今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ワクチン接種を予約した

2021年04月30日 | 新型コロナウイルス

30日の午前9時から、わが自宅のある東京都文京区でワクチン接種の予約受付が始まった。
その数日前に、区から自宅に案内が届いていた。

ただし当日は、名古屋宅にいる。
予約方法は電話とメールの2種類だが、電話はまず通じないだろうから、ネットのサイトを,サイトが推奨しているブラウザChromeで事前に開いておき、
8時59分に、ネット画面の「申込」スイッチを押した。
すると案の定接続に時間がかかり(なので1分前に入力した)、9時00分を過ぎても接続が進まない(すでに回線が輻輳しているわけだ)。
やがてエラー表示が出た(混雑からはじき出された)。
かまわず接続しなおし、これをしばらく繰り返す(はじき出された混雑に突進を繰り返す)。
ためしに電話をかけてみるが、当然通じず、「しばらくしてからおかけなおしください。」のメッセージ。

ネットのアクセス動員を増やすため、Safariも開いてそちらかもサイトにアクセス(マカーなもんで)。
結局15分以上ねばって、やっと繋がった(申込に入れた)のは、推奨されていない方のSafari(その後もChromeはダメ)。
画面で、入力指定される券番号(案内に記載)を、あらかじめパソコン画面に入れておいてコピペで入力し、パスワードを2回作らされ(これも事前に作っておいてコピペ)、やっと予約画面に達する。

しかし、案内から想定していた画面と異なり、予約日時と接種場所(病院)をこちらでは指定できず(指定欄があるのに)、20以上ある選択画面から選択しなくてはならず、しかも日時も場所も範囲が限定されている。
こちらが希望した日時も場所も選択肢外だったので、20以上ある画面から(1画面につき選択肢が20くらい)選びなおし、やっと予約ができた(すなわち希望する日ではなく、場所も遠い)。
以上、このような画面について文句を言いたいが、繋がってからは数分で予約ができたから、結果オーライとしよう。

私が予約で戸惑っている最中に母から電話が来て、自宅で在宅勤務している弟のパソコンで予約できたという。
300km離れた名古屋からより、同じ区内の方がスムーズに接続できたようだ。

今回は”高齢者”が対象だが、高齢者の大半は電話しか手段がないはずで、「しばらくしてからおかけなおしください」というメッセージを幾度も聞きながら、いつ繋がるかわからない発信を繰り返したことだろう。
高齢者が対象なのに、大半の高齢者には予約できない、こんな予約システムでいいのだろうか。
実際、名古屋では電話がつながらない高齢者たちが、区役所に押しかけたという(混雑=三密を引き起こした)。
まずは地域や日時を機械的に振り分け、それがダメな人だけ調整するわけにはいかないのか。
マイナンバーによる情報管理が機能していない日本では無理か。


サイキック・パワー講座5:ペンデュラムを使った潜在意識との対話

2021年04月29日 | パワー・スピリチュアル

前回の講座4で扱った気とかプラーナとか呼ばれる生命エネルギーは、”サイキック”には収まらない心身一如的現象である。
そこでこれからは、純粋にサイキックと言える現象に注目してみる。
自分の意識とは別の、自分でも気づかないという意味での潜在意識のパワーだ。


まず紹介するのは、ペンデュラム(振り子)を使うもの。
原理は、振り子なので、糸で五円玉をぶら下げてもいいのだが、振り子部分が石や金属の既製品をネットで購入できるので(「ペンデュラム」で検索)、それを使うと気分が出る(私はAmazonで金色のを購入)。
形態として、五円玉より振り子の先が尖った方が、先々便利。
ちなみに石(パワーストーン)だと浄化の手間がかかるから金属の方がいい、という意見もあるが、浄化自体、水流にひたせばいいので手間はかからない。

さて、ペンデュラム(この場でやってみたいなら五円玉と糸※でもよい)を利き手の三指(親指・人差指・中指)で3方向から押さえて吊り下げ、真下に静止している状態で始める。
※:吊り下げる長さは、既成品のペンデュラムでは15-20cmほど。

①まず最初は、意識の念でペンデュラムを自在に動かす訓練。
ただし、吊り下げている指を意識的に動かしてはならない(これをやったら意味がない)。
振り子部分を見つめて(持っている指は視野の焦点外におく)、左右に動けと念じる。
左右に動いている情景を、目の動きで(目を左右に動かして)シミュレーションするといい。
すると、ペンデュラムが徐々に左右に揺れだし、その振幅も大きくなる。
もちろん、吊り下げている指は固定されている。
そして動きを停めるように念じる。
動きが止ったら次に、前後に動くことを上の方法で念じる。
さらに、斜め(前後と左右の中間)、そして円運動(時計回り、反時計回り)もやってみる。
以上、すべて出来たら、練習終り。
余裕があれば、見つめることをせず、閉眼してやってみる。

②本番に向うための準備に入る。
まず自分にとって正解であることが明確で「はい/いいえ」の2択で答えられる問い、たとえば自分の性別「私は男/女ですか?」という問い(この問い、人によっては必ずしも明確に2択な問いではないが)を立て、その問いを念じながら、ペンデュラムを見つめる。
すると、特定の動き(前後か左右か、時計回りか反時計回りの円運動)が始まる。
その動きが、自分にとっての「はい」の答え。
つぎに自分にとって不正解であることが明確で「はい/いいえ」の2択で答えられる問い、たとえば自分の性別でない方の問いを立て、その問いを念じながら、ペンデュラムを見つめる。
すると、たいてい先ほどの「はい」とは異なる特定の動き(前後に対して左右、時計回りに対して反時計回り)が始まる。
その動きが、自分にとっての「いいえ」の答え。
ちなみに、「はいの動きはこれこれ」(たとえば時計回り)と指定する本もあるが、理論的にも個人差があると思うので、それを盲信せず、自分の”はい/いいえ”を必ず確認すること。
この、はい/いいえの動きが定まらないと先に進めない。


③ではいよいよ本番。
何か答えがわからない二択の問いを発する。
たとえば探し物のありかを問う。
その場合は、「〜は、この部屋にありますか?」という形で問う。
その問いを念じつつ、ペンデュラムを見つめる。
するとペンデュラムは、「はい」か「いいえ」のどちらかの動きをするだろう(そうでない場合もありうる)。
探し物以外に、判断に窮した時の意思決定に使える。
ということは、占いに使える。
逆に、判断が面倒だからと最初からこれに頼ると、真摯に回答してくれなくなるかも※。
※:占いとしての易は「人事を尽くし(可能な限り努力をし)て天命を待つ」ためのもので、人事を尽くさずに易占に頼ることを排している(ペンデュラムは易占と原理が異なるが)。

さて、この現象はどういうメカニズムなのか。
強く意識で念じると、それが指に伝わって、意識ではなく潜在意識が指を微(かす)かに動かすためと言われている(実際、姿勢チェックで、身体部位を意識するだけで、その部位の姿勢筋が反応する)。
実はペンデュラムを動かす動きは”ほんの微か”でOKで、その微かな動きが物理的に共振されれば、あれとあれよと振幅が増強されていく(振幅の増強そのものは物理現象として不思議ではない)。
練習①②では、(顕在)意識にとって答えが判っている問いに対して潜在意識が反応しているのだが、
本番③のように、顕在意識が回答不能な問いも、潜在意識は回答可能なのだ。
それを可視化するのが、このペンデュラム。

これが可能ということは、潜在意識は顕在意識以上の情報をもっているということ(顕在意識は潜在意識の情報ストックを参照する)。
ペンデュラムは自分の顕在意識が自分の潜在意識に直接問いかける行為というわけだ。
ということでこの現象は超能力ではないため
、自分の潜在意識の正解率が100%という保証はないし、潜在意識でも回答できない場合もありうる。

ただ潜在意識を活性化させること自体に、自分のサイキック・パワー(心の能力)を高める効果がある。

座6:ダウジング
講座1:いざないに戻る


尿路結石なりかけを制す

2021年04月27日 | 健康

本日、名古屋市営地下鉄の座席に座っている最中、右側の下腹部(膀胱付近)に、刺し込まれるような痛みが走った。
しかも断続的に繰り返しだしてきた。
この部位にこの痛み、これは尿路結石に違いない。

かつて、名古屋宅(孤寓)で尿路結石に襲われた時、一人痛みにのたうち回った。

そもそも尿路結石になるのは、一種の体質で(摂取成分で言うと、ほうれん草などに含まれる「しゅう酸」が良くないらしい)、繰り返すという(そうえいば一昨日、ほうれん草がたっぷり入った蕎麦を食べた)。

でも、あの痛みは2度と経験したくない。

今回の程度の痛みなら結石が小さいので、尿管中の石を力学的に膀胱に押し出すことができる(しかも痛む部位から、幸いなことに石は膀胱の間近だ)。
方法は簡単、両足で飛び跳ねるジャンプを繰り返すのだ。
膝のバネを使って、下向きの加速度を増強する。
ジャンプを50回ほどすると、痛みは消えた。
狭い尿管にあった石が広い膀胱の湖に沈んだようだ。
あとは排水口から勢いよく体外に出ていく。

尿路結石ほどではないが、夜中に目が覚めるほど痛い帯状疱疹も、すでに制する術(すべ)を得ている。→「帯状疱疹なりかけを制す


サイキック・パワー講座4:気の循環でチャクラを開く

2021年04月27日 | パワー・スピリチュアル

前回の講座3で気の交流ができたら、気を循環させてみよう。

気は体内で循環する(巡らす)ことが重要なのは、中国医学の基本。
病い(不調)の多くは、気の循環が悪いこと(気滞)による。
循環だけなら、外部との気の交流しなくても可能。

しかもそうすることで、気の枠を超えたパワーが開花する(かも)。

まずは気(内気)を動かすことから始めるわけだが、それは講座2で、腕から手に気を動かしたように、簡単にできる。
気を動かすのは、システム2の思念を使えばいいのだ。
「その気になる」ことが重要。

外気と交流する(外気を取り入れる)のも、この「気を動かす」の延長でいい。
以下は、気功のエクササイズそのものとなるので、イラスト入りの成書にあたるとよい。


まず、取り入れる外気は、樹木と同じく、天の気と地の気。
天の気は、百会(頭頂の経穴)に意識を持っていき、そこから内気を噴水のように噴出し、天からの外気をシャワーのように浴びるイメージをする(イメージ表象もシステム2の作動)。

一方、地の気は、足の裏の湧泉に意識を持っていき、そこから内気が地下に噴出し、地底から真っ赤な地のエネルギーが足の裏に入りこみ、さらに脚部を上昇して体幹に昇ってくるとイメージする※。
※:これに似たエクササイズは「グラウンディング」といって、気功とは無縁の西洋でも基本とされる(『サイキック・バイブル』)。


実は体幹での気の循環が重要。
気功の「小周天」という方法で、体幹の前後の正中線に沿って気を巡らすのである。
気を熱い赤い球に見立てて、それが正中線に沿ってゆっくり上がっていくのを身体の内部感覚を伴って想像する。
まず会陰(体幹の真下部)を出発点とし、肛門・尾骨→腰椎→胸椎→頚椎から後頭部を通って百会に達する。
ここで先ほどの気の出し入れをしてもよい。
そして次に前頭部に向い→眉間→鼻・口に達する。
そしてそこから咽喉→胸骨→鳩尾→丹田→会陰と一周する。
経絡では、会陰から百会を通って口までを督脈、口から会陰までを任脈という。
この2つは、手足を通る既存の12経絡とは別で、その存在を認めない流派もある。
つまり小周天とは督脈→任脈を周回することである※。
※:ちなみにこのルートは男性用で、女性は逆方法で任脈から上がって督脈に下るというが、それは陰陽論の形式的理屈で、自分に合った方法でいいようだ。


実はこの小周天の気の移動によって、体幹にある七つのチャクラが刺激される。
それで、ここから先は中国の気の理論ではなく、インドのヨーガ理論※になる。
※:これについては、主に本山博氏の著作を参考。
気の理論では、体幹正中線の経穴を巡っているにすぎないが、その体表の経穴の奥にチャクラという、生命エネルギー(プラーナ)の変換点があるという。
面白いことに、気の移動もチャクラの刺激も、意識(システム2)がその部位に集中することで達する。

そして、これらのチャクラを開くことがサイキック・パワーの開花につながる。
もっとも基本となるのが、会陰のムーラダーラ・チャクラで、ここからクンダリニーという強い根源的エネルギー※が出るという。
※:クンダリニーのコントロールを誤るとたいへんな苦しみにあうことが、その体験者ゴービ・クリシュナが『クンダリニー』という本で示している。ただしクンダリニーに対応する気の概念はない。あえていえば、本来は下にあるべき陰の気が逆上した状態(気逆)か。

また眉間の中央部は経穴としては印堂という頭痛・眩暈のツボにすぎないが、ここはアジナ・チャクラといって、第三の目とも言われる部位(仏様の白毫の位置)で、最初に開くべきチャクラだという。
それによってさまざまなサイキック・パワーが開花するという。
私はここのチャクラが好きで、小周天
の時もここはゆっくり入念に気を入れる。
すると眉間の中央部がピンポイントでビンビンとしびれるような感覚となり、眉間の内側から何かががうごめく感じがしてくる(いつの日か、第三の目が出てくるかも)
ここは脳で言えば前頭前野の最前部で、進化的に最新の、今後も進化する部位である。
もちろん頭頂部(百会)の上にあるサハスラーラ・チャクラも重要。

面白いことに、チャクラの位置は内分泌線に対応しているという(アジナ・チャクラは内分泌線の中枢である脳下垂体に対応)。
チャクラの活性化は、システム0(精神神経免疫学的機能)にも影響を与えるわけだ。
これらのチャクラを活性化することで、自身の体にオーラが見えるようになる。

講座5:ペンデュラム
講座1:いざないに戻る


サイキック・パワー講座3:気の交流

2021年04月26日 | パワー・スピリチュアル

前回の講座2で自分の体から気を出すことができたら、次は外部の気(外気)を取り入れることをやってみよう。
なにしろ、体内の気(内気:ないき)を出すだけだと、内気が枯渇してしまうから。

では、元の内気はなぜあるのかというと、呼吸や食物などの気(水穀の気)がエネルギー源となっている。
なので、きちんと食事をし、深呼吸をすることも外気を取り入れる営為であることにかわりはない。

もちろん、ここでは前回の気と同種の気の取り入れの話だ。

町の気功教室では、自分の手から気を出すことができたら、次は生徒同士で向かい合って気を出し合うエクササイズをすることだろう。
ただここの”通信講座”的カリキュラムだと、それができない(身近に気を出せる人がいればやってみるとよい〕。
そこで相手を換えて、他者ではなく、樹木(生きている木)にお願いしよう。

もちろん樹木も生命エネルギーとしての気は人間と同じ。

樹木であって、草花でないのは、人間レベルの気の量の交流をするので、相手には少なくとも人間並みの体積がほしいから。
もちろん樹木なら、人間以上の体積なので安心(ある意味人間以上に安心)。

ではどういう樹木がいいかというと、生命エネルギーが活発な木がいい。
高藤氏※の言を借りれば、新緑・新芽が出ている元気な木で、成長過程の若い木がいい。
※:高藤聡一郎氏の一連の著作(+映像)は、多いに実践の参考にさせてもらった。
逆に、”神木”とされるような巨樹は、実は老木であって、エネルギー的には弱いのだ。
樹木は人間とちがって、老齢になると体が小さくはならず、年輪を重ねて直径が増える一方なので、老木ほど巨樹になる。
だから巨樹は、見た目の容積的にはエネルギーに満ちているが、その活性は低いのだ。

神社境内の神木に人が群がって、樹皮をベタペタ触って、神木から気を吸い取ろうとしている光景を目にすることがある(たとえば伊勢神宮)。
それを見るたび、心が痛む。
動物では不可能な数百年という長寿を達成している神木という老木に対して、いたわりことすれ、そこから気(生命エネルギー)を奪おうとするとは…
こういう行為を奨励する流派もあるようだが、少なくとも触れることは気の理論的には不要で、また老木に対するいたわりの心がほしい(屋久島の縄文杉も触れないように囲いができている)。
エゴ中心でないこういう態度こそが必要。

ではどうすればいいか。
奪う一方ではなく、交流するのである。

ちなみに、若い木なら、エネルギーに満ちている(樹木は天と地からエネルギーを吸収し続けている)から、樹木に比べて小さい人間が、手先から少々気をもらう分にはまったく支障がない(ただし素手でさわるのはよくない。巨樹の樹皮そのものが小さな生命たちの生態系の場になっているのだ)。

私は個人的に、気をもらうだけよりは交流をしたいので(気は循環させること自体に意味がある)、ここでは気の交流の仕方を述べる。

まず、自分で気に入った(元気な)樹木を選ぶ(幹や枝だけでなく、葉の状態もチェック。一部でも枯れていたら対象から外す)。
その樹木の前に立ち(根を踏まないように)、両手を適度な高さで、樹皮にかざす(樹皮には触れない)。
心を落ち着かせて(閉眼してもよい)、体内の気が肩から腕、そして手を通って樹木に向って出ていき、
同時に樹木にかざした手のひらから、樹皮からにじみ出ている気を感受する。

私の場合は、左手が気を出し、右手が気を受けるとはっきり分かれているので、左手を縦にしてやや高い位置で樹皮に向け、
右手をそれよりやや低い位置で、手を横にして樹皮に向ける。
すると左から冷気が樹木に向って出ていくのがわかり、右手には樹木から暖かい気を受けるのがわかる。
これが樹木との気の交流だ。
互いに元気になるよう、自分の良い気を木に送り、木からも良い気を受けていると感じながら
しばらく、この交流を楽しむ。
すがすがしい気持ち(リフレッシュ)になったら、交流を終え、樹木にお礼を言ってその場から去る。
不必要に交流を強制しないこと。
気の交流は、相手※に対するいたわりと感謝が必要である。
※:相手は人、樹木以外に、石(パワー・ストーン)や岩、パワー・スポットなども可(気・パワーを感じれば)。非生物の気は生物のようには減らない。ただ浄化が必要。

人と気の交流をする時、気を相手に出すだけだと自分の内気が枯渇する。
自分の気が減退したら、ここに記したように、元気な樹木から気をもらうことができる。
言い換えれば、講座2の気を出すだけで、気をもらうことができないのは、中途半端な状態である。

講座4:気の循環
講座1:いざないに戻る


サイキック・パワー講座2:気を出す

2021年04月25日 | パワー・スピリチュアル

前講座1で、サイキック・パワー講座の基本的態度を理解したら、早速実践に入ろう。

ちなみに本講座で使う用語は、私の「心の多重過程モデル」の「システム0〜システム4」以外は、既存のインド、中国、西洋の用語をまぜて使う(論理体系より現象記述を優先するため)。


まずは「気」を出してみよう。

これは、自分自身にとって最も簡単な実践で、やってみたらその場でできた(以来、いつでもできる)。

ただ、その前に「気」の感覚(気感)とはどういうものか、出す前に知る方法からはじめる(高藤聡一郎氏の本を参考)。

①両手を合わせて、素早く上下してこすり合わせる。
②摩擦熱でこすり合わせた面が熱くなるくらいの強さで続ける。
③両手の平が熱くなったら、動きを止めて、両手の間を1センチ程離す(両手は平行)。
④その時、両手の間に温感以外のジワーンとしびれるような感覚があったら、それが気感に近い(近いのであって気感そのものではない。その感覚に空気圧のような”圧迫感”が加わっていたら気感に近い)。


この疑似気感を体験したら、いよいよ本物の気を出してみよう。

①両手を数センチ平行に離す(互いの皮膚温が感じない距離がいい)。
 ます、手の内側から放射される皮膚温(温感)は気感ではないことを認識する。

②意識を集中して(閉眼するとよいかも)、左右の両肩(腕の付け根)から、それぞれ気が腕を通して、ゆっくりと手に向って流れていく状態を体感的に(非視覚的に)想像する。
大事なのは「ゆっくりと」であり、素早くではない。
気の流れはゆっくりなのだ。

③その続きとして両手の間の空間に気が満ちるイメージをする。
両手の間に透明な気のボール(球)があって、それをこね繰り回す動作をしてもよい。
すると両手(もしくは片手)から気が出始め、向いの手がその気を受けて感じる。
これが気感であり、フワッとする空気感(圧迫感)であることが多い。
空間を詰めると密度の高い気体による軽い抵抗感がある感じ。
その他にビリビリ感、冷感(温感の逆!)だったりもする(個人差)。
少なくとも体温放射による温熱感とは別個の感覚である。
すなわち、気感は錯覚や暗示ではなく、明確で固有の感覚(触覚)であることが確認される。
これがサイキック・パワーの最初の経験だ。


④気は、一旦出始めたら絶え間なく出続けるので、これからじっくり実感していこう。
両手の間隔をゆっくり広げてみて、気感がどこまで届くか確かめてみる。
そしてまた両手を接近させる。
この距離の遠近を繰り返すと、気感がさらに強く確認できる。

⑤平行にしている両手の双方(片方でも)を上下左右に動かして、気感の感じ方を確認すると、気の出口の部位がわかってくる。
たぶん、手のひら(掌)の中央(労宮という経穴)付近から気が出ているはず。
両手を平行状態のまま上下左右さらに前後(開閉の方向)に両手を動かし、気の放射側の手と、放射を受ける側の手を確認する。
気感がさらに強くしかも詳細に感じるようになり、強い放射圧すら感じる。
私自身は、左手(の労宮)が気を出す側で、右手が気を感じる側だ(陰陽論的に左=陽=能動、右=陰=受動だからか、私が左利きのせいか)。

⑥気を感じる側の手を裏返して、手の甲側でも気を感じるか確認する。

⑦放射側の手の指先からも気が出ているのを確認。
たとえば放射側の手の指先(人差し指がいい)を受け手側の手のひらに向けて(間は数センチから数十センチへと徐々に拡げる)空中で円を描くようにぐるぐる回転してみる。その動きに応じて、受け手の手の平に感じる(私の場合は冷感)部位が移動する(閉眼してやってみる)。
その放射がどこまでとどくか、両手の間を広げて確認する。
ここまで気感を経験できたらもう充分。

⑧終了動作(収功)として、両手を合わせて気の流れを止め、丹田(臍下の下腹部)に両手を当てて、気をしまう。
①〜⑦までは空間を経由して自分の気を循環させているから、収功は必ずしも必要ではないが、気を体外に放射しっぱなしだと、体内の気が減っていく(生命力が減退する)ので注意が必要。
気功師でない素人は、気を無闇に体外に放射(気功師のまねは)しないこと。


気を出すことがうまくできない人は、気の循環が悪いのかもしれない。
そういう人は、気功のトレーニングから始めた方がよいかも。
気を循環させる練習、たとえば甩手(せいしゅ)のやり方は、『気功革命』(盛 鶴延)がお勧め。
仙道家の高藤氏の本もいいのだが、中古でしか入手できない模様。

講座3:気の交流


サイキック・パワー講座1:いざない

2021年04月24日 | パワー・スピリチュアル

通常の心理能力(システム1、2※)すなわち、認知・学習・思考能力ではない、特別な心理能力(サイキック・パワー)のうち、誰でも比較的習得しやすいもの、すなわち超能力ではない、心の高次元(システム3,4)のスピリチュアル系の能力について、その訓練法をシリーズで紹介しようと思う。
※システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。サイキック・パワーの領域

もっとも、これらについては成書※がたくさんあるので、より詳しくはそちらにあたってほしい。
※:たとえばベーシックな本として、『サイキック・バイブル』(ジェーン・ストラザーズ)など。

いいかえれば、スピリチュアルレベルは、実体験しないと無意味である。
このレベルは、理論的には全員が体験可能なのだが、現実に全員が実現可能かというと、そうでもないようだ。
茶臼山カエル館(長野県根羽村)のパワースポットでは、パワーを感じたのは来館者の50%だったので、残り50%はパワーの感度がないと言える(ここと違って、ほとんどの人がパワーを”実感”できないような所を、私は「パワースポット」とは呼ばない)
この感度は、暗示(システム1)や思い込み(システム2)では制御できない。
なので、読者の皆さんが、必ず訓練の結果が結実するとは保証はできない。
ただし、繰り返すが、スピリチュアルレベルのサイキック・パワーは、超能力とは違って、”理論的には”全員が体験可能である。
少なくとも瞑想(マインドフルネス)によってシステム3を作動できれば(これは全員可能)、システム4(トランスパーソナル)への扉は開かれる。

それから一番大切なことは、サイキック・パワーに達した人は、心のシステム4(トランスパーソナル:超個次元)を開眼したわけだから、自我(エゴ)の超越という境地に達することが求められる(正しい順序で心が成長する人は自然とそうなる)。
すなわち、習得したパワーは、エゴイズムの追究に使ってはならず、個を超えた目的に使うものである。
なにも仏陀やイエスのレベルになれ、というわけではない。
ヒーラー(癒し手)の道を進むのが標準である。
言い換えれば、ただ健康になりたいとか、社会適応をアップしたいなら、既存の科学的方法によるべきで、こちらはかえって遠回りになる。

エゴを満たす”御利益”を望む姿勢は、そもそもこの道の方向ではない。
実際、一部にこのパワーをエゴイズムの実現に悪用しようとする人がいるから注意が必要。
オウム真理教の教祖・麻原彰晃ほどでなくても、ヒーラーのふりをして金儲けに奔走する人がいる(必要以上にエゴを放散しているからすぐ分かる)。
パワーの暗黒面に落ちた人が、それを悪用して自己のエゴを満たそうとするわけだ。
まさに映画「スター・ウォーズ」の世界だ。
確かに目指す境地は、「フォース※と共にあれ」。
※:D.ホーキンスの『フォースかパワーか』によると、私が扱うのはフォースではなく、”パワー”でいいようだ。

講座2:気を出す


改善されない数学書の読みづらさ

2021年04月19日 | 生活

中高生時代に数学の勉強が嫌いになった一番の理由は、「(式4)」など数式に与えた番号を示すだけで、読み手が本のページをめくって該当する数式を見つける作業が課せられるためだった。
こんなめんどくさい本の読み方を強いるのは数学書だけ(文系の書の”注釈”を読むために巻末を往復するのもこれに該当するが、たいていの注釈は読まなくていい。だが数学の場合は、その式を確認しないと前に進めない)。

数式に番号を振って登場を1回だけに倹約するのは、数式が頭に入っている書き手または印刷に手間がかかる出版社側の合理性であって、読み手の読書行動※からみると不要な往復運動が強いられる非合理的な所業。
※:読書を、人間の目〜手を使った情報処理行動として捉える視点。この視点、意外になおざりにされている気がする。

この問題を解決するのが、電子書籍だと思っていた。
すでに研究室の本段が満杯ということもあり、自分の読書は電子書籍がメインになっている。
実際電子書籍だと、注釈は本文の注釈番号をクリックしてリンク先の注釈文に飛んで、また1動作で本文に戻ることができる※。
※:はっきり言ってこの作業だけでも面倒。読書行動的には、注釈は本文と同じページに小さく載せるのがベスト。たとえばここの記事の注釈に番号を振って、全部文末に集めたらどうだろう。今までの本は読書行動的な不合理を平気でやっている。

ところが、私が手にした電子書籍の数学書(といっても講談社のブルーバックス)は、紙原稿をPDF化しただけで、数式番号にリンクは貼られていないため、数ページ前ならいざしらず、ずっと前(前章)のページの数式番号が示されると、いちいち、その番号があるページを探さなくてはならない。
この作業、紙の本より手間がかかるほど。
ためしに数式番号を読書アプリの”検索”にかけてみたが、無駄だった。
これなら紙の本の方が読みやすい。

数学のテキストは電子書籍化によってはじめて本質的欠点が改善され、読み手のハードルが下ることを出版社側は理解してほしい。

ついでに数学書を読む時には、紙と鉛筆が必要。
本では省略される式の変形過程を自分で書いて確認するため。
ただノートなるものを持っていない私は、書いて消せるA5サイズの電子メモパッドを使っている(秋葉で800円で購入)。
かように読書行動として筆記することを求めるのも数学書固有。そういえば、大学の数学教員は、数学の研究自体(専門分野は数論)、紙と鉛筆があればいいと言っていた。

話を戻すと、本は読者のためにあるなら、読書行動を基準にして編纂させるべきである。
読書は本来、最も効率のよい情報行動である。
そのハードルを不必要に上げることはやめよう。


大阪行きを中止

2021年04月16日 | 時事

大阪の河内長野にある観心寺の如意輪観音は、本物には一度もお目にかかっていないが、その精巧なフィギャを実家の本尊にしているほど気に入っている仏像(→仏像フィギュアを大人買い
お目にかかっていないのは、遠方の大阪の地にあるためと、さらに年に2日間だけしか開帳されないため。

それがうれしいことに、今年の開帳日は今週末の土日(明日、明後日)に当る。
これは滅多にない機会。
なので、名古屋から拝みにいこうと思っていた。

実は、大阪にはいまだに降り立ったことがない(関西に行くなら京都になりがち)。
せっかくの初大阪なので、泊りにしようと思った。
近くの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)なども見たいし。
だが、河内長野付近に適当な宿がみつからない(ビジホでいいのに)。
よく考えてみたら、大阪は名古屋からなら日帰り圏だ(京都や奈良は日帰り旅行先だし、大阪から名古屋に通勤している同僚がいる)。

これで俄然気楽になったが、そういう折り、大阪であれよあれよとコロナ感染者が増え続けて、東京の感染者数を抜いて、日本一を維持し続けている。
感染力が強い変異株のせいだ。

その地に、あえて入りこむ勇気、いや蛮勇がない。

電車内は大丈夫だろうが、肝心の観心寺が年に一度の開帳日による混雑が怖い(昼食も摂る必要があるし)。
大学で学生と対面授業をし、さらに東京の実家に帰る身だ。
仮に自分は大丈夫でも、愛知や東京に変異株を持帰りたくない。

そこで条件として、前日に大阪の感染者数が1000人を割ったら行こう、と思っていた。
ところが、1209人と記録更新。

今は最も行くべきではない時と判明。
明日は雨天なので鉄道も換気しにくいし。
諦めた。

来年の開帳日は日・月曜なので、なんとか行けそう。
いや、絶対行く。


なぜ人は川で沈むのか

2021年04月11日 | 防災・安全

東京、荒川の支流の新河岸川で、7日に小学生が溺死し、さらに助けようと川に入った成人男性のうち一人が溺れて行方不明となり、11日に3km下流で水死体となって発見された。

水の事故は、海やプールでも発生するが、海よりも身近で危険なのは川だ。

私は川歩きが好きなので、よくかわるが、子ども、とりわけ小学校の男子は川遊びが大好き。
なのでまずは彼らの中から犠牲者が出やすい。
そして近くにいた大人がそれを助けようとして、次の犠牲者になる。

川は、超絶的に広大な海と違って、人間の生活圏に入りこめる大きさなので、その危険性が過小評価されるきらいがある。
川に入ろうとするなら、川固有の危険性をきちんと認識してほしい。
ただその危険性が目に見えないからやっかいだ(海のような見ただけで圧倒されるパワーを感じない)。

当然ながら、川は水流が強い。
下流方向への力が常に作用している(これは目に見える)。
1立方メートルの水(1000ℓ)は1000kg=1tの重さがあるから、幅と深さが1m以上ある川は、1t以上の重い力が絶え間なくかかっている(新河岸川は水深2m)。
まずはこの力で人は川に引き込まれる。

その方向が水平方向だけなら、下流に流されるだけだが、現実はそうではない。
川は深さがあり、その深みにも人は引き込まれる。
それは重力(自重)だけによるのではない。
川の水には鉛直循環があり、下降流による沈む力が作用する。
なぜなら、川底の方が流速が遅い(凹凸があり、低温で重い)から。
川は自らの力で人を呑み込むのだ。

人は水中では、身体を水平にして重力に抗する下から上に向う力(浮力)を多く受けて浮くことができる。
だが、服を着て水分が増えて重くなると、浮力は、沈む力(重力+下降流)に抗えなくなる。
すなわち水平姿勢になること自体が難しくなり、さらに垂直になってしまうと、受ける浮力が最小になり、下降流の流れにハマってしまう。
人が岸から川に入る場合、最初は垂直姿勢が多いので、そのまま下に引っ張られて沈んでしまう。
今回、助けに入った男性も、目撃者によると、立ったまま沈んでいったという。

その男性は浮いた遺体で発見されたが、浮いてこれずに川底で発見される場合も多い※。
※淀んでいる所は流速の鉛直差もなくなるので、遺体も水平に伸びて浮力を得やすい。

川は、流れのないプールや濃い塩分によって浮力が効く海とは異なる、
人を呑み込もうと、いつも口を開け続けている、蟻地獄のような恐ろしい水環境である。
ちなみに、太平洋横断に向う辛坊治郎氏によれば、海でもヨットから落水すれば命はないという。
 大量の水環境の恐ろしさは、津波や洪水被害者たちも身にしみている。

関連記事☞に沈まない方法


4月第1週を終えて

2021年04月09日 | 新型コロナウイルス

4月2日の新入生オリエンテーション、3日の入学式、そして5日から新年度の授業が始まり、9日で第1週を終えた。
今年度は、入学式も例年の会場で挙行し、授業も対面(遠隔授業を希望する学生はいなかった)。
大教室では、一人置きに座らせるが、ゼミ室などでは従来通りの間隔。
もちろん、全員マスクで、窓を開け、サーキュレーターを作動。

1週目の授業を思い返すと、ゼミなどで互いにマスクをしているものの、従来の距離で学生と話してしまった。
これは反省点。

いつのまにかマスクの安全神話※に陥ってしまったのだ。
※:「〜をしてさえいれば大丈夫」と、思考停止状態になる。

改めて確認すると、感染防止の第1原則は、三密を避けることにある。
すなわち、互いに口から飛沫を飛ばさないのが最重要で、話す時は飛沫の飛ぶ距離から離れ、空気を流して飛沫の到達・停留を防ぐ。
これが主要措置で、マスクは二義的。
ウイルスはマスクを通過するから(医療用のN95マスクを除く)。
それなのに、マスクという可視的な存在につい安心してしまう(不織布なら安全と思ってしまう)。
…でもこれ、”マスク不要論”じゃないからね。

授業を終えて、帰京の途につく。
名古屋からの新幹線は、コロナ前の乗車率に戻っていた(大阪からのコロナ変異株が車内に持ち込まれているかも)
もちろん乗客は全員マスクだが、私も含めて飲食※をするので、その間はマスクを外す。
※:飲食時には、まず口元と手指をアルコール消毒。
ただ会話する声は聞こえない。

在来線も含めて、電車内でのクラスター発生が確認されないのは、乗客間で飛沫を出す行為がされないのが第1の理由で(ここが飲食店と異なる)、互いの距離は近いが、空気の出入りが多いことも貢献していよう
授業中の教室よりも安全だ。


入学式2021

2021年04月03日 | お仕事

勤務先の大学の入学式が、2年ぶりに実施された。
もちろん昨年は入学式がなく、その後の前期授業も完全遠隔だった。
今回が2年前と違うのは、新入生を午前と午後に分けて2回やったこと。
言い換えれば、1回の入学式は新入生が会場の半分しかおらず、一人おきの座席。

入学生を迎える役の私は壇上の椅子から、そのスカスカの座席を確認した。
壇上の席も、来賓席は設けず、われわれ役員の席だけが隙間をとって設けられた。
また先月の卒業式と同じく、学園歌は斉唱せず、録音の歌声を聴くだけ。

歓迎の言葉を述べる在学生代表や宣誓する新入生代表のお辞儀は両手を腿に当てる正しい形で、ビジネスマナーに蔓延した”拱手”(前で両手を組む)ではなかった。
いい傾向だ。

これから昨年とは違った、正常化された新学期が始まる。

そういえば、名古屋の棲み家の隣室に中国からの留学生(♂)が住んでいるのだが、
先日帰宅したら、彼がやってきて、春休みに中国に帰省して戻ってきたということで、私に中国製の「合格証」付きのマスクを土産にくれた(一瞬私の顔がこわばったが、よく考えたら自分が使っているマスクもmade in china)。
彼は、昨年こちら大学に入っても、すべて遠隔授業で、まったく通学しなかったという。
また、帰国中にあちらでワクチンを接種してきたという。
皮肉なことに、感染対策は完全に中国が先行している。

彼も今年は、普通に通学できそうだ。
それにしても、私はここのアパートができた当初から住んでいるが、こうして会話をする隣室人は彼だけだ(彼以外はすべて日本人)。


田中邦衛さんを悼む

2021年04月02日 | メモリアル

仕事から帰り、自宅のパソコンでネットニュースを開いたら、真っ先に出てきたのが「田中邦衛さん死去 88歳」のニュース。
思わず「えっ!」と声を出してしまった。

訃報に接して、声を上げたのは誰以来か※。
※:ブログを確認したら、野村克也氏の時。

実は、すでに高齢であることを知っていたので、ひそかに怖れてはいた。

私にとっての田中邦衛は、まずは、東宝映画「若大将シリーズ」(1961-81)の”若大将”(加山雄三)のライバル(悪役)”青大将”が最初(子供時代に観た)。
テレビ番組でもあった「若者たち」(1967)も印象的だった(代表作である「北の国から」は個人的に無縁だった)。
後から知ったが、黒沢明作品「悪い奴ほどよく眠る」(1960),「椿三十郎」(1962)にも出演していた。
おそらく最後の記憶は、NHK大河「新選組!」(2004)での主役近藤勇(香取慎吾)の義父・近藤周斎役。
存在感ある見事なバイプレーヤだった。
彼の個性は風貌だけでなく独特の話し方にあり、”ものまね”の対象となるほどで、その意味では、田中邦衛は、どの役をやっても田中邦衛だった。
俳優の個性が役を呑み込む。
それは役に固有の存在感(新たな生命)を与えることを意味する。

私にとって歴史上の近藤周斎は、田中邦衛の顔と声になってしまった。
その意味で、これからもずっと記憶に残る俳優だ。

追記:wikiによれば、彼は岐阜県の土岐市出身で、出た高校は麗澤瑞浪高校(中高一貫校)。この高校、恵那の安宿チェーンに泊る時に通る沿道にあり、先日通ってきたばかり。


車の出し入れ時に家族を轢かない方法

2021年04月01日 | 防災・安全

自家用車の出し入れ時に家族を轢いて死亡させるという悲惨な事故が発生した。

今回の事故は、車の前にいた妻が転倒したのを気づかずに、車を前進させたという。

車社会になって久しいのに、いまだ車に対するタブー(禁忌)に無頓着な人がいる。
どこかで、きちんと教育する必要があるのだが…。

車の出し入れ時に絶対守るべき原則は以下の2つ。
ひとつは歩行者を含めて全員が、もうひとつは運転者が実行すべきもの。

①動く車の前・後ろに絶対に立たない
車はタイヤの向いている前後方向に進む。
その方向に立つことは、動いている電車の線路上に立つことに等しい(私なら怖くてできない)。
なのでこれはタブーである。
動こうとうする車の近くに居る必要がある時は、必ず車の側面(斜め)に立つこと。
これは幼児の段階でしつける(身につけさせる)べき行動だ(幼児がいる場合は→「車の出し入れ時に幼児を轢かない方法」)

車を誘導する場合でも、前または後ろで後退しながら誘導すること自体※、転倒のおそれがあって危険だし(今回の事故もこのパターンか)、誘導すべき微妙な位置(隙間)は、側面で見てこそ確認できる。
※:昔のバスガイドはバスの真後ろで笛を吹きながらバスを誘導したが、ガイドがバスに挟まれた事故現場を見たことがある。今のバスはカメラがあるので誘導不要。

②駐車場での運転は必ず徐行
徐行とはいつでも停止できる速度。
言い換えれば、人と接触しても衝撃を与えない速度。
駐車場は車と人が最接近するもっとも危険な空間なのだ。
駐車する時は、駐車位置の微調整のため、徐行するのは当然。
発車する時も、車の間から人が現れる可能性があるので、徐行で周囲を確認しながらゆっくり動かす。

徐行を心がけていれば、万が一アクセルとブレーキを踏み違えても、強く踏むことはないはず。