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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

加曽利貝塚を見学

2025年03月30日 | 東京周辺

関東において、郷土博物館的視点でフラリと出掛けるなら、この地域に豊富にある縄文遺跡か古墳時代の埴輪が選択肢にあがる。
双方ともにあがるなら、時代順で縄文遺跡にしよう。

ということで、千葉県は千葉市にある加曽利(かそり)貝塚に行くことにした。

加曽利と言えば、関東では縄文土器の型式名になっているほどの特徴ある土器の産地で、貝塚としても国内最大級で国の特別史跡に指定されている。

千葉市では、以前県立と市立の博物館巡りをしたが(→千葉の博物館巡り)特に前者が充実しすぎて、加曽利に足を伸ばす暇がなかった。
なので、今回は残った加曽利貝塚だけとなる。


この加曽利に行くには、千葉駅から路線バスと総武線+モノレールの選択肢があるが、頻度も料金も加曽利までの歩く距離も大差ないので、その場の都合に合わせてよい。

私の場合、乗った電車が内房線の君津行きだったので千葉駅で降り、そこ始発の総武線には時間があったのでバスにしようと改札を出て、目の前の観光案内所で加曽利までのバスの路線と乗場を尋ねると、加曽利へのアクセスの印刷資料とともに情報をくれた。
近くの9番のバス停で、20分おきに出るバスに乗る(待ち時間は10分だったので総武線経由よりも早く着く)。
「桜木町」でバスを降り、少し進んで、看板通り右折して東に向かうと、あとは1本道で「加曽利貝塚縄文遺跡公園」に着く(写真:後ろの建物は観覧施設)。

公園に入ると、そこに立っていたボランティアのおじさんが案内を申し出てくれたが、私は、まずは公園で持参した太巻き寿司の昼食を食べたいのでお断りした。
そう、公園内部・付近には食事処はなく、ベンチだけはある。
そこに腰掛けて太巻きを食べ、まずは園内の博物館に入る(無料)。

展示はもちろん、ここ加曽利貝塚から出土した土器や石器それに人骨。
そもそも、縄文時代の貝塚は、地域では関東が群を抜いて多く、関東の中では千葉県が最も多く、その中では千葉市が最も多いという。
東京湾沿いの遠浅の海に近い台地上で(津波の心配もない)、海産物だけでなく、木の実や動物も獲れる。
それに当時は今より温暖だったので、一年中快適に過ごせた。

ちなみに南関東の貝塚や縄文遺跡は、千葉から東京〜神奈川にかけて広がっており、まさに縄文時代も”首都圏”は賑わっていたのだ(縄文時代から首都圏になる兆候があった?)。

加曽利貝塚からは、縄文早期前半(11000年前)から晩期中頃(3000年前)の土器が出土し、貝塚そのものは中期後半(5000年前)に北貝塚、晩期中頃に南貝塚がそれぞれ形成された。
まさに加曽利式土器(中期は加曽利E式、晩期は加曽利B式)の時代で、世界史的には人類文明史の幕開けとなる古代エジプト王朝の時代に相当。
実用的な土器以外に、用途不明の土器や女性を模った土偶も出土している(写真)。

貝塚は、文字通り地層に貝殻が厚く敷き詰めらたものだが、その貝の大半はイボキサゴというごく小さな巻貝で、食用には適さないという(不可ではない)。
すなわち、貝塚は、当時の人がふんだんに食べた貝の貝殻を捨てた跡、というわけではなく、存在理由が実ははっきりしていない。
さらに、他の貝塚でもそうだが、人や犬の骨が埋葬された形で貝塚から出土するので、墓地でもあった。
すなわち、貝塚=食べた後(残飯)のゴミ捨て場、という発想は、飽食の現代人の発想で、むしろ生と死とを共存(連結)させる神聖な空間だったのかもしれない(一緒に出土した土偶が必ず女性像である点も何かを示唆している)。
※:写真の土偶は見てわかる通り、妊娠している女性。原始、女性は”生”の起源であった。だがその後、たとえば陰陽論において女=陰=死と、死に結びつけられるようになる(インドの女神カーリー、モーツァルト「魔笛」の夜の女王)。

博物館の外の、縄文中期の北貝塚には貝層断層面観察施設と竪穴住居群遺跡観察施設、縄文晩期の南貝塚には同じく貝層断層面観察施設と復元集落(2棟)がある。
貝塚敷地内を歩くと、今でも地面に白い貝殻が散らばっている(持ち帰り禁止)。
かように空間的にも時間的にも規模の大きい貝塚で、名前はより有名な東京の「大森貝塚」(→記事)とは見学対象としても雲泥の差。


帰りは、北上してモノレールの「桜木」駅まで歩き、そこからモノレールを1駅分乗り、都賀でJR総武線に乗り換え、快速で東京に戻れた。
桜木駅近くにはスーパーとコンビニがあるので、公園で食べる弁当を買うにはこちらから行った方がいい。

千葉県にはこの後、埴輪の里と古墳群を訪れる予定。


武蔵府中の古墳巡り

2025年03月27日 | 東京周辺

平日ながら、春休みなので、東京府中の古墳巡りに行った。

都内の古墳は、東西に流れる多摩川の北岸沿いに点在しており、
とりわけ武蔵国の国府があった府中市には二つの古墳群がある。
言い換えれば、関東では一般に縄文遺跡なら豊富にあるものの、
大和〜奈良時代の古代になると史跡はグッと減るのだが、さすが”府中”は古代の史跡に満ちている。


京王線に乗り、府中の1つ先の分倍河原(ぶばいがわら)で降りる(この地名で多摩川に近いことがわかる)。
分倍河原は、新田義貞と北条幕府軍が戦った中世の古戦場もあるのだが、そこは碑があるだけなので省略。

まずは駅の東側出口に出て、近くで昼食をと、チェーン店ながら手頃な値段で私の定番”五目焼きそば”を食せる「れんげ食堂Toshu」に入る。
ここは「そば少なめ」とか「エビ抜き」とかも選べる。
私が食べたいのは”五目”部分なので、糖質を減らすため「そば少なめ」を選んだ(30円引き)。


さて、ここからスマホのGoogleマップのナビを頼りに、古墳巡りを開始。
古墳群は、ここ付近だけ南北に走る京王線の西側にある。
最初に訪れた「首塚古墳」は、民家脇の空き地の盛土の上に稲荷の祠が建っているだけで、古墳には見えない。
南下してJR南武線の踏み切りを越え、高倉塚古墳(市史跡)に達する(写真)。
ここは明確な円墳で、石段がついていて、天辺(てっぺん)まで登れる。
ただ、人様の墓の上を土足で歩くってあまりいい気分でない。
この古墳は付近の古墳群の代表で、それを高倉塚古墳群という。

往路を戻って、地元鎮守の八雲神社に参拝。
訪れた地の鎮守社には必ず挨拶することにしている。

そこから北上して達した高倉20号墳は、日本通運の敷地内なので入れず、
遠くからの目視で済ませる。
古墳群というものの、実は宅地化で消失したものが多く、墳として残っているのは数えるほどで、
残っていても私有地内にあったりする。

西に進んで、JR南武線の西府(にしふ)駅前にあるのが御嶽塚古墳(市史跡)。
江戸時代以降、頂上に御嶽(みたけ)神社の祠が置かれて、多摩川上流の武州御岳山登拝の代わりとなっていたようだ(写真)。
※御岳山の頂上に御嶽神社がある。

ここは緩い円墳で、古墳というより小丘で周囲ともども公園化している。
この付近にも古墳が点在し、合わせて御嶽塚古墳群という。

その公園でトイレを借りて、南武線を地下道でくぐって北上し、
甲州街道に出ると目の前に熊野神社がある。
神社の奥に目指す古墳があるのだが、神社の手前にその古墳についての立派な展示館があるので、まずはそこに入る(もちろんトイレ完備)。
なんで立派な展示館があるかというと、ここの古墳が「国史跡」に指定されているから。

ここの古墳は、方墳の上に円墳が乗った全国的にも珍しい「上円下方墳」(方円墳)で、
しかもその方円墳の中では最古で最大だという。
石積みの頑丈な古墳はしっかり残っていて、玄室のある内部も堅牢に作られていて、
その再現版が資料館の隣にあって、玄室まで入れる(上写真)。
ということで技術的にも当時最高度の古墳で、地元府中の相当な有力者の墓だったようだ。

資料館を出て熊野神社を参拝して、拝殿・本殿(ともに市有形文化財)の奥に、ご神体のごとく鎮座する武蔵府中熊野神社古墳を周囲から眺める(写真:中には入れない〕。
もちろんここが府中古墳巡りのハイライト。

この後は、車で混雑している甲州街道(国道20号)を西に進み、国立(くにたち)に入る。
20号が日野バイパスとして左に折れて旧甲州街道と分かれる所に、下谷保(やほ)古墳がある。
地図上では2号墳、1号墳、8号墳と並んでいるが、実際に行けるのは1号墳だけ。

古墳巡りはこれで終了だが、ここまで来たのだから少し先の谷保天満宮に足を伸ばす。
谷保天満宮は、国立市分寺と川の間の地という意味)周辺では最も有名な神社で、
菅原道真を祀る天満宮としては東国第一という(文京区の湯島天神より格上)。
江戸時代、口さがない江戸市民からは「やぼてん」と呼ばれていた。

ここから、説明板以外何もない仮屋上史跡群を見て、JR南武線谷保駅に着く。
そこから分倍河原で京王線に乗換えて帰宅した。

もともと古墳巡りが目的だったので以上のルートにしたのだったが、
帰宅して地図を見返したら、もう少し西に歩けば「くにたち郷土文化館」があった。
郷土資料館を1つ行き損なった。


東京の国会図書館であんかけスパ

2025年03月07日 | 東京周辺

東京にいるときは、午前中から(国会議事堂の隣にある)国会図書館に通っている。
昼食は館内にある3つの店のうち、ほとんどの場合は旧館3階の「NORTH CAFE」を利用する。
ここはスープカレーを筆頭とした北海道テイストの定番メニューに加え、毎日3種類のランチがあり、バリエーションが豊かだからだ。

そして本日のパスタ、Cランチ(700円)は、なんと「名古屋風あんかけスパ」!
私が一番好きな名古屋メシである”あんかけスパ”が、東京の、しかも毎日通っている図書館で食べられるなんて!
それを知った昨日から楽しみにしており、今日は早めに入館して、開店時間早々に店へ向かった。

Cランチなので、最初にいつものスープとサラダが運ばれてくる。
それらを食べていると、鉄皿に盛られた焼きたてのあんかけスパが到着。
そう、あんかけスパは、まずスパゲッティをフライパンで軽く焼くのが特徴だ。
その上に特有のあんと具材が載っている。
具材はウインナー・マッシュルーム・玉ねぎなどで、これは名古屋のあんかけスパの定番「ミラカン」風だ(私の好み)。

本来はあんはスパの下に敷かれて、スパの上は具だけなので、あんかけ”風”スパか。
ただフォークでスパと具にあんを絡めて口に運ベば結果は同じ。

──しかし、味が違う。

名古屋のあんかけスパは、「ヨコイのソース」という専用ソースがベースになっているのだが、ここのあんにはその風味がまったく感じられない。
既存のナポリタンを粘り気のあるソースで絡めたような味わいで、あんかけスパ独特のコクがない。
このようにベースの味付けが独特なため、名古屋ではあんかけスパは専門店のメニューとなる。
しかも、あんかけスパだけで豊富なバリエーションが成立する。
あんかけスパが、ほかのパスタとは一線を画す、独自の領域であることを改めて実感した。

あんかけスパに挑戦した店の意気込みは称賛したいが、見た目を名古屋風に寄せるのが精一杯だった。
やはり、本物のあんかけスパは名古屋でしか味わえないようだ。

次回は、ここでお気に入りの「北海道チーズのオムナポリタン」を食べることにしよう。


東京一区一寺選抜

2025年02月22日 | 東京周辺

東京で寺巡りをする際、どの寺を訪れるか決める基準がないため、思いつく範囲で選んでしまうことが多い。
そうすると、頭に浮かばない寺は候補から外れてしまう。
そこで、より客観的な基準でリストを作成してみることにした。
例えば、23区それぞれから1つずつ寺を選ぶ方法である。

選定基準は、宗教的な価値(寺格)と観光的な魅力(境内の見どころ)のバランスとした。
その結果は右表のとおりである。

まず千代田区では、すぐに思い浮かぶ寺がなく、地図を頼りに区内でほぼ唯一と言える寺を見つけた。
その後、ネットで情報を収集したところ、やはり由緒ある寺であることがわかった。
中央区では真っ先に築地本願寺が思い浮かんだ。
※京都・西本願寺の東京別院
ただし、本来は他所に本院がある「別院」は除外したいところだ。
しかし、築地本願寺は建物が国の文化財であり、東京を代表する寺の一つであるため、例外的に採用した。

迷ったのは台東区。
寛永寺(天台宗)を外すのは徳川家に申し訳ない気もしたが、今回は江戸時代よりはるか前、飛鳥時代に創建され、現在もトップクラスの人気を誇る古刹を優先した。
徳川将軍ゆかりの寺については、港区の増上寺が選定されているため、そこでバランスを取った。

江東区では、賑わいの点で深川不動(真言宗)が優勢だったものの、成田山新勝寺(千葉県)の別院であることから、地元の独立した寺を優先した。
渋谷区では法泉寺(天台宗)も候補に挙がったが、23区内候補で唯一の臨済宗の寺を優先した。

宗派ごとの内訳は、真言宗7、浄土宗6、日蓮宗4と、真言宗が最多であった。
また、「本山」級の寺も7つ入っている。

このうち、私がまだ訪れていないのは千代田区の心法寺、杉並区の妙法寺、江戸川区の善養寺の3つである。
※:文京区の護国寺(大本山)の末寺だが別院でないので採用
今後の寺巡りでは、これらを優先的に訪れる予定だ。
実際に選んでみて、神社編のほうが選定は楽かもしれないと感じた。


以上の文章は、 ChatGPTでの校閲を受けて修正したもの(ただし一部自分で再修正)→生成AIの校閲比較
文体の個性は尊重されているものの(他の生成AIでは破壊される)、私の原文より、説明が丁寧になっている。
言い変えると、私の文章は、”流れ”を優先するため、論理を飛ばす傾向があるようだ(自分本位な文章になりがち)。
ブログ記事は他人に読んでもらうためのものなので、これからは”校閲”を通したい。


慰労の熱海温泉:追記

2025年02月18日 | 東京周辺

わが職場は実質春休み前半(3月中旬に集中的に仕事がある)、すなわち”年度末”に入ったので、慰労の温泉宿として、東京からは最近はここ一択になっている熱海の「ホテル大野屋」に泊まる。

前の記事(熱海の大野屋に泊まる理由)に示したように、熱海自体の価値とこの宿の価値が合わさっているため。

その記事で示し忘れた”理由”を1つ追加する。
JR東日本のジパング俱楽部に入っていると、その鉄道で往復200kmを越えると運賃が3割引となる。
片道100kmの熱海はこれにギリギリ該当するので(1つ手前の湯河原は非該当。1つ先の函南はJR東海なので対象外)、往復切符が使える1泊にすると、運賃が1300円ほど安くなるのだ。
これもインセンティブ(誘因)になる。


さて、その熱海に早めに着いたので、まずは街中を歩いて宿に向かう(Googleマップだとホテルまで所要18分)。
熱海の街は一時期の危機を脱しつつあって、あちこちの店に行列ができている。
熱海は規模のある繁華街と温泉宿が渾然一体となっている珍しい所で、旧温泉街の風情と新興の個性ある店が合わされば、街自体が観光対象となろう。

銀座通りを横断して、糸川遊歩道に出ると、そこは今が盛りの梅の木が並んで、内外の観光客が記念写真を撮っている。
さらに進むと市内の名所の1つ「起雲閣」に出る。


起雲閣は東武の創設者・根津氏などが所有した大正時代の別荘で、その後旅館となり、幾多の文豪が訪れた。
幾棟ある和洋建築と庭園が見学できる(610円)。
増築された旅館部分に行くと、ゆったりとした客室で庭に面した空間にソファがある。
もちろん風呂は温泉で、明るい部屋から広い起伏のある庭を望んでの滞在執筆に私もあこがれる。
ここに太宰治が滞在してあの『人間失格』を書いたという。
作品に通底する絶望感とそれを執筆した空間の明るさのギャップに戸惑うが、それがプロの作家なのだろう。
また三島由紀夫は新婚旅行で泊ったという。
そして、ここに元祖「ローマ風呂」がある。
そう今晩泊る大野屋のローマ風呂につながるそれ。
といってもこちらはこぢんまりした箱形の浴槽だが、内側は金色になっていた(写真)。

庭に出ると、和風建築と洋風建築がならんでその横に今晩泊る宿の看板が見える。


その宿にチェックイン。
今回は、最安値のビジネスルームではなく、さっきの「起雲閣」の大宰が泊った部屋と同じ感じのゆったりした和室。
1泊の私は、ここで執筆というわけにはいかず、このブログの記事を書く程度。

ここの宿の温泉は、成分の濃さが日本で珍しい”高張性”に達するレベルで、改めて計測でそれを確認(貸切風呂の黒い湯では電気伝導度が10000μSを超えた)。
濃度が高いほど、浸透圧が高く、温泉成分が体内に吸収されるのだ。
実に入り甲斐がある。
※:日常使用の伝導度計だと針が飛んで計測不能となる濃度。ナトリウム系の温泉は、このような極端に高い値が出るが熱海でもそう多くない。宿の泉質を確認しよう。

夕食は、アルコール飲み放題付きの食べ放題。
昼、熱海の街中を歩いている時は、食べる店がこんなに多いから、次回は素泊りにして食事は外の店という旅もいいかなと思ったが、少なくとも伊東園系列の宿で素泊りという選択肢は”愚行”でしかないことを痛感。


19日追記

翌日、チェックアウトして、近くの「熱海山口美術館」に立ち寄った(1400円)。
ここは体験型の美術館という。
住人がいるマンションの1−2階フロアを改装しての館内なので、真面目な美術館なのかどうか、一瞬入るのに戸惑った。
ところがコレクションは一流で、ルノアール、ピカソ、岡本太郎などの作品があり、重要文化財の仏像もある。
その中で驚いたことに、あの細川護煕元総理大臣が、今では立派な陶芸家となって作品を展示していた。

鑑賞が終わって受付に戻ると、小皿に絵付けの実技が待っていた。
しかも、人間国宝の作品でお茶を飲める(いずれも入館料に含まれる)。
白い小皿にペンで絵を描き、裏にサインを入れ、10分ほど間って(その間に喫茶)、仕上がりを受け取る(写真:思いつきで適当にヒョウタンとキノコを描いた)。

熱海の美術館といえば、まずは MOA美術館(→記事)だが、ここはその次に訪れるべき所だ。


弁天巡りと下谷七福神

2025年01月04日 | 東京周辺
正月三ヶ日は近所の氏神詣以外は家に籠り、4日に外出始めをする。
今年は巳年にちなんで弁天様を詣ようと、ネット検索したら、台東区三ノ輪付近に2か所あるのでそれらをハシゴすることにした。
 
一つ目は、荒川区南千住にある中島弁財天
ここは商店街の脇にあり、最近まで銭湯の女湯の中庭に祀ってあったものだという。
さらに元を辿ると伊勢亀山藩主の屋敷内の弁天池の中の島に祀ってあったといい、それが名前の由来だ。
寺の境内にある石仏と違ってお顔がきちんとした作りになっており、美仏リストに加えてもいい(上写真)。
 
二つ目は、三ノ輪を越えた先、旧吉原(台東区千束)にある吉原弁財天
ここは江戸時代以来の遊郭吉原が関東大震災で火災に遭い、遊女たちが熱さで逃げ込み溺死した弁天池があった所。
手前の吉原神社は稲荷などを合祀しているが、その先の弁財天本宮には、震災死者の慰霊の観音像が立ち、
奥には弁天の壁画(下写真)のある弁天堂と水が落ちている赤富の滝がある(ここは大正時代のものだが完全に神仏習合)。
他の弁天堂と違ってここは悲しい死の思いに満ちている。
 
実はここに来る手前に寿永寺という寺があり、立ち寄ったらそこは下谷七福神の1つで、布袋が祀ってあった。
そこでもらった下谷七福神巡りの地図を見ると、私が向かうルートに恵比寿を祀る「飛不動尊」があり、残りも付近に点在して、一筆書きルートでまわれる。
なので、弁天巡りを終えたので、次は下谷七福神巡りに切り替える。
となるともう1つ弁天が増える。
 
酉の市で有名な鷲神社(ここは参拝者が行列)を越えて台東区竜泉に入ると、公園内に弁天院というお堂がある。
ここが今日三つ目の弁天様。
一応寺だが地元の人たちが管理しているようで、堂内に上がって弁天様を拝み、ここの由来記と七福神巡り用の弁天像(400円)を購入。
由来記を読むと、ここにも弁天池があり、底知れない深さのため池にはまった死者がいたという。
そして関東大震災での焼土を埋めるために埋め立てられ、その跡地にこの弁天院が建てられた。
 
かようにそれぞれ由来は異なるものの、いずれも池を祀るための弁天様という点で共通している。
この後、残りの七福神を巡って(法昌寺=毘沙門天、英信寺=大黒天、入谷鬼子母神=福禄寿、元三島神社=寿老神)、
鶯谷から帰宅し、購入した弁天像は巳年(年女)の母に渡した。
自分用には英信寺の三面(左右に弁天と毘沙門)大黒天の御影を買った。

2つの運慶展をはしご

2024年12月01日 | 東京周辺

いよいよ12月(師走)となった日曜。
昨晩の高校同窓会の酔いもすっかり醒め、予定通り、神奈川で開催されている「運慶展」を見にいく。
この展示は横須賀美術館と金沢文庫(写真:ポスター。運慶作大威徳明王)との共同開催なので(あと鎌倉国宝館も協力)、その2箇所に行く。

運慶は奈良(大和)出身ながら、鎌倉武士たちの支援を受けて、東国鎌倉周辺の地にも作品を残しており、それらが一堂いや二堂に会するのだ。


まずは三浦半島突端の観音崎に程近い、横須賀美術館
京急の馬堀海岸駅からバスで向かう。
房総半島の富津岬・東京湾観音を対岸に望む東京湾の要衝・浦賀水道を見渡せる公園にあるので、芝生に寝そべるだけでも来る価値のありそうな所。
しかも併設のレストランも人気。
あと週刊新潮の表紙で有名だった谷内六郎館も併設。

もっとも私は運慶展を”はしご”するので、同時開催の他の特別展には目もくれず、地元に縁のある画家たちの展示を足早に見て、いよいよ「運慶展:運慶と三浦一族の信仰」の展示室に入る。
※12月22日まで
そこにあるのは市内浄楽寺の運慶仏5体(阿弥陀三尊+不動明王+毘沙門天:いずれも重文)。
実は、この5体は2019年の開帳の時に浄楽寺に見に行った(→記事)。
こちらは美術館なので、説明のパンフとネットアプリ「ポケット学芸員」を使っての解説(運慶展に限って音声案内)が加わる。

この地で活躍した時の運慶は30代だから(東大寺の仁王は50代の作)、大御所というより東国武家の新時代にふさわしい新進気鋭という状態だったようだ(上の大威徳明王像は最晩年の作)。

運慶仏以外に、片膝立てた中国南宋の観音像、和田義盛の身代わりに傷を負ったという平安中期の薬師如来像など横須賀の他の寺からの出品もある。


バスで馬堀海岸まで戻って京急に乗って、金沢文庫で降りる。
ここから東に10分ほど歩いて、県立金沢文庫に達する。

金沢文庫は、元は金沢北条氏が集めた貴重な文書の文庫(学問所)だが、今は県立の博物館になっている。
ちなみにこの地は横浜市金沢区なので相模ではなく武蔵の国。

共同開催の横須賀美術館の半券を見せると団体料金になる(私の場合は年齢割もあってたった100円)。
こちらの運慶展は「女人の作善と鎌倉幕府」というテーマ
※:2025年2月2日まで
すなわち北条政子などの女性支援者と関係のある展示。
こちらの運慶仏は小ぶりな念持仏サイズで(上写真の明王もその1つ。もちろん造りに妥協がない)、他は彼が指導した工房作が中心。
その中で個人蔵の展示は貴重。
特に憤怒像における顔面の筋肉の盛り上がりのリアリティは、”存在”のリアリティに直結し、「本当にいるんだ」という気持ちにさせられる。

ところで美術展に行くのはもちろん観たい作品があるからだが、そこで販売されている図録を買うことはほとんどない。
今回も一瞬迷ったが、手を出さなかった。
なぜなら、過去に買った図録は、たった1回読んだだけで、あとは全て本棚の肥やしになっているから。
しかも図録なので分厚い。
古書に出しても歓迎されそうもないし。
とうことで、よほどの事でない限り、手を出さないことにしている(電子書籍版にしてくれるとありがたい)。

館外に出ると向いは庭園のある称名寺
銀杏の黄葉が盛りで、ここかしこで和服女性の撮影会。
撮影会の隙間を縫って、本堂に参拝。
あとは往路を戻った。


本尊開帳の飯山観音と白山

2024年11月03日 | 東京周辺

昨日の強い雨もどこへやら、晴天が約束された文化の日※。
※:11月3日は「晴れ」の特異日

本日に本尊(十一面観音)が開帳される飯山観音(神奈川県厚木市)に行く。
そう、最近の私のお寺めぐりは秘仏開帳を狙うようにしている。

この飯山観音は、関東の観音霊場の1つ(六番目)で、丹沢東麓に点在する温泉郷の1つ飯山温泉近くにある寺で、正式には飯上山長谷寺(ちょうこくじ)という。

白山(284m)という低山の麓にあるので、背後の白山にも登ってみたい。
低山ながら山なので山の装備で行く。


せっかくの秘仏拝観行きながら、人身事故で遅れてしまった小田急の急行に乗って、「本厚木」で降り、道路を渡った5番乗り場の神奈中バスに乗る。

「飯山観音前」でバスを降りて、道路を渡って帰りのバスの時刻を確認し(1時間に2本)、
赤く塗られた橋を渡ると、ここから飯山観音の参詣道が始まる。
その入り口には「ざる菊」という地面に丸く固まって咲く色とりどりの菊の畑があって(写真)、それを鑑賞する客が集まっている(時期的にやや早め)。
このあたりを「飯山花の里」というらしい。
「ざる菊」って初めて見るが、飯山の他にも相模原や小田原など神奈川県内で盛んらしい。

そのざる菊の奥にある金剛寺の大師堂も見学。
堂の後ろに弘法大師を模(かたど)った石仏(墓)が無造作に並んでいた。

飯山観音への直線に伸びる参道を進み、石段を登り終えると門前の広い駐車場に出る。
バス停で降りたのも参道を歩くのも私だけで、本尊開帳日なのに、参詣者が少ないと訝(いぶか)しんだが、
この駐車場に車が幾つも停まっている(500円)。
バス用の大型駐車場もあるので、季節によっては観光ルートになっているのだろうか。


修復中なのか仁王が不在の仁王門を抜け、最後の石段を登ると、観音堂前の広場に出る(写真)
そこにボランティアの案内の人たち(老人)がいて、寺の案内を渡しながら、どこから来たのかと尋ねてきたので、東京からと答え、そしたら今日は本尊開帳の日だと言ったので、それを目指して来たと答えたら、どうやってそれを知ったのか不思議がっていた。
私にとって本尊開帳の情報ソースは山と渓谷社の県別の『歴史散歩』シリーズ(神奈川県は2分冊)。
本で紹介される寺の本尊はきちんと開帳日が記されているのだ(歴史散歩の実用向き!)。
ただしこの本は古いので、それを元に最新情報はネットで確認する。

参道から逸れたところに畜類と雞類の大きな供養塔があったので、珍しく思いカメラを向けていると、無料案内の爺さんがやってきて、厚木は豚肉の産地で、「とん漬」という豚肉の味噌漬けが名産だという。
※:帰宅後写真を確認したら、この写真だけ不自然にピントがずれて、半透明の何かが飛び回っているような画像だった(写真)。
ついで、その反対側にある県指定重要文化財の銅鐘の説明を受ける。
それによると、ここ飯山は中世から鋳物の地で、川から鉄が取れたらしい。

ここはすでにかなりの高台なので、横浜から東京にかけての展望が広がる。
すなわち横浜のランドマークタワーや副都心の高層ビルが見えるのだ(スカイツリーは確認できず)。


いよいよ観音堂内に靴を脱いで入る。
内陣(立ち入れない)の中央に厨子があり、その扉が開いて、本尊の十一面観音(行基作)が見えるのだが、厨子の扉より背が高いので、顔の上半分が見えない。
全体的に結構素朴な造りであることはわかる(以前は山上の白山神社に祀られていたとも)。
自分のいる外陣には大黒様や役行者の木造がある。
役行者の像があるということは、背後の白山は修験の山を意味する。

寺務所で、御影(みえい:100円)を買う。
他の参拝客は御朱印目当てだが、私は御影が目当て。
観音霊場の寺なら必ず御影があると確信したので(しかも安い)、御影コレクターとしては観音霊場をメインに訪れればいいとわかった。


寺の裏から、白山の山道(男坂)を登る。
低山ながら男坂というだけあって結構急斜面で、しかも木の階段が、木2本を上下に並べて段差を作っているで、山の登りには不釣り合いな高い段差を毎回越えなくてはならない。

やっと頂稜に出たので、まずは右折して白山神社を目指す。
頂稜北の頂にある白山神社の手前に小さな池(白山池)があって、傍に立つ竜の像が池に顔を向けている(写真)。
かように頂上部に湧水があるのは珍しい(ないことはない)。
またここにも役行者の石像があった。

長谷寺を開基した行基が山頂で湧水池を発見して、そこに白山神社を勧進したのだという。
白山神社に参拝して、引き返して、頂稜南端で三角点のある白山展望台に達する。
そこには階段で上がる展望台が設えてあり、そこに登ると、展望の案内図があり、それによると、先ほどの京浜都市の展望に加えて、伊豆大島とその先の利島(としま)まで見渡せるらしい(今日は見えない)。
背後には丹沢大山が聳え立っている。

ここからは女坂を経由して長谷寺に戻れる。
さすが女坂は、傾斜が緩く、さらに山腹を巻くので平坦なほど。
長谷寺に着き、バスの便に時間があるので、まずは堂の周囲に作られてある坂東33ヶ所観音霊場の巡礼道を歩く。
ついで、今一度観音堂内に入って本尊を拝み、
寺務所で茄子の中に金銀のカエルが入っているストラップ型のお守り(600円)を買う。
普通、お守りの類は買わないのだが、私の好きなアイテム、1位カエル🐸、2位キノコ🍄‍🟫、3位ヒョウタン、4位ナス🍆のうち、1位と4位が合わさったので帰りに時間があったら買おうと思っていたのだ。
カエルはたいてい「無事カエル」から始まる語呂合わせに使われるだけで(カエル好きにとっては)鼻白むが、ナスはそういう使われ方をしないので、逆に珍しい。

最後は、小鮎川沿いの瀧蔵神社に参拝し(宮司が一人で神事中)、バスが来る5分前にバス停に着いた。

というわけで、秘仏拝観、修験の山歩き(峰入り)、御影に加えて思わぬグッズもゲットできた。


念願の”まんだら堂やぐら”訪問

2024年10月20日 | 東京周辺

高校時代に"鎌倉"を好きになって以来、鎌倉の名所(寺社)は、北は今泉不動、東は十二所神社、西は龍口寺、南は光明寺に囲まれた内側の、道脇の祠から、民家風の小さな寺までほとんど行き尽くしているのだが、唯一行きそびれていた所がある。
南の逗子との境にある「まんだら堂やぐら」(写真)。

鎌倉地方でここかしこにある”やぐら”(鎌倉石を掘削した墓地)が密集した、いわば中世の共同墓地(霊園)で、鎌倉で最大のやぐら群を形成している(国史跡)。

高校時代からその存在は知っていて、まず名前に惹かれた。
そしていつしか、その地に、人々が気楽に立ち寄って自己を見つめ直せる「まんだら堂」を建てたいという夢さえ持つようになった。

かように私の心の中に確固と存在感がありながら、なぜ最後まで行きそびれていたかというと、
鎌倉市と逗子市の境の丘陵地帯というポツンと離れたロケーション的な要因が行くのを阻んだ第一要因だった(駅から遠く、一緒に巡る所もない)。

その間、おそらく夢で見たのだろう、「まんだら堂」がその地に建てられ、人々が集まっている、という認識が出来上がってしまった。

それでグズグズしている間に史跡維持のために非公開になってしまったのだが、つい最近、初夏と秋に限定公開されることを知った。
秋は10月19日から12月16日までの土日月。
幸い私の帰京の日程と合う。


ということで天気が回復した10月20日(日)、念願の地を訪れることにした。
11時前に鎌倉駅に降り立ち、昨日ネットで現地のアプローチと詳細地図は入手していたものの、
念の為駅前の観光案内所で、まんだら堂やぐらへの道を尋ねた。
係の女性は、鎌倉市の広域観光地図を渡してくれて、スラスラとバス停からの道を説明してくれたが、
別の人が、まんだら堂やぐらの詳細地図を出してくれた。

それによると、まんだら堂やぐらへは今から行く南のバス停からの道の他に、東の逗子から上がる道、西の安国論寺から上がる道(大町口)、さらに北の滑川から衣張(きぬばり)山を経由する巡礼道と四方からつながっていることがわかる。
ちっとも行きづらくはなかったのだ。

鎌倉駅からの最短ルートは3番乗り場から「緑ヶ丘入口」行に乗って終点で降りる。
便は1時間に2本の頻度。
山の中の谷間の終点で降りて、案内所で言われた通りに車道を少し戻る。
そこに「風麺」という山小屋風のラーメン店があり、ここで予定通り昼食をとる。
ネットでチェックした時は、かた焼きそばを予定したが、値段(予想の1.5倍)と時間がかかる理由で、一番シンプルな醤油ラーメンにした(830円)。
ラーメンは本来なら選択肢外なのだが、焼きそばとかチャーハン(せめてタンメン)がないので仕方ない。
だが久々に食べたラーメンは、それなりに美味しく、2枚のチャーシューが厚かった(ラーメンで困惑するのは一番味わいたいスープを飲み干せないこと)

さて、いよいよ目的地に向かう。
道路左側に広い石の階段があり、それが上り口。
階段を上がるとその先からは細い踏み跡で、急に心細くなる。
周囲には誰もいない。
観光客がオーバー気味の鎌倉だが、こんな所もあるのだ。
平坦で広い場所に出たので、「まんだら堂」を建てるならここがいいかなと思う。

水平の道と合流すると、右側に人一人がやっと通れる深い切通しがある(写真)。
名越の切通し」の第一切通しだ。
この水平の道が、幕府のある鎌倉から三浦半島に南下する古くからの道だったわけだ。
目的地は鎌倉側の左の道でそちらを進み、第二切通しを抜ける。
そして分岐を右に上がると鉄門が開いていて、目的地・まんだら堂やぐらに達する。


そこには受付のテントがあって、まんだら堂やぐらの最も詳しい地図と逗子市の観光地図を渡してくれた。
まんだら堂やぐら自体は逗子市に入るから。入場無料だが、史跡管理のための寄付の箱があるので100円入れた。

目の前に広がるやぐら群(掘られた洞窟の中に五輪塔が並ぶ)を眺める(写真)。

説明によると、やぐらの穴だけで150以上あるという(埼玉の吉見百穴より多い?)。
A群からE群まであり、公開しているのはA・Bのみ。
江戸時代にすでに「まんだら堂」という地名になっており、建物の痕跡はなかったという。
また埋葬者には首を切られた人の骨もあったという。

背後の展望台に上がると、やぐらが上下に層構造になっているのがよくわかり、わが菩提寺の五百羅漢寺の霊廟の構造を思い出した(写真)。


やぐらを後にし、北に伸びる鎌倉市と逗子市の市境の山道を進む。
大町口の道から子どもたちを連れたママグループが登ってくる。
石製の廟が2基ある広場を越え、逗子の海が見える長い切岸(石切場跡)を越える道はハイキングコースなので、上の母子グループ以外はちゃんとしたハイク用の靴で歩いている(私はそうでない)。
周囲一の高点である「パノラマ台」に上がると、西に七里ヶ浜と稲村ヶ崎と江ノ島が直線上に並んでその上に箱根山が聳えている。

ここから往路を戻って、石廟の先で道標に従って左折し、逗子側の法性寺に降りる。
鎌倉側で法難に遭った日蓮が逃げ延びた(ママグループの来た道がその逃避ルート)という法性寺の奥の院を参拝し、そのまま道を下って逗子駅に達する。
帰りは気分を変えて京急で帰った。

これでやっと鎌倉は行き尽くしたといえる。


ご開帳の岩槻慈恩寺

2024年09月23日 | 東京周辺

秋の彼岸中日の翌日である今日、東京も愛知も露点温度が20℃を大きく下回った。
これは気象予報士たる私の基準で”秋の空気”になったことを意味する。
実に「暑さ寒さも彼岸まで」という天気俚言の信ぴょう性は揺るぎない。

ということは、外を歩いても暑さに苦しむことはない。
9月の3連休最後の日にして実質的な”秋の初日”の今日、満を持して歩きに出かけたい。


行き先は、岩槻(さいたま市)の慈恩寺(天台宗)。
実はこの寺のことは知らなくて、地下鉄南北線の車内広告で見つけたもの。
それによると慈恩寺で本尊開帳をやっており、なんと今日が最終日(それまでは暑くて行く気がしなかった)。
私の寺巡りは”秘仏開帳”が重要な選択基準となっているので、これを見逃せない。

アクセスを確認すると、慈恩寺は岩槻を通る東武野田線の駅から2km離れており、しかも路線バスがない(平日のみコミュニティバスがある)。

だが空気は秋なので、往復4km歩いても問題なかろう。
ハイキングだと思えば4kmは短い。


というわけで、岩槻の1つ先の最寄駅、東岩槻駅に降り立った。

ここからGoogleマップの徒歩用ナビで最短路を選んでもらい、それに従って進む。
Googleのナビは、車だと恐ろしい隘路を案内されたりするが、徒歩だとそれがよく、車が通れない細い路も選んでくれる。

のどかな田園風景の中を歩く。
寺に達する手前に、寺が建てた玄奘三蔵の分骨を納めた霊骨塔があるので立ち寄る。
戦時中に中国から分骨されたという。
入り口は中国式寺院の山門で、層塔の霊骨塔の前には、三蔵法師の天竺求法姿の像がある(写真)。
敷地隣の和風の民家はピザ店になっている。
また塔の背後をまわると、何やら由来ある地蔵像があった。

ここから慈恩寺に行くには、Googleマップでは途切れてる道(当然ナビで案内されない)が国土地理院の地図(一番正確)では近道として通れる(ただし人のみ)のがわかる。
すなわち、Googleマップの徒歩ナビは完璧ではないのだ(ただし地理院のマップアプリはナビをしてくれない)。

開けた境内の慈恩寺に達する。
改めて慈恩寺を説明すると、開山(824年)は慈覚大師(円仁)で、大師が学んだ唐・長安の大慈恩寺に因んでるという。
大慈恩寺こそ、玄奘三蔵がインドより持ち帰った経典の訳出作業をした寺である。

そして今年は開山1200年記念ということで、本尊とその眷属・二十八部衆の特別展示が開催されたというわけ。


本堂内に靴を脱いで入ると(堂内は撮影禁止)、
目の前に等身大よりやや小さい二十八部衆が居並ぶ。
いずれも江戸時代後期の作で、造形は整っているが顔・肌が一様に黒く塗られ、衣装の彩色はごく新しそう。
今まで、二十八部衆といっても奈良興福寺のそれが有名なこともあって阿修羅と迦楼羅くらいしか着目しなかったが、ここでは配布パンフに28体の説明が載っているので全員を丁寧に見てまわる。
それによると梵天・帝釈天のバラモン教最高神の二天、阿・吽の仁王二体、四天王らも混じっており、結構有名な天部たちが揃っている。
中でも朗報は、私が大好きな吉祥天が「大弁功徳天」として加わっていたこと。
ここで吉祥天にお目にかかれるとは思ってもみなかった。
吉祥天の母である鬼子母神(訶梨帝母)も「魔和羅女」として加わっており、夫の毘沙門天(多聞天)もいるのでファミリーで加わっていることになる。

これら二十八部衆は本尊千手観音の眷属という位置づけなので、まずは中央奥に開帳されている本尊千手観音(天海が叡山よりもって来たという)を拝み、
本尊の左右に配置されている毘沙門天と不動明王も拝む。
そして、目の前の大弁功徳天すなわち吉祥天に向かってその印を組んで真言を唱えて拝む。
大弁功徳天は髪も顔も真っ黒だが、他の威嚇的な像と違って、優しい顔立ちが美しく仕上がっている(右写真は絵ハガキより)。
この像、吉祥天としてみると右手に剣を持っているのが珍しい(普通は手を下げた与願印)。
私の美仏リストに加えたいが、撮影禁止でしかも普段は見れないらしい。

本堂下の寺務所に行くと、二十八部衆の個別の絵ハガキが売られていた。
本来なら本尊の御影を買いたいところだが、それがないので(あっても)、「大弁功徳天」の絵ハガキを買った(100円)。
これで満足
吉祥天が単独で祀られている所は少ないため、今後は二十八部衆を探すことにしよう。


駅までの復路は、往路とは別ルートを選び、近くの常源寺(曹洞宗、本堂前に木造仁王が立ちはだかっているのが面白い)、東西寺(天台宗、秩父の山がよく見える。天神と庚申の石塔がある)に立ち寄った。

そして自宅での夜は、10歳になる姪とその父=弟の誕生会(私が買って帰った松坂肉を皆で賞味)。


国会図書館のマクロビ弁当

2024年08月08日 | 東京周辺

かのカール・マルクスが大英図書館に通って『資本論』を書き上げたように、日本の国立国会図書館も最大級の所蔵資料を誇り、また持参ノーパソの執筆空間も広く確保されていることから、私も夏休みはここに通って論文執筆にとりかかる。

6日の記事に記したように、ここは昼食を数ヶ所で摂れるので、毎日通っても飽きることがない。
私の目下のお気に入りは、旧館2階の「ノース・カフェ」で、その名の通り北海道の野菜などを使ったパスタやカレーが売りで、またサラダ付きのホットドッグ(500円)も軽い昼食に使える。

ただしこれら食堂は11時開業なので、それより早く食べたい時は旧館6階の売店で弁当を買う。
実はここの弁当は種類が多く、また健康にこだわりを示してくれている。
たとえば今日食べたのは「マクロビ日替わり弁当」という、マクロビオティック食事法(動物性蛋白質を使わない)によるもので、主義ではなく嗜好としてベジタリアン(肉類が苦手)な私にはとてもうれしい。
なにしろ、近ごろの弁当って、メインの惣菜が何であれ、まるで義務のように鳥の唐揚げが付いている。
肉類の中で一番苦手な鳥の唐揚げが入った弁当は当然選択肢から外さざるをえない。
その点、マクロビ弁当だと、一見鳥のソボロに見える”肉片”も大好きな大豆なので、中身を精査する必要なく、無作為に選べる。
カロリーも500Kcal未満。
値段が異なる数種類あり、それぞれ日替わりなのでこれを選び続けてもいい。


川崎に行ってみた

2024年06月30日 | 東京周辺

郷土博物館巡りが品川区・大田区と続いたので、その延長として川向こうの神奈川県・川崎市に行ってみることにした。

東京で生まれ育った者にとって都境に隣接する”川崎”といえば、東京の羽田空港から望む京浜工業地帯のシンボル・火を吹く煙突のイメージ。
といっても実際に訪れたのは中学の社会科見学での東芝科学館と枡形城址・日本民家園、それに個人で行った川崎大師。

なにしろ横に長い川崎市は、京浜工業地帯の川崎港から川崎大師、そして東京の町田に隣接する多摩丘陵と一言で捉えられない多様性を持つ。


日本の工業技術の象徴ともいえた東芝科学館が閉館となった6月29日の翌日、生まれて初めて川崎駅に降り立った。
駅のホームでは坂本九の「上を向いて歩こう」の曲が流れたので、九ちゃんは川崎出身と知った。
改札を出る前に、駅そばのふたば製麺で名物”ごぼう天うどん”をたべる。
駅そばがこういうオリジナリティある店というのは羨ましい。

駅ビルも立派で、駅前もさすが100万都市の賑わい。
そう、なにしろ東京に隣接する唯一の100万都市なので、同じ川向こうの川口(埼玉県)や市川(千葉県)はおろか、県庁所在地のさいたま市や千葉市よりも繁栄している(そして背後に控える横浜市は大阪市を上回る400万都市)。
そして今年は市制100周年だという。

まずは駅に隣接するビルの3街にある「川崎浮世絵ギャラリー(500円)に入る。
ここは斎藤文夫という人の浮世絵コレクションで、市制100周年記念の名品展が開催中。
川崎の六郷川など地元の浮世絵も展示。

銀座通りのアーケードを抜け、旧東海道に出て旧川崎宿を進むと「東海道かわさき交流館」(無料)がある。
1階と2階は東海道川崎宿の展示、3階は川崎市の歴史。
3階の展示で分かった事は、川崎市は、東から川崎、小杉、溝口・二子、登戸の4つの宿場・町場が東西に点在し、それぞれ東海道、中原街道、大山街道、津久井道が横断していた。
このままではこれらに接点がないが、それらを東西に結ぶのはまずは多摩川で、それに沿った府中街道、さらに「二ヶ領用水」がこれらの地域を結びつけた。
これが川崎市が多摩川河口から生田の丘陵地まで東西に長い理由だと分かった。
明治以降では鉄道の南武線がこれらの地を結んでいる。


ということで、京浜工業地帯と川崎大師だけでない川崎というものを知ったのが今日の収穫。
今回は東海道川崎宿の見学で終わったが、溝の口の「大山街道ふるさと館」、生田(登戸)の岡本太郎(川崎市出身)美術館にも訪れたい。


大田区の郷土博物館と馬込

2024年06月16日 | 東京周辺

都内23区の郷土博物館巡りも大詰めを迎えて、今回は大田区郷土博物館。

都内といえど各地の郷土博物館は駅から離れた住宅地にある傾向にあり、ここも例外でなく、大田区を代表する大森・蒲田の両駅から遠い内陸の”馬込”にある。


都営浅草線の西馬込からなら歩いていける距離なので、我が家から都営地下鉄を乗り継いで「西馬込」に初めて降り立つ。
私の”大田区”のイメージ通りの広い第二京浜(国道1号線)を渡って、駅そばクラスの蕎麦屋(そば太田)で軽く「かき揚げそば」を食べる。

国道を渡り返して、住宅地に入り、夢告観音(石仏)の小さなお堂をすぎる。
このあたりは、荏原台地の末端で谷地形が多く、道の上下が大きい。

Googleマップに「馬込城址」とあった湯殿神社は坂の上にあり、そこから坂を下って登り返す途中に大田区郷土博物館の建物がある。
建物が立派な割に入館無料。


1階のロビーには、特別展の大山詣の展示があり、このあたりも大山講が盛んだったようだ。
※;ここにいた時、首から下げていた”ばけたん”が青く点灯した。良い霊が通り過たようだ。
時代に沿った展示は2階からで、32000前の旧石器時代の出土品が並ぶ。
ただし石器ではなく、石器の元となる石核や剥片ばかり(作業場だったようだ)。
大田区の荏原台地末端部は多摩川と海とに接した食糧豊かな地だったためか、旧石器〜縄文・弥生時代の30000年にわたる遺跡が多い。
展示される土器自体も大型(写真:縄文前期後半の深鉢型土器)。
ところが古代・中世はほんの1面展示で終わり、江戸時代以降に飛ぶ。

むしろ力が入っているのは、3階での大正以降の「馬込文士村」の展示。
我が方の「田端文士村」(北区)とほぼ同時期(関東大震災以降)の成立ながら、こちらは画家が中心となって成立した点が違う。
文士の中心は尾崎士郎(とその妻:宇野千代)のようで、あと山本周五郎などもいた。
室生犀星は、田端文士村から移住してきた。

あと館内には区内の名所のデジタル展示などもあり、またロビーには区内の遺跡散策コースのパンフもあって、情報提供にも力を注いでいる。


ここを出て、せっかくなので”馬込”を散策する。
坂を上って下り返して、また上った台地の上に萬福寺(曹洞宗)があり、梶原景時の墓・摩尼輪堂・日待供養塔などを見学。
そこから西に進んで、地元鎮守の馬込八幡神社に詣で、隣の長遠寺(真言宗)では観音の石仏があって、江戸時代の庶民の供養にしては美仏級でよかった(写真)。
さらに国道1号線の裏道を歩いて地下鉄の馬込駅に着いた。
このように、郷土博物館巡りは、街歩きも兼ねて楽しめる。


稲毛浅間神社を計る

2024年06月02日 | 東京周辺

このブログの熱心な読者なら察しがつくかもしれないが、元教え子との縁で、稲毛(千葉県千葉市稲毛区)の浅間(せんげん)神社を訪れることになった。
そもそも稲毛は、かつては潮干狩りの地で有名で、私も小学校3年の遠足でここに潮干狩りに来た
(当時は臭いヘドロをしばらく越えてやっと海岸に達した)。
その後海岸は埋立てられ、今ではそこに東京湾岸道路とJR京葉線が走っている。

そしてその地に浅間神社、すなわち富士信仰のしかも由緒ある立派な神社があるとはついぞ知らなかった。

この神社、江戸期に流行った富士講で生まれた神社ではなく、
なんと大同三年(808年)、富士宮の富士山本宮浅間大社から分霊されたという。
当然、その頃は、ここ稲毛の海岸から海越しに富士山を拝めた。
しかも808年というと、富士山が山頂から噴煙を上げている真っ最中(800,802年に噴火、864年に大噴火)
現代人が見ないその姿に並々ならぬ神威を感じたに違いない。

さらに源頼朝が戦勝祈願し、地元御家人の千葉氏も祈願し、
そして今では、地元の鎮守として人生の通過儀礼に対応した祈祷の場となり、
とても繁盛していることがこの神社サイトの求人を見てもわかる。

実際、訪れてみると、参拝客がひっきりなしに訪れ、赤児を抱いてのお宮参りや車の祓いで駐車場が埋っている。


私自身は富士信仰がどう表現されているかに関心がある。
本殿は旧海岸沿いの丘の上にあるのだが、その丘が富士塚をなしていて、
本殿は富士山頂とされ、しかも本殿と参道が(今はビル群で見えない)富士に正対しているという。
この富士塚の山腹・山麓には富士の古御岳と同じイワナガヒメを祀る小御嶽神社、
それにオオヤマツミ神を祀る大宮神社、あるいは関東の山岳信仰の地である古峰神社・三峰神社などがある。
さらに、江戸時代の民間信仰である庚申塔や、富士講とかかわる弥勒像も、非神道だからと排除せず(そういう神社がけっこうある)、境内に解説付きできちんと祀られているのは嬉しい。


このように由緒あり、信仰の篤い神社なので、ただ参拝するだけでなく、パワーの計測を試みたい。
磁気計によると境内参道上で46.0μT(以下同単位)。
これがこの地のノーマルの値であり、境内のほとんどはこの値を示す。
ところが、弥勒の石像(みろくさま)がある所は40.5と低く、
逆に、小御嶽神社前の手水場奥(写真:その奥には出羽三山の石碑が並ぶ)は52.2と高かった。
両地とも周囲に金属類はなく、磁化した金属の影響でないことを確認(言い換えれば磁気異常の理由が不明)。
±6μTの差は大きくはないが、誤差の範囲とはいえない明確な値。
両地とも、やや閉じた地ながらも緑に囲まれて神聖な雰囲気が漂う心地よい場所。
ただし、ばけたんの反応はともに「何もない」。

このように思いの外、磁気異常の場が確認された。
これらの地での他の反応は確認されていないが、物理的基準ではパワースポットとみなせないこともない。


この神社境内の旧海岸寄りに、「ゆかりの家」という清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟・溥傑とその日本人妻・浩が新婚生活を送った家が残っていて見学自由。
また神社の東にある松林の稲毛公園の旧海岸沿いには浅草の「神谷バー」で有名な神谷傳兵衛の別荘があり、こちらも見学自由。
すなわち、昔の稲毛は三浦半島の葉山のような海岸の別荘地でもあったのだ(しかも潮干狩りもできた)。
庭先に走る湾岸道路を頭の中で海に変換し、さらにその向こうに富士を配せば、
昔日の稲毛の優雅な風景を再現できる。


ちなみに、本日はほぼ終日雨天の予報で雨を覚悟して行ったのだが、稲毛にいる間(神社、別荘)は雨に遭わず、帰りの電車内で強い雨が車窓を濡らした。だが、駅から自宅までは雨が止んでいた(帰宅後は本降り)。
稲毛が私を歓待してくれたのか。


熱海の七湯巡り・MOA美術館

2024年05月27日 | 東京周辺

熱海に1泊したので、チェックイン前とチェックアウト後に熱海の街を歩き、また熱海第一の観光施設であるMOA美術館を訪れた。

思えば、幼い時から家族旅行で熱海には数え切らないほど訪れたのに、駅前のアーケードの先の街中を歩いたことはなかった。

熱海を観光地として再認識しているので、まずは熱海の街中のスポット巡りをする。


そのスポットといえば「熱海七湯」である。
駅前のアーケードから熱海銀座を抜けて、少し山側に入ると「野中の湯」がある。
こじんまりした温泉の湧泉であり、足を含めて入浴できるわけではない。
少し進んで藤森稲荷神社を仰ぎ見る所を海側に下りると小澤来宮弁天の小さな祠と付近に供給する温泉搭があり、さらに下るとバス停前に「小沢の湯」があり、ここは温泉卵がぎっしり詰まっている。

湯汲坂を右折すると「大湯間歇泉」があり、その先に湯前神社がある。
神社を先に参拝して、間歇泉に戻ると、今は人工的に操作される間歇泉が丁度噴き出していた(写真)。

高台にある温泉寺(臨済宗)に立ち寄り、樹木に彫られた仏像の写真を撮り、坂を下って国道135号線に出る。
ここから韓国系のスナックが並ぶ大通りを進んで、ホテル大野屋に着いた。


翌日、チェックアウトして、国道135号線を戻り、熱海銀座の通りに入って、「佐治郎の湯・目の湯」を過ぎて、暖かくない「水の湯」を過ぎて、熱海駅に達する。


駅前の8番乗場から「MOA美術館」行きのバスに乗り、急坂を上ってほどなくMOA美術館前に着く。

ここは世界救世教という新興宗教団体が経営する美術館だが、豪勢な建物の造りと収蔵品の質の高さで、熱海一のミュージアムとして有名(写真)。

ちなみに、MOAは「モア」と発音しても通じるが正式には「エム・オー・エイ」と発音する。
入口に100円が戻るコインロッカーもあり、チケットはネットで購入すると安く買える(シニア料金はどこでも同じ)。
まずはトンネル内のエスカレーターを乗り継いで、別世界に進んでいく。

安藤広重の東海道五十三次の特別展と仁清の茶壺(国宝)を含む常設展を見学。
その他秀吉の黄金の茶室の復元、屋外の茶の庭には光琳屋敷の復元がある。

そして教祖・岡田茂吉氏がなぜこのような美術館を造ったのかを説明するブース。
それによると、一般の人が芸術に接するだけで、宗教活動として意味があるという。
言い換えれば、われわれ一般人は、ただ芸術を鑑賞すればそれでよく、この教団を意識する必要はない。
実際、館内のミュージアムショップは芸術家の作品はあるものの、この教団に関する書物などは一切ない。
館外に隣接する店が教団グッズの販売を専門にしていた。

新興宗教に元々関心のあった私は、世界救世教の分派と接触したことがあり、”浄霊”を専らにするそれらは、心霊主義(スピリチュアリズム)という点で私とも接点がある。
ただ私は、教義に関心はあっても、”教団”という(あまりに人間的な)社会集団には関心がないので(実際、この教団も内部でもめているらしい)、美術鑑賞だけで満足してここを後にした。

もちろん、こちらの方が街中の七湯巡りよりよほど充実している。
ちなみに熱海駅前にある「家康の湯」という足湯は配管トラブルのため閉鎖されていた。