今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

胸痛その後

2020年10月30日 | 健康

先週の金曜に、かかりつけの診療所で狭心症らしき胸痛に対する薬を処方されて以来、胸が痛くなるほどの異状はみられなくなった。
なので、ニトログリセリンは服用せずにすんでいる。

一番ありがたいのは、明け方5時すぎに強くなる動悸(時に胸痛を伴う)がまったくなくなったこと。
昼間は、運動強度が強いと、少々胸が締めつけられることがあるが、以前のように歩行困難で座り込んでしまうつらさはない。

ただ、血管を拡張する効果のある硝酸イソソルビド錠は、軽い片頭痛をもたらしている。
痛みは、10段階の1(痛みがないといえば嘘になる)程度なので、生活には支障はなく、服用を中止する方がこわいので、そのままにしている(胸痛に比べれば雲泥の差)。
ずっと鳴り続けている耳鳴りよりは気にならない。
血管拡張による片頭痛には、血管収縮作用のあるカフェイン飲料がいいらしい。


鶴見に行く

2020年10月25日 | 東京周辺

鶴を見に行ったのではなく、横浜市の鶴見に行った。
鶴見に何があるか。
曹洞宗の大本山・総持寺(正しくは、總持寺)がある。

昔、一度行った記憶があるが、やたら広かったという印象しか残っていない。
東京近郊で宗派を代表する大本山クラスの寺院というと、ほかには鎌倉にある臨済宗の建長寺と円覚寺、藤沢にある時宗の遊行寺、都内だと池上にある日蓮宗の本門寺、芝の浄土宗の増上寺、千葉だと中山にある日蓮宗の法華経寺、それに真言宗では成田山新勝寺くらいか。

福井の永平寺に並ぶ曹洞宗の大寺が東京近郊にあるのは寺好きとしてはありがたい。
もっとも明治年間に石川県から移転したので、歴史や文化財には乏しいが、
永平寺と違って街中(300万都市)にありながら、広大な敷地に大伽藍が並ぶのは貴重な風景だ。

そもそもなんで総持寺を再訪する気になったかというと、本当は今週末は久々に山歩きをしたかったのだが、狭心症気味になってしまい、心臓に負荷のかかる山登りは禁止となった。
そこで平地で、負荷のかからない行き先を探したが、行き先が尽きていたので、再訪バージョンに切り替えたところ、ここ総持寺が駅から近く、しかも大伽藍の割りに前回の印象が定かでないということで白羽の矢が立ったというわけ。

晴天の日曜、10時過ぎに家を出て、品川で京急に乗り換えて「京急鶴見」で降りた。
 京浜東北線で鶴見に乗換えなしに行けるJRを使わなかった理由は2つある。
1つは、JRの駅とほぼ隣接しながら、京急の方が運賃が安いこと(特快のボッスクシートで旅気分にもなる)。
そしてもう1つは、ランチで行きたい店が、こちらの駅側にあるため。

歩き前の腹ごしらえに選んだ店は、私が外食の第一選択肢とする”五目焼そば”の専門店「ちぇん麺」。
まず、五目焼そばの専門店というだけで感動ものだ。
客が混む前の11時台、本日の一番客で入り、自販機から「カレー味」「並」を選び、あとは口頭で「よく焼き」「辛さは最低の0」を指定。
初の店なので、まずはオーソドックスな「野菜」にしようと思ったが、ネットの口コミで「カレー」がおいしいというので、それに従った(辛さが強いというので、おとなしく辛い度を0)。
皿ではなく大きめの鉢に盛られたそれは、大きめのばら肉やタケノコ・キクラゲなどさまざまな野菜にカレーがかかっている。
五目焼そばの麺は、カリカリに硬い麺と柔らかい麺とがあるが、私が一番好きなのは、柔らかい麺に硬いお焦げがついてるもの。
この店の麺はまさにそれだ。
五目焼そばは、食べる前にその豪勢な盛り付けを見ただけで、おいしさがわかる。
一口食べて、次に鶴見に来る用事はないものか心の中を探った。
心の中の五目焼そばを食べる店のリストに登録されたからだ。

これで満足した気になり、この後は腹ごなしに総持寺に向う。
鶴見駅から近い脇道から境内に入り、まずは三松閣という鉄筋の信徒会館的建物に靴を脱いで入る(寺を訪れる時は紐のない靴で来る)。
喫茶店と売店があるが、コロナ対策のため他の空間には入れない。
トイレに行くと、入口に東司(禅寺のトイレ)の本尊が置いてある。
観光目的の訪問客の一人だが、用便といえども修行のひとつという緊張感が与えられる。
寺を訪れることの意味はこういうことにあると実感する。

ついで受付がある香積台という大きな建物に入る。
堂内は板敷きで、禅宗寺院の内部を味わえる(写真)。
客が廊下を歩くなか、修行僧が作務(さむ)として廊下をぞうきんがけする。
なので木の廊下は写真の通りピカピカ。
廊下の突き当たりにある大黒天を参拝し、写真左側の売店で、お札(お姿)と「雲水さん」という手巻き海苔の縦長の揚げ煎餅、それに瑩山禅師についてよく知らないので『一仏両祖』という道元・瑩山両祖の簡単な解説本を買った(一仏は教主釈迦牟尼仏)
残念ながら、今はコロナ対応のため境内の多くは閉鎖中で、見学できるのはここ香積台のほかは仏殿と三宝殿だけだという。
観光寺院でないので、観光客はほとんどおらず、法事で訪れる檀徒が中心。
それだけに修行道場たる本来の寺の雰囲気を味わい、仏殿の本尊を拝み、また梵鐘のある高台にあがってこの寺の守護神である三宝荒神(購入したお姿)を参拝した。
さらに、東日本大震災慰霊のためという平成救世観音(被災地の方角を向いている)脇の”祈りの鐘”を鳴らした。
山門の仁王像は、細かい金網越しなので詳細な観賞はできないが、しっかりした造形でしかもポーズが特有なのでもっとよく見えたらいいのに(写真)。
総門を出て、ついでに近くの東福寺(真言宗)も訪れ、片手を上げた白い慈悲観音を見て、最寄りの京急駅「花月園総持寺」(鶴見川を河口から歩いた時に利用)から帰宅した。
東京に15時に着き、軽い半日旅を終えた。


ニトログリセリンを処方された

2020年10月23日 | 健康

今週分の授業を終え、満を持して、東京のかかりつけのクリニックに飛び込み、
先週来の”狭心症”症状を訴えた。
市販の「救心」をときたま服用していたが、もちろん、ちゃんとした薬を処方してもらうため。

狭心症の検査(負荷をかけた状態での心電図など)はできないので、診断こそくだされなかったが、発作を抑制するための、血管を拡張する薬(硝酸イソソルビド)、血液を固まりにくくする薬(クロビドクレル)、それと緊急発作時のニトログリセリンを処方された。
もちろん爆薬としても有名だ。
そのニトログリセリンは唾液腺から血管にすぐに吸収しする速効薬のため、呑み込んではならないという(間違って呑み込むと爆発するというわけではない)。
この他に、もともとコレステロールが高かったので、処方が検討されていたコレステロールを下げる薬(アトルバスタチン)も処方された。

これでも症状が出る場合は、大きな病院での検査が必要とのこと。
その場合は、東京ではなく、名古屋で受けることとなるため、帰京する前にあらかじめ職場の医務室に行って候補となる医院を教えてもらいに行った。
すると医務室の担当者も狭心症持ちで、薬を服用しているという。
また母も、子どもの時から狭心症持ちで、ただし服薬するほどではないという。
自分は、今月になって始めて冠動脈痛を経験し、あせったが、意外に周囲に狭心症持ちはいるようだ。

あと、狭心症の初回の発作から一ヶ月ほどは、心筋梗塞に発展する可能性があるので、心臓に負担をかけないようにすること、たとえば日常の歩行はかまわないが、階段とエスカレーターがある場合は、エスカレーターを選んだ方がよいという。
今週末は久々に山歩きをしようと思っていたのだが、あきらめる。


胸が痛い:追記あり

2020年10月16日 | 健康

今の時期、体調を崩している人が多いようだ。
私もその一人で、数日前から、歩行中に突然胸が痛く苦しくなり、歩いていられず、道路脇に腰掛けて苦しみに耐えることがままあるようになった。
さらに一昨日の深夜、睡眠中、夢から覚めたらこの胸痛が襲ってきて、寝てはいられない苦しみとなった。

スワ、コロナか、と思ったが、
熱っぽさなどはない。
次に、肺がんを疑ったが、
呼吸は問題なく深呼吸ができるし、呼吸に伴う痛みはない(これは助かる)。
つまり肺自体が痛いわけではないようだ。
胸の痛みなので、他に肋膜炎とか思い浮かんだが、症状は違うようだ。

痛みが長時間持続はせず、時たま突発的に痛みだし、数分するとすっと消えるのも、胸部の炎症反応では説明できない。
痛みがない時は、まったく正常だし。

痛みの種類としては、いわゆる心痛の痛み、精神的苦痛に伴う”胸の痛み”が強くなった感じ、すなわち過去の人生で幾度か心が傷ついた時に経験した、あの”胸の痛み”と同種だ。
違いがあるのは、あの時は、胸の痛みより心の痛みの方がきつかったが、今回は、心の痛みはちっともないのに本当に胸が痛いのだ。

ということは、胸郭の疾患というより、自律神経の失調(交感神経興奮)による痛みではないだろうか。
つまり、ストレスが原因かも知れない。

季節の変わり目の気温変動よる身体的ストレスがまず考えられる。
それと、9月以降の職場での出来事や、遠隔授業を伴う慣れない授業の開始による精神的ストレスかもしれない(愛車のタイヤもパンクするし)。

そういえば、ここ最近は精神的余裕がなく、瞑想をしていない。
そしてこの2ヶ月、温泉(旅行)に行っていない。
自宅住所が東京なので、10月までは行きづらかったからだ。
そろそろ我慢の限界ということか。

追記:「狭心症の疑いあり」というお医者様からのコメントを頂戴した。
症状と原因から心当たりがある。
かかりつけの循環器医の所に行くまでの間、とりあえず「救心」を服用することにした。
心筋の力を高める一方、交感神経興奮の抑制作用があるという。


タイヤがパンク

2020年10月13日 | 失敗・災難

今日は午後から会議が3本。
終わるのは決って6時すぎる。

名古屋宅から車を走らせて職場の大学に向う最中、タイヤの空気圧の異常を見知するアラームが作動した。
走行に異常はないので、そのまま大学の駐車場に停め、タイヤをチェックしたら、左後輪のタイヤがしぼんでいた。

走行前に目視での確認はしなかったが、キーを入れてエンジンをかけた時は、空気圧の異常は見知されなかったので、走行中のパンクなのだろう(正確な原因は不明)。

暇なら、自分でスペアタイヤに交換できるが、これから会議なのでそんな暇はなく、会議が終わるのは夜。
夜の駐車場で、一人タイヤ交換をするのもいやだ。

どうすべきか気にしながら、会議に臨む。
後続する2つの会議は、自分が議長なので、休むわけにはいかない。

幸い、ディーラーの修理工場が職場から近い所にある(自宅より近い)。
だが、営業は7時まで。
そして会議は6時すぎまでかかる。
ロードサービスを頼もうかと思ったが、今日中(1時間以内に)直したいので、それにつきあう時間がない。
走行に支障ない程度なので、ディーラーまで自力で走れるだろう。
会議の休憩中に、電話で予約を入れた。

会議は長引き、終わったのが6時半。
エンジンをかけると、最初から空気圧異常と出て、スピードメータの所にタイヤパンクのアイコンが出て、ハザードランプが点灯状態になる。
その状態で数分間運転して、ディーラーに駆け込む。

以前、ローバー・ミニで、やはり左後輪がパンクしているのを気づかずに黒いタイヤ痕を道路につけながら走ったことがある(帰宅してパンクに気づいた)。
今の車は、さすがに知らせてくれる。
ただ、パンク状態で走ったので、パンク修理ではなく、タイヤ交換となった(この車種専用のタイヤがなかったので、とりあえず同じ大きさのタイヤを仮装着)。

実は、車検時に、この手のトラブルに対する補償サービスに入っていたので、ほとんど無料ですむという。
この歳になると、自分で手を汚すより、金で解決したくなる。


作法・礼法講座5:小笠原流礼法の価値観

2020年10月11日 | 作法

前回、作法を分析的に見る作法学を紹介したので、今回はそれを小笠原流礼法、しかも五百年以上昔の室町時代の礼書に適用してみる。
小笠原流礼法という作法体はいかなる作法観・価値観をもっているのか。
以下、作法学用語で説明するので、前稿(作法・礼法講座4:作法学)を読まれていることを前提とする。

まず条件素について
条件素は作法素(具体的作法)の有効場面を指定・限定するものである。
礼書では、一通りの作法素を述べた後、「〜すべし」の後に「いずれも時宜によるべし」という文言がよく追加される。
時宜、すなわち「時と場合」で作法素が異なることを付加することで、直前に述べた作法素の効力(適用範囲)を自ら最小にしている。
これは1つの作法素を、時宜を越えて固定させない措置である。
要は柔軟に対応しろということだ。

ここには、作法は場面(条件素)によって最適性が異なるという作法観、すなわち「礼は宜しきに従う」=作法は最適性の不断の追究という姿勢がみてとれる。
そして時宜の適否は自分の頭で判断しろ、ということで、作法を実行するには、状況の的確な把握能力が必要であることが示されている。
作法は、丸暗記ではダメで、頭を使わねばならないのだ。

機能素の構造
ではその最適性は、いかなる基準で判断されるのか。
最適性を判断するには判断基準が必要であり、その基準こそが作法に通底する価値観である。
その価値観が作法素に反映された部分が機能素、作法の理由の部分である。

作法とする理由=機能は、一つではない。
たとえば人に対しては「表敬」という機能が、物の扱いには「安全」という機能が優先される。
では、人前で物を扱う時はどちらを優先すればいいのか。

室内で、人が座している前を通るのは(目線の邪魔をするので)失礼であるから、通れるなら後ろを通れと教える。
ところが、膳を運ぶ時はあえて前を通れという。
なぜか。

膳は、”肩通り”か”乳通り”の高さに掲げて運ぶ(最上の表敬位置である”目通り”は危険なので神前の儀式以外では使わない)。
それでもバランスがくずれて膳をひっくり返す可能性がある。
座者にとって背後の高い位置で膳をひっくり返されるより(頭にみそ汁や焼魚が降りかかる)、目の前でひっくり返された方が避けることができて安全である。
なので、膳を運ぶ時は、人への表敬よりも人への安全を優先するのだ。

すなわち複数の機能が競合する時、その優先順をつけ、その優先順が作法素間で一貫している必要がある。
機能の優先順に、作法体の価値観が反映される。
小笠原流礼法は安全の基準を最優先するので、一意的に最適性が決まる。

最適性の判断基準が決まったなら、具体的にいかなる所作が最も安全なのかを考えねばならない(その所作が作法素の行為素に選ばれる)。
物を持つ時、片手より両手で持つ方が安全であるし、この安全を高める(物を落とさない)ことが物への表敬にもなる。
ただし持ち運ぶ際の安全性を高めるには、両手で下から支えるより、片手を下に、他手を横に添える方が、安定性が高まるのでこちらが推奨される。
では、左右の手をどう使い分けるのか。
小笠原流では、左手で支え、右手(利き手)は横に添えるだけと教える。

普段多くの人は、何も考えずに利き手を主たる動作に使いたがる(たとえば鞄を利き手で持ったりしないか)。
それに対し小笠原流では、「利き手を空けておけ」と教える。
たとえば夜の廊下で灯火を持つのは左手で、右手をあけよと教える。
瞬時の反応(つまづいたり、滑ったり,敵と遭遇したり)こそ、利き手(右手)で反射的に体を支えるためで、その方が安全性が高まるからだ。

その理由で、物を支える能力に左右差はないものとし、左で下から支え、右手は横に添えることによって、緊急事態に対応できる”構え”の状態にする。
この安全第一の物の持ち方〔左手で底を持ち、右手を横から添える)が、茶の湯の茶碗※の持ち方に適用される。

※茶の湯初期に使われた台付きの天目茶碗はこの持ち方ではなかった。だから粗相をしやすかったので、今のような茶碗に置き換わった。

お茶しかやらない人は、なぜ茶碗がこの持ち方をするのか、その理由までは教わらないだろう。
茶の湯の作法の元となった小笠原流礼法※は、上述したようなきちんとした論理(機能素)で説明できる(小笠原流礼法を学ぶと、茶の湯の所作の意味がきちんと理解できる)。
※:茶の湯の所作が制定される時、すでに確立されていた小笠原流礼法が参考にされたという。その証拠となるのが、炉点前における柄杓の扱いで、弓を引く所作が入っている(桑田忠親『茶道の歴史』講談社)。

ただしこういう動作合理性だけが機能(作法の理由)ではない。
たとえば陰陽五行思想が作法の根拠になっていることは、特に儀礼において多い(こういう場面は安全が確保されているため)
日本の作法の原典ともいうべき儒教教典『礼記』には、すでに陰陽五行思想が作法の根拠に使われている。
たとえば、天子の服装は、四季で色を使い分けよとある(月令)。
すなわち、五行思想によって、春=青、夏=赤、秋=白、冬=黒と季節ごとの色が指定されている(四季に五行だと1つ余るので、四季の間に無理やり”土用”なるものを創設し、残りの黄を当てはめる。五行思想はかように苦しい牽強付会だらけ)
これに準じて日本で仕官の服の色を規定しようとしたが、小笠原流は、春は広義の青として萌黄色(新緑の色:日本人は緑も青に分類)を選択するものの、夏が赤では暑苦しいので涼しげな水色にし、秋の白も使いにくいので、土用の黄で代替し、冬の黒は、まぁ温かく感じるのでOKとした。
すなわち、礼記が指定する五行基準を公然と批判して、その代わりになんと色彩心理を基準としたのだ(色彩検定2級の私が解説すると、赤は暖色、水色は寒色、そして黒も暖色に入る。緑はどちらでもない)。

小笠原流礼法の女性観
陰陽五行思想は、礼記はもとより、日本の宮廷儀礼にも採用されている伝統的作法基準なのだが、合理的知性を備えた小笠原家の人々は、この怪しげな基準に距離をおきたい雰囲気が礼書のあちこちに見て取れる。
それが如実に表れているのが、女性観の問題だ。

そもそも『礼記』(郊特牲)には、「婦人は人(男)に従う者なり。幼くしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子(息子)に従う※。」すなわち女は一生男に従えという「三従の徳」を説いている。

※:ことわざカルタにある「老いては子に従え」の元ネタ

なんでこんなことを説くかというと、前漢時代の『礼記』が成立する前に、董仲舒という儒学者が出て、本来デジタルの陰陽思想に五行という世俗の迷信思想を無理やりくっつけ、そして原理的には対等で互変的な陰・陽☯を、陽が上で陰は下に序列化し固定した。
この根本的序列化を「陽尊陰卑」といい、陰か陽かに分属される世界の二極対がこれに対応してことごとく序列化される。
その結果、陽に属する男と陰に属する女の関係も”男尊女卑”に固定され、陰(女)の陽(男)に対する生涯の従属が儒教文化圏で当然視されるに至った。

ところが、室町時代の小笠原流礼書『大双紙』は、この三従の徳の箇所を引用した後、こう続けている。
「そもそも日本国は和こくとて、女のおさめ侍るべき国なり。天照太神も女体にてわたらせ給う上、神后皇宮と申し侍りしは、八幡大ぼさつの御母にてましますぞかし(…この後、推古天皇をはじめとする歴代の女帝を列挙…)。二位殿政子と申せしは(…北条政子の業績を列挙…)、五十一ヶ条の「式目」を定められ侍るなり。今にいたるまで武家のかがみとなれるにや。されば男女によるべからず。心うかうかしからず、正直にたよりたしかならん人かんようたるべしと見えたり。」

すなわち日本の女性は、歴史的に三従の徳によらず、男の上に立ってもおかしくないし、結局男女で差をもうける必要はなく、要は人間性だと言っているのである。
室町時代にこのような現代的言説が誕生したことに驚くが、実は訳がある。
この原文(元ネタ)は、一条兼良という公家(関白)によるもので、時の第一権力者で大富豪の日野富子(将軍義政の妻)に語ったものである(『小夜のねざめ』)。
となると「女のおさめ侍るべき国なり」も富子への最大級のリップサービスで、阿(おもね)りに満ちた文脈での言説であることがわかる。
ところが、その言説が、おもねりの文脈を離れて、武家の男子を対象とした小笠原家の礼書に採用されたことこそ意味がある。
すなわち時の小笠原氏はこの言説に共感し、男たちに示したいと思ったわけだ。
かように小笠原流礼法は、礼法のバイブルといえる『礼記』に盲従せず、陽尊陰卑が論拠でしかない男尊女卑思想から自由であったことがわかる※。

※:残念ながら、この思想は広まらず、儒教(朱子学)が官学となった江戸時代になると、董仲舒的男尊女卑思想の方が広まってしまった。その代表例が『女大学』

このような価値観をもった礼法だからこそ、私は勤務先の女子大で、自信を持って学生に小笠原流礼法を教えている。

以上、巷の作法書にはなかなか書かれない作法・礼法の本質的な部分をシリーズで記事にした。
今後私が作法の細かい問題について記事にする場合、ここで示したことを前提としてご理解いただきたい。


作法・礼法講座4:作法学

2020年10月09日 | 作法

小笠原流礼法を学ぶことで、作法は論理的に整合した構造体であることがわかってきた。

そうなると、学究の徒としては、作法を学問的に分析したくなる。
作法研究は従来は歴史民俗学の1つで、固有の学問対象ではなかった。

小笠原流礼法を習っていた心理学研究科の大学院生の当時、心の定量的分析ではなく、意味分析を志向して記号論にハマっていた私は、記号論の祖であるソシュールの構造言語学およびその応用であるバルトの『モードの体系』(ファッションについて言説の記号論的分析)をベースに、グレマスの『構造意味論』を応用して、作法を学問的に構造分析をする「作法学」を構想した。

作法学は、個別言語に対する言語学、個別の法律に対する法律学の位置にあり、個々の作法を客観的に記述し、相互に比較し、またその構造的欠陥や矛盾を指摘する、すなわち作法を客観中立的視点から構造批判する学問である。

そもそも作法自体が、日常の行為に対する”批判”として誕生した。
なら「そうではなく、こうするのが作法(マナー)です」と断じられると、その批判的言辞に対して文句はいえないのか。
単なる感情的反発ではなく、その作法はおかしい、と客観的視点(根拠)から作法を批判する装置がわれわれに必要である。
さらには、個々の作法は特定の時代・文化的価値観に束縛されており、それを抽出して明らかにすることで、絶対視されそうな作法を相対化し、すべての作法を批判的かつ統一的に眺めることで、現代の視点(価値観)でベストな作法を構築することを可能にする。
そういう目的をもって個々の作法を分析する作法学をここに紹介し、今後は、この視点に基づいて作法を記述していく。

まずは作法学の基本概念を紹介する。
作法とは、所作についての評価の命題からなっている。
その個別の作法的命題、すなわち1個の作法を「作法素」という。
作法素はさらに、それを構成する、4つの要素からなる。
たとえばいま、お母さんが子どもに、「人前で、鼻をほじるのは、みっともないから、やめなさい」と叱ったとする。
これを作法についてのしつけとみなすと、この言説は1つの作法素とみなせる。
その作法素は、「人前で」、「鼻をほじる」、「みっともない」、「やめなさい」の4要素に分解できる。
それらを条件素、行為素、機能素、評価素という(〜素という名称は、『構造意味論』の影響)

この4要素が作法素を構成する文法的単位であり、作法素の集合体から条件素を集約すれば作法とされる場面の構造がわかり、行為素を集約すれば作法とされる所作の構造がわかり、機能素を集約すれば作法とされる理由・根拠の構造がわかり、評価素を集約すれば作法としての評価(良い/悪い)構造がわかる。
そしてそれらから、作法素の集合体の文法構造が把握できる(言語学的手法)。

これら4要素が揃ったのが完全な作法素だが、世に出回っている作法素の多くは、機能素が省略されていて、いわば理由なしの押し付けとなっている。

私がこの機能素の重要性を実感したのは、小笠原流礼法を習ったからで、小笠原流礼法は作法を制定した側なので、個々の作法(作法素)について、ことごとく理由(機能素)が存在していることだった。
考えれば当たり前だが、ある行為は、ある理由があって、作法とされたのだ。
だから作法素に理由(機能素)は必須のはず。

機能素は、行為素と評価素とを結びつけるもので、そこに価値観が内包されている。
作法とは、ある価値観にもとづく行為の評価体系であり、その価値観の実現を行為によって求めるものだ。
だから、ある作法に従うことは、その作法が求める価値観を受け入れ、実現に手を貸すことなのだ。
「作法(マナー)だから従え」という問答無用の言説の思想的危険性がここにある。

ところが、この大事な機能素が欠落された作法が拡がっている。
それは価値観が隠蔽された状態で、人々にそれを従わせることになる。
作法学は、機能素を抽出することで、隠蔽された価値観をあぶり出す(言説からの価値観の抽出は『モードの体系』の影響)
そしてその価値観自体を、現代の視点で批判の対象とする。

次に、個々の作法素の集合体を「作法体」という。
「小笠原流礼法」は1つの作法体である。
作法学は作法体における個々の作法素を構造化することで、その作法体の価値観を含む特徴を析出する。
作法体を構成する作法素は、相互に矛盾があってはおかしい。
これが作法体批判の客観的(論理的)基準となる。

現実の作法体、たとえば小笠原流礼法のような構造化が進んだ作法体は、作法素の単なる寄せ集めではなく、作法素の高次化、メタ作法素といえる抽象的な概念がテキストの中に存在している。
「礼」「躾」という用語だ。
これらは個々の作法素産出の源泉になるので「原作法素」と名づけている。
原作法素は、単語なので、単語=その意味 という単純構造で、テキスト内にその意味が表現されている。

以上の作法学の基本概念そのものが、小笠原流礼法のテキスト(礼書)からヒントを得たのだが、その作法学の視点で小笠原流礼法を眺めると、構造的矛盾のない、機能素が豊富で、原作法素と適合している、ひじょうに洗練された作法体であることがわかる。
世間に出回っている由来の不明な作法素は、そもそも機能素がなく、あっても後付けのインチキなもの(疑似機能素と命名)が多い。

もちろん、作法学は小笠原流礼法も作法体の1つとして、相対化し、分析・批判の対象とする。
私は、小笠原流礼法の一員としてではなく(特定の作法体を絶対視せず)、只一人の作法学者として、作法を客観的に分析した視点での理想の作法の構築を目指している。
なぜなら、作法とは”所作の最適性の追究”であるから、現生人類の身体構造と地球上の重力を前提とすれば、”動作工学”として科学化が可能といえる※。

※これからの作法は、小笠原流などの過去の権威に依存せず、最適性にもとづく科学的根拠に準拠すべきだ。そのためには現行の作法素における機能素の批判的再検討が重要となる。作法学はまずは作法批判の学である。

次回はこの作法学の視点で、小笠原流礼法を分析してみる。

ちなみに作法学については以下の文献を発表済である。
書籍 山根一郎 『作法学の誕生』 春風社
論文 山根一郎「中世ヨーロッパ作法書の通時態分析※1:テキストマイニング分析の試み」
   山根一郎「小笠原流礼書による作法体分析※2:『三議一統』系のテキストから」
   など

※1:原テキストはラテン語なので、中城進氏の翻訳をテキストにしている。テキストからの作法素抽出は、テキスト固有の文学的ニュアンスを削除するので、翻訳でも可能。4要素からなる作法素をデータとした統計分析として、テキストマイニングが適している。

※2:作法学での分析には、テキストから作法素を抽出する作法素分析(※1の論文が該当)と、既存の作法素あるいはより高次の原作法素から作法体の特徴を(価値観)を抽出する作法体分析とがある。基本的に後者は前者を前提とするが、小笠原流の礼書は高次の原作法素が豊富なので、すべての作法素を抽出しきらなくても、作法体分析が可能である。


作法・礼法講座3:武家礼法の存在

2020年10月04日 | 作法

ここでは小笠原流礼法に接近するために、礼法一般から武家礼法に絞っていく。

武家礼法ななぜ在るのか。

その答えは、日本で武士が誕生するずっと以前、紀元前1世紀成立の『礼記』(聘義)にある。
「勇敢強有力の者は、天下事無ければ、則ち之を礼儀に用ひ、天下事有れば、則ち之を戦勝に用ふ」(勇気と力のある者はその力を平時は礼儀に用い、戦時には戦いに用いる)
これが予言書であるかのように、日本の武士は武芸に礼法を加えた。

日本の”武士”は、単なる「兵」(つわもの)から脱して、武人でありつつ儒教の「士」、すなわち庶民の上に立ち、おのれを律する理想化された人格を目指したからだ。

そもそも小笠原氏は武芸(弓馬の法)を「糾方(きゅうほう)と称していた。

糾とは「ただす」という意味で、礼記以前の周の礼を記したという『周礼』(しゅらい)に載っている。
糾方の命名者は『周礼』の知識があったということか。

 1.小笠原流礼法誕生まで

まず、礼法誕生に至るまでの小笠原氏の流れを簡単に紹介する(以下、小笠原氏の系図にもとづくもので歴史学的に正しいかは不問)。
詳しくは、私のサイトにある「小笠原氏史跡の旅」に紹介してある。

小笠原氏の元は清和源氏で、その清和源氏は、清和天皇の第六子貞純(さだずみ)親王から始まる(平安時代)。

貞純親王は、叔父で武門の達人である源能有(よしあり)から糾方(武芸)を的伝され、武門を相続したという。
これによって清和源氏が武門の家元とされる。
そしてその子の経基に的伝され(基本は一子相伝)、経基は鎮守府将軍となり、将門の乱を平定した。
そして満仲※、頼信と代々糾方が的伝される。

※源氏の系図によると、満仲の子、頼信の弟に、「美女丸」という、とても気になる名の人物がいる。この美女丸、子どもの時に叡山に入り、叡山第一の暴悪児の名をはせたという。

さらに頼義、八幡太郎義家と続くと、源氏は「武家の棟梁」としてのピークを迎える。
また義家は、当代きってのインテリ・大江家に伝わる兵法書『訓閲集』(きんえつしゅう)※を与えられ、源氏は兵法の奥義も手に入れた。

※私も大枚はたいてこの古書を入手した。日本の“兵法”は陰陽道などが混入していて、孫子の兵法のような合理性が失われていたことがわかった。訓閲集を後生大事にしていた小笠原氏が、戦国時代に孫子の兵法を旗印にした武田信玄に破れて信濃の地を追われたのもむべなるかな。こういう迷信的兵法は天下人秀吉に一笑に付せられ、江戸時代は『甲陽軍鑑』の武田流など実績のある兵法とって代わられた。

義家から弟の弓馬の達人として名高い新羅三郎義光に糾方は的伝され、さらに義清清光と的伝され、このころ甲斐に移住し、武田氏の祖でもある甲斐源氏となる。
甲斐は馬の産地で、これによって甲斐源氏は騎馬を得意とする(現在の流鏑馬の家元は小笠原家と武田家)

清光の三男遠光(加賀美次郎)が甲斐の小笠原荘(南アルプス市)に住み、その小笠原で生まれ育った長清が、高倉天皇より小笠原姓を賜った(初代小笠原氏)。
長清は、同じ源氏の頼朝に味方して源平の合戦を戦い、頼朝亡き後の承久の乱の時は東山道軍を率いて上皇方と戦った。

その6代後の貞宗は、足利尊氏とともに、鎌倉北条軍と戦い、尊氏の室町幕府から信濃守護に任ぜられた。
この貞宗が従来の糾方(弓馬の法)に礼法を加えたという。
すなわち、小笠原流礼法は、小笠原7代目の貞宗によって、南北朝期に成立した(私は、小笠原流礼法誕生の年を建武二年(1335年)としている→根拠は、小笠原氏史跡の旅」の「年譜」)

2. 小笠原流礼法の構成要素

ここに至ってやっと小笠原流礼法の話題に移れる。
貞宗が制定したという礼法は、もちろん彼一人で0から創作したものではないはず。
つまり元になるものがあったはず。
それは何か、この礼法を研究してきた者として、以下の3つを指摘できる。

2.1.故実儀礼

武家が政権を取ってから政(まつりごと)をするようになると、それなりの儀礼が必要になる。
その典拠の第一は、従来の朝廷儀礼である。

その朝廷儀礼は、唐王朝の儀礼を範としており、それはさらに漢王朝に由来するので、結局は儒教の儀礼が根拠となる。
それに加えて、頼朝以来の武家の慣習(古いしきたり=故実)も武家固有の儀礼の根拠となる。

日本の史家は、武家礼法のこの部分だけを見て、武家礼法を「武家故実」と(同一視)している。
それが狭過ぎる理解であることは、以下に示す他の構成要素でわかる。

2.2.   禅清規

武家礼法が単なる故実儀礼でしかないなら、小笠原流礼法は鎌倉時代に誕生しておかしくなかった。
なぜもっと後の貞宗の時に礼法が生まれたのか、その理由がここにある。

若かりし貞宗が鎌倉に居たとき(各国の守護は任国ではなく首都に住む)、元(げん)の国から来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)という禅僧と出会った。
清拙正澄は、すでに日本に伝わっていた禅(臨済禅)に、清規(しんぎ:僧院での作法)を新たに伝えるべく招聘され、まず鎌倉建長寺に入り、そこで貞宗と出会った。
両者には摩利支天を信仰する共通点があった。

清拙正澄は、日本に正統な清規※を伝え(大艦清規)、その功によって大鑑禅師という師号を与えられた。
その禅師に私淑した貞宗は、故郷の信州飯田の地に開善寺を開基し、大鑑禅師を開山に迎えた。
そして、代々開善寺を菩提寺とすることを遺言した。

※もっとも国内最初の清規に相当する書は、鎌倉時代(13世紀)に曹洞宗を開いた道元が著している。その中の『赴粥飯法』は我が国最初の食事作法書だ。道元によれば、禅の作法の典拠はインド由来の教典『大比丘三千威儀』(大蔵経所収)という。

大鑑禅師と貞宗の親交が真実であった証拠は、京都建仁寺の塔頭である禅居庵、ここは摩利支天を本尊とし、民間信仰の場ともなっているのだが、その禅居庵の墓地に大鑑禅師の墓があり、その横に貞宗の立派な五輪塔が並んでいるのだ。
亡くなった順は大鑑禅師→貞宗の順なので、貞宗が禅師を慕う気持ちがわかる。

清規は、行住坐臥が修行である禅僧にとって、その緊張感を維持するための所作の法であるから、儀式のための故実ではなく、日常生活の所作(洗顔や入浴など)の法である。
ただ、僧院での所作がそのままの形で武家礼法として適用できるだろうか。

清規の作法がそのままの形に近い形で、外にひろまった1つが、客をもてなすための「茶礼」で、これが芸道として独立していく”茶の湯”となる。
他には、食事作法も適用されており、たとえばご飯の「お代わり」を礼法では「再進」というのだが、この用語は清規から来ている。

貞宗は、日常の起居進退(姿勢と動作)を作法化するという思想とその構造を清規から学んだようだ。
しかし、具体的な所作は、武家と僧とではその内容が異なるので、そのまま応用はできない。
この部分を反映させたのは、ほかでもない武士が常日頃鍛えている武芸である。

2.3. 武芸

武士は戦場で功を上げることを理想とし、死ぬのも戦場においてこそが誉れである。
なので、平時は、戦時の準備のためであり、いつなりとも戦場に馳せ参じる状態を保っておくのが平時の心得である。
これを格闘の所作に置き換えれば、いつでも攻撃と防御に即応できる“構え”の状態である。
平時とは戦時への構えである。

糾方では、戦時に使うのが武芸で、平時に使うのが礼法である。
ゆえに礼法は構えである。
だたし平時に必要なのは、攻撃ではなく防御の構えであり、平時に攻撃に対応するのは、他者に対する礼(敬)の発現である。

なので、武芸の所作の原理が、平時に活かされる。
武芸を知らずして、武家礼法を語れない。
単なる儀式の武家故実が武家礼法の本質でないことがここでも明らかである。

逆にいえば武家礼法の所作の本質は、朝廷由来の儀礼ではなく、命のやりとりにかかわる武術に由来する。
したがって形式性ではなく、実効性・身体合理性が備わっている。
神話的意味づけに満ちた儀式ではなく、重力と身体構造が根拠の所作であるため、時代や文化を越えて、現代人にも有効である。
これが武家礼法のすごいところだ。
現代人に、小笠原流礼法を伝え、身につける価値をもっていると確信するのも、これが理由だ。

構えの姿勢
構えとしての所作は、力まずかつ弛緩しない。
力みも弛緩も瞬時に変化できない、すなわち「居つく(停滞する)」状態だからである。

最適な緊張感の維持である”構え”の基本は、関節を伸しきらず、わずかに曲げておく(意識して曲げるのではない)。
関節を伸しきった姿勢は、それ以上動かない姿勢であり、隙(すき)に満ちている。
当然、隙を示さないことが武術の基本である。

小笠原流礼法の基本姿勢は、明治以降の西洋軍隊式の(全身の関節を伸しきった)「気をつけ」姿勢ではない。
両足を肩幅に開き、進行方向に向け(外側に向けず)、両膝を軽く曲げて腰を落として、股関節も軽くゆるめる。
こうすると腰から上の上体は自然に垂直になる(胸を張らない)。
武士は袴姿なので、股関節や膝が軽く曲がっていても、それが外からは曲がっているようには見えず、見苦しくない。
肘も軽く曲げて、両腕を真横でも真正面でもない自然な位置に下げ、両手を両腿の上に置く。
両手の親指以外の四指の第三関節を軽く曲げ、手の甲を低い山形にして、親指はその側面に添える。
唯一意識しているのは両手の四指で、互いの指の間が開かず閉じているよう保つ。

粗相の回避
戦場に馳せ参じるべき武士が、戦さの前に自宅で転倒して怪我をすることほど、みっともないことはない。
それゆえ、在宅での武士の所作は安全(慎重さ)を最優先する。
武家礼法は、表敬以上に粗相(そそう:失敗)を避けることが最優先されるのだ。

つまづいたり滑ったりしない歩きを心懸け、身体を捻るなどの関節に負荷の高い動作をせず、持っている物を落とさず、そのための歩き方、座り方、立ち方、方向転換のし方、物の持ち方などを追究して作法化された(現代の礼法教室で、これらが実技指導される)。

安全を基準とした動作合理性の追究が武家礼法の実際なのだ。
なので武家礼法を身につければ、日常の安全性が高まる。

武家礼法を、時代遅れの形式的儀式だと勘違いしている人たちが日本史の専門家の間にもいるが、それは「作法とは何か」ということに対する通俗的思い込みから来ている。
専門家なのに作法=冠婚葬祭(儀式)だと思い込んでいる。
中世以降の日本人の教養書であった、四書五経(礼記が含まれる)を読んでいないのか。

作法を紀元前の昔から定義している『礼記』(曲礼上)によれば、礼とは「宜(よろ)しきに従う」ものである。
これを現代風に言い換えれば、作法=日常の所作の最適性の追究なのだ。

そして武家礼法を身につけた武士こそ、戦時・平時を問わず、「士」(サムライ)の道に励む在り方を実現する。

この「士」から「兵」(武力)の要素を除外した武士道、すなわち平時の糾方=武家礼法こそ、廃刀令以降の現代人が身につけられる”武士道(士道)”だと思う。

そう、武家礼法は、現代の武士道として存在できる。


母の誕生会の松茸

2020年10月03日 | 身内

母の91回目の誕生日の今日、土曜なので東京の実家で当日に祝うことができた。
わが母は、脳梗塞を経験し、膝関節痛が悪化して手術を検討中だが、頭も声もしっかりしていて頼もしい。

姪と弟の先週の合同誕生会は松阪牛を、そして今週の母の誕生会は松茸を私が買ってくることになっている。
松阪牛は名古屋駅の地下街の店、松茸はアメ横で買う。

特にアメ横は、店頭のデパート価格を無視して最初から値引き交渉で、大人数なので多量に買う分、値引き率を上げてもらう。
午前中に店に行けば入荷したてのものが買える。
私が買う店は決まっているが、他の店でも客がついていた。

家では、一本の松茸を縦に四つに割るので、本数×4に増え、それにわざとフェイクのエリンギを混ぜ、
さらも今回は、地元のスーパーに本シメジがあったので、「香り松茸、味シメジ」を確認すべく、本シメジも同様に縦に割る(写真:上の3箱が松茸とどこかに混じっているエリンギ。下が本シメジ)。
これらを全部鉄板焼きにする(炭火焼や土瓶蒸しより、鉄板焼きが一番香りと歯触りがいい)。
調味料は、スダチかレモンに塩コショウ。
松茸の独特の香りとしっかりした歯触りは抜群で、エリンギはもちろん、本シメジも松茸にはかなわない。
やはり松茸の大きな価格差は納得できる。
高二の甥は、これが一年の一番の楽しみとしているが、6歳の姪は、まだ食べず嫌いでまったく手をつけない。

今回はローマ在住の姉から、現地でも特別な発泡ワインを送ってくれ、これで乾杯できたもの嬉しい。
鉄板焼きの後は、市販の松茸ご飯に、永谷園の松茸のお吸い物に本物の松茸のスライスを入れて味わい、松茸尽くしで満腹になった(カロリー的にはご飯1杯分)。

日頃は慎ましく生活しているが、年に一度の家族の祝い事くらいは、贅沢をしたい(といってもアメ横で値切っているのが庶民的)。