今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

母が倒れた

2024年04月28日 | 身内

週末帰省して、母(94)との夕食を終えての夜9時過ぎ、1階の自室にいると、
ドーンという鈍いが大きな音が響いた。
家の前の道路で車が事故ったかと、窓の外を見たが、その気配がない。
屋外でないとすると音源は屋内となる。
自室内で何かが落下したかと見まわしても何もない。

さてはと、隣の母の部屋を覗くと室内は無人で、荷が落ちた形跡もない。
母はダイニングのある2階にいるようだ。
ダイニングは私の部屋の真上なので、そこが発信源だったと確信する。
2階で母が倒れたか。


2階に上がり、照明がついているダイニングに入ると、危惧した通り、母が床に仰向けに倒れていた。
両脚を伸し、両腕も体の側面にある、睡眠姿勢に近い。

急いで、母の顔を窺うと、意識があり、会話が可能(といっても発声は不明瞭〕。
後頭部が痛いという。
ということは、立位のままの姿勢で(崩れることなく)真後ろに頭から倒れたようだ。
さっきの音は、後頭部が床に叩きつけられた音だったのだ。

母はなぜこうなったのか記憶がないという。

倒れている母の足先には、椅子が背もたれをこちらに向けてきちんと置かれていて、
その椅子の上には、袋戸棚があって扉が開いている。
どうやら、高い所の戸棚の中の物を取り出すために、椅子に乗ろうとする前に、
急に意識を失ったようだ(扉だけなら椅子に乗らなくても開けられる)。
椅子に乗っていたら、もっとたいへんなことになっていた。

まずは母の頭の下に枕代わりのぬいぐるみを入れ、今の気分や後頭部以外の状態を尋ねた。
さらに脳梗塞既往者なので両手・両脚が動くか確認し、いずれも問題なかった。
意識があり(私の言うことも理解)、内的状態の異状も外傷もないのを確認して、
階上の弟一家に事態を知らせにいった。

彼らに今一度事態を説明し、弟がスマホで救急車を呼び、
その妻(義妹)が母の保険証・お薬手帳・診察券などの持ち物の準備をする。
倒れたまま(動かさない)の母は「救急車はいらない」と言ったが、
頭を打っているので、まずは脳内の精密検査が必要だと諭した
(実際、私も2010年に交通事故に遇った時、救急車で運ばれてまずは頭のCTスキャンを撮った→交通事故に遭う)。


やがて3名の救急隊員が室内にやってきて、母に問診をし、バイタルを測定する。
体温・心拍・血圧等に異状はないようだ。
見当識のチェックでは氏名と生年月日は答えられたが、今日の日付と曜日が答えられず、倒れる直前の記憶もない。
母のような老後生活者は職業人のように日付・曜日単位で生活していないので、
パッと曜日を答えるのはむずかしいかもしれない(私自身も日付はほとんど意識しない)。
そうこうしている間に、だんだん倒れる前の記憶が戻ってきた。
ただ、いつものめまいのように頭がふらつくなどの自覚症状がまったくないまま急に意識を失ったようだ。

救急隊員に玄関まで運ばれて、ストレッチャーに乗せられる。
同行する私に、義妹から母の荷物(靴も!)が渡される。

救急車内では、まずは搬送先の病院を探すのだが、
母の通院歴のある病院(診察カード参照)にはいずれもつながらず(あるいは救急担当医がいない)、
結局、受け容れ可能な、自宅からは少々遠く母には初めての順天堂病院に決まった。
母の同行としては3回目の救急車乗車(自分の搬送では過去2回)。

土曜夜ながら連休初日であるからか、ノンストップで病院に着いた。
さっそくストレッチャーのままER(救急救命室)に運ばれ、私は待ち合いの廊下で待機(必要書類に記入)。
時計を見たら午後11時。


深夜のER、私の横には若夫婦がいて、隣の診察室から赤ちゃんの激しい泣き声が響く。

書類を書き終え、手持ちぶさたになったので(読書できるタブレットは持参せず)、
般若心経と薬師如来の真言を唱える。
ERへの自動扉が開いたので、見ると、ストレッチャーに乗せられた母が、別室に運ばれる。
今から頭部のCTを撮るのだろう。

持参したのはスマホだけなので、暇つぶしに不要な写真を削除する(空き領域がかなり増えた)。
日付が換わって、午前1時近くになって、やっと私が呼ばれ、
ER室内のベッドで点滴を受けている母の所に案内された。

二人の若い医師が来て、検査結果を私に説明する。
まず、脳内に出血は見られないとのこと。
さらに、首から下の部位での大量出血が原因ともなるので、そちらも診たが出血はないとのこと。
言い換えると、今回の失神の直接原因は不明(ただしその原因となりうる重篤な状態ではない)。
自覚症状は後頭部の打撲だけで、そこも出血がないので、縫合措置など不要
(他に左前腕に出血部分があるが、痛みはない)。
ということで、入院は不要で、帰宅してよいという。
帰宅後、入浴はしないように。
明日は安静にしておいた方がいいかと尋ねると、普通に生活してよいという。


ということで、安心して帰宅する事にした。
といっても今は深夜2時になる。
弟に電話して、結果を報告し、ついでに車での迎えを頼んだが、すでに飲酒していたという。
この時間にタクシーを探すしかない。
そういえば今は、ネットでタクシーを探せるらしいがやったことがない。
とりあえずスマホにアプリをダウンロードした。

会計を済ませると(1割負担なので初診料含め5千円ちょい)、ありがたいことに病院の方でタクシーを手配してくれた。
やがてタクシーが来て(母は靴をはいて、乗るまで車椅子)、
深夜の空いた道を快走して2時過ぎに帰宅(深夜料金込みで2400円)

翌朝、母は予定通り、町会の集まりに出席し、
夜はこちらも予定通り義妹の誕生会を皆で祝うことができる。
私は本日は鎌倉に行く予定だったが、翌日に延ばした。


2016年に母が脳梗塞を発症したときも私が(旅行から帰った翌朝で)家にいて救急車に同乗した。→母が脳梗塞に
今回もたまたま私が帰省中に母が倒れて、その音を唯一聞いた私が真っ先に駆けつけることができた。
母の身体的不幸のたびに、その不幸を最小限にする幸運が私経由で作用する事に不思議さを感じる(これからも精進を重ねていく)。

追記:翌日、母は元気。ただし左前腕の傷の他、左胸脇に痛みが出て、さらに翌々日になって左下腿外側が内出血で腫れてきた。ということは、母はまっすぐ倒れたのではなく、左半身を食器棚類にぶつけて後、床に倒れたようだ。言い換えると、そのおかげで後頭部への衝撃は分散されたことになる(後頭部の瘤はその後縮小し、痛みもないという)。


山根キクの紹介

2024年03月08日 | 身内

※このページは、2024年3月で閉鎖される山根一郎のサイト内の内容の一部を転載したもの。

青森の「キリストの墓」の話題で必ず登場する「山根キク」(菊子)は私の祖母だ。

青森キリスト墓訪問記

いわゆる”超古代史モノ”は門外漢の私だが、この手の話題(「と」(とんでも)の世界)には祖母が登場するので、
近親者として情報提供できればと思った。

祖母の話を親族の中では直接一番多く聞いていたという父・克己(キクの三男)が亡くなって、
父から聞いた祖母の話も私自身はうろ覚えにすぎない。
私の周辺に残る情報をここに残しておく。
※私はWikipediaの「山根キク」の項の作成には、まったく関与していない


●生い立ち

明治26年(1893)6月1日 山口県萩の醤油造り屋の長女に生まれる.
父方は萩沖の櫃島,母は萩沖の大島出身.
父猪之助の影響で三味線をたしなむ。

8歳の時,実母ウメが死亡し,以来父は生きる気力をなくし,数年後に祖父母より先に病死する.

14歳の時,キリスト教に触れ,惹かれるが,祖父の猛反対にあう.

修繕女学校卒業後,自らの意思で横浜の共立女子神学校に入学.
しかし,卒業式(大正4年)での儀式中にイエスの生涯・復活への疑義を発して式を混乱さす.
この疑問は後に竹内文献によってキクにとっては氷解する.

封建的風土の萩には戻らず,上京して四谷と牛込に日曜学校を開設.
キリスト教(プロテスタント)の伝道に従事.

男兄弟なしの長女であるため,大正9年2歳下の寺島某氏※と入夫結婚.
※某氏の父鎌田造酒之助(みきのすけ)は旗本幕臣として,函館五稜郭まで行って最後まで新政府軍と戦った。その後は駿府(静岡市)に住み、臨済寺に東軍(幕軍)を顕彰する碑(現存)を立てた(→造酒之助の記事)。私には幕臣の血も流れている。

私の父を含む四男をもうけるが,長州人と幕臣の家系とでは合うはずもなく,
喧嘩をすれば幕臣が刀を抜き,長州が薙刀をかまえるというすさまじさ.
やがて離婚して,4子とも引き取って育てる(妹たちも東京に呼び寄せる).

この体験のためか,後に寡婦の窮状を打開するため,「日本婦人相愛会」の名のもとに派出婦会(家政婦紹介)を設立.

「萬朝報」の婦人部長となる.

そして宗教よりもまずは政治によって,実社会での女性の救済をすべきとの考えに到り,政治活動に転換.

その頃世情を動かしていた「普通選挙」運動そのものを、男だけに選挙権を与える不平等として,
「婦人参政同盟」に参加。
また「婦人参政協会」を設立して,婦人参政権運動に加わる
「女性の時代」という月刊誌を発刊.
革新倶楽部に入会.

この一連の女性運動こそ、祖母の活動として私が最も評価したいもの。


女性運動参加記録:「日本女性運動資料集成」(1-3巻)不二出版より

女子参政協会を主催

1923(大12)
2 /17:婦人参政同盟の政談演説会(神田中央仏教会館)にて飛び入り演説
「皆さま,お待ちなさい.私の言うことも聞いて,相携えて世論政治の第一線に入ろうじゃありませんか」
3 /31:夫婦で婦人参政問題演説会を牛込会館にて主催
7 / 2:日露婦人交驩会の発起人または賛成者の一人となる
11/10: 関東罹災者救護会として,「病者と失職の婦人の為に」震災被害者の救援活動

1924(大13)
4月:第一回総選挙にて,長野県の井手氏に応援演説の遊説.好評なるも落選.
6 /27:婦人参政同盟の理事に当選
12/ 6:婦人参政権獲得期成同盟創立委員となる
12/21:民衆公論社主催の擬国会(芝協調会館).「文部大臣」「拓植大臣」に.夫が議長.

1925(大14)
2 /14:婦人参政同盟第五回大演説会(築地同志会館)にて演説
4 / 4 : 同第六回大演説会(横浜市キリスト教青年会館)にて演説
5 / 6:着任したソ連のコップ大使を訪問
9 /27:同盟の大阪支部発会を兼ねた演説会(天王寺公会堂)にて演説
11/13:三男(一郎父)を出産
12/16:婦人参政同盟第八回演説会(神田中央仏教会館)にて演説

1926(大15)
3 /9:婦人参政同盟第九回演説会(芝協調会館)にて演説
3/22:議会に婦人案提出に応じて,ビラを配付用意するも警察の禁止によって不可
    婦人案(治安警察法改正案,婦人参政に関する建議案,市制町村制中改正法律案)

1927(昭2)
1/5:主催する日本婦人共愛会の四谷寺町の本部でクリスマス児童慰安会を開く(朝日新聞記事)
11/20:女子参政協会(山根菊子代表)は婦人参政同盟から脱会
このあたりのいきさつは不明.
4人の子をかかえての離婚という最大の辛苦の時期でもある.

1928(昭3)
2/12:西岡竹次郎氏の選挙応援で演説(朝日新聞記事。掲載日)


転機

昭和に入って,青森北津軽の小泊に滞在中,日本の悠久の歴史を感得
(ちなみに小泊は徐福伝説や東日流外三郡誌とも無縁でない)。
そして政治運動から再び宗教への還帰が始まるのだが,戻る先はキリスト教ではなかった.

1935(昭10)
天津教の竹内巨麿氏及び「竹内文献」に出会い,長年のイエスの生涯についての疑問が氷解.
この文献を信じた結果,ウルトラ天皇主義になる.
青森戸来村(現:新郷村)の「キリストの墓」近辺を調査して,1937年にその存在を世に出す
(地元ではさっそく観光資源としてアピール.現在に至る).

1943(昭18):長野県豊野に滞在中,不敬罪のかどで群馬県特高によって逮捕
当時は「太古研究会」代表.
婦人運動の同志(同罪逮捕)から,昭和天皇の出生にまつわる噂話を聞き,それを元海軍中尉に話したため.
さらに,熱田神宮のご神体に関する噂,および伊勢神宮のご神体にある文字の噂
(『世界の正史』に記述)を豊橋で数名に話したかど.
こんな噂話を私的に話しただけで不敬罪で逮捕されるのだから恐ろしい時代だった.

戦後は,東京一区から第一回普選に国民協同党から立候補するも,落選.
新宿戸山町に居を構え,新宿区議を三期勤める.

1965(昭40) 4月23日狭心症発作のため,自宅で急死.享年71歳.

キクは孫の私にとっては優しかったが,直情的で男まさりの性格で,
萩では「真西風(まじにし)」とあだ名されていたという.
幼少よりの深遠なる真理へのあこがれと信念を貫く姿勢(親族とさえも妥協しない)はさすがだ,が….


著作

1.「光は東方より」(日本と世界社)昭和12(1937):「キリストの墓」探訪記

2.上の分冊版「キリストの巻」「釈迦の巻」(日本と世界社)昭和15(1940)

3.「天津祝詞ノ太祝詞事新解」(日本と世界社)昭和17(1942)

4.「キリストは日本で死んでいる」(平和世界社)昭和35(1958):「キリストの墓」再訪記

5.「世界の正史」(世界平和社)昭和39(1964):葺不合(ふきあえず)朝などの歴代天皇の系譜

著書からわかるとおり,キクは「考古学・地質学」とは無縁.
キクを「地質学者」と誤って紹介したのは,私の記憶では,かの寺山修司氏の旅行雑誌上の記事(キクはキリスト塚を発掘したわけではない)
アカデミックな世界とは無縁.あえて肩書きをつけるなら「民間研究家」かなぁ.

著書の最初の1-3は,電子復刻版「古史古伝」(八幡書店)にて入手可能.4「キリストは日本で死んでいる」は「たま書房」より刊行中.5「世界の正史」は現在流通してない。

※なお、キクの著作や写真については、法人・個人を問わず、当方からの貸し出し・譲渡などは一切おことわりしている。
また私はキクの著作権を継承してはいない。


竹内文献とは

竹内文献とは,いわゆる「竹内文書」(偽書とみなす側の表現)のことで、
ウチでは仰々しくも「竹ノ内古文献」と称していた。

茨城県磯原の竹内家には 私の父(キク三男)も子供の時、夏に遊びに行って、
そこの秀才の息子に宿題を全部やってもらっていたという。
そこで熱湯に手を入れる盟神探湯(くがたち)の行をやったという.
また父も信州の戸隠神社にあった神代文字を読めたという.
父は酒が入ると「ヒフミヨイムナヤコト」の唄(歌詞は繰り返し,メロディも単純)を歌った.

キクはどうやらこの文献のみに頼っていたらしい。
その全貌(戦災で消失)は知るよしもないが、なんでも今の太陽は7つ目だという
(人類の祖先が今の地球に着いたのが7つ目の星だったのか??)。

竹内文献を信じたい人は,ちきんとそれ(八幡書房から刊行)を読んでみること.
高校程度の世界史の知識で読むとガクッと力が抜ける箇所があちこちに出てくる.
たとえば,東京が1億年前から「とうきょう」と呼ばれていたという説があったら信じるか(恐竜が名づけた)?
辻褄が合うことが命の「お話」は辻褄の破綻は致命的.
小学校程度の素朴な頭なら信じることができるかも.
作者にも世界史の知識がほしかった(古生物学の知識までは期待しない).

竹内文献私見

竹内文献は,荒唐無稽すぎて,その思想的危険性さえ忘れられがちな書であるが,
まずはその点をきちんと吟味する必要がある.

私見では,日本の軍部が大陸進出の野望をもっている丁度その頃に,
天皇が日本に君臨する論理(+儒教的家父長論理)を拡大して世界統治を正当化する「神話」の提供として,
希代の大ボラ吹きによって創作されたものである(戦前の日本人の倫理感そのまま).

東条英機なんかも竹内家を訪れていたという.
でもさすがに竹内文献の論理は軍部も使えなかった.
むしろ天皇家の系譜を荒唐無稽化するとして,政府から危険思想とみなされ弾圧された.

その大ボラ(悪意のない嘘)吹きは,キクからのキリストの疑問に,
辻褄合わせのストーリーを作って回答したとうかがわれる。
疑問内容を詳しく聞けば,辻褄合わせの回答がしやすくなる.
顕示性性格者のホラとはそういうもの.

ちなみにホラを吹くことは,性格的行動習慣であるため,その人の人格の一部として認めるしかない.
そのような性格傾向の人が存在することをまずは理解しよう.

だから,そんなホラ(非現実だが辻褄は合っている)を信じる人の頭の方が純朴すぎるのだ
(現実を多元的に評価せずに単線的な論理=辻褄を信じるタイプ,
しかも信じられるからではなく,信じたいから信じてしまう).

しかし素朴な当時の国民レベルでは,「五族協和・大東亜共栄圏」という言葉が,
欧米の植民地主義から亜細亜を解放するスローガンとして支持されたように,
竹内文献の神話論理もキクにとっては,世界の民族・宗教対立の無意味さを「論証」できる天啓の書にうつった.

キクはイエスの生涯の記述に根本的疑問を抱いたという点では,かの聖書を批判的に読める距離感をもっていた.
しかし同じ態度で竹内文献に接することができなかった.

世界平和を願う心があまりに素朴で強かったため,学的批判の目が閉じてしまったといえる
(”発掘された”考古学的資料を盲信してはならないということは,今の日本人なら肝に銘じているはず).
私自身は竹内文献の世界観にはまったく興味がないが
(ワタシ的には,ユダヤの失われた支族が青森にやって来たという話にした方が面白い,
そうすればユダヤと当地の習俗の類似点などキクの傍証も活きてくる),

キクという,現実界で辛苦を重ねた明治女性がどのようにその夢想の世界に心を奪われていったか,
個人の精神史には関心がある.

女性の解放(男女平等)という価値観を持ち、現実に男に頼らない生き方を実践しながら、
超越(絶対)的な父性を希求していたのだから。

ある意味、”神の前の平等”を謳うキリスト教と天皇崇拝の合体とも言える(天皇の一神教化)。
言い換えれば、キクの実父も夫も、理想的な父性にはほど遠かった。

参考文献:長峯波山「竹内巨麿伝」八幡書店


信じる人と信じさせる人

私がキクと竹内文献との関係を醒めた目で見れるのには理由がある。

実は私の母方に,10代で統合失調症(精神分裂病)を発症した女性がいた。
親族の間でも困った存在だった(キツネが憑いていると言われていた)。
そして中年になって,明確な妄想を持ちはじめ,「われは神であるぞよ」と言いだした。
※:思春期に発症し重症化する破瓜型ではなく、一定の妄想レベルにとどまる妄想型だったようだ。
親族の間では更に困った存在となったが,本人は堂々と予言などをするようになった。

するとなんと,信者がついたのである(もちろん普通の人たち)。
予言が当るためか,信者が増えていき,寄進も増えて,親族の中で一番裕福な暮しとなった
(私もその広い家に遊びに行った)。
以来、親族の間でも「神様」と呼称されるようになった(私は本名を知らない)。

「神様」はだいぶ前亡くなったが,葬儀は信者達が丁重に行なったという。
信じさせる人は特異な人格で,信じる人は素朴な健常者というわけだ。

ちなみに、キクもこの「神様」と一度対面したが、それ以上の関わりはなかった。


実はキクは、宗教に熱心ではあったものの、スピリチュアルなレベルの感性に乏しいことを自覚していたという。
結局、キクの心はシステム2が限度で、システム3以上の真に宗教的な境地とは無縁だった。
そのため、システム2の欠点である”物語化”の罠にはまって、抜け出せなくなったわけだ
(普通の信者にも多いタイプ)。
この問題については右記事で一般化して論じている→心理現象としての宗教:システム2

そういうことが透けて見えるので、私はキクの宗教思想には興味がない。


父の33回忌を皆で

2024年01月21日 | 身内

今年は亡父の33回忌にあたり、本来なら祥月命日に近い7月くらいに法要をやるのだが、丁度今、姉(父の息女)とその息子(父の孫)が来日中なので、この機を逃さずに約半年前倒しして、菩提寺で33回忌の法要を営んだ。
我々にとっても最後の年忌法要のつもりなので、ごく親しい親族すなわち父の妻子とその家蔵(義理の娘と9-30歳の孫たち)で実施。
※:33回忌をもって、個々の死者(ホトケ)はご先祖様(神)一般になる。

話によると、今では33回忌までやる家は少ないという。
多分、その頃には子自身が法事の対象になっている場合があり、たとえ健在であっても生活が空間的に分散している状態だからかもしれない。

うちの場合は、父の享年が66と比較的若かったため、その子たちが健在で(父の妻も健在!)、しかも一緒に住んでいて(姉だけがイタリア)、菩提寺も近い。
※:生きていたら今年で、66+33=99歳

さて、我が父の法要は、丈六の釈迦如来坐像を中心に仏弟子・諸菩薩や多数の羅漢が居並ぶ大きな本堂で行われ、僧侶の読経・出席者の焼香・法話と進み、最後に全員で「南無阿弥陀仏」を10回唱える。

かように本尊と読経・念仏との間にズレがあるのは、この寺は元は黄檗宗なのだが、廃寺状態から立ち直った後は浄土宗の僧侶が運営しているため。

浄土(阿弥陀)教は仏教諸宗の中でも最も神話的要素が強いため、私自身は親しめないものだったが、こういう縁もあり、現代(仏教)における阿弥陀信仰の意味をきちんと考えてみたいと思っている(いずれ記事にする)。→記事

法事後の”精進落し”は、身障者の姪に適合した店が見けにくいこともあり、自宅での寿司パーティに切り替えた(この方がはるかに安上がり)。


イタリアから姉と甥が来た

2024年01月13日 | 身内

イタリア・ローマ郊外に住んでいる姉とその息子(私の甥)が数年ぶりに来日(姉の夫は居残り)した。

今回は、甥が日本に行きたくて、母の飛行機代を出したそうだ。
甥は日本名とイタリア名の二つの名を持っているが、日本語はほとんど話せないので、母を連れて来たかった(母=姉はいつでも日本に来たい)。

どうしてそんなに日本に来たかったかというと、大阪の USJに行ってみたいとのこと。
甥はハリーポッターに夢中になった世代で、想いはひとしおらしい。

まずはイタリア土産として、地元農家産のチーズ・オリーブオイル・ワインが我々に振り分けられた。
東京宅には二人なら収容できる部屋があるので、そこで寝泊まりしてもらう。


甥の二十歳誕生会

2023年12月23日 | 身内

このブログを始めた18年前はたった2歳だった甥(時々写真入りで記事にしていた)が、二十歳(はたち)の誕生を迎える。

今では立派な大学生で、近所のピザ屋で宅配のバイトをしている。

大学生なので、25日の誕生日当日は友人たちとのパーティがあるため、二日前に家族・親族で祝う。

二十歳といえば日本ではプレゼントをあげる歳でもないので、むしろ成人祝いとして祝儀を包むことにした。

ちなみに、自分の二十歳の誕生日(7月29日)の時、夏休み中ということもあって、日本で二番目に高い北岳(3193m)の山頂に立った。

 


今年の(加)松茸パーティ

2023年10月08日 | 身内

今年も母の誕生会(94歳)を祝うことができた。
もちろん、宴は例年通りの”松茸パーティ”。

ただし、今年は猛暑で長野産が全滅で、それより早いピークを迎える岩手産が、誕生会を例年より1週間遅らせたこともあって、シーズンを過ぎてしまい、いつも買うアメ横の店は私が名古屋から直行した時には、松茸の棚が空っぽだった。

茫然自失となったが、気を取り直して次善の策を考える。
店の親父が言うには、周囲の店で売っている「黒い松茸」は中国産だから止めといた方がいいという。
そして見た目は異なるが、カナダ産なら食べても遜色はないとのこと。

そのアドバイスを受け、アメ横の他の店を見て回る。
「長野産」と銘打ってある所は素通りし、正直に「カナダ産」を売っている店に立ち寄る。
そこには、一見日本産と同じ色(黒というより焦げ茶)・形の高値のものもあるが(長野産と称されてもおかしくない)、正直に「中国産」と表示してある。
そこで、それよりはるかに安い値札のカナダ産について尋ねると、色と形は日本産と異なるが、香りと歯触りは、中国産よりはマシだという(私の過去の経験でもそうだった)。
そしてカナダ産は”日本産”よりかなり安いのが嬉しい。
その店で、小ぶりの6本入り2箱と大ぶりの2本入りを、例年より安値で買った。

予算が余ったので、ついでに松坂屋デパートの地下に行くと、ここにも小分けのカナダ産が真の日本産よりはかなりの安値だったのでそれも買い(アメ横とデパートでのモノの違いを確認したい)、吉池では本シメジを買った(「香りマツタケ、味シメジ」と言われているので)。
すなわち、今年の松茸は全てカナダ(加国)産。

家で1本を4つに縦切りして2枚の大皿に盛るとこの壮観(写真:15本が60枚になる。黒い傘のものは本シメジ)。
切り落とした破片は、「松茸のお吸い物」(永谷園)と「松茸ご飯の素」(丸美屋)に混ぜる。
鉄板で焼くと、いつもの松茸の香りと歯触り(アメ横とデパートの違いもない)。
年一回のイベントだが、松茸を飽きるくらい思う存分食べることができた。

たとえカナダ産であっても松茸なので、他のキノコ類より1桁多い価格だが、それでも日本産のような2桁多い価格でないので、我々のような大家族で食べ放題しなくても、おかずの一品に添える程度なら、今の時期のささやかな贅沢として楽しめる。


松茸パーティ22

2022年10月02日 | 身内

今年も母の誕生会として、松茸パーティ。

今年はイタリア在住の姉も1週間の滞在。

例年通りアメ横の決まった店で、今年は信州上田産の松茸を3箱買う(他の店だと店頭表示レベルで高いか、逆に1桁安いのは香りのない中国産。カナダ・北米産の方が香りがする)。
同じサイズの松茸の箱を近くのデパ地下で確認すると6万円を超えている。
デパートは値引きしないのだから、いくら何でも高すぎだろう。

もちろん私は、アメ横のその店で店頭価格(もちろんデパートよりははるかに安い)よりずっと安い言い値をさらに値切って買う。

家では、義妹がエリンギと丹波シメジを追加して、食べる量(かさ)を増やす(写真)。

これらをいくら食べても0カロリーなのも嬉しい。

年に一度だけ、みんなで松茸をたらふく食べて幸福感に浸り、93になる母の健在を祝う。
母は心身ともにすこぶる健康で、その子ら(私と姉)の方が白内障などの老化現象に見舞われている。


甥の大学合格祝い

2022年02月26日 | 身内

高三の甥が、第一志望としていたK大・法学部に合格した(同じ大学の経済、文学部にも合格。昔は経済学部が一番人気だったが、今は法学部が上になっている)。
その祝いと延期していた誕生会を兼ねて、寿司パーティでお祝いした。
私からは,本人というより保護者に向けて入学金相当額を祝い金とした。

受験から解放された甥は、高校の友人たちとネットゲームにふけるという。
私が大学受験から解放された時は、参考書以外の読書とりわけ小説を無性に読みたくなっていたっけ。

甥はコロナ禍で高校生活の2/3はまともに送れなかった。
4月からは楽しい大学生活を送れることを願っている。


92歳の松茸パーティ

2021年10月03日 | 身内

本日で92歳になる母の誕生パーティは、季節柄、毎年松茸パーティにしている。
私がアメ横で国産の松茸をセット買いし(今年は出来がいいので、軸が太めのいいやつを調達)、ついでに松茸ご飯の素(こちらに入っているのは中国産)と、永谷園の松茸のお吸い物を買う。
お吸い物は、松茸エキスだけなので、本物の松茸の傘の部分を入れる。

もちろん、我が家にとっても年に一度の贅沢。
先週7歳になったばかりの姪は、得体のしれないものは食べないので、他のメンバーで、松茸を縦に四分割して(写真)、それを鉄板焼きにして、かぼすと塩コショウをつけて食べる。
義妹が、「外れ」として同じく縦に切ったエリンギをその中に忍ばせる。

このシンプルな食べ方が、松茸の香りと歯触りを一番ストレートに堪能できる(炭火焼きより鉄板焼きの方が香りと歯触りを味わえる)。
しかもいくら食べても0カロリー!

その後はバースデーケーキを囲んで、「ハッピー・バーズデー」を歌って、ケーキを切り分けて食べる(写真)。

母は、昨冬、両膝の手術をして、長年苦しんでいた膝痛から解放され、見た目も両脚がまっすぐになった。
ほかに、内臓、血液、耳、目、歯も問題なく、頭もいたって快調で料理のレパートリーを増やしており、私がその恩恵にあずかっている。

一方、母の昔からの友人のほとんどは鬼籍に入っている。
存命の年下の友人たちの多くも、ガンなどを患っているか、耳が遠くなっている。
母は自分自身で健康に気を使っている。
それと母になついている七歳の孫と、毎日散歩に連れて行く飼い犬から元気をもらっているようだ。


両膝の手術を終えた母

2021年01月26日 | 身内

長年、膝関節症を患っていた母(91)が、昨年のステイホーム生活によって筋力が衰え、とうとう歩行困難に陥った。
長年、薬やマッサージで凌いでいたが、こうなったら最後の手段である手術に踏み切らざるをえない。

選んだ先は、この世界の権威(中川匠医師)がいる帝京大学病院。

手術は両膝の膝関節のすり減った軟骨部分に金属板を入れるものだが、術後のリハビリ入院に片方で3週間、両膝で6週間もかかる。
この長期入院自体が苦痛なので、12月にもともと悪い左膝の手術とリハビリ、年末年始を家で迎えて、正月明けに残りの右膝の手術とリハビリということにした。

幸か不幸か、その期間中は都内にコロナウイルスが蔓延していたので、面会謝絶の安全空間に隔離できたことになる。

2回目の手術の回復(傷口の融合)が意外に早く、そして日に30分のリハビリ以外に暇な入院生活、しかも同室には認知症を示す人がいるので、母は早期退院を希望し、なんと1週間早く退院できた。

膝を曲げるリハビリは自宅でもできる。
なにより、病院の早い消灯時間がリズムに合わず、結果的に睡眠不足だったという。
睡眠不足は認知症に良くない。
数年前、母は脳梗塞で入院していた時(もちろん別の病院)も、同室の老人が数日の間にあれよあれよと認知症に陥った(最初は普通に会話できたのに、うわ言ばかりで会話不能になった)のを目の当たりにしている。
いうなれば、母自身が認知症になる前に退院できたわけだ。

ウィークディの仕事の合間を縫って帰京したら、台所に立つ母の両脚はまっすぐになっていて、手術前のO脚とはまったく別の姿に。

入院中の睡眠不足がたたって、まだ眠気が抜けないそうだが、徐々に生活リズムを戻して、リハビリに専念してほしい。

ちなみに、母の友人たちは、夫に先立たれて一人暮らしが多いそうで、独立した子どもから電話で、外出しゃダメと釘を刺されていて、孤立した生活が辛いらしい。
実際、認知症やうつ病を悪化させたり、運動不足で室内で骨折する老人が増えている。
何も外出それ自体が、ダメなのではない。
マスクを外した会食を避ければいいのだ。
屋外での歩行中はマスクも不要なほどなのに…
過剰防衛は、逆効果を生むことを理解したい。
正しく恐れればいいのだ。
なので私はこうして(ガラガラの)新幹線で名古屋と東京を往復する。


母が膝の手術

2020年11月28日 | 身内

91歳になる老母が、膝の手術のために入院し、昨日、手術を終えた。
もともと膝が悪く、老化で軟骨がすり減っているのを、あちこちの医者に通ってだましだまししてきたが、
このコロナ禍でずっと家にいたせいで、膝関節の負荷を補っていた筋肉が衰えて、痛くて歩行困難になってしまった。
ほんとうにこの半年でダメになってしまった。

そこで最後の手段である、膝関節に金属板を入れる手術を決意した。
言い換えると、今後も元気に歩きまわる人生を目指しているのだ。

両膝とも要手術なのだが、片膝につきリハビリが3週間もかかる。
両膝同時に手術をすると年末年始も入院生活になるので、まずは片方をやり、もう片方は年明けとした。

手術は全身麻酔のため、それに脳梗塞治療で血小板の働きを抑える薬を飲んでいたため、それなりのリスクを背負うので心配だったが、2時間の手術が無事に終えたのと知らせを、帰京中の新幹線で受けたので安心した。

翌日、さっそく見舞いに行きたいが、病院では今のコロナの時期、面会を断っている。
なので、見舞いではなく、荷物を届ける用事で行った。
コロナ第三波で、家族感染が増えている今、面会謝絶の病院で入院している方が安全だ。
ちなみに私は、先週の大学の入試業務の前後一週間に亙(わた)って毎朝検温・体調のチェックをしているので大丈夫。

母は術後1日目なので、まだリハビリはせず、傷口からの感染予防のための点滴のみ。
上半身は元気なので、退屈このうえなさそう。
家から持ってくるものはないかと尋ねたら、川島教授の脳トレのドリルを持ってきてほしいと。
そのドリル、書いては消して、繰り返し使っているのだという。
数年前、脳梗塞で入院していた時、同室の老婦人が日に日に認知症になっていくのを目の当たりにしていた。
わが母ながら、認知症予防にしっかり対応していることに感心した。
その母がいない間は、私は実家でも自炊生活となる。


母の誕生会の松茸

2020年10月03日 | 身内

母の91回目の誕生日の今日、土曜なので東京の実家で当日に祝うことができた。
わが母は、脳梗塞を経験し、膝関節痛が悪化して手術を検討中だが、頭も声もしっかりしていて頼もしい。

姪と弟の先週の合同誕生会は松阪牛を、そして今週の母の誕生会は松茸を私が買ってくることになっている。
松阪牛は名古屋駅の地下街の店、松茸はアメ横で買う。

特にアメ横は、店頭のデパート価格を無視して最初から値引き交渉で、大人数なので多量に買う分、値引き率を上げてもらう。
午前中に店に行けば入荷したてのものが買える。
私が買う店は決まっているが、他の店でも客がついていた。

家では、一本の松茸を縦に四つに割るので、本数×4に増え、それにわざとフェイクのエリンギを混ぜ、
さらも今回は、地元のスーパーに本シメジがあったので、「香り松茸、味シメジ」を確認すべく、本シメジも同様に縦に割る(写真:上の3箱が松茸とどこかに混じっているエリンギ。下が本シメジ)。
これらを全部鉄板焼きにする(炭火焼や土瓶蒸しより、鉄板焼きが一番香りと歯触りがいい)。
調味料は、スダチかレモンに塩コショウ。
松茸の独特の香りとしっかりした歯触りは抜群で、エリンギはもちろん、本シメジも松茸にはかなわない。
やはり松茸の大きな価格差は納得できる。
高二の甥は、これが一年の一番の楽しみとしているが、6歳の姪は、まだ食べず嫌いでまったく手をつけない。

今回はローマ在住の姉から、現地でも特別な発泡ワインを送ってくれ、これで乾杯できたもの嬉しい。
鉄板焼きの後は、市販の松茸ご飯に、永谷園の松茸のお吸い物に本物の松茸のスライスを入れて味わい、松茸尽くしで満腹になった(カロリー的にはご飯1杯分)。

日頃は慎ましく生活しているが、年に一度の家族の祝い事くらいは、贅沢をしたい(といってもアメ横で値切っているのが庶民的)。


母が二回目の脳梗塞に

2020年05月22日 | 身内

週末を迎えるので、県境を越えて、緊急事態宣言が解除されない東京に帰省した。

帰宅して、リビングに向うと、母(90)が椅子に座っていて、よく開かない口で弱々しく、「梗塞になった」と言う。

驚いた。
そういえば、昨晩母に電話したとき、いつもより声が小さく、滑舌も悪いので、酒でも飲んだのかと思った。

実は、これで2度目(1度目は2016年)。

話を聴くと、近所にある都立病院に弟(在宅勤務中)の車で行ったら、入院を勧められたが、断ったという。
というのは、そこはコロナ感染者を受け入れている所なので、逆にそれ以外の患者に手薄になりがち。
また入院で感染したくないという。

母は、脳梗塞の中ではもっとも軽い”ラクナ梗塞”で、しかも前回よりも軽く、会話と書字に支障があるものの、歩行は問題なく、家で生活できるので、入院するより家でのリハビリを選んだのだ。
なにしろ経験者なので、リハビリの仕方も身についている。
また、前回の入院中に、身動きができない老いた同室者が、数日の間に一挙に認知症になっていったのを目の当たりにしている。
半年ごとに検査に通っているその病院も、今では入院よりもリハビリに力を入れているという。

今週の水曜(私が温泉旅から帰った翌日)に発症し、その時は書字ができなかったが、金曜の今日は字も書けるようになった。

脳梗塞は再発するというが実際そうなった。
それは確かにショックだが、前回よりも軽いのが、幸い。

原因はこの歳だと生活習慣というより、年齢そのもの。
ただきっかけとしては、寒暖の差が大きかったことらしい。


25日遅れの元日

2020年01月26日 | 身内

1月25日は旧暦の元日、すなわち旧正月。
新型肺炎騒ぎの中、中国から大量の観光客が押し寄せている”春節”である。

旧暦ならばこそ、伝統的歳時と整合しており、厳冬期を乗り越えて春の息吹を感じる”新春”にふさわしい(正しくは立の前日の分が季節の変わり目)。
その翌日の26日、我が家では、元日に私がインフルエンザで寝込んだためできなかった屠蘇の儀を、あらためて執り行なうことになった。

屠蘇の儀とは、元日に家族が集まって、お節料理を食べる前に執り行う、式三献(三三九度)の儀式である。
いわゆる”盃事”と言われる儀式で、残念ながら明治以降は婚礼の儀にのみ残ったこの式三献は、婚礼以外の祝い事にも執り行う定番の儀式で、少なくとも正月ごとに年一回は実行してしかるべきものである。

正月は、酒または味醂に屠蘇散を入れ、家族で幼順に盃を回す。
盃は三枚あり、一枚ごとに三度(三口)づつ飲むので計、三×三=九度となる(三三九度は俗称で、正式名は式三献)。
儀式なので、幼な子や酒を飲めない人は、飲まずに、口をつけるまねだけでよい。

わが家は、その屠蘇の儀を正月最大の儀式として受け入れてくれているので、私が元日寝込んでも、省略することなく、延期してくれていた。

言い換えれば、それほどまでに、私は屠蘇の儀に入れ込んでいたのだ。
私はこの時だけ烏帽子・直垂の武家の正装をし(それ以外の正月衣裳は羽織袴)、雅楽「越天楽」のCDを流して、神妙に屠蘇を注ぐ役を担う。

本日は、お節料理の簡易版に、正月インフルエンザになった私と甥の快気祝いとして、近所の店で注文してくる寿司セットの宴となった。

これで正月やり残したことは、磯辺餅を食べることだけとなった。


母90歳の拡大誕生会

2019年10月05日 | 身内

毎年10月にやる母の誕生会は、同居する弟一家と合同での,私がアメ横で買ってくる松茸パーティ。

90歳になる今年は、イタリアから私の姉とその姉の息子(甥)が加わっての拡大誕生会(写真)。
母からすれば、我が子が全員揃い、さらに孫が新たに1人加わった状態。
義理の娘である弟の嫁と、子3人、孫4人に囲まれた。 

イタリアで生まれ育った甥からすれば、特定種のキノコだけを有り難がって食べる日本人を不思議に思ったことだろう(イタリア人もキノコは食べるが)。

90になる母は、心身ともすこぶる元気で,昔の90歳のイメージとはまったくちがう。
周囲の対応として,長寿を祝うより,むしろ年齢を意識させないほうがいいのかもしれない。