今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

自然に二重瞼になる

2017年01月29日 | 健康

ウチは両親とも一重瞼なので、私もそうだった。

ところが最近気づいたら、自分の両瞼がともにほとんど二重になりかけていることに気がついた。

実は、父も晩年になって二重になり、弟も成人してから二重になった。
すなわち、少なくともわが家の男系では後年になって二重になる遺伝要素があったといえる。

ただ、自分についていえば、個人的な影響もあったかもしれない。

なぜなら、加齢とともになりうる眼瞼下垂を予防するため、上瞼を開くトレーニングをしていたからだ。
といっても気づいたらやる程度だったが、今年に入ってから、目的の異なる「あいうべ体操」を毎日やっており、
この体操も結果的に眼輪筋を鍛えているはず。

その結果、上瞼を上に持上げる力が増してきたのだろう(覚醒して目を開けている間、この力が作用する)。
その力が上瞼を下げる力(重力)にやや勝った時、上瞼の先端部が上に押込まれる状態になり、シワができる。
それが二重瞼だ。
ということは眼瞼下垂が防止されている証左でもあり、こころなしか視野も広くなったようで喜ばしい
(自分自身でも気づかなかったくらいだから、見た目の印象が変化するほどではない)。

というわけで、私の瞼について”整形疑惑”が起きる前に、ここに事の真相を表明しておく。


目を右上にそらす男の証言

2017年01月27日 | 心理学

ニュース番組で放火殺人犯(まだ容疑者)が逮捕前のインタビューに応じた映像が流された。

その中で、被害者と会った日時を尋ねられた容疑者は、一瞬、目を右上(本人側からの方向)に逸らして、具体的な答弁をした。

私はその動きになるほどと思った。

なぜなら、思考と視線の方向には関係がある(特に脳の側生化の度合いが女性より大きい男性について)という実証研究があるからだ。

それによれば、過去の体験を思い出す時は目を左上に逸らせる傾向を、想像の風景を思い浮かべる時は目を右上に逸らせる傾向が見いだされた。

すなわち、事実の体験を述べる時は男性は無自覚に左上に目を逸らし、作り話をする時は右手に目を逸らせるというわけだ。

それ以外にも、男のウソはばれやすいことがノンバーバル・コミュニケーションの研究で判っている。 

いいかえれば、女のウソは目を見ても判らない。


寒さのピークに想う

2017年01月25日 | 歳時

冬至に一ヶ月遅れの1月下旬が1年で一番寒い。
日本海の寒気由来の伊吹おろしが降りてくる名古屋は、上州のからっ風が届かない東京より寒い。 

しかも、築25年のアパートなので、まともな断熱材が入ってないため、室内の気温も1桁になり、エアコンの暖房だけではなかなか室内が暖まらない(外気温が低過ぎるためか暖房効率が悪い)。
セーターを着込めば胴体は温まるが、手先が冷たいままなので、パソコン作業がつらい。

この時分の寒さは昔からで、今日は、あの八甲田山大遭難(死者199名)のあった日(明治35年)。
青森5連隊が雪中行軍で八甲田山中に入った時、運悪く、日本の最低気温を記録する空前絶後の寒波が北日本を襲ったのだった。

なので毎年、この日を「八甲田忌」として、寝る前に映画「八甲田山」を観ることにしている。
エアコンをつけっ放しにして。 


私の腕時計

2017年01月21日 | 生活

私は腕時計には(にも)装飾品的価値はまったく求めず、使いやすさのみを求めている。
それゆえ、 ロレックスだのなんだの、ばか高い物にはまったく無関心で、使いやすければ安物でかまわない(腕時計ごときにおのれの経済的・人格的情報など込める気はしない。ただしカメラについては、いつかはライカを買いたい!)。

ただ使いやすさとしてのこだわりには妥協しない。

まず時刻の表示は、デジタルでなくアナログ。
なぜなら、現在時刻だけでなく、時間経過なども直観的に(幾何的に。代数計算することなく)わかりたい。
なりより、アナログ時計は方位磁石の代りになる(夜間はダメ)ので、アウトドア使用を考えるとアナログ一択。 

そしてアナログの文字盤が見やすい(視認性と可読性)のが第一条件。
瞬間的に時刻を確認できなくてはならない。
となると、文字はアラビア数字で、ゴチック的均等であること(これが意外に少ない)。
コントラストが最大になるには文字が黒で、背景は白。

秒針も必要。
なぜなら入試監督のとき、秒単位のタイミングで指示をするから。 

それと本体の直径がでかすぎないこと。
なんで男物の腕時計って直径がバカみたいにでかいのか(それだけで選択肢から外れる)。
重くて邪魔で、見た目にも過剰な存在感。
ついでにいえば女物の腕時計は逆に直径が小さすぎないか。
そもそも機能的道具としての時計にはジェンダー(社会的性別)は不要(携帯やスマホがそうであるように)。
理想の直径は、今の男女の中間で、まさにユニセックスサイズがほしい。

かような条件にあう時計を探すと、そう簡単には見つからない(まず装飾品的時計には皆無)。

でもある。
たとえばカシオのMQ24だ。

この時計の文字盤の見やすさは定評があり、実際、私も試験監督の時にこれを使用した。
機能的に見やすいというより、見ることに快感すら覚えるほどだ。
すなわち、文字のデザインが機能美に達しているのだ。
この見やすさのためだろう、大学入試では受験生(♀)たちもよく使用している。
まさに、ユニセックスなのだ。

いちばんうれしいのは、この製品がなんと1000円(漱石)でおつりがくる驚きの安さで買えること(Amazon、ヨドバシなど)。
この安さでも時刻の精度は数日間なら問題ない。

ただし、欠点もある。
日付がないので、日常使用するには機能不足。
曜日は生活上頭に入っているが、日付は確認する必要がある。
それに精度も数日すぎると秒針がずれてくる。
この時計、日常的には使わず、試験監督の時しか使わないのはそのため(受験生たちも試験専用かも)。

それにもう一つ欠点があった。
ウレタンのバンドの劣化が早くて、切断してしまう(当然、腕に巻けない)。
もちろんサイズ16mmのバンドを買い替えればいいのだが、なにしろ本体が安いので、同質レベルの安いバンドの値段で、バンド付きの本体が買えてしまうのだ。
実際、ヨドバシにて1000円弱で新品を買うか、バンドだけを交換するか、迷った。
前者を選ぶと、バンドが壊れたMQ24が次々と増えていくことになる。
後者を選べば、MQ24はそのまま使えてバンドだけが新しくなる。
出費は同じだが、後者を選んだ。 

ちなみに私が現在日常的に使っているのは別物で、日付があり、バンドが革製で頑丈なChristiano Domaniというネット価格で9000円ほどのやつ(諭吉でおつり)。
この時計、定価はなんと7万弱を謳ってこの販売価格なので、誰しもが不安を覚えるが、
日付に加えて月齢表示の時計がほしかったので買ってみた(今日が満月か新月か知りたい!)。
そうしたら、情報量の多さはもちろん、精度もMQ24よりはいいし、バンドも頑丈なので手放せなくなった。

ただ文字盤の見やすさ(見る快感)がMQ24には及ばないのが残念。
あれを超える文字盤にはまだお目にかかっていない。 


後期授業終了

2017年01月19日 | お仕事

本日で私の後期授業がすべて終わった。
来週は定期試験、再来週は一般入試があり、そのあい間に定期試験の採点と成績つけをやらねばならない。
論文原稿の校正や奨学生の書類作成も待ってくれない。
さらにその後は、大学院入試に修士論文の口頭試験が待ちかまえている。
つまり3月15日の卒業式までの二ヶ月間、期末・年度末の仕上げと来年度用の業務が連続する。

本日の授業終了は、昨年末の卒論〆に続いての大きな〆日といっていいが、今後連続する仕上げのたびに祝杯をあげてはきりがない。
来週の準備が迫っているので、ちっとも気が抜けず、夕食も晩酌も通常レベル。
時間があるうちに作業を前倒しして、片づけておこう。
まずは明日提出する原稿の校正にとりかかる。


小牧に泊る

2017年01月16日 | 

昨日、雪のセンター入試担当を無事済ませたので、休日出勤(しかも一年で一番の早起き)翌日の慰労(温泉!)を兼ねて、小牧のビジホに宿を取った。
小牧のビジホをいえば、今までは「キャッスルイン小牧」だったが、残念ながら温泉ではなくなったので、曲がりなりにも下呂風の温泉を謳う 「ABホテル小牧」にしてみた。 

こちらは設備が新しくベッドもセミダブルと広い。
ただ浴場は16時からで、キャッスルイン小牧のような大浴場でないのが残念(しかも運び湯ではなく入浴剤)。
あと夕食が出ない( 同系他宿だと出るのに)ので、外に食べに行かねばならない。
ホテルから一番近い「藤一番」という地元小牧のラーメン店で野菜たっぷりラーメンを食べた(キャッスルイン小牧だと同じビル内の居酒屋で2000円は使ったな)。

慰労とはいっても、今は2月前半まで一年のうちで最繁忙期。
入浴と食事のほかは、部屋で仕事三昧。
自宅でも研究室でもない宿だとテレビも見ないし、気が散るものが一切ないので、集中できるのだ。 
なので今時分の温泉旅は慰労兼お籠りとなる。 

唯一の楽しみは、寝る前の酒とつまみを豪勢にしてのパソコン経由での映画鑑賞。
今回は、あのウェアラブルモニターを装着して、一人映画館気分で往年の「ジュラシックパーク」をブルーレイ画質で観る。


映画館気分になれるグッズ

2017年01月13日 | 生活

秋葉の定番ひやかしポイントであるサンコーレアモノショップを覗いたら、店頭に、ウェアラブルモニター、すなわち顔の目の部分に装着するモニターが並んでいた。
作りは中国製ぽいものの、画質的に上と並の2種があり、上でも24800円と手ごろな価格(並は16000円ほどだが画質は妥協したくないので対象外)。
実際にためしてみると、昔からあったような大画面を謳いながら画質が悪く目も疲れそうな代物ではなく、映画館のスクリーンを観ているような画角の大きさとそれなりの解像度だったので、にわかにほしくなった。
なんでかというと、私はほぼ毎晩、寝る前はノートパソコンで映画鑑賞をしているのだ(ほんとは読書をすべきなのだが)。
ノートパソコンを寝床の布団の腹の上におけば、離れた40インチの液晶テレビよりも画角(画面の視野角)が大きくなる。
これが現行のパターン。

なので、 この店頭のモニターが腹の上ノーパソの画角より小さければ買う意味がない。
そこのところが判断しかね、決心がつかず、店を出た。

家に帰って、ネットでの購入者の評価(意外に高得点)を参照し、映画鑑賞という自分の用途に限れば(ゲームやテレビドラマ用でなく)、満足するらしい感触を得た。
また、あくまでも記憶上の比較だが、モニターの画角はかなり広い印象。

翌日、店に行き、また試して、あえて商品説明を聞き、さらに決心を固めるために店の中をくまなく歩きまわって、やっと購入した。

帰宅して、ノーパソに繋げて(HDMIと電源としての USB)スイッチを入れると、あっけなくかぶったモニターにパソコンの画面がきれいに映る。
画面上の文字も楽に読める(輝度はもちろん、ピントも片目づつ微調整できる)。

そして映画を起動。
モニター画面は四角く区切れててその周囲は暗黒の視野の周囲になっている。
まるで映画館の最前席でスクリーンを観ているようだ。
うれしいことに、目の前の15インチのノーパソよりも画角が広い。
解像度は最高というわけにはいかず、スクリーンのドットが見えるが、それとても映画館のスクリーンの気分にさせる。
しかも顔を移動しても、いつも視野はスクリーンが正面。

これはいける。
今後、映画を観るならこのモニターで観ないと損だとさえ思う。
ただ残念なのは、音が大きくならず、最大にしても、映画館の迫力ある音響は再現できない。
なので、サウンドはパソコンからブルートゥースでBoseのスピーカから出す。
これで、観客一人の映画館気分!

ところが、思わぬつまづきがあった。
一人で映画を観る時、ポップコーン(など)と飲物、私の場合はお酒!をかかせない。
視野全体を映画館のスクリーンに向けた状態で、顔を動かしても、いつもスクリーンから離れないので、特に飲物が飲めない(つまみ類なら手探りでなんとかなる)。
私は寝る前に映画を観ながら酒を飲むのが毎日の無上の楽しみなのだが、飲食を我慢してまでずっと映画を観る気にはなれない。
映画より酒だ。

実際、グラスに入れた酒だと、手探りでは絶対グラスを倒してしまう。
さらにグラスを口に持って行くと、グラスの縁がモニターのでっぱりにぶつかって傾けられない。 
これはかなり深刻な問題だ。

そこで考えた。考えれば問題は解決できる。
まず、アウトドアで使われている、携帯してストローで吸入する水筒がいいのではと、ネットで千数百円で購入。
だが、それが手元に来る前にもっと簡単な方法が思いついた。
100円ショップで、ペットボトルの飲み口に付けるキャップ付きのストロー。
それなら、手探りで取ってもこぼれないし、モニターに飲み口が当たらない。
ためしたみたら上々。
アウトドア用の水筒より、設置が楽なのでこちらを採用。

これで晴れて、まるで映画館を独占している気分で飲食しながらの大画面での映画鑑賞が楽しめる。
温泉宿に泊る時も、寝る前はノーパソ経由での映画鑑賞が楽しみだったが、なおさら楽しみになった。 

ちなみに正式な製品名は、高画質ウェアラブルフルHD対応モニター  EYE THEATER1


仕事片づけの3連休

2017年01月09日 | お仕事

正月3が日は飲食と趣味の読書に明け暮れ、意地でも仕事をしなかった。
とはいうものの、仕事は待ってくれず、締切は迫ってきていた。
12月は卒論指導で忙しかったが、1月に入ると、後期末・年度末(新年度の準備)、そして入試シーズンが重なるので、むしろこれからが繁忙期なのだ。

幸いなことに、松の内に続いての三連休が控えてるので、無為に過した三日分をそこに充てればいい。
というわけで、この三連休、初日の”人日の節句”は七草粥を食べるだけだし、成人式も関係ないので、 連休明けが締切の仕事(論文の校正と来年度の授業のシラバス作成、定員を超えた来年度のゼミ受講者の選抜)に集中した。

この中で、難物は全く新しい授業を担当する、すなわち0から考えなければならないシラバス作成。
15回分の授業内容を一挙に記さなくてはならない。
しかも厚労省の資格関連の授業なので、その方針に従わなくてはならない(文科省より厳しい)。
ということもあって、取り掛かるのを先延ばしにしていた。
お尻に火がついて取り掛かるので、集中を要する。
そういう状況だったので、授業や事務処理から解放されるこの3連休がありがたかった。

無事3日目の昼ですべて終わった。
午後は雨も上がったし、気分転換に秋葉にショッピング。 ♪


ベビーカー禁止騒動にみる哀しさ

2017年01月07日 | 時事

東京の乗蓮寺が出した初詣客への「ベビーカー禁止」のお触れに対する反論と、
それに対するお寺の釈明でわかった事が話題になっている。

この騒動を眺めて2つの点で哀しくなった。

ひとつは、ベビーカー禁止に対する反論が論理的誤謬を犯しているのに、
それに乗ってしまう人が多かったこと。
すなわち、禁止しているのはベビーカーだけなのに、それを車椅子などに勝手に拡大して、
その拡大した禁止を(論点を身障者差別にずらして)批判している誤謬に無自覚な点。

この誤謬は「わら人形論法」という名がついている。
すなわち論議世界に存在しない虚空(わら人形)に論点を勝手に移動して反論しているのだ。
この誤謬論法は、国会の論戦などにも散見し、反対のための反対という感情吐露でしかないので、
国民が期待している建設的な”議論”にならない。

この誤謬思考は、一般的な思考バイアス(偏り)といっていいくらい出現頻度が高い。
なにしろ、論理運用の専門家たる哲学者たちの議論、とりわけ学派間の論争にも登場するから。
すなわち相手の理論を否定するために、その理論が言及してない領域にまで理論を勝手に敷延させて、その領域での理論の矛盾をついて、反論している気になっているのだ。
だからこそ、システム2(思考)のバイアスを誰しもが自覚する必要がある
(この種の研究は認知心理学で進行中)。 

今後は、このような誤謬による反論に出くわしたら、大得意になっているその人に「それって”わら人形論法”ですよ」と指摘して済ませてしまおう。

哀しかったことのもうひとつは、もっと深刻。
お寺側によれば、ベビーカーを禁止したのは、ベビーカーを優先していた通路に、
それを悪用して1台のベビーカーに大勢の年長者が一緒に通過して、
本来並ぶべき行列を素通りしたことが目に余ったからだった。
ルールの悪用によるマナー違反は、マナーでは解決できないため、
ルールをより厳しくせざるを得ない。
つまり、ルール(法)に違反しなければ、マナー(礼)なんて無視するという行為に、
日本人として哀しかった。

2500年前に礼の徳を唱えた孔子によれば、士たる者は「礼」によって自己制御する。
それができない庶民は「法」によって制御するしかないと考えた。
ところが、江戸時代の日本では庶民教育レベルまで儒学の教えがたたき込まれたため
(具体的には朱子が教育用に編纂した『小学』をテキストにした)、
庶民がこぞって士のレベルに達してしまった。
日本人の民度の高さはこれに由来する。
すなわち、孔子が理想とした礼治社会に現実が最も近づいたのが日本だった
(もちろん、明治以降の公教育の充実も、そのレベルを下げなかった)。

礼(マナー)に達した者は、節度をもって自己制御できるので、
「法に違反しなければ何をやってもいい」という無節操な法治主義的行動をとらない。

だが、現代日本では、「法治主義」が正しいと上から下まで思い込んでいるため、
礼は不可視化され、明示的なルール(法)だけが基準とされているので、
マナー(礼)すなわち節度の力がどんどん弱くなっている。
そしてそれが、今回のお寺のように、法による制限強化を促進させ、
われわれをますます不自由にするのだ。
かくして私の哀しみはさらに深まる。


恒例、私の正月のすごし方

2017年01月01日 | 歳時

大晦日は結構充実感があるが、元日はあっという間に過ぎてしまい、
元日の夜ですでに「祭りの後」的な寂寞を感じてしまう。 
でも、せっかの正月休み、単なる連休とは違った過ごし方をしたい。 

そう、私の正月の過ごし方は決まっているのだ。

元日は→「元日を過す

三が日は→「三が日を過す

ついでに餅の安全な食べ方は→「餅は必ず焼く

と一昨年の記事とまったく同じ(昨年も)。

今年違ったのは、元日の8時59分が1秒だけ長かったのと、2歳の姪が初めてお屠蘇の儀に参加したのと、初めて買った噂の日本酒「獺祭」が実においしかったこと(なかなか手に入らない)。

そして、今から寝る前に、湖池屋の「のり塩」の大袋を開けて、バリバリ食べながらベッドで正月用のDVD映画(時代劇!)を観るのもまた正月だけにしている。


神社参拝のコツ

2017年01月01日 | 作法

新年あけまして、おめでとうございます。
今年も、皆様にとってよい一年でありますよう、お祈りいたします。

さて、正月といえば初詣。
私の元旦は、まず起きて、新湯で湯垢離をし(この時ばかりは入浴剤を入れない)、絹の下帯をしめて、羽織袴に着替え、まずは地元の鎮守社に初詣に行く。

途中、老婦人から、和服姿を讃められた。

さて、神社の参拝だが、「二拝二拍手一拝」というのは、今では拝殿の前に掲示してある(これを掲示していない仏教寺院ではやらないように)。

その作法を少し細かく論じたい。
まず拝であるが、「揖」という直立よりは少し畏まった姿勢から(両手は腿)、できるだけ深くお辞儀をする(両手もそれに従って下る。まちがっても両手を重ねて腹の位置で固定しないように。これは、「拱手」といって少なくとも日本の拝礼ではない)。

神様への拝礼であるから、少なくとも人に対するお辞儀よりは深くしてほしい。
理想は90°の直角礼(最敬礼)で、神官は見事に直角礼をする(股関節を軸に曲げればいいので、実は誰でも、腰痛持ちの人さえもできる)。
ただし、現実には直角礼をすると賽銭箱に頭をぶつけるギャグを演じてしまうので、そこはほどほどに。
その際、できるだけ、お辞儀は息を吸いながらして、下げきったところで吐いて、また吸いながら頭を上げる。
すなわち、下げきったところで息を吐いている間動作を止めるのがミソ(その間こそが礼の実質的時間なのだ。すなわち多くの人の礼は実質時間0秒)。

ついで二拍手、すなわち柏手。
この時、左手をやや前にして左右をずらすという”作法”があるようだが、それは陽尊陰卑化された陰陽の序列化の受け売りであって、本来の陰陽の対等な和合を理想とするなら、相撲の力士が土俵上でやるように、両手をきちんと合せて打つのが正しく美しい。 
実際には、ほとんどの参拝者はこの形で打っているから、形では問題ない。
ただ、音がパンとはならず、ペシッとなってちっとも響かないのを残念に思っていないだろうか。

そこでいい音が出るコツを紹介する。

いい音を出す力士の形と比べるとよくわかるが、音が出ない人は、肘を鋭角に曲げすぎているのだ。
力士のように、両腕をやや伸ばしぎみにして、手を合せる場所を、自分の胸の前よりも前方(神様側)の中空にもっていって打つのだ。
これで遠心力がついて打つ力が強くなる。
ただし回転半径をとりすぎる(遠心力が強すぎる)と、両手が合わなくなるので、力士のように両脇から腕を回すのはやめた方がよい(肘の角度は90°程度)。 
その時、両手は指を伸ばしきって真っ平らにするのではなく、自然な湾曲を残したままにして、当たった瞬間に延びるようにする(両手の中に空気を入れるため)。

こうすれば、十中八九いい音の柏手が打てる。

この形であれば打った後、そのまま合掌になって祈りの形になる(自然で美しい)。

祈りの形で静止したら、今一度さきほどと同じ形の拝礼をして、横に向いて去る(神様にお尻を向けない)。 

ほかに参道の歩き方、手水の使い方などいろいろあるが(最低限、手水の水は飲まないで)、まずは一番大事な参拝の仕方を完成させよう。

ところで、上の作法をお寺でやる人がいるが、これは恥ずかしい→お寺での参拝の仕方