今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

不在者投票のススメ

2016年06月27日 | 時事

ずっと先の投票日は東京にいないので、さっそく不在者投票をしてきた。
投票日に自分の都合を合わせるのではなく、自分の都合に合わせて投票できるのがあるべき姿だと思っている。 

最近は不在者投票がしやすくなったのでお勧め、と書こうとしたら、

わが文京区では、送られてきた通知に、不在者投票が可能な数ヶ所のうち、今日現在受け付けているのは区役所一ヶ所だけであることがまったく記されていなかったので、無駄足を踏んでしまったぞ。

それでもバスに乗って意地でも不在者投票に行った。

こうまでして棄権をしないのが私の信条。

民主国家の主権者の責任だと思っている。

どういう基準で投票するかは、個人の自由だが、自分の一票が「死に票」になるのをいやがって、本来は支持しない候補者・政党に入れるような不誠実なことはしない。

今回の参院選は、少なくとも前回の都知事選よりは選択肢があって選びやすい。
ただ本来は、参議院は、政治家というよりは”識者”の院であるべきで、政党を判断基準にしたくないのだが、制度上そうなっていないので仕方ない。

私自身、それなりの政治的スタンスをもっているが、このブログで政治活動はしないつもりなので、誰・どこに投票したかは、(言うにしても)開票後にしている。


私が参院選候補者だった頃

2016年06月25日 | 時事

今回の参院選は投票日だけでなく、7月になってしばらくは住民票のある東京に帰れない。
そこで不在者投票をすべく、候補者と政党の情報をネットで探っているうち、かつて自分が参院選の候補者だったことを思い出した。

私が名古屋にある今の大学の職につく少し前の頃、自分がアルバイトをしていた学習塾の経営者が、実は政治団体を率いる身でもあり、そこが参院選(比例区)に打って出ることとになり、なぜか私も候補者名簿に名を連ねることとなったのだ。

その団体は「道州制推進会議」という名であり、まぁ地方自治は県単位より道州制にした方がいいという考えには賛同できたので、名を貸す事にためらいはなかった。

当時の私は定職がなく、ここのバイトの他には大学と企業2社の非常勤を掛け持ちしていた身でおとなしくしていたのだが、
当然、社会人なら毎朝目を通す新聞には候補者一覧が載っており、目ざとい人はどこにでもいて、大学にも会社にも候補者であることが知られるハメとなった。

ただ比例代表の名簿の一人にすぎないので、選挙区候補のように、自ら選挙カーに乗って街頭演説をこなすようなことはせず、もちろん仕事先では政治活動はしなかった(一回だけ、非常勤先の大学の事務室で職員に質問攻めにされて、政見を開陳したことがあった)。
つまり、選挙期間中の私は日常生活のままで、こんな消極的な候補者でいいんだろうか、という思いもあったが、本部からの指示は別段なかった(私自身はこの選挙で一銭も使っていない)。

そうはいっても宝くじを買った時と同様、”獲らぬタヌキ”を思い描いてしまうもので、国会議事堂の赤じゅうたんを自分が踏みしめる姿を想像したこともあった。

実際には、参院選は(今でも)「諸派」と一括される訳の判らぬ泡沫政党が林立し、衆院で議席を持っている政党以外は、議席を取ることはほとんどない。

わが「道州制推進会議」も全国で6千票ほどしか得られず、あえなく全滅。
これが候補者たちの個人的なツテの限界だった。
そんな中、私が週一で顔を出している会社の同僚も一票投じてくれていた。
投票の理由は「まぁ、知り合いに国会議員がいてもいいんじゃないかと思って」とのこと。

かような結果は予想されたが、ひとつ悔しかったのは、同じ”諸派”の「スポーツ平和党」が議席を確保したこと。
やはりアントニオ猪木の人気にはかなわない。
何しろ選挙期間中、繁華街にくり出していた党首の猪木に握手を求めて集まった群衆の中に、私もまじっていたくらいだから。


グローバリズムからナショナリズムへ

2016年06月24日 | 時事

イギリスの国民投票の結果は、残留がかろうじて上回るという予想が覆された。
その結果、日本でも為替と株価がショック反応を起こし、投資(普通預金より多少ましな運用を期待しているだけなのだが)に手を出している私も、 そのショックの直撃を受けた。

もととも島国で自立志向の強いブリテン島の人たちだから、大陸の意向に従うのをよしとしないのはわかる。
ただ、この現象はイギリス一国だけの問題ではなく、グローバリズムからナショナリズムへの方向転換がいよいよ世界の流れとなったことを示しているように見える
(スコットランドの態度はイングランドに対抗する、やはりナショナリズムの反映であり、グローバリズムではない)。

ナショナリズムというと(とりわけ日本では)”偏狭な”と形容され、グローバリズムこそ人類が達成すべき方向であるかのような”理想”とされてきた。
その前世紀から続いてきた潮流に、今回待ったがかけられた。

この新しい流れを支持する人たちはどのような人たちか。
ナショナリズムは保守派、グローバリズムはリベラル派という図式は過去のものである。

アメリカではトランプ氏とサンダース氏の支持者が階層的に共通しているように(いずれもクリントン氏の支持層とは別)、
イギリスでは離脱派は労働者階級が多いように、
今のナショナリズムは持てる保守層によるものではない。

グローバリズムは、結局は世界をまたにかける超大企業だけが儲かり、国内規模の中小業者とその労働者は中産階級から脱落を余儀なくされてきた。
この持てる者と持たない者との世界的分離(中産階級の没落)は、日本でも進行中なのはご存知の通り。
国家間の格差は縮まるが、人々の間の格差は拡がっていく。
これがグローバリズムの現実の結果というわけだ。 

私自身、(若い時は左側であったものの)ナショナリズムに目覚めて久しい。
自分の存在基盤を自分自身で足下から固めることをまずは優先する。
これがナショナリズムだ。
グローバリズムの本音は(国ごとの関税を邪魔とする)経済第一主義であるが、ナショナリズムは固有の文化を大切にする。
おのれの存在基盤である価値(アイデンティティ)を大切にし、無理やり”一つ”になることよりも、互いの”違い”を認め尊重する。
隣近所と無理やり共同生活をするのではなく、互いに自分たちのライフスタイルを選択したい。
グローバリズムと僭称し、一つの価値観を他者たちに強制するファシズム(大東亜共栄圏、国際共産主義(インター)、イスラム国)は拒否したい。
人類はゆるく結びついていればいい。 

ただし、ナショナリズムは経済的には保護主義と親和性が強いので、経済的に成功することは保証されていない。
経済的繁栄を多少犠牲にしてでも守りたいものがある、という訳であるが、
その態度に正直不安がない訳ではない。 
そのジレンマがイギリスの拮抗する結果になったともいえる。 


麻婆茄子の日

2016年06月23日 | 生活

半年に一度、麻婆茄子(マーボーナス)を食べる日がある。
給与生活者にとって、日頃のガマンが報われる日。

ところが、麻婆茄子は総菜としてなかなかスーパーでお目にかかれない。
この時期、もっと大々的に売り出せばいいのに…
そんな中、江崎グリコが「麻婆なす丼」というレトルトを出しているので、それをご飯にかけて食べることにした。
これだけだと茄子が乏しいので、別個に茄子を買って焼き茄子にして祝杯の肴にした。

一方、目の肴は「賞与明細書」。
開けてみたら、支給額は昨年と同額
社会保険料や所得税などの控除額が増えた分、手取りが減った

目の肴としてはイマイチだった…

 


MacBookAirのバッテリが

2016年06月18日 | パソコン・メディア

今年の1月、愛用しているMacBookAir(2011年製)のメニューバーのバッテリの所を開くと「バッテリの交換修理」という表示が出た。
マシンのバッテリを自動的にチェックして、異常が出たらこのような表示が出るようだ。

といっても、電源を外してもしばらくもつし、実際にいますぐ交換が必要という事態ではないようだ。
そもそもAirのバッテリは素人が簡単に交換できるものではなく、交換するバッテリが市販されていない。

信頼している修理業者に見積をとってもらうと、割引を入れてくれて13000円ほど。
しかも浅草橋にあるオフィスに持込みなら、当日中に交換してくれるという。

これに気を良くして、春休みにでも交換しようと思って、そのままにして、とうとう6月になってしまった。

ふと気がつくと、「バッテリの交換修理」の表示が消えている。

市販の診断ソフトでバッテリをチェックすると、冬の頃より電圧が上がっていて、バッテリの健康状態が「標準」になっている。

バッテリの健康が回復したのだ。
なにもしていないのに。

気候が良くなったせいだろうか。
マシンにも”自然治癒力”があるのだろうか…
いずれにせよ、いいことだ。


日米通算は他と比較できない

2016年06月16日 | 時事

イチローの日米通算ヒット数は、「日米通算」という枠組みで評価するのが当然だ。
つまりこの点でイチローは松井秀喜より上ということ。 

ピート・ローズの大リーグ通算と比較できるなら、日韓通算、日台通算、あるいはローズが揶揄しているように高校野球以来通算と比較してもおかしくない。

比較は同じ基準でするもの、という大原則を無視する愚行は、自らを律するレベルの高さが評判の日本人としてふさわしくない。

つまり、こんなインチキ基準で大騒ぎすることは日本人として恥ずかしい。
あえて厳しい基準の視点で自らを低く評価する、すなわち"謙遜"こそが日本人の美徳だったのに…日本のプロ野球界に潜む”夜郎自大”的メンタリティがどうも馴染めない。

私はイチローの大リーグ3000本安打に期待し、達成したらおおいに祝福したい。


都知事選候補ってどうしていつも

2016年06月15日 | 時事

都知事選挙は、本来は政党色に染まらない候補者が理想だが、それを狙ってか却ってイロモノ候補者が満載で、実際の選択に困ることがしばしばだった。

その起源はといえば、当時支持絶大の美濃部知事に対抗するため、自民党が担ぎ出した参院選でこれまた人気抜群の石原慎太郎だった。

選挙権年齢に達していない当時の私でさえ、単なる人気投票に堕している都知事選挙に白けたものだった。

そしていつの間にやら、その石原慎太郎氏が都知事として盤石な権勢を振るい、その後継者とされた猪瀬氏が、金銭スキャンダルで辞任に追い込まれた結果、またもや人気投票の体をなし、現役政治家の強みで舛添氏が当選した。
実際私も彼に入れたが、彼を支持したわけではなく、意地でも棄権しないため、都政とは無縁そうなイロモノ候補者の中からの消去法の結果である(今でも他の候補に入れればよかったとは思っていない)。

私が住民票を東京都に置いたままにしている理由の1つが、愛知県知事や名古屋市長より東京都知事選挙に投票したいためである。
つまり、選挙として投票のしがいがあるから。

 ただ、人気投票なのだからとにかく有名人と出せばいいという政権党側候補と、都政とは無関係の国政レベルの争点しか話せない野党候補と、毎度出てくるわけのわからないイロモノ候補の中からの選択というのは、「究極の選択」そのものであり、誰が当選しても、最適とはいえない結果となる。

その中でも、かつて石原慎太郎氏が連続して秒速で当確できたのは、氏自身にもあれこれ問題はあったが、それ以上に東京都民を守るという明確なスタンスが多数の都民に信頼されていたからだ。

そういう政治家として頼りになる人物(必ずしも小市民的清廉潔白さは求めない)がいなくなった後は、レベルの低い人気投票に逆戻りしてしまうようで、都知事選挙そのものに魅力がなくなってしまう。
棄権することが最も無意味な行為なので、意地でも投票には行くが、 正直言ってつらい。


蛍光灯の電磁波

2016年06月13日 | 計測

蛍光灯から可視光より波長の短い電磁波(紫外線とガンマ線)が出ていることは、専門家の間では知られている(確か、日焼けサロンでも専用の蛍光管が使われているらしい)。

実際に測ってみた。

電球色の蛍光灯の電球に紫外線計を接触するほどに近づけると、100μW/cm2ほどに上る。
キッチンの頭上にある昔ながらの細長い白色蛍光管も似たような値。
いずれも、電球から30cmほど離れると値は0になる。
我々の生活空間で、太陽光以外の紫外線は蛍光灯だけだろう。 

ついでにガイガーカウンターを近づけると、ガンマ線が空気中で80nSv/hほどだったのが130nSv/hほどに上る(正確には5回測って平均値を出す)。

電場は当然ながら点灯すると値がでるが、キッチンの蛍光管だけは、点灯すると磁場も高くなり、顔の位置でも磁場の値はそれなりにあった(消灯すると0になる)。

天井のカバー付き蛍光灯ではカバーの外からは紫外線は0だった。

室内のあちこちの蛍光灯をLEDに置き換えつつあるが(いずれも電球色→電球色)、LEDではこれらの電磁波はすべて計測されなかった(通電しているのに電場すら0のまま)。

蛍光灯の電磁波は値的にはたいしたことないが、気になるならLEDに置き換えることをお勧めする(ただし白色はブルーライトが強いので、電球色がお勧め)。


浜名湖でズワイガニ

2016年06月12日 | 

先週の伊良湖に続き、今週は浜名湖の旅。
前回は船旅だったので、今回はあえて車で行く(鉄道の旅に向いている所だが)。
近場の通勤ばかりのわが赤チンク(FIAT500)に、三河高原を快走させてやりたいから。

三河高原横断ルートは足助~鳳来と松平~新城の2本あり、浜名湖には後者が近い。
途中、標高500mの作手村の道の駅に寄る。
ペットボトル製の風車が軸の棒つきで350円で売られていたので、迷わず購入。 

三ケ日の遠鉄ストアで買い出しをして、わが準定宿「グリーンプラザ浜名湖」に到着。
遠出をすると、赤チンクの燃費は通勤時の約2倍の21km/Lになる(”快走”の証拠だ)。

さて、年に2回は利用するこの宿は、夕食バイキングにカニが出るのが特徴。
以前は豪勢なタラバガニだったこともあるが、最近はもっぱらズワイガニ(しかも通年でなくなった)。
それでも他の同サービスの宿よりはカニが大型なので、食べたくなったらこの宿にする(他のひどい所だと、小型でハサミ以外の脚はほとんど肉がなかったりする)。
つまり、先週は大アサリを、今週はズワイガニを食べ放題するのだ(ちなみのこの宿には大アサリの特注メニューが1000円で出される)。

2週続けての食べ放題ということもあり、今回も糖質は摂らない。
この地に来て食べないわけにはいかない浜松餃子を例外として。
ズワイガニは(解凍したものだけに)大アサリと比較すると、味覚的に単調で、感動するほどではない(つまり、三河湾付近に来るんだったら、まずは大アサリ!。ちなみに浜名湖でもアサリは取れるが普通のもの)。
他にウナギ、ホタテ、イカ、牛肉などもあり、目玉品以外に選ぶものが見当たらない安宿のバイキングとは違って、あれこれ選んで満足できる。

実はプラス1000円で飲み放題のプランがあり、夕食時にがぶ飲みする習慣がないので今回は遠慮したが、夕食後に仕事しなくていい機会を得たら、この宿での食べ放題+飲み放題を堪能したい
(安宿チェーンの”伊東園”は標準がこのプランだが、中身が違う)。

もうひとつ目的があって、それは新規購入したパナソニックのハイエンド・コンパクトデジカメLUMIX DMC-LX100の試し撮り(一眼>ミラーレス>ハイエンド>安物)。
このカメラ、ズーム倍率は小さいものの、 一眼並みのセンサーを搭載し、4Kの動画と静止画が撮れる(もちろんRAWも。GPSが無いのが残念)。

今まで使っていた同社のF200(ズーム倍率の高さが売り)のレンズ内にゴミが再び入ったので、そして日常携帯するにはかさばるため、遠景を拡大する必要がない場合用に購入した。
もっとも、ユーザー評によると、このカメラもゴミが入るという(パナの欠点らしい)。 

このカメラを気に入ったのには、マニュアル操作が豊富な点がある。
高校の写真部出身でフィルムカメラをいじっていた身としては、マニュアル操作がまったく不要なデジタルカメラの出現に、カメラを楽しむ時代が終ったと思ったのだが、
このカメラは、昔のマニュアルカメラのようにあちこちに手動の操作ダイヤルがついていて、絞り(さらに絞り補正)とシャッタースビードとホワイトバランスを自分で簡単にしかもきめ細かく設定できるのがいい(ピント調整はオートで素早い方がいいが、マニュアルも必要)。

もちろん、モニタは液晶よりも、昔風の片目で見る(ライブビュー)ファインダーを使う。
それに、デジカメに本来不要なシャッター音機能がついていて、もちろんその機能をONにしているのが我ながらおかしい。
結局、昔のフィルムカメラがカメラとして”完成形”に到達していた証拠だ。
そのプロトタイプであるLeicaのカメラが憧れなので、こうして”なんちゃってLeica”のLUMIXを選んでしまう。 

カメラは嫌いではないが、私はでかい本体と複数の重い交換レンズを持ち歩く気はないので、今後もハイエンド・コンパクトデジカメに留まるつもりだ。


電気製品の非稼働時の電磁波チェック

2016年06月11日 | 計測

家の電気製品は、電源を入れて使っていれば、電磁波を発生するものだが、
モノによっては、電源を入れていなくても、コンセントに挿し込んでいるだけで本体から電磁波を発生させている(機器の外に漏れている)場合がある。

わが名古屋宅でみると、
まず稼働していないのに磁場が出ているのは、電子レンジ、洗濯機、電磁調理器のヒーターの真上、トイレ洗浄器。
電子レンジの値はけっこう高い(ただし、値は正確に測りにくいので例示しない)。
冷蔵庫はもちろん稼働中なので、モーターのある後ろ側から出ている。 
電子レンジはスイッチを入れるとさらに10倍ほど高くなる(スイッチボタン近くが高い)。
なので、使用中は近くにいない方がいい(中で照射されているマイクロ波は目にもよくない)。

電磁調理器もスイッチを入れると、出力に比例してとどんどん高くなるので、私はできるだけ小出力で使っている(使用中は距離をとれないので)。
トイレ洗浄器は操作パネルの本体部分から出ているのだが、近いので座面にまで達している。 

稼働していないのに電場が出ているのは、電子レンジ、洗濯機、扇風機、多機能プリンタ、珈琲メーカー、トイレ洗浄器、そして玄関用のインターホン(カメラ付き)である。
冷蔵庫の電場は前の扉側から出ている。
パソコンに繋げて使っている液晶モニタはけっこう遠く(手元)まで届いているので、私の手は電場にさらされていることになる(値は低い)。

いいかえると、それ以外の電気製品とは距離があるので、それらの電場の外になっている(普通は30cmも離れれば0になる)。 
機器だけでなく、プラグが挿し込んであるコンセントからも電場が出ているので、身体を遠ざけるにこしたことはない。  

ちなみにエアコンは、稼働していなければ電場・磁場ともに0。
稼働すると、室内機底面中央付近からわずかに磁場が出る程度
(もちろん本体でなく、コンセント部から電場は出ている)。
消費電力が高い割に優秀だ(室外機からも出ていない)。 


電磁波の身体的感度の確認

2016年06月09日 | 計測

いわゆる「電磁波過敏症」といわれる人たちは、他の人ではなんでもない電磁波に身体的に反応してしまう。

外的刺激に対する感度の個人差は、アレルギー反応がそうであるように、紫外線(実はこれも電磁波)やアルコール飲料、あるい気象病のような気圧変化においても見られるわけで、ありうることである。

ただ、電磁波という物理的力が(アレルギー反応のように)直接身体に影響しているのか、それとも心理過程を媒介しているのかはきちんと区別しなくてはならない。

これを区別するには、電磁波が発生していてその認識がない場合でも身体が反応するかどうかである。

認識の有無で身体反応が変わるなら、実は心理的暗示(placebo)反応である可能性が高い。

電磁波に対して事前に恐怖心(あるは期待感)もっていると、それだけで暗示反応が起こりやすいのである。

そして純粋に電磁波による身体反応であるといえる場合、より詳細な検討段階に入る。

まず、身体が反応するのは、電場に対してか磁場に対してか、たとえば磁気装置など磁場だけが強い場合はどうか。

電場は身体に対して熱作用しか認められないので、他の反応があるとすればおそらく磁場である。

では反応をもたらす電磁波(磁場)は交流か直流(地磁気)か。

地磁気なら、緯度に相関しているので、地球規模での南北移動(あるいは客観的に磁場が変動している”パワースポット”)によって反応が変化しうる。

交流なら反応をもたらす周波数帯域を絞る必要がある。
家電製品なら取説で周波数帯が確認できる場合がある。 
そうでないなら、低周波用・高周波用など計測帯域が異なる測定器で測り比べる。 
たいていの民生用電磁波測定器(電場と磁場の両方を測る)は 、家電の周波数帯(電子レンジのマイクロ波を含む)を覆っているので、それで何とかなるだろう。

ちなみに私個人は磁気ネックレスの愛用者で、ギリシャ時代から認められている磁場の血行促進効果を堪能している。


帽子をやめる季節

2016年06月06日 | 歳時

これからの季節、帽子内環境は悪化の一路をたどる。
私はもう限界だ。

高温多湿な帽子内環境は頭髪にも悪影響を与えそうで、帽子をかぶると禿げやすくなるかを確認する研究がスタートするという。

私は、これからの季節は帽子をかぶらない。

”日傘”の季節になる。
日陰を持ち歩くのだ。
日傘は頭髪を悪環境にしないだけでない。
頭髪を含む上半身を強い日射による加熱から救う。
そして、最近始めた紫外線計測で確認されたように、視野に空があると太陽の直達に次ぐ量の紫外線が目に入る。
帽子よりもずっと幅の広い日傘は、視野から空を除外してくれる。
紫外線は白内障の原因の1つなので、この対策は若いうちからやっておいた方がよい。


伊良湖で大アサリ

2016年06月05日 | 

毎年今ごろになると無性に大(オオ)アサリが食べたくなって、渥美半島の先端部にある休暇村伊良湖に泊まる。

ここの夕食バイキングに地元の大アサリが出るからだ。
大アサリはハマグリよりも大きいアサリで、薄いたれをつけて開いた貝殻ごと炭火で焼く。
三河湾の名物で、他の地域ではお目にかからない。 

だが、それが食せる渥美半島の先端の伊良湖は、陸路では愛知東端の豊橋まで行って大回りしなくてはならない(路線バスで豊橋から90分)。

そこで、知多半島の中ほどにある河和から、高速フェリーで知多湾(三河湾の西半分)を縦断する海路が便利だし、旅としても面白い。
これを利用すれば、伊良湖に行くのが億劫でなくなる。

そして、待望の大アサリ。
もちろんバイキングなので、地元の他の魚介類や野菜もいただく(タコやトウモロコシもおいしい)。
席を立って新しい料理を皿に盛るたびに、大アサリを焼いている所にもらいに行く。
結局、5皿(貝としては10枚)食べた。
これで一年はもつ。 

若い時は、バイキングでは食い意地を張って満腹を越える状態までもっていってかえって苦しんだものだが、
今では、満腹の95%に抑えて終る。
さらに摂取カロリーを抑えるため、炭水化物(ご飯類)と糖分(スイーツ、果物)は極力摂らず、また揚物も遠慮気味にし、肉と野菜に終始する(根菜は摂る)。

この宿は温泉ではないが、人工の炭酸風呂がもうひとつの楽しみになっている。

ただ、周囲の観光は一度やれば十分で、他の昼間すごす場所がないので(伊良湖岬の恋路ヶ浜でひとり波と戯れるのもむなしい)、1泊で充分だ※。

※伊良湖水道の向こう側の神島に往復するなら2泊してもいいが、神島には鳥羽側から行きたい。


七歳児のサバイバル能力!

2016年06月03日 | 防災・安全

行方不明から一週間後に発見された七歳の大和君。

当日のモーニングショーでは、通常の行方不明事件でなく別種の事件性を示唆して次のコーナーに移ったところで、無事発見の報が入った。

私自身の推測は、父から2度目の置き去り措置を受けてヤケになって(父を心配させてやろうと思って)、わざと隠れるように道なき道に入りこみ、迷子になって、低体温症で衰弱してしまっているというものだった。
一週間なら水さえあれば生命は維持できる。
険しい山地ではなく、おだやかな山裾なので、転落・溺死・凍死などの遭難死は、7歳といえどもなさそうだった。

結局その日の晩に自衛隊演習場の廠舎に入り込み、水だけで一週間生きた。
その間の雨天や寒気が気になっていたが、その危機を回避できていたのだ。

置き去りにされた場所から自衛隊演習場までの森の中の林道を、国土地理院の地形図でたどると五差路になっていて、そこを航空写真で見ると一番太い道が駒ヶ岳に向っている。
大和君は賢明なことに、道なりには行かず、山から下る細い道を選んだことになる。
山の中の林道なので、真っ暗で人の気配がまったくない。
心細くて泣きながら歩いたのではないか。
運良く演習場に達し、部外者立ち入り禁止の中に入れたのも、今までの林道とほとんど変わらない演習場内の広大な敷地をさ迷い、鍵がかかってなかった廠舎に入れたのも、山を下る方向をきちんとたどった行動力のおかげだ。  

結局、体力を無駄に消耗することなく、また厳しい天候の影響からも免れて、生命力を維持できた。
人工的施設の中だったから、精神的にも不安定にならなかったろう。

とにかく、この子のサバイバル能力に感嘆した。

私はもともと、漂流譚(特に無人島)が好きで、それらを読むと、人間はたった一人で絶望的な環境に陥っても、生の本能さえあれば、たくましく生き抜くことができるという実話に、勇気を与えられてきた。

生と死の紙一重の境界線内に踏みとどまっていれば、このように七歳児でも生き抜くことができるのだ。


道路からの反射紫外線量を測る

2016年06月01日 | 計測

”計測マン”の進化は留まることをしらない

今回、紫外線量を直接計る計器が追加された。
今までは気象の定点観測としてのUV計とやはり携帯のUV計しかなかったが、
そのUVIndex計算の元となる物理量としての紫外線量(測定帯域250-390nm)が測れることとなった(単位はmW/cm2)。

計器はマザーツール社のSP-2UV。
上の帯域は UV-A(320-400),UV-B(290-320)を網羅している。

世間では、紫外線は太陽からの直射だけでなく、雲や道路から浴びる量も無視できないと言われている。
ただしこれを強調するのは、UVケア商品の販売と結びついている側なので、盲信しない方がよい
(水素の効果を喧伝するのが、水素水販売側であるのと同じ)。

そこで計測マンとして、それらが実際どのくらいの紫外線を放っているか定量的に確認してみる。

本日、12:30以降の外で測った。
当時の雲量は5程度で、晴れ間と青空があるが、巻雲と巻層雲もだいぶある状態で、日射は時たまさえぎられる。

まず太陽からの直達紫外線は、4.1mW/cm2(以下、同単位)。
この値は、経験上UVIndexとして読み替えることができ、「中程度」の評価に相当。

さてほぼ同時刻の太陽以外の空はおよそ3mW台(もちろん太陽方向に近いほど値が高く、とおいほど低い)。
これは紫外線の直達と大気への散乱の割合による。 
同じ空でも日陰で測ると0.5に減る。 
つまり直達がまったくない純粋な散乱量はこれぐらい。 

一方、足下のアスファルトの道路(日なた)では0.13。
白い壁面(垂直面)は0.11
ちなみに、車にかぶせた銀色の反射カバーは0.3 とやや高い。

ついでながら、UVカットの我が眼鏡のレンズを通すと、4あった太陽直達量が0.5に下がり、
0.13の地上の日なたの道路の反射は0になる。

以上から、われわれが浴びる紫外線量は、直達>散乱>反射 の順であり、
地上での反射は、強くても空の1/10以下であることがわかる。
ということは、直達紫外線を防御する以外には、
空全体からの散乱に留意すべきであって、地上からの反射はほとんど無視していい。
地上からの反射は、UVIndexに置き換えると1未満なので「安心して戸外ですごせる」レベルだからだ。 

むしろ皮膚に悪影響を与えないレベルの紫外線には、殺菌作用とビタミンD合成作用を期待したい
(すなわち、紫外線の完全遮へいはかえって体に悪い)。 

「紫外線が0でなく、少しでもあると危険」という発想は、定性的な善玉悪玉論であって(「マイナスイオン」発生器にも使われている論理)、科学(定量)的ではない。
”紫外線悪玉論”に洗脳され、”黒色”で紫外線を完全防御しているご婦人をときたま見かけるが(可視光による光線過敏症の防御と異なる)、”骨粗鬆症への道”を突き進んでいるとしか思えない。