであり、魄は遺体として残り(朽ち果て)、魂は魄(肉体)から離れて浮遊する。
浮遊して天に行きたいのだが(天の内実についての言及がない)、天に届かず、浮遊したままの魂もある。
その魂に対応する魄の名残があれば、再び合体して再生できるので、遺族は魄としての依代(位牌)を保管しておく(位牌・祖先崇拝は仏教ではなく儒教の風習)。
そして依代がなく、浮遊したまま行き場を失った魂を”(き)”という。

この鬼こそが、(浮遊)霊に相当する。
ただし鬼は日本ではご存知の通り、特定の形態をもった下等霊(妖怪)に限定され、形態のない状態は霊(御霊:ごりょう)と表現する。

御霊は、菅原道真のそれが有名なように、生前の怨念などがエネルギーとなって、落雷や疫病など人間業(わざ)を超えたパワーを発揮するとされる。
パワーを備えた形態のない存在は日本でいえば”神”に相当する。
なので神道では御霊を神として持ち上げ、その怒りを鎮める儀式が必要となった。
※菅原道真は天神様として祀られ、今では学問神(善神)となっている。平将門も怨霊ではなく神となって神田明神に祀られている。

また仏教においても霊を位置づけせざるを得なくなり、たとえば死から審判(結審)までの49日間は、霊(死後の仏になる前の状態)の行き先が決まらずに浮遊するとか、あるいは横死など葬儀・供養されなかった場合は、あの世に行けずに霊として浮遊するという考えも広まった。
そして仏教の法力によって、これらの霊を”成仏”させる(正しくは霊が本来行くべきの六道のいずれかに導く)という論理が成立する。
※:この安直な解決法が、死者=ホトケという仏教の論理に反する図式を蔓延させてしまう。

かように、浮遊霊の概念は儒教の”鬼”概念に由来するといえる。

ただ逆に言えば、なぜ”死者は(必ず)あの世に行く”という真っ当な宗教思想がほころんでしまったのか。
これは西洋においても同様で、キリスト教でも本来は幽霊(ゴースト)は存在しえないのだが、幽霊という概念がキリスト教徒の間にも存在している。
日本と違って、儒教の影響とは言えない。

高度に理論化された宗教の合間を縫って、その論理に反してでも湧き出てしまう幽霊。
その強固な基盤は、頭で考えられただけの”他界”とは違って、一部の人には確実に、否定しがたく”霊”が見えたからではないか。
というのも、霊視者はもともと浮遊霊の存在を信じていたわけではなく、外界に見えるから信じざるを得なくなったからである(逆に浮遊霊の存在を信じれば誰でも霊が視える、とはならない)。
ただ、浮遊霊の概念を理論化し、広めたのは、少数の霊視者ではなく、霊は見えないけど信じた人たち(流言の拡散と同じ社会心理メカニズム。人は物語を好む)。

ということもあって、私にとっても霊を頭で考える観念としてよりも、リアルな知覚対象としてまずはとらえてみようと思うわけである。

参考文献:加地伸行『沈黙の宗教−儒教』筑摩書房


「霊が見える」という心理現象の探求

2023年01月21日 | パワー・スピリチュアル

今年からの研究テーマとして「霊が見える」という心理現象を真面目に扱うことにする。

本当に「霊が見える」という人が少数ながら一定数いて、本人自身がその経験を扱いあぐねているようだ。
そして、そう言明することで周囲から変な目で見られてしまうため、秘匿していることが多い(幾人かはその経験を本にしている)。

私自身は、見えるとされる”霊”が客観的に実在するとは思っていない(思えない)。

ただし「霊が見える」という知覚経験(以下、霊視)を心理現象として存在することを認めることで、少なくとも心理学の研究対象としたい。

このように霊視現象を、素朴に”霊が外的に実在する”とは認めずに、まずは心理現象すなわち主観的経験として認め、その次元で霊視経験を批判的に精査することで、霊が外的に実在するか否かの判断に導きたい。

このような態度で心理現象として扱うには次のチェックを要する。

①虚言でないこと
この第一関門で、日常的に出回っている”霊視”言明の多くは脱落するかもしれない。ここをチェックするには、言明者の人格特性の確認が必要であるため、きちんとした面談が必要(それを経ない報告だけの情報は採用しない)。特に顕示性性格者が本人も信じてつく虚言癖※のチェックが必須(こういう人は霊視以外でも日常的にホラを吹く)。
※:霊が見えるお笑い芸人・シークエンスはやともによると、テレビに出る(自称)霊能者にも実は”見えていない”人がいるらしい。それは見える人からみれば分かるという(『ヤバい生き霊』より)。

②錯視(錯覚)ではないか
霊視を(検討もせずに)錯視と断じている科学者がいて、確かに瞬間的な”霊視”経験は錯視であることが多いが、その場合は一部の人ではなく、多くの人がそう反応するはず。さらによく見れば本人でも錯視と分かるもので(幽霊の正体見たり枯れ尾花)、実は本人でチェック済みが多い。ただし視覚上(網膜像)のトラブルの可能性があるので、視野のチェックは必要。

③幻視(幻覚)ではないか
視覚現象は最終的には脳の現象なので、網膜上に映らない映像も”見る”ことは可能(夢がその実例)。ただ覚醒中の幻視は錯視のように誰でも経験するものではなく、また一時的で再現性がない(錯視は恒常的)。
まずは、脳(視覚中枢)の機能障害の有無を確認する(専門的な検査ではなく、中枢性の視覚障害があるかの確認でよい)。
また幻覚症状を呈する精神病理(統合失調症、アルコール・薬物依存など)の有無もチェックする。

以上の虚言、錯視、幻視の可能性を徹底的にチェックし、これらで説明できるものは(””なしの)霊視現象とは認めない。

そしてこれらの関門をクリアして、霊視現象と認められた事例は、その内容を詳細にデータ(変数)化し、他の心理現象と同じく客観的な分析対象とする。
分析結果の考察(解釈)については、霊を実在視する既存の神話(宗教)的な解釈図式は採用せず、データのみを根拠としてボトムアップ的に理論化を試みる。

以上を今年から実行するつもり。
というのも、大学教員をやっていると、霊視者は意外に身近にいるから(統計分析に堪える人数には達しないが)。
来年度中に執筆するので、論文として公開されるのは、早くて2024年3月となる。


付知峡の宮島源平古戦場跡を訪れる

2023年01月16日 | パワー・スピリチュアル

中津川に滞在するので、ここはひとつ付知(つけち)峡まで足を伸ばし、その入り口にある”宮島源平古戦場跡”を訪れることにする。

宮島源平古戦場跡とは、平安末の源平合戦跡の1つではなく、戦国時代になって、平氏の末裔の三木氏の軍が、源氏・木曽義仲の末裔義元を襲ったという平安末以来の因縁に基づく戦国合戦。
その跡地には、木曽氏側の義元をはじめとする戦死者を祀った宮島神社がある。

私が訪れる理由は、古戦場巡りではなく、この古戦場が、対岸のキャンプ場でキャンプをしていた小学生が生まれて最初に霊を視た場所だったから。

その小学生は今は成人しており、本人から上の話を聞いたばかりで、たまたま私が中津川にいるので、訪れようと思ったわけだ。

もっとも私自身は霊は視えないので、霊視が目的ではなく、そういう因縁のある場所の計測と必要なら浄化が目的。

GoogleMapを頼りに車で宮島神社を目指し、行きついた所は付知峡キャンプ場。
神社への道は今は閉鎖中のキャンプ場入り口にあるが、道が破壊されていてとても登れない。
その登り口に、石が置いてあって”塚”と見えるものが3つ並んであり、そこから少し離れた1つには日本酒が奉納してある(写真)。
なのでまずはこれらの塚に対して合掌して光明真言を唱え、その後”ばけたん”で探知すると、青緑に光った。

他に神社に行く道を探して歩きまわると、神社のある丸山の北側からかすかな踏み跡を発見。
そちらから登ると、案の定、山頂の神社に達した。

小さな社殿の脇には「南無阿弥陀仏」と掘られた真新しい石塔があり、地元の家の墓標のようだ(掘られている家紋は清和源氏の「笹リンドウ」ではない)
この石塔には念仏を、戦死者を祀る神社に対しては神式に参拝して光明真言を唱えて、ばけたんで探知すると、緑色に光った。
緑色は「何もない」、青緑は「良い霊の出現に期待」という結果。
きちんと祀れらていることでも納得できるように、少なくとも付近に悪い霊はいないようで、あえて浄化するまでもない(もっとも私にたいした浄化パワーはないが)。

神社のある丸山周囲の平地には、同様な塚があちこちあり、集落の周囲にある墓と区別がつかない感じ。

このように、これからは”霊”に関係する記事が増えていくと思う。


寺社で”礼拝”してます?

2023年01月07日 | パワー・スピリチュアル

多くの人が初詣に寺社に行くが、果たしてそのうち何割の人が礼拝しているか。
多くの人は、礼拝ではなく、祈願をしているのではないか。

祈願とは、神仏に対して、何らかの願い事の実現を祈ること。
絵馬や護摩木に書かれる内容であり、おみくじに書かれていることである。
実際、多くの寺社は”ご利益”を謳って参詣者を呼び込んでいるので、ご利益の祈願目当てに詣でるのも致し方ない。

ところが私は、寺社に足を運んだ時はもっぱら礼拝だけをし、よほどの事でない限り祈願はしない(ブログで寺社を訪問した時は全て礼拝)。

礼拝とは、神仏を礼の心で拝すること。
すなわち、神仏に対する敬の想念を心に満たし、それを所作(合掌)として表現すること。
※:礼とは、敬の想いを形に表すこと(礼記)
なのでその瞬間は、想い(情)に満ちて思考は停止し、意識はほぼ無心になっている(ここが言語を要する祈願と異なる)。

礼拝することで、御神体や御本尊に対して敬の念(エネルギー)が放射される(という)。
このような参詣者たちの礼拝(エネルギー放射)によって、御神体や御本尊はさらにパワーが増す(という)。
そのようにしてパワーを高めた結果、人々の祈願を受け入れることが可能となる(という)
※こういう論理は、永久保貴一画・秋月慈童語り『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』第4巻にも載っている。

祈願だけの人は、自分の少ない賽銭だけで、神仏のパワーを過分にもらおうとする。
しかも祈願の内容は自己利益(欲の充足)そのものだったりする
※:ご利益が有名で参詣者が全国レベルで多い神社が、ばけたんで霊を探知すると”何もいない”と出たりする。祈願者のエゴの念が境内に充満しているためだろう。そもそも安易な欲の充足を謳うことは人の心を正しい方向に導かず、宗教としては悪手である。一方、山中の素朴な祠は、少人数ながらも純粋な礼拝対象のため霊は捕捉される。

私が礼拝だけをするのは、こういう場ではまずは礼拝(敬の念の放射)をすべきものだから。
祈願を滅多にしないのは、たいていの願い事は、人間の努力で達成すべき(できる)ものだから。
特に自己の利益に関する事は自分で何とかする(たとえば”健康”は生活習慣と医療によって祈らずとも実現している)。
唯一、姪の大手術の時は、自分は手術に関与できないため、護摩木に書いて成功を祈願した(手術は大成功)。

かように祈願で期待するパワーはそれまでの礼拝の念の集積が前提とされる。
なので、まずは(祈ることがなくても)礼拝しよう。


2023年を易で占う

2022年12月31日 | パワー・スピリチュアル

易では冬至の日に翌年を占う(年筮)ので、私も毎年そうしているが、今年の冬至の日を失念してしまったので、大晦日の今日、年筮をやってみた。

ちなみに、昨年の年筮では、今年は「天水訟」と出たので、争いが起きると読んだ。
果たして2月にロシアのウクライナ侵略が発生したが、「訟」は戦争というより言い争いレベル。
もっとも我々日本人にとっては、戦争の当事者でないので、対岸の火事的ということか。

さて、来年の卦は「山沢損」と出たが、2・3・4爻が変爻なので「離為火」に変わる。
よって、来年の前半は「損」、後半は「離」とみなす。
損は、まさに損(目減り)することで、物価高(値上げ)や増税に見舞われるようだ。
だが後半になると、正しい選択(特に相手)をすれば運気が上昇して、活性化できそう。
前半は自重し、後半は上昇気流に乗るといい。

皆さんにとっても、来年は良い一年でありますように。


将門塚のパワー再計測

2022年12月12日 | パワー・スピリチュアル

東京千代田区大手町にある将門(まさかど)の(首)塚は、以前(2012年)地磁気を測ったら、塚に近づくにつれて磁気の値が減少したと報告した(→記事)。
その後、塚が再整備され、計りやすくなったようなので、また当時は結構ビビっていて、正しく計測できなかったので、再計測に行った。

三井のビルに囲まれたそこは、以前よりも広々と整備され、また塚の前に「南無阿弥陀仏」という石碑が建っている(写真:南東下図③方向から)
平日の午前中というのに、参拝者が引も切らない。

早速、地磁気を測ろうとテスラメータのスイッチを入れたら、値が変動して落ち着かない。
近くの交差点に戻って、そこで計測しても変動するので、計測モードを交流にしてみたら0.9μTほどの強さで振動している。
普通屋外では(交流電気に伴う)交流磁気は計測されないが、周囲がビル街なので交流電気が強いようだ。
この地域のバックグラウンドとしての直流磁気としても50±3μT(以下、同単位)と高め。

さて再び、塚に赴き、まず敷地内のバックグラウンドとして、塚から西に離れた⑧(下図)は52。

次に石碑背後の石塔(埋まっているものの真上)周囲(石段の下の砂利に立って)を測定する(右図の①〜⑦。②と⑥の間にあるのが塚の上の石塔)。
整備前の前回は正面(⑧→④からの⑦-①面)以外の周囲には足を入れられなかった。
地磁気の計測は磁北極にセンサーを向けて(図の③→⑦方向)、緯度に等しい俯角に向ける必要がある。
なので周囲といっても、計測方向と塚中心部の位置が合うのは③のみで、⑤〜⑦は塚と反対側(図の上方向)にセンサーを向けなくてはならない。
各ポイントの計測結果を以下に示す。
①37,②35,③31、④31、⑤41、⑥45、⑦46

まず塚の周囲全体が、バックグラウンドたる⑧より低く、さらに塚の中心部にセンサーをむけている③とそれに近い④の値が最も低くなった。
やはり今回も、塚は異常に磁気が低いことが確認された(塚の外側でこれほど磁気が低いということは、塚の内部にあるのは強力な反磁性体か)。

次に霊気を測ろうと、首に下げた「ばけたん霊石」のスイッチを入れたが、つかない。
今朝はちゃんと室内の良い霊気を検知していたのに。

実は以前にも、ばけたんは強い霊気の場で反応がおかしくなったことがある→記事
ここの霊気が強すぎたのかもしれない。

霊気はともかく、物理的計測である磁気は異常値を示したのだから、改めてここをパワースポットと認定する(「パワースポット認定士」を自認する私としては、計測的根拠のない所はパワースポットと認めない)

将門塚を訪れた後は、将門を神と祀る神田明神に行って、将門の霊を敬したい。
神田明神は、あいにく境内の清掃中で落ち着かなかったが、社殿と大黒天像南側(写真:灯籠の左側)が31と低かった。
境内のバックグラウンドは42(この値は東京宅と同じでこちらが東京の標準値といえそう。将門塚周囲は値が高すぎる)。
ただ社殿のような建築物はあちこちに金属が使われているので、それらに近寄ると磁気値に変動を示すことが普通にある。
大黒天像(石像)は、将門塚に来ていた人から教えられたスポットで、見た目は心が動かされなかったが、測ってみると確かに異常値を示した(石像からは1m以上離れての計測)。