今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。どんなヤツか知りたい人はまずブックマーク「山根一郎の世界」へどうぞ

NEXCO中日本のCMのお辞儀がすばらしい

2018年11月07日 | 作法

両手をヘソの前で重ねた休め姿勢のままの、すなわち畏まっていないままのお辞儀姿勢を強要する誤った”作法”が蔓延している中、 NEXCO中日本のCMでの女性のお辞儀姿勢は、今どき珍しく本来の作法(所作の文法)に適ったお辞儀をしている。

これぞ日本のお辞儀。
すばらしいと感嘆すること自体が悲しい現実を表している。
これが当たり前であるべき。 

両手を重ねたお辞儀(拱手)は大陸の習俗である(清朝までの中国では重ねた両手を目の上まで上げる)。
それをどこぞの作法知らずが、ビジネスマナーとしてひろめてしまい、テレビ CMまでまねしている現状の中、 NEXCO中日本は唯一それに抗っている。
制作スタッフに礼法を知っている人がいるに違いない。
このCM、東海地方でしか流れないのが残念だ※。 

※そんなことはないようで、東京の地下鉄内のモニターでも放映されていた。
ぜひ全国に流してほしい。 

コメント

音をたてて蕎麦すするのは”作法”ではない

2017年02月06日 | 作法

礼思想を生んだ本国以上に日本に「礼」が実現しているのは、中世に誕生し、近世に庶民にまで広まった「礼法」によってである。
箸を巧みに操ってきれいに食べる食事作法も、中世に完成し、現代でもほとんど変わる必要がない。
その頃のヨーロッパではだいたい手づかみで食べていて、ようやく先進地のイタリアでフォークが普及しはじめる。

作法というのは、他者に不快な思いをさせないのは大前提で、そのレベルに満足するのではなく、より洗練された動作を追究するものである。
それは動物的な欲求を全開にした仕草を否定し、スキのない美意識によって制御された、同席者に感動をすら与える所作を目標とする(茶の湯で客が亭主の点前の所作を鑑賞するように)。
それを自覚したから、中世の武家礼法は、礼法の和語である「しつけ」に「躾」と当て字したのだ。
ここまでの抽象論でもう納得してもらえたら、とてもうれしいのだが、(日常空間すべてに美の実現を求めた当時の日本人と違って)現代の日本では難しかろう。

では具体論に移ろう。
食事中に音を立てないというのは、グローバルな作法で、日本も例外ではない。
そもそも食事でなくとも、不必要な音を立てるのは他者に迷惑であり作法違反である。
世界的にみても厳しい日本の食事作法は、禅の清規(禅寺の作法)に準拠している。
禅寺では食事とて修行であるため、会話をはじめ、あらゆる雑音を立ててはならない。
食事の最後にタクワンを食べるのだが、これも音を立ててはならないのだ!

さすがに武家礼法は、食事=修行とみないため、会話などは許容されている。
だが飲食の音を立てるのは禁止されており、そのための汁を吸う時は「鼻で息を吸いながら、飲め」というコツを当時の作法で教えている(もちろん私も実践)。

ところが作法にも例外が発生する。
まず茶の湯の作法として、泡が立った抹茶を飲むとどうしても最後に泡が碗の中に残る。
表千家のように泡を立てない流派ならこの問題は発生しにくかろうが、泡を立てるのを推賞する裏千家など他の流派(小笠原流も)では、この問題は必発する。
そこで、泡を勢いよく吸って、呑み込むことにするのだが、その時どうしても吸う時の濁った音がしてしまう。
そこでその音を『飲み終わった合図」と作法の中に組み入れたのだ。
それは致し方ないのだが、そのせいで飲料を飲む時に音を立てないという本来の作法が忘れられがちになったのは残念だ。

そしてもう一つの例外がそば(麺類)。
長い麺を下から箸で持ち上げても、全部が口の中に入らない。
途中で歯で麺を切断するという方法がまずは考えられるが、そうすると、一旦口に入れようとしたものが下に落ちることになり、「口の中に入れたものを出さない」という強い禁忌に抵触する。
そこで、箸だけで食べるというこだわりを前提とした次善の策として、一挙に吸い上げて、口の中に入れてしまうという方法がある(フォークを採用したイタリアでは別の解決法がある)。
だがこうすると「音を立てない」という禁忌に抵触する。
結局、回避-回避のジレンマ状態だ。

このジレンマを解決するには、相対的に弱い方の禁忌を選ぶしかない。
人間は聴覚情報よりは視覚情報を重視する。
だから視覚的汚さより聴覚的煩さの方が許容できる。
なのでお茶の場合と同様、視覚的禁忌より聴覚的禁忌を許容することになった。
すなわち音をたてて蕎麦をすするのはOKとされたのだ。

だが蕎麦については、茶の湯のように「合図」という積極的効果は付加されなかった。
すなわちあくまで消極的許容(Badではない)であって、積極的推奨(Good)ではない。

だから、蕎麦をすするのはいいが、本来は不作法なのだから、できるだけ小さい音にするように、というのが作法的発想になる。
「そんなみみっちい食べ方だと蕎麦が不味くなる」というのは味覚的快だけを追究する”通”と称する人たちの見解であって、自身の味覚的快よりも周囲に対する上品な美を優先したい作法の発想ではない。

ちなみに、かつて私は、公立図書館の食堂で同じ卓に居合わせた若い女性のうどんを食べる所作の美しさに見惚れてしまったことがある。

本当に美しい所作は他者に感動を与えるのだ。
どうせなら、他者から見惚れられる所作をしようではないか。 

コメント

神社参拝のコツ

2017年01月01日 | 作法

新年あけまして、おめでとうございます。
今年も、皆様にとってよい一年でありますよう、お祈りいたします。

さて、正月といえば初詣。
私の元旦は、まず起きて、新湯で湯垢離をし(この時ばかりは入浴剤を入れない)、絹の下帯をしめて、羽織袴に着替え、まずは地元の鎮守社に初詣に行く。

途中、老婦人から、和服姿を讃められた。

さて、神社の参拝だが、「二拝二拍手一拝」というのは、今では拝殿の前に掲示してある(これを掲示していない仏教寺院ではやらないように)。

その作法を少し細かく論じたい。
まず拝であるが、「揖」という直立よりは少し畏まった姿勢から(両手は腿)、できるだけ深くお辞儀をする(両手もそれに従って下る。まちがっても両手を重ねて腹の位置で固定しないように。これは、「拱手」といって少なくとも日本の拝礼ではない)。
神様への拝礼であるから、少なくとも人に対するお辞儀よりは深くしてほしい。
理想は90°の直角礼(最敬礼)で、神官は見事に直角礼をする(股関節を軸に曲げればいいので、実は誰でも、腰痛持ちの人さえもできる)。
ただし、現実には直角礼をすると賽銭箱に頭をぶつけるギャグを演じてしまうので、そこはほどほどに。
その際、できるだけ、お辞儀は息を吸いながらして、下げきったところで吐いて、また吸いながら頭を上げる。
すなわち、下げきったところで息を吐いている間動作を止めるのがミソ(その間こそが礼の実質的時間なのだ。すなわち多くの人の礼は実質時間0秒)。

ついで二拍手、すなわち柏手。
これは音を立てるのが目的であるから、神官などは、両手を合せずに斜めにして、大きな音が出るようにたたくが、これではまるで庶民的な飲み屋で注文を取る時(あるいは中国全人代での拍手)のようで、日本古来の儀礼の形とは思えない。
相撲の力士が土俵上でやるように、両手をきちんと合せて打つのが正しく美しい。 
実際には、ほとんどの参拝者はこの形で打っているから、形では問題ない。
ただ、音がパンとはならず、ペシッとなってちっとも響かないのを残念に思っていないだろうか。

そこでいい音が出るコツを紹介する。

いい音を出す力士の形と比べるとよくわかるが、音が出ない人は、肘を鋭角に曲げすぎているのだ。
力士のように、両腕をやや伸ばしぎみにして、手を合せる場所を、自分の胸の前よりも前方(神様側)の中空にもっていって打つのだ。
これで遠心力がついて打つ力が強くなる。
ただし回転半径をとりすぎる(遠心力が強すぎる)と、両手が合わなくなるので、力士のように両脇から腕を回すのはやめた方がよい(肘の角度は90°程度)。 
その時、両手は指を伸ばしきって真っ平らにするのではなく、自然な湾曲を残したままにして、当たった瞬間に延びるようにする(両手の中に空気を入れるため)。

こうすれば、十中八九いい音の柏手が打てる。

この形であれば打った後、そのまま合掌になって祈りの形になる(自然で美しい)。

祈りの形で静止したら、今一度さきほどと同じ形の拝礼をして、横に向いて去る(神様にお尻を向けない)。 

ほかに参道の歩き方、手水の使い方などいろいろあるが(最低限、手水の水は飲まないで)、まずは一番大事な参拝の仕方を完成させよう。

コメント

既婚女性も振り袖を着ていた?

2016年10月16日 | 作法

都立中央図書館で、江戸城の大奥についての展示があり、
明治になって楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)という絵師が元大奥の女性たちから見聞して描いた錦絵「千代田之大奥」があった。
その中で、御台所(将軍の妻)が晴れ着として振り袖を着付けられている絵があった(右図、ネットから引用)
解説にも「振り袖」とあるから間違いではない。
しきたりに最もうるさい江戸城内で作法を間違えるはずがない。
ということは、既婚女性も晴れ着として振り袖を着ていたことになる。

ただしそこに描かれている御台所には眉がある。
彼女に振り袖を着付けている年配女性には眉がない。
このへんが気にはなるが… 

私は江戸時代の風俗には明るくないが、江戸時代中期の故実家・伊勢貞丈の『貞丈雑記』(作法の百科事典)には、振り袖の原型は「脇あけ」という子ども服であると記されている。
それが未婚の若い女性に限定される根拠だと思っていた。

そもそも服装規範は、洋の東西を通じてあてはまる「ドレスダウンの法則」(前時代の平服が次の時代の礼装になる)のように、時代に応じて変化するのが本質だ(”正しい言葉”も同じ)。
服装を変化させる力は、作法の外にあるためだ。
作法は外的要因による変化を追認するにすぎない。
だから、特定の時期の規範を普遍化する発想そのものが、服装規範の法則に反することになる。 

コメント (2)

昔も左利きが認められていた

2016年09月03日 | 作法

昔(明治以前)の日本では左利きの存在は認められていないと思っていた。
「左手は不浄」というような積極的否定こそされなかったものの、存在を無視されていた印象だ(今でも)。

たとえば、弓術(道)では左利きは認められていない。
また佩刀も左利き用は認められていなかった(刀は右手で抜くため左側に差す)。 

日本の伝統とりわけ武家文化に関心がある私も、左利きとしてのアイデンティティの方が重要なので、これを否定する習い事には一切手をつけない(剣術は両手を使うので、管楽器と同じく左利きのハンディはない)。

ところが、長野の上田城跡公園にある上田市立博物館に行って驚いた。

なんと、左利き用の火縄銃と短筒が展示してあるではないか。
ようするに、火縄の取付口が右ではなく、左側面に出ている。
左手で引きがねを構え、左目でねらいをつけるためだ。

つまり、火縄銃の使い手(銃士)においては左利きの存在が認められ、左利き用の銃が上田藩によって製造されていたのだ(展示の説明による)。
上田藩ということは、真田氏か仙石氏か松平氏だ(真田神社に奉納されていたということなので真田氏かもしれない。あの真田氏ならありえる)。

実践的な武器から儀式用に追いやられた弓と違い、その弓に取って代わった銃に対しては、儀式的な所作は不必要で、合理的な対応をしやすかったのだろう(弓や刀はもともと左右対称な作りなので、左利きでもそのまま操作できるのだが)。

左利きの存在が認められていたことが歴史的に確認できてうれしかった。
やるなら銃だな。 

コメント

ウサギの数詞は「羽」ではない

2016年05月04日 | 作法

ウサギ(兎)の”正しい”数え方(数詞)をいまだに「羽」だと思っている人がいるようだ。

そもそもそう主張している人も、その論拠は、日常的(たとえば幼稚園で飼っていたウサギ)に身に付いたのではなく、後から付加された情報にすぎないはず。

問題はその情報源が、一部の言語慣習(符牒)を無批判に”正しい”と認定(誤認)してしまっている誤りにあるのだ。
符牒は、正式な表現をあえて覆い隠すために一部の人間たちだけに通用する慣用表現。
ヤクザ言葉とか若者言葉のようなもの(方言はこれに該当しない)。 

たとえば、お米は「シャリ」、ショウガは「ガリ」というのが正しい日本語だと思い込ませるようなもの(ちなみに醤油を「ムラサキ」という優雅な言い回しは、寿司屋の符牒ではなく女房言葉由来)。

ウサギを「羽」と数えたのは、猟師たちの符牒であって、日本語としての正式な数詞ではない。

では正式な数詞は何か。
まず、動物(四足獣)の数詞の大原則は、基本は「匹」でよいこと。
ただ、鳥類は羽が顕著なので、「羽」を使う。 
この大原則に反対する人はいないと思う。 

この数詞の大原則によれば、ウサギは羽のない四足獣なので「匹」に属し、まちがっても「羽」ではない。
これもよろしいか。

だからウサギをあえて「羽」と呼ぶのは、正式ではないことを前提とした確信犯的な原則違反による符牒なのだ(その理由は他でググって)。
つまり”正しくない”ことを前提にした用法だから、それを”正しい”とするのは滑稽でしかない。
だから日本語が構造的に内面化されている人なら、ウサギを「羽」と数える事に違和感・抵抗感を覚えるはず。 

さて、数詞には大原則の他に、形状で特徴のある場合は、それを表現した言い方に分化する原則もある。

器物なら一般的には「個」でいいのだが、平ら状なら「枚」になり、足がつくと「脚」になる。
大きいと「台」になる。

動物もズウタイが大きいと「頭」になるのは、全体が見れないほどの大きさを表現している。

さて、ウサギだが、実は固有の数詞がある(もちろん「羽」ではない)。

これは江戸時代の作法の百科事典といってよい『貞丈雑記』(伊勢流礼法の家元伊勢貞丈の著)に記載されている。
この本は江戸時代の習俗研究には必須で、私も愛用しており、情報源としての信頼性はピカイチだ。
ウサギの数詞は「羽」が正しいとした情報源は、この基本文献を読んでいないことがはっきりした。 

それによれば、ウサギは「耳」と数えるという。

なるほど、目立つ形状が数詞となる原則に従っている。

もちろん耳は2個で1単位だから、靴の「足」と同じく、耳が2つある1匹のウサギは「1耳」と数えてよい。

ついでにこの原則を応用すれば、キリンは「1首」、象は「1鼻」と数えても、少なくとも言語表現的におかしな所はない。

羽のないウサギを、「羽」と数えるのが正式だという言語構造的な根拠はまったくなく、それは構造上正しくない使い方であることは確かだ。 

数詞の情報源となっている人に特にお願いしたいのは、正邪を判定できる作法とそうでない一部の慣習(≠作法)とを混同しないようにしてほしい。
それから日本語の基本構造と、伝統的用法の研究も忘れずにね。
”数詞の本”を読む人は本に書いてあることが正しいと思ってしまうから。 

もっとも現代人にとっては、あえて「耳」と数えるのも使い慣れないので、ネズミにもネコにも使っている「匹」でいいと思うけど。

コメント (2)

江戸しぐさ:捏造された作法

2016年03月21日 | 作法

「江戸しぐさ」が捏造されたものであることは、原田実氏の『江戸しぐさの正体』(講談社)で明らかになった。
著者の原田氏は、古史古伝系の”ト本”の著者であるので、この手の捏造本の論説はお手のもの。

私自身、「江戸しぐさ」については、批判的検討をせず、言説をそのまま受け入れてしまった。
ただ、江戸前期に小笠原流礼法が江戸庶民の間にも拡がっていたので、 また江戸時代の作法書には「江戸しぐさ」的なものはまったくお目にかからなかったので、その存在の希薄さには腑に落ちないものを感じていたが、→記事

一方でその存在を積極的に受け入れてしまう素地もあった。
たとえば「傘かしげ」は東京で生まれ育った私には自然に身についていたが、他の地域ではそれが見られなかった経験をし、また東京は世界的にも比較的治安がいいことの理由もほしかった。
そしてなにより、結局自己の評価を高める営業用作法にすぎない既存の礼法以外に、見知らぬ他者への公共の作法が江戸市民によって自発的に構築されたというすばらしいストーリーは、願望そのものであった。
だがこれらは、江戸しぐさの存在の証拠にはならず、むしろ後付けの辻褄合わせに相当する。

実際、ホラ吹きはいつの世にもいて、つい先日もわれわれはそれ(ホラッチョ)を目の当たりにしたばかりだ。
ただホラ吹き本人だけでは社会現象にはならない。
そのホラを信じきって本人以上にそれを世に広める拡散者が必要。

「江戸しぐさ」においては、芝三光と越川禮子のペアがそれだ。
この図式、青森のキリストの墓における、酒井将軍とわが祖母山根キクのペアに対応する。
戦前の事だが、わが祖母の流布により、青森のキリストの墓は映画制作の話まで進んだ。
当時の皇国史観の先を行くこのホラ話は、その時代の人々の気持ちに合わされたものだ。
だから人々の方からそのホラに近づく。

私が作法の授業で使う作法のテキストからも「江戸しぐさ」の文字を削除した。
ただし江戸時代の庶民には小笠原流もどきの作法書が広まっていたので、それなりにきちんと振る舞っていたことには変わりない。

ついでに、捏造された作法は他にもある。
●食事の時の合掌:これはテレビ(特にNHK)や小学校でなぜか最近になって"強制”されはじめた。若い人はこれが作法だと思い込まされている。過剰な仏教色でまるでタイあたりの雰囲気だ。

●ビジネスマナーのお辞儀:拱手という日本に存在しないお辞儀がなぜかビジネスマナー(特に女性用)としてひろまっている。昭和40年代まではなかった所作である。 日本の所作の文法では”休め”の姿勢でのお辞儀なので文法違反になる。

現代の日本人が、いかに日本の作法を知らないか、悲しい現実がここにある(お寺で柏手を打つ人も絶えない)。 

コメント

魚の頭を左に置く理由

2015年09月26日 | 作法

ある女性国会議員が焼サンマの画像をアップしたら、頭が右になっていたので、ネットで攻撃にさらされ、その写真を取り下げたらしい。

焼魚は頭を左に置くということが、常識化されており、それを知らない事は常識がないとされていることがわかる。

確かに、この盛り付け上の作法は、武家礼法が完成した室町時代には存在していた。
たとえば当時の伊勢流の礼書に「魚の頭の方人の左へ成べし。尾のかたは右になると心得べし。」(伊勢六郎左衛門尉貞順記)とある。

作法とは、さいころを振って決まったのではなく、そうなった理由が必ずある。
私の作法学では、その理由の部分を機能素というのだが、 大抵の作法素(1つの作法を示すテキスト単位)には、本来あるべき機能素が省略されている。
なので、作法を表面的に知るものは、機能素を知らずに、作法(マナー)を法(ルール)として無批判に受けとめる。

作法家たる者は、その言及されない機能素を理解しなくてはならない。
それを知るには、作法全体の体系(作法学ではそれを作法体という)から演繹する(だから個々の作法素では省略できる)。 

では魚の頭を左に置く理由(機能)は何か。

まず考えられるのは陰陽の対応である。
すなわち頭(上部)=陽=左、尾(下部)=陰=右という対応図式による
(幕末まで通用していた前科学的自然思想である陰陽思想は、この世のあらゆる二項対立を陰陽に還元する。)

多くの人は、「そんなのどっちでもいいじゃん」と思うだろう。 
言い換えれば、動作合理的に左側が頭である方がいい客観的な理由があれば、陰陽の基準が出てくることはないのだ。
逆に、ランダムという無秩序を嫌う作法の世界では、動作合理性的には正解がない場合(どっちでもいいもの)における最終決定基準として、何に対しても適用できる陰陽の基準が使われるのだ。
頭を左にして困る正当な理由がないなら、頭は陽なのだから左に合わせたら、となる。
実は、儀式の所作は、たいていは(儀式だから)合理的理由がない。
なので儀式ほど陰陽の基準が前面に出ている。

これを勘違いすると、日本の礼法は陰陽思想に支配されていると結論づけられてしまう(武家礼法の重要な所作は考え抜かれた動作合理性に裏打ちされていることを見抜けない)。

ただし、この魚の頭問題は100%陰陽だけに基づいているわけでもないかもしれない。 
何しろ尾頭付きの魚は、右手の箸だけではきれいに食べにくい。
そこで作法では、左手で魚の頭を押えて、右の箸で肉をとりやすくすることが許容されている。
魚の頭が右にあったらこれができない。
すなわち左頭は動作合理的にもかなっているのだ。
その証拠に、菜に関しては、左右の向きを指定する作法が見当たらない。
ただ、陰陽の基準を優先したのは、食べる時以外でも頭は左にするから。 

逆に、動作合理性を無視して、100%陰陽の基準にすると、実は女性議員の写真は適礼になりうる。

なぜなら、左を上とするのは、男=陽の基準であって、女=陰が主体なら、頭を陰=右にすることも理屈上可能だからだ。
実際、風呂に入るとき、男ならば左足から、女ならば右足から入れという作法があった(中島摂津守宗次記)。
かように、どっちでもいい場合には陰陽の基準が適用された。

陰陽の基準など、陰陽思想を信じていない現代人にとっては、無視していいものなのだ。
 たぶん、私(♂)が風呂に右足から入ったことを公表しても、作法知らずと突込む人はいないと思う。

コメント

和食作法は変わるべきかなぁ

2013年11月23日 | 作法

和食の作法が危機を迎えている。
和食の作法は、室町時代に本膳料理をベースにして完成し、今に至っている。
それは、ご飯を中心に、汁物とおかずたちとの往復運動をする。
最初に箸をつけるのも、本当は「ご飯」なのだ(私はやらないけど)。

この作法の思想は、「ご飯中心主義」である。
米に対する特別な敬意が根拠になっている。
米(稲)は食物の中で別格で、神にもっとも近いのだ。
神事にあるように、米の飯を食べ、米の酒を飲むのは神との”饗”(あえ)を意味する。
いいかえると、数々のおかず(菜)は、ご飯を進めるための添え物でしかない。

和食の危機とは、ご飯食の危機のこと。
すなわち、ご飯中心主義的食べ方が、栄養学的見地から否定されはじめている。

健康によい食べ方とは、
まず、生野菜などで繊維質をとり、
つぎに肉などのたんぱく質をとり、
最後にご飯などの炭水化物をとる。
大切なのは、これらの順序と、それらを”別々”に摂ること。
決して、交互に食べてはいけないという。

この食べ方は、和食の作法の否定にほかならない。

いいかえれば、和食の作法は栄養学的には根拠がない。
むしろ、それに反する。

食事作法の根拠は、栄養学と稲作信仰のどちらに置かれるべきか。
作法家は重大な問題に直面している。

実を言うと、この私(小笠原宗家礼法総師範)も、今では栄養学的な食べ方を実践している。
ひとりの人間として、米への敬意より自らの健康を重視するからだ。

価値観の変遷に対応しなくてはならない。
それならば、まずは和食自体が、ご飯中心主義から脱する必要がある。
和食自体が、脱・ご飯中心主義を具現する内容に変化する必要がある。
そうすれば、その”食べ方”も追随せざるをえない。
まずは、おかずはご飯と一緒に食べるものでなくなるので、
味付け(塩分)を薄くしていい。

服装が変われば、それに追随してあるべき所作も変わったように、
作法とは、より上位に位置する”生活スタイルの変化”に対応するものなのだ。

コメント

糖質制限の可否:作法的に考える

2013年06月18日 | 作法

糖質制限ダイエットが問題になっている。
私もそれを謳う書を入手したが、糖質を蛇蝎のように嫌って、
糖質が入っている飲食品を徹底的に排除する極端性にはついていけなかった
(この態度は、1品を異常に崇めるダイエット法と同曲)。
本来ならば糖尿病患者用の食事制限法であり、
健常者にとっては糖質はエネルギー源として不要なわけではない(特に脳にとっては必須)。

ただし、日本の伝統的食卓の「ご飯中心主義」には前々から問題を感じており、
その点で糖質制限はそれを打破するヒントを与えてくれている。

ご飯中心主義は、
ご飯を主食として、他の菜(おかず)はご飯を食べるための添え物という位置づけの明確な主従関係の思想。
この思想には稲への信仰という、日本文化の根源に遡る深みがあるのだが、
栄養学的視点では、炭水化物過剰摂取となっている。
米の消費量が減ったとはいえ、いまだご飯中心主義は根強い。

たとえば、大衆的な食堂では、ご飯はどんぶり並の大きな器によそわれ、
しかも「おかわり自由」が売りになっていたりする。
西日本では、「ラーメン+ライス」や「お好み焼き+ライス」などがあるという。
そうまでしてご飯を食べなくてはならないのか。
もっともパンや麺においてもそれらを主食化する発想になっている。
私も「焼そばパン」が好きでつい買ってしまっていたが、
これは炭水化物過剰なので、今は控えている。

作法家としての私は、伝統的和食作法を守りたいのだが、
結局ご飯中心主義の食べ方に、我が身がついていけなくなった。
健康のためだ。
そしてその代りに採用しているのが、
以前は和食作法の破壊として手厳しく批判していた”酒宴料理”の食べ方。
すなわち、おかずだけを次々と食べ、最後のご飯を、簡単にさらさらっと平らげる。
ご飯を中心に空間展開する本膳料理形式ではなく、
ご飯を最後として時間展開するコース料理形式への大転換。

後者の利点は限りない。
まず、個々のおかずがご飯との相性から開放され、独自の価値を発揮できる。
ご飯中心主義ではその存在位置すら無かった生野菜を使ったサラダが堂々と献立にはいる。
そして従来型のおかずも、味の薄いご飯のためでなくなるので、
今までよりも薄味でよくなり、塩分が控えられる。
それらの多くは、醤油やソースを漬ける必要がなくなる(塩分の濃い練り物に醤油は不要)。
ご飯それ自体も最後に位置する事で、すでに腹は充実しているので、軽く1杯ですむ。
最後のご飯の食べ方は、ぶっかけ飯的でよい。
単独での”菜”になりにくい納豆なんかが向いている。

こうなると、菜とご飯を交互に繰りかえす”一汁三菜”の基本作法は破壊されるが、
湯漬けという食べ方もあったわけだし、なにより健康の為の食が本来的。
つまり、糖質だけではなく塩分も控えられ、そしてビタミン類の摂取が増える。
和食の栄養学的欠点が、作法(食べ方)の変更によって克服されるのだ。

作法の本意は旧習墨守ではなく、最適化にこそある。
最適な所作こそが作法となるべきなのだ。
ただし作法は価値観の表現・実現化であることから、
和食作法の変更は、稲の崇拝という従来の価値観からの離脱をも意味する。

コメント

これが正しいお辞儀姿勢

2012年11月17日 | 作法

推進入試では面接を担当する。

受験生は、高校で指導を受けた付け焼き刃の作法で入室する。
でも、それが間違っているんだよな。
つまり高校の先生の作法の知識が付け焼き刃。

正しいお辞儀を明確に示した作法書を紹介する。
小笠原清忠氏の『小笠原流礼法入門』 (ハースト婦人画報社)。
表紙がいい(下に示す)。

皆さんだって、実は、下図左側の正しいお辞儀を学校(たとえば小学校)で習ったはず。
「気をつけ、礼、休め」という朝礼での号令がそれ。
礼(お辞儀)は”気をつけ”の畏まった姿勢でするもの。
手を重ねた”休め”の姿勢でやるものではない(下の×印は、通常の休め姿勢。両手を背後で重ねるのは軍隊式の休め)。
簡単な文法でしょ。
学校の先生は正しいお辞儀を教えられる位置にいるのだが…

それをどこぞの作法知らずの「ビジネスマナー」が下図右側の誤った姿勢でのお辞儀をひろめている。
それをひろめた人はまともな立礼姿勢(気をつけ)ができなかったのだろう。
悲しいことにNHKのニュース番組のオープニングに女性キャスターがこの姿勢で礼をしていた(NHKは食事の時に”合掌”もさせている)。

今日の受験生で、正しいお辞儀ができたのは1人だけだった。
浅薄な世間に惑わされない家庭の品性がうかがわれる。

コメント (2)

和食の作法3:脱・ご飯中心主義へ

2012年10月06日 | 作法

作法とは価値観(何が重要で何が重要でないか)の表現である。
作法の根っこは価値観である。
作法は根のない単なる”形式”ではないのだ。
和食の作法は、「米への敬意」という価値観に満ちている。
だから、最初に箸をつけるのは作法的には汁ではなく飯である(知ってた?)。
そしてそれ以降も飯を中心に箸を運ぶ。
和食の作法は”ご飯中心主義”なのだ。

おかずは飯を食べるための促進物にすぎないので、本来的な位置をもっていない(めんどうなら、梅干し1つで済まされる)。
だから、「ご飯が進む」とか「飯泥棒」とかいわれるおかずほど、味を濃くするために塩分が高い。

米は、完全食ではないものの栄養価に富み、大量生産ができ、長期保存ができるので、
多くの人びとを養うことができるとてもありがたい食品。
古代以来、主食として重要視され、神聖視されたのももっともだ。

和食の作法を改めるとは、かような米への特別な敬意を改めることを意味する。
米偏重の食生活は、肉体労働から解放された現代人にとっては、
栄養学的にもバランスがよくないからだ。
飯は主食ではなく、パンと同様、
いつもテーブルの脇にある万年副食という位置でいいのではないか。
パンの位置であっても、西洋では確固たる敬意(キリストの肉)を維持している。

実際、日本でも、人口が減少に転ずる以前から米の消費量は減少一方だった。
これは米に依存しない食生活が実現しつつあるからだ。
私とて、パンはほとんど食べないが(洋食メニューだとどうしても脂質過多になるから)、
大好きな麺類(そば、パスタ)は米に匹敵する頻度で食べる。
すなわち、私にとって、米食は食事の半分程度(しかも毎回お椀1杯)。
稲作以前の日本人は芋を主食にしていたということもあり、
時たま飯無しで芋(ジャガイモ)料理を楽しむ。

従って、私には、米に対する伝統的な敬意は”過剰”に感じてしまう。
なので、脱・米中心の作法への改変には抵抗感がない。
その証拠に、最初に飯に箸をつけるという作法を知っていながら、
作法教室以外では実行していない。
価値観がすでに米崇拝から脱しているのだ。
多くの日本人と同じく。

この流れは、和食の作法だけでなく、
日本人の栄養バランス、そしてわが国の農業のバランスも変化させるだろう。

コメント

和食の作法2:湯漬けを見直す

2012年10月05日 | 作法

現在、正式とされている和食の作法は、豪勢な「本膳料理」を前提としている。
もっとも「一汁三菜」の庶民的な銘々膳も、本膳=一の膳のみの状態だから、
作法的には同一であり、現在の家庭での和食も、一部大皿料理が混じる以外は、
銘々膳の作法でまかなえる。

逆にいうと、いわゆる専門店での「日本料理」は膳形式ではなくなり、
西洋料理風の皿の置き換え形式になっているので、
”複数のおかずとご飯を交互に食べる”という基本作法ができなくなっている。
なので、和食作法の実習は、日本料理店ではまったく不可能。

小笠原宗家礼法総師範の私は、
かように現在の日本料理を厳しく批判する立場なのだが、
先日の記事(和食の作法1)のように、ご飯偏重の既存の和食作法の方に疑問が出て来た。

酒宴料理でしかない現在の日本料理は、
皿ごとに出されるおかずだけをまず食べ、
最後は、ご飯が漬物と一緒に出される。
酒の席だと、そのご飯は茶漬けの場合もある。
これは、主食たる”飯”のはなはだしい軽視であるのだが、
実は、「湯漬け」という伝統的食べ方でもある。

本来の湯漬けはおかずもたいしたことないが、
現在の日本料理では、立派なおかずがその前に複数続くので、栄養的に問題ない。
そして、ご飯は最後に粥状態で、さらっと食べるので、量が少なくて済む。
すなわち、”ご飯を食べるための食事”という発想でなくなる。

この食べ方、”酒好きなお父さん”の食べ方であり、
食事に酒を導入すると、必然的にこうなる。
とりわけ、日本酒は(少なくとも私的には)、同じ米のご飯と両立できないので、
おかずは酒の肴として、ご飯抜きで食べ、
最後に残ったご飯は、すでにおかずは平らげたので、
適当にふりかけなどかけてさらっと食べる。
もともと、最後に飯椀に湯や茶を入れたのは、
椀を洗う意味もあった(銘々膳では食器は洗わない)。

この食べ方は、ご飯を椀一杯ですませ、しかも最後なので、
カロリー的にも血糖値的にも望ましい。
今では私も、血糖値の上昇を抑え、栄養バランスを豊かにするため、
おかずでご飯を食べずに、
サラダ→おかず→ご飯という時系列で食べる。

最も空腹な段階でサラダに手をつけるので、まずは野菜の摂取量が増える。
次のおかずは、白米と一緒に食べないので、薄味ですむ。
そしてご飯は充分食べた後なので軽く一杯ですむ。
私がこの食べ方に慣れた一番の理由は、
自分が”酒好きなお父さん”になったからにすぎないのだが…。

かような食習慣が確立されると、外食の”ランチ”など、
いまだに飯を食べるための組合せで炭水化物が多すぎて
(ご飯大盛、半チャンラーメンなど)、とてもでないが注文できない。
飯中心=カロリー摂取優先の食事は
(いつでも空腹の男子高校生以外の)現代人には合わない。

ちなみに”糖質”を蛇蝎の如く嫌悪する民間健康法があるが、
特定の栄養素をかたくなに拒否する極端な発想は、
強迫症状そのものであり、精神的にも不健康
(これは”紫外線”や”自然放射線”についてもいえる)。
なによりブドウ糖は脳の活動源として必須なのだ。

コメント

和食の作法1:誤解と問題点

2012年10月02日 | 作法

フランス料理を食べに行く時、テーブルマナーを気にするだろう。
ところが和食を食べる時は、作法は既知のものとして気にしない。
たいていの人は、和食の作法は身に付いていると思っている。
だがそれは、作法ではなく”習慣”だったりする。

そこで作法家の登場である。
なぜこの世に口うるさい作法家がいるのか。
作法は習慣とは異なる、もっと洗練されたものだからだ。
作法家によれば、多くの人の振舞いの”習慣”は作法に叶っていない。

たとえば、食事の前に、「いただきます」と言う時、合掌するのが作法だと思っている人がいるようだ。
とりわけ、NHKをはじめとするテレビ局はそう思い込んでいるフシがあり、
作法家としては食事場面のシーンは目をそらしたくなる。
江戸時代の学者・西川如見によれば、この動作は、農家の風習であって、武家や公家の作法にはない。
作法的には”合掌”は不要である。
軽く上半身を屈して礼をすればよい
(和食作法はそもそも禅寺での作法が根拠なのだが、宗教臭さをそぎ落としているのが特徴なのだ)。
ちなみに、わが家ではずっと作法通りにしており、
合掌する所作は大学時代にはじめて地方出身者がそうするのを目にした。

同様に、漬物でご飯を食べるのも、おかずの少ない農家の風習であり、
作法的には漬物はお茶請けであって、食後の茶の”おかず”だ。
これは室町時代のあちこちの作法書に書いてある
(逆に言えば、当時から漬物でご飯を食べる人がいたらしい)。

ただ、伝統的作法を、そのまま無批判に現代人に適用するのも問題だ。
作法の本質は、”最適性”にあるのだから、現代の知見から最適でないと判断されるなら、
未練なく、作法それ自体を改変すべきだ。
この点が、伝統芸能との違いになる。

和食の作法は、「米」に対する表敬がやたら強く、食事作法も”ご飯”中心である
(合掌こそしないものの、気持ちは同じ)。
作法的にも、おかずはご飯を進めるための添え物にすぎない。
おかずは、二度続けて箸をつけてはならないが、ご飯だけは許される。
そしておかず1→ご飯→おかず2→ご飯→おかず3→ご飯…と、頻度的にもご飯を中心にして食べる。
これでは、炭水化物の過剰摂取になる。

和食は、現代の栄養学からは、必ずしもバランス的に理想的ではなく、
塩分が多すぎ、カルシウムが少なく、糖質も多すぎる。
高血圧でさらに血糖値が気になる私としては、正直、作法通り食べるのがつらい。

もちろん、脂質が多すぎる西洋料理も理想的でない。
作法は慣習ではなく、その時代の理想であるべきだから、
人々を健康にする食べ方こそ作法となってほしい。

コメント

もせるゴミ

2008年10月04日 | 作法

ちょっと前の事なんだが、箱根の帰り、湯本と小田原の間の旧東海道を歩いていたら、写真のような看板があった。
「もせるごみ」とはいわゆる「もえるゴミ」のことで、変な看板の一種としてカメラにおさめた。

最初は小田原あたりの方言か、と軽く考えたが、
歩きながら考えてみると、もしかしたら「もえる」より「もせる」の方が適切な表現かもしれない。
「燃える」とは、「燃えない」の対立表現で、「燃やせる」という”可能”の意味で使っているのだが、「燃える男」というように、「燃えている」という”状態”をも意味できる。
すなわち、多義的であいまいな表現なのだ。
その多義性が含蓄という深みをもつならいいが、そうでなければ、意思伝達の表現としては純粋に”悪い”性質になる。
それに対して、「燃せる」は「燃す」の”可能”として一義的だ。

さらに、「燃す」には、人間が点火するという使役性を含意しているが、「燃える」にはそのニュアンスはなく、むしろ自発的燃焼の方を含意する。
人間が焼却処理するゴミに使うなら、「燃える」より「燃す」の方が現実を正しく表現する。
以上の観点から言って、「燃えるごみ」より「燃せるごみ」の方が、一義的でかつ現実に即しているということで、より優れた表現といえる。

「燃えるゴミ」は全国の自治体に広まっているはずだが、その趨勢に抗(あらが)ってもなお、より正しい表現を選んだ小田原市の姿勢には敬意を表する。

日本では唯一の”町を守る”城壁を築き、豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した小田原北条氏の矜持を思い出す

コメント