今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。どんなヤツか知りたい人はまずブックマーク「山根一郎の世界」へどうぞ

瞑想三昧の結果

2018年08月26日 | 心理学

8月最後の日曜なので、気分転換にどこか(できれば山)に出かけたかったのだが、
7月の再現のような酷暑がぶり返しているので(「本駒」の最高気温は39.2℃)、
外出そのものをする気が失せた。

家にいてできる最高の暇つぶしといえば”瞑想”。
坐る場所さえあれば、なにもいらない(後述するように私は道具を要する)。 
そして、無駄に時間をつぶすのではなく、精神的健康に貢献する(と思う)。

日頃は気が競っているせいで、瞑想も毎日のスケジュールとして軽くこなすだけなので、

今日は、ベッドの上に膝を組んで、思い切りいろんな瞑想を体験したい(休憩をはさむ)。

まずは、システム3(マインドフルネス)の洞察瞑想。
思念をからっぽにして、身体感覚(触覚と聴覚)を鋭敏にして、 感じるすべてを受け入れる。

次は、システム2(思考)を併用した瞑想。
要するに瞑想しながらの沈思黙考。
瞑想にとって、システム2の思考は邪魔であり、思考にかまけることは瞑想の失敗を意味するのだが、
経験上、 瞑想状態での思考は、原稿を前にしての論理を詰めた思考とは違った、気づきに満ちたものになる(釈尊が悟った”縁起論”も、内容が論理的なだけに、きっと瞑想中の思考で得たに違いない)。
しかも今回の原稿は瞑想がテーマの一部なので、そこで問題にしたことをあえて瞑想で体験して、
その体験を思考で解釈してみる。
おかげでリアルな記述をゲットできた。 

次は、システム4(スピリチュアル)のイメージ瞑想。
眉間の印堂アージャニャー・チャクラ)に意識を集中して、そこから白毫が生え出るイメージにひたり、それによって発生するビリビリ感を堪能する。
システム3の洞察瞑想と異なり、身体感覚を能動的に創る瞑想なのだ。 
ついでに、瞑想状態で小周天をやる。 
註:下線の語は気功用語。
 システム2〜4は、それぞれが”心”を構成するサブシステム。

次は、脳波トレーニング瞑想。
Museという脳波装置+スマホアプリで、瞑想時の脳波をモニターする(音でフィードバック)。
瞑想の状態を客観的にもチェック・評価したいため。 

次は、瞑想時の呼吸測定。
SPIREという呼吸モニター装置+スマホアプリで、瞑想時の呼吸を計測する。
呼吸に集中した瞑想(呼吸瞑想)と呼吸を意識しない他の瞑想との呼吸の違いを確認。
前者では呼吸はリズミカルな深い呼吸(通常呼吸と深呼吸の間)となるが、後者だと呼吸が止まったかのようにものすごくゆっくり・浅くなる。
後者の呼吸パターンでの呼吸瞑想ができるようにしたいのだ。

日頃の時間に追われた中で瞑想をしても、早く切り上げて次の作業をしたくなるのだが、
何もすることがない時にやると、ずっと瞑想していたくなる。
幸い、同じ坐位姿勢を続けていると(下肢の関節が硬いこともあって)脚の方が音を上げるので、それを合図にやめることができた(真に瞑想に集中するとこの痛覚もなくなるという。ただ菩提達磨がそうなって両膝から下を切断したという言い伝えがある)。

かように気分的には満ち足りた瞑想三昧だが、大きな欠点があった。
ベッドに日がな坐ったままでいて運動量が極端に減ったため、食事した分(たいして食べていないのに)だけきっかり体重が増えてしまったのだ。 
体を動かさなかっただけでなく、脳内活動も低下し、心拍数や呼吸量も減って、基礎代謝量自体が減ったためだ。

何事もほどほどがいいようだ。

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心理学史を学ぶ楽しさ

2018年05月26日 | 心理学

高校の時、国語の授業の中に「文学史」があり、その部分の授業がとても楽しかったのを覚えている。
自分が実際に読んでもいない膨大な文学作品について、あたかもそれらすべて読んで理解したかのように、それぞれの作品・作家の歴史的価値を論評できる(超越的)視点を一挙に獲得できることが爽快だったからだ。

ところが、大学に入って、実際の学問をやっていく立場になると、科学史なるものにはまったく興味を覚えなくなる。
なぜなら、科学は直線的に”進歩”するものだから、最新なものほど価値があり、過去の研究ほど批判され・乗り越えられた古くさいものとなるため、少なくともその分野の最先端に立ちたい者にとっては情報的価値はまったくない、と思っていたから。

逆にいえば、科学史に関心をもつのは、第一線から退いた、先端を切り開く推進力がなくなった者が、 知的引退後の手すさびとして手をつけるものと勝手に思っていた。

そういう自分が、大学1年生対象の「心理学概論」を担当して、どうしても心理学史に触れなくてはならなくなった(公認心理師対応科目として教える内容が指定されているし)。
そこで心理学史の知識を集めるため、たとえば”心理学の父”こと実験心理学の開祖・ヴント(Wundt)の著作の翻訳を古書で入手して、面白くないのを我慢して読んだりした。
といっても心理学史の専門家になるつもりはないので、これら古典を読みあさって自分の手で学史を構築しようとは思わない。

そこで他人の褌を借りようと読んだのが、高橋澪子氏の 『心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 講談社 2016(学術文庫の電子書籍版)。

読んでいて、文学史を学んだ時の楽しさ以上の、歴史を学ぶ意味がわかった。
大切なのは、事実の列挙としての学史ではなく、それらに対する超越的視点すなわち学史”論”にある。

氏は学史(論)の意義をこう論じている。
 「現代を含めたすべての時代を相対化することによって、現代を限っていたいものの特質を知り、その歴史的制約から現代を未来に向けて解き放つための手がかりの一端を提供することにある」(p120-121)と。
すなわち、現代(最先端)の心理学が準拠しているパラダイムを暗黙視・絶対視せず、明示化し相対化して、そのパラダイムを束縛している制約・限界を自覚することによって(また過去に排除された他のパラダイムを再評価することによって)、学としての在り方をもっと自由に問題化する視点を獲得することにある。
これって、私が準拠している現象学の視点(目的)そのものだ。

具体的には、氏は心理学をいまだに束縛している2つの二元論すなわち身心二元論と主客二元論の根深さを問題にしている(ついでながら、私の最新論文も、この2つの二元論を乗り越える心理学の構築を宣言している)。 

この本が面白かったのはそれだけではない。
二元論問題以外にも、前々から気になっていた心理学に通底している問題にもちゃんと言及されている。
たとえば、「精神」(spirit)と「心」(mind)の違い(現代心理学では「精神」は、個我を超えたトランスパーソナル=spiritualな含意があるためか、死語になっている)。
そして「心的エネルギー 」って何か(エネルギー保存の法則に従う科学的概念なのかそれとも単なる文学的比喩なのか。リビドーを実体視すれば”気”に接近する)。 

文学史(論)がそうであったように、心理学史”論”は、超越した視点で心理学を眺めることができる。

実際の文学作品を読む前に文学史を学ぶ価値があるように、現代心理学を学ぶ前に心理学史論を読んで、現代心理学が準拠しているパラダイムを絶対視しない態度を身に付けてもよいのかもしれない。
残念ながら、私の「心理学概論」の授業は、そのような視点を提供していない(既存の学派を紹介するのに精いっぱい)。
一方、大学院の授業では、現象学の視点から現代心理学のパラダイムを批判している。 
心理学を一通り学んで、その限界を肌で感じてからの方が学び甲斐があるかもしれない。

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オフモードのGWに”気”を考える

2018年05月05日 | 心理学

3月末以来の鼻風邪が一向に完治しないのは、少し良くなった段階で山に行ったりして、体力を使ったせいなようだ。
先日の3日も春日部に行って、入浴までしたので、風邪は治らず、4日は一日中家にいた。
夕方、一時外出したら寒風が身にしみた。
まだ寒の邪気が優勢だ。
なので5日も、本当は山に行くつもりだったが、外の邪気に触れぬよう大事をとって家に篭る。
その分、読書も進み、600ページもある『バイブレーション・メディスン—いのちを癒す<エネルギー医学>の全体像—』(リチャード・ガーバー、日本教文社)というサイキックなホリスティック医学(ヒーリング)の本を読み終えた。

本書を含む内外のこの種の本によると、サイキックの世界では、神智学的なエーテル体・アストラル体・コーザル体などの人体をとりまくエネルギーの多重構造と人体内の7つのチャクラは共通の前提となっている。
システム2(論理的知性)による文化圏を越えた理論の統合が進んでいるわけだ(ただし、私のシステム2では受け入れていない)。
その中で(私が存在を認めている)、オーラと同一視される”気”は物質的身体側に近い扱いになっている。
実際、代替医療としてホリスティック医療よりも認められている中国医学(私にとっては”臓腑経絡学”)の書を読んでも、”気”は血液などの体液や神経系とほとんど同じくらいに実体視されている。 

私個人はこれら”内気”(体内の気:生命エネルギー)と易が扱う”外気”(体外の気:宇宙エネルギー)との関連を探りたいのだが、内気を扱う臓腑経絡学にとっては外気は大気や栄養素と同じ物質的な外因にすぎないし、易学においても内気はほとんど無視されている(使われるのは疾病の易占だけ)。

易の有意味性を理論化しようとしたのは「共時性」をキーワードにしたユングくらいで、陰陽思想が本来もっているはずの、内気(ミクロコスモス)と外気(マクロコスモス)との交流モデルは、宋学以降ほとんど進展していない(小野沢精一他編『気の思想—中国における自然観と人間観の展開—』東京大学出版会)。
陰陽思想は、途中から混じってきた通俗的五行思想を排除すれば、宇宙にあまねく作用している4つの力の1つである電磁気力(現代物理学でも認められている宇宙エネルギー)に対応させたデジタル(bit)モデルとして再生できるのに…。

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ど忘れを思い出すまで

2018年04月19日 | 心理学

記憶現象の不可解さを体験した。

よく知っているはずのものをど忘れして、そしてそれを自然に思い出した。

そもそも私は鉱石の中ではアメジストが一番好きで、昔から原石などを持っており、今日は授業でスピリチュアルの話しを少しするためにパワーストーンであるアメジストのネックレスをして出校した。

その途中、学生にこの石の名を聞かれた時に答えようと、この石の名を思い出そうとしたが、全然出てこない。

思い掛けない「ど忘れ」に遭遇して焦った。
なんとか着く前に思い出さないと。

そもそもなんでこんな身近なものの名前をど忘れするんだろう。
しばらく縁遠かったとか、あるいは内心嫌いになっているとかだったら、説明がつく。
ど忘れというのは、忘却ではなく(なぜなら覚えていること(=保持)は確かだから)、それを意識の俎上に上らせる想起の最後の通路がなぜだか途切れてしまった状態だ。
記憶を成立させているニューロンの回路と意識の俎上との通路(ニューロンのつながり)が滞って、前に進まない感じだ。

だから、なんとかすれば思い出せる自信はある。
ただ、どうすれば思い出せるかが分らない。

記憶というのは、頭の中にどう貯蔵されているのかというと、互いの部分的共通点すなわち連想による順で並んでいると思う。

なのでまずは、石の名を思い出すため、その視覚像を表象する(持っている原石を思い浮かべる)。
そもそも首元に実物があるので、それを眺め、触ってみる。
だめだ、名が出てこない。

次は言語連想。
表象している視覚像から頭に浮かんでくる音韻を待つ。
ラ行が浮かんだ。
これを頼りにカタカナで連想されたのは「ラピスラズリ(瑠璃)」。
あとは「ラベンダー」。
ど忘れしている場合は、不正解はちゃんとわかる。 

リ、ル、レ、ロからはなにも出てこない。

とうとう大学に着いてしまった。
そしてすぐに授業。
幸い、私のネックレスを尋ねてくる学生はいなかった。

昼休み。
近所の店に買物に行こうと、校内の階段を降りて、玄関に向った。
目の前には薄茶の服を来た女性が立っていた。
その瞬間「アメジスト」であることを思い出した。
「ラ行」は無関係だったじゃないか。 

どうやら、ど忘れした原因は、アメジストに色が近いラピスラズリが意識上に陣取って、邪魔していたためのようだ。
実際、ここ最近はアメジストよりラピスラズリが気に入っていた。
でも邪魔するものかなぁ。

そして、思い出したきっかけもわからない。
連想法は、そもそもラ行が出て来た時点で失敗だった。
アメジストの”紫色”に色が近い”青い”ラピスラズリを誤連想させてしまったのは、ラピスラズリによる干渉の結果だ。

薄茶の女性とアメジストとの接点は思い浮かばない。
とにかく思い出そうと努力して、その努力の作業から抜けた時に、ふとなんの努力もきっかけもなく思い出すということがある。

もともと思い出すのに苦労するはずのものでないのだから、努力無く思い出してもおかしくない。

それにして、何で忘れ、そして何で思い出したのか、自分で説明できない。
これらはシステム1領域の現象なので、意識(システム2)はあずかり知らないのだ。
かくも記憶って不思議だ。

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夢の警告

2018年04月01日 | 心理学

夢を”分析(解釈)”するに値するかは、議論のあるところで、夢の中身は睡眠中の記憶の整理カスにすぎないという視点もあるが、私は「夢は無意識からのメッセージ」というユングの視点が気に入っている。

一晩に夢は複数回見るが、ユングによれば、それぞれ内容が違っていても一貫したテーマがあるという。
昨晩の数回の夢では、夢ごとに場面やストーリー、登場人物は異なっていたが、確かに海沿いを旅するというテーマが一貫していた。

ユング的な象徴解釈では、は無意識そのものを意味し、
は心の探究を意味する。
夢の中の私は、陸地(意識)に沿って海(無意識)と接しようとしていたわけだ。

実際、スピリチュアルな方向への関心が高まっており、システム3※の高次元の自己だけでなく、システム1の潜在意識のパワーにも関心を向けている最中だ(毎日そのトレーニングをしている)。
※システム1〜3は「心の多重過程モデル」の用語。 

そして目覚める直前の最後の夢は、私の今晩の夢シリーズの最終回(クライマックス)である。
その夢の中で私は、車を運転しており、海沿いの高架のハイウェイを快走している。
だが、目的地に向う分岐を見過ごし、しかもスピードを出したままだったので、沖に向かう急カーブを曲がりきれず、海の上の道路から空中に飛び出して、海に向って転落する。
落下中、絶望的な状況でなすすべもなく、死を覚悟した(この時の気分は現実では絶対味わいたくない)。
自分の声ではなく車外から女性の叫び声があがったところで目が覚めた(落下が夢だとわかってホッとした)。

海が無意識なら、自分が運転しているは自我(システム2)を意味する。

この夢は、私が自我のコントロールを誤り、その自我が無意識の海にはまり込んでしまう危険を示している。
すなわち、潜在意識への安易なかかわりに対する、潜在意識側からの警告夢とみなせる。

この警告を肯定的に解釈すれば、きちんと心の地図を見定めて、急がずに慎重に自我をコントロールしながら進みなさい、と読み取れる。

潜在意識に関心をもつと、潜在意識の方からコミュニケーションをとってくれる。
そのコミュニケーションツールが夢なのだ。
記憶の整理カスではない、メッセージ性のある夢を見させてくれる。 
そのメッセージをきちんと受け取るのが意識側の任務だ。 

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言い間違いという本音

2018年02月09日 | 心理学

フロイトが指摘したように、錯誤行為にこそ、抑え込まれていた本心が思わず表現される。

たとえば開会式を「閉会式 」と言い間違えた場合、それは「こんな退屈な開会式、早く終ってほしい」とか「まるで閉会式のような雰囲気」という思いが思わず出てしまったと解釈できる。

そういえば昔、紅白歌合戦のトリとつとめた都はるみに対して「美空…」と 叫んでしまったNHKのアナウンサーがいたが、彼はその時、都はるみは美空ひばりを超えた!と感じたということだった(後日談)。
やはり、心の中の叫びが、つい口に出てしまったわけだ。 

いやー、失言て恐ろしい。

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瞑想の2種類:多重過程モデルによる

2018年02月07日 | 心理学

私が向おうとしているサイキック・スピリチュアルな領域は、既存の「二重過程モデル」(システム1とシステム2)では説明できないが、その拡大版である「多重過程モデル」(私の最新論文(2018)では「四重過程モデル」と称しているが、さらにサブシステムが増える予定なので、数を限定しない名称にする)では、説明可能であることがわかってきた。

ただしこの話題は、まだ前学問的なレベルなので学術論文にはできない。
そのため、本ブログで、その幾つかを紹介する。 
まずはこの領域の基本である「瞑想」から。 

瞑想は、通常の意識状態ではない覚醒状態、すなわちシステム2主導ではない心の状態を実現するものである。
意識(システム2)とその補集合(システム1)しか想定していない従来の心理学(二重過程モデル)に対して、私の「多重過程モデル」ではシステム2の意識に代わる状態を複数示すことができる。
すなわちシステム1(無意識)とシステム3(メタ意識)である。
いいかえれば瞑想を、システム1的瞑想システム3的瞑想とにきちんと区別できるところがミソである。 

●システム1(潜在意識)志向の瞑想は、変性意識状態(トランス)を目指す。
システム2(意識)の活動水準を低下させて、潜在しているシステム1を解放するためである。
これは自己催眠状態であり、まさに睡眠時の夢見と同じく潜在意識の活動が主体となる。
ただそこでの異様な体験は、夢でのそれと同じく、潜在意識内の幻影(脳内再生)現象にすぎない。
夢がそうであるように、それは意識で制御できない妄想的体験である。
なので、この体験だけで自己超越ができたと思ってはならない。

オウム真理教で信者が懸命(強迫的)にやっていた瞑想はどうやらこのタイプである。
システム1の体験を受け取る(解釈する)システム2がそもそも妄想的思考に陥っていれば、妄想の悪循環に陥る。
このような悲喜劇はオウム真理教だけではない、今後も繰り返されるだろう。

●一方、システム3(超覚醒)志向の瞑想は、マインドフルネス(気づき)を目指す。
システム2が主体であることを降り、システム2(思考)を眺める高次の視点を実現する(もちろん、システム2が無視していたシステム1もシステム0も眺めの対象となる)。
この瞑想では、意識が通常以上にクリアになる。
すなわちシステム1的瞑想とは逆方向の状態である(この違いが重要)。
ただし思惟されるのではなく観照されるのみである。
システム3はシステム2の妄想的思考から自由になり、八正道の「正見」を実現することにつながる。

以上から、システム1の潜在意識を解放するには、それを受け取るシステム2が正しく作動していることが必要となる。
そのためにはシステム2を客観視できるシステム3の作動がまた必要になる。
言い換えれば、あやふやなシステム2下での安易なシステム1瞑想は危険ですらある。
回り道のようだが、仏陀が示したように、システム3瞑想を先に修得した方がよい。

ただし既存の(仏教的、認知行動療法的)「マインドフルネス」は、システム3の実現が目標で、システム1の解放には関心を示さない(気づくだけのシステム3では解放・開発という能動性は示せない)。
それに対して「心」の十全な活性化を目指すわが「多重過程モデル」では、われわれが本来備えている心の能力であるシステム1(潜在意識)の解放・開発も目標のひとつである。 

ということは、システム間の相互作用も考慮する多重過程モデルでは、システム3瞑想とシステム1瞑想は背反的なものではなく、それぞれが目的・役割の異なるともに必要な瞑想で、むしろその使い分けこそが必要なのだ。
その使い分けの原理は、システム3すら対象化するさらに高次のシステム4にある。
ただしシステム4については論文にしておらず、きちんと説明していない(本ブログには言及してある)。
実はシステム4の探究のため、サイキック・スピリチュアルな領域に向っているのだ。

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サイキックパワー初級クリア

2017年12月02日 | 心理学

スピリチュアルな志向性を解禁し、気功を中心にトレーニングを開始してきた。

もともと手から気を出すことはできたので、そこを中心に訓練すればいいと思ったから。

それとは別に、ダウジングの練習もしてみた。
まずペンデュラム(ダウジング用振り子)を購入し、少しのトレーニングで潜在意識で動かすことができた。
次にロッド(ダウジング用の棒)購入し、これはすぐに潜在意識で動かすことができた(ペンデュラムの学習効果)。
今ではアマゾンでこれらが簡単に手に入るからありがたい。 
”気”を感じない人でも、ダウジングならできると思うよ。 

気功のトレーニングをやっているうち、気を出している時、手からオーラが見えるようになった。

オーラの本を読んだら、オーラは気とほとんど同一のものだということがわかった。
さらに、イチ押しの本『あなたにもオーラは見える』(テッド・アンドリューズ著 成甲書房)を読んだら、利き手の人差指の先から出る涼しい”気”と思っていたものは、気功の本に載っていなかったが、この本には載っていて、それはオーラだという。
気功とオーラの本を読み比べると、”気”よりも”オーラ”の方が上位現象のような感じがする(ただし易理論の”気”は別格)。

というわけでオーラのトレーニングに重点を移し、オーラが見えるという「オーラグラス」をイギリスのネット通販で購入した(日本のアマゾンにはなかった)。
製品はほ紫外線をカットするというものでほとんどサングラス。
確かに肉眼より手のオーラは見やすい。

毎日やっている気功のトレーニングもオーラの理論を取り入れて、小周天や大周天(全身周天)の時、通過点であるチャクラを意識するようになった。

かように、気・ダウジング・オーラは体験できたので、サイキックパワーの”初級”はクリアというところか。

オーラに関しては、見えるのがまだ自分の手だけで、色も見えないから、まだまだ”入門”段階。

もともと外気(外在する気)を見たいというのがこの世界に入ったキッカケなのだが、気功の本は内気(身体内の気)の循環法ばかりで外気の本が無かった(易は外気の解説なのだが、可視化するという方向性は皆無)。
ところが、オーラを見る訓練がその道につながることがわかった。
その意味でもこれからはオーラのトレーニングを中心にやっていくつもり(オーラのトレーニングには”気”もダウジングも含まれるから)。

※この記事のカテゴリーを「心理学」に分類したけど、これは仮に心理学としても、「超心理学」あるいは「トランスパーソナル心理学」なので、 従来の科学的心理学とは別(私個人はそれらはひとつの心理学なのだが)。

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システム3からシステム4へ

2017年11月04日 | 心理学

瞑想がまっとうな心理的トレーニングとして心理学・精神医学の世界に受け入れられたのは、「マインドフルネス」が認知行動療法に取り入れられ、科学的なエビデンスや神経科学的実証研究においてその価値がみとめられたからである(瞑想は脳の構造的変化をもたらす)。

マインドフルネスは、私の「四重過程モデル」におけるシステム3という心の4番目のサブシステム(システム0が起点だから)の発現に相当する。

そもそも既存の心理学が「二重過程モデル」で充足しているように、通常の活動においては、システム1,システム2の2つで足り、日常では敷居の高い(といってもリラックスして瞑想するだけだが)システム3を必要とはしない。

だがいったん、より高次の心理システムへの扉が開かれると、マズローの「自己実現への欲求」の目覚めに等しく、社会的適応の先を行く、その方向への志向が追究されることになる。
四重過程モデルを提唱した私自身がそうで、最近は自らの四重過程すなわち、システム0〜システム3の枠を超えた5番目のサブシステムである「システム4」の開発を志向している。

ただ、システム4は、科学的心理学の枠を超えてしまうので、すなわち科学的エビデンスや神経科学的実証性を得ていないので、心理学徒としては安易には語れないのだが、かつてのシステム3がそうであったように、ここにも科学的アプローチが延びることを期待している(私自身、客観的計測を試みている)。

ではそのシステム4とは何か。
システム3が、既存のシステム1・2が無視した”純粋経験”を経験する、高度な受動性(気づき)を追究した心の超越(非日常)的状態であるのに対し、システム4はその方向性を反転して、潜在的能動性にもとずく超越的状態を作動させることである。
システム3で一旦否定された、システム2的な過剰な意味づけ(誤った信念)を反転し、それを「思い込み」の力として積極的に用いる。
もちろん、システム4はシステム3を前提としているため、日常的な誤った思い込み(バイアス、ヒューリスティックス)からは自由になっていることが出発点にある。
システム4はシステム1・2の日常レベルとは異なる次元の新たな”思念の力”を能動的に発揮する状態である。
その思念の力をすばりスピリチュアルな「サイコパワー」と言ってしまおう。

私は現在、マインドフルネス瞑想よりも、もっぱら「気」のトレーニングにとりかかっている。
後者の瞑想は、マインドフルネスのようなじっと坐って「受」に気づく静的な瞑想ではなく、いわばヨーガと同じく動的瞑想で、気を意識的に体内で巡らせ、あるいは身体動作を使って外気と内気との交流をするものである。
の感覚は受動的にやってくる(づく)のではなく、能動的に「そのになる」ことが必要である。
まさにこの点がシステム3でのベクトルを反転させることである。

システム3が仏教理論をベースにしているように、システム4もヨーガなどのインド思想をベースにしてもよいのだが、私は中国の気の理論をベースにしている。
気の理論は、人体においても経絡や経穴(ツボ)の分布など視点が詳細だし(チャクラも気の理論で説明できる)、外気についても説明原理があるので応用性が高い。
たとえばシステム3では仏教の第一原理である「諸行無常」観を得ることが、定常性に執着するシステム1・2の誤った信念を超越するために、目標となる。
それに対し、システム4では、システム3の結論である「事象は変化してやまない」を前提とし、では”どう変化するのか”を問題にする。
その変化理論が「易」である。
易は未来の特定点の状態を予言するものではなく、やまない変化の様態とそれに応じた対処法を示すもので、このダイナミズムを理解しないと、単なる「おみくじ」の類いだと誤解してしまう。

第二原理「諸法無我」も同様で、システム3で煩悩に満ちた個我への執着を解いたら、システム4では自我という現象を可能にするより根源的な”我”の作動を目ざす。
仏教でいえば、システム3はテーラワーダ仏教が中心的役割を果たすが、システム4だと大乗的な仏教が関連するだろう(ただし、無我論と霊魂論のせめぎ合いが発生する)。

だが、ここで無批判につき進まない。
あくまでも心理”学”として、人間の心のメカニズムを解明し、その機能を十全に実現するのが私の目的である。
科学的テストを受けていない既存のスピリチュアルな言説(易理論や仏教理論を含む)を無批判に採用するのではない。
それらの多くは、システム2による、ご都合よく理屈を辻褄合わせた「妄想」にすぎないものが多い。
ということは、それらを識別する眼がまずは必要であり、それにはシステム2の妄想力に距離をおけるシステム3の十全な作動(八正道の「正見」)が必要である。

たとえば、3千年の歴史をもつ易理論も現代化する必要がある。
陰陽の原理を現代物理学(たとえば電磁気力)と情報理論で再構成し、2千年前に結合された迷信的五行思想を排除すべきである。
現在最大6ビットである陰陽のビット数をさらに増やせば、説明原理は2の乗数に応じて詳細化できるので、素朴な物質論である五行思想は不要となる(「卦」の3ビットで、天沢火雷風水山地の8要素(八卦)になり、この時点で木火土金水の五行を凌駕している)。 

世の多くの人は、システム3に達していない状態で、すなわちシステム2の思考が心の最高レベルの状態でスピリチュアルな世界に接するため、システム3を超越した「システム4」と、システム3によって超越される「妄想的システム2」との区別がつかない(後者を前者と勘違いして走ってしまう)。
ということは、あまり性急に先走らず、まずはシステム2自体の常識的論理力を高め(このレベルで多くのインチキを見抜ける)、そしてシステム2的言語世界に距離をおくシステム3(マインドフルネス)をじっくり体験することが必要である。

システム4はシステム3の実現によって初めて可能となり、そのシステム3はシステム2の反省的思考によって創発されるのだから。

システム3の能力は人間なら全員持っているのは確かだし(ただしほとんどの人が実現していないのも確か)、
カエル館での経験から、少なくとも半数の人に、システム4の能力があると思われる。

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スピリチュアルな関心を解禁

2017年06月02日 | 心理学

もともと高校時代から宗教に関心があり、また両手から”気”を出すことはできるのだが(誰でもできる)、こういう”スピリチュアルな世界”と自分の本業である心理学研究との接点をもつつもりはなかった(この接点をもっているのはすでに「トランスパーソナル心理学」として存在している)。

ところがここ最近、次第にこの領域への接近が続くようになった。
まずは趣味でやってきた環境計測(気象→放射線→地磁気等)がこうじてパワースポットを測るようになって、かえってその物理的測定に限界を感じ、生体反応として自分自身でパワーを感じる能力を高めたいと思うようになった。

その生体反応は、心理学的には心理測定の客観化としての計測の意味をもつことから、心身相関現象(精神神経免疫学)に接近し、呼吸法や心拍変動の測定に関心をもつようになった(もともと脳波を使ったバイオフィードバックに親しんでいた)。

さらには、心理学における既存の「二重過程モデル」の拡大のため、マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)を自分の心理モデルに取り入れる必要性を感じた。

そして最後のそして決定的なひと押しとして、勤務先での学生クラブ「易学研究会」の顧問を頼まれて担当することになった。
易は学生時代から興味があり(『易経』は昔読んだ)、個人的経験からも易占は一番当たると思っていた。

以上の流れの結果、今まで封印してきたスピリチュアルへの関心を解禁することにした。
こういういくつもの流れが必然的に1つの方向に収斂すること自体が、私自身のスピリチュアルな反応といえる。
つまりそうすることが私の運命であり、次なるステップなのだ。 

まずはしばらく封印していたユング心理学(実は一番好き)に再接近する。
中途ハンバだった”気”のトレーニングもテキストやDVDを参考に再開した。
その結果、自分の手(気の出入口)のオーラが見えるようになった。

また、昔、シンガポールで購入したままだった水晶玉を取り出して、水晶透視のトレーニングを開始したら、透明の水晶玉が濁って見える第1段階に達した。
さらに波動計測のためのダウジング・ロッドを購入し、波動(気)との共鳴反応ができるよう訓練を開始。

以上の方向は、あくまで個人的修練にとどめ、学術研究に反映させるつもりはない(無理だから)。
なので公的活動として公言できないので、この場を借りて開陳する次第。

当面の目標は、パワースポットでの外気が判るようになりたい。
自分が感じてもいいし、ロッドの振動で表現できればなおいい。

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今年度の2論文

2017年02月28日 | 心理学

このブログにおける私は、主として”温泉好きな計測オタク”というスタンスだが、研究者としての本業は第一が心理学で、第二が「作法学」である。

心理学者としては、対人関係における心理的距離という心理現象を追求し続けていて、心理学の底を破って現象学的・存在論的な視点になっている。これがライフワーク。

作法学とは、作法を従来の歴史民俗学的視点ではなく(その視点だと作法は「故実儀礼」という扱い)、作法という構造体を学問的に分析する私が作った分野で、方法論もほとんど確立している。
作法の教育実践だけでなく、学問的分析もやっているのだ(たぶん唯一人)。

今年度は、久しぶりにこの2本柱の論文が出そろった。
心理的距離の方は「心理的距離尺度の両端」というタイトル。
 心理的距離を測定するには尺度が必要なのだが、その尺度化する場合の両端になりうる「自分自身」と「アカの他人」の距離価を問題にしている(すなわち前者は0で後者は∞なのか)。
この論文は尺度化に向けた途上である。

作法学の方は、「小笠原流礼書による作法体分析」というタイトル。
これは小笠原流礼法の歴史的礼書である『三議一統』と私が中世文学専門の同僚と共同で翻刻したその改訂版といえる礼書から、小笠原流礼法が内蔵している価値観を抽出したもので、これは礼法に関心がある人にはぜひ読んでほしい。

ともに私のサイト「山根一郎の世界」の「研究の世界」内の「最近の学術論文」からpdfで全文ダウンロードできる。

片や心理学的問題の現象学的理論構成、片や自分独自に構成した研究法による分析で、ともに私以外の人にとっては馴染みにくいと思う。
ただ、心理的距離は誰でも体験していることだし、礼法もわれわれの日常動作の事だから、対象としている世界はなじみがあるので、特有の術語を我慢してもらえれば、理解してもらえると思う。

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目を右上にそらす男の証言

2017年01月27日 | 心理学

ニュース番組で放火殺人犯(まだ容疑者)が逮捕前のインタビューに応じた映像が流された。

その中で、被害者と会った日時を尋ねられた容疑者は、一瞬、目を右上(本人側からの方向)に逸らして、具体的な答弁をした。

私はその動きになるほどと思った。

なぜなら、思考と視線の方向には関係がある(特に脳の側生化の度合いが女性より大きい男性について)という実証研究があるからだ。

それによれば、過去の体験を思い出す時は目を左上に逸らせる傾向を、想像の風景を思い浮かべる時は目を右上に逸らせる傾向が見いだされた。

すなわち、事実の体験を述べる時は男性は無自覚に左上に目を逸らし、作り話をする時は右手に目を逸らせるというわけだ。

それ以外にも、男のウソはばれやすいことがノンバーバル・コミュニケーションの研究で判っている。 

いいかえれば、女のウソは目を見ても判らない。

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マインドフルネスの心理学へ

2016年12月05日 | 心理学

昨日、津久井の城山を登りながら、「今自分はここにいるんだな」と実感した。
この実感は、中学時代に山に行き出して、傾斜のある山道を登っている時に、「気がつくと、自分は山を登っている」と実感した時から、登山中にのみ、たびたび体験している。

こういう実感て他の人も経験するのか不明だったが、後年、マンガ家つげ義春の『やなぎ屋主人』という作品に、主人公がやなぎ屋という宿の布団の中で「ぼくはいまここにこうしているんだなあ」と実感しているのを読んで、自分と同じ体験している人がいることがわかった。

この実感(実感以上でも以下でもない)は、日常レベルの意識と、多少は違った状態になっていることを示している。
それは、『意識障害の現象学』の著者・安芸の用語を使うと「意識水準XII(意識清明)」の一段上の意識水準XIII(これは私が追加)すなわち超意識清明状態に近い。

心のこの状態(心のサブシステムの1つ)を私は「システム3」と名づけている。
システム3は、日常的に作動しているシステム1やシステム2(既存の二重過程モデル)ではなく、意識している自己(システム2)を意識する非日常的なメタ認知状態であり、通常はマインドフルネスなどのトレーニングによって達成できる状態である。

中学の時、月一回の頻度で山に行っていたので、私の心にシステム3が作動するのは月に1度、山に登っている時というわけだ。
しかも、こうなるのは登り始めてある程度たってからで、逆に山頂に近くなると元の意識レベル(システム2)に戻る。
山頂という目標が目の前に出現したため、気持ちが「いま・ここ」から離脱してしまうためだ。
また山頂からの下りも、加速度のかかる身体運動の制御に心が奪われるため、システム3が作動する余裕がなくなる。

私にとってマインドフルネスは、システム3の作動の1パターンであり、システム3の下位概念となる。
だから、追究したいのはマインドフルネスを可能にするシステム3の心理学だ(神経科学的分析はすでになされている)。
論文になるまでには時間がかかるので、アイデア段階でもここに披露していきたい。 

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心理的距離の論文提出

2016年11月16日 | 心理学

ノルマとしている年2本目の論文が仕上がった。

編集委員は自分なので仕上がりが即提出。

これで研究者としての自分のノルマは達成。

帰宅後は祝杯といきたいが、あえて明日(木曜)に延期する。

論文のテーマは、ライフワークにしている心理的距離。
近ごろは、今まで否定していた尺度化を志向している。
その尺度の両端(自己とアカの他人)について、尺度上の価を考察した。
すなわち、自己は距離の原点となるわけだが、本当に点なのか。
むしろ自己内に尺度空間が存在するのではないか。
そしてアカの他人という最遠の距離は無限遠なのか有限距離なのか。
すなわち、客観化したい尺度を単に機械的に構成するのではなく、尺度空間にきちんと現象学(一人称)的な根拠を付加したいのだ。
そうすることが真にまっとうな心理学的尺度だと思っている。

自称「計測マン」からみると、心理学的尺度って、計測としてはけっこういい加減だ。

もちろん物理学的計測とは異なる基準でいいのだが、その基準がせいぜい相対的な統計分布でしかない。
対人関係の1変数ではなく、関係性そのもの、自他の存在論的間隙を示す心理的距離を尺度化するのであれば、それ相当の心理学的・現象学的・存在論的根拠がなくてはならない。
それを追求するのが、私の残された研究生活だと思っている。

現象学的探究を進めると、自分が自明視していた、すなわち通俗的観念で分かったつもりになっていた問題が次々と浮かび上がってくる。
先行研究を自明化して、それにデータを積み重ねる通常の”科学的”やり方と違い、おのれの自明視をえぐり出すことで、遡及的に現象の根源に接近する。
そういうアプローチをとって、心理的距離という現象を解明し、その解明にもとづく正確な測定のための尺度を作りたい。
通俗的な観念のままで安直に作られた尺度では、解明の道が塞がれてしまうからだ。

論文は来春に自分のサイトにてPDFでアップする。

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「Rの法則」に出演したが

2016年08月03日 | 心理学

本日のEテレの番組「Rの法則」にほんの短い間だが私が出ていた(動画と静止画)。

過去にもテレビ出演はあるが、全国ネットははじめて。

といっても10代向けの、教育というよりはエンタメ系情報番組なので、専門的な話はできず、ディレクターの質問に答えただけ(大学の研究室で)。

この日の番組のテーマは「怪談」で、私は恐怖感情についての論文をネットで公開しているので、検索にひっかかったのがきっかけ。

私のこの恐怖感情の論文は、結構評判で、今までもこのテーマで、市民講座の講演、やや知的な雑誌のインタビューなどを受けてきており、実は、今月にもまたこのテーマでの講演予定がある。

なぜ私にお鉢が廻ってくるのか。

おそらく、既存の恐怖感情へのアプローチは、”危険に対する反応”という行動生物学的視点に留まっているので、怪談などの”危険でない恐怖”に人が怖がりながらも楽しんでいるのを説明できない、いや関心すらないからだろう。

といっても今日の番組では、テーマである”怪談”を、”危険でない恐怖”の一例として説明することは求められなかった。
私としては、自分のオリジナリティが表現できず、煮え切らなさが残ってしまった。

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