今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

東博の顔真卿展を観に行って

2019年02月05日 | 作品・作家評

姪の手術が成功裡に終り、私の採点も順調に進んだので、息抜きとして、東京国立博物館(以下、東博)でやっている『顔真卿(ガンシンケイ)※展』を観に行った。
※唐代の書の大家(東晋代の王羲之と双璧をなす)。 

実は”書”には全く関心がないのだが、台湾の故宮博物院の秘宝が日本に出展されることが中国で問題化されていて、しかも春節の休暇を利用して中国・台湾から大勢押し寄せるというニュースに接して、にわかにミーハー的興味が湧いたという次第。
東博は言ってみれば私の散歩圏内だし、 空海の書も展示されるというので、最近密教に傾いている自分が呼ばれている気がしたせいもある。

顔真卿は高校世界史での記憶しかなかったが、この目で王羲之の書と見比べることができたのはよかった。
とにかく現代の楷書のベースとなっている書体なので、われわれ漢字文明圏の者にとっては、影響力絶大である。
彼の書風には「顔法」、その特徴は「蚕頭燕尾」(書き出しが蚕のように丸っこく、跳ねが燕の尾のように二つに分れる)と名がついている。

館内は確かに、中国・台湾人が少なくとも半数は占めている(家族連れが多いのは、やはり春節休暇旅行か)。
なにしろ、イヤホンガイドも中国語版があるほど。
最大の見所は、甥の死を悼んだ「祭姪文稿」 の肉筆で、ここだけ行列で30分かかる。

次いで人気があったのは、同じ唐代の僧・懐素の「自叙帖」(右図:東博のサイトから)。
その大胆な草書(「狂草」 と称される)は、前衛的書ともいえる筆致で目を見張る。

最後の”日本への影響”コーナーでは、空海の書がいくつかあり、王羲之の影響を受けたものの独自性を確立した様子がみてとれる。
改めて思うのは、空海(弘法大師)って、真言宗ではまるで仏様のようにあがめられているが、かように直筆が残っている実在した人物だったのだ。

ついでに、あの懐素の影響を受けた日本人は、藤原佐理(スケマサ)という人で、彼の草書はもはや”ひらがな”に達している。

実は、この展示を観て、内容とは別に気になったことがある。
 展示物を隔てるガラスのあちこちに人が触れた跡があって、その汚れによって作品の観覧が妨げられているのだ。
いったい誰が触るのか、観察していると、実際にガラスに指を触れている現場を3度見た。
いずれもオバサン(日本人)である。
このオバサンたちは、同性の連れとおしゃべりしながら、作品を指さして話をしている。
つまり同行者に作品について語ることが、作品の指さし行為を必要とし、そのため指がガラスに触れるのだ。
いいかえれば、単独で来ている人や複数でも黙然と観ている人は、指を差す行為自体をしないので、ガラスに触れることはない。
なら、ガラスの汚れはガラス越しに指さすオバサンのせいか、というと、すんなりとそうはいかない。
なぜなら、汚れの多くは、オバサンの指の位置よりは高くて私の目の下あたりだし(だから視野を妨げる)、しかも視野を妨げるほどに面積は、指先が触れただけの跡にしては広すぎる。
つまり汚れは、オバサンの指先によるものではないようだ(指でぐるぐるなぞるなら別)。
あの高さと広がり具合からみて、おでこが触れたのではないか。
もしオバサンが、おでこにファンデーションを塗ってきて、それがガラスに振れたなら、あの位置と面積と濃さで汚れるだろう。 
おでこの位置とガラスを平気で触れる行為がその可能性を高めている。
というわけで、やはり犯人はオバサンではなかろうか(現場を押さえていないので推測に留める)。 

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やっと読んだ『自我の終焉』

2018年08月11日 | 作品・作家評

クリシュナムーティ著『自我の終焉—絶対自由への道』(根本宏・山口圭三郎訳)篠崎書林。
この本は、自分が学生時代に購入して、ずっと”積ん読”状態だった。 

なぜ買ったままずっと読まなかったかというと、タイトルだけで、仏教の基本テーゼの一つである「無我論」のことだとわかるので、読んだ気になってしまって、改めて読む気にならなかったから。

それが最近、私が接近したトランスパーソナル心理学の本で引用されていたので、そういえばこの本持っていたなと思い出し、読んでみた次第。

内容を簡略に説明すると、
現象をありのままに経験することで、既存の限定された自我を超越できるということ。
これを私の「多重過程モデル」で言い直すと、システム3という非日常の心を開発することで、システム2の主体である”自我”を超越した心に達することができるということ。
かように、私の多重過程モデルにぴったりはまっているので、とてもわかりやすかった。

この自我を超越する視点は、それこそ「トランスパーソナル」(超個)であるが、著者は、超個的な存在(観念)を実体視しない点が既存のトランスパーソナル心理学と違う(システム3の現象学的態度を堅持している)。

システム2までの既存の心理学も、システム3とかなりダブっている認知行動療法的なマインドフルネスも、そして本当はシステム4という境地に達してほしいトランスパーソナル心理学も、自我あるいはそれに代わる何ものかを実体視している(既存の心理学はシステム2の主体=自我をそれこそ大切にしている)。

この主張、もし私が買った当初読んでいたら、心理学理論としては受け付けなかったろう。
幸い、自分の方が既存の心理学を拡大した多重過程モデルに達したので、心理学として受け入れることができた。
その点でいいタイミングで読んだことになり、”積ん読”には意味があるなと我ながら感心する。 

さらに、ここしばらく、前近代的非科学思想を引きずっているトランスパーソナル心理学や気の理論の本を続けて読んでいたので、これらが内在しているシステム2的妄念・妄想のアカが取れて、心がすっきりした。

「システム3って何?」という人でも、マインドフルネス(療法的/仏教的)を知っていれば、著者が、自我による誤った条件づけ・認知的バイアス(システム1)や自動的思考(システム2)を問題にしていることが理解できよう。

本書でさらに特徴的なのは、クリシュナムーティはこの境地を目指すのに導師(グル)を不要としている点。
この手の多くの教説本は自己流を戒め「よき師につけ」と勧めるもの。
それって実はその本の著者の自己宣伝を含意していたりする。

クリシュナムーティによれば、導師を求めることは、自己の願望を求めているにすぎないという。
だから、その願望を満たしてくれそうな人にハマり込む。
麻原彰晃という誤った導師(グル)にハマって、それこそ他人と自分の人生を台無しにした人たちをわれわれは知っている。 

クリシュナムーティ自身、ほとんど独学でこの境地に達したがゆえの確信によるのだろう。

そういえば、仏典によると、釈尊が入滅の時、弟子たちがこれから誰を師とすればいいのか釈尊に問うた。
釈尊の答えは、「己れを頼りなさい。法(ダルマ)を頼りなさい」だった。
どこぞの誰(他者)を頼れとは言わなかった。

さらにそういえば、私ら大学教師も、学生に「自分の頭で考え、自分の言葉で語れ」と指導する。
決して「私のように考え、語れ」とは言わない(教師は導師ではない)。
”自分”が現象と一体になれれば、その経験は個我の限定された主観性ではなくなるからだ。
ただ学生の”思考”はシステム2レベルの作用だから、クリシュナムーティの境地には達していないが。 

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”絵画史上最強の美少女”を観に行く

2018年04月16日 | 作品・作家評

表題の絵を観たいと、「至上の印象派展:ビュールレ・コレクション」は前売り券で買っていた。
会場の国立新美術館はうれしいことに月曜も開館なので、混雑を避けて行ってきた。

絵画史上最強の美少女とは、ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」(画像は主催サイトの画面)。
あの横向きに座っている髪の豊かな美少女である。 
モデルとなった彼女は、なんと8歳。
小学校2,3年だから、少女というには幼なすぎる。
丁寧に描かれた髪の毛の質感がリアル。

観たい絵って、ずっと観ていたいので、立ち去るのに思い切りを要する。
そして、後ろ髪引かれているので、一巡した後、引き返して、今生の見納めとして、もう一度眺める。

この絵、本展一の目玉とあって、ミュージアムショップでは、彼女のお菓子や、 Tシャツ、リカちゃん人形、眼鏡拭き、アン・クリアファイル(中が見えないクリアファイル)など揃っているが、8歳の女の子の大々的な横顔が描かれたグッズをこの私が持ち歩くには、ロリコンだと思われそうな抵抗感に勝てず、部屋に飾る小さな絵はがきで我慢した。
ホントは持ち歩き用のチケットを入れるファイルを購入したかったのだが、人目をはばかって、ロートレックが描いたモンマルトルのスレた年増女性の絵にした(こちらなら私が持っていても違和感ないだろう)。

この個人コレクション、すごい充実ぶりで、印象派の前と後を含んで、西洋絵画が近代化・現代化していく過程がよくわかる。
すなわち、写真のようなリアルさが追究された印象派以前の絵(カナールの風景画、アングルの肖像画)から始まって、印象派(モネ、ドガ、ルノワールなど)を経由して、さらにセザンヌ・ゴッホを経て、ピカソに到る過程、すなわち写実画が解体していく過程が通覧できる。
形に閉じこめられていた色彩がまずは爆発して、光による視覚体験を再現しようとし、次に色彩によって解体された具体的形態が今度は形態そのものであることを主張して 、固定的視覚体験を解体していく。
その橋渡し的存在であったセザンヌの絵を見ていると、もう具象画である必要ないんじゃないの、言いたくなってくる。 
そして、キュービズムのブラックの絵「ヴァイオリニスト」は、完全にゲシュタルト崩壊※を示している。
この絵の絵葉書がなかったのが残念だった。

館外初出展=本邦初公開のモネの睡蓮の大作も見ごたえがある(この絵だけ、写真撮影OK)。 
東京での展示は5月7日まで。
その後”美少女”たちは福岡、名古屋を巡るらしい。 

※:構成要素は同じでも要素間の関係がくずれ、秩序立った意味のある形態に見えなくなる事。現代芸術(音楽を含む)の”わからなさ”の心理的理由。

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みうらじゅんになれなかった私

2018年03月17日 | 作品・作家評

※本記事は、みうらじゅん(「ゆるキャラ」の命名者で有名)について最低限の知識があることを前提としています。 

私の春休み第一弾は、川崎市市民ミュージアムで開催中(3/25まで)の「みうらじゅんフェス!:マイブームの全貌展 SINCE 1958」の鑑賞。

私は氏(みうらじゅん=三浦純)とほぼ同世代で、同じく仏像が好きなので、根強いファンというわけではないが、親近感をもっていた。
実際、昨年はいとうせいこうとのポッドキャスト番組 「ザツダン+」をなにより愛聴していた。
なので、そろそろみうらじゅんなるキャラをきちんと知りたいと思っていた矢先の渡りに舟というわけ。

その川崎市市民ミュージアム(市が2つ続くのがミソ)へ行くには、今をときめく武蔵小杉からバスに乗る。
なので初めて降り立つ武蔵小杉から、私のワクワクは始まる。
なんで”初めて”かというと、ここを訪れる理由が今まで無かったからで、そもそも小杉は川崎市外の者があえて訪れる地ではない。
当然ながら地名は”小杉”であり、武蔵小杉は駅名にすぎない。 
「武蔵小杉」として有名になった理由は、駅前だけが固有に変貌したためだろう。
降り立ち記念に、駅構内か駅前で「駅そば」を食べようと目論んだが、蕎麦屋がまったく見当たらず(讃岐うどんは選択外)、仕方ないのでおにぎり屋でおにぎりを2つ買い、コンビニで天然水を買った(おにぎりはその場で作る店のがいいが、ペット飲料はコンビニのが安い)。 

ちなみに、降り立っただけの印象では、横須賀線沿いは並行している新幹線の走行音が大きい。
もっとも今どきの高層マンションなら窓の防音効果もしっかりして、高層階では窓は開けないだろう。 

駅前からバスに乗って、等々力スタジアム(川崎フロンターレのホーム)のある広い公園の一画で降りる。
まずはミュージアムの外のテラスで、おにぎりを食べる(空腹をかかえたままでは鑑賞に集中できない)。 

800円払って展示会場に入ると、意外に幅広い客層でそれなりに混んでいる。

「全貌」というだけあって、氏の生い立ちに沿って、膨大な展示が並ぶ(すべて氏のコレクション)。
それは氏自身の「マイブーム」の変遷を示している。
次々と続くマイブームの圧倒的なコレクションの前では、「マイブーム」って一時期流行った流行語で、今どき使うのは恥ずかしいなどとほざく底の浅いヤカラの心根も簡単に砕かれよう。
みうらじゅんの人生そのものが主体的感性にもとづく「マイブーム」の発掘と変遷の歴史なのだ。

その展示でわかったことは、氏は小学校時代にマンガを描きはじめて、いろいろなキャラクターを作り出し、中でもカエルのキャラがお気に入りだったということ。
これって、まさに小学校時代の私だ!
ここまでは同じだったんだ。 

そして氏は早くも小学4年で仏像にのめりこむ(京都の地がそれを有利にしている)。
悔しいことに私より数年早い。
しかも子どもなりに詳しく調べている。 

『見仏記』を読んだ印象では、仏像に対する蘊蓄はいとうせいこうで、みうらじゅんは感性的評価が主だと思っていたが、それは単なる役割分担で、氏の仏像に対する理解は筋金入りだった。

また高校の時、ホントに空手の通信教育を受講していた(お笑いのネタではなかった)!

そして自分の才能を開花すべく、2浪して多摩美術大学に入学(その時の受験票も展示)。
入学後はもちろん描画の腕を上げ、その延長で『ガロ』に掲載される。

一方、私は中学に入ってマンガからきっぱり足を洗い、二度と戻らずに現在に至っている。
小学校時代に描きためた幾冊ものマンガ集(4コマ、短編、長編)は今は1つも残っていない。
ここで大きく差がついた。
私はみうらじゅんになれなかった。 

捨てない、そして集めるコレクターとして(「断捨離」とは対極)の氏の生き方もすごい。
磯野カツオをまねたのか、小学生時代の「肩たたき券」も残っている。 
私も子どもの頃は氏と同じく「ゴムヘビ」が大好きだったが、遊んで壊すばかりでコレクターにはなれなかった。

氏の数々のマイブーム・コレクション(しかもこの展示がすべてでないという)を通覧して感じるのは、氏の(集めて命名する)行為そのものが、われわれが自明視しているモノに別の価値を発見させる「アート」であること。

かくして、私との子ども時代の共通点(マンガ、カエル、仏像、ゴムヘビ)を発見できた喜びを得た一方、その後に拡がる差異に打ちのめされた。

見終って、ミュージアムショップで買ったのは、昨年映画として観損ねた「ザ・スライドショー」のDVDと氏のメインキャラであるカエルが描かれたポーチ(私が持っているカエルのフィギュアたちを収納するつもり)、それに本展とは無関係ながら北斎の神奈川沖の浮世絵の3Dポストカード。
最後のモノは氏の3Dコレクションの影響を受けた。

そういえば、本展でのショップ一番の売りは「SINCE」Tシャツだと思うが、
美術展で売っているオリジナルTシャツって一見食指が動くけど、絶対着て歩けないので、いつも伸ばした手を引っ込める(ミロのTシャツ2着を例外として)。
あれって、買う人は何のために買うのだろう(着て歩いている人を見たこともない。私もミロのTシャツはもったいないくて着れない)。
この「ミュージアムショップのTシャツ」問題も氏に考えてほしい
(実際のところ、「SINCE」Tシャツはかなり売れているようだが、私にとってこのTシャツを着て街を闊歩する資格があると思えるのは”シンサー(SINCEを審査する人)”だけで、すなわちこの Tシャツはシンサーの制服であり、それは実質みうらじゅんただ一人だ)。

それと、これも美術展に必ずあるオリジナル・クリアファイル。
そもそもクリアファイルは透明で中が見えるからその名がついているのだが、美術展で売っているものは絵がぎっしり描いてあって中がまったく見えない(つまり実用的でない)。
これには氏がすでにその問題に気づいていて、これはクリアファイルにあらずということで、「アン・クリアファイル」と名づけている。 

かように、世の中の注目されない物に、その存在理由を見出す、あるいはその存在の不条理さを明らかにする、氏の今後の活動を楽しみにしている。

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『享徳の乱』を読む

2018年01月02日 | 作品・作家評

正月は屠蘇・お節以外は、仕事もせず、テレビも見ず、読書に宛てる。
しかも対象は関東戦国史に限定。

私は高校時代に所属していた地歴部以来、いわゆる”戦国時代”に先立つ足利成氏(シゲウジ)が中心となって展開される関東動乱に魅せられていた。

その動乱は、今では「享徳の乱」と名がついている。
最近やっとこの名称が広まってきた。
そして戦国時代の幕開けは「応仁・文明の乱」(1467年から)ではなく、それに先立つこの「享徳の乱」(1454〜1482)であることも。

その命名者は峰岸純夫という歴史学者。
今年の正月は、その本人による書、『享徳の乱:中世東国の「三十年戦争」』(講談社、2017年)の電子版を読んだ。

享徳の乱は、足利成氏(古河公方)と対抗する関東管領上杉氏との関東を二分する対立による(和睦で終結)。

この乱において、旧来の守護領国体制が崩壊し、所領を武力で糾合した「戦国領主」が形成されたというのが氏の主張。
戦国領主が、さらに国レベルに拡大したのが戦国大名である。
すなわち従来の”国衆”と”戦国大名”とを繋ぐ概念である。
言い換えれば、この乱には戦国大名はまだ登場しない。

氏の主張は、戦国時代の先駆けは、この享徳の乱であり、しかも応仁・文明の乱はこの享徳の乱が波及したものであるという。
この本でもそれがテーマとなっている。

ちなみにこの時代は、「下克上」以前に、主君が家臣を誅殺する「上克下」が見られた(これも氏の造語)。
この乱の発端は成氏が補佐役である管領の上杉憲忠を殺害したことであり、また乱の終結後、大活躍した太田道灌も主君である上杉定正に殺された。

そしてこの混乱からは戦国大名が出現せず、関東はやがて隣接する戦国大名(伊豆の伊勢盛時、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄)たちの草刈り場になる。
並み居る戦国領主の中で、突出した力を持ち彼らの上に立つ者が出現しなかったためだ。
この乱が和睦で終ったのもそのため。
足利成氏や管領上杉氏はその者(戦国大名の卵)出現を阻止する側で、長尾景春や太田道灌は芽を摘まれた側だ(道灌は元は阻止する側であった)。

この消化不良感が、かえって私に汲めども尽きない興味をかき立てた。
ただ残念なのは、史料不足のため、道灌を唯一の例外として人間的エピソードに乏しい点。
これでは大河ドラマにはなりにくいな。 

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「怖い絵展」観てきた

2017年12月04日 | 作品・作家評

先週末、某大手マスコミから取材申込を受けた。
東京上野で開催中の「怖い絵展」が大人気となっていることから、なぜ怖い絵を見たがるのかの心理学的説明を求められたのだ。

通常の心理学では、恐怖は逃避行動を動機づけるものとしか認識されず、「恐怖を楽しむ」ことに注目しているのは私くらいしか目に止まらないらしい。
そのせいで、この話題では今までも講演をし、雑誌インタビューを受け、テレビにも出た。

社会心理学者である私としては、お化け屋敷やジェットコースターにお金払って楽しむ客の心理を無視できないのだ。 

なので一般論なら語れるが、それは私自身が上のメディアでさんざん語ったことだし、一方「怖い絵展」は観ていないので、それについての現象の分析はできない。
なので、申込は断った。

でも「怖い絵展」がなぜ人気なのか、自分で確かめたくなって、上野の森美術館に行った。
といっても数時間待ちの行列には並びたくない。
平日の夕方が比較的空いているようなので、今日の4時すぎに行った。
それでも40分行列した。

そもそもこの特別展は、ドイツ文学者の中野京子氏の『「怖い絵」で人間を読む』 によるもの。
氏は、「先入観をもたずに感性で感じろ」という絵画観賞法に異を唱え、絵画の主題が前提としている意味を知らずしてその絵を理解できないと主張する。
確かに前者の観賞法は現代芸術用で、伝統的西洋絵画だったら、ギリシャ神話や聖書を知らずして理解するのは無理となる。 
すなわち、今回の絵の”怖さ”は意味(死という観念)によって浮かび上がってくるものである、という所がポイント。
つまり、ストレートに「怖い絵」ではない。

それと怖い絵を見ることの心理的意味自体、氏が語っており(音声ガイドの最後で)、その論旨は私の見解と整合する。
なので私があえて語る必要もないことがわかった。
ただしそこで語られている恐怖を楽しむ心理を、この特別展で得られるかは保証できない。 

本記事は、実は観る前は、「怖いけど観たい、怖いから観たい」というタイトルで、心理学的説明をする予定だったが、以上の理由で説明を省略する。

どうしても知りたい人は、中野京子氏の本を読むか、展示の音声ガイドを聴くか、ネットでダウンロードできる拙稿「恐怖の現象学的心理学」(2007)の「7.2 楽しまれる恐怖」をご覧じあれ。

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新海誠展を観る

2017年11月27日 | 作品・作家評

新国立美術館で開催中の「新海誠展」を観に行った。
もちろん『君の名は。』の作者・監督の新海誠。
「安藤忠雄展」も同時開催中なのだが、2つ一緒だと満腹すぎるので、別個に観ることにする。

入場者は若い人ばかりかと思っていたが、年齢層はまんべんなく広かった(平日昼ってこともある)。

新海誠は美大出ではなく、普通の大学の文学部出だった。
自宅のMacで自作したデビュー作『ほしのこえ』 から、作品別に絵コンテを含めた制作過程が詳しく展示されていた。

あの写真と見まがう風景描写は、写真をそのままデジタル加工したのではなく、ロケ写真をもとにしているものの、絵はパソコン上で描いたものだった。
絵の一色ごとPhotoshopのレイヤーにして、 レイヤーを幾重にも重ねて一枚の絵にした。

あと個人的に気になっていた雲の描写は、やはり彼自ら手を入れていたという。
Photoshopのカスタムブラシで透明感のある薄い雲が描かれていることがわかった。 

彼の作品は、光、雨、雲の表現が特徴的で、それ自身がストーリーと関係している。
彼は自分が育った長野県佐久の自然の中で、雲を眺めるのが好きだったそうだ。

彼の映画には「積雲」が多い。
好晴積雲(綿雲)から雄大積雲(入道雲)までで、「積乱雲」はない※。
積雲は青空の中に突然出現する雲。
そして積雲から雄大積雲へは強い上昇流によって成長していく。
だが雄大積雲は成長の極致ではない。
それ以上上昇を続けると積乱雲になってしまう。
積乱雲になってしまうと、烈しい雷雨となって、破壊的となる。

※いくつかの作品に積乱雲(雷雲)があった。ただ遠雷でたいした存在感はない。

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土屋嘉男氏を悼む

2017年09月06日 | 作品・作家評

俳優の土屋嘉男さんが今年2月に亡くなっていたとの報。

思い出深い人がまた逝ってしまった。

たぶん世間的には、黒澤映画の傑作「七人の侍」での出演が有名か。
私にとってリアルタイムで最初に観たのは、自分が年端もいかない頃に観た「マタンゴ」 (1963年)。

幼少時に私が一番熱中したのは「キングコング対ゴジラ」(これには出ていないが他の怪獣映画には出演)だが、いちばん強烈な印象だったのは、このマタンゴだった(それ以来、キノコに神秘的な憧れを抱くようになって現在に至る)。

 彼についてのWikiを読むと(すでに死去とされている)、趣味は登山だったという(かつての私と同じ)。
そういえば「ある遭難」という映画(松本清張原作)では登山経験者の役で出ていた鹿島槍ヶ岳での現地ロケシーンも印象的だった。 

私自身、東宝映画とともに育ってきたので、彼が出演した映画はたくさん観てきた。
ここしばらくは、彼の出演作品を観て、偲ぶことにする。 

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「君の名は。」DVDで観た

2017年08月17日 | 作品・作家評

昨年”思いもかけず”(失礼!)大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』をレンタルDVDで観た。

そもそも昨年の公開時は、同時期の『シンゴジラ」を2度観に行ったが、こちらは全くスルー。
そりゃゴジラ世代の私だから、ゴジラは外せないのは当然だが、こちらは、まず批評レベルの評判がよくなかった。

漏れ聞くストーリーも、高校生の男女が入れ替わるというものなので、私の世代だと大林宣彦の『転校生』が頭に浮かび、その焼き直しかと勝手に想像し、この年齢で高校生の恋愛ものに感情移入はできそうもないので、観たいという気持ちにはなれなかった。
もっともアニメ自体は毛嫌いしてはおらず、少し後に公開された『この世界の片隅に』 は映画館で観て、本ブログに感想を載せた。
ようするに、上の観たものと見比べると、私はこの映画を観る”世代”でないという気持ちだった。

だが、批評家の低評価をものとせず、ロードショーで快進撃を続け、すなわち一般の人々からは熱く支持され、聖地巡礼まで出現するという事実に目を背けることはできず、DVDが出たらレンタルで観ようと思っていた。

そして、観た結果、

いい意味で予想が裏切られた。
まず『転校生』の焼き直しではまったくない。
ありきたりのハッピーエンドではない。
面白いことに、アメリカでの評価ではもっとハッピーエンドを期待したらしいが、日本人の感想ではこれでも充分ハッピーエンド。
だから”ありきたり”=ハリウッド的定型という意味。
空間だけでなく、時間も超えている(物語を複雑にしている)。
単なる恋愛ではなく、”存在”(在ること)にまで達している。
”存在”こそが私のツボなのだ。 

そして映像が美しい。
オープニングの幾層にも重なる雲の映像だけで、気象予報士にして雲が大好きな私は満足してしまった。
飛騨の里山風景だけでなく、東京の風景も美しい
(周囲に街がある円形の湖は、一目見て諏訪湖がモデルと確信)。

実写と見まがうほどの精彩な映像は、かえってアニメで表現することの意味を考えてしまう。
この作品がハリウッド版になれば、例のごとくCGふんだんの迫力映像になるだろうな
(この作品を観る前に、同じくレンタルした『キングコング:髑髏島の巨神』を観て、CGに食傷していた)。
アニメ(絵)は必要な部分を強調し、不要な部分をカットしても不自然でない点が、すなわち知覚的なリアル(実写)に依存しないでリアリティ(現実感)が表現できる点が有利なのだ。 

特定の世代ゆえに観た他の2作(シンゴジ、この世界)と異なり、むしろこちらの方が幅広く受け入れられそう。
大ヒットに納得した。  

だから、「一度観てもう充分」という感想にはならない。
今後、幾度も観ることになり、そのたびに新しい発見がある作品だ。
この作品と出会えてよかった。 

そして、最後のシーンの聖地、四谷の須賀神社(新宿区須賀町)の階段に行ってみたくなった(国会図書館の帰りに寄れる)。 →後日、聖地訪問を果たした!

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書評『世界はなぜ「ある」のか?』

2017年08月05日 | 作品・作家評

刹那滅の話(直前の記事)をしたついでに、存在論の書、しかも読みやすくてお勧めの書を紹介したい。

ジム・ホルト著(寺町朋子訳)『世界はなぜ「ある」のか?』—実存をめぐる科学・哲学的探究 早川書房

この書はアメリカの哲学者である著者が、17世紀のライプニッツが発した存在論的問い
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
に対する回答を求めて、様々な哲学者・科学者と対話していくものである(米、仏、英を渡り歩いて)。
その中には、ノーベル物理学賞をとったワインバーグや、数学者にして理論物理学者のペンローズも含まれている。
欧米人なのでキリスト教神学者とも対話をしている。

本書を読んでいる最中の感想は、「実にエキサイティング」であった。
私は通常、複数の書を同時並行的に読み進めているが(読書中の本が複数あるということ)、この書だけは、とにかく空き時間があれば読みたくて仕方なく、最優先で読み、そして読んでいて楽しく、読み終わるのが残念だった。
そういう本って、面白い小説なら度々あるが、まさか哲学書でそうなるとは…。
それは本書が堅苦しい学術書の体裁ではなく、記述(著者の思考)がノンフィクション的生々しさ・具体性に満ちているからである。

本書はタイトルにあるように、存在を「世界」側から問う。
だから、当然物理学的この世界が視野に入り、現代物理学における宇宙の開闢(ビッグバン)が問題になり、そこでは多元的宇宙やひも理論も登場し、量子論的回答に導かれる。
この回答と「無」の数学的、物理学的定義に達する中盤部分は、本書のひとつのヤマ場ともいえる。
ただし、これで終らず、あとがきによれば、結果的に83通りもの回答が出現する。

哲学的問いが真の問いとなるには、自らが暗黙の前提としている、すなわち回答を事前に用意している部分を最小にしなくてはならない。
なので、本書は「何もないことが単純で自然なデフォルト状態だ」(あとがきの表現)という前提に気づき、存在だけでなく「無」とは何かも問題にする。

やがて存在を「自己」側から問う視点(実存論)に切り替わるのは、上の探究の結果だけでなく、身近におきた死の経験からでもある(その描写には心打たれた)。
その過程で紹介される「死への恐怖」を誤魔化すことなく語る現代哲学者がいることにホッとした。
私自身、小学校4年頃から、誤魔化しのきかない「自分の死」への絶望的恐怖に襲われてきた(これに共感してくれる友人は一人もいなかった)。

そして、15章も続いた本論のエピローグに登場するのは、90歳の誕生会でのレヴィ=ストロースだった。
あの「自己は存在しない」と豪語した構造主義の泰斗。
氏の誕生会での挨拶が、その「自己」への言及であった点が面白かった。

本書を読み進めていて不満だったのは、ハイデガーの後期存在論(「性起」がキーワード)と仏教的存在論に触れられていない点だった(ショーペンハウアーの仏教的厭世論とブッダの引用はあったが)。
だが、
前者についてはヘーゲルの存在と無の弁証法的解釈がそれにつながっている事が判ったからそれでいい。
後者については、本論が終わったエピローグ(あとがき)の後半になってやっと登場した。
そこでは、本書と同じ問いをテーマにしたフランスのテレビの討論番組(このようなハイレベルな番組があることがうらやましい)の中での仏教僧侶の言葉を、最後の回答例として紹介している。
その言葉は、仏教徒にはおなじみの、言ってみれば存在(有)と無との概念的対立を止揚した上位概念である(まさにヘーゲルにつながる)。
もっとも西洋の”有”を前提にした哲学・神学的思考に馴染んできた著者には、それは素直には受け入れがたいものであり(確かに実感的じゃないし)、最後の83個目に紹介されたからといって、それが最終解とはみなされない。
ただそれによって次の新たな一歩が始まる予感がする。

本書には、訳者によって、日本語で読める参考文献も紹介されているのがありがたい。
今では文庫本になっているので廉価で手に入る(私は電子書籍版を購入)。
量的に500頁におよぶが、エキサイティングな知的探求の話をそれだけ長く読めるのだから、むしろ喜んでいい。
ただし、実はキリスト教神学者による回答箇所に限り、退屈だったので読み飛ばしたことは正直に述べておく(本書の理解にとってそこは重要でない)。 

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渡瀬恒彦の「震える舌」

2017年03月18日 | 作品・作家評

俳優の渡瀬恒彦が亡くなった。
低音の声が印象的だった。

早速、彼の俳優人生を偲ぶため、主演映画を観たい。
「皇帝のいない八月」もいいが、私がお勧めするのは「震える舌」。

この映画は、渡瀬恒彦だからという理由に限らず、一度は観るに値する(レンタル DVDになっている)。
内容は、”破傷風は恐ろしい”、というそれなりに啓蒙的価値のあるテーマなのだが、その子役の演技のリアルさに、映画館で観た私は、スクリーンを正視するのがこれ以上ないほどつらかった。

そういうわけで幾度も観たい映画ではないが、”一度”は観るに値すると断言できる。
私がここまで言うのは他にない。

この映画に出演した渡瀬恒彦のためにも、できるだけ多くの人が観てくれることを期待する(たぶんテレビ放映は難しい)。

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「この世界の片隅に」を観た

2016年12月12日 | 作品・作家評

今話題となっているアニメ映画「この世界の片隅に」を観にいった。

平日の昼をねらって予約したら、客席はガラガラだった。
客層は、年配者が多い(働き盛り世代は来れない時間帯)。

アニメながら当時の考証が評判だというだけあって、実写やCGでなくてもリアリティにあふれ、自分の幼少期(昭和30年代)にあった生活用品の記憶も呼び覚まされた。

主人公よりいくぶん年少にあたる母から、戦争当時の生き様を聞いてきただけに、母の少女時代と重ね合わせて観た。

しかし、この作品は1回見ただけでは、 受けとめきれていないものが多く、したり顔で論じることはできない。

素朴な感想だけにしておくと、主人公は絵を描くのが好きということもあり、絵のような風景画面がよかった。
ほんとに昔の日本は、素朴ながらも美しかったと思う。
その主役の声を担当しているのは”のん”こと能年玲奈。
彼女を応援したい気持ちはもとからあった。
声だけとはいえ、まっとうな主役に巡りあえてうれしい。
感情表現の抑揚がよかった。

一番印象に残ったのは、砲撃の爆音。
これが場内に響いた瞬間、戦争のリアリティが全身を走った。

実際、主人公たちもささやかな幸福を維持できなくなる。

そして戦争の悲劇・苦難を乗り越えて、人は生きていく。
私の親の世代は、そうやって生き(サバイブし)てきたのだ。
なるほど、人生がドラマなんだな。

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「終わらない人、宮崎駿」を観て

2016年11月13日 | 作品・作家評

  NHK大河「真田丸」の後、そのままテレビをつけていたら始まったNHK特集「終わらない人、宮崎駿」に思わず見入ってしまった。

 短編の試作に見せた氏の生命(毛虫)の動きに対するこだわりがすごかった。

論文原稿の締め切りを前にした私自身が、その妥協しない姿勢に叱咤されたようで、思わず襟を正した。

そして、人工知能による CGアニメのプレゼン(身体の一部が欠落した人体の不気味な移動)に対して、身障者の知人の例を挙げての批判が心にしみた(ただし身障者差別だとかいう通俗的正義感によるものではない)。

氏のこだわりの根底にあるのが、そして人工知能技術に完全に欠落しているのが、”存在”という奇跡的な現象に対する敬意だとわかったからだ。
存在に対する敬意が、その表現が、われわれに感動を与えるのだ。
人工知能が使えるとしたら、どうでもいいつなぎの部分だけだろうが、作品の全てに妥協しないアーティストにとってはそういう部分は存在しない。 

宮崎氏の目指すアニメは一瞬一瞬において”存在”が具現されている。
その具現があればこそ、ピクサーのフルCGに負けない感動をもたらしている。 

というわけで、宮崎氏は彼なりに”存在”の探究をしているのだなと、私自身のこだわり(ハイデガーによって開かれた存在論)にかこつけて解釈した。
ちなみに、その存在論は、古東哲明氏の『在ることの不思議』『瞬間を生きる哲学』 に敷延されている。
特に後者の書はアニメ作品に通じる(ただし前者を先に読まないと、軽い内容と思われてしまう)。

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ジャージの二人・三人:映画と小説

2016年09月14日 | 作品・作家評

「ジャージの二人」という映画は、すでに私の”夏用映画”のリストに入っていた。

北軽井沢の別荘でジャージを着て涼しい夏をすごす50代の父(鮎川誠)と30代息子(堺雅人)の話なのだが、この映画はほとんどのシーンが群馬県の嬬恋村なので、てっきり地域の宣伝を狙った村おこし映画の類いだと思っていた。

実はそうではなく、長嶋有という芥川賞作家の小説が原作だったのに気づいたのは今年になってから。

確かに、地域宣伝映画としては、室内にカマドウマ(便所コオロギ)が跋扈するし、携帯の電波は届かないし、散歩に出たら道に迷ったりして、どう見ても”あこがれの別荘ライフ”にはなっていない。

ただ、キャベツ畑を前景にした浅間連峰の風景は美しく、そのシーンだけはうっとりする。

映画としては、ストーリーを追う内容ではなく、それぞれ夫婦関係がうまくいってない父と息子の別荘内でのぎこちない会話が続いていく。
彼らの周囲の人たちもまた対人関係につまづいていたりするのだが、それらが解決したり、さらに込み入ったりするわけではない。

映画内で唯一解決するのは、ジャージに張ってある「和小」(小学校のジャージ)のロゴの読み方が判明することだけだ(まさか「わしょう」じゃないよね。という所から出発する)。

このまったり感がなんともいえず、一度レンタルしてすぐに「毎年、夏になったら観る映画」のリスト入りを果たしたのだが、今年はロケ地の北軽井沢で(持参して)観たせいか、やけに心に染みてしまった(作品への距離がぐっと近づいた感じ)。

それで、原作の存在を知ったのでさっそく読んでみた。

原作は「ジャージの二人」と「ジャージの三人」の二部構成(この二部がともに映画に対応)で、合わせて文庫本になっている。

原作を読んで、不思議に思ったのは、普通なら書かないような日常の動作があえて丁寧に記されている点(これは映画になかった)。

たとえば、パンを食べたあと立ち上がる時、服に着いたパンの粉を払うとか、車の助手席に乗った時、シートベルトの差し込み口を探すとか、確かに日常なにげなくやる動作だが、文学的記述として、何かの布石や暗示、あるいは人物の性格や他者との関係性の描写としての意味があるなら分るのだが、それがまったくないのだ。

この点が不思議で、このような一見冗長な記述にどんな文学的効果があるのか気になってしまった(気になったのは私だけではないようで、文庫本解説の柴崎友香氏も問題にし、解釈している)。

それに一人称で書かれている主人公が作家志望だったり、実際この著者は北軽井沢に別荘(というか山荘・山小屋)を持っていたりするので(別の著作で知った)、小説(創作)というより、作家自身の随筆か日記を読んでいる感覚になる。

だからどうでもいい身辺雑記がそれなりに存在感をもってくる。
これがあの記述の効果なのか。
われわれの日常は、それぞれが有機的に繋がってなんかしておらず、先の用事と後の用事がそれぞれに別個に存在するのだ。
その非連続の事象にそれぞれ律義に対応して生きるのがリアリティ(別荘での生活)なのだ。
文学とは、そのような生(セイ)のリアリティを表現すればいいのであって、なにも人工的な「物語」を作る必要はないといえる(この態度はつげ義春の漫画に通じる)。 
われわれはある事をする時、その周辺の些事もやらざるをえないのだ。
読者はどうでもいいと思っていても、作者がそれをどうでもいいと思っていないなら、 その作者の意図を理解することが読書だ(おおげさに言えば、他者の視点の獲得)。

これにインスパイアされて、私も最近のブログをあえてそのように書いてみた(どの記事でしょう)。

かように原作は原作として味わえた。

ただこの作品は、映画にしてこそ、価値が発揮される。

なぜなら、二人がずっとジャージを着ているのは映像でこそ継続的に表現されるが、テキストだと「ジャージ・ジャージ・ジャージ」って書き続けないと、二人がジャージを着続けていることが失念されてしまうからだ(作者がどうでもいいとみなしているように思えてしまう)。
実際、映画に比べると、原作でのジャージの存在感は小さかった(タイトルが「ジャージ」でなくてもいいくらい)。
だから逆に、映画を先に観ると、原作を読んでいる時も、父(鮎川誠)と息子(堺雅人)はずっとジャージを着続けていた。 

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「シンゴジラ」を観た(ネタバレあり)

2016年08月31日 | 作品・作家評

8月最後の日、中一の甥と「シンゴジラ」を観にいった。
そもそもゴジラ映画(以下、「ゴジラ」)とともに生きてきた私。
だが正直、裏切られることの方が多かった(なので「ゴジラ」を見放していた時期が複数期間あり、すべてを観たわけではない)。

今回は、2014年のハリウッド版「ゴジラ」を受けての本家日本版(庵野監督)。
実際、今回のは評判がいい。
なのであえて映画館で観たいと思っていた。

8月とはいえ平日の昼なので、客席には空きが多い。
昔の「ゴジラ」と違って子どもはほとんどいない。
なぜか女性客が多かった(平日の昼間だから?)。

さて「ゴジラ」の一貫した構成は、ゴジラが都市を襲い、それに対して人間側がどう反撃するかというもの。
今回は、ゴジラヘの対応(不測の事態)にどういう法的根拠にもとづいて対処すべきかという、政治的シミュレーションから出発しているのが面白い(痛烈な揶揄ともとれる)。
過去の「ゴジラ」ではその過程が省略されていた。
こういう視点が、大人にも受けている理由だろう(逆に子どもが少ない理由)。
それと自衛隊の全面協力(これは以前からだが)によって、ゴジラと直接対決する準主役が自衛隊になることも協力し甲斐があろう(ゴジラと他の怪獣とのバトルが主題になると、存在感が激減する)。

初作「ゴジラ」(1954年)へのオマージュが散見されたもの、オールドファンの心をくすぐる。
品川の八ツ山橋陸橋の横を驀進する映像。ゴジラ研究者が”大戸島”出身。
そしてゴジラはかつて電車を襲うのが定番になっていたのに、今回はなんと電車がゴジラを襲った。
電車のこのような活用は相手がゴジラだからだろう。
それとエンディングで流れるモノラルの音楽も1954年版の音源。 

ゴジラが通り過ぎた後に放射能が撒き散らされるのは本来当然なのだが、これも今まであまり問題視されてこなかった。
今回はまさに原発事故を彷彿させるように、その問題も取り上げられた(ただご都合主義的扱いになったが)。

実際、「ゴジラ」は、その設定からして核技術の問題と切り離せない。
ただ、「ゴジラ」は政治的メッセージが主題の映画ではなく、あくまで娯楽としての怪獣映画のカリスマであるべきだ。
もちろん後者に傾きすぎて子どもだましの正義の味方になってしまった過去の失敗は繰り返せない。

映画としては、暴れるゴジラを、最後に人間が倒さねばならない。
だが、それが人間側の知恵と技術の勝利という人間礼賛では許されないのが「ゴジラ」たるべき。
ゴジラは、荒ぶる神(呉爾羅)なのだから、それを鎮めるには人間側のなんらかの犠牲・贖罪が必要なのだ。
ゴジラは人間の業が具現化したものだから。
少なくとも私は、それがあってはじめて「ゴジラ」に深い感銘を受ける。
「ゴジラ」は「トレマーズ」(人間の知恵と爆薬で撃破。計4作。これも好きだが)とは違う。

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