今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

2023年を易で占う

2022年12月31日 | パワー・スピリチュアル

易では冬至の日に翌年を占う(年筮)ので、私も毎年そうしているが、今年の冬至の日を失念してしまったので、大晦日の今日、年筮をやってみた。

ちなみに、昨年の年筮では、今年は「天水訟」と出たので、争いが起きると読んだ。
果たして2月にロシアのウクライナ侵略が発生したが、「訟」は戦争というより言い争いレベル。
もっとも我々日本人にとっては、戦争の当事者でないので、対岸の火事的ということか。

さて、来年の卦は「山沢損」と出たが、2・3・4爻が変爻なので「離為火」に変わる。
よって、来年の前半は「損」、後半は「離」とみなす。
損は、まさに損(目減り)することで、物価高(値上げ)や増税に見舞われるようだ。
だが後半になると、正しい選択(特に相手)をすれば運気が上昇して、活性化できそう。
前半は自重し、後半は上昇気流に乗るといい。

皆さんにとっても、来年は良い一年でありますように。


2022年を私的に振り返る

2022年12月30日 | 歳時

年末恒例の今(2022)年の振り返り。

まずは、時代(20世紀、昭和)を飾った物故者が印象に残る(石原慎太郎、安倍元首相、エリザベス女王、ゴルバチョフ元書記長、アントニオ猪木、ペレなど)。
また幼馴染の同年の従兄弟が急逝したのはショックだった。

失ったものの大きさに比べ、得たものの小ささが身に染みる。
書いた論文は1本だけ。
投薬効果で、コレステロール値が劇的に改善した( LDL↓、 HDL↑)のは嬉しい。

身体運動のための山歩きとなっていた山との関わりを改め、修験道を参考に心身の修行としての”峰入り”を志向することにした。
そうすることで高尾山ですら貴重な霊山(行場)となり、また腸脛靭帯の痛みも無くなった。
今年行った山は、高尾山・小仏城山・景信山(以上高尾山域)、御嶽山奥之院・高水三山(奥多摩)、丹沢大山、茶臼山・白鳥山(奥三河)で、このうち初めての山は白鳥山(968m)。

各自治体の”郷土博物館”が有意義な情報源(数時間費やせる)であることが分かり、旅の目的地として加わった。
特に県立博物館(千葉、神奈川)の充実ぶりを実感。

美仏を拝みに大阪のお寺(観心寺など)に行った。
名古屋からなら、京都・奈良・大阪は日帰り圏だ。

パワースポットでの計測(地磁気、静電位、霊気)も続け、磁気については計測だけでなく新たに消磁も行なうようになった。
定番の茶臼山カエル館の他に、百間の滝・大鹿村の”磁場坂”(これらはパワーなし)、鹿塩の奥のパワーを確認し、また東京都心の将門首塚の再計測でパワースポットであることを再確認した。

パワーに関して、顧問をしている易学研究会で初めて実技指導をし、さらに(これはブログに未記載だが)霊視(霊が見える)現象の探究の道が開かれた。
来年は、この霊視現象を研究の俎上に載せようと思っている。


年末の高水三山

2022年12月29日 | 山歩き

年も押し詰まった29日、正月準備もおおかた終えたので、
今年最後の山歩きとして奥多摩の高水三山縦走に行った。

三山縦走といっても標高700m台の奥多摩入門のコースで、
奥多摩よりグレードの低い高尾山域卒業後として行く山で、
中学の時に山を始めた私も中二の春に登っている。
そんな手軽な山だが、駅から(バスに乗らずに)直登できる手軽さがいいので、
ふらりと山に行きたい時に候補となる。

高水三山のうち、高水山は山上に寺、惣岳山は山頂に神社があるため、
例によって修行の”峰入り”として行く。
すなわち数珠を片腕に巻き、白鉢巻を額に巻き、ストックを錫杖代わりにして、
登るときは「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱え(富士講が採用しているこの懺悔文が呼吸と合わせやすい)
山上の寺社では真言を唱えるのだ。

青梅線が奥多摩の深い峡谷の入り口に達する軍畑(いくさばた)で降りる。
本来人気の山だが、押し詰まった時期の平日なので、降りた登山客は私の他に3名しかいない。
谷あいの道路を北上すると、不動三尊の珍しい石仏がある。
制吒迦迦童子の不敵な顔に高校の時以来注目している石仏で、通るたびに写真に収める(写真)。
峰入りなので道端の石仏・祠にも必ず立ち寄って拝む。

高水山(759m)の山上にある常福院(真言宗)は、
何やら大掃除の様子だが、波切不動を本尊としており、不動の真言を唱えて参拝し、梵鐘を静かに撞いた。

三山の中間にあり最高峰の岩茸石山(793m)だけは信仰と無縁だが、展望がよく、昼食で休むのに良い。
かような場所なので、数パーティが食事を楽しでいる。
冬の快晴のおかげで、東隣の高水山の向こうには都心の高層ビル群(スカイツリーも)が見え、
北東には常陸の筑波山、北には奥武蔵高原の奥に上州赤城山の白い頂が顔を出す。
かように奥多摩の山にしては展望が広い。
持参したおにぎり2つを食べて出発。

ここからの尾根道は以前は樹林帯だったが、今は東斜面の植林が伐採されて麓まで開けている。
都内の林業が維持されているのはいいことだ。

三山最後の惣岳山(756m)へは急斜面の岩崚を越える(観念を媒介せず自然の力と直接触れる山修行にふさわしい)。
樹木に囲まれた山頂には青渭神社の奥社があり、神仏習合派の私は、社殿に向かって光明真言を唱える。
あとは青梅線が走る多摩川に向かって下るのみ。
今回は御嶽駅に達する尾根通しではなく、青渭神社里宮のある沢井側に降りる。

惣岳山を仰ぐ青渭神社の里宮はそれなりに立派で、左(陽)側の狛犬が子連れだった(写真)。
山ではすれ違う登山者と挨拶を交わすが、里に降りれば地元の人と挨拶を交わす。
奥多摩の銘酒「澤乃井」の小澤酒造がある沢井駅に到着。

嬉しいことに、今回の下りでも腸脛靭帯はなんともなく、今年の後半からずっと調子いい。
帰宅したら、奥多摩の”美味い水”のような爽やかな酒「澤乃井」で一杯やろう。


卒論指導終了

2022年12月20日 | お仕事

本日は我が学部の卒論締日で、私の卒論指導生も全員無事に卒論を提出できた。

大学の教育業務で最大の負荷を乗り越えた。
なので帰宅して、ビールより格上の発泡ワインの栓を抜いて祝杯をあげた。

最大の負荷の理由は、10名以上の指導学生が個別にデータをとって分析し、それを学術論文形式に指導するのを一人で担当するから。

大学院生なら、こちらが方向づけをアドバイスするだけで、少なくとも分析は自分でやれる。
ところが大学生だと分析も結果の記述も指導も、手取り足取り指導しなくてはならない。
しかも各自内容が異なるので、一斉指導ではなく個別に指導となる。
最後は論文の添削に追われる。

言い換えれば、わが心理学科の学生は、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験をして、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業をこなして、はじめて卒論の単位が得られる。
理系の学部なら研究室でテーマを与えられ、実質共同研究の一部を担当すればいいし、文系の学部ならいくつかの文献を適当に(自分の思惑で)まとめればいい。

このような負荷の高い作業をなし終えて、それを卒業の証しとして社会に送り出すのだが、
社会人になると、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験として、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業とは逆の、簡単・簡略に A4の1ページにまとめることが要求される(物事をじっくり考えることが許されない)。

たぶん学生は卒業後、データ分析もこれほどの論文を書く機会も二度とないのではないか。

大学教育が世間のニーズに合っていないといわれるかもしれないが、高度な教育を必要としていない社会の方が将来が暗いのではないか。

大学教育では足りない!というのが、望ましい状態ではないのか。


将門塚のパワー再計測

2022年12月12日 | パワー・スピリチュアル

東京千代田区大手町にある将門(まさかど)の(首)塚は、以前(2012年)地磁気を測ったら、塚に近づくにつれて磁気の値が減少したと報告した(→記事)。
その後、塚が再整備され、計りやすくなったようなので、また当時は結構ビビっていて、正しく計測できなかったので、再計測に行った。

三井のビルに囲まれたそこは、以前よりも広々と整備され、また塚の前に「南無阿弥陀仏」という石碑が建っている(写真:南東下図③方向から)
平日の午前中というのに、参拝者が引も切らない。

早速、地磁気を測ろうとテスラメータのスイッチを入れたら、値が変動して落ち着かない。
近くの交差点に戻って、そこで計測しても変動するので、計測モードを交流にしてみたら0.9μTほどの強さで振動している。
普通屋外では(交流電気に伴う)交流磁気は計測されないが、周囲がビル街なので交流電気が強いようだ。
この地域のバックグラウンドとしての直流磁気としても50±3μT(以下、同単位)と高め。

さて再び、塚に赴き、まず敷地内のバックグラウンドとして、塚から西に離れた⑧(下図)は52。

次に石碑背後の石塔(埋まっているものの真上)周囲(石段の下の砂利に立って)を測定する(右図の①〜⑦。②と⑥の間にあるのが塚の上の石塔)。
整備前の前回は正面(⑧→④からの⑦-①面)以外の周囲には足を入れられなかった。
地磁気の計測は磁北極にセンサーを向けて(図の③→⑦方向)、緯度に等しい俯角に向ける必要がある。
なので周囲といっても、計測方向と塚中心部の位置が合うのは③のみで、⑤〜⑦は塚と反対側(図の上方向)にセンサーを向けなくてはならない。
各ポイントの計測結果を以下に示す。
①37,②35,③31、④31、⑤41、⑥45、⑦46

まず塚の周囲全体が、バックグラウンドたる⑧より低く、さらに塚の中心部にセンサーをむけている③とそれに近い④の値が最も低くなった。
やはり今回も、塚は異常に磁気が低いことが確認された(塚の外側でこれほど磁気が低いということは、塚の内部にあるのは強力な反磁性体か)。

次に霊気を測ろうと、首に下げた「ばけたん霊石」のスイッチを入れたが、つかない。
今朝はちゃんと室内の良い霊気を検知していたのに。

実は以前にも、ばけたんは強い霊気の場で反応がおかしくなったことがある→記事
ここの霊気が強すぎたのかもしれない。

霊気はともかく、物理的計測である磁気は異常値を示したのだから、改めてここをパワースポットと認定する(「パワースポット認定士」を自認する私としては、計測的根拠のない所はパワースポットと認めない)

将門塚を訪れた後は、将門を神と祀る神田明神に行って、将門の霊を敬したい。
神田明神は、あいにく境内の清掃中で落ち着かなかったが、社殿と大黒天像南側(写真:灯籠の左側)が31と低かった。
境内のバックグラウンドは42(この値は東京宅と同じでこちらが東京の標準値といえそう。将門塚周囲は値が高すぎる)。
ただ社殿のような建築物はあちこちに金属が使われているので、それらに近寄ると磁気値に変動を示すことが普通にある。
大黒天像(石像)は、将門塚に来ていた人から教えられたスポットで、見た目は心が動かされなかったが、測ってみると確かに異常値を示した(石像からは1m以上離れての計測)。


単身生活者2つの健康阻害要因

2022年12月11日 | 健康

先月2日に亡くなった私と同年の従兄弟の納骨に行ってきた。
急死だったので、改めて詳しい状況を聞くと、糖尿病が進行していて心臓の血管に異常がきていて(痛みの自覚症状があったらしい)、心臓の手術の際、すでに心臓の血管が詰まっていてカテーテルも入らなかったという。

もう一人のやはり同年の従兄弟も脳梗塞で半身不随となっているのだが、この二人に共通しているのは、ともに単身生活者である点。

実は、私も半分は単身生活なのだが、私と違って彼らが健康を害した要因が2つある。

まず彼らは、①自炊をほとんどせず、外食中心の食生活だった(これは多くの単身男性が該当するだろう)。
一方私は、東京での生活は母の手作り料理で、名古屋の単身生活でも毎日自炊している。
私は中学の時登山をやって以来、食事を作ることに抵抗がなく、親元から離れていた大学時代もずっと自炊を続けていた。
自炊をすると、栄養バランスを自分で考え、さらに新鮮な食材を常に摂取できる。
逆に外食だと栄養バランスが悪く、カロリーだけでなく塩分も過多となり、さらに食材が由来不明(その上出費もかさむ)。
もちろん私も出先の昼は外食するが、週に1、2度である(ただし”ラーメン”は外食・自炊ともに選択肢外。理由は典型的な不健康食だから)

また自炊といっても、今ではご飯は炊かずに真空パックを使っている。
炊飯の手間(これが自炊のネックとなる)がなければ、調理は野菜と卵などスーパーで買った食材を調理するのは簡単だし、納豆ならもっと簡単。
※一度に多めに炊いて、残りを冷凍保存してもよい。
また野菜と大豆(納豆、豆腐、厚揚げ、枝豆、味噌)はもともと好きなので率先して摂取しており、一方赤身肉はもともと好きでないので自分では購入しない(不足しがちな動物性タンパク質は、卵とカニかま、乳製品から)。
帰京すると赤身肉を食べることもあるが、93歳で健康な母が与えるのは魚中心で、生野菜もどっさり盛られる。

それから彼らは、②健康診断を受けない(自営あるいは無職のため)。
一方、私はいまだに現役の給与生活者なので、年一回の健康診断が義務となっているし、高血圧の治療をしていることもあって、血圧や血液検査の数値を把握している。

高血圧を含む動脈硬化や糖尿病は、自覚症状がないため、定期的な検査によって異常傾向を知るしかないのだが、
その環境にないと、異常が進行して重篤な症状が出るまで無策となってしまう。

この2点が、多くの単身生活男性の健康を阻害しているようだ。
要するに日常的な、しかも客観的な健康管理が重要なのだ。
まずは近くの診療所で血圧を含む血液検査、それと定期的な歯科検診(歯石除去)を実施しよう。
その結果を受けて食生活を再構成する。
これらの客観的根拠なしの自己流の健康対策をして、「やっている感」で満足しないこと。


宗吾霊堂と麻賀多神社

2022年12月10日 | 東京周辺

5回目のワクチン接種をした翌朝、床の中で全身の節々の痛さを感じて、あれっと思ったが、起きると大丈夫だったので、予定通り、千葉は印旛沼の東岸(成田市宗吾)にある宗吾霊堂と麻賀多神社を訪れた。

宗吾霊堂とは、江戸時代初期の義民として有名な佐倉宗吾(本名・木内惣五郎。合わせて「佐倉惣五郎」として有名)の霊を祀る堂で、京成線の最寄り駅が「宗吾参道」となっている。

こういうローカルな史跡を巡ると、その地域の人たちが大切にしてきたものと出会えるのが新鮮だ。


駅からすぐ霊堂の門をくぐり、坂を登って宗吾霊堂と称している東勝寺(真言宗別格本山)の門前で蕎麦を食べ、山門をくぐると土産物屋が数軒並ぶ向かいに、宗吾と連座した4人の幼子たちの霊廟がある(写真:ちなみに境内の説明は「宗吾様」で統一)。
この寺は、元々は平安時代創建なのだが、この寺の住職が宗吾たちの埋葬をした縁でここが彼らの霊堂となった。
※:なのでこの寺より後にできた成田山は”新勝寺”という。

宗吾が本尊である本堂に参拝し、住職の夢に出てきたという大黒天の御姿を買い(100円)、境内奥にある宗吾御一代記館に入る(700円)。
館内では、リアルな人形による宗吾の事績を13場面に分けて展示してある(音声解説付き)。

それによると、印旛郡佐倉藩の名主であった宗吾は、藩の苛政(暴政と重税)に苦しむ領民の一揆を抑える代わりに自分が藩に上訴を試みるが、受け入れてもらえなかったため、江戸に出て幕閣への駕籠訴に及ぶも、これも却下された。
最後の手段として将軍への直訴を決意するが、これは当時は許されない暴挙で、当人は磔刑、家族は打首と決められていた。
それを覚悟してでも直訴を敢行したい宗吾は、妻と離縁、幼い子どもたちを勘当し、上野寛永寺に参拝していた四代将軍家綱に直訴した。
将軍の後見役保科正之(初代会津藩主で名君)がこれを受取り、直訴は成功したが、この罪で宗吾は磔、そして幼い子ども4人も打首となった(妻がこの中にいないのは離縁が認められたためか)。
※:当時でも15歳以下は死罪を免れるはずだが、本人の行為ではなく、連座制であったため罪が適用されたようだ。
宗吾とともに後ろ手に縛られてまさに”連座”している幼子4人の刑場場面の展示は、涙なしで見ることができない。
ここの展示の床には、見学者からの投げ銭が散らばっている(私も投げた)。

この命を賭した義挙により、佐倉藩は政治を改め、宗吾の霊を顕彰し、江戸藩邸内にも霊堂を建てた(ただし領民が宗吾を祀ることは禁止)。
さらにすでに他家に嫁いでいた宗吾の息女(そのため連座を免れた)が地元に戻ると、田高五石を供養田として与えたという。

ここを出て近くの宗吾の遺品・関係文書を展示する霊宝殿(写真)に入ると、わが胸につけていた”ばけたん霊石”が、にわかに青く光った。
この色は良い霊が現れたという合図だ(ばけたんは自動的に霊を探知している)。
こんな展示館の中で異なこと、と周囲を見渡したら、後ろに、線香・鈴(りん)があり、宗吾と子どもたちの位牌が祀られていた。
なるほど、宗吾とその子たちの浄化された霊が探知されたのか(かくもばけたんは信頼できる)。
ある意味、ここもパワースポットである。
線香を焚いて鈴を打ち、江戸時代の古い位牌に合掌した。

さらに展示によると佐倉藩主は宗吾が夢枕に出て苦しめられたようだ。
宗吾を顕彰したのも、良心の呵責だけでなく、除霊の意味もあったろう。


お寺を出て、麻賀多神社に向かう。
麻賀多神社は佐倉・成田地域に分布しているが、これから行く本社がパワースポットらしいのでついでに訪れたい。
霊堂から数キロ離れていて、バスの便はあるが数時間に1本なので歩くしかない。

Googleマップで徒歩ルートを検索すると、遠回りのルートしか出ないので、それを無視して最短路の国道を歩いてわかったことは、確かにこの車道は歩道スペースが無いので、徒歩向きではない。

麻賀多神社に着いて、東日本一という見事な大杉を詣でる。
テスラメータを取り出して地磁気を計測すると、大杉の周囲にある鉄の赤いガードの丸い上端部がかなり磁化している(特に写真の左側の鉄柱上端が強い。一方、右側の鉄柱は平常値)。
この神社内の天日津久(あまのひつく)神社がパワースポットというが、そちらの磁気は正常だったので、大杉の方がパワーがあるかな。
※岡本天明という人がここで神がかりして『日月神示』(ひつくしんじ)を自動書したという(平藤喜久子監修・古川順弘著『秘められた神々』MdNより)。


神社のちょっと先に宗吾の旧宅があり、行ってみると、今でも人が住んでいる敷地内に古い家がある(江戸時代の造りではない)。
宗吾息女のご子孫のお宅かもしれない。
いずれにせよ、個人の宅地内なので遠慮ぎみに写真を撮った。

ここからはGoogleマップが示す徒歩ルートで駅を目指すが、途中で麻賀多神社奥社の道標があったので、寄り道した。
奥社には、印旛の国造・伊都許利命墓の墳墓があり、さっきほどではないがここにも大杉がある。

ここまでで、ばけたんが反応したのは霊宝殿内の一ヶ所。
近くの団地にバス停があるが時刻がわからないので、ここから駅まで50分の道のり(江川沿いの気分のいい道)を歩いた。


日本人はなぜお辞儀をするのか

2022年12月09日 | 作法

サッカー日本代表の森保監督の試合後のお辞儀が世界中で話題になっている。

日本人のお辞儀は、その角度の深さと頻度の高さから、昔から日本人的動作として知られている。

ただし相手に対して頭部(こうべ)を下げる動作は、人類に普遍的であるため、日本人のお辞儀姿勢そのものは、違和感なく理解される。

お辞儀は「礼」とも言われるように、礼(作法)を代表する動作で、私が教えている小笠原流礼法では、坐礼だけでも6種ある。
さらに坐礼の前後の扇の扱いなどを含め、礼の一連の動作は、作法の基本として最も重視されている。

その礼とは何を意味する動作か。
ズバリ”敬意”である。
『礼記』によれば、礼とは敬意の表現(可視化)であるからだ。

ということは、日本人は敬意の表現を頻繁にするわけで、それは日本人にとって敬意の対象がとても多いことを意味する。

何より外国人が驚くのは、他者以外に、場所に対しても日本人が礼をする姿。

武道者が道場に礼をするように、力士は土俵に、ボクサーはリングに、球技選手はグラウンドに礼をする。
日本人ファンが、スタジアムをきれいにして帰るのも、場に対する敬意があるからだ。

私は先日、長年使って捨てることになった財布に礼をした。

日本人は、他者だけでなく、世界(この世)を構成するさまざまな”他”に敬意を持ち、表現することが普通にできる。
言い換えれば、日本人は敬に値するものに囲まれて生きている、幸福な人たちなのだ。
その姿に他国の人たちも感動し、今度は日本人が彼らの敬意の対象となる。

それを可能にしたのは、日本で独自に発達した礼法の伝統だといえる。


サッカー日本代表を振り返る

2022年12月06日 | 時事

これまでサッカーW杯日本代表の活躍を記事にしていたので、その締めくくりをしないわけにはいくまい。

スポーツにおいては勝ち試合は神がかったようなプレーが見られ、負け試合は凡ミスが目につくもので、毀誉褒貶のジェットコースターとなるのが常。

もっともクロアチア戦は試合に負けた訳ではなく、次に進むための PK戦に負けただけ。

当初は”ベスト8を目指す”なんて大風呂敷にしか聞こえていなかったが、ドイツ・スペインと破って、実現可能な所まで来た。
その期待を抱かせただけでも、われわれに夢を与えてくれた。

 W杯にやっと出られたレベルの頃は、得点するにしてもセットプレーで体ごとゴールに突っ込むしかなかった。
その頃に比べれば、確実に力をつけている。
試合後に選手たちがみせた悔し涙が更なるレベルアップを約束している。

おかげていい夢を見させてくれたが、正直、夜更かしは辛かった。
これで普通の(平凡な)生活に戻れる。


丹沢大山で知ったこと3つ

2022年12月04日 | 山歩き

12月に入っての帰京中の日曜、丹沢の大山(1252m)に行った。
前回(景信山→記事)は腸脛靭帯の調子も良かったので、今回もそれを期待して、奥高尾よりはグレードの高い大山にしたわけ。
といってもケーブルを利用してのいつもの周回ルート。

ケーブルで標高700mの(阿夫利神社)下社まで上がると、彼方に江ノ島・三浦半島が広がる(写真)。
ここですでに別天地の気分だが、ここから先は登山道になるので一般観光客とおさらば。
登り始めはあえてスローペースで歩くと、初心者ぽい人たちが元気に追い抜いていく。
ところが山頂に達するまでにこれらの人たちを私が追い越し返した(登山のペース配分は長距離走と同じ)。

大山山頂の茶屋で山菜そば(500円と良心的価格)を食べるのが楽しみ(なので昼食は持参せず。ただし水は持参)。
山頂からは目の前に相模湾が広がり、東京から伊豆半島まで見渡せるが、反対側の富士や丹沢方面の眺めはない。
今までこれが山頂からの展望の限界だと思っていたが、
山頂からちょっと降った広場にトイレがあり、その奥の鉄塔に向かうと、なんと丹沢表尾根の奥に富士が聳えている(写真)。
大山には幾度も来ているが、大山から富士を拝めたのは初めて。
①大山は山頂よりも一段降りた周辺広場の方が人も少なく、眺めもいいことを知った。

360度の展望を満喫して、いつもの見晴台方面に下る。
この長い急な下りで、以前なら腸脛靭帯が痛んだのだが、今日はなんともない。

ただ久しぶりに大山に来て気になるのは、道脇の崩壊箇所が増えていること。
元々丹沢山塊は斜面の崩壊地が多いのだが、それが広がって登山道にも影響を与えている。
その分、滑落事故も増えそうだ。

無事に見晴台(770m)に降り立ち、ここからは水平の道で下社に戻る。
下社↗山頂↘︎見晴台→下社と三角ルートで下社に戻った(歩き出してから3時間10分)。
時間に余裕があるので、ケーブル途中の大山寺駅で降りて大山不動(関東三大不動の1つ)に参詣。
※:東大寺の大仏建立に尽力した良弁が開創した由緒ある寺
昔からの大山詣の賑わいは大山不動による仏教側の貢献だったが、維新の神仏分離で山の主要部が神社領となってしまって、寺は下社の地から辺地に追いやられた。

今日は内陣の開帳日ということなので、400円払って内陣を見学。
今回も一応”峰入り行”のつもりで、頭に白鉢巻を結び、手首に数珠を巻いてきた。
ガラス越しの不動三尊に向かって不動明王の真言を唱える。
この寺ではご本尊の御影(おすがた)が不動明王の他に今は神社領となっている山頂の奥社(=石尊大権現)の本尊(本地仏)だった十一面観音まである。
ぜひ欲しいので、御朱印コレクターが並ぶ列に加わる(手書きの御朱印は時間がかかる)。
まぁこちらも御影コレクターのようなものだから文句を言えないが。
自分の番になって十一面観音の御影(700円)を注文すると、これでいいですかと大きな御影を示してくる。
「いやそれではなく、この”縮小”サイズの方で」と「縮小」と書かれたサンプルを指差すと、御影はこちらの大きさがオリジナルで、縮小サイズで掲示しているとのこと。
オリジナルサイズは、私が御影を保管してあるA4ファイルには収まらず、 どう見てもB4以上。
これではリュックにしまえないので、出直してきますと注文を断った。
②大山寺の御影はいずれも特大サイズ。

ケーブル駅に戻って、下りのケーブルを待つ。
中間にある大山寺駅でケーブルカーの線路は複線になって、ここで上下の車両がすれ違い、あとは単線。
その複線部分を見ると、片方の線路だけにケーブル(ワイヤー)が伸びている(他方は線路だけ)。
不思議に思いながらもあまり深く考えず、上の下社駅から下りて来た時に複線の右側の路線で降りたので、またそちら側で下りを待った。
ところが、下りの車両は左側の路線に来て、右側の路線には上りが来てしまった(当然乗れず、次の便を待つことに)。

③ケーブルカーが複線になる途中駅では上りと下りが、いつも同じ側ではなく、交互になるのだ。
なぜなら、ケーブルカーは、ケーブルで上から引っ張って車両を上らせ、下る時は上からケーブルを緩めるから。
なので、途中駅の複線部分で、ケーブルがある側はすでに下った側で次は上ってくる。
そしてケーブルがない側はすでに上った側で次は下ってくるのだ。
それをきちんと理解すべきだった(過去経験というシステム1で反応してしまい、思考するシステム2を作動させなかった)。

以上、大山には昔から幾度も来ていたが、今回は新たに知ったことが3つもあった。

ケーブル下駅からバス停までの300段ある石段の参道も、以前は腸脛靭帯に響いたが、今回はなんともなかった。
登山を阻んでいた腸脛靭帯炎からやっと解放されたかな?
そう期待しながら、バス停手前の売店で地元産のこんにゃく(250円)を土産に買った。


スペイン戦勝利を後から知る

2022年12月02日 | 時事

正直言って、私もドイツには勝ってもスペインには勝つとは思えなかった。
だから日本がコスタリカに負けた時点で、グループリーグ突破は難しいと思った(ただ負けたことの批判は控えていた)。
なので、本日午前四時からの放送は、無理してリアルタイムで見ることをせず、録画して起床後に見た。
要するに日本代表の力を信じきれなかったのだ。

起床後、真っ先に録画を再生して、結果を知らないままリアルタイムの気分で観戦した。
前半は失点し、ボールを支配されていたが、ドイツ戦と同じ展開なので希望は保てた。
そして後半、三笘などを入れて攻勢できると期待していたら、案の定そういう展開になった(同点に追いついた堂安のミドルシュートは、昔の日本代表では拝めなかった)。
ただ同点に追いついても、すぐに逆転できるとは思っていなかった。

2点目のボールの問題だが、ボールの鉛直上の中心軸(地球でいうと南北の極軸)がラインから出ていても(明らかに出ていた)、ボールの水平上の中心軸(地球で言うと赤道軸)がライン上にかかっていればOKで、 VARはそこを判定したのだ。
ただし、本当にギリギリだった。
仮りに、これがノーゴールであっても、スペインの監督が試合後に述べたように、日本は追加点を取れたろう。

結果的にドイツとスペインに(幸運でも敵失でもなく)実力で勝ったことは(私はこれで充分「歴史を作った」と思う)、他の強豪国とも対等に戦える自信をもたらし、決勝トーナメントもそれなりに頑張ってくれそう。
 次のクロアチア戦は中継(Abema)で観るぞ!。