今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

神島を一周

2017年05月29日 | 

伊良湖で大アサリを食べるだけなら一泊で充分なのだが、伊良湖に行ったついでに神島(カミシマ)にも訪れたいので二泊した。

神島は、三重県の鳥羽から伊勢湾側に続く一群の島々の東端(最奥)にあり、たとえその島を知らなくても、この島々の写真を見てどれが神島かと問われたら、ほとんどの人は当てられる形をしている(名は体を表している:写真は伊良湖水道付近から見た神島)。

 といっても、九州の沖ノ島のように島自体が聖域というほどの神威はなく、江戸時代は鳥羽藩の流刑地だったという。

その神島を有名にしたのが三島由紀夫の小説『潮騒』で、この島が舞台である(実際、三島はこの島に滞在して執筆した)。
しかもこの小説は4度も映画になり、もちろん毎回ロケ地になったという。

神島は、これといった景勝地も史跡も名物もなく、観光資源として頼れるのはこの『潮騒』だけなようだ。
ただ住民は観光には期待しておらず、皆漁業をなりわいとしている。 

その神島は、船の難所で有名な伊良湖水道を挟んで愛知の伊良湖岬と対峙しており、
鳥羽より伊良湖からの方が近いため、毎年伊良湖に行く私としては(しかも鳥羽には行かないので)、
この神島に伊良湖から往復することにした。

朝10時の便で往き、帰りは14時の便になる。
片道15分なので、島の滞在時間は3時間45分もある。 
観光地でない島でやることといったら島の一周しかない。 

もっとも私は三島文学には親しまず、『潮騒』は映画すら観ていないので、
周回ポイントとなる作品ゆかりの地には思い入れがない。

伊良湖から船に乗ると、まず伊良湖水道を行き交う漁船群との交差に目を見張る(写真)。
上述したように伊良湖水道は、海流と地形の関係で船の航行に難儀する所だが、伊勢湾・三河湾と太平洋を結ぶ狭い出入口でもあり、知多半島(師崎)に帰る漁船と名古屋・四日市・豊橋港に出入りする大型貨物船が次々と縦断する合間を縫って、伊良湖と鳥羽を結ぶ連絡船が横断するのだ。

神島の漁港に到着し、陸(オカ)に上れば、観光的雰囲気はほとんどなく(”店”がない)、山の斜面に民家がひしめいている。
民家の軒先を通る細い道づたいに一応小説ゆかりの時計台・洗濯場を通り抜ける。
島の人口は500人ほどで、集落も漁港周囲に限定されているのでほぼ全員が顔見知りのはず。
なので、他所者の私は怪しまれないように、すれ違う島の人にはこちらから挨拶をする。

長い石段を上って八代神社に到達。
神道的には、この神社が神島の”神”に相当するが、
いかんせん向いの鳥羽の山向こうに最高格の伊勢神宮が鎮座しており、境内に神宮遥拝所がある始末(原始神道まで遡ればどうなるか)。 

ここからは「灯台」の文字が消えかけた案内板を頼りに踏跡を進むと、
「近畿自然歩道」にぶつかり、ここからは最後までこの歩道(一本道)に沿って進む(道の下は絶壁だという)。
島の北側の斜面に沿って進み、東に回ったところで灯台に出る(小説にちなんで”恋人の聖地”らしい)。
ここからは伊良湖岬と奥に続く渥美半島が真正面で、そこを境に左が伊勢湾・三河湾、右が太平洋(遠州灘)だ。
 ここから崖下の伊良湖水道を見下ろすと、恒常的に白波が立っている海域がある。
風や船の影響でないので、海流が衝突しているのだろう。 

灯台から道は山に向い、途中標識のない分岐があったので、脇道を行き、島を形成している灯明山山頂のアンテナ塔に達した。
残念ながらアンテナ塔の周囲は柵がめぐらされて入れない
(あとで気づいたが、山頂には標高171mの三角点があり、そこはこのアンテナより奥にあるはず。その道は見いだせなかった)。

元の道に戻って、山陵を越して下りになり、
ほどなく旧陸軍が伊良湖の砲台の落下点を確認するために建てた”監的哨”跡に出る(コンクリの建物が残っている)。
小説ではこの地でラブシーンがあったらしいが、
本来は戦時の遺跡であり、今は鷹が悠然と上空に舞っている(この島は鷹の生息地)。

さらに山を下ると、右手に神島小学校と神島中学校の校舎と運動場が拡がる。
集落からずっと離れたこの地に学校がある理由は、ここだけが運動場と校舎を造れる島内唯一の平地だからだろう。
小学校の校舎は古く、しかも使われていない教室がだいぶあるようだ。
平日の昼ながら、遠方からは人の気配を感じられない。
この過疎+少子化の地で、通う児童・生徒はどのくらいいるだろう。
また島内にいて「知らぬ」では通せない『潮騒』のラブシーンの箇所にも目を通しているのだろうか。

その反対側の海側に石灰岩の露岩がカルスト地形(秋吉台と同じ)を形成している。
島唯一の奇勝といっていい。
その他、道沿いに褶曲層が見事な岩壁が2箇所あった。
島はさらに南に険阻な岩脈の岬が続くがそちらは立ち入れず、 これから島の西半分に入る。

海の向こうは鳥羽側となり、おだやかな砂浜が続く。
せっかくなので砂浜に降り、神島の海岸で足を濡らす。

道は海岸から離れ、NTTの中継所がある乗越(島の写真右側の凹地)を越えると漁港の集落に降りる。
これで一周したことになる。

時刻は12時半なので乗船にまだ1時間半もある。 
しかたないので、集落内の細い路地をあちこち歩いて、寺に行ったり、もういちど八代神社に行ったりして、時間をつぶした。

斜面に拡がる集落を歩いてわかったことには、この集落の多くが「急傾斜地崩壊危険箇所」に指定されている。
それと津波の際の避難場所は、高台にある八代神社だ(あの長い石段を上るのはたいへんそうだ)。
神島は、湾内の津・四日市・名古屋・豊橋にとっては、渥美半島や志摩半島とともに
東海・東南海地震の際の津波の防波堤になってくれて頼りになる。
島民の皆さん、東海・東南海地震の時は、津波被害と土砂災害に注意してほしい。  


伊良湖で温泉・大アサリ

2017年05月28日 | 

年に一度、渥美半島突端の伊良湖(イラゴ)に泊って、三河湾名物「大アサリ」をふんだんに食べることにしている。

いつもは「休暇村伊良湖」を使うのだが、部屋が取れなかったので、
伊良湖港周囲のランドマークになっている白い半円形のホテル(しかも温泉だという)「伊良湖シーパーク&スパ」にした。

渥美半島突端に行くには、陸路では愛知東端の豊橋まで行き、そこから渥美半島を付け根から縦断しなければならない。
この大回りルートは、車でも豊橋から90分かかり、公共交通機関さらにはこのホテルの送迎もあるのだが、
私は名古屋から最短距離の知多半島の河和から伊良湖までの船旅にしている。

海に囲まれた日本といえど、県内旅行で船旅が出来るのは、そう多くはない。
しかも行き先が島ではなく半島となるとなおさら珍しい(昔は東京港〜房総半島の館山の船便があった)。
なので、大アサリを食べに行くついでに年に一度の船旅も楽しんでいる。

伊良湖港に入る船を歓迎するかのように建つこのホテルは、ホテル側からすれば視界いっぱいに拡がるオーシャンビューが売りとなる。

私に宛てがわれたツインの客室はランドマークになっている半円形の本館ではなく、
その横に増築された質素な新館だが、目の前が海(三河湾と伊勢湾)であることには変わりない。

さっそく、本館3階の大浴場に行く。
ここは「天然温泉」を謳っているが、じつは伊良湖には温泉は出ず、他所からの運び湯だった。
運び元の1つはなんと私の定宿・中津川温泉。
今日の湯は愛西市の永和温泉※だったが、加水と明記されているように、計測の結果、濃度は源泉(分析表の数値)の数分の1。
※愛西市の「永和温泉」ってネットで検索したら、とてつもなくユニーク。観光向けでないが、今度入りに行く。 

まぁ、オーシャンビューと(一応の)温泉である点は休暇村(客室からは海がまったく見えない)より評価を高くしていい。

一番気になるのは、目的である「大アサリ」。
休暇村はバイキングで、直火で貝殻ごと焼いてくれた大アサリを好きなだけ食べれた。

さてこちらは、大アサリだけでなく、ホタテ、サザエ、それにイカやエビを、自分の卓上のコンロで網焼きにする。
大アサリ以外の魚介類も焼き放題という点でこちらにアドバンテージをあげたい。
もっとも焼く時の味付けが素人なので若干のハンディがあった(あのタレがうまいのだ)。
それ以外のバイキングの内容も、むしろこちらの方が多彩だった。
残念なのは、天ぷらがバラではなくセットに盛られた皿単位で取らなくてはならない点(カロリー過剰)と、
アルコール類の価格が標準より高め(中ジョッキ・瓶ビール800円)な点だが、ハーブティの種類が多く、
またレストランからもオーシャンビューなのは加点となる。
あとコンロで炊く釜飯やわっぱ飯、それに冷やしうどんやスパ・ビザもあるが、
バイキングでは糖質を摂らない私にはこれらは無縁のメニュー。 

以上、この宿、オーシャンビューを堪能するだけでも泊る価値がある(写真:部屋からの日没直後の伊勢湾)。

夕食後、部屋でこの記事を打っていたら、灯りをちりばめた豪華な客船が伊良湖水道(伊勢湾・三河湾から太平洋への出口)をゆっくり通過していった。
時刻からすると名古屋港発仙台行きの太平洋フェリーだと思う。
大アサリにこだわらなければ、リッチな船旅もよさそうだな。 


今日の竜巻注意報の原因

2017年05月26日 | お天気

5月26日18時すぎ、愛知県・岐阜県・長野県の一部に発生確度2の「竜巻注意報」が発令された。

これは「竜巻警報」のない日本では最大級の予想情報である。

実際、レーダーナウキャストを見ると、長野南部から岐阜東濃・愛知北部にかけて、線状の強いエコーが見られる。
すなわち線状降水帯である。

ところが地上天気図を見ると(右図)、それに該当しておかしくない寒冷前線がその地域に見当たらない(図中の寒冷前線は太平洋の南方海上で全く別物)。
地上天気図ではこの現象に対する情報がないのだ。

なぜなら、この現象は上空の寒冷渦(カンンレイウズ:高層で発達した低気圧)のしわざだから。

ためしに、上空5000m付近の 500hPa高層天気図を見ると(下図)、朝鮮半島の東側に明確な低圧渦がある。
これが寒冷渦で、点線の等温線を見ると、寒気がぐぐっと北東から南下しているのがわかる。

すなわち、上空から寒気が入って大気が不安定になる状態が寒冷渦によって持続されているのだ。
寒冷渦では、その南東面で地上での暖気との衝突面があり、そこに上昇流が発生して積乱雲が線状に発達する。
上述した地上の線状降水帯はこれで説明できる。
さらに積乱雲は、あらゆるシビアな気象現象の原因で、竜巻の原因でもある。

この寒冷渦は地上天気図では前線を伴わない1000hPaの存在感のない低気圧としか表現されない。

というわけで、地上天気図では表現できない気象現象が東海地方に竜巻注意報をもたらしているのだ(テレビのお天気番組では、衛星画像の渦状の雲で寒冷渦を紹介していた)。

今の時代は、特に高度の高い山に行く人はなおさら、高層天気図も参照する必要がある。


館林が周囲より暑いのはなぜか

2017年05月22日 | お天気

本日、館林(タテバヤシ:群馬県)が 34.2℃(13時53分)を記録し、全国で最高気温となった。
館林が、40℃を越すような異常に暑くなる理由は上越国境山脈からのフェーンによると説明されている→館林の検証記事

だが今日のように異常値ではないが、他よりも高温になるのはなぜか。

まず、周囲に目を拡げてみると、午後2時の気温は、館林(33.3)、桐生(32.7)、伊勢崎(32.4),前橋 (32.2)と利根川北側の群馬県内で軒並み高く、さらに東の栃木県の佐野や小山も群馬よりは低いが31℃は越えている
(ちなみに午後2時の全国最高は福島県内陸の石川で33.5℃)。
利根川の南側では熊谷(埼玉)だけが32.6と例によって孤軍奮闘していたが、さらに南の東京などは30℃にも達していない。

つまり利根川より北の関東平野北部に東西に延びた高温地帯が形成された。

その関東平野北部の風向は南東風なのでフェーンではなく、むしろ東京の空気が入り込むパターン。
といっても今回は東京自体は熱源になっていそうもない。

関東平野北部は、南関東や茨城と違って海風が届かない内陸地帯であり、高気圧下の晴天による昇温を抑制する要因がない。
さらに上空1500m付近では、仙台付近に暖気核があって、北関東から福島にかけての地上の高温を説明できる。

ということで、今日の館林の高温は関東平野北端の高温帯として説明できるが、その高温帯の中で館林が一番高温の理由が説明できない。

館林固有の要因があるとすれば、観測器の設置環境の問題が再燃するかもしれないが、私個人の計測では、設置環境に問題ありとはいえなかった。

熊谷の後を追って最近になって館林が高温化した理由として、多治見(岐阜県:かつて熊谷と暑さ日本一の座を分かち合っていた)の例をもってくるなら、街自体の都市化の進展によるヒートアイランド化があるが、熊谷に遅れはとっていたのはわかるが、桐生や伊勢崎、佐野と比べてもそうなのかは私には不明。

このように、フェーンによる異常高温以外で、日常的に館林が周囲の街よりも高温になる理由は私にとってもわからない。
アメダスデータによる周囲との比較によって、館林が最高温となる気象条件を抽出するのがまずはやるべきことだ。
気象庁のサイトにある過去のデータを駆使すればできることなので、館林に思い入れのある人、どなたかやってほしい。


三社祭を見に行く

2017年05月21日 | 東京周辺

帰京しての日曜は、どこかに歩きに行きたいが、山もトトロの森も行ったばかり。
完歩していない野川は深大寺のタイミングが悪いので候補にできず、
どうしようかと思っていたら、浅草の三社祭の最中ではないか。

江戸の三大祭りであり、もっとも庶民のエネルギーが爆発するという三社祭だが、
江戸っ子でありながら、最近足を運んでいない。

もちろん祭りは年に一度。
歩きの目的ではなくなるが、チャンスを逃したくない。

ということで、家から少し歩いて浅草行きの都バスに乗る(浅草って意外に交通不便)。

浅草界隈の3つの神社の祭りなので、祭域が広く、浅草中心部からずっと離れた千束付近からもう神輿が練り歩いている。
つまり広義の浅草一帯が祭り一色になっている。

といっても歩きが目的でないので、浅草六区のバス停で降り、浅草寺の裏を抜けて、直接浅草神社に行く。

明治以前の神仏習合的視点では、浅草神社は浅草寺の境内にあり、その鎮守といってもいい。
行ったら、当然ながら参拝の行列に出くわす。
私の前の列は外人観光客。
彼らは一神教的排他性をもたず、本殿に向かって作法通りの参拝をする
(少なくとも日本に来る客はそういう態度であってほしい)。

参拝の柏手に至る時、周囲の参拝客が、ペシッとつぶれた音を出す中、私一人、パチンと心地よく響く柏手を二回打つ。
柏手のコツを実践しているからだ☞その記事へ

浅草寺にも参拝し、せっかくなので屋台のお好み焼きを頬張る(普段より100円高い)。 

あちこちの神輿が雷門に集結しつつあるが、神輿そのものは珍しくもないので
(本当は昨日の白鷺の舞を見たかった)、軽く写真を撮って、また都バスで池袋まで行った。

はっきり言って、浅草って一年中祭りのように賑わっているので、
あえて祭りに合せなくても、祭り気分になってしまう所だ(屋台も一年中出ている)。
祭りの時に行くと、混雑が増すだけで、食事が取りにくく、休む場所もない。


肉食は健康にいいのか

2017年05月21日 | 健康

人は自分に都合がいい情報をあえて選択し、信念を強化したがり、逆の情報は素通りし、また難癖をつけたがる(認知的不協和)。 

肉食(特に牛や豚の赤肉)は健康にいいのか、悪いのか。
この問題も、その心理傾向から自由ではない。
それを心に止めつつ、できるだけ客観的に論じたい。

客観的に論じるには、「科学的エビデンス」に頼るのがいい。
つまり、単発の研究結果を金科玉条にするのではなく、研究として信頼できる多数の結果のメタ分析をすることによって、
単発の研究結果(もちろんそこでも統計的検定はされているのだが)に入り込んでいるそれぞれの偶然要因(非制御要因)を相殺できる。 

言い換えると、メタ分析によるエビデンスによって、自分に都合のよい単発の結果を信じる過ちを制限できる。

肉をどんどん食べるべきという「糖質制限」は、私の知る限り、理屈先行でエビデンスに乏しい。

そしてエビデンス側からみると、赤肉そのもの(付随する添加物や脂肪ではなく)に、発がんリスクが認められる
(『エビデンスで知るがんと死亡のリスク』安達洋祐☞記事)。

アンチエイジング研究側からも、同様な結果を得ており(『アンチエイジング医学の基礎と臨床』日本抗加齢医学会☞記事)、
さらにそこの参考文献として紹介されている『葬られた「第二のマクガバン」報告』(キャンベル&キャンベル)では、
魚・乳・卵も含めた動物性タンパク自体が、健康を損ねる物質として指摘されている
(健康に必要なビタミン B12だけは肉から摂れるので、これはサプリなどで代用するしかないという)。
ただしこの本は、著者自身が実施した「チャイナ・プロジェクト」という大規模な中国での調査結果が根拠であり、
単発研究としては統計的に問題はないが、メタ分析という視点からは弱い。

一方、この本でも問題にされているように、「動物性タンパクは健康に悪い」というメッセージは、食肉業界(アメリカでは巨大産業)にとっては死活問題なので、強烈な反発・逆襲が発生している。
産業構造全般に影響を与える可能性があるのは確かだ。 

ところで、マクロビオティックという動物性タンパクを摂らない食事法が戦前の日本で開発され、
それがまさに上掲書のインパクト以来、世界的に注目されているという。
ただそれを実行していたスティーブ・ジョブズはすい臓ガンで高齢になる前に死亡した。
もちろん、個別事例はエビデンスにはならず(発がんの原因は食事だけではない)、
逆に牛乳も飲まない菜食主義を長年実行しているポール・マッカートニーは70歳すぎても日本にまできて元気にコンサートをこなしている。

さて結局、われわれは肉をふんだんに食べるべきか、むしろ徹底的に排除すべきか。 

この二者択一的思考から救ってくれる高次の現象に「ホルミシス」がある。
ホルミシスとは、多量に摂取すると明らかに害があるにもかかわらず、ごく少量だとかえって健康効果がある現象(放射線、紫外線、硫化水素など)。
これをより普遍的に解釈すれば、摂取量と健康との関係が、直線的ではなく放物線になる現象。
この現象は酸素からアルコール飲料まで適用範囲が広い。 

たとえば、筋繊維を敢て破壊して増大をもたらす身体運動の物理的ストレス、
さらには気持ちに張りを与えうる精神的ストレスもこの現象に当てはまる。
そして、活性酸素を発生させるという酸化ストレスも、少量なら防衛能を高めるという(ホルミシス現象にとって必要な情報は、
その少量の限界値、実害発生の閾値、そして最適値であり、それらの数値がないと使えない)。

人間の頭にとって、直線的現象は単純な論理(一次関数、小学生レベルの算数)で受け入れやすく、
放物線的現象(二次関数)は言語論理での適用がむずかしく、中学生レベルの数学的方程式で理解するしかない。 

肉食についてもホルミシス的に考えれば糖質制限派、あるいは現代アメリカ人のように強迫的に動物性タンパクを摂ることはせず、
ビタミンB類を摂る意味で徹底的に排除することもせず、適度に(どちらかといえば抑え気味に)食べればいいのではないか
(同じことは、”糖質”についてもいえる)。

これは、投資の戦略と同じで、あえて正反対方向にもバランスをとることで、総合的なリスクを低減するやり方である。
糖質制限、菜食主義の両極端が潜在的にかかえているリスクを相殺するのである。

結局はバランス(中庸、中道)、という平凡な結論に落ち着くのだが、
実は直線的思考で一方向に行きやすい人間にとっては、そのバランス(放物線的思考)が難しいのだ
(頭で受け入れにくく、しかも実行しにくいから好まれない)。 

左右に対称的な形態、骨格の両側についている筋肉分布、自律神経として正反対の作用をする交感神経と副交感神経、
これらを見ても人体そのものはバランスを実現するメカニズムになっている。
後は頭がそれに追いつくしかない。 


腸脛靱帯炎者による御在所岳登山

2017年05月15日 | 山歩き

湯の山温泉を後にして、今日は予定通り、御在所岳(最高点は望湖台1212m)に登る。
いつもなら朝食ではご飯を食べないのだが、今回は山に登るのでしっかり食べた。

標高700mが登山限界の腸脛靱帯炎者である私にとっては、限界を500mも超えた高さなので、車で行ける所(武平峠直下)まで高度をかせぐ(御在所岳は長大なロープウエイとリフトでほとんど歩かずに山頂に行けるのだが、それは登山ではない)。
一年前も、同じ登り口から南の鎌ヶ岳(1161m)に往復し、少なくとも腸脛靱帯は痛まなかった。 

湯の山温泉から”鈴鹿スカイライン”をぐいぐい上って滋賀県境の武平峠のトンネルを越えた所の駐車場(810m)に車を停め、リュックを背負って出発(実はトンネル手前の駐車場からも行ける)。

今回は、靴は山用でない、里川歩きに履いているメレルのカメレオン5ストームモック(アッパーがゴアテックスで底はビブラム)。
名古屋宅にある山靴は、かつての幅広志向で買ったため、履いて山に行くたびに拇指の爪を痛め、昨年の鎌ヶ岳では、爪が死んで丸々一枚ぺろりと剝がれてしまった。

なので、今回は脱幅広のぴったり志向(2E)で買った靴を履いて山を歩いてみる。

御在所岳は花崗岩の山なので、登山道も露岩だらけで(特に標高900m圏の急斜面)、登りはいいとして、下り時の衝撃が今から心配(写真は御在所岳の登りから武平峠の南の鎌ヶ岳)。

時たま左膝に違和感を覚えながらも、のびやかな山上(1150m)に達し、そこから先は整備された舗装道路となり、最後はコンクリの階段を上って登山客と観光客が交錯する一等三角点のある山頂(1209m)に達する。

登りはいつも問題ない。

昨日スーパーで買った菓子パンを昼食に摂り、水も充分補給する。

ところで、この山、国土地理院の地図では「御在所山」となっているが、山頂の標識は「御在所岳」とある。
国土地理院の地図は地形図としては最も信頼できるが、地名は必ずしも正確でないことも知られている。
鈴鹿山脈核心部の山はことごとく「…岳」なので、ここも御在所なのだろう。

さて、いよいよ下り。
腸脛靱帯が痛みだしたら、歩けなくなる。
難関の900m圏の露岩の下りをどう歩くか。

今回、足首の浅い靴(ローカット)を履いてきたのには、靴幅以外にも理由がある。

私は大学の山岳部を卒業した後は、山靴ではなく、あえてジョギングシューズに履き替え、その靴で日本アルプスもこなした(もちろん無積雪期のみ)。
この靴によって、歩きが丁寧になることがわかった。

すなわち足首が固定された(ハイカット)山靴だと、振り子の原理で足を前に出すだけでどんどん進める。
それに対し、ローカットのジョギングシューズだと、きちんと着地に気を使う。
特に下りでは足首の可動域が拡がることで、爪先着地ができる。 
山靴だと踵着地で、踵で道を削りながら、がむしゃらに降りるだけだが、 爪先着地によって足自体がクッションとなって膝への衝撃が緩和される。

そもそも腸脛靱帯炎は、下りにかかる過負荷によって歩行困難な痛みが発生するものの、山を下った後の平地では不思議なことにまったく痛まず、普通に歩ける。
ところが駅の下り階段でまた痛む。

すなわち、腸脛靱帯炎には負荷の閾値があり、その閾値に達しなければ 痛まないのだ。
ということは、下り時の力学的負荷(衝撃)を閾値未満に小さくすればいいのだ。
その方法は理屈で導ける。
着地を爪先→踵の二段階にして衝撃を分散し、しかも衝撃の絶対量を小さくするため歩幅(高度差)を小さくすればよい。
山靴だと歩きやすくまた足首が固定されるのが仇となって、ドシドシ降りてしまい、衝撃をまともに浴びてしまう。
その点ジョギングシューズのようなソフトで足首が浅い靴だと、自然に歩きが慎重になって、爪先着地で歩幅が小さくなる。 

実際、そのように歩いてまったく痛まずに下りきれた。

光明が見えてきた!

といっても、昨年の鎌ヶ岳も山靴で下って痛まなかった(その代わり拇指の爪が死んだが)ので、実際の400mという高度差の負荷が閾値以下だったのかもしれない。
なので、今回の仮説的試行は、まだ証明には至っていない。
700m代の山を麓から上り下りして、確認する必要がある。 


慰労の湯の山温泉

2017年05月14日 | 

今回の土曜は、木曜のスケジュールでの授業日だった。
というのも、6月1日(木)が勤務先だけ「開学記念日」で休みのため、その日の授業日を前倒しして今月13日(土)にもってきたのだ。
これはいやがおうでも半期15回の授業日を確保するための策(文科省による指導)である。
もっとも授業を受ける側からすると15回受ける権利があるのだから、当然の措置ともいえる。

というわけで、 GW明けとはいえ、いつもとちがってフル出勤の土曜を送ったので、慰労が必要と、翌日は湯の山温泉(三重)に一泊。

湯の山温泉は、名古屋から高速経由で1時間ほどの近さにもかかわらず、鈴鹿山脈に抱かれた山の中というロケーションで転地効果があり、
しかも私が泊る「ウェルネス鈴鹿路」(厳密には湯の山温泉よりも麓の新湯の山温泉)はビジホに近い料金で、普通の宿の食事にありつけ、その上予約も取りやすいので、こういうフラッと温泉に行きたい時に重宝している。

慰労といってもへたばってはいないので、チェックイン前に、近くの菰野富士(369m)に登って一汗かいた。
この山、尾根の末端の突起ながら、麓からみるとホント富士型に見える。 

チェックインして温泉に入り、珍しく日中から缶ビールを開けて涼んでいると、
こういうゆったりした時間も週に1日は必要だと実感する。

できたら 明日も山に登りたい。


GWの予定こなす

2017年05月07日 | 生活

今年のGWは1日だけ仕事が入ったのみで、長い休日を堪能できた。
この期間中に片づけるつもりだった会議資料作成、授業画面作成はもとより、天候にも恵まれたおかげで、予定していた川歩き、山歩き、里山歩きもすべてこなした。

家にいる時は布団を干して、冬物を洗濯して、夏服を出した(ジーンズって3月までは寒く、5月すぎると暑い。4月だけの短期間のものなんだ)。

そして最終日の今日、これも予定していたプラモ作りを仕上げた。
『大人の科学』(学研)の附録 ”テオ・ヤンセン式二足歩行ロボット”である。
ロボットといってもプラスチック製で、電動ではなく、風力によって歩行運動する 。
二足歩行による重心の左右のブレに対して、倒れないようバランスをとる工夫に感心した。
しかも風上に向かって進むのが面白い。

私にとっては、2泊程度の旅行は週末であればいつでもできるので
GWはあえて旅には出ず、
こういう日ごろやらない活動に手をつけられてよかった。


トトロの里を歩く2:クロスケの家と塚森

2017年05月06日 | 東京周辺

 GW締めの歩きとして、狭山丘陵(埼玉県)の”トトロの森”方面に行く(今回で2回目)。
といっても自然探索ではなく、映画トトロの雰囲気を味わえそうな所に行きたい。
前回は”七国山”(実際は八国山)付近を歩き、ネコバスが走ってきそうな森の中の道を歩いた→「トトロのふるさとを歩く」

今日土曜は、「クロスケの家」が開いている日なので、まずはそこに行きたい。
そこは西武線の小手指(コテサシ)駅からバスで行く所なので、そこと小手指の間にある白旗塚の森
すなわち、映画での「塚森」(トトロの棲み家)のモデル地にも行こう。

というわけで、西武池袋線に乗ると、隣席のカップルが、トトロのストーリーの都市伝説バージョンの話しで盛り上がっていた。
なかなかの出だしだ。

急行だと数駅の停車で小手指に着く。
まずは腹ごしらえと付近の食堂をまわるも、いずれも開店前。
仕方なしにコンビニでおにぎりを買って、バス停のイスに座って食べる。

クロスケの家へは、ここから早稲田大学方面のバスに乗って「大日堂」で降りる。

そこから道路を渡って数分で、トトロのバス停が入り口に置いてある「クロスケの家」(写真)。

ここはトトロの森を管理運営する公益財団法人「トトロのふるさと基金」が古民家を買い取って、狭山丘陵の里山保全のためのナショナル・トラスト活動の拠点としている所。
なので観光地ではなく、活動のプロモーションの場。

といっても、民家の縁側には大きなトトロ像がでんと座り、活動支援のトトログッズも販売している。

来訪者のほとんどの目的は、このトトロ像の前で写真を撮ること(写真)。
それ以外にトトロ関連はないが、屋敷に覆いかぶさるような木立が映画の雰囲気を思い出させる。
映画と同じく家の裏庭には井戸があって、タライの中にドングリが沈んでいる(誰のしわざ?)。 
茶畑の手前の竹林には筍が顔を出している。
こういう何気ない里山的風情がそれだけでトトロ的なのだ。

といっても、ここには30分も滞在すれば充分。
まだ正午なので、 帰途の小手指に向かうには早過ぎる。
やはり狭山丘陵のトトロの森を回っていこう(※文末資料参照)。

丘陵側に向かった常楽院には六地蔵があるが、映画のそれとは違う。
丘陵に向かう谷の道路を登っていくと、トトロの森10号地があった。
こうしてちびちびでも土地を買い取ることで里山の自然を部分的にも保全している。
狭山湖外周の道に出て左折すると、トトロの森4号地。
この付近は人家のない森の道なので、廃材の不法投棄などがされているようで、 その注意書きの看板が目につく。

地蔵尊が分岐になっていて(映画にもそういう所があった)、映画の通り左に折れて丘陵を降りる。
途中、モミジの大木があり、その脇には”木のトンネル”(サツキが引越した家に向かう道を評した言葉)状の踏跡があった。
踏跡は奥に続いているが、行き先とは違うので途中で引き返す。
坂から降りた所に明るく開けた八幡神社があり(境内にしめ縄が掛けられた神木がある)、
そこから北上すると、大日堂のバス停に出る(一周したことになる)。

ここから小手指駅に向かう(※資料参照)。 
稲荷神社脇の庚申塔と供養塔を見て、砂川遺跡に出る。
ここは旧石器時代の遺跡で簡易トイレもある(助かった)。
さらに一本道を進み、ひとまたぎできそうな小さな砂川の橋を渡った所にトトロの森14・27号地がある。

一旦南下して、平沢記念病院をすぎて細い道を北上すると白旗塚の森が目の前に拡がる。
クスノキの巨木こそないが、雰囲気は「塚森」(写真)。
そもそもその白旗塚とは、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞軍がここに白旗(源氏の旗)を立てたから。
そして「小手指原古戦場」の碑も建っている。
歴史散歩も兼ねることができた。

誓詞橋からは小手指駅への歩行者用の道標をたよりに行く。
西所沢高校を過ぎると、水のない調整池があり、奥に西武線が走っていく。
映画の中の「神池」(シンイケ:サンダルが発見された)を思い出す。
もう私の頭はすっかりトトロモードになっていて、”とまり木の森”ではびっしり幹に蔦が絡みついた木もトトロたち(大中小)に見えてしまう。

この歳の私でも、トトロの森にもう少し通いづめれば、森の中で何かが見えるようになるだろうか。

そう思いながら、小手指の駅前に到着。
行きに入りそびれた「ぎょうざの満州」で、生ビールと餃子を注文。
歩いた後の冷えたビールは旨い!
かつて、苦かったビールが美味しく感じるようになるのと引き換えに、 失ったものがあったのかな。
そういえば、歩きの途中で腕時計を落としてしまった。
安物なので喪失感はなく、むしろ”時の流れ”から解放された気がしないでもなかった。 

※ルートの参考にした資料
『トトロのふるさと 狭山丘陵見て歩き』(トトロのふるさと財団編) 幹書房
「トトロの森お散歩マップ#1」(財団法人トトロのふるさと基金のサイトからダウンロード)


限界の石老山

2017年05月04日 | 山歩き

 GWのど真ん中の3連休。
初日は、近所の図書館で仕事をこなしたので、2日目の「みどりの日」は、山に行く。

そもそも私の本来の趣味は登山であるのだが、ここ最近まるで温泉がそれに取って代わったかのよう。
ストイックな行為がその正反対の安逸に流れているのは本来的ではない。
だが、それには事情があって、山を下るとき左脚の腸脛靱帯が炎症を起こして痛くて歩けなくなるのだ。
腸脛靱帯炎は、”ランナー膝”とも言われ、長い間の酷使によるもの。 
自分の登山歴の痛々しい勲章のようなものか。 

山とはいえない低い丘なら痛まない。
経験上、痛みだす山は標高700mあたり。
なので、これよりずっと高い山には怖くて行けない(山の中で歩行不能になったら帰れない)。
せめて限界ライン前後の山に、だましだまし行ってみたい。

そこで白羽の矢が立ったのは、相模湖(神奈川)の南にある石老山(セキロウザン)。
この山、三角点は694mなのだが、山頂は702m。
まさに限界ライン上だ。

そもそも石老山あたりは、山を始めて高尾山の次くらいに行くレベルの山なので、中学2年から山を始めた私にとっては、当初こそ候補地になったが、次々に行く山のグレードを上げていった結果、取り残されたままになってしまった。
相模湖という近場にありながら、そこからバスに乗るという手間が遠ざけていた理由でもある。
それゆえに、標高700m前後で登っていない山としては、第一候補に躍り出る。 

近場の低山なので、気が弛んで電車もバスも事前に時刻表をチェックせず、行き当たりばったりで向かう。
高尾までは京王線で行き、そこから乗り継ぎのためJRのホームに行くと、丁度ホリデー快速(小淵沢行き)が停車していた。
快速は相模湖に停車するかどうか未確認ながら、飛び乗って、相模湖に停車することを車内アナウンスで知ってホッとする(そこから先の駅は通過)。

相模湖駅に降りると、石老山方面のバス停にはすでに長蛇の列が(「プレジャーフォレスト」というレジャーランドと同じバス停だから)。
嬉しいことに、神奈中バスは臨時便を出してくれて、たいして待つことなく乗車し、レジャーランド入り口で降りる。
本来の登り口は次のバス停なのだが、バスはここが終点。

ここからなら、登り口を経由せずに、東海自然歩道を通って行ける。
何しろ、東京の高尾の森から大阪箕面の森を結ぶ東海自然歩道それ自体が石老山を通るのだ。 

山に囲まれたのどかな風情の新興住宅の前を通ると、その家の子どもとお父さんが挨拶をしてくる。
山だと山の人間同士は挨拶をするものの、地元の人とは、しかも新興住宅の人とは挨拶をしないが、逆に住民からすれば防犯の意味もこめて見知らぬ通行人には声をかけた方がいいだろう。

東海自然歩道は、あまり人気がないようで(私も興味なし)道こそ荒れ気味ながら、道標は充実してて、迷うことはない。 

やがて本来の登り口からの車道と合流し、病院脇から登山道になる(高尾からこの付近にかけては山の中に病院がある)。
といってもこの山の中腹にある顕鏡寺という古刹の参道でもあり、ここから石老山の名の元になった礫岩の巨岩が次々登場する。 

顕鏡寺からは、東の津久井方面が見渡せ、昨年行った津久井湖畔の城山がぼつんと平野から飛び出している。

登りはもともと痛みはこないが、登りの負荷が下りになって響いてくるともいえるので、登りの段階で腸脛靱帯に負荷をかけないよう対処する。
具体的には、まず筋肉をサポートするアンダータイツを履いてきた。
そのタイツが腸脛靱帯もサポートしてくれるとありがたい。 
そして登りはじめる時に、腰にコウノエベルトを装着した。
骨盤の左右のブレが腸脛靱帯を引っ張ってしまうので、このベルトで骨盤を固定するのだ。
さらにストックを1本右手に持ち、左足の踏み出しとともに地につけて、左足の踏ん張りを軽減する。
最後に着地足の重心を内側にして、外側の靭帯を緊張させないようにする。
すなわち、骨盤から足までの総合的な対応をする。
登っている間、左脚に違和感を覚えるが、痛みには到らない。
融合平という中腹の平坦地に達すると、道も平坦になり(写真)、気分的に楽になるが、山頂はまだまだ先。

融合平の展望台は素通りして、山頂を急ぐ。
再び傾斜が急になる。

一人で山に入ると、すれ違う登山者と挨拶を交わす以外は終始無言。
この暇な時間を使って、今回は滑舌をよくするために、早口ことばを練習する。
私が苦手なのが「武具馬具武具馬具 三(ミ)武具馬具。合わせて武具馬具、六(ム)武具馬具」というやつ。

これをまずはスローペースで言い、それでうまくいえるようになったら、ハイペースにする。
スローペースだと言えるようになったが(それまではスローでもダメだった)、ハイペースにするとまたダメになる。
システム2の注視による身体運動モニターがシステム1の無自覚的身体運動に移るとうまくいかない。
この両システム間の橋渡しが、「繰り返し練習」という身体化過程なのだ。

そうやって一人で「ブグバグ」言いながら登っていると、山頂に着いた。
山頂にはすでに多くの人たちが備付けのイス・テーブルで昼食を摂っている。
単独行の私は遠慮気味に、隅のイスを探すが、丁度空いたイスが、富士山真っ正面の特等席。

丹沢の大群山と道志の御正体山の間から真白き富士を拝む(写真)。

軽く食事(コンビニで買った菓子パンとおにぎり)を済ませていると、楽しげな大学生の男女グループから記念撮影のシャッター押しを頼まれる。
そういえば、自分が大学1年の時、入ったばかりのサークルのハイキングでこの石老山の中腹の展望台まで来たことがある。
ハタから見れば、今回のグループのようにまさに青春まっさかりの男女グループで、その後相模湖で同輩の女子とボートに乗ったなぁ。

その懐かしの展望台方面に下る。
いや思い出に浸ってなんかいられない。
いよいよ正念場の”下り”が始まる。
いままでの装備に、膝用のコウノエベルトを左膝に装着し、靴ひもを引き締めて、靴の中で足が遊ばないようにする。

そうしてスタスタ軽快に降りる。
さきほどの大学生グループを追い越し(山道は、いわば1車線道路で追い越し車線はないので、追い越させる人たちが立ち止まって追い越しをさせてくれる)。

さらに前方にいる人たちを次々上の要領で追い抜き、最後の谷沿いの急斜面では、両手を使って難渋している初心者たちを尻目にストックでバランスをとりながら追い抜いていく。
調子に乗って急斜面をスタスタ降りていったせいか、いつの間にか左の腸脛靱帯の負荷が限界に近づいてきたようで、違和感が別の感覚になりつつある。
左脚に負荷をこれ以上与えないため、左斜めに向いて、右足から降りるようにする。
幸か不幸か、腸脛靱帯が悲鳴を上げる直前に、山の下りが終った。

「幸か」というのは、 今回は700mの山ながら痛まずに下山できたから。
「不幸か」というのは、今回も腸脛靱帯炎を克服できたわけではないため。
石老山はまさに限界ライン上の山だった。 

いずれにせよ、山道が終って林道になったので、ここからは靭帯炎を気にしなくてよい。
ふたたび「ブグバグ」とつぶやきはじめて(けっこうハイペースでも言えるようになった)、往きと同じバス停に着くと、1時間に一本のバスが来る10分前。
今日はやけに、乗り継ぎがスムースだ。

そんな中、最後の最後、駅の階段を降りる時、腸脛靱帯炎の痛みが走った。
でも今までよりは、軽症だ(以前は駅の階段をまともに降りれなかった)。
これを今後の希望としたい。 


GW谷間に名古屋往復

2017年05月02日 | 生活

本日はGWの谷間の平日。
勤務先では会議が連続3本続く。
なので日帰りで名古屋を往復する。

最初の会議も昼からなので、普通の起床時間に起きて、通勤ラッシュが過ぎた後の山の手線に乗って、いつもの火曜よりはガラガラの新幹線で名古屋へ(仕事客がいない)。
名古屋宅から車で勤務先。 

夕刻に最後の会議が終って、しばらく乗らない車にボディカバーをかけ、名古屋駅に行くと、往きと違って、新幹線の切符売り場はいずれも行列。
連休分の乗車券はすでにチケットショップで買っていたが、帰りの特急券を往きに買っておくんだった。 

私はいつも自由席なので、この分では席の確保は難しそう。
といっても自由席だから、混んだ便をやりすごして、空いた便を選ぶ自由度がある。

ホームに駆け上がると、上りののぞみの発車のベルが鳴っている。
自由席車両に向かって走り、3号車を見ると、列ごとの空席がある。
自由席は、端の車両にいくほど空いているので、2号車を見ると、3列とも空きの席がちらほらある(2列席から埋る)。
2号車に飛び乗った。 

なんだ、心配は無用だった。
というより、新幹線の乗客は、事前に席を確保したいので指定席から埋るのだ(券売機で指定席を選ぶから時間がかかり、行列が長くなる)。
だから自由席の方が空いていることになる。

というわけで10分おきにやってくる東海道新幹線では、始発の東京はもちろん、途中駅の名古屋乗車でも私はいつも自由席(便数がずっと少ないJR東日本の新幹線では私も指定席を優先する)。