今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

18きっぷで名古屋から帰京2021夏

2021年07月31日 | 

勤務先の大学の前期試験も昨日で終ったので、例年通り「青春18きっぷ」でのんびり帰京する。
この5回分のきっぷを期間中に使い切る予定なので、例年通り事前に書店で交通新聞社の「小型全国時刻表」を買いに行ったら、なんと表紙に「長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。」という文句が。
60年続いたが今回をもって”休刊”だという。

確かに、全国レベルの時刻表を必要とするのは、今ではいろいろな可能性をシミュレートする18きっぱーくらいだろうな。
私も日頃はネットの時刻表を利用しているし(そのネット時刻表も18きっぷ対応になっている)。
この最後の時刻表は永久保存版とするか。

さて、現実には名古屋−東京間の便はだいたい頭に入っているので、その時刻表は確認用にすぎない。
まず、名古屋で快速に乗って終点の豊橋まで行き、そこで浜松行きに乗換え、
浜松で改札を出て、浜名湖漁協のうなぎ弁当(1800円)を買い、ホームのベンチで、タレと山椒をかけてうなぎ弁当をかっこむ。
三日遅れの土用のうなぎのつもり。

さてここから静岡行きを待っていても、来ない。
実は用宗あたりで人身事故が発生し、ダイヤが乱れたため、1本運休になったようで、その次の便に乗った。
ところが、例によってJR東海の”静岡いじめ”のせいか、冷房効かずの車両に遭遇。
風は来るのだが、単なる送風なようで、車内は31℃を越える(携帯気象計を持参)
島田で降りて、熱海行きに乗り換えると、こちらは新しい車両で29℃。
たった2℃だが30℃を挟むせいか、体感的にはかなり違う。

ただ、ダイヤの乱れは解消せず、予定より15分以上遅れて熱海に着いたので、走って JR東日本の熱海発(高崎行き)の列車に乗り込む(残念ながら快速アクティは運行終了なので、豊橋−東京間は完全各駅停車)。
こちらはさらに涼しく28℃(長時間乗車のため、長袖・長ズボンが必要)。

いつもならこの時期は普段の客に18きっぱーが加わり、車内はいっぱいになるのだが、さすがに今年の夏も(去年に続いて)客が少なめ。

高崎行きは、川崎まで順調だったのだが、川崎−蒲田間で京浜東北線で走行中に接触音がしたというので、しばらく停車。
この結果、10分以上遅れて上野に着いた(御徒町で買い物)。

かようにいつもより乗車時間が長かったが、車両は比較的空いていて、その間ずっと読書にひたれた(読書時間が30分増えた)。
そう、18きっぷでの移動は、座席と冷房と適度に変化する風景空間での、貴重な読書時間でもあるのだ。


やはり感染爆発

2021年07月29日 | 新型コロナウイルス

この時期のオリンピック開催で恐れていたことの1つ、”コロナの感染爆発”が現実なものとなりつつある。

ただし選手や関係者に及んでいないことから、オリンピック開催が直接原因ではない(試合は3密を実現しているが、陰性が確認された選手だけが出場)。
だからテレビで応援している限りは、感染に影響しない。
季節(湿度)的にも感染が下火になってもおかしくないのに、感染者が激増しているのはなぜか。

名古屋の市営バスに乗っていたら、マスクをしない老人が乗ってきた。
屋外でノーマスクの人を見たのはこの1年なかった。
この暑さ+ワクチン接種の安心でマスク防御に気の緩みが生じているようだ。

今までの防御体制+ワクチン接種でこそ、感染を抑えられるのに、ワクチン接種に安心して防御を弛めたら意味がない。

また、(不要不急の如何によらず)外出それ自体が問題なのでなく(マスコミは外出それ自体を問題視しているが)※、他者とのマスクを外しての接近(会食、会話、カラオケ)が問題なのは分かり切っているのに、今だにそれをやってしまう人がいるなんて、なんて学習能力がないのだろう(一次関数的思考者は、”適度”というバランス感覚がないためか)。
「正しく恐れる」ことが被害を防ぐというのは、自然災害だけではないと思う。

※:外出での孤食・黙食までも否定して、不必要に自宅軟禁を強いることは行き過ぎだと思う。

ちなみに、恐れていることのもう1つは、この暑さによる選手のダメージ。
テニス選手からは懸念が出ているものの、倒れる選手が出ていないのは幸い。

慣れっこなった緊急事態宣言の効果よりも、夏休みという要因が加わることに危惧している。


聖火を見に行く

2021年07月25日 | 時事

このクソ暑い時季の開催には反対(選手のため)のオリンピック”延期派”であった私だが、予定通り開催されたからには、人生で2度目の地元開催(考えてみればこれって結構貴重)をそれなりに味わいたい。

各競技たけなわの2日目の日曜の昼前。
国立競技場で点火された聖火が江東区有明の「夢の大橋」に移されたというので、このクソ暑い時季ながら、その聖火を見に行く事にした。

火に聖性を付託するのは人類にとって普遍的な現象であるから、人類の祭典の象徴である聖火を拝みに行くのも、オリンピック見物として意味があるのだ。

地下鉄を乗り継いで豊洲から無人運転の”ゆりかもめ”に乗る。
”ゆりかもめ”は、対岸に都心の高層ビルを望みながら、豊洲から有明・青海・台場というベイエリアを周回するので、メガシティTokyo(≠江戸情緒)の観光にふさわしい。

有明の自転車競技場(写真)を眺め、行列がある有明コロシアム(大坂なおみが出場)を過ぎ、「青海」(青梅ではない!)で降り、「ヴィーナスフォート」の建物を抜けて「センタープロムナード」を右折して、青海と有明の間の運河にかかる「夢の大橋」を目指し、灼熱の下、日傘を差して進む。
人出は多くはないが、三々五々という感じで距離をおいて歩いている。
周囲は大観覧車など、いろいろ高い建物があり、大都市の中の公園という雰囲気。

夢の大橋に近づくと、中央に聖火が見えてきた。
聖火は大橋を渡った有明側にある。
聖火の周囲は策で囲まれて、そのまわりに人が集まっている。
係員が大勢配置され、見物客が策に近づきすぎると、「離れてください」と指示を出す。
聖火の脇を通る通路上では、立ち止まるなとずっと言い続けている。

聖火はアングルによっては器の陰になって見えなくなるので、人の合間を縫って適度の位置でカメラを構える。
時に、ヘッドホンをiPodから携帯ラジオに切り替え、オリンピック中継をBGMに撮影態勢に入ろうとしたら、
ラジオの中継は水泳400メドレーで金メダルを取った大橋悠依の表象式で、丁度よく君が代を聴きながらの聖火撮影となった(写真は聖火を拡大)。
これって、個人的にラッキー(少なくとも私にとって、東京五輪は相性がいいかも)。

ただ、この暑さの下では用事が済んだら長居はしたくない。
なので、撮影を済ませたら、そのまま最寄り駅の「東京ビッグサイト」駅に向った。
午後は自宅でソフトボールの日本・カナダ戦をテレビ観戦する。


東京五輪開会式を途中まで観た

2021年07月24日 | 時事

昨晩は、東京の実家でオリンピック開会式を観た。
なにも地元開催だからというわけでもなく、オリンピックは普通に開会式から観る。

ただ今回に限って、時間帯の遅さとあまりの長さに耐えきれず、ピクトグラムの最初あたりでテレビを消した(ドローンの地球を見て満足)。
開会式のコアとなる部分は、選手の入場行進と開会宣言、そして聖火点火の3つなので、これらを中心にしてほしかったが、逆に演出側はそこ以外にあえて見せたい部分を作りたくなるのだろう。
それらは観客にとっては幕間の余興にすぎないのだが…

自分が観た部分で、印象に残ったのは、 まずはMISIAの君が代独唱。
あの短い歌の、静かに始まり、やがて盛り上がって落ち着くメロディの中での、そうくるかという”間”の入れ方に、オリジナリティを感じた(アーティストはオリジナリティを出して当然)。

そして、選手入場行進。
200を越える参加国(+地域)すべてなのだから、時間的には長大になるのだが、彼らこそが主役であり、単なる行進だが、その中にも各国それぞれの個性が出るので、意外に見飽きなかった(自分はゲームに疎いので、行進に使われた曲はノータッチ)
それは選手たちが楽しそうで、また美しかったから。
アフリカの国々のカラフルな衣装、お姫様のようなカザフスタンの女性旗手(36)、上半身裸で筋肉美を披露するトンガとバヌアツの男性旗手。
やはり服装は民俗衣装を活かした方がいい(今回の日本選手のを見てますますそう思う)。
日本も一度くらい和服(女性は振袖、男性は裃に袴)にしてみたら?。

ただ、複雑な国際情勢も反映される。
自国から参加できない「難民」としてのアスリート(国家を失ってもオリンピックに出場出来る!)、今回が最後の出場になると思われる「香港」、それに一人だけのミャンマー(ビルマ)。
NHKの実況では後の2者について言及がなかったのは残念。

翌朝、ネットでは開会式の酷評を散見するが、「余興」部分については好みでの評価となる。

ちなみに、前回の東京五輪ですばらしかったのは、開会式ではなく、閉会式の方。
あれこそ予定調和的儀式ではない、無秩序な祝祭空間であり、「平和の祭典」にふさわしいフィナーレだった。
コロナ第5波の中で、台風もやってくる今回、無事に閉会式を迎えてほしい。


東京オリンピック開幕前日に思う

2021年07月22日 | 時事

世間は本日から4連休らしいが、我が勤務先は本日は普通の授業日で、明日も普通に定例会議がある。
もっとも大学自体は、来月はずっと夏季休業なので、休業直前の連休返上など痛くもない。

むしろ、オリンピック開幕直前でのゴタゴタ続きに、日本人の仕事能力の低下が露呈されて慄然としている。
コロナ関連のゴタゴタはある程度は致し方ないとしても(住民と選手の感染爆発だけは抑えてほしい)、それとは無関係の、エンブレム問題から続いている日本の”組織”のダメさ加減(と人材不足)に情けなくなってしまう(このダメさ加減は原発事故でも明らか、いや一部に指摘されているように太平洋戦争以来か)。

せめて、オリンピックに出場するアスリートには、この時のために人生を賭けてきた一人一人が全力を尽くして感動的なシーンをどんどん作ってもらいたい(日本選手は人材不足でなさそう)。
オリンピックは、開催地がどこであろうと、人類の最高能力が披露されるすばらしいイベントである。
どうせ開催されるなら、大会の成功を祈るばかり。
ただ会期中も、自然災害を含む新たなゴタゴタが続きそうで心配だが…。


『養生訓』を読んでみた

2021年07月18日 | 作品・作家評

貝原益軒の『養生訓』といえば、現代の健康本にもたびたび引用されるほどの、いわば日本の健康本の嚆矢といえる書だが、だからといって江戸時代の医学レベルの書が、現代医学に準拠した我々の健康観にどれほど情報的価値があるか疑問だったので、しばらく読む気にはなれなかった。

最近、自分が東洋医学に親しむようになり、84歳という、江戸時代ではかなりの長寿※を実現した益軒のノウハウにも普遍性があるのではないかと思い、この書(『養生訓:すこやかに生きる知恵』前田信弘(編訳):全訳ではない)を手にした。
※2019年での日本男性の平均寿命は81.4歳

まず、益軒その人だが、本の解説によると、5歳で母親に死別し、12歳で次の継母とも死別した。
こういう幼少期をすごせば、現代では「愛着障害」に分類されてもおかしくないが、親に恵まれない歴史上の偉人がいかにそれを克服したかは、皮肉な事に『愛着障害』(岡田尊司)という本を読めばわかる。
それから、彼は晩婚ながら愛妻家で、その22歳年下の妻が没した翌年に彼も寿命が尽きた。
妻に先立たれた彼は、人を遠ざけ、家に篭り、一人静かに死を迎えたという。
ちなみに彼の例だけでなく、封建時代にも全うな夫婦愛が存在していたことは確信している。

益軒は、本来的には儒者で、医師を兼ねていた(東洋医学=気の陰陽論なので、当時の医者は易経などの儒教経典も必読)
その医学はもちろん伝統的東洋医学(鍼灸、漢方)だが、それらを盲信せず、無闇に医術に頼るなと言っている。
まずは日常の養生が大事なのだ。

なぜ養生を勧めるのか。
儒教や道教を生んだ古代中国では、長寿を求めることは善であった。
儒教では、人として「在る事」それ自体が幸福とされる(在る事は苦だという仏教とはここが異なる)。
だから儒教では、自分を幸福に在らしめてくれた親(そして先祖)に感謝すること(孝)が第一義となる。

さて、その養生の極意は、節度を守る、すなわち恣(ほしいままま)にならないことである。
もちろん儒教の「中庸」の教えに基づく。
それは決して禁欲ではなく、「楽」を肯定する。
その楽(在る事)をより長く確実に味わうには、恣ではなく節度が必要なのである。
同じ楽でも求めるのは、尽きない(激しい、一時的な)快楽ではなく、満ち足りた(程よい、持続的な)安楽である。

より具体的には、心を安定させ、体を動かすことだという。
気を安定させ循環させる、動的平衡を維持するためだ。
病気の原因は気の乱れであり、気の乱れは外邪(寒暖など)か、心の乱れからくる。

気を安定させるには、下腹部の丹田に気を収めて、気の上昇(交感神経興奮)を防ぐこと、すなわちリラックスして副交感神経優位に保つことである。

体を動かすのは、気の停滞を防ぐためで、益軒は「座りすぎ」を戒めている(現代人も耳に痛い)。

食の節度、すなわち食事中に満腹を求めないのは、実は食べ終ってから満腹感がやってくることを知っているためである。

益軒の養生論に通底している、欲に対して節度を求める、という態度は確かに情報としては今さら感がある。
だが、それは結局、普遍的な法則だからだ。

なのでそれを改めて解説したい。
節度は健康法だけでなく、同じ儒教に基づく「礼法」の極意でもある(礼節)。
節度と対立する放縦(恣)は、君子に対する小人が取る態度で、一方向にひたすら進む。
これを数学的に表現すれば、一次関数的態度である。
すなわち、単調増加(減少)関数であり、直線的、(直線)相関関係である。
直線的に進む態度はやがて先鋭化し、思想の奴隷(原理主義)になりやすい。
かように極端化する危険性があるものの、論理的に単純なので、受容されやすい。
すなわち素朴で幼稚な思考態度である。

一方、節度は、二次関数的態度である。
すなわち、最適(極大)値があり、極大値を挟んで関数関係、たとえば価値評価が逆になる。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」(論語)、ヤーキース・ドットソンの法則(心理学で数少ない法則)、バランス感覚、相関比(曲線相関)、最適工学である。
世の多くの事象はこれに該当しており、現実妥当性が高い。
だから生存価すなわち健康度も高くなる。
論理の単純さより現実性を重視した、成熟した思考態度である。

二次関数的な節度とは、欲を追究し過ぎず、最適水準に留まる態度である。
それは、”満足”、すなわち満腹を求めない「腹八分目」の態度であり、
いうなれば二分目の不達成を残しておく態度である。

益軒は、一次関数的態度を勧めない理由として、「楽の極まれるは悲の基なり」と言っている。
これは陰陽理論の「陽極まって陰になる」論理に基づいている。
二次関数では増加曲線が極大値を境に減少曲線に転じるように、楽の追究(極致)は苦に変換してしまうのだ(仏教も苦の原因を渇愛としている)。
だからピーク手前の上昇位置にあえて留まった方がいいというわけだ。

この節度を益軒は食だけではなく、人づきあいにも適用している。
もう少し食べたいという所でやめるように、もう少し居たいという時点で帰るべきという。
これは礼法での「残心」※につながる。
※剣術での残心は、納刀の際も油断せず攻撃心を残しておくことだが、礼法では、お辞儀が終っても相手に対する敬意を残しておくこと。
残心、すなわち「心残り」という満たされない状態を大事にする。
まだ居たいという、後ろ髪引かれる気持ちで帰るからこそ、「また会いたい」という気持ちが残る。
長居しすぎて、もう顔を見たくない気持ちにならずに済む。

放縦にならず、節度をもつとは、二次関数的態度によって実現する残心という主観的には満たされないが客観的には最適状態を引き受けることができるかにかかっている。
目先の欲にとらわれない、成熟した心ならできる。


慰労の温泉定宿

2021年07月11日 | 

7月に入り、2週連続で日曜勤務(先週は大学院入試、今週=今日はオープンキャンパス)。
もちろん、平日も普通に仕事なので(先週の土曜は授業)、いいかげん温泉宿で慰労しないと…。
いまだ不要不急の外出がはばかられるご時世ゆえ、どうせ泊まるなら一番泊まりたい(応援したい)お気に入りの定宿、しかもせっかくの慰労なので2泊(月曜は在宅勤務日)する(ちなみにワクチン2回接種済)
1泊だと午後チェックインして翌朝10時前にチェックアウトでせわしない。
2泊だと2日目が丸一日旅先ですごせるのがいい。

というわけで、模擬授業を担当したオープンキャンパスを終えて、そのまま車で中央高速道を飛ばし、東濃の最奥にして信州木曽路入口の中津川の定宿に直行。

夕方着いて、まずは総ヒノキの浴室に行き、ヒノキ風呂の温泉に浸かる。

実は、6月からずっと名古屋宅ではシャワーのみにしている。
5月末に水道工事で断水の時、台所の蛇口を開けたまま出勤して、夕方戻ったら、水が出しっ放しになっていた(おそらく6時間はその状態)。
このため、2ヶ月ごと請求が来る水道代が幾らかかるかわからないので、6−7月は水道代節約のため浴槽を使わず、シャワーだけにしているというわけ。
ということなので、湯船に浸かること自体が久しぶり。

1泊目は素泊りにしたので、入浴後の夕食は併設の日帰り施設のレストランで、枝豆をつまみに生ビールを飲み、天ぷらせいろ(天ざる)をメインにする(木曽に隣接するこの地も蕎麦の産地)。
岐阜は緊急事態宣言とは無関係だが、酒の提供は19時までなので、明るいうちに済ませる。

初日の今夜くらいは仕事を忘れて、持参した(ハンモック感覚の)リラックスチェアでボーッとする。
寝る前にまたひとっ風呂浸かり、リラックスチェアで酒とつまみを嗜みながら、映画を観て、眠くなったら寝る。
素泊りだから、宿の早い朝食に合わせて起きる必要もなく、睡眠を優先し、その後、客のいない朝風呂に入る。

追記:2022年3月、残念ながら、定宿でなくなった→定宿だったのに


線状降水帯は”線状”が重要ではない

2021年07月10日 | お天気

「線状降水帯」という用語が、一般の天気予報・防災情報でも使われるようになった。
そこでテレビでも早速、この用語を使っているが、ある番組では「線状」にこだわって、どのくらいの長さが該当するのかを問題にしていたが、気象庁では長さについての定義はないことも紹介していた。

線状降水帯は、気象レーダーを使った「高解像度降水ナウキャスト」による、上空の降水帯(雨雲)の実況と予測情報(気象庁のサイトでは「ナウキャスト」)で表現されるもので、強い降水域が細長く線状に拡がったものである。

なぜ、線状になるかというと、おおもとである梅雨前線と同じ原理で、湿った空気(風)が収束(合流)している場所が線状に拡がっているためで、そこでは収束した空気が上昇して雲が鉛直方向に成長して積乱雲となり強い雨をもたらす(ただし積乱雲1個の寿命は短いので、積乱雲1個がもたらす強雨は短時間=夕立)。

降水帯が線状であることは、低気圧の中心部のような”面状”よりは狭いので、それ自体に災害危険性があるのではない。

ただし線状に延びていることで、川の流域全体が強雨域になり、洪水の危険性が高まることはありうる。
もちろんそれは降水帯の線と川の流路が一致している場合に限られるが、関東の鬼怒川に沿って線状降水帯ができて氾濫した事実(2015年9月)は記憶に新しい(→河川氾濫の恐怖)。

線状降水帯が、災害と結びつきやすいのは、その線状降水帯が停滞する場合である。
言い換えれば、収束域が停滞して水平方向に拡大して線状降水帯となった場合(地球規模の停滞前線である梅雨前線はその大規模なもの)、そこでは積乱雲が同じ場所で世代交代するため強雨が持続することになる。
すなわち、(本来なら短時間の)強雨が長雨化するという、最悪の状態になる。

これを確認するには、ナウキャスト画像を動画にして、線状降水帯が停滞して移動しない(あるいは次々にやってくる)場合だ。
ただし動画は”過去から現在”で確認する(”現在から未来”の動画は、”現在”の機械的な移動なので停滞は確認できない)。

停滞している場合は、短時間強雨※1と、総雨量が多い多雨による災害の両方(すべて)※2の発生を覚悟しなくてはならない。

※1:マスコミは好んで「ゲリラ豪雨」と言いたがるが、そんな下品な用語は気象学には存在しない。

最悪の気象災害なので、早急に安全な場所に避難する(自宅の方が安全ならばその限りでない)。

※2:気象災害の世界では、短時間強雨(時間雨量50ミリ以上)と連続的降雨の総雨量(200ミリ以上)とは別個の災害要因であることが判っている。前者は道路の冠水、中小河川の増水、がけ崩れなどで、後者は洪水、地滑り・土石流などである。だから気象庁の雨量情報もそれぞれが別個に伝えられている(天気予報では”地方”単位、しかも「多い所で」とあいまいな表現なので参考にならないが)。
だが、情報を受ける側にリテラシーが不足しているようだ。後者のみに該当した伊豆山の土石流災害は、この情報リテラシーの問題も関係している(市役所レベルで)。人々の防災情報リテラシーを少しでも高めるために、われわれ防災に携わる者はこうして情報発信を続けている。

実は、この種の気象災害は、必ずしも”線状”降水帯だけが原因ではない。
線状より狭い点状の収束域に次々と発生する積乱雲(短時間強雨の連続)による場合がある。
これはナウキャストではなく、気象衛星画像で雲が点状の降水域を頂点に三角状に拡がる「テーパリング雲」として確認される(右画像は、2017年7月の九州北部豪雨の時のテーパリング雲→九州北部に発生した恐ろしい雲)。

この雲が確認されたら、線状降水帯より範囲こそ狭いが、強雨と多雨による同じ内容の災害が”ほぼ確実”に発生する(なので私はこの雲を衛星画像で確認すると、その直下での惨状が想像されて顔面蒼白になる)。

すなわち、強雨域の停滞こそが恐ろしいのであり、その意味でも単に形の”線状”に意味があるのではない(移動する寒冷前線に沿った降水域も形は線状になる)。

気象庁があえて「線状降水帯」という場合は、単に形態が該当するものではなく、停滞性の危険な降水帯を意味しているはず。


不倶戴天のアイツ

2021年07月09日 | 生活

”共生”を旨とするわが身ながら、どうしても同じ天の下を共有できない、「不倶戴天」の相手がいる。
その天は天井のことで、ひとつ屋根の下に共に居ることはどうしても容認できない。

その相手とは、

ゴキブリ。

昨晩、眠くなったので、いざ眠ろうとしたら、部屋の片隅にゴキブリが這っているのを見てしまった。

見た以上、平常心ではいられない。
全身の血が逆流する。
眠気はいっきょに消えて、戦闘モードに入った。

すでにゴキブリは視界から消えたが、殺虫スプレーを取り出し、居た付近に噴霧する。
幸い、ゴキブリは奥には入らず、手前に出てきた。
そこで箒をとり出し、ゴキブリを箒の先で打ち据えて、裏返しにし、
仰向けになって逃げられない体勢にしたところで、箒で玄関に掃き出し、
さらに玄関を開けて、深夜の戸外に追い出した。

ゴキブリとの同居は断固拒否するが、屋外で勝手に生きる分にはかまわないので、
殺すことはせず、こうして追い出して終りとしている。
翌朝、玄関の外を見たら、いなかったので、どこかに去ったのだろう(もう来るなよ)。

しかし、なんでゴキブリに対して、これほどまでに強い拒否感を覚え、攻撃的に出るのだろう。
思うに、あの卑屈なまでのせせこましい動きが、かえって人間の狩猟本能・攻撃心を解発※してしまうのではないか。  ※:releaseの動物行動学用語としての和訳
ネズミを見つけたネコの状態に。
もしカブトムシのように悠然と動いているなら、こうまで攻撃的にならないのでは…

そういえば、この仮説を支持する経験があった。
以前やはり室内でゴキブリを見つけた。
だが、そのゴキブリ、丸々と太っていて、そのせいか動作が鈍く、障害物を乗り越えるにも苦労している様子。
私が接近しても、せせこましく逃げる様子がない。
私を怖がることもせず、悠然と歩いている。
こうなると、こっちも攻撃心が解発されず、嫌悪感も抱かなくなり、ついにはペットのような親近感すら覚えてしまった。
なので、同居を容認した。
後にも先にもこの1回だけ。
ただ、餌には乏しい環境なので、飼うことはせず、後日室外に解放した。

わが名古屋の孤寓は3階にあるのだが、その程度の高さなら、蚊はもちろん、ゴキブリも侵入可能。
家にいる時、室内に風を通すために、ベランダ側の窓と玄関を開けっ放しにしているのがいけないようだ。
玄関から堂々と入ってくるところを東京の実家でも目撃した。
コイツとは棲み分けがお互いのためだ。


土砂災害で生死を分けるポイント

2021年07月08日 | 防災・安全

熱海市伊豆山での土石流災害は、人災的要因が明らかになってきた。
ただ、それを含めて、この災害の危険性は、日本各地に散在している。
しかも、梅雨末期の今が、最も危険な時だ。

そこで、原因はどうあれ、土砂崩れのパワー(”山津波”といわれ、雪崩に相当する)の直撃を受けた時点での、生死を分ける最後の分岐点について、頭にたたき込んでほしいことがある。

事前の戸外への避難(水平避難)のタイミングを逸して、家にいて土砂災害に直撃された場合の話だ。
生死を分ける最後の行動は、「垂直避難」にかかっている。

1階ではなく、2階以上に逃げること。
今回も、同じ家にいて、これが(家族の間での)生死を分けた。

さらに、同じ2階以上でも山側でない空間に移ること。
こうすれば、たとえ家が破壊されても、その空間は土砂の表面を流れて(内部に巻込まれず)、助かる可能性が高くなる。

ただし、最後の手段である家内の垂直避難の方向は、必ずしも”階上”とは限らない。
それは災害の種類によって異なるのだ。
これらも含めて頭にたたき込んでおいてほしい。
自宅内の避難先:例題


都議選の結果

2021年07月05日 | 時事

昨日は、日曜ながら大学での業務のため、名古屋にいた。
そのため都議選は期日前投票をしてきたのだ。

さて、昨晩、NHKではなんと都議選の開票速報を全国ネットで放送していたので、名古屋の地でそれを観ていた。
まさに国政選挙扱い。
有名人が出る都知事選ならともかく、私のような外部に居る都民以外にとって、東京都の市区単位選出の都議の情報に全国的価値はあるのだろうか(→あるから放送している)。

そしてその結果は、都民ファーストの壊滅と引き換えの自民圧勝という事前予想に反して、自民は第1党にはなったものの都民ファーストも議席こそ減らしたが第2党に留まった。

これは、コロナの最大感染者を出している地で、オリンピック開催に進んでいる東京の在り方への批判が、知事側ではなく政権側に向った結果だ。
知事の微妙なタイミングでの潜伏と復帰は、期日前投票をした者から見れば、プラスの影響はない。
ただ都民ファーストへの支持は、あくまで政権への批判票の行き先であって、積極的支持の結果ではない(圧勝した前回と比べれば”失望”という審判)。

都議選が全国的に注目されうるのは、それが次の国政選挙を占う前哨戦としての価値があるからであって、この結果が、東京主催のオリンピック開催に影響するものではないのはわかってはいる。
その点が意思表示をした者としては残念だ。

追記:東京の感染数増加とともに、”無観客化”には少なからず影響を与えたようだ。


熱海市伊豆山での土砂災害:動画リンク

2021年07月03日 | 防災・安全

本日3日(土)、「安全学」という防災の授業の最終回を遠隔で担当した。
そのさなか(後で知った)、静岡県熱海市伊豆山(いずさん)で、すさまじい土砂災害が発生した(20名ほどが安否不明)。
毎年、梅雨末期と台風上陸時には死者が出る災害が発生しているが、今年も例外ではなかったか。

現場住民による投稿動画をリンクする(リンクはじきに切れる)。
目の前で車や家が土石流に呑み込まれていく。
これが住宅地を襲う土石流のリアルな姿だ。
動画1走湯山般若院付近
動画2:1の別アングル(赤いビルの裏から)  
動画3:下流のコマツ屋製麺所付近の別の土石流(音声なし)

伊豆山は(地名に反して顕著な山ではなく、むしろ谷)、箱根火山外郭の岩戸山(734m)山麓の斜面上ながら温泉(=地下水)も湧出する所で(元は修験道の拠点)、熱海駅から路線バスもあり、それなりに住宅や宿が集まっている。
そしてその中央に、「土石流危険渓流」(右図のオレンジの帯)が流れていて、まさにこの渓(たに)が流路となって今回の土石流が流れた。
※:アプリ「スーパー地形」からコピー
動画1・2と3は同じ「渓流」のもの(右図の中央にある左上→右下の帯)。
今日だけでも土石流は繰り返して発生している。

そしてこの「渓流」沿いに道路が走っているので、土石流は道路上を流れた(車と遭遇)。
しかもその「渓流」内になんと住宅などの建物もある。
だから住宅が破壊されて被害者が出た。

なんでこんな危険な所に住むのか、と訝(いぶか)しむなかれ。
日本の75%は山地で、25%しかない平野の居住者以外の日本国中の人たちは、このような”土砂災害危険箇所”※に居を構えなくてはならないのだ。

※:「土砂災害危険箇所」として土石流危険渓流・地すべり危険箇所・急傾斜地崩壊危険箇所のいずれかに指定されていた所は、現在、表現がより穏やかな(危機感がゆるい)「土砂災害警戒区域」に置き換えられつつある。

もちろん(上の”区域”は公開されており)住民はそれを承知の上で居住しているはずなので、今回のような総雨量が多い雨の時は、まずは土石流・地滑りの警戒(=避難の一択)を最優先すべきだった(総雨量は多くない短時間強雨の場合は、土石流ではなく崖崩れに警戒)。

言い換えれば、災害リスクの観点から「私だったら、ここには住まない」と判断せざるをえない居住地は、日本のあちこち(都内も含む)に存在する。

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7月4日 追記:地質図や土地条件図で調べてみたら、”伊豆山”地区である舌状の谷全体は、土石流によって形成された扇状地で、この地は本来的に土石流の通路だったことがわかる
だから、もしこの谷に人工の手を加えるなら、当然治山事業であるべきだが、現実には、流路となる谷は宅地開発で人が住み、そして土石流の川の源頭には産廃場があり、周囲には
メガソーラーなどが造られ、産廃場は残土(土石流の材料)の捨て場(盛土)となっていた。
結果的に、人の手によって土石流災害の発生を促進していたのだ。
今回の長雨自体が記録的だったが、それに加えてこの盛土が土石流を起こしやすくしていた(複数ある「渓流」の中で、この渓流だけに土石流が発生した理由)。

災害被害は、自然的要因と人的要因の相互作用で発生することが如実に示された。