今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

月間最低気温が高い?

2023年04月30日 | お天気

東京と愛知でそれぞれ気象観測をしていて、10分ごとのデータは自動保存されるが、毎月の極値(最高、最低値)は確認のためあえてエクセルに入力している。

それによると両地とも、今年の3月と4月の月最低気温が例年の同月に比べてずいぶん高かった(特に3月)。
1月・2月は例年並みだったが、昨年11月も例年に比べてずいぶん高かった。
逆に例年に比べてずいぶん低いという月はない。

この結果を私的観測に留めず地球の現象とみなすと、

最低気温が高くなることは、人間が実感しにくい(人間は最高気温に敏感)ながらも温暖化の影響がじわじわ出てくる。
冷蔵庫内の温度が高くなるようなもので、冷凍室の氷が解凍するように、地球上の万年氷が解凍を進める(実際、グリーンランドや各地の氷河でそのような報告がされている)。

私は地球規模の温暖化は、人類(いや生物界全体)にとって必ずしもマイナスとは思っていないが(寒冷化の方がはるかに怖い)、高い山岳から氷河が消えるのは寂しい。
※:極地と熱帯とではどちらが生物の生存に優しいか、生物の種類と数の分布を見れば答えは明確。地球はかつて全球凍結を経験した。


大口真神式年祭に参列

2023年04月29日 | 東京周辺

武州御岳山(920m)の頂上にある御嶽神社(東京都青梅市)は、狼を「大口真神(おおくちまがみ)という御神体として祀り、その信仰圏は関東一円に広がっている(写真:右の樹木のある山が御嶽神社のある御岳山。左の鋭峰が奥の院。2006年日の出山より撮影)。
※:御嶽神社そのものの公式な祭神は記紀神話系だが、本殿奥の最奥に大口真神社がある。

昨年6月にここを訪れた折り、今年の4月15日から5月21日まで「大口真神式年祭」が開催されると知り、楽しみにしていた。→記事

その神社で販売していた書籍『オオカミの護符』(小倉美恵子)、『オオカミは大神』(青柳健二)を買って読み、御嶽神社と秩父の三峯神社を2大中心として関東山地周辺に広がる狼(ニホンオオカミ)信仰への興味に火がついたから。

もっとも、元は高校生の時、西多摩にある全寮制の高校近くの畑に立っていた黒い狼が描かれた大口真神のお札を見た時が興味の始まりだった。

御岳山は都内では高尾山と並ぶ山岳信仰の聖地で、高尾山がそうであるように、御岳山も修験道の影響を受けてはいるが(昨年の記事はこちらの視点)、この狼信仰は修験道とは別個のオリジナルな信仰である点で注目に値する。
山岳信仰において非修験要素が強いのは珍しく、そういうわけで、この時期(GW)に限って大口真神像を拝観できる式年祭に、是非参列したくなったわけだ。

 今年の長いGWも天気がいいのは4月30日くらいしかないようなので、名古屋から帰った翌30日に早速、早起きして御岳山に行くことにした。

昨年同様8時頃に家を出て、新宿・青梅で乗り換えてJR御嶽駅に着く。
そこからバスとケーブルカーを乗り継いで、山上の歩道で御師(おし)の家々の軒先を通り、最後に長い石段を上ると(階段でない女坂があるのを失念)、御嶽神社に11時開始の部に間に合うタイミングで到着。

参列料2000円を払って、式年祭のお札(参加証代わり)と宝物殿の拝観券をもらう。
社殿隣の信徒待合室に行くと、参加者は私を含めての4人(参列希望者が行列を作っていたらどうしようという心配は杞憂だった)。
案内に従い、建物内の地下をくぐって、拝殿内に座る。

神官が二人出てきて、太鼓が強く打たれ、また我々参列者が頭を下げ(揖という姿勢)、神官の修祓を受ける。
そして拝殿奥の本殿に向かって神官が「おー」と狼の遠吠えのような発声の警蹕(けいひつ)とともに、階段を作法通り(一段ずつ両足になって)上って本殿の扉が開かれる(その間、参列者は揖の姿勢のまま)。
※:小倉美恵子氏の表現

神官と共に参列者も二拝二拍手一拝の拝礼をし、その後拝殿内を進んで、その先端で階段の上にある扉が開かれた本殿を仰ぎ見る。
そこには3体の「おいぬ様」(オオカミ像)がそれぞれ作りも色も異なって並んでいる。
普段は固く閉じられている扉内の、この大口真神像を拝観することが参列した目的。
その場で賽銭を投じて、改めて大口真神像に直接拝礼をする。

拝殿の席に戻り、ついで「おー」という警蹕とともに扉が閉められ、太鼓がなって、最後は神官のお言葉で終わる(締めて25分)。
こういう儀式に参列することにこそ意味がある。
とりわけ神道では、神とのコンタクトが宗教経験としての全てで、それだけで心が浄化される(教義などの理屈は不要)。

終了後は、本殿奥の大口真神社(写真は、狛犬の代わりの狼の石像)、さらに御岳山信仰の本体といえる奥の院(男具那峰1073m)を遥拝し、宝物殿を見て、参道沿いの店で名物の蕎麦を食べた。

下りはケーブルを使わず、舗装されたつづら折の坂道を降りた。
この下りで、前回は慣れない靴のため足を痛めたが、靴が足に馴染んだ今回はスタスタ降りれた。
御嶽駅前で名物の刺身こんにゃくと地元産の山葵を買って、今晩の肴にする(こんにゃくをわさび醤油につけて食べる)。


心当たりのない定期引き落とし

2023年04月24日 | 失敗・災難

いくつかあるうちの、あるクレジットカードの明細を見ると、 NTTコミュニケーションズから毎月400円ほど引き落とされているのだが、いくつかある電話関係の代金の1つと軽く思ってそのままにしておいた(大した金額でもないし)。

このカードをやめようと思ったので、定期引き落とし先を他のカードに変更するため、 NTTコミュニケーションズのサイトを開いたのだが、そこからは手続きに進めなかったため、
まずはdocomo携帯関係かと思い、近所のドコモショップに行って手続きを依頼したら、これはdocomo関係でないことがわかった。
ということは名古屋宅の固定電話しか思い当たらない。

そのショップでNTTコミュニケーションズの連絡先を教えてもらったので、そこに電話して、用件(固定電話料金の引き落とし先の変更)を話すと、別の電話番号を教えられた。
その際、音声案内による選択でなく、オペレータに話すことを勧められた。

そこに電話して、ボタン操作でオペレータにつながって、名古屋宅の固定電話での引き落とし先の変更を依頼すると、名古屋宅の電話料金は別のカードで引き落とされているという(実は自分側で確認できる内容)。

すると残りの可能性は、東京宅の電話しかないが、東京宅の電話は昔からのもので私が支払っていないない。

最後の可能性として、現在地に引っ越す前の旧宅の住所を告げると、そこの住所での契約だという。

それでわかったことは、 私が旧宅の固定電話とは別に(そこの契約者は私でない)、 たぶん自分用のネットでのアドレスを取得するときにそのアドレスの使用料を契約したらしい。
そのアドレスは当初から全く使っていないのだが、それがずっと引き落とされていたのだ。
おそらく少なくとも10年間はそのままだっただろう。
1年で5000円だから総額50000円。
それが無駄な支払いの合計額。
この事実がわかって、オペレータはすまなそうな口調となり、その場でこの無駄な契約を解除してくれた。

カードや銀行の明細チェックは、不正利用の有無だけを主眼にしてきたので、まともな引き落とし先については逆に正当なものとして見過ごしていた。

私のように無駄な契約を継続している可能性があるので(特に通信関係)、一度総チェックをお勧めする。


加門七海『うわさの人物』が示す霊能の性差

2023年04月23日 | 作品・作家評

加門七海著『うわさの人物—神霊と生きる人々—』(集英社)という本は、日本各地(青森から沖縄まで)の9人の霊能者とのインタビュー集で、だいぶ前の2007年出版だが、私自身がこういう世界に接近したのが最近なので、出会ったのが先日となったのは致し方ない。
※:著者の一連の著作『うわさの神仏』をもじったタイトル.

心霊科学や超心理学、あるいはスピ系の理論書・実技書にはない、市中で活躍している霊能者のナマの声がとても参考になった。

とりわけ、霊能の男女差に関して、女性の霊能者には身体を駆使した苦行は無意味である、という主張は、霊能を体現してきた当事者だからこそ言えるもので、さらに根源的な謎である卑弥呼などシャーマン(ユタ、イタコ)がなぜ女性ばかりで、逆に山野を駆け巡る行者がなぜ男性ばかりなのかという現象の理解にも通じる。

インタビュー対象のある女性霊能者は、水垢離などの修行をしてみたが、バカらしくなってやめたという。
これらの修行が自身の霊能にとって全く無関係であることがわかったためだ。

実際、誰でもが修行さえすれば霊能が得られるというものではないことは明らかで、
霊能は肉体を痛めつける修行では得られない、という冷徹な現実を突きつける※。
※:そんなことは、そもそもお釈迦様が実感していて、そのために”中道”の道を説いたのだが、どうしても苦行したがる人(♂)がいるもので、修験道は苦行に回帰した。天台宗の千日回峰行はその極限(苦行者の憧れ)。

別の女性霊能者は、女性は一瞬でトランス状態に入れ、基本的に快感でしか能力を高められないという。
苦行はマイナス効果しかないというわけだ。

女性には最初から神性が内在しているのだろう。

一方、2名の男性宗教家が語った(男性にとっての)山修行の意味については、私自身の問題として参考になった。
語り主は、性別を特定せずに語っているが、本題の視点でいえば、”男性”にとっての苦行の意味の問題になる。

かつて山に行く意味を喪失しかけた私にとって、新たな意味づけとして、修験道の”峰入り”すなわち行としての登山に開眼したわけだが、このような修行志向そのものが男性的嗜好であるわけだ。

上述した女性霊能者は、男性はトランス状態に入るのがヘタで、そのための手段として苦労して行をせざるを得ないという。
男は、自分を高めるのに、自分を痛めつけ、自己否定という自己超越の果てに初めて、他なる神性に出会えるのだろう。

それゆえに、著者は女性ながらも、大峰山・山上ヶ岳の女人結界の存続に肯定的となる。
なぜなら、修行が本質的に不要な女性にとっては、山修行の聖地である大峰山のその一角だけ禁足となることはなんら不都合がないから。
対して、男性の行者にとって、女人禁制の空間を設けることがストイックな修行上貴重な空間になることを、著者は理解しているから。
私は、ここの女人結界を性差別思想の名残としてのみ理解していたが、本書によって異なる理解が可能となった。

以上の性差は、雄(♂)という存在が本質(生物)的に”疎外態”であることと関係していると思われるのだが、ここではその方向に議論を持っていくべきではないので、別の機会にする。
※:存在の中心・本質から弾き出されて生きていかねばならぬ状態。その劣等コンプレックスの反動形成として、自分達こそ存在の中心・本質だと思い込もうとした(男(man)=人(man)).

もうひとつ、前々から気になっていた「狐憑き」という日本固有の憑霊現象についても、
ある女性霊能者によれば、動物の狐が本質的なのではなく、神の使い(≒眷属)の練習によるものという意味づけで、他者からはおかしな言動に見えるものの、本人の霊能発現に繋がり、あながち否定的現象ではないという話が参考になった(従来の対応は、憑いた狐を落とすのに必死になり、文字通り本人が絶命する場合もあった)。
この問題については、同じ年に出版された『日本人はなぜきつねにだまされなくなったのか』(内山節、講談社)を読んでいたので、狐という特定動物固有のパワーの問題ではないという理解が進んだ。


4月23日は「寒の戻り」日

2023年04月23日 | お天気

気象のリズム(周期性)の基本振動は地球の公転すなわち年周期だ。
もし年周期のみが振動要因であれば、毎年同じ日に同じ天気となる。
実際は、年周期と日周期の間の複数の振動とそれらの揺らぎ(誤差)が加わるので、そうはならないが(特に中緯度温帯の日本では)、毎年特定の日に特定の気象状況になる傾向、すなわち天気の”特異日”というのが統計的根拠によっていくつか出現している。
有名なのは、11月3日(文化の日)の「晴天」、あるいは9月25-26日の「台風」の特異日。

そして、これらほど有名ではないが、なんと本日4月23日は、「寒の戻り」の特異日。
すなわち、4月になって直線状に気温上昇傾向が進み、そのまま5月の”初夏”に入る直前で、一旦寒気に覆われる日。
なので私の(電子)カレンダーには、毎年4月23日は「寒の戻り」と入力済み。

実際、昨日から寒の戻り状態となり、今朝はさらに冷え込み、
愛知県日進市の私設「日進気象台」では10℃を下回った(8.8℃)。

そういうわけで、冬物を完全にしまうのは、毎年 GW明けにしている。


AIと心の進化

2023年04月21日 | 心理学

 そもそもコンピュータという情報処理マシンは、メディア論的には、人間の”脳”の拡張なのだから(電脳)、それが数値計算と記憶媒体というレベルから、言語思考をも担当するレベルに進化することは、メディアの進化形として織り込み済みなはずである。

それを私の「心の多重過程モデル」で表現すれば、人類が他の動物と差別化できたシステム2を、自分たちより高性能な装置に外部化するということである(移動手段としての乗り物と同じ)。

 AIの発展が人間の知性を凌駕することに脅威を覚える人は、人間の心はシステム2が最上位だという、旧来の「二重過程モデル」レベルに留まっている。

自我による言語思考の限界を見出し、その自縛から脱するという新たな方向性を、すでに一部の人類が見出しており、その方向での心の重層化(進化)を織り込み済みなのが、このブログに再三登場している「心の多重過程モデル」である。

すなわち、人間の心の進むべき道は、システム2の高度化ではなく、システム3さらにはシステム4と心の高次のサブシステムを創発していく方向であり、それが機械(メディア)では代替できない人間の”霊的進化”の道につながる。
※:システム2が最上位という発想だと、定型的情報処理から人間が解放されることで、できた時間・余力を”創造性”に費やすことができる、というレベルの発想しか出てこない。人間のシステム2レベルの創造性(情報創造)なら、AIも簡単にできるようになる。 なぜなら創造性とは、情報の組合せパターンの(意味ある)再構築にほかならないから。

今までの人類は、系統進化的にも個体成長的にも、システム2の高度化(大脳の前頭前野の発達)を目指してきた。
人類が生存していく上で必要なシステム2の作業(所詮機械的な情報処理)が AIで代替できるなら、ほとんどの人にとって萌芽段階でしかないシステム3を成熟させることに費やせる。
人間を存在論的に捉えるなら、情報処理が人間の存在目的ではないことは論を俟たない。

システム2→3→4への進化とは、言うなれば、凡夫→修行者→菩薩への道ともいえる。


デート代を男がもつべきか問題を考える

2023年04月20日 | 心理学

一部ネットで論争になっている、デート代を男がもつべきか、という問題を考えてみる。

まず、この問題の発端として、一般論として「デート代は男がもつべき」である、という社会規範の主張ではなく、「デート代を払うという男気があると嬉しいな」という女心の問題である、ことを押さえておきたい。

ネットでの議論のポイントは、そういう女心は、男女平等・ジェンダーレスという社会規範と矛盾するのではないか、という点である。

これはまさに、社会学と心理学の微妙な齟齬の問題だ。
私の専攻である「社会心理学」の立場としては、両方の主張をなんとか調整したい。

ます行動生物学、すなわち生物行動の進化論的研究によると、生物の♂が♀を交尾に誘う一番の方法は、餌を提供することである(蜘蛛のように最悪の場合、自分がその餌になる)。
すなわち、生物の基本目的である、子孫(遺伝子の複製)を残すために、卵を産まずに遺伝情報だけを提供する♂は、性欲という能動性が必要である一方、卵を産んで遺伝情報に栄養エネルギーを追加する♀は食欲を優先する。
なので、その♀に受け入れてもらうためには、♂は♀の食欲に訴える。
例えば、蚊の研究例だが、♂は♀に餌のプレゼントをし、♀がそれを受け入れて餌にかじりついている間に首尾よく交尾をする。
♂の性欲は、♀の食欲を満たすことで、実現するわけだ。
♂と♀との間には、このような生物学的な非対称性が本来的に存在する。

なので、デートという♂にとっての交尾準備(♀にとっては審査)状態は、♂が♀の食欲を満たす側に立つことを意味しておかしくない。
逆に、♂または♀が割り勘を主張することは、交尾準備状態であることの否定、すなわち性的関係ではなく、「いいお友達でいましょう」状態の提案となる。

デート代を男が全て払おうとするか、割り勘にしようとするかは、相手を♀的存在としているか否かの、個別判断の問題であって、少なくとも、男女平等を旨とする社会規範の問題にする、すなわち個人的感情の問題を社会規範の「べき」論で論じる”べき”でない(イケメンや美女が好きという個人的嗜好の問題は、ルッキズムという社会的差別の問題ではない)。

言い換えると、♂にとって相手の♀が「お友達」でいいなら、割り勘を求めていいし、そうされた♀はそれを自覚すればいいだけ(相手を批判する理由はない)。
逆に、♂がデート代をもとうとしても、♀側にこいつとは交尾の可能性はないと思うなら、割り勘を主張して「お友達」的関係を貫けばいい。

そのつもりがないのに、おごってもらうとすれば、それはずるいといえる(誤ったメッセージを意図的に伝え、結果的に付きまとわれる)。

「女の私にこうしてくれる男がいいな」という個人的感情を、男は女にこうすべきというジェンダー問題に一般化すべきでないし、個人的嗜好を述べただけなら、それを他者が社会規範の視点で批判するのもおかしい。
この手の発言が炎上するのは、個人的嗜好(たとえば付き合いたい男の身長の下限)を本人が必要以上に一般化する愚を犯している場合が多い。

すなわち、ネットでの論争は、この個人的嗜好と社会規範との次元的な”ズレにすぎず、真の議論ではない。

プロ野球のチームでスワローズを私が応援するとして、それをジャイアンツ・ファンから批判されるいわれがないのと同じ。


不在通知のショートメール

2023年04月19日 | 防災・安全

先日、ドコモの有りそうな携帯番号からショートメールが届いた。

クリックして本文画面に進むと、

「お客様*が不在の為お荷物を持ち帰りました。こちらにてご確認くださ*い」
も文面の一部)

しかもそれに続く URLがランダムな文字列で.com?du0kと続く。

たまたまAmazonで注文をしていた時だが、Amazonでの配送は置き配なので持ち帰らないし、他の配送会社だと、ポストに不在通知を入れる。

なので心当たりがないメッセージだし、文面とURLがおかしいのでこれは詐欺メールだと思い、反応せずにそのままにしておいたら、本日のモーニングショーでこれを扱っていた。

番組でもアドバイスしていたように、文面等をよくチェックして慌てて反応しないことだ。


キャンプ場で木の下敷きにならない方法

2023年04月17日 | 防災・安全

神奈川県相模原市の道志川沿いのキャンプ場で、16日未明にテントで寝ていた夫婦の上に木が倒れてきて、その下敷きで妻が圧死、夫が肋骨を骨折という惨事が発生した。
※;行方不明少女の骨が発見された道志川のキャンプ場は、もっと上流の山梨県側。

昨今のキャンプ愛好者だけでなく、私のような山でのテント泊経験者にとっても、心胆寒からしめる出来事だ。

すなわち、当時は強風でもなく、明らかな油断・不注意とはいえず、むしろ誰でも犠牲者になる可能性があったから。

根本から倒れた木は”根腐れ”していたという。

その木の映像を見ると、枝のほとんどが枯れており(一部にのみ葉がついている)、木自体は死んでいるといえる(人間でも、本体が死んでも真皮細胞は生きていてヒゲが伸びたりする)。
ただし、太い幹は枯れ木の様相を示しておらず(水分を保っていて苔などが付着)、施設側では毎日確認していて、問題視していなかったという。
すなわち、目視では倒木の可能性がわからなかったわけだ。

なので、木の隣でテントを張った夫婦も、目立つ木なので目視でそれとなくチェックしたはずだが、危険性を感じなかったと思う。

ということは、目視では不充分ということだ。

枯れた大木は内部が空洞になっているように、大木は内部から腐っていく(樹皮部分は最後まで平常を残す)。

テントを張る時、周囲の木で倒れたらヤバそうな木については、目視ではなく、実際に(誰もいない方向に)幹に力を入れてみて、安全性を力学的に確認するしかない。

ほとんどの人はこれをやってこなかっただろうが、この事故を受けて、これからは実施した方がいい。

そういえば、街の街路樹は、”倒木の危険があるため前もって撤去する”、という措置が行政によって実施されている。
すなわち倒れて被害を出す前に、目視以上のチェックをして、予防措置を講じているのだ。

自然の天然木に関しては、そのような管理責任者はいないので、その木に関わる人が目視以上の確認をするしかない。

そういうことを肝に銘じさせられる事故だった。


ChatGPTに自分を尋ねてみたら

2023年04月16日 | パソコン・メディア

ChatGPT(無料版)に”論文の書き方”や”正しい引用の仕方”などを尋ねたら、常識的な回答で、ほとんど文句はなかった。

次に試しに私自身について、「山根一郎ってどんな人ですか?」と尋ねることにした。
ただ同姓同名がいては混乱するので、勤務先の大学の教授である限定をつけた。

間髪を入れずに出てきた答えがこれ。
「山根一郎先生は、メディア・コミュニケーション研究所に所属し、メディア論、コミュニケーション論、情報社会論などを専門としています。
山根先生は、主にテレビジョン番組の分析や、メディアと社会の関係について研究を行っており、特に報道番組やニュース、政治番組に注目しています。また、情報技術の発展がもたらす社会変化についても関心を持ち、インターネットやSNSの普及が社会に与える影響についても研究しています。

山根先生は、著書や論文を多数発表しており、日本のメディア・コミュニケーション研究の第一人者として知られています。また、テレビやラジオなどのメディアにも出演し、幅広い層から支持を得ている学者の一人です。」

私の所属が間違っているし、専門分野も正しくない。
メディア論について(このブログを含めて)多少言及しているが、テレビには関心がないし、その分野で活動もしておらず、当然第一人者でもないので、「支持」も得ていない。
すなわち、正解率0。
もし「山根一郎について書け」と言う課題でChatGPTの答えを丸写しすると、0点となるわけだ。

気を取り直して、もう一度答えを求めると、
「(前略)人文学部で哲学を教える教授です。彼は、現代西洋哲学、現代フランス哲学、現象学、存在論、倫理学など、幅広い分野で研究をしています。

また、山根教授は、西洋哲学の中でも特にマルティン・ハイデッガーについて研究を行っており、日本におけるハイデッガー研究の第一人者として知られています。その他にも、フランスの哲学者ジャック・デリダや、ドイツの哲学者エマニュエル・レヴィナスなどについても研究をしています。」

現象学・存在論・ハイデッガーとは確かに接点がある。
でもハイデッガー研究の第一人者ではないので、当然「知られてい」ない。
そもそも、所属大学に「人文学部」は存在しないし、「哲学」の授業も持っていない。
論文でレヴィナスには1回だけ言及したが、デリダについては触れたことがない。
こちらの答えは、100点満点中で5点というところか。

以上の文は、検出された単語から、それと関連ありそうな単語を検出するという一連の作業の結果、最初の検出単語からどんどん離れていってしまった結果といえる。
なので最初の検出単語との関係を無視すると、それなりに辻褄は合っている文(=実際にいそうな人)となるわけだ。

ちなみに、私自身の情報は、このブログだけでなく、自身の HP(更新はしていない)、論文のPDFでの掲載などをネット空間でアクセスできる。

さらに、もう一度答えを求めると、

「山根教授は、日本の政治や社会に関する著名なメディア出演者であり、テレビやラジオなどでの解説やコメントでも知られています。政治的な中立性を重んじ、鋭い分析力を持って、日本の政治情勢を解説していることでも知られています。

彼は、多くの書籍や論文を執筆しており、国内外の学会や団体で講演もしています。彼の著書には、「議会制度と政党政治」や「憲法9条と集団的自衛権」などがあります。」

なんで「山根一郎」から「政治」が検出されたのか、メディア論・ハイデッガー以上に縁がなく、本人もわからない。
しかも著書が捏造されている。
誰かと間違えているのだろうか。
これらの著書をネットの書店でググってみたら、前者は見つからず、後者は「憲法9条VS集団的自衛権」というタイトルで、私も一字も共通しない人の本があった。

ChatGPTは、尋ねられた人の悪口は言わず、むしろ誉める傾向があるという。
確かにその傾向が示されたが、嘘をついてまでヨイショしてほしくはない(事実ではないからちっとも嬉しくない)。

結局、一般論的問いなら使えそうだが、少々突っ込んだ個別の問題となるとこんなレベルに成り下がることがわかった※。
※:同じことをやった講談師の神田伯山氏は「落語家」としてヨイショされていたという(氏のラジオ番組から)。

やってみた結果、私は偽りの「第一人者」扱いされているが、心理学者としては全く評価されていないことがショックだった。

追記: ChatGPTは個人情報保護のため、個人についてはあえて不正確な情報になっている可能性があり、その方がありがたい。現存している個人については誰でもこのような結果になるのかもしれない。


生成 AIを教育に使いたい

2023年04月15日 | パソコン・メディア

 (世界)各地の大学では、学生に対してChatGPT(以下、「生成AI」と一般化して論じたい)を使用禁止にしている。

生成AIに回答させた文は、論文の「剽窃」(倫理違反)に当たると見做すことで、レポート・論文作成で使用させないということだ。

私が準拠しているマクルーハンの「メディア論」では、メディアは「人間の能力を拡張させたもの」と定義される。

ところが、多くの人(開発者・利用者)は、メディアを人間が楽をするものだと見做している(非マクルーハン的発想)。

両者の違いは、人間を正反対の方向に導く。
前者は、できないことができるようになることを実現し、人間(個人)の能力をさらに引き上げる。
後者は、できることをやらないようにすることで、人間(個人)の能力を退化させる。
→関連記事「It化の推進=自動化という発想の残念さ」

すなわち、問題はメディアの性能ではなく、それを使う人間の目的・使い方にある。

 AIを自分の脳の代わりに使うか、それとも自分の脳と協動する優秀な助手・相談相手として使うか。

実際、ある教授が大学授業でのレポートを学生に ChatGPTを使って書かせたら、全員A評価に達したという。

これは、レポート書き方の最低ラインを引き上げたことを意味する。

レポートの書き方は、内容以前に、その形式・構造を習得させることが教育現場では重要だ。
内容は書き手の個性(個人差)の部分で、形式・構造は共通ルールの部分だから。
後者を習得するには、適切なモデル(サンプル)が必要である。
生成AIはそれを提供してくれる。

すなわち、 生成AIが作成したモデル(サンプル)は、共通の最低ラインである。
人間はそのサンプルに個性を付加すればよい。
言い換えれば、 生成AIよりレベルの低いレポートは人間が作成する価値がないレベル(不合格)。
このように 生成AIを使うことで、レポートの質の底上げができる。

当然、レポートの評価者自身、 生成AIでその最低ライン(サンプル)を設定しておく。
すなわち、提出されるレポートはそのラインに形式的に準拠しながら、いかに個性(オリジナリティ)を付加しているか、そこを評価する。
オリジナリティの部分とは、 生成AIの情報源であるネット空間にはない、自分で直接集めたデータや考察の部分である。
言い換えれば、既存の情報の収集と整理は、今では人間が手間をかけてやる必要はない。
それらを前提として、そこに新しい情報を付加するのが人間の営為である。

ついでに言うと、今後はAI(という優秀な助手)をいかに使いこなすかが、人の仕事能力の成否にかかってくる。
と言うことは、それを教育することこそが必要になる。
当然、ネット空間の情報は玉石混交なので、”助手”が作成した報告書を鵜呑みにしないのは言うまでもない。


霧ヶ城跡と馬籠

2023年04月10日 | 城巡り

中津川の定宿(に復帰!)がある湯舟沢に向かって、南の恵那山脈から覆いかぶさるように伸びている尾根の末端が台地状の平原※となっている霧ヶ原(写真中央:馬籠から見た霧ヶ原の台地)。
※:両側が沢筋なので尾根が台地状になっているこういう地形は隣のふれあい牧場のある蕨平も同じ。背後の山脈からの大規模な地滑りの跡かもしれない。

ここは山上の平坦地で、古くは東山道(とうさんどう)が湯舟沢から神坂峠に上り、今では集落もあるのだが、山上の高原として別荘開発も進んでいる(あまり増えていない)。

かつての吉田兼好と同じく、湯舟沢の地を気に入っていた私も、ここに別荘を構えてみたいと思ったこともあったが、建物の管理・整備者ではなく、客としていつでも入れる温泉と出された料理を楽しみたいので、別荘の夢は消えた。

そんな霧ヶ原には山城(城址)が2つある。
1つは霧ヶ原の集落の中にある丸山城跡
もう1つは霧ヶ原の平原の突端、湯舟沢に落ちる急斜面上にある霧ヶ城跡

いずれも岩村城の出城で、信濃の武田勝頼と美濃の織田信長の接点の地(城も取ったり取られたり)。
そして、ここ霧ヶ原は、東山道という古い街道を押さえ、また木曽川に沿って信州木曽の山地から美濃の平野に出る所(後の中山道)を押さえる要害の地でもある。

前者の丸山城跡は、道標や案内板もあって城跡の直下に車を止めて簡単に行けるが(以前訪れたが記事にはしていない)、
後者の霧ヶ城跡は、道標も案内板も何もないので、どこから行けばいいのかわからなかった(一度敗退)。
Google マップの霧ヶ城跡のコメントに、入口が示されていたので、その通り別荘地を抜けた先のソーラーパネルの脇道から徒歩で入れる(役に立った!)。

観光地でない山城なので、不明瞭な踏み跡(同好の士による)を頼りに藪をかけ分けて進む。
すると、樹林の中に見まごうことのない石垣が(写真)。
写真を見て分かる通り、元が平坦地なので曲輪(くるわ)は楽に造れる場所だ。

山城巡りは、復元・模造の立派な天守閣なんぞとは無縁で、森の中の遺構から曲輪、切岸、虎口を見つけ、頭の中で縄張りを復元する。

石垣のそばの枯れた巨樹の脇に江戸時代の石仏(聖観音)が立っていて、その下から広めの道が登ってきている。
湯舟沢からの登城路だろう。

石垣の先は、狭い曲輪が並んでいて、その先端は急斜面となって湯舟沢に落ちている。
どちらかというと美濃側に対する構えの造りだ。

こういう未整備の山城は織田と武田に挟まれたこの地にはたくさんある。
通い慣れたこの地で、これらを巡る旅がまだ残っている。

この後、車で中津川駅前に行くと、駅前の馬籠行きのバス停に外国人の行列。
全員西洋人だが、団体旅行かどうかわからない(日本の団体旅行のように旗もって先頭に立つ人がいない)。
日本人客は一人もいない。
実際、馬籠に訪れる日本人は車で、路線バスを使わない。

その馬籠に行ったら、馬籠下の無料駐車場は満杯。
※ここの南(荒町側)にも馬籠城跡がある。
宿場内の道は、路線バスだけでなく観光バスでも来たらしい東西の外国人がたむろし、あちこちの店に入っている。
まさにインバウンドが戻った感じ。
2年前に経験した「無人の馬籠宿」からの変わり様→その時の記事

私も、全国旅行支援のチケットで買い物をする(木曽漆器を中心に買いたいものは絶えない)。
中津川にはこういう有名観光地(他に苗木城)もあるが、訪れる人のない山城もある。

宿に戻ったら、外国人(東欧系?)のグループがチェックインしていた。
平日なので、今日の宿泊客は日本人より外国人の方が多い。


スーパーで頭を刺されない方法

2023年04月10日 | 防災・安全

大阪のスーパーマーケットで、男がテントのペグ(土に突き刺してテントを安定させる道具)を振りかざして、女性の頭部を襲い、頭部陥没骨折の重傷を負わせた。

言うなれば、混雑した空間での無差別襲撃(殺人未遂)で、非常に恐ろしい。

もしこの現場に遭遇したら、どうすればいいか。

ポイントはスーパー内だということ。

一旦話を防犯から防災に移すと、スーパーで買い物中に大地震が来たらどうすればいいか。

学校だったら机の下に隠れるのだが、スーパーには入れる机(空間)はない。

そもそもとっさに机の下に入る理由は、一番大切な頭部を保護するため。
頭部が損傷して、意識を失うと、後の避難行動ができなくなる。

ではスーパーではどうすればいいか。

客がすでに手に持っているはずの籠(カゴ)を頭に被るのだ。
平時にそれをやったら笑いの対象となるが、地震時にはこれが頭部を保護するものとなる。

もうお分かりのように、この対応行動は、頭部攻撃への防犯にも使える(ペグ程度なら防御可能)。
さらに籠は、相手との距離(間合い)を保つのにも使える(カートならなおさら)。

スーパーだから籠はたくさんあるので、いつでも防御できる(置いてある場所を頭に入れておこう)。
棚に並んでいる食品よりは、籠の方が硬さと容積の点で使い勝手がいい。


新年度開始のリフレッシュ旅

2023年04月09日 | 

 新年度の授業が始まり、昨日の土曜は新入生の遠足に同行したので、翌・日曜から、新年度の英気を養うために、2泊の温泉旅に出る(週明けの仕事は火曜の昼からなので、火曜の朝に宿を出ればよい)。

学期や年度の終わりには”慰労”の温泉旅に出ているから、要するに何かと理由をつけて温泉旅に出るわけだ
※:論文執筆のための”お篭り”滞在というパターンもある。
もちろん、滞在して温泉に入りまくるので、リラックス→疲労回復→リフレッシュという流れを期待できる。

行先の宿は、昨年故あって定宿を解除したものの、こちらの利用形態を変えれば快適に過ごせることに気づいた中津川の温泉ホテル(温泉・浴室が捨てがたい)。
4月になったばかりの今年でもう3回目の利用だから、実質的に”定宿”復活と言ってもいい。

そして年度始め固有の”慌ただしさ”から頭を解放するために、往路は信号も車もない里山の道を愛車で快走する。

長時間の車の運転はストレス解消になるのかストレスになるのかわからないが、里山の風景の中を快走すること自体は気分転換にはなる。

と言っても通い慣れすぎた道なので、まさに気分転換のために、いつもは迂回する明智に立ち寄ることにした。
明智(恵那市)は、明智光秀を輩出した明智氏の名字の地だが、大正時代の建物が街並みに残っていたこともあって、それらを整備して「日本大正村」を名乗っている(写真:明治村と違って人が生活している)。

そう、賢明な読者はお気づきなように、昨日「明治村」に行ったから、その流れで今日は「大正村」に立ち寄ろうと思ったわけ。
もっとも大正村には、かなり以前訪れており、古道具屋でゼンマイ式の柱時計を買って、今でも研究室に掛けてある(時報がうるさいので動かしてはいない)。

さて、大正村に着いたら、以前は有料だった広い無料駐車場には、本日イベントらしく様々なクラシックカーが集まっている。
なので駐車場に空きがない、というより、クラシックカーでない普通の車は恥ずかしくて止められない雰囲気。

なので近所に短時間止めて、駐車場に居並んだピカピカのクラシックカーを眺めると、その中にイタリアのチンクエ・チェント(スバル360的超小型車)があるではないか。
私の愛車(Fiat500)の元となる車だ。
近所に止めた我が愛車は、これらの仲間に入れないが、クラシックカーのテイスト・流れを組む車であることを再確認できた。 
私の愛車の系譜はRover Mini2台→Fiat500であり、実にクラシックカーテイストが一貫している。

と、日頃は全く思ったことがない事を思ったりするのも旅先ならでは。

無事、(定)宿に着いて、これからしばらくは仕事を忘れて温泉三昧。
もちろん、全国旅行支援もありがたく頂戴する。


4年ぶりの遠足

2023年04月08日 | お仕事

コロナ禍で中断していた大学新入生の”遠足”が、4年ぶりに再開できた。
行き先は以前と同じ”博物館明治村(愛知県犬山市)

園内を歩きながら、新入生に明治村に来たことがあるか尋ねると、地元愛知の学生は中学や高校の時の遠足で来たという。
その意味では新鮮味に欠けるが、中学生や高校生として明治建築を楽しめたかと聞くと、ちっとも楽しくなかったという。
そうだと思う。
明治村は、歳をとるほど楽しめる所だから、大学生になって来た方が意味がある。

と言っても、私が引率担当する学生は建築学科ではなく心理学科なので、
建築空間が居る人の心に与える影響を実感してもらう(環境心理学)。
それに最適なのが、聖ザビエル天主堂(写真:堂の正面入口で引率学生を撮る
堂内の長椅子に座って祭壇に向かった時の心の状態がポイント(私はずっと座っていたくなる)。

明治村で(大)学生を引率する場合、この天主堂とフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル中央玄関の2カ所は欠かせない(あと金沢監獄・雑居房)。
ただし後者は園内の最奥部にあるので、午前中はこれらを巡るだけで精一杯。

昼食を挟んで、午後は学生たちに自由に巡らせ、私は蒸気機関車が引っ張る三等客車に揺れらて移動した(500円)。
最後に、ミュージアムショップで、ここでしか見たことがない”桑酒”(滋賀長浜産)を自分の土産に買った。
今晩は、これを食前酒にする。

というわけで、久々の明治村を自分なりに楽しんだ。