今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

餅を喉に詰まらせない方法

2023年12月31日 | 歳時

めでたい正月を迎える前の大晦日に、あえてこの記事を記す。

めでたいはずの正月のおせちの宴で、雑煮の餅を喉に詰まらせて死亡することを防ぎたいから。

その記事は10年前に公開している☞餅を喉に詰まらせない方法:追記

一言で言えば、雑煮の餅は、生のまま煮込むと餅の粘性が最大となって危険で、必ず焼いて(表面を固くして)から椀に入れること。
そうすれば必然的に餅を(飲み込まずに)歯で食いちぎって食べることになる。
これは地域の伝統的な雑煮と異なるかもしれないが、”安全”を最優先べき。
安全を最優先するのが日本の伝統的作法(武家礼法)の論理だ。
すなわち、この方法こそ、安全と品性を実現する礼法に適った食べ方だ。


2023年を振り返る:個人編

2023年12月30日 | 歳時

正月の準備が終わると、例年だったら山に行ったものだが、半ば義務感で山に行くことはやめて、行きたくなったら行くことにする。

さて、年末恒例の今年一年の振り返りの個人編。
世相編と対照的に、今年の私は、近年でも最も「何もなかった」一年だった。

めでたい出来事も大きなトラブルや不幸な出来事もなく、定型的活動の繰り返しが多かった。
仕事では新しい授業をもつもことなく、授業内容も昨年とほぼ同じ。
書き上げた論文は昨年と同じく1本(それまでの年2本のペースはきつくなってきた)

旅では定宿に復活した宿に6回行き(結局ここが一番お気に入り)、その他でもいずれも新しい宿は開拓しなかった。
日帰りでは鎌倉に4回行き、愛知の寺社にも足を伸ばした。

茶臼山のカエル館(長野県根羽村)も例年通り、春・秋の2回訪問。

東京と名古屋との往復は、昨年から利用している”ジパングクラブ”(JR東日本)で3割引の運賃(ただし「ひかり」)。
春休みと夏休みは”青春18きっぷ”でさらに安く上げる。

その中で数少ない新しい経験を探すと、
5月に高尾山の琵琶滝で滝行を経験し(☞記事、6月に名古屋宅から近いジブリパークに行った(☞記事)
また”川歩き”において、11月に野川(多摩川支流)の水源の庭園に入れて、6年越しの野川遡行を完遂(☞記事)

結局、今年一年を平穏無事に過ごしたことこそ、何よりも収穫だった。
なにしろ、父の享年(66)を無事通過したから。

残念なことに同年齢の従兄弟はこの年齢で昨年に世を去った。 
高校の同期会でも今年物故した複数の同期生の黙祷をした。
というわけで、この歳になると、あえて新しい経験をする必要もなく、無事に存在し続ければそれでいいと思う。


2023年を振り返る:世相編

2023年12月29日 | 時事

東京宅の正月準備も、本日の大掃除でほぼ終わった。
あと正月三が日続く酒宴の具材の買い出しだが、刺身などの生物は直前に買う必要があるので、本日はまだ早い。

そこで、今年2023年を振り返ってみる。
まずは世相編。
一言で言えば、過去の膿が次々と明らかになった印象。
政治の世界も、産業界も、そして芸能界も。
過去の半ば公然と黙認されてきた不正・犯罪行為が、あからさまになった。

それらは許されないこととして是正されることで、社会が変わる。
言い換えると、日本社会はこれらの膿を出し切って、変わらなければならない。

変わるとは、それらの主役(担当者)を交代させることだ。
そのためには、我々国民側が、交代を促す選択行動(選挙、消費など)をするしかない。
社会を変える選択行動なので、従来の二番手(次善)ではなく、新たな選択肢が増える必要がある。

過去に縛られない新しい人たちが出てきてほしい。
2024年は社会が変わり始める年になってほしい。


甥の二十歳誕生会

2023年12月23日 | 身内

このブログを始めた18年前はたった2歳だった甥(時々写真入りで記事にしていた)が、二十歳(はたち)の誕生を迎える。

今では立派な大学生で、近所のピザ屋で宅配のバイトをしている。

大学生なので、25日の誕生日当日は友人たちとのパーティがあるため、二日前に家族・親族で祝う。

二十歳といえば日本ではプレゼントをあげる歳でもないので、むしろ成人祝いとして祝儀を包むことにした。

ちなみに、自分の二十歳の誕生日(7月29日)の時、夏休み中ということもあって、日本で二番目に高い北岳(3193m)の山頂に立った。

 


2024年を易で占う

2023年12月22日 | パワー・スピリチュアル

毎年冬至の日に、易で翌年の占筮(せんぜい)をする。
占う対象は、自分を含む漠然とした”世間”。

2023年の冬至の今日は、今年最後の担当授業と会議を終えて帰京したので、夕食後、東京宅で「冬至の占筮」をした。

筮竹をさばいて中筮法で爻(陰陽の確定)を6度出した結果、得た卦(か)は「火水未済」だが、初爻と上爻が変爻だったので、それが「雷沢帰妹」の卦に変わると出た。
前者の「未済」は未完成の意で、「成らぬ」というより「まだ成らぬ」卦。
後者の「帰妹」は「そうしない方がよい」という、再選択を求める卦。

前者を来年の前半、後者を後半とみなすと、前半は混沌として動き出すには早い状態で、後半は動こうとした方向には実は進まない方がよい(政策ミス?)、という、いずれも慎重運を示したもの。

ちなみに、昨年の年筮で出た今年の卦は、前半が「山沢損」、後半が「離為火」と出たので、前半は停滞するが、後半は上向く卦だった。
それに対し来年は、今年後半の上昇機運から再び混沌に陥り、しかも選んだ方向が誤るという、年間を通して未達成となる良くない卦だ。
ここ数年、年筮を続けているが、一向に確固とした良運にならない。


音楽を聴きながら大・大掃除

2023年12月17日 | 生活

週末に名古屋にいるので、温泉旅をしたいと宿を予約したが、そういえばこの時期の日曜は名古屋宅の年に一度の大・大掃除をしなくてはならいことに気づいて、宿をキャンセル。

恥ずかしながら、名古屋宅を隈なく掃除するのは年に一回のこの時期のみ。
なので単なる大掃除ではなく、大・大掃除(だい・おおそうじ)となる。

まずは朝起きて洗濯と布団干し。
軽い朝食を済ませ、しばらくテレビを見るなどだらだらして、意を決して掃除に取りかかったのは午前11時頃。

まずは居間の片付けから始め、ハタキで本棚などのホコリを取り、便利なハンディ掃除機で床のゴミを取り、フローリングの床を雑巾掛けした後はワックスがけをする。

居間を掃除している間、中国製のロボット掃除機に台所の床の掃除を分担してもらう(その後トイレの床も)。

その間、耳が暇なので、iPadに貯めている音楽をかける(最近のものは無く、昔の曲ばかり)。
 Boseのハンディスピーカを大音量にして(隣人はいない)、音楽に聴き入りながら、体は掃除を続ける。

そうすると、音楽の歌詞が心に染み渡る。

例えば、モーニング娘。の LOVEマシーンの「ニッポンの未来は(ウォウウォウウォウウォウ)、世界が羨む(イエィイエィイエィイエィ)」という歌詞は、今の時代に聴くと、そうならずに衰退してしまった日本を痛感して心が痛む。

その一方で、おさかな天国昔スーパーの魚売り場で流れていた曲。気に入ったので購入※)の「サカナサカナサカナ〜、サカナを食べると、アタマアタマアタマ〜、アタマが良くなる」という歌詞を聴くと、魚を食べると頭が良くなるんだと、心にすんなり入ってしまう。
※:肉売り場で流れていた「呼び込み君」も購入

かように音楽の歌詞に心を奪われながら、休むことなく台所、浴室、トイレと掃除を続けて、終わったのは夕方5時(昼食抜き)。

実に1日がかりだった。
これで少なくとも今年いっぱいは、綺麗な生活空間で暮らせる。


夢の中で忘れ物に気づく

2023年12月17日 | 心理学

夢の中で、忘れ物に気づいて、取りに戻って、忘れ物を手にした。
そこには、自分が忘れたと気づいていなかった物もあった。

覚醒時でも忘れ物をするので、夢の中で忘れる事自体は不思議でないが、夢の中の自分(心)が失念したものを、ちゃんと保持しているさらに上位の心が夢を作っているといわざるを得ない。

夢を見る心は、覚醒時と同じ意識(システム2)の自我だが、夢を見させる側は自分の心のどこなのか。

意識に対立するあるいはそれより下位の無意識(システム1)ではない。
個人的忘れ物なのでユングの集合無意識は出る幕もない。

私は夢自体が自我を巻き込む意識現象(システム2)だと理解しているが(唯識仏教でも同じ解釈)

今回の夢を根拠にすると、意識を包含したより上位の心のわざかもしれない。

それって、既存の心理学では説明できないし、私の「心の多重過程モデル」におけるシステム3(ハイパー意識)でもない。

一番当てはめやすいのは、仏教でいう阿頼耶識(システム4?)か。


加湿器の置き場所は:追記

2023年12月10日 | 計測

冬季になると、室内が乾燥して、皮膚や呼吸器への悪影響、さらにはインフルエンザウイルスの活性化をもたらす。
なので、加湿器などで生活空間(室内)に水分を補給した方がいいが、その加湿器は室内のどこに置くのがいいか。
とりわけ、鉛直軸上の位置、すなわち床面からの高さが気になる。
はたして床面に近い方がいいのか、顔の高さあたりがいいのか、もっと上がいいのか。

加湿器から出るミスト(肉眼で見えるから水蒸気ではない)は、勢いよく上に噴出するが、よく見ると蒸発(気化)する高さ付近で、噴水のように下がり気味なのが見える
※:水滴が蒸発する瞬間、周囲から熱を奪って気温を下げる。夏に使う冷風扇はその原理を利用している。なので冷風扇を加湿器として使えないこともないが、効果が強すぎて暖房とバッティングする
これだけを見ると、上の方に置いた方がよさそう。

ただし、肝心なのはその後の見えなくなった水蒸気の挙動だ。
室内にふんだんに供給される水蒸気は、室内空間の上・下どちらに集まるのかわかりづらい。
肉眼で見えない水蒸気は、室温のように肌で感じることもできないから。

そこで物理的な計測である。

まずは湿度なら、手持ちの温湿度計で測れる。
ただし、そこで計測される相対湿度は、飽和水蒸気圧に対する空間の水蒸気圧の比(%)で、分母たる飽和水蒸気圧は気温の関数で、気温が高くなるほど高くなる。
たいていの室内は、特に暖房を入れている場合は、天井に近くなる程気温(室温)が高いので、水蒸気の量(圧)が同じでも温度が高く(=分母が大きく)なるにつれて湿度は下がってしまう
※:なので、逆に(相対)湿度だけを純粋に上げたいなら、室内空気を冷却すればいいだけ。
すなわち、湿度計が示す相対湿度は、水蒸気の量そのものを示してはいないのだ。

そこで、気象予報士にして計測マンである私は、海外製のハンディ気象計(Kestrel)で、単位空間当りの水蒸気量(絶対湿度)の指標とされる混合比(=水蒸気/乾燥空気1kg)を計測する。
幸い暖房を入れていない今、Kestrelを床面に置くと気温21.9℃で混合比が8.86g/kgと出た。
そして書棚の最上部(天井近く)では気温が22.0℃で混合比は9.24g/kgとなった。

明らかに床面より天井近くの方が混合比が高い(混合比のほかに私が好きな露点温度を測っても、同じ傾向だった)。
ということは、水蒸気の室内分布は、上層ほど水蒸気が多いということだ
※:厳密にいうと混合比も露点温度も気圧の影響を受けるが、室内の床と天井との2mほどの気圧差は無視できる。

これは、0.1℃の気温差でも分かるとおり、暖房を入れていない状態でも、室内は微妙な温度成層が形成されていて、それを実現するためのゆるい上昇流が存在するといえる。
※;その論拠は、曲がりなりにも質量が0でない水蒸気が下層より上層に多いことによる。

水滴から蒸発した水蒸気は、水滴ほどに重くないため自重で下降しない(水蒸気が上昇してできる雲を見てわかる通り、水蒸気は空気中で簡単に上昇する)。

ということで、室内の水蒸気は上に集まるので、人間の身体を水蒸気に晒すためには、加湿器は床面に置いておくとよいことがわかる。
ただし、冷風扇のように冷却効果が強い場合は、下降流となるので、高所に置いた方がよい。
ちなみに、水蒸気は空気を入れ替えない限り、空間内で保存される。

追記:「みはりん坊W」という製品は、珍しくも(容積)絶対湿度(g/m3)を測定し、インフルエンザウイルスが活性化する乾燥状態になると警告を発してくれる国産の製品で、これを所持していたことに気づいた。
※定価3200円と家庭用温湿度計に比べると高価だが、ここに示すように計測器としてのレベルが高い。

その説明書には、インフルエンザウイルスの活性の推定も、相対湿度ではなく絶対湿度による方が正確という学術的根拠が示されている。
言い換えると、世間の相対湿度による温湿度計は、その活性についての不正確な情報しか提供できない。

実際、この「みはりん坊」による絶対湿度(製品では「乾燥指数」と称している)でも、部屋の床面が低く、天井近くは高かった。
それにしても、東京宅の室内は、加湿器を使わないと常に警告状態(7.0g/m3以下。基準は生気象学会に基づく)だ。

ちなみに、この「みはりん坊」は熱中症の指数(WBGT)も測ってこちらも警告を出してくれるので、夏も使える。
※:定義上は黒球温度と湿球温度と気温に基づいて計算される。ただしこの製品はかさばる黒球を使わないで生気象学会のデータに準拠して指数を算出。

私からすると、インフルエンザ感染と熱中症の予防のために、一家に一台あっていい製品だ(「みはりん坊ミニ」はもっと安い)。


麻婆茄子で祝う

2023年12月09日 | 生活

昨晩、帰京するので、夕食の皿として母に麻婆茄子(マーボーなす)を所望した。

帰宅すると、夕食の卓に調理された麻婆茄子が置かれていて、近所で買ってきた498円の発泡ワイン(白)の栓を抜いて、賞味した。
発泡ワインはシャンパンの代わりである。

このようなささやかな贅沢で祝杯をしたのは、🍆茄子が私の好物だからだけでなく、本日がナス日(ボーナス支給日)だから。

給与生活者ならではの特別な日。

世間の賃上げ機運が反映されたのか、昨年よりほんの少し数値の右側あたりは増えているが、「控除」欄もそれに負けじという勢いで、過去と比較すると、控除の占める率が25%から30%に上がっている。
ということは、手取り分は支給額との差に目を疑う額。

幸い、「ボーナス払い」という借金はしていないので、手取り分はそのままフトコロ(銀行口座)に入るが、ここで不要な散財はしない。

翌日に行った国会図書館でも、昼食はいつもよりハイレベルのメニューにしようかとも思ったが、結局はいつものシンプルな具のないカレー(510円)に落ち着いた。
不必要に食べてカロリーオーバーになりたくない。

もっとも今晩は、今度は私から母へのサービスで、ズワイガニとホタテの鍋にする。
これで特別な日の祝いはおしまい。


ゴジラ -1.0観てきた:ネタバレなし

2023年12月04日 | 作品・作家評

あえて平日の昼に、「ゴジラ -1.0」を観てきた。☞公式サイト

ゴジラが誕生して70周年にして30作目である(なお、本作はコロナ禍によって制作が中断され、そのコロナ禍が作品のテーマにも影響を与えたという)

映画館で映画を観るのは久しぶりで、もしかしたら2016年の「シン・ゴジラ」以来かも。
すなわち、敢えて映画館で観たい映画はゴジラとかに限定されている。

そもそも映画がメジャーな娯楽であった時代に小学生だったので、近所の映画館に子どもだけで観に行った世代で、
学生時代は名画座(過去の名作専門の映画館)に入り浸って、1日に映画館のハシゴをしたくらいだったのだが、
レンタルビデオ・DVDの普及と家のテレビの大画面化によって、映画は家でくつろいで(私は寝る前に)観るものになってしまった。

その鑑賞パターンに慣れると、日中に丸々2時間映画鑑賞だけにつぶすのはもったいない気がするし、
アカの他人たちと同席して観るのも色々気が引ける。

ということもあって、人が少なそうな平日の昼に、事前にネットで席を予約して鑑賞に臨んだ。

映画館だと、まずはポップコーンとドリンクを購入するのが定番だが(私も子供の時はそれが楽しみだった)、
この歳になるとトイレが近くなるのが嫌なので、飲食はしない(家だと飲食しながら観れる)。

そういうストイックな環境で観た「ゴジラ -1.0」。
前知識は0だったので、まずは時代設定に驚いた(タイトルのマイナス符号がそれを暗示)。
VFX(3DCG)の技術もすごく、身長が初期設定の50mながらゴジラの迫力も充分。

ゴジラ映画に欠かせない要素、すなわち火器にはびくともしない強靭さ、有楽町付近で平然と走行している鉄道車両を襲うこと、戦争や環境破壊などの人類の業と関連していること、単なる恐竜的な野獣ではなく(ハリウッド版ゴジラはこのレベル)、荒ぶる神としての神々しさがあること、そして何より伊福部昭のゴジラのテーマ曲が山場で流れること、これらが満たされていた。

さらにそれらを満たした上でのオリジナリティが重要で、ゴジラ単独の場合は、人間側がどのような手段でゴジラを退治するかが問われる。

私が小学生の時夢中になった「キングコング対ゴジラ」(3作目)以来、ゴジラ映画がこうやって作り続けられ、しかも下手にシリーズ化せずに(そうなるとどうしてもキングギドラやメカゴジラを出さざるをえなくなる)、1954年以来の”ゴジラ第1作”(ゴジラの原点)が再制作され続けられていることに、ゴジラ(映画)と共に生きてきた我が身にとって、限りない幸福感を感じた。
ゴジラと共に、これからも生きていけるんだと。
この幸福感こそ、私にとってのこの映画の感想である。
この幸福感を与えてくれた監督(山崎貴)・俳優(主演:神木隆之介)を含め、制作に携わったすべての人たちに感謝の意を表したい。


西鎌倉の寺社参り:大仏、長谷…

2023年12月03日 | 東京周辺

東鎌倉、北鎌倉と訪れたので、今回は西鎌倉の番(「北鎌倉」以外は私が勝手に呼称)。
鎌倉の中心軸を鶴岡八幡宮・若宮大路・鎌倉駅のラインとすると、その西側は江ノ電沿線であり、鎌倉大仏と長谷観音、そして極楽寺がある。

私が鎌倉を最初に訪れたのは小学校低学年時の家族日帰り旅行で、記憶にあるのは、鶴岡八幡宮、大仏、長谷観音の3つ。
大仏と長谷観音は、寺格で言えば北鎌倉の建長・円覚両寺に劣るものの、観光スポットとしてはむしろこちらの方が有名。
とりわけ鎌倉大仏は、鎌倉唯一の国宝仏であり、”大仏”としての知名度と美的価値の高さでは、奈良東大寺の大仏に次ぐ位置にある。
その意味で、「鎌倉といえばまずは大仏」と言って差し支えない。


鎌倉駅で混雑している江ノ電に乗り換え、3つ目の「長谷」で下車。

踏切を渡って、観光客の列が続く狭い道路を北上する。
このあたりの外食店は「しらす丼」(しらすは相模湾で採れる)がメインなので、私もいつもの”駅そば”や五目焼きそばではなく、ここではしらす丼を昼食としたい。
店に入って、「生しらす丼」にするか「釜揚げしらす丼」にするか迷ったが、日本人にありがちな生食嗜好よりも、私はリスク回避を優先することから後者を選ぶ。
※:もちろん生食による食中毒のリスク。
ご飯の上にどっさり盛られた釜揚げしらすに満足。


さて、大勢の観光客に混じって高徳院の入り口で拝観料を払い(300円)、晴天の下、露座の大仏と対面。
もちろん小学校以降幾度も訪れているが、いつ見ても絵になる、というより誰が撮っても絵葉書的な絵になりすぎ(写真)。
せっかくなので久しぶりに胎内にも入る(50円)。
胎内の内側から見ると、750年前の製造とは思えぬ精巧な工法に改めて驚嘆する(関東大震災で損傷し修復済)。

大仏(阿弥陀如来)の御姿を購入。
また大仏のミニチュアも複数パターン販売されているが、私が小学校の時に土産物屋で買って今でも持っているそれ(最小サイズ)に比べて、造りのレベルが明らかに劣化している。
いくら仏像フィギュアが好きな私でも、レベルが低すぎて買う気になれない(これらよりハイレベルな鎌倉大仏ミニチュアをすでに3体持っているし)。
たかが土産といえど、なぜこうも造りが劣化してしまったのか(中国製の精巧な仏像フィギュアを好んで集めている身からすれば、”中国製”は言い訳にならない)


来た道を戻って、右折して長谷観音こと鎌倉長谷寺に向かう。
門前はちょっとした門前町を形成しており、土産物屋に並んで文化財級の木造老舗旅館もある。

400円の拝観料(Suicaなど可)を払い、石段を登った高台の阿弥陀堂には、中尊の阿弥陀如来の脇に、私が好きな真新しい金色の如意輪観音像もある。
堂内には西洋人女性が一人静かに腰掛けていた。

その横に並ぶ本堂の大きな長谷観音(十一面観音)を見上げ、本堂横の観音ミュージアム(収蔵庫)に入る(300円)。
前立観音とその三十三応現身像がなどがあり(撮影可)、特に観音は江戸期の作にしては造形が精巧(写真)。

高台の境内からは、由比ヶ浜海岸が見渡せる。
石段下の弁天窟に入って、弁天様に供える願掛け用の米でできた硬い餅状の弁天像を購入し(300円)、私は願掛けはしないので持ち帰って、自宅の弁天様(妖艶な中国製)の前に供えた。


長谷観音からさらに西に進み、御霊神社に達する。
本殿周囲には庚申塔や御嶽(おんたけ)信仰の石碑、海から持ってきた霊石を祀る石上神社もあるのだが、境内は撮影禁止となっていて、御霊神社なので霊障を恐れて撮影はしなかった。

ここからさらに西に向かい、虚空蔵菩薩が祀られている無人のお堂に立ち寄り、さらに極楽寺切り通し上にある成就院にも立ち寄る。
坂の上にある門前から振り返ると、由比ヶ浜海岸が見下ろせる(写真)。
鎌倉のほとんどの寺社を訪れた私でも御霊神社からここまでは初めて。


切り通しを下って、江ノ電の極楽寺駅を過ぎると極楽寺に達する。
潜り戸から境内に入れるが、残念ながら宝物館は閉館していた。
極楽寺は、鎌倉では一二を争う仏像の宝庫で、ここが一番楽しみだったのだが、それが見事に叶わなかった。
掲示によると、宝物の公開は春(4末〜5月4週)と秋(10末〜11月4週)の2季に限定され、しかもその期間中の火・木・土・日のみで、しかも雨天は休み。
今年の秋の公開は先月でおしまい。
事前に確認すべきだった。
本堂に参拝したほかは大師堂の如意輪観音を拝み、トイレを借りただけ。

寺の近くにある導地蔵は、堂内に安置されていて室町時代の作なのに保存状態がいい(こういう路傍の仏像もそれなりの質に達しているのはさすが鎌倉)。

極楽寺の仏像を見れたなら、次はいよいよ最後の”南鎌倉”に、と思っていたのだが、極楽寺に再訪(リベンジ)することを誓って、門前にある江ノ電の駅から鎌倉に戻った。