今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ライスを食べる作法の問題

2024年04月20日 | 作法

ある館内のレストランで、パスタ単品の昼食を摂っていた(私にはライス付きの昼食は多すぎるため)。
ふと周囲を見渡すと、私以外の人はほとんどライス付きの料理を食べていて、そのほぼ全員、箸で食べている。
フォークより使い慣れた箸の方が、ご飯を適量摘むのに適しているので理解できる※。
※:昔は、こういうシーンではナイフとフォークだけで、しかもフォークの背側にナイフを使ってライスを乗っけて食べるのが”正しい”とされていた。フォークの腹でなく背側を使うのはヨーロッパでも(ナプキンを首から下げた時代の)前時代的所作。

ところがその中の幾人かは、ライスの皿を手に持って食べている。
皿を手に持って食べる行為は”洋食”としてはマナー違反になる(手を添えるだけならよい)。
ある女性は、サラダの小皿を手に持って箸で食べていた(和食なら問題ない行為)。

ではそれ以外の人たちはというと、卓上のライスの皿に顔を近づけていって箸で食べていた。
これは”犬喰い”(人間の食べ方ではない)というキツい和食のマナー違反である。

すなわち、ライスを食べる時、洋食か和食かのどちらかのマナー違反を余儀なくされるジレンマ状況になっている。

そもそも”洋食”にはパンの代わりの位置としてのライスは存在しない。
すなわち白米を”ご飯”として専用皿に盛って出すこと自体が、正当な食事(洋食、和食)には存在しない。

白米を”ご飯”すなわち主食として食べるのであれば、飯碗に盛ればいい。
そうするとその瞬間、おかずが洋食メニューであっても、”和食”(のバリエーション)になる。
すなわち、飯碗を手に持って、おかずを箸でつついて食べればよい。
実際、家庭ではこうやって食べているはず。

言い換えれば、現実的に白米+洋食のおかずという和洋折衷なのだから、さらに店側が箸まで提供しているのだから、形式だけの”洋食”にこだわることはかえって不適合となる。

飯飯+箸+平皿に洋食のおかずにすれば、和食のマナーの範囲内で対応できるから(和食でも大きな平皿を手に取って食べるのはNG)。


他者を見下す人たち

2024年04月10日 | 作法

他者を見下す発言で辞職に至った県知事、機内・県職員へのパワハラ言動が話題になっている国会議員。
いずれも社会的地位が高いものの、作法的には未熟なレベルで止まっている(礼という徳が身についていない)残念な人。

いい歳をした人が尊敬に値しない人格レベルに止まっているのは、何も価値観の変化についていけないという行動規範のズレの問題ではなく、「人格の陶冶」という生涯にわたる成熟課題を放棄してしまった現代人の限界なような気がしている。
※:これにもレベル差があり、儒教は社会性に優れた”聖人”が目標だが、仏教はそのレベルを超越した”如来”が目標。

明治維新で封建的身分制が解消され、戦後に男女平等が規定された。

なのに、未だに対人関係を上下関係とみなし、上の者が下の者を蔑む。

本来の”礼”は、上下関係は認めても、蔑むことは本質的無作法として否定される(これは既述)。

私が気になっているのは、現代の作法家(マナーの先生)たちが、意外に封建的上下関係や不必要なジェンダーを無批判に現代に持ち込もうとしている点。

そもそも作法は、社会的価値の実現が目的である。
すなわち、社会的価値が作法の上位にあって、社会的価値とは別に作法の価値があるのではない。

なので封建時代(的社会的価値)の作法を、そのまま現代の平等を理想とする社会に適用することはあり得ない

私が紹介する小笠原流礼法も、身体動作の普遍的合理性の部分であり、また儒教の礼思想がもっている万人に対する表敬の普遍的価値の部分である。

それに対し、礼法の原典たる『礼記』が、女性は生きている間ずっと男(父、夫、息子)に従えという”三従の徳”を説いても、それは採用しない(小笠原流ではすでに室町時代にこの教えを否定している。ただし江戸時代は公的道徳として採用された)。

作法が価値の実現であるというからには、その作法が前提としている価値観こそ自覚すべきである(私が構築した「作法学」は、作法に含意されている社会的価値観を抽出することを目的としている)

この視点が欠けている”マナーの先生”は、伝統的作法が準拠している社会的価値観に無批判な、
単なる形式主義者(形だけの人)に過ぎない(武家礼法を単なる”故実儀礼”と同一視している歴史家たちも同じレベル)。


上座・下座の基準2種

2024年03月30日 | 作法

今週の『問わず語りの神田伯山』を聴いていたら、寄席の楽屋で偉い師匠が上座に座らないので同席者たちが困ったという話があった。
ちなみに、寄席の楽屋の上座は”柱の前”とのこと。
どう困るかというと、上座が空席になるので、末端の者の座る場所がなくなるのだという。

私が教えている「小笠原流礼法」では、これは困った事象にならない。

こんな現象は昔からあって、いうなれば、一番偉い人は、席を指定されること自体が不要で、好きな場所に座っていい。
そうなると、その場所が上座になるのだ。
「座の次第は御前にてさだまるなり」(万躾方之次第)ということ。
※:小笠原総領家に伝わる最も正式な礼書の1つ。

上座・下座(じょうざ・げざ)※すなわち座席の序列には、空間の基準と人の基準の2つがある。
※:これを「かみざ・しもざ」と発音する人が芸能界とりわけ古典芸能界に散見するが、彼らが演じる舞台の上手・下手(かみて・しもて)と一緒くたになった発想だろう。「かみざ」は”神座”に通じて神聖な座という余計なニュアンスを与えてしまう。ちなみに鎌倉時代は、座上・座下と言っていた。

そして小笠原流礼法では、両者の基準が不一致の場合、人の基準を優先する。

もちろん、次席は上座の隣で、そこから遠くなる程下座になる。
すなわち、上座・下座は相対的なのだ。
これを「上座・下座の相対性理論」と言っておこうか。

ところが世間では、空間の基準(絶対性理論)しか教えられていない。
空間の基準では、例えば和室では床の間が上座ポイントで、出入り口が下座ポイントである。
ただ上座ポイント(例えば床の間)がない部屋は普通にある。
その場合どうする?
問題ない。
どの部屋にも下座ポイントである出入り口は必ずあるので(ない部屋には入れない)、下座の対角線先が上座となる。
なので、どんな部屋でも(空間の)上座・下座は瞬時に判断できる。
ということで、まずは人がいなくても決まる空間の基準をデフォルトにしてよい。

ところが、ある部屋の上座ポイントは庭がよく見えないとか、エアコンの風が当たるとかで座としてベストでない場合が発生する。
となると、人が一番座りたいと思う場所を上座(最も尊敬される人の座)とした方がよい、というのが空間ではなくの作法を考えた小笠原流礼法である。
人を優先するとはこういう柔軟な対応をするという意味だ(作法は最適性の追求)。

「座の序列は人の基準を優先する」という論理を突き詰めると、同輩同士が座る空間には上座・下座は存在しないことになる。
実際「同輩の時などは高下有るべからず」(同上)と述べている(なんと論理一貫していることか)。
多分昔から、同輩同士が上座を勧め合い遠慮し合う、無駄な時間が多かったのだろう。
小笠原流の人は、そういう空虚な儀礼を馬鹿らしいと思ったのだ
(作法の第一の敵は無作法だが、第二の敵は作法を形骸化する形式主義)。
※:形式主義でない作法とは如何なるものかについては、このカテゴリーの他の記事、例えば「作法のタブーと本質」を参照。

話を最初に戻すと、既定の上座に座らなかった師匠は、伯山氏も述べているように「謙虚でやさしい」人と言える。
礼書でも「我が有るべき座よりもさがりて居べきと思う心持肝要なり」(同上)と教えているように礼に叶っている。
逆に「高座を心懸くるは田舎の人のわざなり」(同上)という。

というわけで、小笠原流礼法の論理では、上座を遠慮する上位者がいても、他の者たちは相対性理論を適用することで困らない。
ただし、神仏の面前など、人を超越した基準で空間の座が決まる場合はその限りではない
(楽屋の柱がそれに相当するかは知らない)。


作法のタブーと本質

2024年03月14日 | 作法

※この記事は、2024年3月に閉鎖される私のサイト内の記事の転載です。
作法教室に通っている人に向けた内容です。
人が作法を学ぶ目的と効果について、明確にしたかったのです。


作法を学び始めて、どんどん作法を知ってくると、周囲の人の振る舞いが実は作法にかなったものでないことが目についてくる。
すると、今までなんとも思わなかったのそれらの人に対して、失望感さえもつようになる。
これは作法を学ぶ途上で陥る、一過性の"副作用"である。
※:学んだことで却って不幸になる状態

作法を学ぶのは、自分が天狗になるためではない。
作法を真剣に学ぶ者は、この状態に陥ったら、一刻も早く抜け出さなくてはならない。


作法の最大のタブー

作法の究極の目標ともいうべき、作法が理想とする人間関係のあり方は何か。
逆にいえば、他者に対する作法の最大のタブーは何か。
ただし一定以上の品性を前提とした作法(マナー)の話であって、
道徳(モラル)や法律(ルール)ではないので、”殺人”などの犯罪(ルール違反)レベルの話ではない。

16世紀のイタリアのデッラ・カーサによる作法書『ガラテーオ』
(イタリアの作法の基準となり、今ではイタリア語のgalateoは“礼儀正しさ”という意味になっている)はそれを明確に述べている。

「どんなに相手に敵意をいだいていても、あざ笑うようなことは決してしてはなりません」

すなわち最大のタブーは相手をバカにする(あざ笑う、侮蔑する、嘲る)こと

デッラ・カーサによれば、”怒り”は、少なくとも怒る当事者にとっては正義の怒りであるから、
正当な主張であり、これは不作法ではない。
それに対し、他者を侮蔑することは、悪意以外のなにものでもないという。

「あざ笑うというのは、自分たちの利益とは無関係に、ただその行為が趣味で隣人に恥をかかせようとするわけです」

あざ笑うのは、相手をいためつけるためにやる悪意に満ちた行為であり、そこには(怒りとはちがって)微塵の正義もない。

デッラ・カーサ以上に後世のヨーロッパの作法に影響を与えた同時代のオランダのエラスムスも、
その作法書でこのタブーを次のような言い回しで表現している。

「礼儀正しさとは(中略)他の人の過失を快く許すことにあるのです。」

すなわち、作法を知っていると自認する者が、他人の不作法をあざ笑うとしたら、
その者は作法の枝葉しか知らず、作法の根本がまったく身についていないことを露呈していることになる。

同時代(戦国時代)の日本では、小笠原昨雲という兵法家(礼法家ではない)が著した黎明期の武士道書『諸家評定』でも、
「同輩を嘲(あざけ)ることに、諂(へつら)い・恥をかかせる・遺恨の三つの罪有り」として、
「嘲りは不忠の第一也」としている。
つまり嘲りは武士道として最大のタブーなのだ。

また、侍は、「人を嘲りて理屈をいはんとする時は、恥を取るべき事なるぞ」と、
他者を嘲って優位に立とうとするよりは、むしろ恥を選ぶべきだとも言っている。

たとえば自分の才気煥発に自惚れると、自分の親をも嘲ってしまうことがあるが、
「みづからの賢才なりと慢じて、父母の愚なる事を嘲る事、虚人のことわざなるべし。いかんとなれば、みづからの賢才は、父母のさづけたるにあり」と戒めている。

これで作法の最大のタブーがわかった。
ではその逆の作法の本質は何か。


作法の本質と効果

これは論理的に導出できる。
侮蔑の反対、”表敬”である。

儒教の根本経典の1つで、世界最初(前2世紀)の体系的作法書『礼記』(らいき)の冒頭は「敬せざるなかれ
(敬しないことはあってはならない)で始まる(礼記:曲礼上)。

礼とは敬の表現なのである。
「敬」という心(気持ち)を形に表現することが「礼」という記号体系なのである。

礼記によれば、敬は「誠」であり、「仁」の具現であるという。
※:仁(≒愛)は儒教第一の徳。礼は義に続く第三の徳。

つまり敬は、偽りでない心底の愛に由来する。
「仁者は必ず人を敬す」(荀子:臣道篇)というように、誰に対しても敬する。
つまり礼において人を侮蔑することはありえない。

賢者なれば則ち畏れてこれを敬し、(中略)不肖者(≒愚者)なれば則ち疎んじてこれを敬す」(同上)というように、
礼の世界はとにかく敬す以外に選択肢がなく(親疎の別をつけるのみ)、
愚者をバカにする人間(ネット世界にも散見する)の方が、その行為によって愚者よりも品性において低級な人間ということになる。

ましてや身近な相手なら、上下関係を問わず敬す。
部下に対しては「君、臣を使うにを以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」(論語:八佾)と、
忠と礼(=敬)は相互的関係にある(部下の忠を求めながら、部下を敬しない上司はダメ)。
自分の子に対しては「子は親の後なり、敢てせざらんや」(礼記:哀公問)と、
親(無条件の敬の対象)への敬の延長として、わが子を敬する。

では自分自身に対してはどうか。
「身を敬するを大と為す。身は親の枝なり。敢てせざらんや」(同上)として、もちろん敬す。
これは有名な「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という『孝経』の教えにつながる。
親がわが子のピアスやタトゥーを嫌がるのは、わが子の体が傷つくのと同じ痛みを親自身が受けるからだ。

さらに、人だけでなく、「山林川谷丘陵の能く雲を出し風雨を為し怪物を見(あら)はすを皆、神と曰ふ」(礼記:祭法)と、この世の自然までも(神として)敬する。
これは仏教の「草木国土悉皆成仏」(涅槃経)にも通じる。

つまり、自分を含めた世界の全てが敬の対象となる。

人は例外なく敬するのであるから、当然、互いに敬し合うことになる。

たとえば小笠原流礼法の教室では、開始と終了時に教師と生徒は礼(お辞儀)をするのだが、
その際、互いに同じ”双手礼”という深い礼をする。

そもそも作法では敬意の度合いをお辞儀の深さで表現するのだが
教師から生徒への礼と生徒から教師への礼はおなじ深さ=表敬度である。
※:封建時代の礼法では、互いの上下差を礼(お辞儀)の深さの差で表現したが、現代の小笠原流では、人に対する礼は全て”双手礼”で統一し、より浅い礼は部屋に対する礼、より深い礼は神仏に対する礼と分けている

つまりここでは自分がされるのと同程度に教師も生徒を敬するのであるから、
生徒の人格を否定するような”パワー・ハラスメント”は発生しない。

それに対し、「お客様は神様です」といって客が絶対的上位者だと誤解させる風潮は、敬を片務的な義務(形式)に堕してしまう。
実際、この言葉があらゆる場面での”客”を不作法にし、(他者を敬せない低レベルの者に)堕落させた。

互いを利するのが”商売”であり、店側と客側は自分が受けた利に対して互いに「ありがとう」と言い合うのが本来のあり方だ。
欧米ではこの相互的表敬ができているのに、礼の伝統のあった日本では客がいばりすぎている。

さて、作法を深く学び、研鑽を積み、自分の価値が自分でもわかるほど向上したとする。
そこで内心、優越感を覚えるのは、人間心理として無理もない。
その時が、作法的には危険なのだ。
「よく実った穂ほど、頭(こうべ)を垂れる」というが、この譬えが”慢心(古くは”我慢”)の戒め”では表層的すぎる。
自重によって頭を垂れるのではなく、相手への誠なる敬意によって頭を下げるのが正しい礼なのだ。
敬の伴わないお辞儀は、人前での単なる前屈運動にすぎない。

この世のあらゆる存在者(他者、自己、その他一切)が敬するに値することを認めたら、
つまり自分の存在が敬に満ちたものに囲まれているなら、それはこのうえなくすばらしい世界に住んでいることになるわけで、幸せなことではないか。
そう、作法をやれば幸せになるのだ。
言い換えれば、副作用状態の人はくだらない世界に生きていて不幸の中にある。

このような心の変化(礼の人徳化)こそ、作法をやる目的・効果に値する。
なのに、現実の作法の社会にいると、作法の知識だけ増えて、人徳が却って低下する人(口うるさいだけのイヤな奴)を散見するので、あえて記した。
※:この副作用は既に『礼記』(経解)で「礼の失は煩(口うるさい)」と指摘されている。


最後に弁解を少々。
作法書は、不作法な様態を活き活き描くために、例示する不作法者に対してユーモアまじりの侮蔑的な表現をせざるをえない時がある。
これは、特定の個人・団体を侮蔑しているのではなく、不作法の具体例としての言葉のアヤとして御容赦願いたい。
実際、作法書の著者なら、そのような記述は、私はもちろんのこと、デッラ・カーサもエラスムスも、孔子様までもが逃れられなかった。


引用文献

●デッラ・カーサ.G (池田廉訳)『ガラテーオ―よいたしなみの本―』 春秋社
●エラスムス.D (中城進訳) 『子供の礼儀作法についての覚書』(「エラスムス教育論」所収) 二瓶社
●小笠原昨雲 (古川哲史監修 魚住孝至編、羽賀久人校注)『諸家評定』 新人物往来社
●他に『礼記』『論語』『荀子』『孝経』『涅槃経』


礼法実践者・大谷翔平

2023年04月07日 | 作法

 WBDが終わってシーズン始まってからも、大谷翔平への称賛が終わらず、むしろ新たな称賛の話題が次々と生まれている。

しかもその内容が野球のプレーの出来に関するものより、彼のグラウンドでの振る舞いの素晴らしさ、特に他者への配慮に対してなので、これは彼の人間性そのものが称賛されていることになる。

称賛の理由は、彼の振る舞いが、他者へのリスペクトに満ちているため。

彼の示すリスペクトは、格別尊敬に値する相手に限定しない、他者がただ存在していることへの本質的で無条件の敬意になっている。

リスペクトされた側は嬉しくないわけがなく、またそれを見ている第三者までもいい気持ちになって、この第三者たちが称賛を送っている。
相手側の”嬉しさ”も、第三者の”いい気持ち”も、大谷が示したリスペクトへの反応なので、そのリスペクトに対する反応としての称賛が、今度は大谷へのリスペクトとして大谷に返される。

こうして実現するリスペクトの好循環が、闘志の表現だけが推奨されてきた大リーグに、大谷によって新たに起こりつつある。

人々が互いにリスペクトし合える関係・社会の実現。
これこそが礼法の目的なのだ。

なぜなら礼法の原典・『礼記』(世界最初の礼法書)によれば、とは(リスペクト)の心の表現と定義されている。
日本の武道が取り入れている礼法を、大谷はそれを野球の中で、形式的でなく、実質的に実行しているわけで(ここが武道の形式的礼と異なる)、まさに大谷は礼法の素晴らしい実践者といえる。


日本人はなぜお辞儀をするのか

2022年12月09日 | 作法

サッカー日本代表の森保監督の試合後のお辞儀が世界中で話題になっている。

日本人のお辞儀は、その角度の深さと頻度の高さから、昔から日本人的動作として知られている。

ただし相手に対して頭部(こうべ)を下げる動作は、人類に普遍的であるため、日本人のお辞儀姿勢そのものは、違和感なく理解される。

お辞儀は「礼」とも言われるように、礼(作法)を代表する動作で、私が教えている小笠原流礼法では、坐礼だけでも6種ある。
さらに坐礼の前後の扇の扱いなどを含め、礼の一連の動作は、作法の基本として最も重視されている。

その礼とは何を意味する動作か。
ズバリ”敬意”である。
『礼記』によれば、礼とは敬意の表現(可視化)であるからだ。

ということは、日本人は敬意の表現を頻繁にするわけで、それは日本人にとって敬意の対象がとても多いことを意味する。

何より外国人が驚くのは、他者以外に、場所に対しても日本人が礼をする姿。

武道者が道場に礼をするように、力士は土俵に、ボクサーはリングに、球技選手はグラウンドに礼をする。
日本人ファンが、スタジアムをきれいにして帰るのも、場に対する敬意があるからだ。

私は先日、長年使って捨てることになった財布に礼をした。

日本人は、他者だけでなく、世界(この世)を構成するさまざまな”他”に敬意を持ち、表現することが普通にできる。
言い換えれば、日本人は敬に値するものに囲まれて生きている、幸福な人たちなのだ。
その姿に他国の人たちも感動し、今度は日本人が彼らの敬意の対象となる。

それを可能にしたのは、日本で独自に発達した礼法の伝統だといえる。


歩き方は1つではない

2022年01月07日 | 作法

東京に雪が降ると、転倒する人が続出して、雪国の人からバカにされる。

なぜなら、東京人は雪道にふさわしい靴と歩き方を選択していないから。
いわば雪道をノーマルタイヤで普通にスピード出して運転し、当然ながらスリップ事故を起こしているようなものだから。

せっかくだから、歩き方は1つではない、ということを認識しよう。
残念ながら、世に出ている「歩行法」は、洋式歩行のみを唯一正しいとした偏狭なものだ。
すなわち、爪先後方蹴りだし駆動で、膝を伸ばして踵着地、骨盤を前後に回転し、足とは逆の腕を振る。
スニーカーで平らな道をスタスタ歩くにはこれでいい。
だがこの歩き方で雪道や和室を歩かないでほしい。

着物を着て和室を歩くなら、和式歩行をしてほしい。
すなわち、膝を軽く曲げた姿勢で、爪先も踵も大きく上げないすり足で、両手は腿に付けて、腕は振らない(振るにしても足と同じ側)。
こうすれば足音を立てずに歩けるし、つまずいたり滑ることもない。
江戸時代の日本人はこの歩き方だった(江戸時代の日本人は今でいう”正しい”歩き方をせずに、数百キロの街道を歩き通せていた)。

そして雪道では、足をフラットに降ろし、後方にけり出さずに、フラットに持ち上げる。
すなわち着地した靴底内の重心移動を極力避ける。
この歩き方はダイナミックに重心移動する洋式歩行とは真逆で、和式歩行に近い。
いいかえれば雪道で”正しい”洋式歩行をすると、必ずスリップする(底面がツルツルの靴ならなおさら)。

最適な歩きは、道の状態や履物によって異なるのである。
だから、歩きは複数パターン身につけ、時と場合に応じて選択すべきである。
歩き方は自然に身に付くのではなく、学ぶものである。

日本人はきちんと歩く教育を受けていない人が大半なので(本来は学校の体育でやるべき)、和式・洋式いずれの視点からも中途半端な歩き方になっている。
小笠原流礼法に基づく私の授業では、和式、洋式双方の正式な歩行法を教えている。


作法・礼法講座5:小笠原流礼法の価値観

2020年10月11日 | 作法

前回、作法を分析的に見る作法学を紹介したので、今回はそれを小笠原流礼法、しかも五百年以上昔の室町時代の礼書に適用してみる。
小笠原流礼法という作法体はいかなる作法観・価値観をもっているのか。
以下、作法学用語で説明するので、前稿(作法・礼法講座4:作法学)を読まれていることを前提とする。

まず条件素について
条件素は作法素(具体的作法)の有効場面を指定・限定するものである。
礼書では、一通りの作法素を述べた後、「〜すべし」の後に「いずれも時宜によるべし」という文言がよく追加される。
時宜、すなわち「時と場合」で作法素が異なることを付加することで、直前に述べた作法素の効力(適用範囲)を自ら最小にしている。
これは1つの作法素を、時宜を越えて固定させない措置である。
要は柔軟に対応しろということだ。

ここには、作法は場面(条件素)によって最適性が異なるという作法観、すなわち「礼は宜しきに従う」=作法は最適性の不断の追究という姿勢がみてとれる。
そして時宜の適否は自分の頭で判断しろ、ということで、作法を実行するには、状況の的確な把握能力が必要であることが示されている。
作法は、丸暗記ではダメで、頭を使わねばならないのだ。

機能素の構造
ではその最適性は、いかなる基準で判断されるのか。
最適性を判断するには判断基準が必要であり、その基準こそが作法に通底する価値観である。
その価値観が作法素に反映された部分が機能素、作法の理由の部分である。

作法とする理由=機能は、一つではない。
たとえば人に対しては「表敬」という機能が、物の扱いには「安全」という機能が優先される。
では、人前で物を扱う時はどちらを優先すればいいのか。

室内で、人が座している前を通るのは(目線の邪魔をするので)失礼であるから、通れるなら後ろを通れと教える。
ところが、膳を運ぶ時はあえて前を通れという。
なぜか。

膳は、”肩通り”か”乳通り”の高さに掲げて運ぶ(最上の表敬位置である”目通り”は危険なので神前の儀式以外では使わない)。
それでもバランスがくずれて膳をひっくり返す可能性がある。
座者にとって背後の高い位置で膳をひっくり返されるより(頭にみそ汁や焼魚が降りかかる)、目の前でひっくり返された方が避けることができて安全である。
なので、膳を運ぶ時は、人への表敬よりも人への安全を優先するのだ。

すなわち複数の機能が競合する時、その優先順をつけ、その優先順が作法素間で一貫している必要がある。
機能の優先順に、作法体の価値観が反映される。
小笠原流礼法は安全の基準を最優先するので、一意的に最適性が決まる。

最適性の判断基準が決まったなら、具体的にいかなる所作が最も安全なのかを考えねばならない(その所作が作法素の行為素に選ばれる)。
物を持つ時、片手より両手で持つ方が安全であるし、この安全を高める(物を落とさない)ことが物への表敬にもなる。
ただし持ち運ぶ際の安全性を高めるには、両手で下から支えるより、片手を下に、他手を横に添える方が、安定性が高まるのでこちらが推奨される。
では、左右の手をどう使い分けるのか。
小笠原流では、左手で支え、右手(利き手)は横に添えるだけと教える。

普段多くの人は、何も考えずに利き手を主たる動作に使いたがる(たとえば鞄を利き手で持ったりしないか)。
それに対し小笠原流では、「利き手を空けておけ」と教える。
たとえば夜の廊下で灯火を持つのは左手で、右手をあけよと教える。
瞬時の反応(つまづいたり、滑ったり,敵と遭遇したり)こそ、利き手(右手)で反射的に体を支えるためで、その方が安全性が高まるからだ。

その理由で、物を支える能力に左右差はないものとし、左で下から支え、右手は横に添えることによって、緊急事態に対応できる”構え”の状態にする。
この安全第一の物の持ち方〔左手で底を持ち、右手を横から添える)が、茶の湯の茶碗※の持ち方に適用される。

※茶の湯初期に使われた台付きの天目茶碗はこの持ち方ではなかった。だから粗相をしやすかったので、今のような茶碗に置き換わった。

お茶しかやらない人は、なぜ茶碗がこの持ち方をするのか、その理由までは教わらないだろう。
茶の湯の作法の元となった小笠原流礼法※は、上述したようなきちんとした論理(機能素)で説明できる(小笠原流礼法を学ぶと、茶の湯の所作の意味がきちんと理解できる)。
※:茶の湯の所作が制定される時、すでに確立されていた小笠原流礼法が参考にされたという。その証拠となるのが、炉点前における柄杓の扱いで、弓を引く所作が入っている(桑田忠親『茶道の歴史』講談社)。

ただしこういう動作合理性だけが機能(作法の理由)ではない。
たとえば陰陽五行思想が作法の根拠になっていることは、特に儀礼において多い(こういう場面は安全が確保されているため)
日本の作法の原典ともいうべき儒教教典『礼記』には、すでに陰陽五行思想が作法の根拠に使われている。
たとえば、天子の服装は、四季で色を使い分けよとある(月令)。
すなわち、五行思想によって、春=青、夏=赤、秋=白、冬=黒と季節ごとの色が指定されている(四季に五行だと1つ余るので、四季の間に無理やり”土用”なるものを創設し、残りの黄を当てはめる。五行思想はかように苦しい牽強付会だらけ)
これに準じて日本で仕官の服の色を規定しようとしたが、小笠原流は、春は広義の青として萌黄色(新緑の色:日本人は緑も青に分類)を選択するものの、夏が赤では暑苦しいので涼しげな水色にし、秋の白も使いにくいので、土用の黄で代替し、冬の黒は、まぁ温かく感じるのでOKとした。
すなわち、礼記が指定する五行基準を公然と批判して、その代わりになんと色彩心理を基準としたのだ(色彩検定2級の私が解説すると、赤は暖色、水色は寒色、そして黒も暖色に入る。緑はどちらでもない)。

小笠原流礼法の女性観
陰陽五行思想は、礼記はもとより、日本の宮廷儀礼にも採用されている伝統的作法基準なのだが、合理的知性を備えた小笠原家の人々は、この怪しげな基準に距離をおきたい雰囲気が礼書のあちこちに見て取れる。
それが如実に表れているのが、女性観の問題だ。

そもそも『礼記』(郊特牲)には、「婦人は人(男)に従う者なり。幼くしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子(息子)に従う※。」すなわち女は一生男に従えという「三従の徳」を説いている。

※:ことわざカルタにある「老いては子に従え」の元ネタ

なんでこんなことを説くかというと、前漢時代の『礼記』が成立する前に、董仲舒という儒学者が出て、本来デジタルの陰陽思想に五行という世俗の迷信思想を無理やりくっつけ、そして原理的には対等で互変的な陰・陽☯を、陽が上で陰は下に序列化し固定した。
この根本的序列化を「陽尊陰卑」といい、陰か陽かに分属される世界の二極対がこれに対応してことごとく序列化される。
その結果、陽に属する男と陰に属する女の関係も”男尊女卑”に固定され、陰(女)の陽(男)に対する生涯の従属が儒教文化圏で当然視されるに至った。

ところが、室町時代の小笠原流礼書『大双紙』は、この三従の徳の箇所を引用した後、こう続けている。
「そもそも日本国は和こくとて、女のおさめ侍るべき国なり。天照太神も女体にてわたらせ給う上、神后皇宮と申し侍りしは、八幡大ぼさつの御母にてましますぞかし(…この後、推古天皇をはじめとする歴代の女帝を列挙…)。二位殿政子と申せしは(…北条政子の業績を列挙…)、五十一ヶ条の「式目」を定められ侍るなり。今にいたるまで武家のかがみとなれるにや。されば男女によるべからず。心うかうかしからず、正直にたよりたしかならん人かんようたるべしと見えたり。」

すなわち日本の女性は、歴史的に三従の徳によらず、男の上に立ってもおかしくないし、結局男女で差をもうける必要はなく、要は人間性だと言っているのである。
室町時代にこのような現代的言説が誕生したことに驚くが、実は訳がある。
この原文(元ネタ)は、一条兼良という公家(関白)によるもので、時の第一権力者で大富豪の日野富子(将軍義政の妻)に語ったものである(『小夜のねざめ』)。
となると「女のおさめ侍るべき国なり」も富子への最大級のリップサービスで、阿(おもね)りに満ちた文脈での言説であることがわかる。
ところが、その言説が、おもねりの文脈を離れて、武家の男子を対象とした小笠原家の礼書に採用されたことこそ意味がある。
すなわち時の小笠原氏はこの言説に共感し、男たちに示したいと思ったわけだ。
かように小笠原流礼法は、礼法のバイブルといえる『礼記』に盲従せず、陽尊陰卑が論拠でしかない男尊女卑思想から自由であったことがわかる※。

※:残念ながら、この思想は広まらず、儒教(朱子学)が官学となった江戸時代になると、董仲舒的男尊女卑思想の方が広まってしまった。その代表例が『女大学』

このような価値観をもった礼法だからこそ、私は勤務先の女子大で、自信を持って学生に小笠原流礼法を教えている。

以上、巷の作法書にはなかなか書かれない作法・礼法の本質的な部分をシリーズで記事にした。
今後私が作法の細かい問題について記事にする場合、ここで示したことを前提としてご理解いただきたい。

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作法・礼法講座4:作法学

2020年10月09日 | 作法

小笠原流礼法を学ぶことで、作法は論理的に整合した構造体であることがわかってきた。

そうなると、学究の徒としては、作法を学問的に分析したくなる。
作法研究は従来は歴史民俗学の1つで、固有の学問対象ではなかった。

小笠原流礼法を習っていた心理学研究科の大学院生の当時、心の定量的分析ではなく、意味分析を志向して記号論にハマっていた私は、記号論の祖であるソシュールの構造言語学およびその応用であるバルトの『モードの体系』(ファッションについて言説の記号論的分析)をベースに、グレマスの『構造意味論』を応用して、作法を学問的に構造分析をする「作法学」を構想した。

作法学は、個別言語に対する言語学、個別の法律に対する法律学の位置にあり、個々の作法を客観的に記述し、相互に比較し、またその構造的欠陥や矛盾を指摘する、すなわち作法を客観中立的視点から構造批判する学問である。

そもそも作法自体が、日常の行為に対する”批判”として誕生した。
なら「そうではなく、こうするのが作法(マナー)です」と断じられると、その批判的言辞に対して文句はいえないのか。
単なる感情的反発ではなく、その作法はおかしい、と客観的視点(根拠)から作法を批判する装置がわれわれに必要である。
さらには、個々の作法は特定の時代・文化的価値観に束縛されており、それを抽出して明らかにすることで、絶対視されそうな作法を相対化し、すべての作法を批判的かつ統一的に眺めることで、現代の視点(価値観)でベストな作法を構築することを可能にする。
そういう目的をもって個々の作法を分析する作法学をここに紹介し、今後は、この視点に基づいて作法を記述していく。

まずは作法学の基本概念を紹介する。
作法とは、所作についての評価の命題からなっている。
その個別の作法的命題、すなわち1個の作法を「作法素」という。
作法素はさらに、それを構成する、4つの要素からなる。
たとえばいま、お母さんが子どもに、「人前で、鼻をほじるのは、みっともないから、やめなさい」と叱ったとする。
これを作法についてのしつけとみなすと、この言説は1つの作法素とみなせる。
その作法素は、「人前で」、「鼻をほじる」、「みっともない」、「やめなさい」の4要素に分解できる。
それらを条件素、行為素、機能素、評価素という(〜素という名称は、『構造意味論』の影響)

この4要素が作法素を構成する文法的単位であり、作法素の集合体から条件素を集約すれば作法とされる場面の構造がわかり、行為素を集約すれば作法とされる所作の構造がわかり、機能素を集約すれば作法とされる理由・根拠の構造がわかり、評価素を集約すれば作法としての評価(良い/悪い)構造がわかる。
そしてそれらから、作法素の集合体の文法構造が把握できる(言語学的手法)。

これら4要素が揃ったのが完全な作法素だが、世に出回っている作法素の多くは、機能素が省略されていて、いわば理由なしの押し付けとなっている。

私がこの機能素の重要性を実感したのは、小笠原流礼法を習ったからで、小笠原流礼法は作法を制定した側なので、個々の作法(作法素)について、ことごとく理由(機能素)が存在していることだった。
考えれば当たり前だが、ある行為は、ある理由があって、作法とされたのだ。
だから作法素に理由(機能素)は必須のはず。

機能素は、行為素と評価素とを結びつけるもので、そこに価値観が内包されている。
作法とは、ある価値観にもとづく行為の評価体系であり、その価値観の実現を行為によって求めるものだ。
だから、ある作法に従うことは、その作法が求める価値観を受け入れ、実現に手を貸すことなのだ。
「作法(マナー)だから従え」という問答無用の言説の思想的危険性がここにある。

ところが、この大事な機能素が欠落された作法が拡がっている。
それは価値観が隠蔽された状態で、人々にそれを従わせることになる。
作法学は、機能素を抽出することで、隠蔽された価値観をあぶり出す(言説からの価値観の抽出は『モードの体系』の影響)
そしてその価値観自体を、現代の視点で批判の対象とする。

次に、個々の作法素の集合体を「作法体」という。
「小笠原流礼法」は1つの作法体である。
作法学は作法体における個々の作法素を構造化することで、その作法体の価値観を含む特徴を析出する。
作法体を構成する作法素は、相互に矛盾があってはおかしい。
これが作法体批判の客観的(論理的)基準となる。

現実の作法体、たとえば小笠原流礼法のような構造化が進んだ作法体は、作法素の単なる寄せ集めではなく、作法素の高次化、メタ作法素といえる抽象的な概念がテキストの中に存在している。
「礼」「躾」という用語だ。
これらは個々の作法素産出の源泉になるので「原作法素」と名づけている。
原作法素は、単語なので、単語=その意味 という単純構造で、テキスト内にその意味が表現されている。

以上の作法学の基本概念そのものが、小笠原流礼法のテキスト(礼書)からヒントを得たのだが、その作法学の視点で小笠原流礼法を眺めると、構造的矛盾のない、機能素が豊富で、原作法素と適合している、ひじょうに洗練された作法体であることがわかる。
世間に出回っている由来の不明な作法素は、そもそも機能素がなく、あっても後付けのインチキなもの(疑似機能素と命名)が多い。

もちろん、作法学は小笠原流礼法も作法体の1つとして、相対化し、分析・批判の対象とする。
私は、小笠原流礼法の一員としてではなく(特定の作法体を絶対視せず)、只一人の作法学者として、作法を客観的に分析した視点での理想の作法の構築を目指している。
なぜなら、作法とは”所作の最適性の追究”であるから、現生人類の身体構造と地球上の重力を前提とすれば、”動作工学”として科学化が可能といえる※。

※これからの作法は、小笠原流などの過去の権威に依存せず、最適性にもとづく科学的根拠に準拠すべきだ。そのためには現行の作法素における機能素の批判的再検討が重要となる。作法学はまずは作法批判の学である。

次回はこの作法学の視点で、小笠原流礼法を分析してみる。

ちなみに作法学については以下の文献を発表済である。
書籍 山根一郎 『作法学の誕生』 春風社
論文 山根一郎「中世ヨーロッパ作法書の通時態分析※1:テキストマイニング分析の試み」
   山根一郎「小笠原流礼書による作法体分析※2:『三議一統』系のテキストから」
   など

※1:原テキストはラテン語なので、中城進氏の翻訳をテキストにしている。テキストからの作法素抽出は、テキスト固有の文学的ニュアンスを削除するので、翻訳でも可能。4要素からなる作法素をデータとした統計分析として、テキストマイニングが適している。

※2:作法学での分析には、テキストから作法素を抽出する作法素分析(※1の論文が該当)と、既存の作法素あるいはより高次の原作法素から作法体の特徴を(価値観)を抽出する作法体分析とがある。基本的に後者は前者を前提とするが、小笠原流の礼書は高次の原作法素が豊富なので、すべての作法素を抽出しきらなくても、作法体分析が可能である。

作法・礼法講座5:小笠原流礼法の価値観に進む

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作法・礼法講座3:武家礼法の存在

2020年10月04日 | 作法

ここでは小笠原流礼法に接近するために、礼法一般から武家礼法に絞っていく。

武家礼法ななぜ在るのか。

その答えは、日本で武士が誕生するずっと以前、紀元前1世紀成立の『礼記』(聘義)にある。
「勇敢強有力の者は、天下事無ければ、則ち之を礼儀に用ひ、天下事有れば、則ち之を戦勝に用ふ」(勇気と力のある者はその力を平時は礼儀に用い、戦時には戦いに用いる)
これが予言書であるかのように、日本の武士は武芸に礼法を加えた。

日本の”武士”は、単なる「兵」(つわもの)から脱して、武人でありつつ儒教の「士」、すなわち庶民の上に立ち、おのれを律する理想化された人格を目指したからだ。

そもそも小笠原氏は武芸(弓馬の法)を「糾方(きゅうほう)と称していた。

糾とは「ただす」という意味で、礼記以前の周の礼を記したという『周礼』(しゅらい)に載っている。
糾方の命名者は『周礼』の知識があったということか。

 1.小笠原流礼法誕生まで

まず、礼法誕生に至るまでの小笠原氏の流れを簡単に紹介する(以下、小笠原氏の系図にもとづくもので歴史学的に正しいかは不問)。
詳しくは、本ブログの独立したカテゴリー「小笠原氏史跡の旅」に紹介してある。

小笠原氏の元は清和源氏で、その清和源氏は、清和天皇の第六子貞純(さだずみ)親王から始まる(平安時代)。

貞純親王は、叔父で武門の達人である源能有(よしあり)から糾方(武芸)を的伝され、武門を相続したという。
これによって清和源氏が武門の家元とされる。
そしてその子の経基に的伝され(基本は一子相伝)、経基は鎮守府将軍となり、将門の乱を平定した。
そして満仲※、頼信と代々糾方が的伝される。

※源氏の系図によると、満仲の子、頼信の弟に、「美女丸」という、とても気になる名の人物がいる。この美女丸、子どもの時に叡山に入り、叡山第一の暴悪児の名をはせたという。

さらに頼義、八幡太郎義家と続くと、源氏は「武家の棟梁」としてのピークを迎える。
また義家は、当代きってのインテリ・大江家に伝わる兵法書『訓閲集』(きんえつしゅう)※を与えられ、源氏は兵法の奥義も手に入れた。

※私も大枚はたいてこの古書を入手した。日本の“兵法”は陰陽道などが混入していて、孫子の兵法のような合理性が失われていたことがわかった。訓閲集を後生大事にしていた小笠原氏が、戦国時代に孫子の兵法を旗印にした武田信玄に破れて信濃の地を追われたのもむべなるかな。こういう迷信的兵法は天下人秀吉に一笑に付せられ、江戸時代は『甲陽軍鑑』の武田流など実績のある兵法とって代わられた。

義家から弟の弓馬の達人として名高い新羅三郎義光に糾方は的伝され、さらに義清清光と的伝され、このころ甲斐に移住し、武田氏の祖でもある甲斐源氏となる。
甲斐は馬の産地で、これによって甲斐源氏は騎馬を得意とする(現在の流鏑馬の家元は小笠原家と武田家)

清光の三男遠光(加賀美次郎)が甲斐の小笠原荘(南アルプス市)に住み、その小笠原で生まれ育った長清が、高倉天皇より小笠原姓を賜った(初代小笠原氏)。
長清は、同じ源氏の頼朝に味方して源平の合戦を戦い、頼朝亡き後の承久の乱の時は東山道軍を率いて上皇方と戦った。

その6代後の貞宗は、足利尊氏とともに、鎌倉北条軍と戦い、尊氏の室町幕府から信濃守護に任ぜられた。
この貞宗が従来の糾方(弓馬の法)に礼法を加えたという。
すなわち、小笠原流礼法は、小笠原7代目の貞宗によって、南北朝期に成立した(私は、小笠原流礼法誕生の年を建武二年(1335年)としている→根拠は、小笠原氏史跡の旅」の「年譜」)

2. 小笠原流礼法の構成要素

ここに至ってやっと小笠原流礼法の話題に移れる。
貞宗が制定したという礼法は、もちろん彼一人で0から創作したものではないはず。
つまり元になるものがあったはず。
それは何か、この礼法を研究してきた者として、以下の3つを指摘できる。

2.1.故実儀礼

武家が政権を取ってから政(まつりごと)をするようになると、それなりの儀礼が必要になる。
その典拠の第一は、従来の朝廷儀礼である。

その朝廷儀礼は、唐王朝の儀礼を範としており、それはさらに漢王朝に由来するので、結局は儒教の儀礼が根拠となる。
それに加えて、頼朝以来の武家の慣習(古いしきたり=故実)も武家固有の儀礼の根拠となる。

日本の史家は、武家礼法のこの部分だけを見て、武家礼法を「武家故実」と(同一視)している。
それが狭過ぎる理解であることは、以下に示す他の構成要素でわかる。

2.2.   禅清規

武家礼法が単なる故実儀礼でしかないなら、小笠原流礼法は鎌倉時代に誕生しておかしくなかった。
なぜもっと後の貞宗の時に礼法が生まれたのか、その理由がここにある。

若かりし貞宗が鎌倉に居たとき(各国の守護は任国ではなく首都に住む)、元(げん)の国から来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)という禅僧と出会った。
清拙正澄は、すでに日本に伝わっていた禅(臨済禅)に、清規(しんぎ:僧院での作法)を新たに伝えるべく招聘され、まず鎌倉建長寺に入り、そこで貞宗と出会った。
両者には摩利支天を信仰する共通点があった。

清拙正澄は、日本に正統な清規※を伝え(大艦清規)、その功によって大鑑禅師という師号を与えられた。
その禅師に私淑した貞宗は、故郷の信州飯田の地に開善寺を開基し、大鑑禅師を開山に迎えた。
そして、代々開善寺を菩提寺とすることを遺言した。

※もっとも国内最初の清規に相当する書は、鎌倉時代(13世紀)に曹洞宗を開いた道元が著している。その中の『赴粥飯法』は我が国最初の食事作法書だ。道元によれば、禅の作法の典拠はインド由来の教典『大比丘三千威儀』(大蔵経所収)という。

大鑑禅師と貞宗の親交が真実であった証拠は、京都建仁寺の塔頭である禅居庵、ここは摩利支天を本尊とし、民間信仰の場ともなっているのだが、その禅居庵の墓地に大鑑禅師の墓があり、その横に貞宗の立派な五輪塔が並んでいるのだ。
亡くなった順は大鑑禅師→貞宗の順なので、貞宗が禅師を慕う気持ちがわかる。

清規は、行住坐臥が修行である禅僧にとって、その緊張感を維持するための所作の法であるから、儀式のための故実ではなく、日常生活の所作(洗顔や入浴など)の法である。
ただ、僧院での所作がそのままの形で武家礼法として適用できるだろうか。

清規の作法がそのままの形に近い形で、外にひろまった1つが、客をもてなすための「茶礼」で、これが芸道として独立していく”茶の湯”となる。
他には、食事作法も適用されており、たとえばご飯の「お代わり」を礼法では「再進」というのだが、この用語は清規から来ている。

貞宗は、日常の起居進退(姿勢と動作)を作法化するという思想とその構造を清規から学んだようだ。
しかし、具体的な所作は、武家と僧とではその内容が異なるので、そのまま応用はできない。
この部分を反映させたのは、ほかでもない武士が常日頃鍛えている武芸である。

2.3. 武芸

武士は戦場で功を上げることを理想とし、死ぬのも戦場においてこそが誉れである。
なので、平時は、戦時の準備のためであり、いつなりとも戦場に馳せ参じる状態を保っておくのが平時の心得である。
これを格闘の所作に置き換えれば、いつでも攻撃と防御に即応できる“構え”の状態である。
平時とは戦時への構えである。

糾方では、戦時に使うのが武芸で、平時に使うのが礼法である。
ゆえに礼法は構えである。
だたし平時に必要なのは、攻撃ではなく防御の構えであり、平時に攻撃に対応するのは、他者に対する礼(敬)の発現である。

なので、武芸の所作の原理が、平時に活かされる。
武芸を知らずして、武家礼法を語れない。
単なる儀式の武家故実が武家礼法の本質でないことがここでも明らかである。

逆にいえば武家礼法の所作の本質は、朝廷由来の儀礼ではなく、命のやりとりにかかわる武術に由来する。
したがって形式性ではなく、実効性・身体合理性が備わっている。
神話的意味づけに満ちた儀式ではなく、重力と身体構造が根拠の所作であるため、時代や文化を越えて、現代人にも有効である。
これが武家礼法のすごいところだ。
現代人に、小笠原流礼法を伝え、身につける価値をもっていると確信するのも、これが理由だ。

構えの姿勢
構えとしての所作は、力まずかつ弛緩しない。
力みも弛緩も瞬時に変化できない、すなわち「居つく(停滞する)」状態だからである。

最適な緊張感の維持である”構え”の基本は、関節を伸しきらず、わずかに曲げておく(意識して曲げるのではない)。
関節を伸しきった姿勢は、それ以上動かない姿勢であり、隙(すき)に満ちている。
当然、隙を示さないことが武術の基本である。

小笠原流礼法の基本姿勢は、明治以降の西洋軍隊式の(全身の関節を伸しきった)「気をつけ」姿勢ではない。
両足を肩幅に開き、進行方向に向け(外側に向けず)、両膝を軽く曲げて腰を落として、股関節も軽くゆるめる。
こうすると腰から上の上体は自然に垂直になる(胸を張らない)。
武士は袴姿なので、股関節や膝が軽く曲がっていても、それが外からは曲がっているようには見えず、見苦しくない。
肘も軽く曲げて、両腕を真横でも真正面でもない自然な位置に下げ、両手を両腿の上に置く。
両手の親指以外の四指の第三関節を軽く曲げ、手の甲を低い山形にして、親指はその側面に添える。
唯一意識しているのは両手の四指で、互いの指の間が開かず閉じているよう保つ。

粗相の回避
戦場に馳せ参じるべき武士が、戦さの前に自宅で転倒して怪我をすることほど、みっともないことはない。
それゆえ、在宅での武士の所作は安全(慎重さ)を最優先する。
武家礼法は、表敬以上に粗相(そそう:失敗)を避けることが最優先されるのだ。

つまづいたり滑ったりしない歩きを心懸け、身体を捻るなどの関節に負荷の高い動作をせず、持っている物を落とさず、そのための歩き方、座り方、立ち方、方向転換のし方、物の持ち方などを追究して作法化された(現代の礼法教室で、これらが実技指導される)。

安全を基準とした動作合理性の追究が武家礼法の実際なのだ。
なので武家礼法を身につければ、日常の安全性が高まる。

武家礼法を、時代遅れの形式的儀式だと勘違いしている人たちが日本史の専門家の間にもいるが、それは「作法とは何か」ということに対する通俗的思い込みから来ている。
専門家なのに作法=冠婚葬祭(儀式)だと思い込んでいる。
中世以降の日本人の教養書であった、四書五経(礼記が含まれる)を読んでいないのか。

作法を紀元前の昔から定義している『礼記』(曲礼上)によれば、礼とは「宜(よろ)しきに従う」ものである。
これを現代風に言い換えれば、作法=日常の所作の最適性の追究なのだ。

そして武家礼法を身につけた武士こそ、戦時・平時を問わず、「士」(サムライ)の道に励む在り方を実現する。

この「士」から「兵」(武力)の要素を除外した武士道、すなわち平時の糾方=武家礼法こそ、廃刀令以降の現代人が身につけられる”武士道(士道)”だと思う。

そう、武家礼法は、現代の武士道として存在できる。

作法・礼法講座4:作法学に進む

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作法・礼法講座2:マナーとルール

2020年09月28日 | 作法

作法(マナー)の”法”は文字通り”やり方”(manner)であって、法(ルール)を意味するのではない。
つまり、作法は、やらなくてはいけない”決まり”ではない。
むしろ法(ルール)による強制を拒否する精神の現れだ。
この問題を論じたい。

【法治主義】
日本は「法治国家」である。
法による支配を謳う法治主義は、権力者の恣意的な支配、すなわち人治主義に対する意味で使われており、その意味においては、私も是とする。
ただ、法治主義は、一段具体的には、たとえば「罪刑法定主義」であり、法文に載っていない禁止行為を罪とすることはできないものである。
この論理の裏を返すと、法文に載っていない行為は、違法行為にならないので、罪とならない。
ぶっちゃけていえば、法律で禁じられていない行為は、何をやってもいいということだ。

なので当然、現行法の網をくぐって、グレーゾーンでやりたいことをやる人が出てくる。
それで迷惑・不都合が発生するので、法改正して、新たな禁止行為が法律で規定される。
これが繰り返されると、結局、どんどん法規制が増える一方となり、人々の行為はがんじがらめにされる。
無節操と厳罰化のシーソーゲームだ。

以上が、法治主義の論理だ。

【礼治主義】
実は法治主義という言葉は近代的概念ではなく、古代中国からあった。
儒家と法家との論争のテーマとして。
周の時代の礼治(徳治)を模範としたい儒家は、その実現に礼をもって治めることをよしとする。
これを礼治主義という。
そこには人々は、率先してきちんとふるまうという性善説が前提になっている。

それに対し、性悪説にたつ法家は、人の心に期待せず、一律の法による規制での治世を主張した。
これが法治主義である。
韓非子の法治主義を採用した秦が、初めての統一王朝を樹立したのだから、ここまででみると争鳴した諸子百家の中で法治主義が最終勝利したといえる。

だが、秦は始皇帝の一代で滅んだ。
つまり上の意味の法治主義による支配は支持されなかった。
それに続く漢王朝は、儒教を国教として(ということは礼治主義を奉じて)400年も続く※。

※漢の前期王朝(前漢)を滅ぼし「新」を打ち立てた王莽も儒教主義だったので、文脈上は漢の続きでよい。

では、儒教が理想とする礼治主義とはいかなるものか。
『礼記』によれば、民を刑罰をもって治めれば、民は恥を知ることもないが、礼をもって治めれば、恥を知って行為も正しくなるという。
その礼とは、節、すなわち過大と過小を慎み、中庸に収まる態度で、その逆は”無節操”である。

つまり法治主義は、民の無節操状態を刑罰によって力まかせに抑制しようとするものだが、礼治主義は民に節度を育むことによって、無節操を内側からなくそうとするものである。
だから礼治主義が実現すれば、皆、自発的に節度を守るため、刑罰が不要になる。
無節操と厳罰化の法治社会とどっちが住みよいだろうか。

もっとも、儒家もすべての民に礼を身に付かせることは現実的には無理だとわかっていた。
「衣食足りて礼節を知る」(論語)と孔子が言ったように、衣食を賄うだけで精いっぱいの庶民(下層民)には、「悪い事をしなければそれでいい」という法治主義でよいとした。
そして庶民の上に立つ士(大夫)に限って、礼でもって身を修めることを求めた。
すなわち「礼は庶人に下らず。刑は大夫に上らず」(礼記)と、庶民に対しては法治主義、士に対しては礼治主義の使い分けを求めた(そして礼治者には法治が不要であることも含意されている)。

ところが、長い目でみると、社会階層は流動化する。
生産性が高まり、衣食が足りると、庶民階級も上昇志向をもち、「士」を目指すようになる。
そこで庶民は士が占有していた礼を率先して身につけようとする。
日本の江戸時代がそうだった。
当時、武士階級は、藩校などで礼法を学んだ。
農民は、子女を武家に奉公に出して、武士から礼法を学んだ。
裕福になった町人は町の礼法教室に通うようになった。
その結果、”礼を身につけた庶民”という、大陸の儒家が想定しなかった人たちが、この島国日本に誕生した。

幕末、日本にやってきた西洋人が、一様に驚いたのは、庶民階級の女性たちが、母国の貴婦人(レディー)のように優雅な立ち居振る舞いをすることだった(日本女性の高評価はここから始まる)。
彼女たちは、テーブルマナーも完璧で、無学どころか、ひらがなの字を読み、和歌や俳句という韻文詩を吟じる。

嬉しいことに、現代においても、日本人は一定水準以上の礼を保っている。

道路脇の無人販売所が存在し、街中の至る所に自販機がおいてある。
これは世界でも類をみない風景だ。

この風景は、「道に金が落ちていても、誰も拾おうとしない」という、古代中国でたとえられた、民の生活が満ち足りて礼が行きわたっている理想状態に等しい。
その状態が日本で実現しているのだ。

”法治主義”が社会のあるべき最終形ではない、とうことを日本が示していると思う※。

※孔子様が現代に蘇ったら、私は、「あなたの故郷の国とこの日本と、どちらがあなたの理想に近いですか?」と問うてみたい。

今年においても、日本は法的に外出禁止措置などを取らず、すなわちルール化しないでマナーレベルでの対応を求めるに留まった。
そして見事にほとんどの日本人は、自発的にマスク着用というマナーを実行している。

これを日本社会の「同調圧」と解釈する向きもあるが、私は日本人の高度なマナー意識の現れと見ている。

こんなすばらしい日本だからこそ、それを数百年間育んできた日本オリジナルの伝統的礼法を、今一度きちんと理解するのも無駄ではないと思う。

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作法・礼法講座1:礼とは

2020年09月26日 | 作法

このブログでは、私にとって専門的ながら学術論文よりは一段一般向けの話題、しかもデータやテキストの分析を要しない、自分の頭だけで語れる内容を開陳している。
今まで、本来の専門である心理学(たとえば「心の多重過程モデル」)や、気象・防災、あるいは温泉について、連載などにして、ある程度つっこんで語ってきた。

それらを含む私の一定以上の専門領域の中で、作法についてだけは、積極的に語ってこなかった。
世間のマナー的問題を口酸っぱく語ることは極力したくなかったためだが、作法の研究者の一人としては、作法の”本質的な問題”というのが、世間ではなかなか論じられていないことも気になっていて、細かな作法より、もっと基本部分を語った方が、意味がありそうな気がしてきた。

そいういうわけで、まず、自分が準拠している小笠原流礼法をベースにして語りたいが、小笠原流礼法の伝達者(教室の先生)としてではなく、より一般的な作法の視点を付け加えていく。

まず、作法(manners)とは、動作(行為)のやり方(manner)の集合を指す一般名称とする。
なので作法は、世界中にそれぞれの作法が分布している。
その作法の中で、「礼法」と名乗るのは、儒教の「礼」という価値の実現を目的とする作法の1つに限定する。
そういうわけで、本記事でも作法と礼法を上の意味で使い分ける(礼法は作法の部分集合なので、礼法は作法でもある)。
小笠原流礼法もその意味での礼法である。

このように、学術レベルで論じるには、定義をきちんとしなくてはならない。

では礼法とは何か。
法は”やり方”であるから、問題は”礼”だ。

礼の定義は、まさに『礼記』(らいき)※に載っている。

※礼記:儒教の教典で、礼についての基本テキスト(三礼)の1つ(他に周礼、儀礼)。前漢時代(前1世紀)に編纂された世界最古の作法書といってもいい(礼記より古いといわれる周礼・儀礼は作法の個別書で一般書ではない)。

『礼記』の冒頭(曲礼・上編)は、「敬せざるなかれ」で始まる。
すなわち、敬の二重否定(不在の否定)という強い肯定である。
礼とは、する、という心の表現行為と規定されている。
敬という気持ちを、形にして表現したものである。

言い換えれば、敬のない形だけでは礼ではない。
形だけの作法は、動作法の練習、身体運動でしかなく、それは礼を満たしていない。

また、内心に敬があっても形としないのも礼ではない。
心(気持ち)さえあれば形はどうでもよいという心理主義が否定される。
礼とは、表現行為、コミュニケーションなのだ。
そもそも、気持ちは内に満ちているなら、表にあふれ出るものである。
そこまでいかずに抑制できるレベルの気持ちは”無い”に等しい。
すなわち心理主義は、心理学的に否定できる。

なので、敬の気持ちがあれば、それは表現せずにはいられない。
それが本来の人の心であり、その素直な心を「」という。
この誠が敬を形にさせる力である。
敬と誠が、礼を実現する。
礼は敬と誠から成っている。

以上が、『礼記』による礼の説明である。
礼法を教える先生方も、礼法をここから初めてほしい。
そして自分の礼法が敬と誠を準拠にしているか、自問してほしい。

礼=敬
この図式は、東洋の「礼法」だけに限定されない。
16世紀にヨーロッパ中にひろまった作法書『ガラテーオ』※は、もちろん儒教の礼とは無縁だが、

※ガラテーオ:Il,Galateo. Della Casa(1503.1556)の作。 以来この書名が作法の代名詞となり、イタリアでは作法のことをgalateoという。実際、私がイタリア人から大学で何を教えているのかと尋ねられた時、mannersと答えても相手はピンとこなかったが、galateoと言い直したら納得してくれた。池田廉氏の邦訳(春秋社)がある。

その『ガラテーオ』は、最も不作法(非礼)なこととして、「人を軽蔑すること」を挙げている。
人に対して怒ることは、まだこちらに正義があるから許される。
しかし、人を軽蔑することは、こちらにまったく正義がなく、この行為が許される理由がないという。
もちろん軽蔑は、敬の正反対の気持ちであるから、感情−論理的に『ガラテーオ』も人を敬すべしと言っていることになる。
礼は、儒教的礼法を超えて、普遍的作法の真髄に達している。

では敬の対象は何か。
『礼記』が説くには、他者はもちろんであるが、自分自身、自分の身体をも敬せという。
なぜなら、親からもらった我が「身体髪膚」は、(最重要の儒教倫理)の対象※となるからだ。

※:この理由部分の出典は『孝経』。日本人が入れ墨(タトゥー)を嫌うようになったのは、室町以降に成立し拡散した儒教的礼法の影響といえる。なぜなら卑弥呼の時代や縄文時代は入れ墨や抜歯を習慣としていた。

まず、自分を敬す、そして自分の周囲、物を含めて、すべてを敬す。
かくして、自分の生きている世界が、敬するものに囲まれていることに気づく。
だから、礼法をやると、敬や誠の心が活性化し、その結果、幸せな気分になる。

作法家はどうしても世の不作法について文句を言いたくなるものだが、それに専従すると肝心の敬の心から離れてしまうので要注意。

作法家ならずとも、上から目線で、作法を知らない人をバカにする人がいたら、その人は、作法の知識だけはあっても、敬という作法・礼法の心とは無縁で、しかも幸せではなさそうなことが、以上からわかる。

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お寺での参拝の仕方:二拝二拍手一拝でない

2020年07月19日 | 作法

おことわり:この記事はわがブログの読者向けではなく、ネット検索用にアップするものです。

最近、参拝者の多いお寺(仏教寺院)に参拝に行くと、

二拝二拍手一拝の神社式拝礼を、自信たっぷりと、ご本尊の前でやる人(しかもいい歳した人)が少なからずいて(場違いの拍手の音が響き渡り)、とっても悲しくなる。
日本文化の断絶に直面した思いがして。

こういう人の家には、仏壇はなく、親族の法事に参加する(社会的学習の)機会を得なかったようだ。

でも、初詣や祭礼で神社には行くのだろうな。

神社に行くと、拝殿の前に上の参拝の仕方が書いてある。
そして、お寺には書いてない。

上野の清水観音堂(寛永寺)には、神社式の柏手(かしわで)を打つ人の多さに見かねて、
ここでは手を打たないことと、仏式のやり方が日本語で(日本人向けに)書いてある。

仏式の拝礼は、とても簡単。
ただ心を込めて合掌するだけ。
回数を数える動作がない分、雑念なしに心を込めることができる(逆に言えば、神式の拝礼って異なる動作をそれぞれ頭で回数を数えるので身体運動的)
さらに読経(念仏・題目)や礼文(らいもん)、本尊の真言(マントラ)を唱えたらなおよし。
そして一礼。
その後、(余裕があったら)焼香するのが正しい。

そもそも、神社での拝礼も、神仏習合だった江戸時代は、合掌だったようで、→神仏習合での来拝の仕方
現代の神式の作法は、明治の神仏分離以降にでき上がった。

仏前で神式の拝礼をあえてする人は、信念で神式を貫いてるわけではなかろう。
そういう信念の人が、寺に参拝することはないはずだから。

やはり、仏式拝礼そのものを知らないためだ。
おそらく、キリスト教会ではやらないと思う(いや、そのうち「同じ”神様”だから」と解釈してやってしまうかも)
ということは、神社のように、お寺がそれを教示するしかない。
すでに”常識”ではなくなっているのだ。


外股が踏み違いの原因?

2019年05月17日 | 作法

人間の基本姿勢として、膝と足先は素直に前方に向けるもの。

これは室町時代に大成した武家礼法の小笠原流礼法においてもそう教えていて、
身体の関節を不自然に捻ることを否定する(なので振返る時も腰を捻らない)。

ある市で小笠原流礼法の講習をした時、参加していた年配者が上の指示に戸惑いを示していた。
年配者たちは、若い時から足先を外側に開けと教えられてきたというのだ。

それは日本の伝統ではなく、明治以降の”武道”か軍隊式の教えなのかもしれない。
明治以前の”武術”の家元でもある小笠原流では、そのようには教えない。
また気功の本を読んでいたら、そこでも足先はまっすぐ前に向けろと書いてあった。
地上を走るほ乳類もみな足(蹄)を進行方向に向けているはず。
骨格構造からも、動作力学からも、それが当たり前だ。 

もしかしたら、年配者がアクセルとブレーキを踏み違えるのも、足を外側に向ける姿勢癖のせいかもしれない。

右足の踵をブレーキの上に置いても、足先が外に向いていると、爪先は容易にアクセルに触れてしまう。
緊急時に反射的に足に力が入ると、足先が伸びて、踵がブレーキの位置にあっても、
伸びた足先がアクセルを勢いよく踏んでしまうのではないか。

外股でない私には、この踏み間違いの動作原理が理解できなかったが、外股姿勢を前提とすれば上のように説明がつく。

踏み違いを防ぐには、左足ブレーキという方法もあるが、ブレーキペダルの位置が左足側にないため、辛いらしい。
ならば、外股の癖をなくせばいいのではないか。
外股の癖自体が不自然なのだから。 

ちなみに、身体を半身にした”構え”(武術・格闘技の基本姿勢)は、 足を前後にして相手との間合いの調整をしながら、
体幹を斜めにして防御と攻撃の双方を実現するため、股関節全体を開いて外股姿勢になる。
ただし”構え” を解いた、たとえば礼をするときの姿勢は、外股ではなく、足を前に向けるのだ。 


宗教の”左右どちらが上か”問題

2019年03月05日 | 作法

日常での所作は動作しやすい”利き手”を優先すればいいが、
宗教儀礼では左右の手の価値が固定され、両者が序列化される傾向にある。
通常、右利きの人間が作った宗教儀礼は、迷わず右手が優先されるだろう(キリスト教、イスラム教しかり)。

その極端な例がインドで、左手は(排便の時に用いられるため)不浄の手とされる。
なのでインド発の仏教も迷うことなく右手が格上となる。
たとえば大乗仏教でヒンズー教の影響も強い真言密教では、手を組む印の時、
左手を下、右手を上にするが、その理由はあちこちの真言寺院での説明によれば、
左は不浄あるいは右(仏)より格下側(人)とされるためだ。

ところが同じ大乗仏教でも、天台の坐法は、『天台小止観』によれば、手も脚も左が上になる。

このように、左が右より上とする、右利きが圧倒的な人類では実に例外的な”左尊”思想が存在する。
古代中国(仏教より古い)の陰陽思想(本来は陰陽対等であった)が前漢時代に”陽尊・陰卑”(陽>陰)に序列化された結果である(左=陽、右=陰だから陽>陰→左>右)※。
※そもそもの左=陽、右=陰に配属された理由は『淮南子』に載っている。 

仏教は、すでに左尊思想がデフォになっていた後漢時代の中国に伝わり、
そこでしばらく練られるうちに(たとえば天台教学のように)
インドの左不浄観から左尊思想への置き換りが部分的に発生したわけである
(その後、密教を中国に伝えたのはインド僧)。

そして左尊思想はそのまま日本の神道にも入り込んでいる。
神社での諸作法も左側が格上とされ、柏手でも左手をやや上にずらすとされる。
教典のない神道にはその根拠を探れないが、教典の代わりとなっている『古事記』『日本書紀』にはもう陽尊陰卑的な陰陽思想が入り込んでいる
(イザナギ=男=陽=生、イザナミ=女=陰=死の例。ただ陰陽論的にはアマテラス=太陽=陽=男、ツクヨミ=月=陰=女となるはずだが、太陽神=女性は、土偶に見られるように、より古代の日本的メンタリティによるものかもしれない)。
ちなみに陽尊陰卑はその後も日本に深く浸透し、江戸時代に固まった儒教的男尊女卑思想(その典型が『女大学』)の論拠になってる(そもそも前漢の陰陽序列化は儒教的国家支配の論拠のため)。

『易経』や『黄帝内経』の、対立しながら循環和合するダイナミックな陰陽観☯に準拠したい私は、
前漢以降の硬直した陰陽序列化は陰陽論の本来性からの逸脱に映るので採用したくない。
かといって左利きの一人としてインド的左不浄観も受け入れ難い。
結果、左右(陰陽)対等◑を我が旨とする。

この点で、私は既存の仏教に対しても神道に対しても作法的に抵抗せざるをえない。
たとえば、私が拍手・合掌するときは左右の手をずらすことなくきちんと合せる。
それが陰陽和合を示す理想の形であるからだ。
左尊思想に触れる前の『魏志倭人伝』の頃の日本人の拍手もその形であったろう。
坐禅の時は脚を左右交互に組み替え、手の組み(定印)は、左上(天台)でも右上(真言)でも任意とし、左右どちらかに偏る習慣をつけないようにする※。 

※:私が準拠する小笠原流礼法では、利き手に関係なく体の右側に対しては右手を使い、左側には左手を使う。それが合理的だからだ。

陰陽対等・和合(バランス)の価値観に準拠することで、人体の左右対称性(バランス)を尊重する。
この立場こそが、仏教や神道、あるいは儒教・道教より遥かに先立つ三千年来の最も普遍的で健康的な本来の陰陽思想である。
当然、男女も平等。
ちなみに、儒教は陽尊に傾き、道教は陰尊に傾いている。
つまり儒教と道教の両用こそ、高次にバランスのとれた中国思想といえる。