夢は、(私の「心の多重過程モデル」によると)システム2のイメージ表象能力の自律活動である。
今朝見た夢で、学生時代の友人と車でドライブ中、ある名所(実在しない)に達した時、道が以前訪れた時(という夢の中での記憶※)と状態(道幅や舗装状態)が異なっている事に、困惑した。
※:夢には夢固有の記憶の世界があるのかもしれない。もしかしたら一つ前の夢(この夢によって記憶が上書きされた)の内容かも。
それでもその名所に達し、次に駐車スペースを探して、周囲を走行した。
その名所自体も様変わりしていて、以前とは違う状態だと思った(荘厳な雰囲気は変わらず、深い色彩に満ちていた)。
その途端、風景がその以前の状態に様変わりした。
そうなると駐車スペースも違う場所になり、さらに車の走行が続き、
この変化を幾度か繰り返し、車を止められないまま、夢から覚めた。
目覚めて実感したことは、夢の中でイメージ表象とすると、それが夢の情景として”実現”したということ。
イメージ表象(夢の中の記憶象の再生)が夢の中で世界化※する現象を目の当たりにしたのは初めてだ。
※:渡辺恒夫『人はなぜ、夢を見るのか』(化学同人)による。世界=自己の外界。
夢での風景の変転の様相が一般的に覚醒時と異なって、急激(非線形的)なのも、このようにイメージ表象が”世界”化するためかもしれない。
すなわち夢の中での”想像”も夢の”世界”も、ともにイメージ表象という同じ心理作業であるために、想像の世界化がたやすく実現するということか。
ただし、事はそう単純ではなく、この夢でも最初の道の状態については、以前の道は世界化しなかった。
それに、私がよく見る夢(回帰夢)で、使用したいトイレ(大用)を求めて、トイレがずらりと並んだ施設内を探し回るのだが、その時は使用したいトイレはまったく明確にイメージ表象していないためか、世界化してくれず、結局毎回、求めたトイレを見つけられずに、現状のトイレで妥協する結果で終る。
夢自体がシステム2のイメージ表象能力に依るものだが、夢の中でのイメージ表象が世界化する場合もあれば、しない場合もあることになる。
しかもそれを(夢を見る側の)自我は制御できない。
このシステム2(≒意識)における非自我部分(夢を見させる側)の正体を探っていきたい※。
※:今までシステム2を自我機能中心に説明してきたが、自我は心どころか、自らが属するシステム2の主人でもないようだ。
この非自我部分は、フロイトが”無意識”とした部分だが、自我主導の”意識”よりも発生的に原始的な心(無意識)はシステム1(動物と共通)であり、システム1にはこのような高度な創造(物語化)能力はない。
すなわち、意識/無意識の古典的2元論は単純すぎるのだ(意識以外の心の部分は複数存在する。ユングはこの方向性に進んだが、2元論からは脱せなかった)。
むしろこの部分の物語化能力が、自我の思考を背後から制御している可能性がある。