今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

致死率が増えている:更新

2020年03月31日 | 新型コロナウイルス

元々”春休み”中なので、用事はなく一日中家にいた(気分転換の散歩以外)。
”志村ロス”もあって、新型コロナウイルスが頭から離れない。

心の赴くままに、最新の統計値(31日を含む)で、致死率を出してみた。 

日本だけだと、致死率は3.03%(死者/感染者=66/2177)。 
前回致死率を出した3月7日は1.47%(6/407)だったので、率が倍増したことになる。
感染者100人に3人、33人に1人が死ぬ確率だ。
無症状者や軽症者が大半と言われているものの、かように致死率が高い。
ちなみに、季節性インフルエンザの致死率は0.1%だから、その30倍。

世界レベルだと、致死率は4.77%(33257/697244)※に上がる。  ※30日までの集計
イタリアなど日本よりも致死率の高い国が多いからだ(ただし中国は統計の更新がない)。

無症状者には積極的には検査をしない日本は、致死率が高めに出ると思っていたが、それは事実ではなく、2月29日の時点で世界の致死率はすでに3.8%だったという。
ということは日本の致死率3%はむしろ下限で、これより増える可能性が大いにあるということ。

検査方針が変化していない日本で、感染者数が増えているだけでなく(ここ最近は増加率が上がっている)、致死率も増えている事実に、目を背けてはならない(ちなみに、 方針を変えて検査を大規模にやると、感染者数=分母がどっと増えることで致死率は韓国並みに急落するだろう)。

これはいよいよ次の扉が開きそうな状況だ。
みんなで警戒をより一層強めよう。
せめて、インフルエンザの30倍ほどに。


新型コロナのカテゴリー追加+志村けん追悼

2020年03月30日 | 新型コロナウイルス

我がブログでも、新型コロナウイルスの記事が続いており、しかも話は、健康、生活、心理と多方面に及んで、ブログのカテゴリーも、それらに分散していたので、これらを「新型コロナウイルス」という1カテゴリーにまとめた。
私がこの話題を最初に記事にしたのは1月31日で、その頃すでにマスクが店頭から消えていた。
その頃は、中国を除けば、日本の少ない感染者数が世界的にトップクラスだったが、
それから2ヶ月がたった今、パンデミック(感染の世界的拡散)が実現してしまった。
日本の感染者数が少ないのは、単純に検査数が少ないためだから、諸外国と比較する意味はない。
比べるなら死者数だ。

日本では感染による死者が激増していない、すなわち医療崩壊していないことにまだ安心感があるが(あえて検査数を絞っている理由)、
志村けん氏の感染死は、何かを象徴(暗示)しているよう。

それにしても、日本のコメディアン界のカリスマの死は、感染騒ぎとは別にしても、ショック。
ドリフの途中からのメンバーとしての存在感、そして解散後も単独レベルでの活躍は、尋常ならぬ才能なればこそ(ビートたけしより活躍期間が長い)。

最近までNHKで間歇的に続いた「となりのシムラ」が好きだった。
ドリフ以来のドタバタギャグだけでなく、家族から浮く父親や部下から敬遠される上司など自らの年齢に対応した哀愁ある笑いを提供できたのは、それゆえ真に大人から子どもまで幅広い年齢層から愛されたのは、彼だけだったのではないか。
心から合掌🙏


新型ウイルスを正しく怖がるには

2020年03月29日 | 新型コロナウイルス

東日本大震災の時に言われていた「正しく怖がる」ことの大切さ、その難しさを今回も痛感している。
元は明治時代の物理学者で漱石の弟子・寺田寅彦の言。
寺田の言を正しく引用すると、「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい」ということ。
すなわち、われわれはどうしても「怖がらなさすぎ」か「怖がりすぎ」のどちらか一方の端に走ってしまうのだ。

「怖がらなさすぎ」は、誤った安心によって、密閉・密集・密接を避けることをせず、感染のリスクを高め、被害にあう。
一方、「怖がり過ぎ」は、誤った不安・恐怖によって、パニック行動に走り、新たな社会不安を引き起こし、自分だけでなく他人を別の危機に巻きこむ。
しかも、この両者は互いに相手をバカにし合っている。
なぜ、両端のどちらかになりがちかというと、人は、感情の赴くままに思考を合わせた方が、頭も気持ちが整合して、”楽”だから(迷わなくていい)。

一方向ではなく、両方向のバランスを取る位置(中道)にいる事は確かに難しい。
それができる人間になることが、一段ハイレベルな人類になる事に等しく、現人類の目標といってもいい。
現人類は、直立二足歩行によって、バランスを取り続けることが運命づけられているわけだから、バランスをとろうとすることなら、誰でもできる(しなくてならない)。

どうすればいいか。
感情(安心)ではなく、理性的判断(安全)を求めること。
無根拠で主観的な安心・不安ではなく、客観的根拠のある安全を基準にする。
こう言ってもいい。すでに固定した感情に思考を合せるのではなく、揺れ動く(柔軟な)思考に感情を合せること。

安全の根拠は、確かな(信頼できる)情報にある。
それは最も合理的な知性の営為である科学的情報を意味する。
ただし今回は、新型なので、信頼できるデータ(エビデンス)はない。
それでも、ここ数ヶ月でのデータは蓄積されており、またウイルス一般の知見からも、ある程度信頼できる情報は導出できる。
まずは、(新型でなくても)コロナウイルス(従来の風邪の原因と共通)の感染について、あるいは死をもたらすウイルス性肺炎について、基本的な事項(情報)を学ぶべきだ。
ネット(素人の塊)やテレビ(素人コメンテーター)ではなく、専門家が書いた書籍レベルで(できたら複数の著者)。
専門書でなく、新書レベルでいい。
”科学”的情報なら講談社のブルーバックスあたりがいい(宮坂昌之『免疫力を強くする』など)。
家にいる時間があるのだから、しかも今は本はネットで注文して宅配してくるのだから、入手はたやすい。

ただ、学問の先端に行けば行くほど、不確実性が増すので、安全についても不確実性が高まるのは、やむをえない。
すなわち、いくら信頼できる情報を得ても、”安心”に達することはなく、われわれは、怖がることから逃れられない。
ただ、そのレベルの怖がりこそが、最も安全度が高い。
それが「正しく怖がる」ということである。


繁華街に買い物に行く:それは三密か

2020年03月28日 | 新型コロナウイルス

都知事による”不要不急の外出を控えてほしい”とのお触れが出ている東京での週末。
東京が”都市封鎖”になったら、名古屋との二重生活を営む私も困るので、ぜひとも協力したいのだが、
困ったことに愛飲する酒とつまみがなくなった。
それを売っているのは、繁華街・池袋で、そこには山手線に乗っていく必要がある。

これが「不要不急の外出」に該当するかだが、私にとっては”必要”で、手元にないのだから”今日”ほしいのだ。
というわけで、土曜の午前中、意を決して、マスクをつけて(見た目のマナーのため)、外出を決行。

外に出ると、確かに通行人と車は少ない。
が、皆無というわけではなく、それなりにいる。
ランニングの人もいる。

山手線に乗ったら、シートの両端と中央に人がいる程度の密度(互いに1m以上の距離)。
しかもマスク着用率は95%。
おしゃべり・咳こみ率0%。

池袋に着いて、通りに出ると、人と車はまぁそれなりにある。
もちろん、いつもよりは少ないが。

西武デパートとビックカメラ、ヤマダ電機、それに ABCマートはやっていたが、東急ハンズは臨時閉店。
私はそこで U ターンし、富士そばでそばを食べて(客数はそれなり)、やまやで目的の品を買った。
ABCマート・東急ハンズのある通りは、いつもはぶつかりそうになるくらい歩行者が密集するのだが、すいすい歩けた(量販店には入らず)。

そもそも都知事のお触れは、外出そのものを否定するのではなく(最初はそう受け取られた)、密閉・密集・密接の”三密”を避けよの意だという。
なので、出歩く事自体を責める理由はなく、屋外の開放空間は感染リスクがない(いまだに出勤させられている平日の職場の方がよほど危険)。

三密”とは、本来は、密教でいう”身密・口密・意密”の意で、手で印を結び、口で真言(マントラ)を唱え、意で本尊を観想する行のこと。
聞きなれない外来語を使いそうな都知事としては、いいネーミングである。
私は毎朝、仏前で真言を唱えているので、これからは真の”三密”の方を実行しよう。

結局、一人で行った池袋は、交通機関も含めて密閉・密集でなかったので、知事のいう三密には抵触しまい。

そして「密接」に関連するほどではないが、駅の地下街を歩いていたら、向こうからやって来る女性が、Suicaの入った定期入れを落とし、私の前を歩いていた男性がそれをためらいがちに拾って、女性に手渡した。
ホームに上って山手線に乗ろうとしたら、降りてきた少女が、ホームで財布を落とし、これまた私の前にいた若者が、それを指摘し、少女は自分で財布を拾った。
電車に乗り、車内を移動中に引き返した私に、座席にいたマスク姿の女性が身ぶりで訴えてきて、私が引き返した場所を指した。
振り返ると、上着と一緒に腕に抱えていた帽子が落ちていた。
思わず私も身ぶりで返した(きちんと口でお礼をいうべきだった)。
以上それぞれ、”密接”は回避しようとしている。

それにしても、こんな立て続けに落とし物を目撃・体験したことはない。
どうやらみなさん、今日という日は外出するに際し、どこか心が上ずっているようだ。
こういう時こそ、落とし物には気をつけよう。


在宅勤務生活

2020年03月24日 | 新型コロナウイルス

いつもだったら、大学は春休みなので、こちらも3月下旬は春休みを満喫できるのだが、
今回は、学年末の行事が中止になり、さらに4月の授業開始が延期と決ったことで、
学年末と新学期早々に予定した教務的行事ができなくなり、
代わりにネット配信などに置き換えるため、その打ち合わせやら新たな書類作りやらで、例年になく忙しい。

ところが、私が東京で仕事場にしている国立国会図書館はずっと休館。
近所の図書館も同じ。
なので、毎日、”在宅勤務”を余儀なくされている。
同居している弟も今月いっぱい在宅。

私があえて国立国会図書館を仕事(テレワーク)場にしているのは、その往復が2km 以上の歩行運動になるし、気分転換にもなるため。
だから在宅勤務だと、運動不足になり、気分転換ができない。
なので、昼になったら、用事はないのに外に出て、行き先もなく歩きまわる。
距離はかせげないので、あえて速歩にして運動効率を上げる。

そして、午後もずっと部屋に篭って仕事を続ける。
気がついたら夕方になっている。
ここで仕事は一旦切り上げるが(入浴と夕食のため)、メールのやりとりに終業時刻はない。
自分も夜10時過ぎに仕事のメールを送信する。
在宅勤務は、通勤時間こそ不要になるが、就業時間は際限なくなりそう。


桜を見に外出

2020年03月22日 | 新型コロナウイルス

春分の日も過ぎて、暖かい晴天の日曜。

まずは、開花した近所の桜を見に散歩に出る。

実は、ここ数日、血圧が上がり気味。
なぜか、母も同じ。

ここ数日、不要不急の外出を控えていたため、そしてもちろんコロナウイルスが気になるためもあってか、心身のストレスが増しているようだ(自覚はないんだが)。
ご存知のように、ストレスになると免疫力が低下する。

あえて遠回りで公園の周囲を歩いて、運動不足解消?と気分転換(ストレス解消)、そして日光を浴びてビタミンDを合成して免疫力の足しにする。

午後は、車で目黒の菩提寺に墓参り。
都心の道路はすいていると思ったが、意外に近県ナンバーがあちこち走っている。

道すがら、人気のラーメン店の前に行列が。
皆1mも空けずに接近した状態だが、大丈夫だろうか
(実は何とかマスクを手に入れたいが、開店前のドラッグストアでの行列には加わりたくない)。

菩提寺近くの目黒川の桜はまだだった(ビルに囲まれているので日が差さないため?)。

帰途、皇居のまわりの桜が並木をつくっていて(千鳥ケ淵の桜はまだ)、花見の客が大勢集まっている。
彼らは立ち止まったままでないから(宴会禁止だし)、問題ないか(でも距離は開けよう)。
いい気分転換になっているはず。

みんな、じっと篭っているのが限界になっているようだ(私も)。

帰宅して入浴後(夕食前)に体重計に乗ったら、昨日より1kg近く減っていた。
近所の散歩の効果?
とにかく、外に出た方がいい。
ただし、人が密集していない所にね。


PCR検査は大規模にやるべきか

2020年03月21日 | 新型コロナウイルス

また、新型コロナの話題に戻る。
「日本の感染者数が少ないのは、検査数が少ないからだ」と、内外から突つかれている。
確かにそれは事実で、あの数字(感染率:1053/18963×100=5.55%、3/22現在の数値、以下同)は”国民の感染率”の参考にはならない。

正確な感染率を知りたいので、もっと大規模な検査を、という気持ちはわかるが(実態調査なら抗体検査で充分という)、
感染対策としては、どれほど意味があるのか疑問だ(無症状感染者が市中に大勢いるという前提で対策をとるべき)。

そんな折り、 WHOの事務局長が「検査、検査、検査!」と叫んだが、幸い彼に対する信頼性がダダ下りなので、日本があわてて検査を強化する方向転換をしている様子はない。

検査をどんどんやれば、それだけ陽性の感染者が判明するのだから、価値があるのではないか、と単純に結論するのは待ってほしい。

文春オンラインに医師の監修による「なぜワイドショーは解説しないのか? 「PCR検査をどんどん増やせ」という主張が軽率すぎる理由」という記事(→リンク)が21日に掲載された。
これこそ公衆衛生の立場での統計的(客観的)視点によるもので、一読の価値がある。

言い換えれば、テレビに専門家として登場する医療関係者(必ずしも医師ではない)がこの視点に立たないことにやきもきしている医師たちも多いはず(素人コメンテーターが「どんどんやれ」と言うのは仕方ないか…)。

読者には上のリンク先の記事を読んでもらえればいいが、あえて記事の主張を私が自分なりにかみ砕いて説明したい。

まず、知ってほしいのは、検査をした場合、数が出てくるのは「陽性の感染者」だけではない、ということ。

学校数学で習った「確率」に、「場合の数」というものがあったことを思い出してほしい。
ここでは、検査結果の”場合”(陽性、陰性)と実際の感染の”場合”(感染、非感染)を掛け合わせた4通りの場合、すなわちa(陽性・感染)b(陽性・非感染)c(陰性・感染)d(陰性・非感染)が出現することを念頭においてほしい。

この4つの「場合の数」を算出するシミュレーションをしてみよう。

まず、感染確率が0.1%(1000人に1人。日本人1億人のうち、感染者が10万人)、
PCR検査は、感度が(良くて)70%、
非感染者を正しく陰性と判定できる確率(これは推定するしかない)「特異度」を99%として(以上の値は元記事に従う)、
今、どんどん検査して100万人に達した場合(元記事では1000万人を例にしているが、多すぎる気がしたので、この値にした)、
感染者数は1000人(=100万×感染率0.001)いるはずで、
そのうち、検査で真の陽性者(a)となるのは700人となる(=感染者数×感度0.7)。
700名もの陽性感染者がわかったのだから、やってよかった、と結論づけるのはまだ早い。

同時に、残りの3つの「場合の数」が出てくる。
まずは非感染者999000名(=100万-1000)の内、正しく陰性と判断されて帰される人(d)が989010名(=999000×特異度0.99)。
この人たちはいくら多くても問題ない。

次いで、非感染者のうち、なぜか帰れずに残らされた9990人(=999000-989010)は、特異度99%の取りこぼしの1%の人たちで、陽性と判断された不運な人(疑陽性)。
この約1万人は、有無を言わさず病院に隔離されて無駄な医療資源を費やされるか(医療崩壊への道)、良くても2週間の自宅待機を命じられて、仕事や学校の社会生活を犠牲にさせられる。
いずれにせよ社会的資源の損失が発生する人数。

そして残り3つめの”場合”である、感染しているのに陰性と判断される疑陰性者は300人(=1000-700)。
この300人は、感染しているのに陰性と判断されるのだから、頼んでも治療してもらえず、あるいは本人も”お墨付きをもらえた”と安心しきって市中に出回る。

つまり、検査によって、700人の真の陽性者を得る以外に、9990人の疑陽性者(社会的資源の損失)と300人の疑陰性者(治療拒否か新たな感染元)が出ることを頭に入れてほしい。
幅広く検査をするとは、それだけ疑陽性や疑陰性も出すことになるのだ。

もちろん、検査自体が無駄だといっているのではない。
検査する価値がぐっとあがるのは、実際に感染が拡がったクラスター(ジムなど)の周辺への実施。
そこでは感染確率がぐっと上がるので(たとえば30%)、疑陽性者はぐっと減り、疑陰性者は率は変らないが、検査数が大幅に減るので(たとえば200人)、出現数はそれに応じて減る。
すなわち結果の誤判断による損害のリスクが大幅に減る。

あるいは日本政府が実施している、重症者に重点をおく検査も、感染確率がさらにぐっと上がるので、疑陽性や疑陰性の出現はさらに減る。
このやり方だと、生命の危険のある感染者を取り逃すミスを抑えられる。
重症者に重みのかかった検査数なので、感染者の致死率こそ高くなる(3.23%)が、死者数自体は少なく抑えられる(35人)。
まさにそれが日本の感染者統計値の特徴として表現されている。

だから感染率が高そうな対象集団にある程度絞った検査こそが、損失が抑えられて効率的だということ。
検査は、特定の関心に限定された”単視点”ではなく、すべての「場合の数」と社会的影響を視野に入れた”多視点”で最適な判断をした方がいい(ただしそれ以外の余計な忖度は不要)。
興味がある人は、Excelで表を作って、感染確率や検査数をいろいろいじってシミュレートしてみよう。


心の多重過程モデルで理解する仏教:1

2020年03月20日 | 仏教

前回の記事を前提として、いよいよ仏典を「心の多重過程モデル」で解読したい。→前回へ

ここで題材にするのは、『大乗仏典1:般若部教典』(中央公論社 2001)にある『善男猛般若経』
(戸崎宏正訳)からの一節。
もちろん大乗仏典だから、釈迦の口伝ではなく、数百年後の思想的展開によるもの。
そこでは、”思考”がやり玉にあがっている。
以下に引用する(一部略)。

「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する。
思考するというのは、一つの偏りである。思考しないというのも第二の偏りである。
思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく(、)中正もない。 
中正があると思考するとき、それはもはや偏りである。
思考がなく、思考しないこともないとき、そのばあい、思考を断つことになる。」※(,)は私があえて付加

これを読んだだけで、すんなり了解できた人は、以下を読む必要はない。
論理的にひっかかった人は、以下をどうぞ。


これらを前回の記事で紹介した「心の多重過程モデル」で解釈してみる。
①「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する」
われわれ(凡夫)が運用する思考活動は、創作された観念(概念)の論理運用のため、現実から離れた妄想に陥りやすい(良くいえば創作能力ともいえる)。
この思考こそが言語を用いた意識過程、すなわちシステム2である。
教典の別の箇所で思考を「ことばあそび」にすぎないとしている。

そして②「思考するというのは、一つの偏りである」という。
この偏り(かたより)を心理学では”バイアス(bias)”といい、行動経済学が指摘したシステム2における論理バイアス、”節約された思考(ヒューリスティックス)”であり、認知行動療法でいう「誤った信念」に相当する。

それに続いて③「思考しないというのも第二の偏りである」という。
ここで読み手の論理的思考がつまづくだろう。
なぜなら、思考することが否定されるなら、論理的には、思考しないことは肯定されてしかるべきであろうから(2価論理で1=not0なら not 1=0)。
どうしていいのかわからなくなる。

「思考しない」とは何か。
凡夫の心(システム1またはシステム2)においてシステム2が作動しないことは、システム1の作動を意味する。
システム1とは思考ではなく、直感で反応するレベルで、思考的吟味をしない=自明視する(われわれの日常行動のほとんどはこのシステム1による自明視された反応)。
だから、「くよくよ考えずにパーッといっちゃえ!」ということになる。
このシステム1は思考以前の認知的バイアス(見間違えなど)の宝庫なので、確かに思考とは別個の”偏り”である。
認知行動療法では「誤った学習」に相当する(システム2よりシステム1の方が不正確)。
すなわち、人はシステム2でもシステム1でもそれぞれの偏り(バイアス)から逃れられない、といっているわけで、これは21世紀の最新心理学である行動経済学や認知行動療法の知見と合致している。

そして教典は④「思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく、中正もない」としている。
前半を飛ばして、後半の「偏りなく」は分るが、「中正もない」と否定的なのは何でだろう。

⑤「中正があると思考するとき、それはもはや偏りである」と続いている。
「中正がある」と”思考”してしまっては、システム2で判断していることになるわけだ。

そして前半、「思考することもなく」(システム2を停止し)、「思考しないこともない」(システム1を停止し)、とは、心の二重過程そのものの超克を意味する。
思考(システム2)を停止するだけではダメなのだ。


ではどうすればいいのか。
二重過程モデルではお手上げだが、
多重過程モデルによれば、二重過程の超克なのだから、システムでもでもない、システム3を作動する、ということになる。
システム3の作動によって、⑥「そのばあい、思考を断つことになる」

通常の人(凡夫)の心はシステム1かシステム2の”二重過程”でしかない、と現代心理学さえも思い込んでいる(学問自体がシステム2の洗練された営為であるから仕方ない)。
その二者択一の次元にとどまっている限り、その次元(心の偏り)から逃れることはできない。
システム1 は知覚と記憶・感情に束縛されており、システム2は概念・表象と論理に、すなわち心は仏教でいう”五蘊"、すなわち”色、受、想、行、識”という心理過程に束縛されている。
この五蘊の束縛から脱するため、システム1を停止し同時にシステム2を停止するとは、具体的には、日常の心の営為を停止し、無念無想になること、すなわち”瞑想”することである。


瞑想の発見、これがポイント。
釈迦は、日常の安逸から脱して、身体を痛めつける苦行に専念したが、それはシステム0を酷使するだけだった。
その状態だと、意識が変性して幻覚を体験してしまう(この脳内麻薬の自家中毒レベルで満足する人たちも多い)。
釈迦が求めたのはそんなレベルではなく、より高次の(hyper)レベル、すなわちシステム
釈迦がシステム3に達したのは、安逸と苦行の中間(中道)、すなわち川のほとりの菩提樹の下での瞑想によってであった。
仏教の”行”に瞑想(禅定)が必須なのは、 システム12を停止し、システム3を作動させるためだ(瞑想自体が目的ではない)。
そしてシステム3を任意に作動できるレベルに達すれば、システム12を停止させる必要がなくなり、システム1の自動反応も、システム2の思考もシステム3で眺めることができる(これこそが心の多重過程の実現!)。
眺めることは、対象を肯定も否定もせずに、それに巻きこまれず、距離をおき、執着しないことである。


この教典では、二価論理(システム1かシステム2か〕を否定し、システム3の状態を口酸っぱく繰り返している。
ただ、読み手の頭が二価論理に留まっている限り、論理破綻にしか読めない。

いいかえれば、凡夫の心理メカニズムを代弁するだけの現行の心理学(二重過程モデル)では、人間の潜在能力であるシステム3の扉を開くことはできない。

私がやろうとしている心理学は、仏典とはちがった心理学的概念を使って、すなわちシステム2を可能な限り駆使して、システム3という言語思考を超えた次元の心の状態を説明することにある(だから仏典がとても参考になる)。
実は、仏教そのものが宗教というより精緻な心理学理論だ(釈迦は人類最初にして最高のカウンセラー)。
もちろん、それを理解するにはシステム3の体験を必要とする。
システム3の奥行きは果てしないが(瞑想修行に終りはない)、その入口に立つことは誰でもできる。

ただ、システム3を問題にするだけなら、「マインドフルネス」のように南伝(テーラワーダ)仏教で済む。
私があえて”大乗仏典”を題材にしたのは、多重過程の視野がシステム3の先の次元にあるから。

本ブログでは、学術論文として論理構築する以前の、ひらめき的構想段階を披露していきたい(文章にする=考えを整理することだから)。


心の多重過程モデルで理解する仏教:序

2020年03月19日 | 仏教

『般若心経』を含む(大乗)仏典て、確信犯的に論理的矛盾を犯した表現に満ちているので、普通の論理的思考で読むと、頭がこんがらがる。

そこで、(論理的)思考が心の全てではないという心理モデルに立って、仏典のメッセージを理解してみよう。
すなわち、私の「心の多重過程モデル」を使ってみる。


このモデルをとても簡単に説明すると、「人の心は、以下のサブシステム群の多重作動による複合システムだ」というモデル(より詳しくは、本ブログの「心理学」カテゴリー内の記事「システム0:二重過程モデルを超えて」。あるいは「多重過程モデル」と検索すれば論文をダウンロードできる、と思う)。
以下、サブシステムを(位階を1段上げて)システムと表現する(その場合、心はメタ・システム)。
システム0:覚醒・自律神経などのほとんど生理的な活動。生きている間は常時作動
システム1:条件づけなどによる直感(無意識)的反応。優先的に作動
システム2:思考・表象による意識活動。S1で対処できない場合に作動
システム3:非日常的な超意識・メタ認知、マインドフルネス。ほとんど作動せず

これらのうちシステム1とシステム2が既存の「二重過程モデル」で、私がそれに システム0とシステム3を追加して”多重過程モデル”とした。
すなわち、既存の心理学が「心」と見なしているのはシステム1,システム2だけで、私はその心の範囲を身体側と超覚醒側の両側に拡大した(実はシステム3の次のシステム4まで視野に入れているのだが、ここでは省く)。
以上が前置き。


さて、仏教は、2500年前に人類で最初にS3に達した人の教えである(なんと、私のモデルより2500年早い!)。
実はシステム3はホモ・サピエンスに備わった能力なのだが、それまでのそしてそれ以降の人類は、システム3を作動せずとも生きていけたので、ほとんどの人類はシステム3とは無縁だった(だから今の心理学でも視野の外)。

でもその人(釈迦)は、なんでわれわれ人間だけが他の動物と違って、悩み苦しんで生きているのだろうと疑問に思い(自分も苦しんで)、あれこれ試行錯誤の結果、それは人間に固有なシステム2の作動によるためだと、悟った。
そして、その解決はシステム2に頼らない心の使い方、すなわちS2ではなく自分自身が到達したこのシステム3をベースにすればいいとわかった。
われわれ現生人類にとっては、システム3は普段のままでは作動できないが、皆システム3を作動できる能力があるはずなので、それを作動する訓練をすればいいということになる。
それが仏教の教えと実践(行)である。

ただ困ったことには、3次元空間を2次元平面で正しく表現できないように(なんとか表現はできる)、より高次の認識であるシステム3は下位のシステム2の言語で正確には表現できない(なんとか表現はできる)。
その理由で釈迦は一旦は人々に伝えることを諦めかけたが、気を取り直して伝えることにした。

その教えの文字による伝承が仏典である(ここでは、釈迦の直伝でない大乗仏典も含める)。
これって、量子力学の現象を古典力学の論理で説明すべきとしたN.ボーアの覚悟と似ている。
われわれが量子力学を理解しがたいのは、古典力学的論理では整合性がつかないからだ
(概念と物理的実在とを同一視しなかったボーアもまた、システム3に達してたといえる)。

ということで、仏典が伝えたい内容はズバリ、システム3のことなのだが、それをシステム2の言語論理で記しているため、理解しがたいのは当然である。
量子力学では、実際の実験結果がその妥当性を証明しているように、仏教の場合も””という実践によって各自がシステム3を体現することで、納得が得られるはず。
そのの1つがマインドフルネスというわけだ(禅やその他の行でもかまわない)。

長くなってしまった。
ここまでを前提として、次回は実際の仏典にあたってみる。→次回へ


湯河原を歩く

2020年03月16日 | 

昨日の記事の続き。

さて、本日は晴天ながら、天気は荒れ気味らしい(あとで知ったが、伊豆諸島近海で竜巻が2つ発生した)。
朝湯にゆっくり浸かって、湯河原の温泉宿を10時にチェックアウト。

せっかくの気分転換の旅行なのに、このまま東京に直帰したらお昼に着いてしまう。
当初の予定では、路線バスで箱根に上がって、そこから三島に降り、途中「スカイウォーク」という大吊り橋に立ち寄ろうと思っていたのだが、午後に歯医者の予約がはいってしまったので、予定を変更して、湯河原の町中をゆっくり歩いて駅にもどることにする。

湯河原の温泉街は、箱根の大観山を水源とする千歳川に沿って伸びていて、泊った宿は温泉街の上流側の端(不動滝)に近いため(今ではこのさらに上流に奥湯河原温泉がある)、駅に向って下っていく道は、長い割りには楽だと思う。

この温泉街には風情ある木造高級旅館がいくつもある。
熱海のような開けた観光地とは対照的な隠れ家的ロケーションということもあり、多くの文人たちに愛されてきた。
しかも宿はたいてい自家源泉を持っていて、源泉掛け流し(私の泊った宿も自家源泉を2つ持つ)。
千歳川一帯の豊富な湧出量がそれを可能にしている。

こんないい温泉地、たまに来るだけではもったいない気がする。
素泊りで安く泊れる宿もあり(もちろん源泉掛け流し)、食事は温泉街の食堂を利用すればいいか。

そんなことを考えつつ、温泉街のメインストリートから離れ、橋を渡って右岸沿いの斜面の静かな道を歩く。
湯河原には温泉宿だけでなく、高級そうな介護付き老人ホームがある。
温暖なこの地で完全リタイアして、のんびりと日々温泉に入る余生もいいなぁ。

ふと気がつくと、道沿いは「静岡県熱海市」になっている(いつのまにか1駅分歩いて熱海に来たわけではない)。
湯河原は千歳川を境に、左岸が神奈川県湯河原町で、右岸が静岡県熱海市なのだ。
右岸の熱海市側でも温泉が出るので、こちらは「伊豆湯河原温泉」という。

川沿いの福泉寺には、江戸時代初期に作られた釈迦の頭部像がある。
もとは尾張名古屋にあったというそれは、ずいぶん面長でちょっと造りが日本離れしている(かといってインド的でもない)。
茅葺きの本堂も趣きがある。

橋を渡り返して、神奈川県湯河原町に戻り、駅への道を進んで、湯河原の鎮守である五所神社に達する。

ここには樹齢800年を越える神木の楠があり、バス停の前ということもあり、立ち寄る観光客がけっこういる。
観光客は神木にペタペタ触っているが、私は、樹皮に触れずに両手をかざして気の交流をする。
神社の向側にも明神の楠という巨樹があり、穴状になった幹の中央に庚申塔が祀ってある(写真)。

ここから駅には向わずに、川沿いにさらに下って、河口に出ると、海浜公園がある。
ただし、その手前に熱海に向う幹線道路が横切っていて、横断歩道が見当たらない。
左右の車が途絶える一瞬を見計らって広い道路を走って横断したが、この道路の下をくぐる歩道がすぐ近くにあったのを帰りに知った。

さて、海浜公園そのものは球技用のグラウンドで、そこからは海岸にはいけず、左脇の道の先端から、護岸の海岸に入ることができる。
月曜の昼ながら、のんびり釣り糸を垂れている人たちがいる。
これも湯河原リタイアの理想的姿か。

護岸の下の海を見ると、沖縄の海かと見まがうほどきれいに澄んでいて驚いた。

そして、目の前に静かな相模湾の海原が広がる。
水平線上に初島と伊豆大島。
視野の左端は、真鶴半島が伸び、先端に三ツ石。
視野の右端は、小室山、大室山の小火山から天城連山に続く伊豆半島の山々。
半島の上空には積乱雲の最盛期を示す”かなとこ雲”があるので、竜巻が発生するのもうなづける(写真)。

湯河原の周囲を囲む真鶴半島、箱根山、伊豆半島、大島のすべてが火山、すなわち激しい地殻活動の産物(半島以外は活火山)。
というのもこの付近は、フィリピン海ブレート、北米ブレート、ユーラシアプレートの3つのプレートががぶつかり合う、地球で最も不安定な場所の1つで、地下ではたえずプレート同士の摩擦が続いているのだから、そりゃちょっと掘っただけでミネラルを含んだ熱水が出るわけだ。
そう考えると、ここは地震・津波・噴火の可能性があり、のんびりした地という印象ではなくなる(あくまで地質年代的スケールでの話)。

そう思いながら、ここから町中を抜けて、駅に達した。
宿を出てから3時間の歩き、いい運動になった。


湯河原温泉で気分転換

2020年03月15日 | 温泉

今のご時世、外出する気になれない。
外出しても、人が集まる施設(特に公共)の多くは当分閉鎖なので、行き先が限られる。
それに、大抵の仕事(授業と会議以外)と連絡は、自宅のパソコンですませられる。
でも、幾日もしかも終日家の中にいては、心身ともになんか煮詰ってくる。

そこで、実質春休みになった今、気分転換に湯河原温泉(神奈川県)に行く事にした。

もともとは、名古屋発で浜名湖の宿を予約していたのだが、土曜の卒業式がなくなり、そしてその宿の売りであるビュッフェ・バイキングは今の時期はなんとなく避けたいのでキャンセルした。
その代わりに東京発で、職場の共済で多少安く泊れる湯河原の温泉宿にした。

東京発なら、箱根や伊豆でもいいのだが、これらの地に点在する温泉は、結構有名な割りには泉質的には貧しい所があり、”温泉ソムリエ”の私としては、選択肢が限られる(私の格言、「名湯必ずしも良泉にあらず」)。

箱根(山)と伊豆(海)の間にある湯河原温泉(谷)は、川沿いに新旧の温泉宿が統一感なく並んで(一部を除いて)風情はなく、また観光資源にも乏しいが(なので掲載写真無し)、温泉自体はナトリウム・カルシウム-塩化物硫酸塩泉という内容と濃さと泉温で”療養泉”レベルに達している。
すなわち、温泉としての功能を期待して湯に浸かるに値する。

東京から JRで乗換えなしで行ける点もいい(1つ先の熱海もだけど)。

たった一泊だが、仕事もウイルスも忘れて、源泉掛け流しの湯に4回つかり、山海の料理を賞味したい。


感染パニック映画:感染列島、復活の日

2020年03月13日 | 新型コロナウイルス

フィクションというのは、事実ではない作り話だが、
そこに何らかの真実(=普遍性=(事実)-(個別要因))が描かれていれば、
その事実に直面する場合に、何らかの参考になるのではないか。
そういう期待をこめて、”自然災害”を題材にした映画を観るようにしている。

では、今回の感染騒ぎ(とうとう”パンデミック”と認定された)ではどうか。
この種の映画(感染パニックもの)は、ジャンルとして確立している”災害もの”に比べれば、少ない。
その理由として思うに、一つは、恐怖対象そのものが不可視で映像化しにくい点(巨大竜巻や大津波のような映像的な凄みがない)。
二つは、感染の蔓延→その克服(の開始)の流れで、医者だけが頑張るストーリーに固定されてしまう点。
そこで、人間関係的葛藤を第二テーマとして加えたりするのだが、それが表に出すぎると作品を陳腐にしてしまう。

そういう作りにくさを乗り越えて(?)作品化されたものに、『アウトブレイク』(1995)があるが、
ここでは邦画に絞って表題の2つを紹介する(作品情報は wikiなどを参考)。

まずは、『感染列島』(2009)。
出演者は、妻夫木聡、檀れい、端役に爆笑問題の田中祐二。
この映画は、同年に流行した「新型インフルエンザ」をモチーフしたモノなので、
2020年の現実と共通点がある(最近の作品だし)。
なにしろ感染元が、(東南アジアの仮想のアボン共和国の)コウモリ!
その地で、主人公が重症の感染者群に囲まれ、ゾンビ映画を彷彿とさせるシーンもある。

感染場面としては、どうしても映像的に派手な飛沫感染がスローで強調されるが、
一方で患者の血→他者の手→その目への接触感染も描かれている。

感染規模としては、アボンの島と日本レベル。
映画では1つの病院での院内感染が中心に描かれる。
その場所、東京郊外の架空の”いずみ野”市なのだが、養鶏場の存在など、自分が高校時代をすごした○○○野市を思い出した(○はひらがな)。

そして、このウイルス感染の克服策として登場するのは血清療法。
2020年の現実でも、香港あたりで血清療法が試みられている。
ストーリーとしては、個人的愛情関係が目立ってしまって、それが評価を落としたようだ。

次に
この映画から30年さかのぼるのが『復活の日』(1980)
小松左京原作、深作欣二監督による角川映画。
実は、私はこの映画を、最近ある人から教えてもらうまで記憶から飛んでいた。
小学校にあがる前後から映画に親しんでいた私が覚えていないのは自分でも意外だが、
同年の黒沢作品『影武者』はちゃんと映画館で観ているので、たぶん”角川映画”という一点で無視していたのだろう。

さてこの映画の出演者だが、まずは、当時を代表するイケメン、草刈正雄。
そして、ジョージ・ケネディ、ロバート・ボーン、オリビア・ハッセーと続く。
実際映画のかなりの部分は英語音声・日本語字幕。
しかも、南極をはじめとする海外ロケ。
”日本製の洋画”というべき珍しい映画で、角川が世界へ向けて制作費をつぎ込んだという意味で大作。

話は、当時まだ続いていた東西冷戦と核戦争の脅威が前提となっており、それを小松左京が、 壮大なSF仕立てにした。
生物兵器として開発中のウイルスがあるアクシデントで漏れ出し、
「イタリアかぜ」という名でヨーロッパから世界中にパンデミック(世界的流行)を引き起こす。

そういえば、武漢発生の今回のウイルスも「生物兵器なのでは」という噂があるし、
なぜかヨーロッパではイタリアが感染の中心地になっている。

そして日本での医療崩壊が描かれ(『感染列島』の院内感染レベルとは大違い)、なんと東京での死者1000万人(東京全滅。「イタリアかぜ」なのにローマより死者が多い)。
東京都心で処理しきれない遺体が屋外に山積みされ焼却される(2020年の武漢でも市内で上る黒煙が噂になった)。
かくして、人類のほとんどが死に絶えた。
そして、たまたま南極にいたわずかな生き残り(あちこちの国)の人たちで、なんとかしようとする。
そんな中、地震によって核報復攻撃のボタンが無人のワシントンで自動的に押されてしまい、世界中はさらに放射能で汚染される。
だが、その放射線がウイルスに対する抗体を作ることになる。

かように、ストーリー(原作)も、映画(配役、ロケ)も壮大で、ちまちました邦画とは一線を画す作品なのだが(人間関係的葛藤もあるにはあったが、人類滅亡の危機に吹き飛ばされる)、
レンタルで借りて観たら、なんかいろいろ無理があって(話がでかすぎて?)、感動にまで至らなかった。
当時の評判もそのようだったらしい(DVDだと、監督を含む制作スタッフたちの裏話が聞ける)。

結局、ここで紹介した2つの映画とも、2020年の現実との接点はいくつかはあったが、参考になるというものではなかった。


9年前と今が重なって

2020年03月11日 | 新型コロナウイルス

今日は、昨日6時間続いた6つの会議の後始末のため、ずっと研究室で作業をしていた。

そして午後2時46分、室内に設置してある仏壇に進み、線香をつけ、リンがわりにしているシンギングボウルをゆっくり3回鳴らし(真言宗のやり方)、合掌して、犠牲者の冥福を祈った。

思えば、9年前の本日以降、3月の間とても重苦しい気持ちで過した。
あの時ほどではないものの、今年も別の原因で重苦しくなっている。

9年前、地震後の津波に遭った地域は、この日のこれからが地獄だった。
当日、東京(震度5強、死者3名)にいた私も、茫然とその映像に見入っていた。

そしてその翌日から今度は原発が爆発しだす。
後日、関東も放射線がどんどん高くなっていった。
9年前、目に見えない放射線の脅威に怯えていたように、今年は目に見えないウイルスの脅威に怯えている。

夕方になって、研究室のドアがノックされ、席を立ってドアに向うと、学科主任がいて、今後の大学の行事(春休み中の在学生ガイダンス、そして4月の入学式)が中止になったと知らせてきた。

ということは、ガイダンスの一部を担当している私には、春休みの業務がなくなるわけで、このために東京から新幹線で日帰りで往復しなくてすむ。
時間と安くない交通費が浮くので、小躍りして喜んでいいはずだが、

実際には、思わず腰が砕けて両手で両膝頭を抱えてしまった。
すなわち「肩を落とす」と「膝から崩れ落ちる」の中間の状態で、まさにその中間レベルの落胆であった。

個人的都合よりも、わが職場にこれほどまでに影響することに愕然としたからだ。

今月末のガイダンスの準備をする一方で、それが中止になった場合の対策(実は昨日の会議でその可能性が示唆されていた)を、今朝からずっと考え関係者と調整していたところだった。
なので、その対策の方を実行すればいいので、業務に混乱はない。

9年前と同じように、今(3月)がひたすら耐える時なのだろう。
9年前、東京電力が津波被害を真面目に想定していれば、原発での全電源喪失というバカげたこと(原子炉が地震・津波の直撃を受けたのではない)にはならなかったはず…と恨みがましく思ったように、
今年は、政府が(ウイルス騒ぎは始まっていた中)春節インバウンドを”歓迎”せず、厳しく入国制限していれば、日本中に影響(特に死者)が広がることはなかったのに…と恨みがましく思いながら。


文京・小石川の寺社を巡る

2020年03月09日 | 東京周辺

卒業式などが中止になって、勤務先の大学も実質的にほぼ春休みながら、日曜は雨天で家の中にこもっていた。
晴天になった月曜、気晴らしに出かけたい。
でも今の時世、公共施設は軒並み閉鎖。
そして不特定の他者と狭い空間を共有する公共交通機関もできるだけ使いたくない。
となると、徒歩での外出になり、行き先は必然的に徒歩圏内となる。
これならマスクもいらない。

どうせなら、市中、いや国中、いや世界中の病魔退散を祈りに行きたい。
それなら薬師様が最適だが、あいにく近場に見当たらない。
次に頭に浮かんだのは、文京区小石川にある「こんにゃく閻魔」。
たしか病気平癒の御利益があるはず。
閻魔様の威力に期待しよう。

ちなみに、文京区は、武蔵野台地の末端と江戸城外郭の旧下町(神田・お茶の水)の間にあるため、坂が多いことで有名。
なので文京区の散歩は必然的に斜面歩きが加わり、それだけ負荷がかかって運動効果も高まる。

まずは動坂を登りきり、白山の坂(名称不明)をくだって、地下鉄2駅分を歩いて、こんにゃく閻魔前の交差点に達する。
ここは文京区でも珍しい下町商店街的な門前町が残っている。

こんにゃく閻魔は、源覚寺という浄土宗の寺の閻魔堂に鎮座している。
門前町を形成している源覚寺は、私が勝手に”文京の三名刹”としている護国寺・伝通院・吉祥寺に次ぐ、4番目の寺と言っていい。
前三者が、公的に格の高い寺なのに対し、この寺は庶民の人気で勝っている。
まずは本堂の阿弥陀様を拝み、そして閻魔堂に向う。
堂内の中央に構える閻魔様は、左目(向って右側)は肉眼と見まがう玉眼だが、右目は玉眼になっていない(右写真)。
伝説では、おのれの右目を犠牲にして、平癒を祈る老婆の眼病を治したのだという(客観的には、左目だけ後から玉眼にした感じ。でも片目だけそうする理由がわからない)。
そして目が治った老婆は、お礼に自分の好物であったこんにゃくを捧げ、それ以来、閻魔堂にはお礼のこんにゃくが積まれるようになった。

また、境内奥には、「塩地蔵」といって、自分の悪い部位と同じ部位に塩をかける地蔵の石仏?があるのだが、長年の塩が山積みになり、またその塩で石像が溶けて、塩の塔にしかみえない姿になっている。
かように、ここには2つもの平癒祈願対象があるのだ。

ところで、塩地蔵前の空間に灰皿が置いてあって、近所の会社員たちがここにやってきて、昼休みの喫煙場にしている
(最近は職場内にも喫煙スペースがなくなっているので、灰皿が置いてある場所は、喫煙者には貴重らしい)。
なので平日の12時台に塩地蔵を拝むには、息を止めて紫煙・副流煙の中を通らねばならない。

ここから、北西の台地側に進み、善光寺のある善光寺坂を上がって、隣接する慈眼院という寺に入ると、石仏より狐の石像が目につく。
寺の奥には稲荷の真っ赤な鳥居が並んで、一番奥に稲荷社がある。
そこは澤蔵司(たくぞうす)稲荷といい、隣の大寺・伝通院の学僧・澤蔵司が実は浄土教学を学びにきた稲荷の化身であったという伝説にもとづいている。
なので浄土宗の寺と稲荷神社が1つの境内に仲良く並ぶ”神仏習合”を実現している。
神仏習合こそ日本人の自然な宗教心を表した状態だと思っているので、こういう所があることを嬉しく思う
(稲荷社は神社本庁に属していないので、明治以降続いている神仏分離から自由でいられる)。

善光寺坂を上がった道路上に、大きなムクノキがある(右写真)。
善光寺坂のムクノキ」というその木は、車道拡張の邪魔になったが、道の方がこの木で二つ(歩道と車道)に別れて、木が守られている。
でも、この木、半分は枯れている。
といっても米軍の空襲による被害だというから、半分枯れた状態で70年も生きている。
体の半分焼かれれば死んでしまうわれわれ動物からすれば、樹木の生命力に驚嘆する。
当然、このムクノキは神木としてしめ縄が巻かれている。
木に近寄って、気の交流をした。

さらに伝通院に達したので、一応本堂に参拝し(徳川家康の生母や秀忠の子千姫の墓、幕末の志士・清川八郎の墓などは過去に見学済み)、門前の向こうにある「萬盛」という蕎麦屋に入った。

江戸時代から続くこの蕎麦屋は、先の伝説の澤蔵司が好んで通ったという話があり、それを縁に、澤蔵司稲荷に蕎麦を朱塗りの箱に入れて奉納し、それが380年も続いているという。
その”箱蕎麦”がメニューにあるので、それを注文した(800円)。
稲荷の鳥居と同じ朱色の箱に蕎麦と猪口、つゆが納まっていて、蕎麦の左脇に切った油揚げが添えてある(右写真)。
蕎麦は、細身で、色はやや薄め。
もりやざるより高めな価格設定もあって、量はそれらより多めか。
周囲の地元客は、そばと丼がセットになったランチを注文しているが、私は昼は抑え目にするのでこれで充分。

ここから中央大学理工学部の脇を進む途中、牛天神といわれる、天神社(貧乏神を祀る太田神社、高木神社を併設)に寄り道する。
ここは牛坂の上の高台にあって、西の神田川(新宿区)方面を見下ろせる位置にあり、葛飾北斎が富嶽三十六景の1つ「礫川雪ノ旦」を描いた場所でもある(今日は富士は見えない)。

その途中、常泉院という真言宗の寺に寄ったら、「小島烏水永住の地」という石碑があった。
小島烏水(こじまうすい)とは、日本の近代登山の幕開けをした人で、たとえば新田次郎原作の映画「劒岳 点の記」にも登場する(演じたのは中村トオル)。

中央大学から富坂を降りきって、後楽園の東京ドームを脇に見て、文京区役所のあるシビックセンターに達した。
ここらは文京区の一番の低地で、同時に一番の繁華街。
区境を画す神田川(江戸城外濠)の向こうは千代田区。
充分歩いたので、ここからは地下鉄を使って帰った。
地下鉄では車内の窓の上端部分が開けられていた。


三河幡豆:小笠原氏史跡旅21

2020年03月08日 | 小笠原氏史跡の旅

 徳川水軍として

2011年6月

三河の幡豆(愛知県幡豆郡幡豆町:今は西尾市)を地盤とする小笠原氏がいた。

一時期惣領職であった伴野系(長清(1)の六男?の時長から信州佐久の伴野に拠点)の分家らしい。

伴野系は、長清の嫡子長経(2)が比企の乱に連座して蟄居したのをきっかけに、惣領職を得ていたが、今度は自分たちが霜月騒動に連座して壊滅的となった。

その時、泰房(時長から6代目?)の代に三河の地に移ったらしいが史実的には不明な点が多く、また同時期に長経系の長直も三河に住んだという(幡豆町史)。

その後、一時期記録が途絶え、室町期になり応永年間に、長房が一色氏の守護代として幡豆に住んでいたらしい。
この時、付近を支配していた足利一門の吉良氏に従属していた(幡豆の西隣が吉良)。

足利幕府の勢力が衰えた戦国期になると、吉良の北の西尾出身の今川氏の支配を受けるようになる。
その後は徳川の触手が伸び、当初は反抗したものの、やがて広重重広)の代(永禄年間)に従属した。

幡豆小笠原氏は、時長-泰房-長房-安元系の欠城の小笠原氏(摂津守)のほかに、貞朝(15)の次男定政から始まる広重-信元の寺部城の小笠原氏(安芸守)との二系統があったが、安元の娘と広重で縁組みがなされている。

幡豆小笠原氏自体は礼法とは縁がない。
だが、信濃惣領家の貞慶(18)が一時寄寓していたらしく、一緒に家康に会ったりしている(その後貞慶も家康に服属)。

ここの小笠原は、小笠原家の売り物である礼法や弓馬術には縁がなかったが、地の利(いや水の利)を生かして、航海術をマスターし、徳川水軍の一員となった。
それだけではなく、航海術を生かして、とてつもないことをしたらしい(それは貞頼の項で紹介)。
だが、幡豆小笠原氏は、徳川にとっては外様の家臣ということもあり、武田や北条との戦いの最前線に駆り出され、多くの戦死者を出した。


寺部城址

幡豆の図書館のほぼ向かいにある小山が寺部城趾。
本丸跡その他に史跡の看板がある。
ここに立つと目の前に三河湾が広がる(写真)。
伊勢湾の更に内海の波静かな三河湾は、幡豆小笠原氏にとっては縁側のようなものであり、ここからどこまで外海に出て行ったか。
ほかに欠城がある。

安泰寺

安元が創建したという小笠原氏の菩提寺(右写真)。
重広をはじめとする歴代小笠原氏の位牌があるという。
非公開だが、事前に連絡すれば拝観可能だという。


小笠原貞頼と小笠原諸島

長時(17)の長子(貞慶の兄)長隆の次男という貞頼
貞頼は、若くして戦死した父長隆に代って惣領家を継いだ叔父貞慶(18)とともに、幡豆に移住し、
幡豆の広重の娘を娶って、この地を拠点にしていた(叔父は他所に移った)。

その貞頼が、『巽無人島記』(享保年間、現存せず)によると、
1593(文禄2)年、今の小笠原島に達し、標柱を立てたというのである(小笠原のどの島かは不明)。
そんな大それたことができたとしたら、貞頼がいたここ幡豆小笠原が、徳川水軍としての航海術を持っていたためだ
(といっても、秀吉の朝鮮出兵に応じて出港して太平洋で難破して黒潮に流された結果とも)。
※:この話は『紀伊蜜柑船漂流記』(1670(寛文十)年)にあるという:久保田

そして、貞頼の子と称する“小笠原長直”が、江戸幕府にこの島(当時は、“巽(辰巳)無人島”と言われていた)への渡航を申請している(『巽無人島訴状』)。
またその子と称する長啓、さらにその子貞任も同様の訴状を出している(これらの二人は身分詐称と判明)。

結局、貞頼がこの島を発見・上陸したという確証は得られていないのだが、家康公から「小笠原島」の名を賜り、
これを元にこの島は今でも「小笠原(諸)島」が正式名となっている。
ということで、小笠原関係で一番有名なのが、この小笠原諸島である。

貞頼でなく貞任の件を扱った小説に新田次郎の『小笠原始末記』がある。

結果的に、この話が国際的にも公式となり、日本の領土・領海の拡大に貢献した。
すなわち、江戸幕府がここに全く無関心の間、アメリカ人の移民がこの島に住み始めていて、
さらにイギリスが領土的野心を示したのだが、
日本に通商を求めるペリー提督が彼なりに日本の歴史を調べた結果、ここは16世紀末に日本領になったと認め、
イギリスはもとより、自国アメリカの所有権も認めなかった(もちろん、幕府もそれを追認)。
日本における小笠原氏の貢献は、作法だけでなかったわけだ。


幡豆町立図書館

寺部城・大山寺と道路を挟んだ高台にある。
幡豆町史は最新のものが出版中で、地元の史家の本などもある(ネット経由で蔵書を検索できる)。
 ついでに、別の機会に訪れた隣町の吉良町図書館には、ネットで事前に確認した『小笠原流諸禮式心得』なる大正時代の小笠原流礼法の手書き文書が所蔵されている(複写させてもらった)。
この地域での唯一の小笠原流礼法書だ。
ここは名古屋からなら日帰り圏だが、せっかくだから三ケ根山上の温泉宿に泊り、翌日は三河地震の痕跡を見学した。


上総富津へ(2016年8月)

家康の関東移封に伴って、幡豆小笠原氏も関東に移った。
摂津守系の広勝と安芸守系の信元はともに上総の富津(ふっつ)に移り、江戸湾の防御を担当した。
そこでは旗本扱いとなり、城ではなく陣屋住まいであった。
摂津守系は三方ヶ原の戦いで多くの戦死者を出したこともあり、17世紀早々に途絶したが、
寺部城の安芸守系は、明治までその地で続いた。
富津の菩提寺正珊寺には代々の墓があり、富津市の文化財となっている(右写真)。


参考文献

『幡豆町史』
磯貝逸夫『きら はず歴史散歩』三河新報社
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』(小笠原村教育委員会編) 文献出版
久保田安正 『小笠原屋敷ものがたり』 南信州新聞社

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