今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

都知事選の結果

2016年07月31日 | 時事

本日から私も「夏休み」
18きっぷで6時間かけてゆっくり帰京(その間は貴重な読書時間)。 

帰宅したら、もう18時をまわっていたので、まずはなにをおいても近所の福祉会館に投票に行く。 

そして母と一日遅れの土用のうなぎを食べながら、午後8時のテレビの開票速報を待つ。

そしてテレビの時報が8時00秒を刻んだ途端、

小池百合子氏の「当確」が出た。

1秒どころか0.1秒の勝負。
これぞ”瞬殺”。

予想された結果だ。
これが私を含めた都民の判断。 

国会で過半数を取っている与党連合も、それに対抗するために結集した野党連合も、ともに鎧袖一触でぶっ飛ばされた。
議会じゃないんだから、知事に政党のバックなど不要。 
むしろその議会の闇(自民党都議団)に真に対抗する意気込みを示したのは小池氏だけ。 

まずは政党側の候補者が悪かった。

無党派層が多いのだから、それに首都の顔なのだから、やはり知名度は重要。
それなのに、与党候補は、応援する人たちも名前を覚えていないレベル。
さらにリーダーとしてのカリスマ性も必要で、
裏方ならまだしも、「東京の顔 」にふさわしいかというと…。

かといって単に知名度だけでもダメ。 
都知事選に出る必然性がないと…。
「反アベ」を全面に出すだけでは、都民としての判断基準にならない。
それに人物の身体検査を忘れないように。

かように敵失が多すぎたため、勝負としては物足りなかった。

前の記事にも書いたが、小池(自公)⇔蓮舫(野党連合)にだったら見ものだった。


都知事選の印象

2016年07月30日 | 時事

東京都知事選は、一騎打ち的な醍醐味を最もエキサイティングに味わえる選挙なので、こうして全国的な関心事にもなるわけで、
年間では東京よりは名古屋に多く住んでいる私が住民票を東京に置いたままにしてあるのも、このエキサイティングなゲームに参加したいためでもある。

さて、今回の都知事選は、マスコミでは3候補に焦点が当てられ、その意味では三つ巴の相をなしている印象を与えられている(それが本当かどうかは蓋を開けてみないと分らない)。

実際のテレビ番組を見ると、取材レベルでは3者に対等な時間を割いているが、スタジオのコメントなどでは”同僚”に対するひいきが見て取れる。
だが、こんなコメンテーターの影響力など、無視できるレベルなので、目くじらをたてる必要もあるまい。

この選挙は、そもそも前任者の法的ではなく”人間的セコさ”が原因になったのだから、はやり候補者自身の人間性が問われる。

実際、主要3候補レベルでは都政に関する政策は大同小異で、それへの実現力が問題になるのだ。

3候補の中の増田氏は、やり方によっては自民から共産までの支持を得ることが可能だった(与野党相乗りは、自治体の首長選では珍しくない)。
つまり、ほとんど無風で知事になれる可能性があった。
もちろん、国会で過半数を取っている自公の支持を得ている現在でも、本来なら最有力になっておかしくない。

ただ、岩手県知事としての実績?がまったく売りになっておらず、『東京消滅』の著者としてのアンチ東京(東京生まれのくせに)スタンスとの矛盾を払拭できない。

小池氏は大臣としての実績と背水の陣で臨んだ覚悟が、そして自民党都議会との対決姿勢を明確にだしたことが、最多層の無党派層にアピールできている。

鳥越氏は、そのロマンスグレーの言論人というスタンスで中高年女性の受けがよかったが、女性が忌避する性的スキャンダルにさらされた(テレビ・新聞では報道が抑えられているが)。

選挙公報以上の情報量がない大手メディアではなく、タブロイド紙、週刊誌やネット情報を加味すると、この選挙戦で評価が変動した候補やその周辺の人たちは以下のよう。

宇都宮氏↑↑:けじめをきちんとした清廉さを堅持するスタンスは尊敬に値する。今さらながら候補を降りたのが残念。

蓮舫氏↑:情勢を観る目、感度の良さは抜群。応援要員ではもったいない。

小池氏↑:個人攻撃を受けてもそれをかわす度量に器の大きさを感じる。日本を背負える女性になりつつある。

石原父子↓:狭量なしめつけ、「厚化粧」攻撃の下品さ。そもそも推す候補者の名前を間違えるなんて(w)。対立側から「敵失」と評価されるだろう。

今回、エキサイティング度からいえば、理想の組合せは、小池氏(自公)⇔蓮舫氏(野党共闘)だった。
どっちが勝っても女性都知事の出現ということは、まさに2016年的だ。

それが現実には、異なる組合せになってしまって、それぞれが弱さを抱えてしまったのが残念だ。

私は明日18きっぷでゆっくり帰京し、締切ギリギリに投票する予定。  

 


干支を一巡

2016年07月29日 | 雑感

温泉から戻ると、仕事たちが手ぐすね引いて待ちかまえていた。
リフレッシュした元気を糧に、それらを必死にさばいて、とりあえず前期の最終日を迎えた。

懸案事項をできるだけこなして、後は締切まで余裕のある成績つけや報告書だけを残すようにした。

なのでもう頭はフラフラ。

そんな今日が、干支を一巡した 自分の生誕日。
干支の一巡は、その思想によれば、生命の一巡を意味する。
人生の後半どころか、終焉を意味している。
なので、一巡したら赤児としての再生の儀式をしたものだった。

実際には、歳をとれば時間を短く感じてしまうこともあり、
「これまで長く生きたなぁ」という実感はまったくない。
むしろいまだ若輩レベルに留まっている感がある。

でも、確かに身体は老化が進んでいる。
一昨年は白内障の手術をし、昨年は顔のシミのレーザー治療をした。
眼鏡は老眼対応だし、難聴も進んでいる。
膝の痛みで下山ができない。 
ただし、これら部分的老化は、上に示したようにテクノロジーで対応できる。
すなわち、私の右目の人工水晶体は赤児レベルの新品だし、皮膚の再生機能を使えば、表皮の老化も局部的にはリセットできる。 

ようするに、身体は経年劣化が進んできたのに、精神は若輩のまま。
これは良い意味での「若い」 ではなく、悪い意味での未熟性を意味している。

これだけ生きてきても、いまだにこの世に慣れず、馴染めない。
失敗や戸惑いが相変わらず多く、いくつになっても生きることの難しさを痛感している。

だからこそ、生きる(在る)ことを大切にしたい。
 生きるとは「在り続ける」という存在論的・時間的営為であり、 少なくとも「在り続けようとする」動機をもっている生物にとっては、在り続けることをヨソから否定される筋合いはない。

在る者はひたすら在り続けようとすればいいのである。
それが類い稀な現象である「在ること 」の体験なのだから。

かように、人生を達観する境地には全く至っていない。

精神の成熟がなかなか進まない者にとってはなおさら、在ることを味わうには、動物的寿命では短過ぎるくらいだ。
もちろん、同僚の幾人かが見舞われている”初老期うつ病”とは無縁な気質のせいでもある。

動物はエネルギー代謝が高いので、処理器官が酷使され劣化がすぐ訪れる。
私も人生の”終焉”ではまだないだろうが、後半の後半にさしかっていることは確かだ。 

動物より1,2桁寿命が長い樹木の生命力が羨ましい。
一生身動きができないのは辛そうだけど。 


殺してもいいという論理

2016年07月27日 | 時事

私が「障害を持った者は殺してもいい」という恐ろしい論理に出くわしたのは、幼い時に見たテレビ番組だった。

それは”野生の王国”のようなアフリカの野生動物のドキュメンタリーで、
何らかの事情で捉え損ねて傷つけて苦しんでいるヒョウ(だったか、とにかくネコ科の肉食獣)を、躊躇無く撃ち殺したのだ。

テレビの説明では、このように傷ついた野生動物は苦しんでいるので、殺した方がその動物のためになるのだと。
いわば”安楽死”の論理だ。

幼な心にまったく納得できなかった。
死んだ方がいいかどうかをアカの他人が決める身勝手さに。

でもこの論理は、それなりに大手を振っていたようで、その後も接していった。

論理は人の行動の正当性を保証する。
論理に取り憑かれると、人はとんでもないことでも”正しい”と信じて躊躇無く実行する。
その論理からみて正しくない者は、絶対悪であるから殺してもいいという結論を導く。

この実行者(無差別殺人者)は昔から、そして今でも青年男性に多い。
男性でも、より成熟すると、論理の呪縛から脱することができるようだ。


鉱物博物館とゲーム

2016年07月24日 | 

定宿での二日目、日曜ということもあり、あえて仕事をせずに一日を過す。

まずは中津川市の鉱物博物館まで広域農道を飛ばして、企画展「美濃焼・瀬戸物と花崗岩」を見に行く。
隣接する美濃と瀬戸は日本を代表する陶器の産地だが、それを可能にしたのは、東濃から瀬戸にかけて分布する「苗木-上松花崗岩」なのだ。
この花崗岩が、断層によってできた盆地(瑞浪、多治見、瀬戸、猿投山周辺)で破砕されて風化物が堆積して陶土(粘土)層を形成したという。
つまり花崗岩の岩盤に活断層の破壊エネルギーが加わった結果だ。
なにしろこのへんには阿寺断層、屏風山断層、猿投断層が続いている。

また花崗岩は私が好きな”放射能泉”をもたらす。
すなわち、花崗岩の成分である長石がカリウム40という放射性物質を含んでいるからだ。
ちなみにこのカリウム40はわれわれの筋肉にも存在している(内部被曝し続けている)。

そして花崗岩は水晶やトパーズの宝石をもたらす。
博物館前で、水晶拾いの場があったのでトラ
イしてみた。
実際、博物館の裏手にある鎮野峠は水晶が出るという。
ただ六角柱のきれな結晶は見つけられず、紫水晶(アメジスト)の結晶を含んだ石英を拾って満足した。

次に、再開した道の駅「きりら坂下」に行く。
東濃最奥の坂下は蕎麦の産地で、ここの道の駅でその蕎麦を食べるを毎回の楽しみにしていたのだが、前回行ったら閉店となってガッカリしていた。
再開とあって、 再び「かき揚げざるそば」を賞味。
正直、今の私にはカロリーオーバーなのだが、半年に一度程度なので、太りはしないだろう。
応援をこめて売店で買物もする。

宿に戻ったものの、意地でも仕事をしないで、iPadでゲームをする。
といってもポケモンGOではなく、昔パソコンで遊びまくった「DOOM」。
私はこのDOOMシリーズ以外には熱中できない。
ただ、この手のゲームって次々と先のステージに行ってやり続けてしまうのだが、いざ熱中してやり終えた後の、疲れだけが残った空しさは今回も同じだった。
ゲームの後の空しさは、それが自分の現実生活になんら関係がない(いくら敵を倒しても現実は何も好転していない) から、というだけではない。
なぜなら、小説や映画、美術鑑賞だって、その点は同じだから。
ゲームは熱中し、興奮し、それなりの達成感もある。
だが、敵を倒すことの延々とした繰返しで、心にしみる感動がない。 
すなわち「経験」としての価値がないのだ。
芸術作品にふれる経験は、日常経験以上の価値がある。
そういう価値のないゲームは、純然たる時間潰しでしかない。 

そして、仕事に熱中した後と同等かそれ以上の神経疲労だけが確実に残る。
同じ疲労するんだったら、仕事していた方がよっぼど意義があったと思ってしまう。
これこそゲームが本質的に持っている”無意味さ”だ。 
それでいて、しばらく触っていないと、またやりたくなってしまう。
その世界に入り込むことは快感なのだ。
せめてもの救いは、私にとってそうさせるゲームは1種類しかない点だ。 


前期授業終了

2016年07月22日 | お仕事

今日で前期の授業が終わり。
残すは来週の試験週間のみ。

そして9月卒業予定の4年生の卒論も今日が提出締め日で、なんとか間に合った。
直前の数日間は、この指導を最優先した。
また大学院生の修論中間発表も終えた。

ということで、大詰めの予定がバタバタとこなされ、一気に気分が楽になった。

もちろん、仕事(業務)は次々と舞い込んでくる。 
それを次々に片づけていき、そのあい間を縫って本当の仕事(研究)にいそしまねばならない。

学期中はもちろん業務最優先だが、それが次々終わるので、
明日からは気分転換(リフレッシュ)の温泉旅行!

といっても旅行中も業務を処理するが…、パソコンを持って行けば、宿で仕事を進められるのがいい。
今では事務作業は場所に束縛されずに処理できるのがありがたい(捺印は別)。 


実測による紫外線対策

2016年07月20日 | お天気

いよいよ梅雨明け。
夏の日差しが強い。
なので外出時は紫外線計(マザーツール社の
SP-2UV)を携帯して、紫外線量(測定帯域250-390nm)を測っている

それでわかるのは、日なたにいると、太陽だけでなく空全体に拡がった紫外線を浴びるが、日陰に入ると、太陽なしの空からの散乱量は激減すること。
ましてや地上の道路からの反射は(日なたであっても)微々たるもの。

つまり、日なたにいるときは太陽からの直達以外に空全体からの紫外線を防御する必要があり、できるだけ日陰を選んで歩こう。 
日なたでは日傘がベストである。
視野から空が見えないように深めに差すとよい。
地上からの反射は無視していいレベルなので、日傘で充分(紫外線恐怖症的に完全防御をしている女性は骨粗鬆症を招いてしまうよ)。

それと、日本のほぼ中央である名古屋では、紫外線量は正午まえの11:30がピークとなる放物線状の変化をするので、午前と午後では次のような等価関係になる。
11時=12時
10時=13時
9時=14時
8時=15時
7時=16時

爽やかな朝の紫外線量と午後のうだる暑さの紫外線量が等しいのだ。
早起きが苦手な人の屋外活動は16時以降がお勧め(夏だとしばらく明るい)。
夏の夕方は気温が30℃を超えたままで、西日が強いが、実は紫外線量は日中に比べれば激減しているのだ(本日の日進では、日中のUVindexは8、午後四時では1.7)。
なので日傘男の私も、夕方は太陽光からの防熱だけが目的となる。


錯覚経験

2016年07月13日 | 心理学

宿での明け方、壁に目をやると、クワガタ虫ほどの大きな虫が壁に止っているのが見えた。

長い足を動かして、ゆっくり移動している。

窓は閉め切っていたのに、どこから侵入してきたのか。

壁に停まっているままならいいが、こちらに飛んできたらいやだなと思いながら、また眠りについた。

そしてまた目が覚め、壁に目をやると、あいかわらずその虫が足を動かして移動しているのを見た。

やっと起床して、壁に近づいてよくみると、虫に見えていたのは、絵を懸けるフックだった。

それが虫の胴体に見えたのだ。

だから、足に相当する部分は本来存在しない。

見たモノを一旦虫と認めると、長い足が見え、足を動かして虫が移動しているように見えたのだ。

存在しないモノが見え、しかもそれが動いて見える。

虫だという思い込みが脳内のトップダウン処理によって、虚構の視覚が構成される…。

これほどリアルな錯覚経験ははじめてだ。

 

湯の山行き:鎌ヶ岳

2016年07月11日 | 山歩き

二週連続の日曜出勤の慰労として、近場の”湯の山温泉”(三重県)に一泊した。

正確には湯の山温泉のちょっと麓側の”新湯の山温泉”で、ここにある「ウェルネス鈴鹿路」という宿は、ビジホにちょい足しくらいの料金で、もちろん温泉で二食付き(鍋も出る)で泊まれ、しかも名古屋から近く、車でも公共交通でも便利なので重宝している(部屋はシングル、トイレは洗浄器付き)。

二週連続近場の往復だけに使っていたわが赤チンクにも気分転換に高速で遠出をさせてやりたかった。
燃費がリアルタイムで表示されるので、アクセルに足を載せるだけの(踏まない)定速状態だとリッター50kmが表示されて気分がいい(これが信号だらけの街中だと10kmに落ちる)。

さて、折角鈴鹿山脈の麓の温泉に行くので、久々に山にも登ろう。
といっても下りができない脚なので、稜線の武平峠直下まで車で行って、そこから軽く往復する。

目指すは鈴鹿の槍ケ岳と言われる鎌ヶ岳(1161m)。

標高700mが限度の私(の脚)だが、車で800mまで上がるので、標高差は350m。
これなら大丈夫だろう。

行程は短いが、遭難者が出ている険しい山なので装備はきちんとする。

さて、峠下の滋賀県側の広場に車を停め、リュックと登山靴に換えて出発。
登り口に行方不明者の顔写真入りの情報をもとめる看板が立っていた。
そう、標高差はないが決して侮ってはいけない。 

人間や動物は人を殺す意思をもってはじめて人を殺せる。
ところが自然はそんな意思がなくても簡単に人を殺せる。
人間が自然の領域に足を踏み入れるなら、自然の気まぐれ(単なる物理法則)に対処しなくてはならないのだ。 

鎌ヶ岳は風化した花崗岩の山なので、山腹は花崗岩が砂状になったザレ場が続く(写真)。
最後の岩場の直登ルートは滑落の危険があるので、単独行としては慎重に迂回路を選ぶ。

1時間弱で山頂に着いた。
車を停めた所にあった案内図ではコースタイムが90分とあったので、登りの脚力は健在。 

日焼け防止用に頭を入れる側面が網状になった山用の帽子(LLビーン)をかぶってきたが、これはまったく蒸れず、休憩時におあえて帽子をぬぐ必要も感じないほどだ(涼しい風が帽子の中を素通りするから)。
やはり山には山用の帽子なんだな(さすがに山では日傘は無理)。

夏の日中であっても天気がいいので、展望は360°。
眼下に四日市の町並みが拡がり、その向こうの伊勢湾、知多半島と続く。
下界で買ったおにぎりを食べ、往路を戻る。

距離が短いおかげだろう、いつもなら痛む左膝はなんともない。
ただ左足の親指の爪が圧迫されすぎて痛んでしまった。
靴のせいだ(その後、その爪全体がはがれてしまった)。

ちょうどいい運動となり、しかもちょうどチェックインの時間に宿に着いた。
山も宿も平日なので空いている。

のんびり湯につかり、つかぬまのリフレッシュ。
明日は午後から延々と続く会議に間に合わせて帰る。 


参院選の結果に思う

2016年07月11日 | 時事

昔から、国政選挙の結果が自民圧勝の時は失望感に見舞われた。
若い時は反自民だったから、そうなって当然だが、自身が保守化した今でもそうなってしまうのはなぜか。

「何かが変わる」という期待感がなくなったせいなのか。

ただ、マスコミのいう「改憲勢力」が2/3に達したということは、むしろこの結果の方が「何かが変わる」と思っていいかもしれない。
法律は時代に合わせて常に進化すべきと思っている私だから、改憲は原理的にいつでも賛成である(法律は自然法則や宗教原理ではなく、人工的・権力的な制度にすぎない。「法律なんていつでも変えてやる!」という気概こそ、われわれ主権者が持つべき態度なのだ)。 

参院選の結果で印象に残ったのは、今回から選挙権を得た18歳の若者たちの投票先。
私がその年頃にまだ勢力のあった左翼思想は、前世紀の遺物であることがここでもはっきりした。
そして自民党に代わる、政権担当を期待できる党がないということも若者たちは判っているようだ。
そして、これこそが日本の政治の不幸でもある。

この責任は”野党のボス”という旧社会党の位置に甘んじている民進党にある。
民進党は国民の多数派である自民支持者を取り込まなくては(自民党よりいいと判断されなくては)責任政党になれない。
反自民ではなく、超自民にならなくては…自民出身者が多いのだから可能なはず。

そういうわけで、私自身は自民党以外の保守政党に期待したのだが、議席に結びつかなかった。

が、これに失望感はない。
自分の一票を”死に票”にしないがために動くことの方が自分を偽ることになるから。


七夕は女性が主役

2016年07月06日 | 歳時

明治政府が廃止してしまった、日本の重要な年中行事であった”五節句”の1つ、七夕(しちせき)の節句は、棚機津女(たなばたつめ)が主人公である。

つまり機織(はたおり)の女性が自分の技能向上を、織女(琴座のヴェガ)に祈るのである。
七夕飾りは、その願い事を飾るもの。
なので”乞巧奠”(きこうてん)ともいう。 

もちろんついでに、夜空を見上げて、夫の牽牛(わし座のアルタイル)との天の川をはんさんでの年に一度の逢瀬を応援する。
だから恋愛成就もこっそり祈っていい。

そもそも機織とは、女性が現金収入を得る第1の技能であって、
わが勤務先の女子大学が明治期に裁縫学校としてスタートしたのも、女性の経済的自立を支援するためだった。
今で言う、キャリア教育である。

七夕の夜は素麺(冷や麦を含む)食べるというのが伝統である。

白く細い素麺が機織の糸を模しているからだろう。
そして五色の糸を交えるように、冷や麦には赤や黄色や緑の麺が混じっている。

ただし、盛夏の夏バテ時のように、麺とつゆだけではつまらない。

ここは、季節の野菜などを天ぷらにして、好きな具材をふんだんに盛り込んだ豪勢な素麺パーティとしよう(ビールも旨い!)。

本来なら、夏の星空(今なら丁度蛍の季節)を眺めながら食べたいが、新暦では梅雨空なのでそれはかないにくい。

でもこのように、七夕は盛り上がる要素を含んでいるので、五節句復活委員会としては、みんなで盛り上げて行きたい。 


テロリストになる知性

2016年07月05日 | 時事

今回のダッカのテロリストたちも、それなりに裕福で学歴もちゃんとしていた。

そういえば、かつてのオウム真理教や極左過激派のテロリストも、遡って帝政ロシア末期のテロリスト、あるいは幕末に”攘夷”を叫んだテロリストたちも、生活と知性に余裕がある者たちだった(共通している属性は”青年男子”である点)。
彼らの暴力を個人的な欲求不満で説明しようとするには無理がある。
欲求不満だけなら、はるかに強い人たちがわんさかいる。

彼らは思想の先兵になっている。
その思想の価値観に反した者の存在を許せないのである。
彼らの倫理基準では、殺すに値する者なのである。

彼らの生活上のそして知的な”余裕”こそが、パタン化された行動様式すなわち”システム1”であくせく日々を送らずに、リアルな生活から自立(遊離)した思考(システム2)を可能とする。
ただし思考は思考の連鎖の中に深く入り込ませ、言語固有のカテゴリ性(悉無律)によって論理運用が単純化され、極端な結論を導く傾向をもつ。
これがシステム2の妄想的思考だ。

彼らの才ある頭脳は、論理の恣意的な連鎖でしかない思考に弄ばれていく。
この思考は価値観を備えた”思想”となって、倫理観をも支配する。
自分の知性に自信がある者は、知的作業であるこの思考をこそ自らの指針とする。
このようなシステム2(思想)に殉じることが人間の最高位の心の営みであると思われてきたのだ。

それが間違いであることが、最近ようやく学問的に表現できるようになってきた(もっとも分かりやすいのは、認知行動療法が指摘する「認知・思考の歪み」)。
私はそれを「システム3」と名づけている(本ブログでも過去に言及しており、ググれば検索できる)。
システム2を超克できるシステム3は現生人類がすでに獲得している潜在能力なのだが、
残念ながら、発現には特殊な訓練を要するため、日常生活や学校では身につかない(現生人類にはちと早過ぎる能力ということか)。

人類はしばらくはシステム2の暴走に振り回させるだろう。


テロ被害のリスクを下げるには

2016年07月03日 | 防災・安全

ダッカのテロ攻撃は日本人が(非イスラームの)外国人であるがゆえの被害だ。
実際、南アジアだけでなく、トルコや北アフリカ、ヨーロッパ内部でも起こっている。

このような外国人に対する無差別殺戮に対して、被害のリスクを低めるにはどうすればいいのか。

無差別テロの対象は誰でもいいので、自分が狙われているわけではない。
ならば被害に遭うリスクを低くすることは可能なはずだ。 

そこで、国際政治アナリストである菅原出(イズル)氏の助言を紹介する(ニッポン放送の「ザ・ボイス」の6/29日ポッドキャスト配信より)。

●不特定の人が出入りする空間(空港や駐車場のゲート、ホテルのロビー)には長居しない。

●レストランも一階ではなく、できるだけ侵入しにくい階上の店を利用すること。

●道路に面したレストランの場合は、道に面したテラス席や窓際の席を避けること。

これが事件が起きる三日前の警告だ。

今回のレストランも、テラス席を含む入口に近い席の人たちが犠牲になった。
そして無事に避難できた人たちは階上ルートを利用した。

更にこれは同番組での青山繁晴氏の助言だが、最低限、刃物から身を守れる物(堅い鞄など)を常時携帯すべきである。


名古屋でもルノワール

2016年07月02日 | 名古屋周辺

二週続けて日曜に仕事があるので(教員は休日手当ては出ない)、週末も名古屋ですごす。

布団干しを済ませて、久々に都心に赴く。
名古屋の都心といえば、栄、伏見、名駅 のラインが中心だが、それとは別に、名駅に次ぐ交通の要所である金山も都心の仲間入りをしている。

その金山の駅前のビルに「名古屋ボストン美術館」が入っている。
そこで開催されている「ルノワールの時代:近代ヨーロッパの光と影」を見に行った。

東京の新国立美術館で見に行った「ルノワール展」に触発されたためである。

こちらで見たかったのは、彼のダンス三部作の一つ(他の二つは東京で見た)「ブージヴァルのダンス」(右)。

私がルノワールに出会ったのがこの作品だった。

絵画にたいした興味をもっていなかった学生時代、デートでなんのはずみか西洋美術史を一覧できる美術展に行った(新宿の伊勢丹美術館だったような…)。 

つまり美術史の順で代表的な作品が並んでいるのだ。

ルネサンス絵画を過ぎ、画面に一ヶ所だけ光が当たっているような、宗教や神話の一場面や権力者の肖像ばかりの(色も題材も重たい)、まさにフレスコ画というにふさわしい重厚なバロック絵画などを見つづけたあと、
次の展示室に移動したら、いきなり、黄色と赤のかぶり物をした農民の男女が楽しそうに踊っているこの絵に出くわし、ど肝を抜かれた。

色使いも題材もまったく新しい。
バッハの宗教音楽をしばらく聴き続けた後にモーツァルトを聴いた時のような、「人間世界に帰ってきた!」という喜びに近い。

ルノワールの描く女性は、丸顔ぎみで愛らしく、目が黒いので日本女性としても違和感がない。
今回一緒に展示してあった「ガンジー島の海辺の子供たち」に描かれている女性もそうだ。 

それに彼の描く女性のふっくらした腕が好きなのだが、彼の絵を見た彫刻家のロダンも同意見だっということも知った。
造形的にいいらしい。

ちなみに、ここでのルノワールの絵画は3点ほど。

ミュージアムショップでいつものように絵はがきを求めた中、浮き出る絵になっている「ムーラン・ド・ラ・ギャッレットの舞踏会」 があったので迷わず購入(ドイツ製)。
あの雑踏が立体になっている!