今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

台風接近中,東博の神護寺展に間に合う

2024年08月16日 | 東京周辺

台風7号が関東に接近中の16日の朝。
未明に強い雨が降った形跡があるが、外は曇り空で風も大したことない。
公共交通機関や海沿いの施設は”万全の対応”を敷いているようだが、午前中の今は普通に外出できそう。

ただし今日は午後に歯科の予約が入っているので、国会図書館に行くのは時間的に中途半端。

そこでチケットを買っていた東博(東京国立博物館)で開催中の特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり(9/8まで)を見に行くことにした。
京都の神護寺は、平安彫刻の代表作品である薬師如来立像が有名で、私もかつて高山寺とともに訪れたことがあるが、国宝の高雄曼荼羅などは寺よりも博物館でこそじっくり見れる。

台風接近中なので、東博もいつ閉館になるかわからないため、まずはネットで本日の開館を確認(ただしいつ閉めるかわからないと書いてある)。
風雨のない今のうちに行った方がいい。


こういう天候なので、閑古鳥が鳴いていると思ったら、東博全体は予想以上に人出があり、特に外国人観光客が目につく。
急遽、屋内で時間を過ごせる場所としてここが選ばれたのだろう(もちろん日本文化を知るには最適な選択)。

展示の花の1つである「源頼朝の肖像画」は、会期の前半で寺に戻ってしまったが、江戸時代の絵師による精巧な模作があって、それを見ても鎌倉時代の原画がいかにハイレベルな絵画であるかがわかる。

あとここの空海の肖像画も有名で、さらにこの寺が空海と最澄(平安仏教の二大巨頭)の交流の場であった証拠となる両者直筆の文書(もんじょ)も歴史的意義がある(空海の書は鑑賞的価値もある)。

高雄曼荼羅とそれに付随する展示は、両界曼荼羅の構造が頭に入っていないと充分な鑑賞ができないことを痛感(館内に簡単な説明の動画があるが)。
せめて各仏がはっきり描かれる胎蔵界だけでもその構造の(描かれている仏の同定ができる)資料を持参すべきだった。

第二会場では、あの薬師如来を中心とする仏像群(日光・月光、十二神将、四天王)が展開。
二天門の二天(増長天・持国天)が唯一撮影OKだった(写真:左が増長天)。

ちなみに東洋館の地下で『空海—祈りの形』というVR映像が鑑賞できるのだが、開演時刻にギリギリ間に合わなかった。


観終わったのが正午だったので、のんびり帰宅して、歯医者に備えた。

その後、この記事を書くために東博のサイトにアクセスしたら、なんと「台風の影響により臨時休館」したとの表示。
ラッキーだった。


国会図書館のマクロビ弁当

2024年08月08日 | 東京周辺

かのカール・マルクスが大英図書館に通って『資本論』を書き上げたように、日本の国立国会図書館も最大級の所蔵資料を誇り、また持参ノーパソの執筆空間も広く確保されていることから、私も夏休みはここに通って論文執筆にとりかかる。

6日の記事に記したように、ここは昼食を数ヶ所で摂れるので、毎日通っても飽きることがない。
私の目下のお気に入りは、旧館2階の「ノース・カフェ」で、その名の通り北海道の野菜などを使ったパスタやカレーが売りで、またサラダ付きのホットドッグ(500円)も軽い昼食に使える。

ただしこれら食堂は11時開業なので、それより早く食べたい時は旧館6階の売店で弁当を買う。
実はここの弁当は種類が多く、また健康にこだわりを示してくれている。
たとえば今日食べたのは「マクロビ日替わり弁当」という、マクロビオティック食事法(動物性蛋白質を使わない)によるもので、主義ではなく嗜好としてベジタリアン(肉類が苦手)な私にはとてもうれしい。
なにしろ、近ごろの弁当って、メインの惣菜が何であれ、まるで義務のように鳥の唐揚げが付いている。
肉類の中で一番苦手な鳥の唐揚げが入った弁当は当然選択肢から外さざるをえない。
その点、マクロビ弁当だと、一見鳥のソボロに見える”肉片”も大好きな大豆なので、中身を精査する必要なく、無作為に選べる。
カロリーも500Kcal未満。
値段が異なる数種類あり、それぞれ日替わりなのでこれを選び続けてもいい。


川崎に行ってみた

2024年06月30日 | 東京周辺

郷土博物館巡りが品川区・大田区と続いたので、その延長として川向こうの神奈川県・川崎市に行ってみることにした。

東京で生まれ育った者にとって都境に隣接する”川崎”といえば、東京の羽田空港から望む京浜工業地帯のシンボル・火を吹く煙突のイメージ。
といっても実際に訪れたのは中学の社会科見学での東芝科学館と枡形城址・日本民家園、それに個人で行った川崎大師。

なにしろ横に長い川崎市は、京浜工業地帯の川崎港から川崎大師、そして東京の町田に隣接する多摩丘陵と一言で捉えられない多様性を持つ。


日本の工業技術の象徴ともいえた東芝科学館が閉館となった6月29日の翌日、生まれて初めて川崎駅に降り立った。
駅のホームでは坂本九の「上を向いて歩こう」の曲が流れたので、九ちゃんは川崎出身と知った。
改札を出る前に、駅そばのふたば製麺で名物”ごぼう天うどん”をたべる。
駅そばがこういうオリジナリティある店というのは羨ましい。

駅ビルも立派で、駅前もさすが100万都市の賑わい。
そう、なにしろ東京に隣接する唯一の100万都市なので、同じ川向こうの川口(埼玉県)や市川(千葉県)はおろか、県庁所在地のさいたま市や千葉市よりも繁栄している(そして背後に控える横浜市は大阪市を上回る400万都市)。
そして今年は市制100周年だという。

まずは駅に隣接するビルの3街にある「川崎浮世絵ギャラリー(500円)に入る。
ここは斎藤文夫という人の浮世絵コレクションで、市制100周年記念の名品展が開催中。
川崎の六郷川など地元の浮世絵も展示。

銀座通りのアーケードを抜け、旧東海道に出て旧川崎宿を進むと「東海道かわさき交流館」(無料)がある。
1階と2階は東海道川崎宿の展示、3階は川崎市の歴史。
3階の展示で分かった事は、川崎市は、東から川崎、小杉、溝口・二子、登戸の4つの宿場・町場が東西に点在し、それぞれ東海道、中原街道、大山街道、津久井道が横断していた。
このままではこれらに接点がないが、それらを東西に結ぶのはまずは多摩川で、それに沿った府中街道、さらに「二ヶ領用水」がこれらの地域を結びつけた。
これが川崎市が多摩川河口から生田の丘陵地まで東西に長い理由だと分かった。
明治以降では鉄道の南武線がこれらの地を結んでいる。


とうことで、京浜工業地帯だけでない川崎というものを知ったのが今日の収穫。
今回は東海道川崎宿の見学で終わったが、溝の口の「大山街道ふるさと館」、生田(登戸)の岡本太郎(川崎市出身)美術館にも訪れたい。


大田区の郷土博物館と馬込

2024年06月16日 | 東京周辺

都内23区の郷土博物館巡りも大詰めを迎えて、今回は大田区郷土博物館。

都内といえど各地の郷土博物館は駅から離れた住宅地にある傾向にあり、ここも例外でなく、大田区を代表する大森・蒲田の両駅から遠い内陸の”馬込”にある。


都営浅草線の西馬込からなら歩いていける距離なので、我が家から都営地下鉄を乗り継いで「西馬込」に初めて降り立つ。
私の”大田区”のイメージ通りの広い第二京浜(国道1号線)を渡って、駅そばクラスの蕎麦屋(そば太田)で軽く「かき揚げそば」を食べる。

国道を渡り返して、住宅地に入り、夢告観音(石仏)の小さなお堂をすぎる。
このあたりは、荏原台地の末端で谷地形が多く、道の上下が大きい。

Googleマップに「馬込城址」とあった湯殿神社は坂の上にあり、そこから坂を下って登り返す途中に大田区郷土博物館の建物がある。
建物が立派な割に入館無料。


1階のロビーには、特別展の大山詣の展示があり、このあたりも大山講が盛んだったようだ。
※;ここにいた時、首から下げていた”ばけたん”が青く点灯した。良い霊が通り過たようだ。
時代に沿った展示は2階からで、32000前の旧石器時代の出土品が並ぶ。
ただし石器ではなく、石器の元となる石核や剥片ばかり(作業場だったようだ)。
大田区の荏原台地末端部は多摩川と海とに接した食糧豊かな地だったためか、旧石器〜縄文・弥生時代の30000年にわたる遺跡が多い。
展示される土器自体も大型(写真:縄文前期後半の深鉢型土器)。
ところが古代・中世はほんの1面展示で終わり、江戸時代以降に飛ぶ。

むしろ力が入っているのは、3階での大正以降の「馬込文士村」の展示。
我が方の「田端文士村」(北区)とほぼ同時期(関東大震災以降)の成立ながら、こちらは画家が中心となって成立した点が違う。
文士の中心は尾崎士郎(とその妻:宇野千代)のようで、あと山本周五郎などもいた。
室生犀星は、田端文士村から移住してきた。

あと館内には区内の名所のデジタル展示などもあり、またロビーには区内の遺跡散策コースのパンフもあって、情報提供にも力を注いでいる。


ここを出て、せっかくなので”馬込”を散策する。
坂を上って下り返して、また上った台地の上に萬福寺(曹洞宗)があり、梶原景時の墓・摩尼輪堂・日待供養塔などを見学。
そこから西に進んで、地元鎮守の馬込八幡神社に詣で、隣の長遠寺(真言宗)では観音の石仏があって、江戸時代の庶民の供養にしては美仏級でよかった(写真)。
さらに国道1号線の裏道を歩いて地下鉄の馬込駅に着いた。
このように、郷土博物館巡りは、街歩きも兼ねて楽しめる。


稲毛浅間神社を計る

2024年06月02日 | 東京周辺

このブログの熱心な読者なら察しがつくかもしれないが、元教え子との縁で、稲毛(千葉県千葉市稲毛区)の浅間(せんげん)神社を訪れることになった。
そもそも稲毛は、かつては潮干狩りの地で有名で、私も小学校3年の遠足でここに潮干狩りに来た
(当時は臭いヘドロをしばらく越えてやっと海岸に達した)。
その後海岸は埋立てられ、今ではそこに東京湾岸道路とJR京葉線が走っている。

そしてその地に浅間神社、すなわち富士信仰のしかも由緒ある立派な神社があるとはついぞ知らなかった。

この神社、江戸期に流行った富士講で生まれた神社ではなく、
なんと大同三年(808年)、富士宮の富士山本宮浅間大社から分霊されたという。
当然、その頃は、ここ稲毛の海岸から海越しに富士山を拝めた。
しかも808年というと、富士山が山頂から噴煙を上げている真っ最中(800,802年に噴火、864年に大噴火)
現代人が見ないその姿に並々ならぬ神威を感じたに違いない。

さらに源頼朝が戦勝祈願し、地元御家人の千葉氏も祈願し、
そして今では、地元の鎮守として人生の通過儀礼に対応した祈祷の場となり、
とても繁盛していることがこの神社サイトの求人を見てもわかる。

実際、訪れてみると、参拝客がひっきりなしに訪れ、赤児を抱いてのお宮参りや車の祓いで駐車場が埋っている。


私自身は富士信仰がどう表現されているかに関心がある。
本殿は旧海岸沿いの丘の上にあるのだが、その丘が富士塚をなしていて、
本殿は富士山頂とされ、しかも本殿と参道が(今はビル群で見えない)富士に正対しているという。
この富士塚の山腹・山麓には富士の古御岳と同じイワナガヒメを祀る小御嶽神社、
それにオオヤマツミ神を祀る大宮神社、あるいは関東の山岳信仰の地である古峰神社・三峰神社などがある。
さらに、江戸時代の民間信仰である庚申塔や、富士講とかかわる弥勒像も、非神道だからと排除せず(そういう神社がけっこうある)、境内に解説付きできちんと祀られているのは嬉しい。


このように由緒あり、信仰の篤い神社なので、ただ参拝するだけでなく、パワーの計測を試みたい。
磁気計によると境内参道上で46.0μT(以下同単位)。
これがこの地のノーマルの値であり、境内のほとんどはこの値を示す。
ところが、弥勒の石像(みろくさま)がある所は40.5と低く、
逆に、小御嶽神社前の手水場奥(写真:その奥には出羽三山の石碑が並ぶ)は52.2と高かった。
両地とも周囲に金属類はなく、磁化した金属の影響でないことを確認(言い換えれば磁気異常の理由が不明)。
±6μTの差は大きくはないが、誤差の範囲とはいえない明確な値。
両地とも、やや閉じた地ながらも緑に囲まれて神聖な雰囲気が漂う心地よい場所。
ただし、ばけたんの反応はともに「何もない」。

このように思いの外、磁気異常の場が確認された。
これらの地での他の反応は確認されていないが、物理的基準ではパワースポットとみなせないこともない。


この神社境内の旧海岸寄りに、「ゆかりの家」という清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟・溥傑とその日本人妻・浩が新婚生活を送った家が残っていて見学自由。
また神社の東にある松林の稲毛公園の旧海岸沿いには浅草の「神谷バー」で有名な神谷傳兵衛の別荘があり、こちらも見学自由。
すなわち、昔の稲毛は三浦半島の葉山のような海岸の別荘地でもあったのだ(しかも潮干狩りもできた)。
庭先に走る湾岸道路を頭の中で海に変換し、さらにその向こうに富士を配せば、
昔日の稲毛の優雅な風景を再現できる。


ちなみに、本日はほぼ終日雨天の予報で雨を覚悟して行ったのだが、稲毛にいる間(神社、別荘)は雨に遭わず、帰りの電車内で強い雨が車窓を濡らした。だが、駅から自宅までは雨が止んでいた(帰宅後は本降り)。
稲毛が私を歓待してくれたのか。


熱海の七湯巡り・MOA美術館

2024年05月27日 | 東京周辺

熱海に1泊したので、チェックイン前とチェックアウト後に熱海の街を歩き、また熱海第一の観光施設であるMOA美術館を訪れた。

思えば、幼い時から家族旅行で熱海には数え切らないほど訪れたのに、駅前のアーケードの先の街中を歩いたことはなかった。

熱海を観光地として再認識しているので、まずは熱海の街中のスポット巡りをする。


そのスポットといえば「熱海七湯」である。
駅前のアーケードから熱海銀座を抜けて、少し山側に入ると「野中の湯」がある。
こじんまりした温泉の湧泉であり、足を含めて入浴できるわけではない。
少し進んで藤森稲荷神社を仰ぎ見る所を海側に下りると小澤来宮弁天の小さな祠と付近に供給する温泉搭があり、さらに下るとバス停前に「小沢の湯」があり、ここは温泉卵がぎっしり詰まっている。

湯汲坂を右折すると「大湯間歇泉」があり、その先に湯前神社がある。
神社を先に参拝して、間歇泉に戻ると、今は人工的に操作される間歇泉が丁度噴き出していた(写真)。

高台にある温泉寺(臨済宗)に立ち寄り、樹木に彫られた仏像の写真を撮り、坂を下って国道135号線に出る。
ここから韓国系のスナックが並ぶ大通りを進んで、ホテル大野屋に着いた。


翌日、チェックアウトして、国道135号線を戻り、熱海銀座の通りに入って、「佐治郎の湯・目の湯」を過ぎて、暖かくない「水の湯」を過ぎて、熱海駅に達する。


駅前の8番乗場から「MOA美術館」行きのバスに乗り、急坂を上ってほどなくMOA美術館前に着く。

ここは世界救世教という新興宗教団体が経営する美術館だが、豪勢な建物の造りと収蔵品の質の高さで、熱海一のミュージアムとして有名(写真)。

ちなみに、MOAは「モア」と発音しても通じるが正式には「エム・オー・エイ」と発音する。
入口に100円が戻るコインロッカーもあり、チケットはネットで購入すると安く買える(シニア料金はどこでも同じ)。
まずはトンネル内のエスカレーターを乗り継いで、別世界に進んでいく。

安藤広重の東海道五十三次の特別展と仁清の茶壺(国宝)を含む常設展を見学。
その他秀吉の黄金の茶室の復元、屋外の茶の庭には光琳屋敷の復元がある。

そして教祖・岡田茂吉氏がなぜこのような美術館を造ったのかを説明するブース。
それによると、一般の人が芸術に接するだけで、宗教活動として意味があるという。
言い換えれば、われわれ一般人は、ただ芸術を鑑賞すればそれでよく、この教団を意識する必要はない。
実際、館内のミュージアムショップは芸術家の作品はあるものの、この教団に関する書物などは一切ない。
館外に隣接する店が教団グッズの販売を専門にしていた。

新興宗教に元々関心のあった私は、世界救世教の分派と接触したことがあり、”浄霊”を専らにするそれらは、心霊主義(スピリチュアリズム)という点で私とも接点がある。
ただ私は、教義に関心はあっても、”教団”という(あまりに人間的な)社会集団には関心がないので(実際、この教団も内部でもめているらしい)、美術鑑賞だけで満足してここを後にした。

もちろん、こちらの方が街中の七湯巡りよりよほど充実している。
ちなみに熱海駅前にある「家康の湯」という足湯は配管トラブルのため閉鎖されていた。


縁切榎・お岩墓・とげぬき地蔵

2024年05月12日 | 東京周辺

昨日の背中の痛みがすっかり癒えた本日日曜。
予定していた山の代わりに近所の散策に出かける。
お寺で御影を買う可能性もあるので、A4クリアファイルが入る昨日のリュックを背負って。

思いついた行先は、板橋の「縁切榎」(えんきりえのき)

別に縁切りの願掛けをしたいからでなく、こういう呪詛のような負の願掛けの名所も訪れてみたい。

場所は旧中山道の板橋宿にあり、都営地下鉄三田線の駅から近い。

どうせなら板橋宿の町中華で昼食をとろうと、三田線の「板橋区役所」で降り、
国道17号(現中山道)から東の細い道を通って旧中山道の仲宿の商店街に出る。
仲宿は日本橋から最初の宿場である板橋宿の中央の町で、今でも商店街で人通りが多い。
”旧街道を歩く”という趣味もじわじわ湧き起りつつある自分にとって、
こういう今でも賑やかな宿場町は楽しい。

さて、私が目をつけていた町中華は2軒とも、”日曜のランチを地元商店街の町中華で”という人たちの行列ができていた。
確かに閑散とした店は避けたほうがいいと思うが、行列に加わる気もしないので、
ある程度客が入ってしかも空席のあるチェーン店風の店に入り、
予定通り「五目かた焼きそば」を注文(可もなく不可もない結果だった)。

仲宿を北に進むとやがて石神井川に掛かる「板橋」を渡る。
そう、ここが板橋宿そして板橋区の地名の元。
昔は板製の橋だったわけだが、昭和になって車も通すため、コンクリの橋に変わった。
ただ雰囲気を残すため、色で板を演出している。

そこすぎて上宿のゆるい坂を上ると右手に縁切榎が見えてきた。
主役は榎なのだが、神社の境内のようになっていて、榎の前に立派な祠があり、その右側に、縁切りの願掛け用の絵馬が自販機で売られていて、その奥に絵馬に願掛けを記入する台がある(写真:下記の2人の背中が映っている)。
20代の女性が2人、それぞれ絵馬に記入中。
絵馬は願掛け記入部分をシールで貼って隠し、祠の左側の絵馬を掛けるスペースに、絵馬の側面を正面にして(普通の絵馬掛けと90°直角に)並べて掛ける。
その結果、膨大な数の縁切願掛けの絵馬が整然と並ぶ。
その風景を撮影したかったのだが、先の20代女性2人が絵馬を掛けるまで待っていると、
次に40代の女性が一人で来て絵馬を買って願掛けを記入し始める。
かように、次々と縁切りの願掛けの参拝者がやってくる。
ネットの口コミでも、現在もなお縁切りのパワーが落ちていないようだ。
そう、切るべき縁はスパッと切った方がいいが、
自力で切れない場合は、こうして大きな力に頼るしかない。
西新宿で殺された女性もここに願掛けしていれば…。

こういう怨念が溜まった場所には長居したくない。
それを祓う意味で、国道17号を渡って、浄土宗・智清寺(江戸時代の童女の墓が3基ある)、
そして本日訪れるにぴったりの真言宗・日曜寺(本堂の愛染明王を拝める)を参拝。

最寄りの「板橋本町」駅から三田線に乗って往路を戻り、豊島区の「西巣鴨」で降りる。
ここから17号を渡って寺町に入り、日蓮宗・妙行寺に行く。
ここはあの四谷怪談の”お岩さん”の墓がある所。

境内に入ってすぐの所に明治年間に建てられた「四谷怪談お岩様の墓」という大きな石柱がある。
さらに進むと、日蓮宗寺院に特有の水をかける浄行菩薩の石像があり、なかなかの美仏(写真)。

庫裡の入り口に境内の案内図があり、「お岩様の墓」の場所が示されている。
それに従って本堂左手奥の墓地に進み、正面に鳥居があるところに「お岩様の墓」の位置と説明がある。
その説明によると、「お岩」という実在の女性は、夫(入婿)伊右衛門と折り合いが悪く、病身となって亡くなって以来、その家では色々な禍いが続いたため、菩提寺であったこの妙行寺の日達上人の法華経の功徳で悪縁が取り除かれたという。
この実話を下地に戯作者・鶴屋南北が「東海道四谷怪談」という怪談を創作したようだ。
この寺も当時は四谷にあったが明治になって当地に移転したという。
そして今ではお岩様の墓に塔婆を捧げると願い事が叶うという
(すなわちお岩さんは成仏しており、祟る死霊ではない)。

上に記されてはいないが、四谷怪談でお岩を演じる際は、役者は必ずここに参拝する。
実際、墓の三方にずらりと居並んだ塔婆の中に、歌舞伎役者の名が散見する。
お岩さんの立派な層塔の墓を参拝(写真:周囲の塔婆の数がすごい)。
私は墓前で「南無妙法蓮華経」と10遍唱えた。

ここから、「お岩通り」を通って、17号を渡り返せば巣鴨のとげぬき地蔵に近い。

とげぬき地蔵高岩寺という曹洞宗の寺である。

只管打坐(ひたすら坐禅)が教えの曹洞宗は、本来なら霊験あらたかを謳わないはずだが、
ここの地蔵菩薩の霊験が江戸時代から評判で、しかもそれが現代にまで続いていて、
今では、本堂外にある「洗い観音」に自分の悪い身体部位をタワシ洗う人達の行列が絶えない(観光バスまで来る)。
本堂に参拝したら、ちょうど祈祷が始まるところで、曹洞宗の儀式は滅多に同席できないこともあって、
太鼓のリズムに合わせて般若心経をテンポよく一緒に唱えた。
真言宗のように護摩こそ焚かないものの、信徒の祈願成就を唱えるのは在家対象(衆生の与楽抜苦)の大乗仏教としては致し方ないか。
曹洞宗なら、本当は坐禅瞑想をすることで我欲への執着心から距離をとれる境地(システム3)に導いてほしいのだが。

そういば昨晩、身近にある地蔵菩薩をきちんと参拝する気になっていたのを思い出し、
本日の予定になくたまたま訪れた高岩寺で地蔵菩薩の祈祷も同席でき、さらに本尊の御影の掛け軸が1000円だったので迷わず購入。
地蔵通り入り口にある眞性寺(江戸六地蔵の1つ)の大きな笠地蔵も参拝し、徒歩で帰宅した。


リニューアルした品川歴史館へ

2024年05月05日 | 東京周辺

私の新たな趣味となった”郷土博物館巡り”は、充実した県立博物館と近場の東京23区の区立博物館を優先している。

東京23区では、品川区の「品川歴史館」がしばらく改装中で”お預け”状態だったが、先月下旬にリニューアルオープンしたので、満を持して訪れることにした。

各地の郷土博物館は残念なことにたいてい駅から遠い所にあり、品川歴史館も例外ではなく、大井町駅からバスの便となる。
※:大森、品川、蒲田からの便もあり。

京浜東北線の大井町駅で降りる(この駅に下りたのは過去に1度しかない)。

こういう滅多に来ない地こそ、地元の町中華で五目焼そばを食べたいが、あいにく開店前の時刻(11時前)なので、チェーン店の「富士そば」で昼食を済ませる。

駅前(中央西口)から蒲田行きのバスに乗り、鹿島神社前で降り、少し戻ると、趣向を凝らした立派な建物がリニューアルした品川歴史館。


入館料は(たった)100円で、展示室入り口で、 渡されたQRコードをかざす(これが最新式の入場法?)。

展示スペースは1フロアのみだが、映像情報を駆使している(写真:上部壁面に区の歴史を網羅した動画が流れる。写真のシーンはモースが電車内から貝塚を発見する直前)。

まず品川区最古の人類の足跡は縄文時代の9000年前ということで、他の区よりは遅め。
ところが、ここ品川区には、日本で最初に発見された縄文時代の貝塚「大森貝塚」がある。
なので考古学そのものはここ品川区から始まった!

古代になると大井に東海道の宿駅ができた(次の駅は豊島)。
そして中世になると、大井氏とその系列の品川氏が鎌倉幕府を支える位置につき、室町時代になると、品川港が大繁盛し、寺町も形成され、文化人もやってくる。
品川があっから太田道灌も江戸城を建てられた。
すなわち、大都市東京いや大都市江戸の出発点は品川だったのだ。

江戸時代になると、東海道の一番目の宿場としての品川宿が栄える。
当時の旅人は日本橋をあえて夜に出発し、品川宿で朝食を摂ったという。
宿場裏の御殿山は、桜の名所として江戸市民の行楽の場となる。

明治になっての日本最初の鉄道は、新橋—横浜間ではなく、その4ヵ月前に仮営業した品川—横浜間だったとのこと。
その時もう八ツ山橋の陸橋ができ、後のゴジラ映画の重要ポイントとなる(この記述は展示にない)

関東大震災では都心の被災者たちの移住先になり、その後の発展の基礎になる。

2階には大森貝塚発見者のモースの展示スペースがあり、また一階の外には庭園があって、竪穴式住居の土台や移築された茶室もある(見学可)。
歴史館の敷地自体が、茶室の庭園と一体となっている。


ここを見学したら、南にある大森貝塚遺跡に行かねばならない。
その手前にある来迎院の念仏供養塔と鹿島神社も一緒に訪れる。

遺跡公園内の線路沿いに昭和初期に建てられた格調高い石碑(写真)がある大森貝塚は、大田区の大森ではなく、ギリギリ品川区にある。
ついでに、品川駅は港区にあり、しかも品川駅の品川駅がある(さらに目黒駅は品川区)。
すなわち新幹線も停まる品川駅は品川区の名所ではないが、大森駅に近い大森貝塚は品川区の名所なのだ。

大森貝塚遺跡からさらに南下して大田区に入り、本堂内に上がれる大森不動尊(成田山圓能寺)を詣で、隣の大森山王日枝神社を経て、大森駅に到着。
このように大森と結んで訪れるとよい。


法然と極楽浄土展

2024年04月30日 | 東京周辺

名古屋に帰る日だが、時間があったので、上野の東博で開催中の「法然と極楽浄土」展を見に行った(右:ポスター)。

昨日訪れた鎌倉光明寺(浄土宗大本山)から続く流れで、実際光明寺の寺宝(国宝など)も展示されていた。
しかも昨日じっくり鑑賞した当麻曼荼羅が頭にあったので、今回展示の目玉、国宝・綴織當麻曼荼羅(8世紀)も、時代経過のせいでコントラストが薄くなった織物の模様を頭の中でクリアに再現できた。

あと、京都・上徳寺の阿弥陀如来立像(重文)がイケメン的(というより上品な)美仏で見惚れた(ポスター左下の阿弥陀様は別の像。こちらもイメケンだがやや眼光が鋭すぎ、上徳寺の阿弥陀様ほどの優しい目を持つ仏像は他にない)

ただ阿弥陀信仰そのものには、物語的要素が強すぎてついて行けない。
もっとも生きる目標を死後に置くことで、生存中の俗事に惑わされずに、徳を積んで清浄な心を育む生き方は、宇宙における人類の存在意義(ド・シャルダン※)に通じる、深いものがある(超個的な宗教の存在意義はそこにある)。
※:カトリックの神父ながら、宇宙進化論のスケールで人類の存在意義を論じた。

ちなみに、博物館の展示のガラスにあいかわらず指紋の跡があって目障り。
横を見ると、二人連れのご婦人の一人が、ガラスに人差し指を当てて(展示物を指差して)会話している。
見かねて、「ガラスに指を当てないでください」と注意した。
かように、ガラスを指で汚す犯人は、”会話しながらの二人連れ”だ。


鎌倉穴場の寺

2024年04月29日 | 東京周辺

GWさなかの休日に鎌倉に行く事にした(母のアクシデントで一日順延)。
まず第一の訪問先は前回訪れたら閉館中の極楽寺宝物殿のリベンジ。
それと鎌倉観光案内サイトを見たら、光明寺で期間限定の寺宝展をやっていてさらに山門に上れる。

光明寺は、鎌倉材木座にある浄土宗の関東総本山で、かように格の高い(増上寺よりも上?)※寺でありながら、
いわゆる鎌倉の観光ルートから外れている。
※:翌日訪れた「法然と極楽浄土」展で分かったのだが、光明寺の”関東総本山”は江戸期までで、江戸期以降は増上寺が関東檀林の最上位となった。

実は、高校時代、鎌倉が好き過ぎて日帰りでは物足りず、どうしても泊り旅で鎌倉を味わいたいと思い、
その時に泊ったのが光明寺の宿坊(鎌倉で泊れる寺はここだけだった。今は廃業しているようだ)。
このときは、高校の友人を誘い、二人で鎌倉山内の寺をほとんど巡り潰した。
貴重な鎌倉の夜をここで過し、朝は勤行に参加という思い出深い寺だ。

その光明寺の寺宝と山門内部は宿泊当時も経験していない。
なので、極楽寺よりもこちらを優先する。


鎌倉駅に降り立ち、まずは私の日帰り旅の定番”町中華で五目焼そば”を実行すべく、
駅近くの老舗中華「あしなや」で五目(かた)焼きそば(900円)を食べる。

駅前から逗子行きのバスに乗り、「光明寺」で下車。
ここは材木座海岸が目の前で、寺町というよりサーファーの町。
津波ハザードマップの看板があったので見ると、この付近一帯(海抜4m)は頭上5mの津波に覆われる。
そういう海沿いに光明寺の高さ20mの立派な山門が建っていて、その2階に人がいる。

山門をくぐって、庫裡に行ってまずは書院の寺宝展を見る(寺宝・山門合わせて1000円)。
室内で見ているのは私一人。
法然上人をはじめとする浄土宗にまつわる僧の肖像、阿弥陀如来を中心とする数種類の浄土曼荼羅などを人がいないからマイペースで観賞。

本堂は改築中で、その代わりの開山堂に入ると、本尊の阿弥陀三尊の他、如意輪観音や八臂弁才天も拝める。
さらに開山堂の裏、本堂に続く渡り廊下から庭園の向こうに建つ大聖閣2階の窓から顔を出している阿弥陀如来を遥拝(写真)。
この場所は確かに落ち着く風景で、椅子も用意されていてじっと座って庭を見ている人もいる。
それでも数人なので、鎌倉にしてはいたって空いている。

山門の階段を頭をぶつけないように慎重に登ると、二階には釈迦三尊・四天王・十六羅漢の像が並ぶ。
最近修復されたらしく、特に羅漢さんたちの彩色がド派手。
2階から外を見ると、材木座の海はボードセイリングが林立。

光明寺の脇にある千手院は、その名の通り、本尊の千手観音が本堂入り口から拝める。

バス道を戻ると、通りを行く人たちもウエットスーツのままで、民家にもサーフボードが立てかけられていて、この付近は古都鎌倉ではなく、湘南〜三浦海岸の一画という所。


九品寺を見学して、そこからバスで鎌倉駅に戻り、満員の江ノ電に乗って極楽寺駅で降りる。
江ノ電に乗る観光客(外国人も多数)は大仏のある「長谷」で多少の入れ替えはあるものの、
多分新名所「鎌倉高校前」を目指すのだろう。

数人降りただけの極楽寺駅から、極楽寺の門をくぐると、前回よりは参拝客が少しはいるが、
あろうことか宝物殿は閉まっていた。
今回は庫裡の受付に人がいたので、本日は閉まっているのかと問い合わせると、
昨日と明日は開くが今日は閉館とのことで、複雑な開館スケジュールが記された紙を渡された。
なんとリベンジ失敗
観光サイトにある”GW中は開館”みたい大雑把な案内に騙されたことになる
(ただしそのサイトのおかげで光明寺の寺宝展を知ることができたが)。

虚しく引き返し極楽寺を後にする。
駅近くの伝上杉憲方の墓を見たのがせめてもの慰み。
再び観光客でぎっしりの江ノ電に乗り込み、鎌倉駅に戻った。
時間が余ったので、駅近くの大巧寺、日蓮辻説法跡、妙隆寺も巡った(これらは上の光明寺宿泊時に巡った)。

たまたま知った光明寺に行かなければ、今回の鎌倉行きはリベンジ失敗だけになっていた(”怪我の光明”?)。


八菅修験復活の日

2024年03月28日 | 東京周辺

相模(神奈川)の修験道の地といえば、伊豆山(伊豆国に位置)を含む箱根修験が有名で、
先日その伊豆山神社を訪れ、この地を訪れたという役行者(えんのぎょうじゃ)※の木像を見た(→記事)。
※:役小角(えんのおずぬ)。7世紀に実在した修験道の開祖。大和の生まれだが、伊豆大島に流罪になったことがあり、伊豆国周辺にも伝説を残す。

実はそこ以外に、丹沢の東麓、相模川が作る平野との間の八菅山(はすげさん:225m)を中心とした丘陵地帯に、
八菅修験という修験道の地がある。

丹沢の霊山といえば大山(阿夫利山)だが、そこからは少々離れている(大山修験とは別集団)。
修験集団としてはマイナーだったようで関東でも知られていない。

明治政府の「神仏分離令」の際、修験道も廃止させられた(日本の山岳宗教の破壊といえる)ため、
神仏習合を維持できなくなった修験の地は、神道か仏教のどちらかの帰属を迫られた。
教義的には仏教の方が近いはずだが、当時は仏教は貶められ、神道が神聖視されていた。
神道を選んで神社となった所は、結果的に修験道を排除する方向となった
仏僧が開いた箱根権現も同じ運命。例外は羽黒山神社)。

ここ八菅修験も、神社となってからは修験の行場ではなくなったが、
年に一度の本日、大祭に山伏が参加し、修験道が復活する。
そして神社の宝物殿もこの日に開かれる。


ということで、小田急線の本厚木駅から神奈中バスで「一本松」で降りて、中津大橋を渡って対岸の八菅神社に行く。

麓の参道入り口前には出店が数軒出ている(焼きそば等があり昼食可能)。
社務所奥にこじんまりした宝物殿があり、100円払って入る(館内撮影禁止)。
やはりこの地を訪れたという役行者の木像があり、他に中小の仏像が並ぶ。

この神社は村社で、地元の氏子の人たち(皆ご老人)が、烏帽子に神官の衣装をつけて、
(のぼり)や長持を持って行列を組んで上に登る準備中。

私は先回りして本殿に向かう急で長い男坂を登る(写真)。
上に行くと、氏子の人たちが、護摩木を販売している。
さらにその上に広場があり、その中央に青々とした杉の葉が山盛りになっている。
本日の火渡り儀式用だ。
さらにその上に本殿があるので、ますは本殿を神社式で参拝し、
儀式の場となる広場に降りて、見物客の輪に加わる。


程なく(12:00)、下から法螺貝の音が響いてきて、先ほどの氏子たちの行列に続いて、
法螺貝を吹きながら8名もの山伏がやってくる。
まず氏子たちが広場に入って四色の幟を四方に立て、すでに供物が備えられている神棚の蝋燭に点火する。

先頭の山伏が、広場の入り口で振り返って、後続する山伏と儀式的な問答をする。
その問答の後、後続する山伏たちが、広場に並び、弓で四方に矢を放ち、剣や槍を振るって邪を清める。
そして杉の葉の山に火をつけ、まずは灰色の煙が濛々(もうもう)と立ち上がる。

先頭だった山伏が太鼓を叩き、それに合わせて他の山伏たちは手持ちの短い錫杖を振りながら般若心経を唱える。
私も日光中禅寺で買ったミニ錫杖を持ってきたので、一緒にそれを振って般若心経を唱える。

山伏が葉の山の下部を竹竿でこじ開けて空気を入れると、煙の下から真っ赤な炎が舞い上がる(写真)。
杉の葉の山が”護摩壇”になった。
正面に座った山伏が護摩木を炎に投げ入れる。
周囲の見物客も四方八方から自分の護摩木を炎に投げ込む。

炎が下火になると、山伏たちは不動明王の真言を唱えながら、
半ば灰になった護摩壇を金属の熊手で整地し始め、中央部を平らな地面にして火渡りの通路を作る。

そのまま土の面にして、熱を冷ますのかと思っていたら、その面に新たに木片を敷いて、再び炎を立てる。
そしてなんと、裸足になった山伏がその炎が立っている面を歩き抜ける(写真:山伏が動いているのでピントが乱れている)。
本物の火渡りだ。
これには周囲から歓声が上がった。

そして、灰になった木片を退けて、完全に土の面を出して、周囲の見物客たちが渡ることになる。
私は、この後の丘陵歩きのため脱ぎにくい山靴を履いてきたのだが、この場に臨んで、火渡りに参加しない選択はない。
火渡りの行列に加わり、裸足になって、熱くない土の面を歩き抜いた。
濡れ手拭いを渡され、足を水に浸す場を抜けて、足を拭いて靴をはいた。

以上で、大祭の儀式はおしまい。


儀式内容は真言密教そのもので、高尾山の火渡り(→記事)と同じだった(ちなみに私の火渡り経験はこれで3回目)。
日頃は無人の村社に、今日だけ修験道が復活し、自分もそれに参加できた。

本殿直下には、不動明王を祀る護摩堂があり、参道沿いには石仏が並んでいる。
すなわち、この神社は神仏習合という修験の伝統を保持している。

本殿裏を登って丘陵の上に出ると、そこは整地された「八菅修験ハイキングコース」になっていて、
その先に行場跡が点在している(説明板あり)。
こうして跡地としてでも修験道を身近に感じる所があるのは関東では珍しく、貴重だ
※東京の高尾山が”修験の地”を売り出したのは明治以降で、今では関東有数の修験の地になっている(私も火渡り・滝行に参加)。

といっても200m程度の穏やかな丘陵なので里に近く、
修験の行場としては(山をやっていた者としては)難易度が低すぎて、行場としての魅力・価値も落ちると思う。
この丘陵の奥にある仏果山(747m)・経ヶ岳(633m)の山塊がもう少しマシな行場たりえたろう。
更に丹沢表尾根の行者岳(1209m)付近の岩崚ならば本格的な行場たりえた
※:場所と山名からして、丹沢修験の行場だったようだ。ちなみに相模の修験集団は、箱根・神縄・丹沢・大山・日向・八菅などに分れていたらしい(川島敏郎『大山詣り』より)。


群馬県立歴史博物館を見学

2024年03月25日 | 東京周辺

”郷土博物館巡り”をして感じるのは、市町村レベルのそれは充実度の落差が大きいのに対し、
県立レベルのそれは、県の意気込みと対象が県全体であるため展示が充実していて、
どこも見学に値する(行って損はない)こと。

休日に暇でどこにも行く宛がないなら、近隣の県立博物館をお勧めしたい。
じっくり見学すれば数百円の入館料で半日潰せて、色々な知識を得られる。

昨日は、群馬県立歴史博物館(高崎市)を訪れた。
県立博物館でも、埼玉や茨城は歴史博物館と自然博物館とを分けていて、ここ群馬も分けている
(しかも3県とも、歴史博物館は都市部にあるものの、自然博物館は交通の便がよくない地にある。
なので双方を一度には廻れない)。
県庁所在地ではないものの群馬一の都市・高崎市にあるのは歴史博物館の方で、
関東でも古墳が多い地だけに埴輪の展示が充実。


東京から高崎まで18きっぷで往復すれば約4000円のところを2400円ですむ。
高崎駅東口からぐるりんバスに乗って、「群馬の森」で降りる。
ここには県立の歴史博物館と美術館がある。
美術館は時間が余ったら入ることにし、まずは歴史博物館に入る(300円)。

展示室入口の自動ドアが開くと、さっそく近くの観音山古墳から出土した国宝の埴輪群などがお出迎え。
千葉を除く南関東では見られない、無傷で(復元したのではない)大型の埴輪が居並ぶ。
その中に昔の大映映画の「大魔神」のモデルとなった武人埴輪(写真右)も立っている。
馬の埴輪は、すべてご丁寧に尻の穴が開いている。
あと馬につける金属の飾りは、それで音を出すためで、いわば”チャグチャグ馬コ”の起源だ。
これらがかくも無傷で出土したのは、全国的に珍しく盗掘を免れていたから。

今まで訪れた南関東の郷土博物館では、どうしても古墳時代からの”古代”の展示がスカスカだった。
だがここ群馬は、まさにその古墳時代の展示が自慢(古墳の規模と出土品の充実度は畿内に匹敵する)。

なら、古代以前の充実度はどうかというと、
旧石器時代の日本最初の出土地はここ群馬の岩宿であることから当然充実して、
3万4千年前からの石器(複製)の展示がある。
石器の作り方の映像があり、それによると各地で人気の黒曜石は、
鋭利に形成しやすい柔らかさでいて、獲物を仕留める硬さはある便利な石だった。

そして縄文土器ももちろん並んでいて、縄文晩期には、精巧な透かし彫りの装身具が作られていた(写真)。

弥生時代末の3世紀の土器は、東海地方(今の愛知)からのオリジナルスタイルが入ってきたということで、愛知は縄文期はスカスカだが、弥生末期以降から焼き物の先進地に躍り出たようだ(それが現代まで続く)。

ヤマト政権成立後の古代群馬は、有力豪族の上毛野(かみつけの)氏の支配で、大陸との交流も盛んだった。
あと有名な”上野(こうづけ)三碑”(実物大の複製が並ぶ)も関東では珍しい古代(7-8世紀)の史跡。

(みやこ)一極集中が今より酷かった平安時代はさすがに展示が乏しくなるが、
中世になると在地武士の新田氏の活動が盛んになり、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞で頂点に達する
(でも隣国下野の足利氏に敗北)。

戦国になると、上州は関東内部(古河公方)・外部(越後・甲斐)からの騒乱に巻き込まれ、その中で上州独特の兜が作られる。
当時の”城”が、織豊期以降の石垣天守閣中心のそれでなく、曲輪(くるわ)という空間中心であったことが復元模型で示される(写真)。
この模型は山城好きに参考になる(山城巡りでは、地面の凹凸だけの縄張り跡に立って当時の城を想像するから)。

江戸時代になると中山道(新町〜碓氷峠)が賑わい、大田の養蚕・織物産業が発達し、
後者の伝統は明治の富岡製糸場(世界遺産)に受け継がれる。
その間、草津をはじめとする上州の温泉場も観光客で賑わう。
ただ、古代の榛名山、そして江戸時代(天明)の浅間山の噴火による災害も、三方(東・北・西)を火山に囲まれた群馬の特徴。

戦時中は、中島飛行機が頑張り(栃木に疎開した母も現地の中島飛行機に勤労動員)、それが戦後のスバル360につながる。

さらに自慢の埴輪については、デジタル技術を使って3Dで任意の角度から見れるコーナーもある。

以上を見学するのに2時間強を費やした。


次は隣の美術館のつもりだったが、展示を見てぜひ観音山古墳を訪れたくなり、
群馬の森から出て観音山古墳を中心とした綿貫古墳群の地に向かう。

まずは不動山古墳の頂の不動堂に参拝し、途中の普賢寺古墳と小さな古墳は私有地で入れないので近くを通り、公園状に整備された観音山古墳に達する(写真)。

前方後円墳の頂稜部に上がれて、埴輪が並んでいた中腹部の回廊も歩けて、
石室内部にも入れる(畿内の古墳と違って宮内庁管轄でないのが幸い)。

不動山古墳の前に戻るとそこにバス停があり、程なくぐるりんバスが来たので、
高崎駅より手前の倉賀野駅前で降り、そこから帰京した。

倉賀野駅はほぼ無人で構内に何もないので(トイレはある)、
食事や土産を求めるなら始発駅でもある高崎に戻った方がよい。

ちなみに、リアルな群馬を知るには、まず映画『お前はまだグンマを知らない』から。
※:映画『翔んで埼玉』(第1作)の群馬描写はやや誇張が入っているので注意


目黒区の歴史資料館・美術館

2024年03月17日 | 東京周辺

日帰りの行き先として、気楽に行けてタメになる”郷土博物館巡り”。
関東での行き先は都内23区を優先していて、前回の世田谷区に続いて今回はそこより渋谷に近い(都心寄りの)目黒区。


最寄駅の東横線・中目黒に降り立つ。
中目黒は”おしゃれな街”として変貌中で、駅前にビルやマンションが建ち始めている。

まずは駅前のビルにある日本蕎麦屋で昼食。
ちゃんとした蕎麦屋での、いわゆる”蕎麦通”的な食べ方
(まずは板わさなどをつまみに日本酒を味わい、締めにせいろ)は私はできないので、
少しひねっただけの”田舎もり”(蕎麦が太い)を注文。
ちゃんとした蕎麦屋では天ざるはカロリー的に受け付け難いので、結局は一番シンプルな”もり”になってしまうのが残念
(蕎麦はもりで完成されてしまって、バリエーション化できない)。
※:蕎麦は「もり」か「かけ」。「せいろ」・「ざる」は容器の名称で「かけ」を「どんぶり」というようなもの。

食は栄養バランスを一番大事にしたいのに、もり一択の蕎麦はそれができないから(うどんは可能)。
せめて、最後に蕎麦湯を飲んで蕎麦本来の栄養を吸収する。

ここから中目黒銀座通りを抜ける。
おしゃれな街に変貌中の中目黒だが、路地に入ると戦後に建てた古い木造住宅が残っていて、
新旧入り混じった状態(言い換えれば再開発の余地がある)。


途中、地元鎮守の中目黒八幡神社を詣で、
小学校校舎を利用した受付のないめぐろ歴史資料館(無料)に入る。

目黒の旧石器時代は2万年前からなので、人が住んだのは都内では新しい方。
出土される縄文土器がここでも愛知に比べて豊かなのは、東日本だからだろう。
逆に古墳時代など古代は国府以外は情報量に乏しくなるのも東日本の特徴。

武蔵の中世遺構は、板碑が中心となるのはここも同じ。
あと鎌倉時代に目黒氏がこの地を支配していたという(吾妻鏡)。
在地武家は地名を名字にするから、すでに地名が目黒だったのだろう。
ただ目黒氏は、その後出雲そして奥羽に移るため、目黒の地との縁は早々に切れる。

ということで、目黒という地名は、江戸時代に制定された”五色不動”の1つである目黒不動が由来ではないようだ
(平安時代からある瀧泉寺が”目黒不動”とされたのが江戸時代)。

江戸時代は、江戸(府内)の郊外として観光と農作物の供給で江戸と繋がっていた。
目黒には立派な富士塚が二つあり、そのうち新富士(最上徳内の家にあった)の跡地から、
人が入れる規模の胎内窟が最近発見され、その実物大の復元が館内にあって、見学者は胎内潜りができる。

また、目黒はタケノコが固有の栽培法によって名産だったという(目黒名物はサンマではなかった)。


この近くに「長泉院附属現代彫刻美術館」なるものがGoogleマップにあったので、そこに行ってみる。
丘の上の長泉院というお寺の敷地(斜面)いっぱいに現代彫刻が屋外展示してある。
さらに美術館もあり(写真)、午前と午後(昼休みを除く)に見学できる(いずれも無料)。
宗教法人長泉院は、増上寺系の由緒ある浄土宗の寺で、
そこの住職が個人の意思で若い彫刻家の作品発表の場を提供しているのだという(館内の説明)。
この広い敷地を墓地にすればそれなりに収入源となり、一方作品の維持費がかかるだろうに。
それを広く無料公開することが宗教活動としても意味があるとしたのだ。
その意気や立派。
並んでいる作品も、木像の人物像から、ブロンズ像、抽象的な造形物まで多彩で、
特に現代彫刻は”立体的な形そのもの”との出会い(再会)が促される。


ここから庚申塔のある馬喰坂を下って、山手通りを渡り、目黒区民センターの一画に目黒区美術館がある。
区立の美術館があるのは、裕福な東京23区でも少ない(他に世田谷区・板橋区・練馬区)。
入館料700円を高齢者割(550円)で入館すると「広がるコラージュ」展をやっていて、
日本人作家のコラージュ作品が展示してある。
コラージュといっても、既存の画像素材を貼り合わせただけでなく(今だとPhotoshop使えば色々できそう)
物を立体的に貼り合わせたり、とにかく既存の物を組み合わせて新しい表現世界を構築する試みだ。

特に化石というもの自体が、言ってみれば「生物と鉱物のコラージュ」であり、
生物の形態も化石だと生きた状態とは違った形態になるという視点が新鮮だった。

あと草間彌生の作品もあり、その説明で、幼い時から幻覚・幻聴を体験していたことを知った。
「霊が見える」現象を研究している者として、統合失調症や薬物によらない幻覚体験に興味があるので、もう少し本人について知りたくなった。

同時開催の「飯田善國」展では、彼の金属を使った風を受けて動くマケットという一連の作品がとても興味があった(風車が大好きなので)。

このようにふらりと訪れる美術館だと、かえって新鮮な出会いがあるものだ。


世田谷中心部を歩く

2024年03月10日 | 東京周辺

東京都世田谷区は23区で一番広いので、有名ポイントはいくつか分散しているが(下北沢、自由が丘、二子玉川、三軒茶屋など)
今回は、区立郷土資料館を中心とした世田谷区の中心部まさに地名としての世田谷を歩いた。

主目的は、しばらく休館してリニューアルした郷土資料館で、その地を理解するためにもまずはそこを目指す。

最寄駅は東急世田谷線の上町。
新宿から京王線に乗って上高井戸で世田谷線に乗り換えた。
世田谷線は、上高井戸から三軒茶屋までを結ぶ世田谷の街中だけを走る線。

都電荒川線のように、専用の線路空間を走るが気分は路面電車。
しかもこの路線オリジナルの車両で、小さい二両編成ながら、
座席はロングシートではなく、1人がけ。
ただ椅子の間隔が狭く、私を含む男性は膝を通路側に斜めに出さざるをえない。


上町で降りて(運賃は一律160円で、乗る時にスイカで支払う)、
まずは代官屋敷内の郷土資料館に入る
(新しい施設ながら無料。さすが世田谷は太っ腹)。

約4万年前の旧石器時代からの石器から始まり、石器時代から弥生時代まで、
およそ野川の国分寺崖線沿いの湧水が豊富な台地に人が住んでいたことがわかる。

顔の把手がついている縄文中期(5000年前)の土器(区文化財)が展示されていた(写真)。
世田谷南部の多摩川沿いには古墳が多く、それらの復元模型や副葬品の埴輪類の展示と続く。

中世になると、世田谷の中心部を支配していた吉良(きら)の情報が中心となる。
吉良氏は、三河(愛知県)吉良(吉良町:現在は西尾市に編入)が苗字の地の足利一門で、
その庶流が武蔵の瀬田郷を支配していた(忠臣蔵の吉良上野介は、吉良本家筋)。

戦国期になると小田原北条氏が進出してきて、氏康弟の北条幻庵が吉良氏に嫁いだ娘に宛てた作法心得の文書は、
武家礼法の視点でも貴重な資料(小田原北条氏は、伊勢・小笠原・今川の三礼式家と全て関わりがある)
とりあえずデジカメで全文を撮ったが、誰か翻刻してくれていないだろうか
(当館発行の資料や世田谷区史の資料を探してみたが、見当たらなかった)。

郷土資料館の隣にあるのは重要文化財の代官屋敷で、
彦根藩世田谷領の代官を勤めた大場家の屋敷であった(大場家は敷地に現存)。


代官屋敷の前の通りは、世田谷ボロ市の通りで、そこを突き抜けて北上すると、
寺が2つ並んで、左は真言宗、右は大吉寺という浄土宗の寺。
その大吉寺に、江戸時代の故実家・伊勢貞丈の墓があるという。
※:室町時代の礼式家伊勢氏の末裔
伊勢貞丈といえば、『貞丈雑記』という作法の百科全書の作者で、
武家礼法などの日本の作法を勉強するならまず最初に読むべき本(平凡社の東洋文庫に全4巻で出ている)。
なので、武家礼法を嗜んでいる私が彼の墓を素通りするわけにいかない。

本堂前にある貞丈墓の説明板の QRコードをスマホで開くと、
貞丈の墓の写真が出た。
その墓の姿を頼りに、本堂裏の墓地内を探し、
本堂裏正面の少し奥に傘があるキノコ型の墓を見つけた(写真)。
花も線香もないが、合掌して、感謝の意を示した。


ここからマップのナビを使って、吉良家墓所に行く。
この世田谷の地に来たのだから、その主・吉良家に挨拶したい。

Googleマップでは「吉良家墓所」としか載っていないが、
そこは勝光院(曹洞宗)という立派な寺で(写真)、
吉良家の菩提寺である(書院が区の文化財になっている)。

ここから世田谷線の線路を越えて、豪徳寺の参道入口を右に曲がって、
公園状になっている世田谷城跡に達する。

城跡といっても、吉良家の館(豪徳寺)の端っこの堀や廓のある部分。
それらの縄張り地形は残っているが、公園として通路が整備されているので(堀両側の整った石垣は公園整備用に構築したもの)、山城巡りのようにはいかない。


来た道を戻って豪徳寺の境内に入る。
ここは江戸時代の井伊家の墓所が有名だが、上記したように元は吉良家の館跡。

ただ参拝者は井伊直弼の墓参に来るのではなく、
もっぱら”招き猫”を見にくる(外国人も多い。掛けてある絵馬は中国語だらけ)。
参拝者のほとんどは、招き猫の本尊である観音堂に参拝し、その周囲にずらりと置いてある招き猫の人形の前で写真を撮り(写真)、庫裡で招き猫の人形を求める行列に加わる。

ここの本尊は、我が菩提寺・目黒の五百羅漢寺のずらりと並んだ羅漢像の作者だった。

私は行列には加わらず、寺を出て西に向かって、この地の鎮守・世田谷八幡(なるほど清和源氏の氏神)に参拝する。

かように世田谷は、吉良氏の地であり、それが井伊家に引き継がれた場所だった。


成人の日の日向薬師

2024年01月08日 | 東京周辺

成人の日の今日、20歳の誕生日を丁度2週間前に迎えた甥が、区と母校の成人祝いに出席するため、
スーツ・コート姿で家を出るところを、私が家の前で記念撮影した
(私の時もそうだったが、男子の成人の日は家族でもこの程度の対応。
本人にとっても成人式はかつての友達と集まることの方が重要だった)。


私はそのままカメラを携えて、小田急線に乗って神奈川県の日向(ひなた)薬師宝城坊)に向かう。

日向薬師は、丹沢・大山の麓にある奈良時代創建の古刹で、山の中にポツンとありながら、
重要文化財の仏像がひしめいている素朴で豪華な寺。

その文化財の1つである本尊薬師如来(伝行基作)が、本日8日(初薬師の日)に開帳されるのだ。

以前ここには、大山の下山ルートとして立ち寄ったが、今回は上の写真撮影もあったので、
大山登山は省略して、伊勢原駅からバスで往復した(「丹沢・大山フリーパス」を利用)。

バス終点の日向薬師バス停で、Googleマップを頼りに日向薬師までの歩行ルートを探ったら、遠回りの車道を案内された。
それでも15分で着き(バス停の案内には30-40分かかるとあった)、まずは茅葺きの本堂(写真:重要文化財)の薬師如来と十二神将に参拝(こちらは重文ではない)。

ついで写真左奥の宝物殿に拝観料300円払って入ると、館内左側に丈六の阿弥陀如来坐像、正面に鉈彫りの本尊薬師三尊とその左右に展開する十二神将と四天王のいずれも立像、
そして右側に丈六の薬師三尊が居並ぶ(立像の日光・月光両菩薩は奈良薬師寺と同じく、軽く腰をひねっている)。

これら合わせて鎌倉時代作の計23体もの国指定重要文化財の仏像が三面(視野270°)にひしめく壮観は、
同じ神奈川県の古都鎌倉でも経験できない。
※:本尊の薬師三尊は平安時代作。館内の重要文化財は2頭の獅子頭を合わせると25体で本尊を収めている厨子を含めると26。

開帳日である本日ならではの、この贅沢な空間をじっくり味わう。

ご朱印集めの趣味はないが、丈六の薬師三尊の御影(おすがた)があったので迷わず購入(500円)。

帰りは、Googleマップでは案内されなかった石畳の参道を下った
(Yahooマップだと参道は地図に表記されるが、こちらもルート案内はできなかった)。

これで私の2024年正月の寺社巡りはおしまい。