今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

名古屋宅に戻る

2024年08月20日 | お仕事

大学のスケジュールでいう「夏季休業」の真っ盛りの中、18きっぷで名古屋宅に戻った。
夏季休業中なので、出校すべき業務があるわけではない。

わが愛車のエンジンを作動させれるため。

以前なら、休業中の丸々1ヶ月間、名古屋宅を空けていた。
ところが、一昨年と昨年、そのようにして、1ヶ月ぶりに車を使おうとしたら、エンジンがかからず、仕方なく任意保険契約で利用できるレッカー業者を呼んだ。
より正確には、バッテリーは反応する(電気系統は作動)のだが、エンジンをかけるパワーに達しない状態だった(なので業者のバッテリーですぐ始動)。

もちろん、不在の間はバッテリーのケーブルを抜いて放電を抑えている。

このように苦い経験をしたので、今年は長い休業の中間点で名古屋に戻って車を作動させることにした。
冬休み・春休みの2週間だと大丈夫とだとわかっている。
それに夏の高温も車にストレスを与えるだろうから、ボディカバーをして帰った。

今回のブランクは17日なので2週間よりちょっと多め。

久しぶりに名古屋宅に戻り、早速バッテリーのケーブルを繋いで、キーを回した。
少し間が置かれたものの、なんとか無事にエンジンがかかった。

明日は、バッテリー充電を兼ねて大学に出校し、たまたま必要になった作業をこなす。
往きは18きっぷの鈍行旅だったので、帰りは新幹線にする。


国会図書館でコミックを読む

2024年08月06日 | お仕事

前期の採点作業がほぼ終わったので、これからは自分の論文作成にとりかかる。

原稿執筆(パソコン入力)だけなら家でもできるが、国会図書館(千代田区永田町)に通って作業するのは、集中力維持と気分転換と運動とそれに昼食のため。

ここは、食堂が3つもあり、その他に売店もあってそこで弁当(おにぎり、パン)も買える。
なので今日は何を食べようかという楽しみも味わえる。


今までだったら、論文に必要な文献は持参かすでに入力済だったが、今回の論文のテーマである「霊視認」(霊が見えるという視覚現象)については、学術レベルではそれを幻覚とみなす資料ばかり。
そもそも霊視認の実例から出発したい私に資料となるのは、この現象を実話的に扱ったコミック(マンガ)ばかり。
今までは、それらを電子書籍で購入していたが、たとえば全八巻などのシリーズ本は購入をためらう。


そこでたよりになるのがここ国会図書館。
ここは日本で刊行された書籍・雑誌がすべて閲覧可能な日本最大の図書館。
そしてコミックもちゃんと取りそろえてある。
まさに日本最大のコミック読み放題施設なのだ。
実際、ここに通っている人の何割かは、ここでコミックを読み耽っている。

今まではそれらの人たちを横目で通り過ぎていたが、今回からは私も堂々と「霊が視える」=ホラー系のコミックを借りて読み通す。
テーマがテーマだけに、集中できる空間で数冊分読み耽ると、異世界にトリップして、国会図書館にいることを忘れてしまう。


前期業務終了

2024年08月03日 | お仕事

7月31日で前期試験が終わり、翌8月1日から大学は夏季休業。
ただ本日8月3日にオープンキャンパス行事があり、学科の案内として駆り出される。
それも無事終わり(千客万来)、後片付けを済ませば、あとは大学にいる用事はない。

すなわち、私自身の前期業務が終わり、自分にとっても実質的な夏季休業となる(前期試験の成績はネット経由で提出)。

なので、名古屋宅に戻って祝杯をあげ、前期最後の晩餐として冷蔵庫の残り物を空にした。

ちなみに大学教員にとっての夏休みとは、給与生活者としての勤務(大学業務)から解放される期間であって、真の”休み”ではない。
むしろ、給与と引換の業務から解放されることで、真の”仕事”である研究に専念できる期間。
現役研究者としての生産活動として論文執筆に専念できる貴重な期間。
しかも研究活動をしているからこそ、大学教員としての価値が保証される
(研究者でないマスコミ有名人の”特任教授”とはここが違う)

大学の授業とは、本来はその分野の最先端情報の提供であるべきなのだが(19世紀まではそれが可だった)、21世紀の今、その最先端を理解するには大学生レベルでは足りない状況になってしまった。
私自身、学部の授業は既存の情報の紹介に費やし、自分の研究と直結する話は、大学院の授業でしか話せない。
公認心理師に対応する心理学系の大学の学部は、指定された内容の授業をしなくてはならないし。
尤も、今の大学は専門家・研究者の養成が主目的でないから、その分野の一般論(常識レベル)を理解してもらえばいいのも確かだ。


旧年度の懸念全て解決

2024年03月31日 | お仕事

昨日の3月30日をもって、旧年度最後の3月中にやり終えるべき作業を全て順調に終えることができ、
これで本日清々した気分で、18きっぷでのんびり帰名できる(明日朝から早速新入生と顔合わせのため)。

まず個人的なところでは、半年ごとの歯科で定期検診を兼ねた歯石除去(春休みと夏休みに実施)、
確定申告による還付金のゲット(一部手続きミスがあったがそれも解決)。

大学業務では、新年度の新しい担当授業の準備と新委員への対応。

私的ながら研究と関連する大事なものとして、自分のサイト(ホームページ)を置いていた大学のサーバーが3月で廃止されるに伴って自分のサイトも閉鎖されるので、アップしていたいくつかのページをネット世界に残す作業に追われた(これが例年にない今年だけの大きな懸念)。

まず「小笠原家史跡の旅」(自分でも充実している思っている)と「気象についての Q&Aコーナー」、祖母キクとキリストの墓についてのページを、数日要してこのブログに移行した(いずれも今月の記事リストに掲載)。

一番の懸念だったのは、勤務と東京宅の2ヶ所から自分の確認用にネット配信している気象観測データ。
これは15分ごとに自動更新しているのでブログには移行できない。

ただ予算をとっている研究活動ではないので、有料サイトと契約するなどあえて金をかけるものでない
※:実は観測機器を販売しているアメリカの会社のサイトにアップして実況データをネット表示できるので、まずはそれを実行したが、経時データを示すには有料契約が必要。

そこでfc2という無料でサイトを作れるありがたいサービスを利用し、試行錯誤の結果、
まずは東京宅からの経時データ配信が可能になった(勤務先からの接続は4月になってから)。

最後に、教え子が公認心理師試験に合格したとの連絡を受けた。

年度末はいつもなら固有の鬱っ気に見舞われるのだが、今年はこれらの対処に追われ、しかも解決したので、いい気分で新年度を迎えることができる。


論文書き終えた

2023年08月19日 | お仕事

8月に入って、10日以上もブログ記事を書かなかったのは、その間論文の執筆に集中していたから。

7月までの授業期間中は、授業と大学運営、すなわち給料をもらうための”業務”を優先せざるをえない大学教員にとって、
夏休みは、本来の”仕事”である論文執筆に集中できる貴重な期間。
そもそもこの”仕事”こそが、授業を含む大学教員としての価値の根拠になるのだから、これをおろそかにできない。

ということで、夏休みに入って、まずは前期試験の採点という業務を仕上げた後は、論文執筆に集中し、
幸い、今回の論文は前もって進めていたので、締切りまで1ヶ月以上残して、仕上がった。
※:内容は「霊が見える」事例の批判的・現象学的検討。予定通り投稿すれば来年3月に発刊。

もっとも、提出するまでの間に、表現レベルの推敲は重ねるが、これに昼間の時間を費やす事はなくなる。

この間、集中しすぎたせいと老化の進行のせいで、夕方になると眼鏡をした状態でパソコンの文字にピントが合わなくなった。

そういうこともあって、慰労・気分転換といきたいが、まだハイシーズン中なので、温泉は月末に予約した(まだ35℃を越える外に出たくないし)。

まずは好きな本を読んで気分転換をしたい。


介護体験学生の巡回

2023年08月07日 | お仕事

前期最後の業務として、教職を取っている学生に課せられる「介護体験」の巡回に出た(今年度は教職課程の委員を担当したので、この仕事が回ってきた)。

従来、教職(教員免許)課程の実習は、学校現場での教育実習のみであったが、それに加えて、学校教育とは無縁の高齢者や障害者に対する介護体験の実習も必須となった。

そうなると、学生を派遣する側の大学において、実習先の巡回(指導)も学校だけでなく介護施設も加わる。

教育実習は、教員を目指す学生にとって本業につながる実習なので、その意義は実感するが、介護実習は、本業につながらない、いわば単位を取るためだけの実習となり、そのため実習生を受け入れる施設側にとっても受け入れる意義が見出されず、やる気のない素人を数日間だけ仕事に就かせなければならない、余分な作業となる可能性がある。

そんな心配の中、自分が巡回を担当した施設に、事前に訪問の予約を入れ(それが今日になった)、大学が用意した手土産を持って、暑い中上着を羽織って訪問した。

そこでの実習はデイサービスに来るお年寄りの世話で、尤も福祉免許ではなく教員免許の一貫なので、本格的な介護の補助ではなく、お年寄りとコミュニケーションをとるレベル。

その様子を見ていると、実習生は、退屈そうにしている車椅子のお年寄りのテーブルに率先して近づいて、身を屈めて膝をついて、お年寄りと目線を合わせて、笑顔で会話をしている。

相手と目線の高さを合わせることは、施設側が初日に指導したという。
後は自発的に実習生が話しかけて廻っている。
ここに通い慣れたお年寄りにとっても、若い実習生との会話が新鮮なようだ。

その姿を見て、これからの教師に必要な実習であることを痛感した。

今までの学校教師は、生徒に対して、上から目線で、管理者・権力者になっていた。
個々に様々な問題を抱えている生徒に対して、それを無視して、強圧的に指導してきた。
それによってどれほどの生徒が、教師に傷つけられてきたことだろう。

これからの教師は、生徒をケアする三人目の親となるべきなのだ。
しかも自発的な愛情に頼るのではなく、プロとしての職業意識・技術に基づいて。
そのための貴重な体験ができるこの実習の意義を痛感し、笑顔で率先してお年寄りに接している実習生を見て喜ばしくなり、この実習の機会を与えてくれた施設に改めて感謝の念を持った。

初めての介護施設の巡回なので、かように私にとっても新鮮だった。


倒れていた気象観測器

2023年07月13日 | お仕事

昨日15時6分に日進市を見舞った雷雨時の突風(32.5m/秒)は、校舎屋上に設置してあるわが気象観測器をぶっ倒していたことが判明した。

直後にそれがわからなかったのは、雷雨以後もわが気象観測器は気象データを観測し、研究室内のパソコンに送信し続けていたため。

その配信が本日の午前4時に途絶え、ネットの配信画面は、観測器の電池切れ状態を示していた。

ということで、定期的な電池交換の時機だと思って、新しい電池をもって校舎屋上に上がり、観測器の所に向かった。

すると観測器は、ものの見事に倒れていて、センサー部分は横倒しのままで地面に接し、データ送信パネルの蓋が外れて、中のリチウム電池は外れて行方不明、送信の配線部分は屋上窪地の水溜り内に没していた。

つまり、電池がはずれて、蓄積していた太陽電池エネルギーが切れるまでの間、残ったエネルギーで、水没していた配線部分はなんと水中からデータを送信し続けていたのだ。
なんとけなげな…、死してもラッパを離さぬ広瀬中佐※のよう。
※:コメントで指摘されたように木口小平の誤り。

倒れた観測器を「しっかりせよ」と抱き起こし、電池を差し込み、パネルの蓋をしめた。
すると、観測器はなんでもなかったかのように、風速計が回転しはじめ、データを送信しはじめた。

かように、わが気象観測器は、1年365日、大雨の日も強風の日も、片時も休むことなく、気象データを計測して配信しつづけている。


4年ぶりの遠足

2023年04月08日 | お仕事

コロナ禍で中断していた大学新入生の”遠足”が、4年ぶりに再開できた。
行き先は以前と同じ”博物館明治村(愛知県犬山市)

園内を歩きながら、新入生に明治村に来たことがあるか尋ねると、地元愛知の学生は中学や高校の時の遠足で来たという。
その意味では新鮮味に欠けるが、中学生や高校生として明治建築を楽しめたかと聞くと、ちっとも楽しくなかったという。
そうだと思う。
明治村は、歳をとるほど楽しめる所だから、大学生になって来た方が意味がある。

と言っても、私が引率担当する学生は建築学科ではなく心理学科なので、
建築空間が居る人の心に与える影響を実感してもらう(環境心理学)。
それに最適なのが、聖ザビエル天主堂(写真:堂の正面入口で引率学生を撮る
堂内の長椅子に座って祭壇に向かった時の心の状態がポイント(私はずっと座っていたくなる)。

明治村で(大)学生を引率する場合、この天主堂とフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル中央玄関の2カ所は欠かせない(あと金沢監獄・雑居房)。
ただし後者は園内の最奥部にあるので、午前中はこれらを巡るだけで精一杯。

昼食を挟んで、午後は学生たちに自由に巡らせ、私は蒸気機関車が引っ張る三等客車に揺れらて移動した(500円)。
最後に、ミュージアムショップで、ここでしか見たことがない”桑酒”(滋賀長浜産)を自分の土産に買った。
今晩は、これを食前酒にする。

というわけで、久々の明治村を自分なりに楽しんだ。


新年度授業とコロナ

2023年04月07日 | お仕事

今週の木曜から2023年度の授業が始まった。
授業だけでなく、会議においても完全に対面が復活。

ただキャンパス内は(外でも)マスク着用が圧倒的に多い。

なので私は、あえてマスクを外して授業をして、既存の「同調圧」に与しないようにしている。
実際、マスクなしの方が、話すのが楽で、声の通りもいい。

逆にマスクをする自由を妨害するものでもない(マスクを外す同調圧にも与しない)。

実は感染の情報はいまだに届く。
もっとも旧型コロナ(風邪ウイルス)と同程度に弱毒化したようで、感染した学生たちの症状も軽く、後遺症もない。
まさに”ただの風邪”になったようだ。

 


教え子の結婚式に出席

2023年03月26日 | お仕事

久しぶりに大学の元教え子の結婚式に出席した。
実は式の招待状が届いたのは昨年の6月で、秋口に式を予定していたが、コロナがぶり返したので、半年延期になったのだ。

言い換えれば、大切な人生の通過儀礼がやっと通常通り執り行なえるようになったわけだ。
すなわち、大勢での密集や会食(談笑)が抵抗なくできる状態に戻った。

結婚式は、人生の通過儀礼の中で、当事者が主体的に開催し、享受できる唯一の儀式である。
※:主なものは「冠婚葬祭」すなわち、加冠の儀(成人式)、結婚式、葬式、死後の回忌祭。他にお七夜、食い初め、七五三、還暦など。
そして主催者と縁のあった人々が集って、つかぬまの出会い・再会を楽しめる。

実は、この日のために礼服を新調し(手持ちの礼服はウエストが閉まらなくなった)、靴も礼服用のストレートチップを購入し(今では革靴は儀礼にしか履かない)、二日前に散髪して初めて白髪を染め、すっかり新鮮な状態で臨む。

披露宴だけの出席と思っていたら、当日になって招待状をよく見たら、挙式からの出席だった。
キリスト教会での挙式出席はよくあるが、神(道)式での挙式に参列するのは初めて。

実は、日本の伝統的結婚式では、いわゆる挙式は、結婚する当事者2人と、式三献(三々九度)の儀式を執り行なう雄蝶・雌蝶役の2人の女性と花嫁を介添する女性の計3人と合わせて5人だけで行なった
※:雛人形の男雛・女雛と三人官女の組み合わせがこれを示す。言い換えれば五人囃子以下の雛壇は人形屋さんの追加分。
すなわち結婚は本来は当事者2人だけの儀式で、親兄弟すら同席しないものなのだ。
ただし、その後の宴会は大勢参加して夜通し(3日間)続いた。

キリスト教式の結婚式を模して大正時代から始まった神式の挙式は、伝統的三々九度や神道的儀式(修祓、祝詞、玉串奉奠、鈴の儀など)も含まれるが、キリスト教式に指輪の交換などもする(キスはしない)。
※:キリスト教式結婚式は、逆に開放的で、たまたま教会に居合わせた部外者も参列できる。
今回の神社は、出雲系なので、拝礼は出雲式に二拝拍手一拝。
さすが神官の拝礼姿勢は直角で見事だった。
ちなみに、参列者は指示されなくても全員マスク。

続く披露宴での私の席は”新婦友人”テーブルの一角で、大学の教え子がいるかと思ったらおらず、同じ丸テーブルを囲むのは高校時代の友人たち(♀)と、卒業後の友人たちの2グループに挟まれた状態。
すなわち、私にとっての縁者がおらず、しかも双方とも新婦の年齢帯なのでまず私とかなりの年齢(世代)差がある。
さらに私には「大学教授」の肩書きが各人に配られた座席表に記されている。
大学教授って話しかけづらい相手の上位にくることは知っている
これでは彼女たちから私に話しかける気力も起こらないだろう。
※:大学教授に話しかけるには、専門領域は何かを尋ねればよい。ただし、その話題に下手に興味を示すと、話が止まらなくなるので注意。

2グループに分かれた円卓で一人黙然としているのも居心地が悪いので、私から左右に話しかける。
切り出しとして、共通の知人である新婦との間柄について尋ねればよい(上のグループ情報がその結果)。

考えてみれば、初対面の(学生以外の)若い人と会話(雑談)するって久しぶり。
もちろん、新郎・新婦、それに双方の親御さんにも祝福の挨拶をしたが、つかぬまの出会いを楽しむのもこうした宴席ならでは。
ついでに、新郎・新婦が用意してくれた、航空会社ファーストクラス採用のワインを数種類飲めたのもいい思い出になった。
もちろん、縁ある二人の人生の門出に参加できたことこそ、一番の意義であることは言うまでもない。


2022年度卒業式

2023年03月15日 | お仕事

本日勤務先の大学で卒業式を迎えた(大学院の修了式も)。

昨年に続き、大学キャンパスで学部ごとに教室に集まり、大学本部での代表者による儀式を映像で流すという形式。

卒業生たちの華やかな服装は例年通りで、ごく数人マスクを外している人もいた。

祝辞を述べる側の各教員はマスク姿。
マスクを外しての祝辞がどうしても教訓めいたものとなるのは教師の職業病。

この時だけはこちらもスーツ(礼服ではない)で胸ポケットにチーフを差し込む。

これこそ年度末の最終行事。


卒論指導終了

2022年12月20日 | お仕事

本日は我が学部の卒論締日で、私の卒論指導生も全員無事に卒論を提出できた。

大学の教育業務で最大の負荷を乗り越えた。
なので帰宅して、ビールより格上の発泡ワインの栓を抜いて祝杯をあげた。

最大の負荷の理由は、10名以上の指導学生が個別にデータをとって分析し、それを学術論文形式に指導するのを一人で担当するから。

大学院生なら、こちらが方向づけをアドバイスするだけで、少なくとも分析は自分でやれる。
ところが大学生だと分析も結果の記述も指導も、手取り足取り指導しなくてはならない。
しかも各自内容が異なるので、一斉指導ではなく個別に指導となる。
最後は論文の添削に追われる。

言い換えれば、わが心理学科の学生は、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験をして、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業をこなして、はじめて卒論の単位が得られる。
理系の学部なら研究室でテーマを与えられ、実質共同研究の一部を担当すればいいし、文系の学部ならいくつかの文献を適当に(自分の思惑で)まとめればいい。

このような負荷の高い作業をなし終えて、それを卒業の証しとして社会に送り出すのだが、
社会人になると、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験として、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業とは逆の、簡単・簡略に A4の1ページにまとめることが要求される(物事をじっくり考えることが許されない)。

たぶん学生は卒業後、データ分析もこれほどの論文を書く機会も二度とないのではないか。

大学教育が世間のニーズに合っていないといわれるかもしれないが、高度な教育を必要としていない社会の方が将来が暗いのではないか。

大学教育では足りない!というのが、望ましい状態ではないのか。


新年度始まる

2022年04月08日 | お仕事

今週から新年度の授業と会議が始まった。

毎年3月末に陥っていた鬱気も、4月に学生のフレッシュな顔を見ると、これまた毎年吹っ飛ぶ。

新年度の初回授業は、リニューアルされた教室の機器に戸惑ったり、学生が教科書を購入していなかったりと、スムースにいかず、鬱にひたる余裕がない。

それに今年度は、役職から解放されて、一教員の立場の戻れた分、気が楽だ。
とりわけ会議の議長からの解放がありがたい。

ただ、コロナ感染の波が若者たちに襲いかかっている気配があり、それが気掛かり。
今年は、対面授業を通したい。


卒論提出に思う

2021年12月18日 | お仕事

本日、土曜出勤をして、卒論指導学生全員の卒論提出にこぎつけた。
指導教員である私がOKを出さないと、学生は卒論を提出できないから。

もちろん、簡単にOKは出さず、幾度もダメ出しをして原稿を突き返した。
といっても”指導”教員なので、どこがおかしいのか、どう直したらいいのか、細かく指導する。
論文のタイトルも、内容を集約していないと思う場合は直させる(いや、私も学生と一緒に腕組みしてぴったりするタイトルを考える)。

実は大学教員として、この卒論指導が最も負荷が高い(大学院生は、自力でどんどん論文を進められる)。
学生にとっても、この指導を受けての卒論執筆こそ、大学生活最大の作業だ(4年生が一番ヒマどころか、一番たいへんなのだ)。

こうして学生は、私という壁に幾度も突き返されながら、その都度修正し、最後には学術論文らしい内容に仕上げる。

そう、学生は人生最初で最後の”学術論文”を書き上げる。
自分一人で、文献を検索し、質問紙(アンケート)を作成し、データを取り、それを統計分析し、結果を解釈して、12000字以上の論文に仕上げる。

ここまでできたことの証(あかし)として、学士の学位が与えられる。

ところが、残念なことに、ほとんどの学生は、卒業後は、論文はもとより、12000字もの原稿を書くこともなくなる。
学術論文を読むこともないだろう。
ましてや、卒論で活用したパソコンを使ってのデータ分析(多変量解析やテキストマイニング)をすることもなかろう。
仕事でこそWordとExcelは使うだろうが、あとはスマホで足りる情報生活(高校生のレベル)に戻りそう。
実にもったいない。

これらの能力が、卒業後に活かされないのは、大学が社会のニーズに合わない無駄な教育をしているからだろうか。
いや、日本社会の方が本来進むべき”高度情報社会”に成熟しようとしないためではないか。
情報の活用レベルが低い旧来の状態に適応させる力の方が強く感じる。

当方でここまで学生を鍛えましたので、どうぞさらに鍛えてください、と社会に送り出したいのに。


冬の茄子(なすび)

2021年12月10日 | お仕事

本日の夕食は、麻婆茄子(マーボーナス)。
今日が、わが勤務先の”冬の茄子(ナス日)”だから。

昨年から、明細は紙からネット画面に変更。
その画面を肴にして、発泡ワインのコルクを勢いよく抜いて、この日用の麻婆茄子を食べる。

といっても、ご他聞に漏れず、ここのところ手取りはほとんど変化なし。
支給額こそ微妙に増えてはいるが、拒否できない”控除”額も増えているため。

毎年のベースアップが当然だったのは、はるか昔の高度成長時代と、バブルの数年間。
私が定職につく前の時代。
バブル崩壊後の20年、さらに昨今の不景気下では、”昨年並み”でありがたいのかもしれない。

慎ましく生活するのに慣れているので、これといった買い物予定はない。
上記したように、晩酌がいつもの第三のビールから発泡ワインの小瓶になった程度。
読みたい本が躊躇なく買えるだけで満足(といっても仕事用の専門書は自腹ではなく、研究費で購入できる)。
また、積立(老後資金)への天引き額も多めにしてある。

自分はともかく、母にはこの恩恵をおすそ分けしている。