ここ数日、夢中になって読んでいた本がこれ。
『ペリー提督 日本遠征記』マシュー.C.ペリー F.L.ホークス編(宮崎壽子訳) 角川出版
幕末維新当時の日本のリアルな姿を知るには、当時日本を訪れた外国人の記録が参考になる。
数あるその種の記録の中で、第一級の価値をもつのは、
日本の運命を変えた黒船来航事件の主役・ペリー提督による遠征記であろう(個人的著作ではなく、アメリカ議会への報告書)。
実際の著者は、ペリーの依頼を受けた牧師で歴史家のホークスなので、ペリーを三人称で描いている。
この本は文章だけでなく、同行した画家の写実画にも歴史的価値があり、日本の教科書などにも採用されている。
ここでは、書評というより、この本を読んで私なりに感心した箇所を紹介したい。
まずこれは自分の不勉強なのだが、ペリー一行は太平洋航路ではなく、大西洋・インド洋経由で日本に来たのだ。
つまり、アフリカ・セイロン島・シンガポール・中国・沖縄を経由してきた。
なので彼の日本への印象はそれらの地との比較の視点が入っている。
それから日本については可能な限り勉強してきているということ。
それに関して印象に残ったのは、ペリーが一番参考にしたのはシーボルトの記録であるが、
ペリーの日本遠征を聞きつけたそのシーボルトが同行を求めても、ペリーは断固として断った。
その一番の理由が、シーボルトの人間性にあったという。
私は、島崎藤村の絶筆『東方の門』などを読んで、シーボルトに親近感を抱いていただけに、
彼の性格的欠点がこのような歴史的史料で酷評されたのは意外だった。
それと、私は当時の日本人はアメリカについてほとんど無知だと思っていたのだが、
ペリー一行が接した日本人(浦賀や江戸の役人)はワシントンとニューヨークを知っており、
またジョージ・ワシントンの事も知っていた(オランダ経由で耳学問は結構豊富だったようだ)。
蒸気船に接したのは始めてだが、機関室を見学してその動力原理を理解したらしい。
アメリカの船員たちが測量船に乗って横浜に上陸すると、周囲にいた庶民は、
初めて見る西洋人を恐れることも排斥することもなく歓迎ムードで、水や桃を率先して提供してくれたそうだ。
尊王攘夷の志士が出現する前はこんなもんだった。
また交渉にあたった日本の役人たちは、交渉こそ難航したものの、
その後のアメリカ主催の船上での宴会はおおいに盛り上り、洋酒はもちろん平気で肉食したのにも驚いた。
これより少し前の漂流記では、日本人は決して獣肉を口にしなかったのに。
ペリー側も人種的偏見はもっておらず、南北戦争(および奴隷解放宣言)前なのに、
一行を壮麗に見せるためにハンサムな黒人船員を提督の護衛に活用した。
また挿し絵では日本人はアメリカ人とほぼ同じ身長で描かれている。
日本女性に対しては、他の記録のように絶賛することはなく、むしろ既婚女性のお歯黒の醜悪さを述べているが、
女性の地位については、若い女性のはつらつとした振るまいから、欧米ほどではないにしろ、
他のアジア諸国よりはきちんと敬意を払われていると評している。
彼らが最も賛美したのは、浦賀の背景となる三浦半島の景色の美しさである。
それは、自然と耕作とが合わさった、いわゆる日本的な里山の美である。
この日本的風景の美しさは、日本を訪れる外国人が一様に賛美する(残念ながら、現在の日本には当てはまらない)。
一方、日本人側も死亡したアメリカ船員のキリスト教式埋葬場面に接しても、それを容認し、
その後、日本人僧侶が自発的に仏式葬儀をした(日本人なりの死者への追悼行為と思われる)。
また、日本には砕石を敷きつめた舗装道路があり、街道には公衆便所もあったという。
とにかく、日本が清潔であることを幾度も繰り返している。
下層階級の人は(琉球を含む)他のアジア諸国のように奴隷状態ではなく、町に乞食はほとんど見ないという。
ペリーの示した政治的態度が日本にとってこの上ない利益をもたらした一件がある。
それは小笠原諸島の帰属問題である。
鎖国中の日本はこの島にはなんら関心をもたず、当時すでにアメリカからの移住者が生活していた。
ただ、領土的野心を示したのはイギリスで、幸いにもアメリカにはその野心がなかった(捕鯨船の寄港先としての関心のみ)。
日本の歴史をくまなく調べていたペリーは、この島の領有を最初に主張したのは200年以上前の日本であるから、
日本にこそ領有権があるとイギリスに対して文書で主張している(これは島に住んでいたアメリカ系住民も認めるところである)。
かように、ペリーの公正な目は自国の利益がからんでも曇ることがない。
吉田松陰らの黒船密航未遂もきちんと記されている。
彼らの無謀な計画をなじることをせず、国禁を犯してでも海外を知りたいという若き日本人の知識欲を賛美し、日本の将来を有望視している。
さらに日本人の手工業技術(手先の器用さ)を賛美し、日本が近代化したら、強力なライバルになることを予測している。
ペリーは日本の潜在力を正しく見抜いていたわけだ。
日本側も、ペリーが強引に成し遂げた成果に対して、「ペリー提督の名は、永久に日本の歴史に名を残すだろう」と挨拶した。
ペリーとの交渉過程で、日本政府側も西洋近代社会の価値観・論理をトレーニングされたのである。
だが、これによって日本が内戦状態となり、政府が転覆し、価値観の大転換が起こることになろうとは、こう述べた人も予想できなかったはず。
外国人排斥の種は徳川幕府自らが蒔いたものだから自業自得ともいえるが。
ペリーに接した日本人たちの態度の変化を見ると、日本はもっと平和裡に(多くの優秀な人材を死に至らしめる事なく)、政治・社会の近代化を成し遂げられる事も可能だったのではないかと、くれぐれも残念に思う。