5回目のワクチン接種をした翌朝、床の中で全身の節々の痛さを感じて、あれっと思ったが、起きると大丈夫だったので、予定通り、千葉は印旛沼の東岸(成田市宗吾)にある宗吾霊堂と麻賀多神社を訪れた。
宗吾霊堂とは、江戸時代初期の義民として有名な佐倉宗吾(本名・木内惣五郎。合わせて「佐倉惣五郎」として有名)の霊を祀る堂で、京成線の最寄り駅が「宗吾参道」となっている。
こういうローカルな史跡を巡ると、その地域の人たちが大切にしてきたものと出会えるのが新鮮だ。
駅からすぐ霊堂の門をくぐり、坂を登って宗吾霊堂と称している東勝寺(真言宗別格本山)の門前で蕎麦を食べ、山門をくぐると土産物屋が数軒並ぶ向かいに、宗吾と連座した4人の幼子たちの霊廟がある(写真:ちなみに境内の説明は「宗吾様」で統一)。
この寺は、元々は平安時代創建なのだが※、この寺の住職が宗吾たちの埋葬をした縁でここが彼らの霊堂となった。
※:なのでこの寺より後にできた成田山は”新勝寺”という。
宗吾が本尊である本堂に参拝し、住職の夢に出てきたという大黒天の御姿を買い(100円)、境内奥にある宗吾御一代記館に入る(700円)。
館内では、リアルな人形による宗吾の事績を13場面に分けて展示してある(音声解説付き)。
それによると、印旛郡佐倉藩の名主であった宗吾は、藩の苛政(暴政と重税)に苦しむ領民の一揆を抑える代わりに自分が藩に上訴を試みるが、受け入れてもらえなかったため、江戸に出て幕閣への駕籠訴に及ぶも、これも却下された。
最後の手段として将軍への直訴を決意するが、これは当時は許されない暴挙で、当人は磔刑、家族は打首と決められていた。
それを覚悟してでも直訴を敢行したい宗吾は、妻と離縁、幼い子どもたちを勘当し、上野寛永寺に参拝していた四代将軍家綱に直訴した。
将軍の後見役保科正之(初代会津藩主で名君)がこれを受取り、直訴は成功したが、この罪で宗吾は磔、そして幼い子ども4人も打首※となった(妻がこの中にいないのは離縁が認められたためか)。
※:当時でも15歳以下は死罪を免れるはずだが、本人の行為ではなく、連座制であったため罪が適用されたようだ。
宗吾とともに後ろ手に縛られてまさに”連座”している幼子4人の刑場場面の展示は、涙なしで見ることができない。
ここの展示の床には、見学者からの投げ銭が散らばっている(私も投げた)。
この命を賭した義挙により、佐倉藩は政治を改め、宗吾の霊を顕彰し、江戸藩邸内にも霊堂を建てた(ただし領民が宗吾を祀ることは禁止)。
さらにすでに他家に嫁いでいた宗吾の息女(そのため連座を免れた)が地元に戻ると、田高五石を供養田として与えたという。
ここを出て近くの宗吾の遺品・関係文書を展示する霊宝殿(写真)に入ると、わが胸につけていた”ばけたん霊石”が、にわかに青く光った。
この色は良い霊が現れたという合図だ(ばけたんは自動的に霊を探知している)。
こんな展示館の中で異なこと、と周囲を見渡したら、後ろに、線香・鈴(りん)があり、宗吾と子どもたちの位牌が祀られていた。
なるほど、宗吾とその子たちの浄化された霊が探知されたのか(かくもばけたんは信頼できる)。
ある意味、ここもパワースポットである。
線香を焚いて鈴を打ち、江戸時代の古い位牌に合掌した。
さらに展示によると佐倉藩主は宗吾が夢枕に出て苦しめられたようだ。
宗吾を顕彰したのも、良心の呵責だけでなく、除霊の意味もあったろう。
お寺を出て、麻賀多神社に向かう。
麻賀多神社は佐倉・成田地域に分布しているが、これから行く本社がパワースポットらしいのでついでに訪れたい。
霊堂から数キロ離れていて、バスの便はあるが数時間に1本なので歩くしかない。
Googleマップで徒歩ルートを検索すると、遠回りのルートしか出ないので、それを無視して最短路の国道を歩いてわかったことは、確かにこの車道は歩道スペースが無いので、徒歩向きではない。
麻賀多神社に着いて、東日本一という見事な大杉を詣でる。
テスラメータを取り出して地磁気を計測すると、大杉の周囲にある鉄の赤いガードの丸い上端部がかなり磁化している(特に写真の左側の鉄柱上端が強い。一方、右側の鉄柱は平常値)。
この神社内の天日津久(あまのひつく)神社※がパワースポットというが、そちらの磁気は正常だったので、大杉の方がパワーがあるかな。
※岡本天明という人がここで神がかりして『日月神示』(ひつくしんじ)を自動書したという(平藤喜久子監修・古川順弘著『秘められた神々』MdNより)。
神社のちょっと先に宗吾の旧宅があり、行ってみると、今でも人が住んでいる敷地内に古い家がある(江戸時代の造りではない)。
宗吾息女のご子孫のお宅かもしれない。
いずれにせよ、個人の宅地内なので遠慮ぎみに写真を撮った。
ここからはGoogleマップが示す徒歩ルートで駅を目指すが、途中で麻賀多神社奥社の道標があったので、寄り道した。
奥社には、印旛の国造・伊都許利命墓の墳墓があり、さっきほどではないがここにも大杉がある。
ここまでで、ばけたんが反応したのは霊宝殿内の一ヶ所。
近くの団地にバス停があるが時刻がわからないので、ここから駅まで50分の道のり(江川沿いの気分のいい道)を歩いた。