今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

関東の積乱雲に遭う

2014年06月29日 | お天気

連日、関東では積乱雲が大暴れ。

下層の南からの湿った空気と上層の北からの寒気が関東で遭遇し、上下に激しい対流が発生し、空の暴れん坊・積乱雲が一列に発生する。

帰京して三日目、私も始めて関東の積乱雲の洗礼を受けた。

近所の建築中の新居を見学した帰り、雷鳴が轟き、空が暗くなった。

交差点で信号待ちしていると、大粒の雨がボタボタ落ちてくる。

青信号になる頃には、強い雨が本降りとなり、道路に白いしぶきが上る(強度20mm/h)。

真上の空は暗いが、南の空は青空。

問題は真上の積乱雲がどの方向から来て、どちらに向うかだ。

本来ならネット動画で確認すべきだが、今はそれは無理。

雲の動きを見ると、雲底近くのちぎれた積雲は南から北に向っている。

それなら、頭上の積乱雲は北に移動し、ここ付近は強雨域がかすれるだけだろう。

実際、ここ連日もこのあたりには積乱雲は来なかった。

そう判断して、今の強雨をしばらく見過ごそうと、店の軒下で傘を差して雨宿りをした。

周囲の人は傘がないので雨宿りをしている。

ところが雨は一向に弱くならず、かえって強くなる。

雨足の傾きを見ると、北風だ。

しまった、この積乱雲は南下していたのだ。

そして突風が吹き、私の折畳み傘が形を崩され、一面は白くなり、雨は轟雨となった(強度50mm/h以上)。

傘を壊すほどの風を伴った強雨なので、もう全身横からの雨ざらしで、雨宿りは無意味。

鞄内のパソコンと、手に持ったiPadminiを気遣いながらも、轟雨の中、家に向って走った。

都市部だったからこそ身に危険はなかったが、強度50mmは道路が冠水する強さ。

家にたどり着いた時は、服ごと大量に水あびしたばかりのような風体。

早速ネットで雨量強度を確認したら、近傍の「豊島」で10分間雨量が12mm、すなわちその10分間は強度72mm/hの「ひじょうに激しい雨」だった。

積乱雲の雲底が南風だったのは、積乱雲を移動させる風ではなく、成長する積乱雲が吸い上げる風だったのだ。
積乱雲を動かす風は、下層ではなく、中・上層なのを後から思い出した。


オーラが見えた?

2014年06月28日 | パワー・スピリチュアル

あらゆるものを測りたい、すなわち見えないモノを可視化して確認したい私は、それが出来そうなら、少々怪しげな装置でも手を出すのに躊躇しない。

私の霊感を鍛えてくれた「お化け探知器」は実に満足している。

怪しげといえば、「パワースポット」の「パワー」とやらを測りたいのだが、パワースポットの認定者は気功師なので、なら「気」を可視化したい。

その可能性の1つが「オーラ」らしい。

そこでオーラが見えると謳う「オーラスコープ」という製品をネットで購入した。

そもそもサイトの主人自身「もし、これがオーラだとしたら…」と記しているように、ちょっと距離をおいている。

でも、この値段でオーラが見えるとしたら、めっけもん。

この製品、LEDランプの点滅周期をアナログ的に変更するだけの装置で、

暗いところでそれを点灯し、12-15Hzの周波数あたりにして(アナログだから目分量)、その光を壁にあてて、その手前に手をかざすと、指先からオーラのようなものが見えるという。

実際、やってみて、気づいた。

この現象、気象にあると。

太陽が西に傾いて山や入道雲の背後に隠れた時、山や雲の境界線からオーラのような光が出て、時には山や雲の影が本体の上に浮かぶのだ(よくある現象ではないが、虹並みの頻度では見る。右写真は日没直後の富士)。

すなわち、空気の幕に残像が映し出される光学現象。

だからLEDの光源が必要なわけ。

確かに自分の指にオーラのようなものが見えたが、指のかわりにそばにあった木のスティックをかざしても、スティックのオーラのようなものがみえた。プラスチックの箱をかざしても同様。

オーラが生命現象だとすると※、これはオーラではないことになる。

基本は上の光学現象。

そして、光の点滅によって残像が視覚像と並存することによる錯視現象(これぞ見えないもの見える体験!)が加わったものだろう。

ちなみに、「気」のもう一つの可視化とされた「キルリアン写真」は、「気」は気でも指から出る水蒸だといわれている。

※後日追記:オーラは鉱物にも見られるので、生命現象ではない。ただプラスチックの箱にもあるかは不明。


温泉はなぜ気持ちいいのか3:エビローグ…温泉の逆襲

2014年06月24日 | 温泉

温泉など、長期の湯治をしない現代人にとっては、主観的にありがたがっているだけのことだと結論したのは、
定宿の温泉で3泊しつつ、幾度も温泉に浸かりながら実感したことだ。

3泊が温泉旅の限度の私自身、温泉の身体的効能を実感しないからだ。

もちろん心理的には毎回リラックス・リフレッシュしているからこそ、こうして温泉旅を毎月繰りかえしている。
ただその心理的効果は、泉質によるのではない、ということも自覚している(宿の湯が温泉でなくても同等の心理的効果を得ている)。

温泉を愛していながら、自らの温泉愛に容赦なく冷徹な分析を浴びせた私は、
むしろこのような真実の分析ができた事に満足し、定宿を後にし、帰途についた。

今日は会議がないので、ゆっくり帰れる。

なので、あちこち寄り道し、ついでに東濃で2番目に濃い放射能(ラジウム)泉である「かすみ荘」に立ち寄った。

ちょっと山を歩いたので、汗を洗いたく、日帰りで入浴するためである。

狭い浴室ながら、一人で独占できた。

別に長湯するわけでもなく、入湯に放射線計測と洗髪を加えて上った。

放射能泉は、湯上がり後なかなか体温が下らないことは今まで体験している。

だが今回はちょっと違う。
いや、だいぶ違う。

この私が、脱衣場の椅子にどかっと座りたくなってしまう。

立っているのがつらいのだ。

いつもだったら使わない、脱衣場内の扇風機のスイッチを入れた。

普通の立ち寄り浴なら、上ってすぐさま車の運転にさしかかるのだが、

今は運転する気にまったくなれない、いや、このまま無理して運転したら危ない。

そう思うほどに、全身がだるく、何もしたくないのだ。

浴室から出て、宿内の廊下の椅子を探して、ドカッと腰を下ろし、

冷えた濡れタオルを顔に覆い、目をつぶってボーッとした。

このまま、何もしたくない。

入浴直後にこんな状態になったのは、そう、東濃で一番濃い放射能泉「湯の島温泉」に日帰りで入った時以来だ
(あの時は、冬の屋外のベンチでしばらくごろ寝した。体はまったく冷えなかった)。

実は中津川周辺の放射能泉を入りまくったこともある。

ただ、それらは濃度が低いため、なんともなかった。

濃い放射能泉は、別格だ。

温泉など一週間も湯治しないかぎり効果は出ないという世の説をうそぶいた私に、

ここの温泉は一回の入浴で私の身体を直撃した。

温泉の逆襲に遭ってしまった
(私が襲われた状態は客観的には「湯あたり」という)。

おそるべし、無色無味無臭の放射能泉。

だから温泉旅はやめられない。 

温泉はなぜ気持ちいいのか1に戻る

温泉ソムリエ流入浴術

 


温泉はなぜ気持ちいいのか2:心理効果

2014年06月23日 | 温泉

前述した入湯による物理的効果は、水を沸かしただけの白湯でも可能であり、温泉に限るものではない。
でも温泉には家の風呂や銭湯以上の何かがあるからこそ、われわれは多大な時間と出費を厭わずに訪れているはず。
それは何か。

そもそも、白濁した硫黄泉ならまだしも、アルカリ単純泉や放射能泉のような無色無臭無味の温泉と単なる水を暖めただけの白湯との区別はわれわれにできるのか。
さらに温泉には濃度の差があり、水温が25℃以上あれば、成分がほとんどなくても「単純泉」と名乗れる(特定の効能を謳う療養泉とは名乗れないが、客はこの区別をどれほど気にするか。ちなみに下呂など多くの名湯は単純泉だったりする)。

入湯して温泉の成分を実感できる訳ではない。
実際温泉の効能といっても、そのほとんどは皮膚の洗浄効果と筋肉の弛緩効果であって、それらが白湯よりも若干優れている程度だ(スパ施設の方が弛緩効果は強いかも)。

ということは、実際にわれわれに温泉であることを感じさせるのは、湯の成分ではなく、浴槽周辺のたたずまいなのではないか。
そもそもわれわれが温泉をありがたがるのは、それが人工の沸かし湯ではない、自然エネルギーの産物であるためだ。
内湯より露天が好まれるのも、それが野山に湧出している温泉本来の姿を摸しているためでもあろう
(その他に視覚的・呼吸的な解放感、低い気温によるのぼせ防止効果=長湯可能も期待)。
自然の風景を堪能しながらの入浴、岩風呂あるいは檜の浴槽の触感、これらも温泉ならではの感覚的快である。

温泉に入るとは、日常から脱して特別な自然の恩恵の中に身を沈めることである(この転地効果は気分をリフレッシュさせる)。
ここに”ありがたみ”を感じる。
温泉とは自然からの付加価値そのものだ。

温泉の非日常性は、転地効果だけでなく、宿のそして温泉街が醸成する歓楽的快への道も開いた。
たがこれらの魅力が強くなると、湯治が目的でなくなるため、理屈上は湯が温泉である必要もなくなる。
といっても熱海などの温泉街こそが歓楽的になったのは、「湯治」という名目で出発できるためであり、名目として温泉である必要があったためだ。

そこで最後の問題。

白湯の旅宿と温泉宿の違いは何か。

温泉であることそのものがやっと問題になる。
だが、最初に記したように、無色無臭無味の温泉や成分が薄い単純泉は、化学分析をしない限り白湯と区別できない。
なので、温泉であることは、そう宣伝されてはじめて理解される。
温泉であると認識すること、そうなってはじめてわれわれの心に価値が発生する。

温泉の実際の効能は、最低一週間は湯治をしないと現れないというから(経験則としても研究としても)、
現代人の1-2泊程度の温泉旅では、効能は期待できない。

それでも温泉好きは白湯の宿より温泉宿を選ぶ。
実質的な効能は期待できないが、
演出された付加価値を堪能して、心なしか”効いた”気になれる。
自己暗示的プラシーボ効果への期待なのだ。

われわれは、薄いアルカリ単純泉でしかも残留塩素の多い日帰り温泉でも、「温泉に入った」と満足できる。

さらには私自身、温泉でなくても、○○石や木炭が浴槽に入っているだけで準温泉とみなして温泉と同じく日に4度入る。
要するに、白湯でなければいいのだ。
白湯でない「ありがたみ」の付加価値をもった湯、それが心理的には”温泉”なのだ
(この「ありがたみ」効果は、分杭峠や茶臼山などのパワースポットやご利益のある寺社と共通)。

温泉の快感は、体感的には白湯でも実現可能であることがわかった。
ただ白湯では絶対実現できないのが「ありがたみ」という気分的な快感。
この快感をもたらすのは、人工的な演出と「温泉である」という情報(たとえば脱衣場に掲示されている分析書)。

そしてその「ありがたみ」があるからこそ、白湯では考えられない多くの回数入湯する。
その結果、白湯でも同じ水圧効果と温熱効果をふんだんに受け、入湯の瞬間の至福感と湯上がり後のさっぱり感を幾度も味わう。

結果的に、温泉であることで、われわれは身体的効能と快感を、自らの行動の変化によって増すことになる。

温泉はなぜ気持ちいいのか3:エピローグ


温泉はなぜ気持ちいいのか1:湯の物理効果

2014年06月22日 | 温泉

温泉はなぜ気持ちいいのか。
いや、結論ありきの議論ほどつまらないものはない。
そもそも温泉は気持ちいいのか。
ここから問いはじめよう。

まず、表現を厳密にするために、裸で浴室に入ることを「入浴」、入浴中に浴槽に浸かることを「入湯」と使い分ける。
そこで先ず問うのは、入湯は快感かということ。

入湯とは、40℃前後の熱い湯に首から下を浸し、水圧にほぼ全身をさらす状態、すなわち物理的ストレッサーに身を委ねる状態である。
ちなみに水圧は下からもかかるので、浮力も発生する。
この中で一番影響が強いのは熱の効果だろう。

熱の効果として、体温が上昇し、汗が出てくる。
水温を気温に置き換えればわかるが、当然ながら熱中症に近い身体状態になる。
入湯を続けると、全身が紅潮し、頭がふらふらしてくる。
実際、42℃の場合、私は5分ともたない。

湯から出る時、それはもう湯には入っていられない状態であり、入っていることの苦痛から脱することですらある。
ということは、実は入湯自体はむしろ苦痛なのだ(同じことはサウナにもいえる)。
なにしろ物理的ストレッサーに身を委ねて身体はストレス状態になるから。

ところが温泉旅では、1回の入浴中ですら、二三回は入湯する。
そしてその入浴を日に数度(私は4度)繰りかえし、その温泉旅を私は月に数日繰りかえしている。
いったいなぜなのか。

そもそも、家の風呂は日に1回しか入らない。
しかも名古屋宅では湯舟はほとんど使わず、専らシャワーですます(→その後、自宅でも入湯するようになった)
すなわち毎日の生活では、入浴の目的は、体を洗うことであって、湯に浸かることではない。
ところが温泉に泊まるときは、4回/日の入浴のうち体を洗うのは1回だけで、あとの3回は純粋に入湯だけが目的になっている。

ということは、私が求めているのは、湯に浸かる”時間”ではなく、”頻度”の方らしい。
時間より頻度(回数)によって、より効果的に得られるのは何か。
時間では増えず、頻度で増えるのは、「湯に入ること」と「出ること」。
つまり、入湯の瞬間と湯上がりの体験。

入湯の瞬間は、体に一気に熱と水圧が覆いかぶさる、劇的変化体験。
湯に身を委ねた瞬間、「うーん」といううなり声が出る。
これは水圧で肺から空気が押し出されたための生理反応だが、同時に気分がいいのも確かだ。
それどころかこれぞ至福の瞬間。

この至福感は、体温以上のなればこそで、プールや海のでは決して味わえない
(なのでたとえ効能抜群であっても、加温していない冷鉱泉では味わえない)

さて、その水圧効果だが、体を垂直にしていると下部ほど強い水圧がかかる
(逆に水面に体を浮かせると浮力の方が強くなる)。
たいていは垂直に浸っているので、下半身に強い水圧がかかっている。
熱は血管を膨張させるが、水圧は逆に収縮させる。
下半身は重力に水圧が加わるため、血液循環のジレンマ状態になっている
(水圧の少ない足湯が効果的なのはこの理由)。
それに対して頭部は、体温の上昇によって血流が確実に増加する。

こう考えると、入湯中よりも水圧のない湯上がり後の方が血液循環をスムースになることがわかる(だから入浴後は横になるのが最適)。
湯上がり直後は、皮膚温と深部体温の上昇によって体幹から末梢の毛細顕官まで血液循環がよくなり、”暑い”と感じる。
そして浴室から出ることで、浴槽・浴室の高温空間から、通常の気温空間に移ることでの相対的環境温低下効果と、表皮についた水分の蒸発が始まることでの気化熱効果で”涼感”も発生する。
かくして、入浴後の”暑涼しい”、すなわち夏にも冬にも有効なさっぱりとした快感を得る(この後、冷えたビールが続けば至福の時間は延長される)。

ということは、入湯の快感は、入湯中のストレス下にあるのではなく、入湯の瞬間と、入浴後のリラックスにあるといえそうだ。

ただし、以上の体験は、家の風呂や町の銭湯でも可能であり、なにも温泉である必要はない。

以上の理由だけでは、あえて高い宿泊料を払って遠方の温泉宿に泊まる理由は見出せない。

さらに考察を続けよう。☞温泉はなぜ気持ちいいのか2:心理効果


トルマリンを測る

2014年06月18日 | 計測

先日、竜ケ岩洞で購入したトルマリン。

トルマリンは電気石として、圧電効果、集電効果があるという。

ではどうすれば電気が起きるか。

シジミ大の小石群がビニール袋に入ったものを、ジャラジャラ手でもんで測ると-6kVに跳ね上がったので、一瞬すごいと思ったが、これはビニール袋の摩擦による静電気だった。

帯電しない布に入れてジャラジャラしても電気は出なかった。

熱湯に入れてみたがやはり電気は出なかった(=風呂に入れても出ない)。

日常生活レベルの負荷では効果が発揮されないようだ。

 


茶臼山カエル館内の磁力スポット

2014年06月10日 | 茶臼山カエル館計測

茶臼山高原から帰る朝、
昨日の経験をカエル館の館長に話そうとカエル館に立ち寄った。
ちょうど奥の森からやってきた館長に挨拶すると、「モリアオガエルの産卵見たことあるか」という。
見た事ないというと、産卵現場に案内してくれた。
画像では見た事があるが、実物の産卵の泡の塊はメロンくらいの大きさで驚いた(写真)。

昼過ぎから教授会があるので、昨日の第6スポットの話をしてすぐ辞去しようとしたら、コーヒーでも飲んでけと誘われた。
館内に入ると、昨年の5月に私が測った客観的に異常値のスポットの所に「山根一郎教授発見の…」と説明書きが大きく貼ってある(下写真)。
カエル館では私は有名人だ。

計測器一式を入れたジュラルミンケースを持ってきたので、もう一度そこを測ってみる。
静電位は正常。金属探知器は椅子背後の引き戸奥に金属の存在を示すが、それは外壁面のトタンだという。
そして地磁気計を出すと、私の説明書きのある壁と椅子の間だけ、磁気が異常に低く、6.87μTに下った(念のため、幾度も計り直す。通常は40μTは超える)。
実際その付近は磁石が狂う。
気の感受性の強い客がそこの椅子に座るととても心地よくなるらしい。
二階のここの真上(そこも心地よいスポットらしい)は地磁気は正常値だった。
どうやら異常の磁気は下から出ているらしい。
だが、外に出て、床の下を覗いても、隙間だらけ何もない。

とにかく、分杭峠なんかより、ここの「山根教授発見」のスポットの方が客観的に「ゼロ磁場」に近いことは確かだ。
信州から来る客にも、こちらの方が気を強く感じるという人がいるらしい。

ただ、その原因は不明。
家屋内部なので、床や壁の内側に地磁気に抗うほどの反磁性体が埋っている疑いが捨てきれない。
その有無を確認しないことには、館長は強く推しているものの、私自身は「パワースポット」の認定には二の足を踏む。
私自身、何も感じないし…。
もちろん、客観的測定に基づいた磁力(magnetic power)スポットであることは認定する(地磁気に対する負のベクトルの力)。 
ここ以外の茶臼山の”パワースポット”は、客観的測定では異常値を示さないので、ここが”最強”であることは確かだ。

茶臼山は愛知県の最高峰で、雲上の高原は愛知の屋根であり、
西三河を潤す矢作川の水源だ。
これらだけで愛知県民にとっては、”聖地”に値する。
そして長野県側の根羽村の天然記念物であるネバタゴガエルが生息し、今や同県の分杭峠をしのぐパワースポットとして売り出し中。
私自身、この地が大好きで、高原にある休暇村は準定宿なので、これからも私なりにこの地の”パワー”の測定(捕捉)に挑戦していきたい。

☞次の記事『茶臼山のあちこちを測る』


三遠の準定宿巡り2:茶臼山の”パワースポット”を生体計測

2014年06月09日 | パワー・スピリチュアル

今日の行程は、海抜0mの浜名湖畔から、奥三河の信州との境にある愛知の最高峰茶臼山の高原(1240m)まで。
まずは奥浜名湖からちょっと入った細江神社に立ち寄る。
境内には樹齢500年に達する楠の大木が幾本もあり、それらが浜松市によって「神木」の認定を受けている。
確かに、「人間50年…」の10倍=500年も生きている生命体ならば、神道的には「神」認定できる。
しかも2度の津波の被害を免れている(その1つは南海トラフ3連動のM9の宝永地震)。
なので、この神社は地震除けの御利益もある。

山を超えて竜ケ岩(りゅうがし)を見学(おそらく3回目)。
今回は、ストロボ不要のカメラを持っているので、洞内を写しまくりたい。
黄金の大滝に加えて、前回は見た覚えがない「鳳凰の間」が壮観だった(写真)。
売店には、この鍾乳洞の開発記録のマンガがあったので(このマンガ、竜ケ岩ファンにお薦め)、トルマリン原石とともに購入した(トルマリンは、マイナスイオンwと遠赤外線wを出すらしい。でも遠赤外線なら絶対温度310Kの私の肉体の方が強く出せる自信がある)。このように、オリジナリティあふれる土産物もどんどん開発してほしい。

鳳来峡まで無料の三遠南信道路を快走し、東栄町でとうえい温泉「花まつりの湯」に浸かる。
露天の一番奥にあるかけ流しの源泉(鉄分があるため茶色く濁っている)の電気伝導度を測ると7675μS(33℃)もあり、
濃さは保証する(溶存量的には低張性だが)。

奥三河の山中を快走し、最後はつづら折れの坂を登って茶臼山高原に達した。
あいにく雲が出ていまにも雨が降りそう。
その前にやるべきことをやっておく。

まずは、矢作川水源のやり残した水質検査。
電気伝導度が38μSとすこぶる小さく、純水に近い(清浄すぎて、ありがたい成分すら無さそう。逆にとうえい温泉はナトリウム、カルシウム、塩素などいろいろ入っている)。

次に、カエル館(本日は休館)の奥にある以前は「茶臼山最強のパワースポット」といわれていた第6パワースポットの岩の計測(なんで「以前は」かは現地の説明参照)。
手をかざすと、いつものようにビリビリ感じる。
その岩の脇にある看板を見たら、
「山根一郎教授の調査」云々と私が昨年5月にあたりを測りまわった結果が書いてあった
(写真。本ブログの2013年5月19日の記事に詳細)。

まず、岩の表面を地磁気と静電位をなめるよう測ったが特異な値を示す部位はなかった。
すなわちこのビリビリ感は静電気によるものではない。
それなら生体側を測ることにする。
まず、右掌にある気のツボ「労宮」を放射温度計で計り、ついでその手を岩にかざして岩からのビリビリをだいぶ受けたところでもう一度労宮の温度を測り直す。
すると、かざす前は31.1℃だったのが、かざした後は31.7℃に上った。
自分で気を出しても0.3℃は上るが、この岩からのパワーを受けると2倍の0.6℃も上った(かざしただけで気は出さず)。
ちなみに、岩の表面を放射温度計でまんべんなく測ってみたが、
すべて16℃付近で温度が高い場所はなかった。
すなわち、岩からの熱気が私の掌を暖めたわけではない。
というわけで、間接的ながら、この岩の”パワー”をなんとか確認できた。
気のパワーについては、このように生体側の計測をした方がいいのかもしれない(ただ、あのビリビリ感は物理的に存在している何かのせいだろう)。

雨が降り出したので、いそいで車に戻り、今日の宿(休暇村茶臼山高原)に向った。

宿の駐車場の車は、関東や関西ナンバーが東海ナンバーより多かった(写真家と一緒の撮影会プランのせいらしい)。
愛知の屋根・茶臼山はもともと絶好のロケーションだが(信州からみればどうってことないが)、
パワースポットの売り出しでさらに付加価値が高まるかもしれない。

☞次の記事『茶臼山カエル館内の磁力スポット』へ続く


三遠の準定宿巡り1:石巻山に立ち寄る

2014年06月08日 | 

今回の旅は、三遠(三河・遠江)の準定宿を巡る。
前回が南信(分杭峠)だったから、これで花祭り・五平餅の文化圏”三遠南信”を巡ることになる。

まずは目指すは浜名湖の準定宿(ホテルグリーンプラザ)。

東名高速を使えば名古屋から1時間で着いてしまうので、あえて1コ手前の「豊川」インターで降り、

愛知・静岡県境(三河・遠江国境)で時間をつぶす。

行き先は豊橋の東にそびえる三角帽のような石巻山(いしまきさん、358m)。

この山、新幹線が名古屋方面から豊橋に差しかかるとその山容のせいでいつも眼に留まるのだが、

豊橋の市街には出向いても、あえてこの山に行く用事がないため、ずっと行きそびれていた。

「石巻山登山口」なる交差点を曲がって、細い道を車で上る。
「石山荘」という宿の脇の空き地に車を止め(ここで眼下に豊橋市街が一望)、石巻神社をかすめて、山頂を目指す。

低い山で、しかもかなり上まで車で来たから、すぐに着くだろうと思っていたが、案内標で「20分」とあり、
あいにくの梅雨空で湿気が高いため、汗びっしょりになってやっと石灰岩がひしめく山頂に着いた(写真)。
山頂は露岩でしかも独立峰的なので、周囲の眺めはいい。
西側の豊橋中心街はもちろん、南側の渥美半島の付け根まで市街地が伸びているので、豊橋の市街地の面積はけっこう大きいことがわかる(愛知第2の都市だし)。

石灰岩はけっこう滑る(水に溶ける)ので慎重に下って、汗でぬれた長袖シャツを脱いで、下着の速乾シャツ一枚になって、山を下り、本坂トンネルを抜けて遠江に入り、三ケ日を抜けて浜名湖畔に到着。

このへんの観光名所はすべて巡ったが、石灰岩に接したので、明日は久々に「竜ケ岩洞」(鍾乳洞)に立ち寄ろうか。

 

 


フンドシのすすめ

2014年06月03日 | 生活

何やらフンドシが注目されているという。しかも若い女性に。
男はブリーフ派とトランクス派(含むボクサー)に分れるが、実は私はフンドシ派。
もちろん若い時は、ブリーフだったりトランクスだったりしたが、両者共通する欠点に悩まされていた。
それは夏に暑いこと(脱ぎたくなる)。
トランクスはブリーフよりは通気性がいいが、布の面積がより広いから、暑さはひけをとらない。
特に無駄な暑さを感じるのは、腰の両側面。
ここには布はいらんだろと思った。
女性のハイレグやTバックが心底うらやましかった(一般に男物って工夫が足りない)。
まさか女性用を身につけるわけにはいかないので、それに代わるものを探して、たどり着いたのがフンドシ。
あれこそ、布が前後だけで両側面にはない。
実際、着けてみたら、ほんとに涼しい。
この快適さを知ったら、もうブリーフにもトランクスにも戻れない。
かくて、私はフンドシ街道まっしぐらとなった。

そもそもフンドシには、相撲のまわしのような、いいかえればTバックのような六尺フンドシと、前後面に布をあてる越中フンドシに分れる。
祭りでつけるのが六尺で、普段用は越中。

越中フンドシは和装の店や巣鴨の地蔵通りで売っている。
色は白だけでなく、赤フン(巣鴨で購入)や竜の絵柄のものなど多彩。
一般的な綿なら、1つ千円程度(正月の儀式用に絹の高級フンドシも持っている)。
構造は長方形の布と紐だけなので、手ぬぐいに帯状の紐をくくりつければ家でも作れそう。

着用法は、布と紐がついた部分を尻側の腰にあて、紐を正面で結び、布を股にくぐらせて、ヘソの下あたりで紐の上を通し、残りを前に垂らす。
その前垂れをグイと下に締めれば、下半身が引き締まる。

普通に動いていると徐々にゆるフンになるのが越中の特徴。
でもそのゆるフンで問題ない。
なぜなら、トイレで小も大もフンドシをしたままできるから。
たとえば大は、尻の下あたりを持って横に確実にずらして便器に座ればいい(確実にずらさないと大変なことに…)。洗浄器の使用も問題ない。
ズボンを履いたまま、交換することもできる(なので米軍でも取り入れられているとか)。

一枚の薄い布と紐なので、手ぬぐいを洗うのと同じで、洗濯してすぐ乾く。
なので旅行には泊まる数だけしか持っていかない(着けている分をのぞいて)。
ゆるフンで紐で止めるだけなので腹や一物に圧迫感がないのもいい。

ただフンドシにも欠点がある。
帯状の紐が(毎回アイロンをかけない限り)二度目からは丸まって細い紐状となってしまい、紐が腹に食い込んでしまう。

この欠点に対処したのが、九州の美夜古企画で出している「幅広帯のふんどし」。
これが気に入って、ネットで色違いをたくさん買った。
そもそも美夜古企画では、袴など和服を購入していた。
そこがオリジナリティあるフンドシを幾種も発売してくれるからうれしい。
ここで「割褌」や「もっこ褌」も買った。
女性用も発売している(紐を正面ではなく、横で締めるようだ)。

日本人ならというより、下着として独自に進化したフンドシを
新鮮な気持ちで受け入れてみてはどうだろう。

手拭いと鉢巻で褌を作る


日傘のすすめ

2014年06月02日 | 歳時

夏の必須アイテムは日傘である。  
雨用の傘同様、これに性別は関係ない。
それなのに日傘の快適さを知らない男性が多いのが哀れだ。
「日傘男」の草分けとして新聞にも載った(2010年9.11の読売新聞夕刊)私が日傘の使い方を伝授しよう。

そもそも日傘の目的は2つある。
1つは直射日光防御。
日陰を持ち歩くことで、日射による皮膚や服の温度上昇を防ぐ。
アスファルトほどでなくても直射日光を浴びると日射面は気温以上の高温になる。
その”熱さ”を防ぐのだ。
これは熱中症の予防にもつながる。
帽子のように蒸れることなく、日陰になった頭を通り抜ける風が心地よい。

いま1つは紫外線防御。
紫外線は目に見えず熱を持たないが、皮膚と目に悪影響を及ぼす。

2つの目的により、そのどちらに対処するかで日傘の使い分けが必要となる。
直射日光に対しては、太陽の方位・角度に合わせた傘の向きを調整し、
傘が作る陰から少なくとも上半身が出ないように、道を曲がるごとに傘の角度を変える。
これが雨傘と異なる点で、傘をいつも垂直に差しているのは日傘の用途をなしていない
(垂直に日傘を差したままで、思い切り日射を浴びている女性をよく目にする)。
もちろん、ビル陰などに入れば日傘を差す必要はない。

紫外線防御としても、放射元の太陽に傘を向けるという点は同じだ。
ただ、紫外線の散乱・反射に対しても対応した方がいい。
理論的には道路や壁面も紫外線を反射しているはずだが、計測してみるとUVindexで0.1の値もない。
それに対して、太陽以外の青空部分からの散乱は太陽からの半分ほどの値になる。
なので、傘内から青空が見えない(散乱紫外線が目に入らない)ように、傘を水平に深めに差した方がいい。
ビル陰に入っても空が見える限り、傘を差し続ける。

夕方になると紫外線は安全値に減るので(ちゃんと計測しているので分る)、この防御は忘れてもいいが、
西日が目に入り(まぶしく)、日射面はあいかわず熱をもつのでまだ日傘は手放せない。
かように、目的によって最適な差し方が異なる。

私は遮熱性が高い銀色の傘を愛用している。
まったくおしゃれでないが、実用性に優れている。
折畳みで晴雨兼用なので、急な夕立にも対応できるのがいい(この点おしゃれな女性用より便利)。
雨用の傘は生地が薄いので遮熱性がなく、日傘には使えない。

日傘をさせば、頭が蒸れる帽子も使わず、日焼けしないので半袖で外出できる。

女性はもちろん、男性のあなたも日陰を持ち歩いてはどうだろう。


暑さを防ぐには氷でなく水

2014年06月01日 | 健康

東京も名古屋も35℃を超えた(我が私設気象台による)。

真夏並の猛暑だ。

体が暑さに慣れていないため、熱中症になりやすい。

それを防ぐには皮膚温を上げないこと。

室内なら、肌の露出を多くして、体温よりは低い空気に触れる面積を大きくする(

室内気温を確認のこと)。

屋外では、逆に、肌の露出を少なくして、日射による温度上昇面積を小さくする。そのためには風通しのよい”日傘”が最適。

積極的に皮膚温を下げるには、水で濡らした保冷バンド(吸水ポリマー入り)を頸や額に巻く。

この保冷バンドは、絶対に「氷」でなく「水」であること。

この基本を理解していない人が多い(中学の理科で習うはず)。

氷用は気分的な冷たさを与えるが、30分と持たず、その後は無用の長物と化す。

皮膚温を下げるのは、低温物を当てるのではなく、水の気化熱を利用するのが本筋。

水分がある限り、気化熱という熱を奪う現象は長時間確実に作用する。

すなわち、あちこちの水道で浸し直して、保冷時間を自由に延長できる。

そもそも0℃の氷は皮膚への刺激として不自然に低すぎ、凍傷を誘う。
身体的にいいわけなく、あくまで短時間の”心理効果”しかない。
せいぜい使えるのは火傷の時。

氷を使うのは素人で、物理法則を分っている人は水冷式を使う(使われている材質が異なる)。

吸水ポリマー入りは100円ショップでも実用に耐えるのが売っている。

使用前はたっぷり1時間ほど水に浸して、ポリマーをぱんぱんにして使おう。