今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ハイデガーから道元へ

2024年10月12日 | 作品・作家評

著作的には、『存在と時間』から(正法眼蔵)の『有時』(うじ)へ。

もちろんハイデガーの思想はこの書の後も進展しているし、道元の思想もこの巻に尽きるのではない。

ハイデガーを読解するだけでも苦労するのに、さらに道元という苦労を背負い込むことになる。
なぜなら、ハイデガーだけでは足りないから。
この世を生きる現存在の基礎的存在論の後に続く、より先の方向性が欲しいから。

なら、道元だけではどうなのか。
道元の書(正法眼蔵)は弟子に対して書かれたので、仏道修行者が前提されている。
なので凡夫がただ表面的に読んでも、高踏的な教説として頭の上を通り過ぎてしまう。

衆生(凡夫)が陥っている状態を明確に自覚し、そこを出発点にしたい。
すなわち、”世人”(私でない人一般)として頽落(たいらく)している(非本来的様態の)現存在(=私)は、いかに時を生きればいいのか、
「いかに生きればいいのか」という問いに対する回答を、特定の行為に帰すのではなく、「時を生きる」という基本的在り方として確立したいから。

先走って示すと、ハイデガーが示唆した「本来的」ということが、道元の示す「悟り」に繋がるのではないか。

なぜなら、人は本来(可能性として)悟れる存在で、悟り続けることこそが、存在を自覚している稀有な存在者たる現存在の本来的な在り方なのではないか、と思うから(仏道修行者が前提)。

その悟りとは、”存在”(在ること)に対する認識(思い込み・臆見)の変様を意味する。
ご承知の通り、仏教は(ハイデガーが及びつかないような)ラディカルな存在論(縁起-無自性-空)を擁している。

その悟り(存在の新たな認識)によって、現存在として時を生きる在り方(=存在の仕方)が変われるのではないか。

「時を生きる」という点に即していえば、死という絶望(将来の途絶)を終点として生きるのではなく、死を超えた先(永遠の将来)を目指して生きたい。
死を現存在の衰弱の果てとして迎えるのではなく、向上(変様)の果てとして迎えたい。

これは(世間に適応するために)世人として生かざるを得ない様態からやっと解放される(定年の)時機に達するが故に、実行可能となる課題だ。

ただし『有時』の前に道元の存在論である『現成公案』の巻と格闘する必要がある。

さらに長期的には、道元で終わらずに、私の「心の多重過程モデル」で説明したい(既存の心理学モデルは存在者レベルに留まっていて、存在レベルに達していない)。
ハイデガーは哲学者としてシステム2(思惟)の極限に達した。
道元は仏道行者としてシステム3(メタ思惟)に達した。
この境地の違いを私の心理学モデルで説明したい。


『存在と時間』と再格闘へ

2024年09月29日 | 作品・作家評

我が大学院の後期授業『社会心理学特講』に久しぶりに受講生がついた(公認心理師指定科目でないので、受講が必須でない)
実はその授業は、表向きは社会心理学と称しているが、裏のテーマは心理学批判で(学部の授業では不可能)、科学的と称する現代心理学が無視している人間の”存在”の問題(人が一番気になっている問題)に焦点と当てるものだ(以上をシラバスに明記)。
そしてその問題のアプローチとして、ハイデガーの『存在と時間』の論旨を紹介する。

そもそも現象学派だった私が、フッサール(認識論)からハイデガー(存在論)に宗旨替えをしたのはこの書のインパクトだった。

その後は、ハイデガーの後続する書(日本語訳)を読み進め、後期思想のキーワードである「性起」(しょうき)に関心が映ったが、彼のその後の作業は、未完で終わった『存在と時間』の追補とも言える。

言い換えると、ハイデガーの思惟の展開を知れば知るほど、その原点と言える最初のこの書をもう一度(幾度も)読み直したくなる。
今回の受講生の出現は、その後押しとなった。


このように私にとって『存在と時間』は今後も再格闘する書なのだが、実はそういう書、すなわちまだ読みこなし切れていない(格闘し続けている)書がもう1つある。
道元の『正法眼蔵』、とりわけその中の「現成(げんじょう)公案」と「有時」の巻。

なんと後者「有時」って「存在・時間」ではないか。
実際、『存在と時間』を『有と時』と訳している翻訳書もあり(日本語としてはその方がしっくりくる)、性起は”現成”することと説明される。

奇しくも、20世紀最大の哲学者と日本史上最高の鎌倉時代の仏教哲学者が同じテーマを問題にしているのだ(人間にとって最重要の問題だから当然か)。
古今東西の智を総動員して存在の問題と格闘すること自体が、この世に人間(自分が存在していることに薄々気づいている稀有な存在者)として存在している意味の理解にも繋がり、やり甲斐を感じる。


そして、道元からではなく、ハイデガーから始めたいのは、ハイデガーの人間(現存在)モデルが、本当は”存在(自分が在る)”のことを真剣に考えたいのだが、その先にある「死」の不安に怯えてしまい、日常の忙しさに身を委ねて、結局時間を無駄にして歳だけとってしまった自分に焦る、という実に自分に等身大の姿だから。
このような現存在(私)でありながら、存在を考える、いや存在を噛み締めて生きていくにはどうしたらいいか、そこを一緒に考えてくれそうなのがハイデガーだから。
でもハイデガーの中だけでは回答が見つからず、きっと道元に行かなくてはならない気がするのだ。
※:ハイデガー自身が、西洋(古代ギリシャ)的思考だけでは無理で、その枠を脱して惑星(地球)的思考で取り組むべきだという地点まで達して息絶えた。

☞関連記事:書評『世界はなぜ「ある」のか』

☞次のステップの記事:ハイデガーから道元へ


大全集を持つ意味:追記

2024年09月20日 | 作品・作家評

しつこくで恐縮だが、読破した『大菩薩峠』を紙の本で所有していたら、1冊の厚さ1cmと少なめに見積もっても全巻41cmの分量になる。
小説は大作ほど二度とは読まないので、揃えて所有することに意味がない。
なので無料の青空文庫の電子書籍だから読破する気になれた次第。

こういう大全集を実際に持っているかというと、例えば雄山閣の『新編武蔵風土記稿』は索引冊含めて箱入り全13巻でこれも厚さ40cm近い。
ただこちらの本は旧武蔵国内の訪れた寺社の歴史を知る上でよく参照するので、持っていて損はない。

専門の心理学に関する本では、人文書院の『フロイト著作集』もほぼ全巻持っているが、重要なもの以外は読んでいない。
学術書の全集は、頭脳で格闘する必要があるので小説と違って暇つぶしで読み通すことはできない。
その著者自身を研究対象とするのでない限り、どうしても上のような状態になる。
なので『ハイデッガー全集』などは図書館に通って読もうとも思わない。


ちなみにコミック(漫画)は、繰り返し読めるので全巻揃えて損はない。
理由は、マクルーハンの表現で情報が”ホット”(高精細)であるため、一回の読書で全ての情報を認識できないためだ(読むたびに発見がある)。
といっても一般的に巻数が多いので、特に『ゴルゴ13』や『こち亀』を揃える気はしないし、コミックこそ電子書籍の方が読みやすい(持ち歩きもしやすい)。

それに今年は国会図書館でコミックを閲覧する機会を得て、これは今後も続けたい。


コミック以上に揃える価値があるのは音楽家の全集CDだ。
音楽こそ幾度も繰り返し聴けるので全く無駄にならない。

私は、『モーツァルト全集』CD170枚のボックス、『バッハ全集』もCD170枚のボックスを持っている(ともにドイツ製)。
この二つの全集を聴き通すだけで膨大な時間を要し、実際に自宅で聴くのはこの二人の全集ばかりとなっている。
むしろ、残りの人生も、この二人の全集を繰り返し聴くことで足りそうに思っている。

実際、『モーツァルト全集』はすでに聴き通し2巡目を終え、3巡目に入っている。
ただ少年時代のオペラ群(「イドメネオ」以前)は、音楽がたいして劇的でなく、素のセリフが多いので、セリフの内容がわからないと辛い。
一方『バッハ全集』は、170枚のうち70枚以上が同工異曲のカンタータなので、2巡目以降はカンタータ以外(「コーヒーカンタータ」を除く)の主に器楽曲を中心に聞いている(もちろん「マタイ受難曲」も含む)。


追記:記事のアップ後、思い出したことには、かつてアメリカテレビドラマのDVDにハマって連続して箱買いしていた(『ER』『Frends』)。
レンタルで借りる時間のズレさえ我慢できなかったため。
考えてみれば散財的にはこのDVD全集が一番大きい。
これは一種の熱病症状で、今は発症しない。


『大菩薩峠』を薦めるか

2024年09月16日 | 作品・作家評

昨日読了した中里介山の『大菩薩峠』の最後の記事。
その名は知っていても(昔は演劇や映画にもなったが今ではそれもないので知る人も少ないかも)、全巻読み通す人は稀だと思うので、その数少ない経験者の一人として、読書選択の一助となればと思い、読書案内で締めくくる(もちろんウィキペディアも参考に)。


まず、皆さんに読むことを薦めるか。
この本は今ではネットの「青空文庫」で無料で読めるので、仮に1巻500円とすると、41巻分20500円浮くし、1巻の厚さ1cmとすると41cmのスペースを使わずに済む。
即ちコスパは青空文庫の中でも群を抜いた最高レベル。
まずコスパ基準で”読まないと損”、と思う人は読むといい。
文体は口語で読みやすく、それでいて語彙の勉強にもなる。


次に、中身の吟味に入ろう。

⚫︎まず情報的価値として、歴史や地誌などの知識になるかというと、登場人物の皆さんが日本各地(北は青森の恐山から、南(西)は京都山科・大原、奈良の十津川まで)を転々とするものの、私にとっては情報として得たのは前の記事で示した愛知・名古屋についてのみ。
むしろ時代考証については、三田村鳶魚の批判(「中里介山の『大菩薩峠』」昭和7年:同じ青空文庫に所収)もある通り、はっきり言ってである。
なのでいわゆる”歴史小説”には属さない。
また各人物にゆかりのある地の中で、表題の大菩薩峠以外に、登場地として今でも名を馳せている(現地がこの小説と因縁付けている)のは、東京青梅の海禅寺(作中では海蔵寺)、同じく青梅の御嶽神社、山梨上野原の保福寺(作中では月見寺)、信州白骨温泉(この小説がこの温泉を一躍有名にした)などがある。
また青梅の裏宿にある七兵衛公園は、裏宿の七兵衛という実在した義民の地だが、小説にその名のまま登場して、大菩薩峠でお松を助け、多摩川沿いで竜之介の太刀をかわす。

⚫︎文学的価値として、感動があるかというと、ないことはない。
ただし最後の41巻まで待つ必要がある。

⚫︎娯楽的価値として、笑えるかというと、介山の解説に冗談・駄洒落はあるが、声を出して笑うほどではない。
またスリル・サスペンス、あるいはミステリーなどの要素もない。
机竜之介はいつの間にか人を切っているし、彼を仇として追う宇津木兵馬は、一向に追い付けない。
藤沢周平が得意とするような躍動的剣劇シーンはない。


人間描写については、時が幕末だけに、変革せざるを得ない人間が表現されている。

一番印象に残ったのは、自立した女性がきっちり描かれていること。
例えば、冒頭から登場するお松は、当初は周囲の言いなりだったが、次第に精神的に自立し、明治女性のように開明的に成長していく。
唯一の身寄りだった祖父が竜之介に惨殺されるシーンから始まるこの小説では、一人残された少女お松のその後の人生こそ本作の最も重要なストーリーともいえる。
あるいは、男たちを使いこなす経営手腕を誇るやり手興行師のお角。
登場人物のうちで誰よりも自我が強く(ただし屈折したメンタリティ)、実家の財をベースに理想郷を建設しようとする覆面のお銀様(作者はこの人だけ「様」付けで呼称)
いずれの女性も、経済的にも精神的にも男に依存しない(むしろ男の上に立つ)自立した女性たち。

一方、最初の数巻での主人公、血に飢えた剣豪・机竜之介は、次第に幽霊のように影が薄くなっていく(記述も幻想世界と混沌化していく)。
洋学を研究した駒井甚三郎は、ひと足さきに近代人となり、自作の蒸気船で日本を脱出するが、西洋人に西洋文明の限界と大乗仏教の空(くう)の哲学を教わり、茫然となる。
※:介山自身は、この大著を大衆小説ではなく「大乗小説」と性格づけている。私がこの大著を読みたくなったもう1つの理由(記事「『大菩薩峠』を読み始める」で言及)が、この大乗仏教的部分。

即ち、江戸から明治への変革期に相応しい、新しい日本人が描かれている。
といっても、みんなあちこち旅をしながら一筋縄では行かない人生を送る。
むしろ、それこそ、予定調和的物語とは異なる、リアリティある人間描写(あるいは大乗小説の主題)なのではないか。
介山にとって彼らは、作者から独立して、それぞれの人生(物語)を送る存在になっていく(だから収拾がつかなくなった)。
それを読む私にとっても、半年間を共にした愛すべき人たちだ。

かくも、『大菩薩峠』はこれほど私を語らしめる作品だった。


『大菩薩峠』全巻読破!

2024年09月15日 | 作品・作家評

世界最長の小説と謳われる中里介山著の『大菩薩峠』全41巻を、本日読了した。

これを読み始めたのは、今年の2月下旬→『大菩薩峠』を読み始める
その間、「18きっぷ」での東名間の片道6時間の鈍行車内を読書空間としたので、春・夏あわせて10往復すなわち60時間をこの読書に充てた。
今までの『ドグラマグラ』、『死霊』、『カラマーゾフの兄弟』などは、この18読書で間に合った。
ところが『大菩薩峠』はそれではとうてい足りず、ちょっとした電車やバスの車内でもこの読書に充てた。
言い換えると、通常の時間は、仕事や研究に関するするものに充てるので、暇な時間専用としたのだ。


さて、世界最長の小説を読破した、ということは果たして自慢になるか。
いや、日本文学に一定の知識ある人たちからは、「なんと、暇なこと」「ほかに読むべきものがあるだろう」とあきられること必定。
※:例えば『旧約聖書』『史記』『源氏物語』などが該当しよう。
確かに、これを読まずして「日本近代文学は語れない」というシロモノではなく、たぶん高校の”文学史”でも素通りされているだろう。
では、10000ページ、500万字を越えるという長さだけが取り柄なのか。


まず話の時代は安政5年(1858)から慶応3年(1867)年までの幕末の10年。
その10年を介山は30年以上かけて記した。
なぜ書く時間の方が長くなったのか。

それは、主役級の人物がどんどん増えていき、それでも当初は、それらの人びとが、不自然にも同じ地域に集まって出会っていたので、場面は1つで良かったのだが(→『大菩薩峠』を読んでみたら)、
その不自然さにきづいたのか、いやむしろ物語の自律性でそれぞれの主人公がそれぞれの人生を歩みはじめて離散していったため、主人公ごとの記述を、時間を重複してそれぞれ語り尽くすことになってしまったためだ。

言い換えれば、冒頭の大菩薩峠上で邂逅する、机竜之介と、彼に祖父を斬り殺されたお松と、お松を助けた七兵衛の3名を中心とした話で進まずに、彼らはその後出会う人たちの主人公群に埋没していく。
悪く言えば、収拾がつかなくなってしまった
その結果、1つの物語としての終結(落とし所)を見失うことになるわけで、
結果的に最長の小説、しかも作者の死によって未完となった訳だ。

なので実際、41巻目の最後の記述も、終息を示していない。
その意味で読後感はすっきりせず、読み終えたという達成感も得られない。
※:ただしこの拡散事態は、ある意味必然で、致命的欠点とはしたくない。その理由は次の記事で。


正直、読破して一番不満に思ったのは、表題の大菩薩峠(1897m)が、初回の竜之介の刃傷場面と、後にそこに地蔵を安置する場面しか登場しなかった事。
表題に惹かれて読んだ者として、これは裏切られた感が強い(介山自身は決して山岳に無関心な人でないのに)。

ならなぜ介山はこの表題をつけたのか。
ウィキペディアによると、介山が実際にこの峠を訪れたのは、執筆開始後12年経ってからという。ということはこの峠に特別な思いがあったわけではないようだ。

挿入追記:小説とは別の介山の『峠』という一文(青空文庫所収)によると、峠の原音は「たむけ」で、越える人が行く道・来た道に手をあわせる場所だという(柳田國男の説)。
すなわち、峠は上りと下りの中間にあり、象徴的には天上と地獄との間の人間の立場、更には上求菩提・下化衆生の菩薩の地位を示すという。
人生は旅であり、旅では峠を越える。
そこは回顧の場であり、希望の場である。
すなわち、峠こそ人生そのものを象徴しているという。
そして菩薩が遊化に来、外道が惑わしに来る場。
介山が前者への期待を込めるとすれば、なるほど『大菩薩峠』という表題が最も相応しい。
この表題は人生そのものを意味し、単なる固有名詞のあの峠を限定したものではなかったのだ。


筋(ストーリー)を追うことに意味がないならば、この小説を読む意味は那辺にあるか。
実はこの読書と一時期並行して読んだ本に、宮崎哲弥氏の『教養としての上級語彙』(新潮社)がある。
その書で紹介されている語彙に、『大菩薩峠』からの引用例があった。
それに触発されて、『大菩薩峠』で使われていて、私が意味を把握していない語彙を抜き出していったら、出てくるわ出てくるわ。
元々、専門の学術用語以外の語彙を増したいと思って宮崎氏の本を読んだのだが、その目的なら『大菩薩峠』こそぴったり(う〜ん、この場で自分の語彙力不足を痛感)

電子書籍なので、表記された単語はその場でネット検索でき、やってみるとネット辞書にもない語彙がずいぶんある。
もちろんその時代(明治〜戦前)を反映しての事情もあろうが、さらにネット検索して使用例を探すと、なんと『大菩薩峠』だけが使用例、という語彙の多いこと。
中には『大菩薩峠』での使用例のみで、意味の説明がないものも複数あった。

介山は作家デビューの前は小学校の国語教師をやっていて(ただし大学は出ていない)、その後新聞記者になったので、面目躍如というところか。
この小説は、発表当時、世間的に注目されたものの、”大衆小説”として文学作品の”格”が一段下に見られていた点で、介山は不満だったようだ
※:同じ青空文庫に『余は大衆作家にあらず』という一文がある。

介山自身の学歴コンプレックスもあって、あえて語彙力を衒(てら)ったのかとも思ったが、むしろ介山の語彙力を総動員した結果というべきだろう。


ちなみに、本書で使われた語彙・成句の中で、私が思わず膝を打ったものを紹介する。

まず「後ろ弁天前不動」。
これは後ろ姿が弁天様のように美しい女性を見て、期待して前にまわると…という場面に使う成句。

次に「一瓢を携えて」。
これは瓢箪に酒を入れて外出し、行き先でそれを味わう楽しみを含意している表現。現代人の行動表現には使えなさそうだが、実は瓢箪好きな私は、酒を入れて携帯できる瓢箪を入手しているので、これをぜひ実行して、ブログでこの表現を使ってみたい。

その他として、愛知県の”愛知”の由来は高尚な「フィロソフィ(知を愛す)」ではなく、年魚市(あいち)だということ。
そして名古屋は都会なので「名府」とも表現できること(これも使ってみたい)。
さらに、「天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作られる」と介山に言わしめている点も、かの地で女子教育に携わっている身として励みになった。

あるいは「火事の時は、明るい方へ逃げないで、暗い方へ逃げるもの」という教えは夜間の宿泊ホテル火災時に役立つ。

面白いと思ったのはオノマトペ(擬音語・擬態語)で
戸を叩く音はトントンではなく「ホトホト」(安普請の薄い戸だとこっちの音に近いか)。
硬いものが触れる音はカタカタではなく「戞々(かつかつ)」。
ゆっくり歩くのは「ホクホク」。
よろめきながら歩くのは「タドタド」(ドタドタとは正反対の様態で、「辿々しい」から来ているようだ)。

あと自分が今まで勘違いしていた言葉として
飯事(ままごと):幼児とりわけ女児の遊びの「おままごと」は、ママ(母)の真似をすることかと思っていたが、ちゃんとした日本語で、飯(まま)即ち食事の真似事ということだった。「まんま」という表現もここから来ているようだ。
ふり(振り)の客:フリー(無料:買い物をしない)の客という言葉ではなく、これも歴とした日本語で「紹介や予約なしに来た客」という意味。

かように、長くつきあっただけに、出会った語彙も多く、語彙収集という思わぬ余禄にあずかることができた。
語彙を増やしたかった私に、渡りに舟だった。

『大菩薩峠』を薦めるか


国会図書館で25冊読み通したコミックは

2024年08月26日 | 作品・作家評

この8月、国会図書館に通って、今携わっている「霊視覚」研究の参考のために、毎日コミックを読み通してきた。
なにしろ「霊視覚という現象は論文はもとより、活字本でも扱いが少ない。
一方、コミックだとかなり資料がある。
その元となっているのが、『HONKOWA—ほん怖—』という実話心霊コミック誌らしい。
もちろん霊の存在を前提とする「心霊科学」(と称する心霊論)についてはいくつか目を通して来たが、
本来的に幽霊話(怪談)は好きでない(映画もホラーは絶対観ない)。
個人的に恐怖を楽しめない私は、上のコミック誌を手にしたことはなかった。
※:そのくせ、楽しまれる恐怖の論文を書いて、注目された(雑誌掲載、テレビ出演)ことがある。


知りたいのはホラーではなく、あくまで実話としての霊現象なので、
それに相応しいコミック(掲載済みの単行本)をまずは読むことにした。
読んだ順に示すと、
永久保貴一『阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末』全6巻、
同『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』5巻、
伊藤三巳華『視えるんです。』全7巻、
山本まゆり・寺尾玲子『会社員だけど霊能者修行始めました』5巻,
これらを電子書籍版で購入して読んできた。
※:「全」がついているのは終結した作品、それ以外は読んだ巻数

これらの中で霊視認者自身のものは『視えるんです。』だが、
より広く実際の霊の挙動や霊能者による霊に対する対応例を知りたかった。


そこで霊能者・寺尾玲子氏の心霊相談を描いた『魔百合の恐怖報告』シリーズ(山本まゆり画)を読みたくなったのだが、
量(巻数)の多さに怖気付いて個人購入は諦め、国会図書館での閲覧と相なった。
この本は、上の雑誌に掲載された作品を後年になって編集したもので、
国会図書館にある蔵書は2009年から2023年までの分。
その量全部で25冊!
どれもが1冊400ページ強、もちろんコミックなので、ページあたりの文字数は少ないが、
それでも昼前から夕方までの図書館内で1日あたり3冊読むのが限度だった
(本編に付随している関係者(登場者)たちの裏話である「TeaTimeTalk」もとても参考になった)。
研究の参考として読むのだから、漫然と読むのではなく、私のいつもの読書パターン通り、
ワードのアウトライン画面で、構造的に記録すべき内容を抜き出す(書き写す)。


一番参考にしたコミックが、購入せずに図書館で閲覧しただけというのも申し訳ないが、いかんせん購入するには量が多すぎた。
そしてこの25冊をその場で無料で読めるのだから、国会図書館ってほんとにありがたい。

これを読んでいる期間中は、頭の中が心霊現象で充満した。
せっかくなので霊視覚者を含めた霊の在り方・関わり方を整理してみる。
霊についての概観


『オウム真理教の精神史』をやっと読んだ

2024年05月06日 | 作品・作家評

以前読んだ『現代オカルトの起源』の著者である大田俊寛氏の『オウム真理教の精神史』を今になって読んだ。

元々宗教に関心があったため、前代未聞のオウム事件については、
いつか心の中で総括したいと思っていたのだが、むしろ事件そのものが私を宗教から遠ざけることとなり
(宗教教団の本質的部分と関わっていると思ったため)、そのままやり過ごしていた。

その中で本書が出たのだが、発行日が2011年3月20日で、
その頃の私は、それどころではなく、ガイガーカウンタの数値と睨めっこしていた。

やがて私自身が自分の心理学の流れで宗教に再接近するようになって、
やっとオウム事件を総括する気になれ、本書を手にした。


本書は、オウム真理教をあの時代固有の特異な現象とは見ず、
より広く近代宗教、すなわち近代国家成立後の社会における宗教の特質としての
ロマン主義・全体主義・原理主義を統合したカルトとして捉える。

宗教教団が暴走する要因は、このうちの全体主義と原理主義(キリスト教原理主義は終末思想を導く)によると思われるが、その一方でロマン主義はオウムと私との共通要素になっていることに気づかされた。

ロマン主義は近代啓蒙主義(理性信仰)に対抗する思潮で、
①感情の重視、②自然への回帰、③不可視の次元の探究、④生成の愛好、
⑤個人の固有性、⑥民族の固有性、の特徴を持つという。

ロマン主義に惹かれるのは、理性的思考では捉えられない”本当の自分”を探ることにある。
本書によれば、私が好きな心理学者であるW.ジェームズやC.G.ユングもこの系譜に入っている。
さらに私が準拠しているハイデガーもこの方向に傾いていそうだ(①と③と⑥)。

ロマン主義は、私の表現を使えば、”システム2”の肥大化した妄想体系に陥る危険を孕んでいる。
この危険を自覚している私は、思考よりも現実のデータを重視する実証主義を堅持し、
またシステム2に距離を措くシステム3(ハイバー覚醒)を経由して、
超個的なシステム4に達する手順を遵守することで、
妄想的思考の宗教化に陥らないようにしている。

それでも心をエネルギー論的に論じてみたり、存在の深層としての霊的次元に着目していることでロマン主義から離れない。
啓蒙主義ロマン主義という、アンバランスな二者択一的二元論ではなく(思考が極端化する)、
啓蒙主義ロマン主義という、陰陽和合の調和的二元論でいたい。


本書は、オウムを世俗化した近代社会そのものの鬼子とみなしている。
すなわち、死を隠蔽・忘却して現世の適応に集中させる社会の在り方がもたらした副作用と。
ということは、このままでは第二第三のオウムが出現しておかしくない。

忘却されている”存在の次元”を私が心理学的に扱いたいのも、
本来の宗教的問題をロマン主義に流れることなく、人間の全知を賭けて探究したいからだ(バランスを崩さずに)。


『大菩薩峠』を読んでみたら

2024年04月06日 | 作品・作家評

世界的長編、中里介山の『大菩薩峠』を2月下旬に読み始めて(→記事)、
3月末日現在で、全41巻中21巻を読み終えた。
ちょうどど真ん中。

3月中は「18きっぷ」での6時間の車内読書が5回でき、それ以外での車内読書(国会図書館通い、熱海、高崎往復など)も入れてもこの結果。
言い換えると、電車内以外ではほとんど読まない(優先すべき作業があるから)。

では、この延々と続く物語を読んでどうだったか。
他の短い小説と何か異なる経験をしたか。
途中経過として報告する。


まず、この小説を読み続けること自体は、ちっとも辛くない。
文体が口語(ただし説明が「であります」)で、登場人物のキャラが分かりやすいので、混乱ない。
また、それなりに事件が続発するので、だらけもしない。

ただ机竜之介を含む主人公群(巻を重ねるにつれ増えていく)が、それぞれの理由・目的で日本各地を移動しながら、同じ土地で出くわす毎回の偶然性に、不自然さを禁じ得ない。
が、そこが”物語”のご都合主義が勝るところで、これが現実だったら、主人公群が各地にバラバラになって、彼らが織りなす関わり合い(物語)が終わってしまう。

要するに、これが(作者の嫌う表現ながら)「大衆小説」なので、そのチカラワザで話が続いていく。

ただ、これらの話にどんどん引き込まれて、熱中して読み進めてしまう、という強い引力はない。

結果として、ダラダラ(ゆっくり)読み進めることになる。
となると、世界的長編なだけに、読み進める状態が延々と続く(まだ道半ば)。


小説の中は、登場人物が生きている世界だから、私が読書を再開するたびに、彼らの生が再作動する
(小説を読むという行為は、生命のない文字列に生命を吹き込むこと)。
すなわち、私と共に、私に並行して、彼らが生き続けている世界が作動して、まさにパラレルワールドの感じがしてくる。
ただし、私から独立して、彼らが自分らの世界を進展させることはない。

彼らの生は、私が読み出すことで(のみ)進行するのだ。
言い換えれば、私がページを開くまで、彼らの運命は(シュレディンガーの箱の中の猫の如く)決定されない。

これって、まるで量子論の世界だ。

こんな感覚は、今までの小説の読書にはなかった。
それは、今までの数冊レベルの小説では、私の生と並行するほどの長い時間経験でなかったからだ。

『大菩薩峠』全巻読破!


睡眠はどう健康にいいのか:『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』

2024年03月23日 | 作品・作家評

睡眠は重要だ、とよく言われる。

ではどういう風に重要なのか。
睡眠をないがしろにするとどうなってしまうのか。

これらについて具体的・医学的に論じたものは意外に少ない。

そこで出たばかりの本書『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(西多昌規 2024 草思社)を読んだ。


著者は精神科医なのだが、ここで紹介される内容は、身体医学の研究結果。
巻末の膨大な参考文献がほとんど海外の医学論文であり、著者の個人的な臨床経験ではなく、
きちんとした身体医学研究のレビュー(概観)にもとづく著作である。

ということで睡眠時の体の状態について、
内分泌系・免疫系・消化器系・循環器系・脳神経系・筋骨格系・泌尿器系・皮膚と、総合病院的に網羅している。

睡眠とは、要するに昼の活動に対する、安息だけでなく整備(修復)作業も兼ねている状態。

自家用車だったら半年か1年ごとの定期点検を、専門分化した整備士たちが毎晩時間をかけてやってくれているのが睡眠だ。
このおかげでわれわれは翌朝から元気に活動できる。

それだけでなく、徐波睡眠(深い睡眠)時の成長ホルモン放出による筋・骨格・皮膚の合成、
そして脳神経の再編による記憶の固定は、覚醒時にはない積極的な働きだ。

睡眠不足による悪影響は、内分泌系・免疫系のアンバランスがベースとなって全身に及び
(ホルモンバランスの乱れ、免疫力の低下)、最終的には皮膚の老化(たるみ、しわ)に達する
※:朝、顔がむくむのは枕が低過ぎるためという。これを繰り返すと”たるみ”に至る。うつぶせ寝はさらに良くない(眼圧にもよくない)。

ただし呼吸器系については、睡眠時の方が脆弱で、その典型が睡眠時無呼吸症候群で、これは筆者も患っているという。
※:睡眠時無呼吸症候群は私も高校生以来かかっていたが、私の場合はレム睡眠中の口呼吸が原因だったので、寝る前に口にサージカルテープを縦に貼って開口しない措置をした結果、無呼吸から解放された。

健康問題とは直接関係なくても、長い睡眠時間を経てもなぜ空腹にならないのか
(睡眠中は消化活動を促進する副交感神経が優位になるのに)とか、なぜ睡眠中尿が溜まらないのかについても説明されている。


一箇所気になったのは、レム睡眠での夢見の所で、人は悪夢を普通に見ることを前提としている点で、私自身は少なくとも成人してからは悪夢の記憶はない(幼少時はよく悪夢を見て、夜驚を起こした)。
このブログにも自分の見た夢を記事にすることがあるが悪夢は1つもない。
なので夢≒悪夢という記述は違和感を覚えた(これって私だけだろうか)。

実は精神医学では、うつ病にかかると(成人でも)悪夢を見るという(うつ病は悪夢以外にも睡眠障害を併発)。
穿(うが)ってはなんだが、本書に睡眠時無呼吸症候群の人はうつ病の有病率が高くなると書いてある(免疫系のサイトカインが関連)。
実際、私はうつ病とは無縁。


では良い眠りとは何か。
それは本書の「あとがき」で語られている。
自分でよく眠れたという感じ(睡眠休養感)があればよいという。
客観的な睡眠時間では計れない。

なぜなら、質のよい睡眠なら、比較的短時間でも満足するし、質の悪い睡眠だと8時間寝ても寝たりないと感じるから。
その睡眠の質は、ノンレム睡眠とレム睡眠の両方にかかっている。
徐波睡眠を含むノンレム睡眠だけが高質な睡眠ではなく、レム睡眠は脳をリフレッシュし、これが短いと寿命も短いという。

私は、目覚まし時計を使わない理想的な生活をほとんど実現しているので
(目覚ましを使うのは入試業務の時だけ)、毎朝自然な目覚めで起きられる。
逆に、本来は趣味であるはずの登山を実行しがたくなっているのは、休日に早起きしたくないから。
ということで山よりも睡眠休養感を優先している。


良い眠りをさらに実行しやすくするには、生活の価値観として睡眠を無駄扱いする発想ではなく、睡眠こそ有意義という発想がいいかもしれない。

仏教は睡眠を結構敵視し、他の宗教も”不眠”を修行にしている。
その点で参考になるのはヒンズー教の教えかな→睡眠という至福


『大菩薩峠』を読み始める

2024年02月23日 | 作品・作家評

とうとう中里介山の『大菩薩峠』(全41巻)を読み始めてしまった。

山岡荘八の『徳川家康』と並んで世界最長小説として有名で、読破するには相当の長期間の覚悟を要する。
なので”暇に任せて”という気楽なノリで手を出すべきものではないことは重々承知していた
(人生計画上、長期入院用に取っておいた)。

以前『徳川家康』の第1巻だけを読んだ時、どうせ読むなら、架空の話より、歴史上の人物伝を読みたいとして、
『峠』よりも『家康』の方を推したはずなのに(→記事)、結果、『家康』は1巻を読んで続きを読むのをやめたが、
『峠』の方は数巻読み進んでしまった。

そもそも、『大菩薩峠』は介山の同時代(大正〜戦前)※を1世紀近く過ぎた現在では、
歴史の中に埋もれてしまった作品かもしれない。
※:新聞小説としての連載当時は人気を博し、絵本・演劇・映画にもなった。

ところが、首都圏で山をやっている人間にとっては、まず入門の奥多摩を歩いたあとは、
その背後、多摩川の源流域に聳える大菩薩嶺(2057m)に足を伸ばす順序になる(東京都の最高峰雲取山より高い)。
その大菩薩の中心となる場が大菩薩峠(1897m)で、まさにリアルの大菩薩峠に最初に接する。

そしてその大菩薩峠の説明として、「中里介山作の同名小説で有名な」と紹介され、
峠の茶屋には、小説の主人公・机(つくえ)竜之介の像があり、その姿を模した登山記念のバッジが売られている。
私は早くも中学2年(14歳)の時に大菩薩峠に登り※、そのバッジを買って以来、
『大菩薩峠』はいつか読みたいと思い続けていた。
※;当時は前夜発の夜行日帰りの行程だったが、今はバスの路線が山の上まで伸びて日帰りの山となり、2012年に再訪した→記事

なぜなら、山が好きなると、山を題材にした小説が、家にいても山にいる気になれるため、
読みたくなるもので(山岳小説家の代表は新田次郎)、介山の『大菩薩峠』はその表題によって、
私の中では準”山岳小説”に分類されたのだ。

ただ最近の私は、山よりも歴史に関心のウエイトが移動したため先述の態度に傾いたのだが、
先日、青梅の郷土博物館を訪れたついでに(→記事。この行為もまた歴史への関心による)、
羽村の郷土博物館にも立ち寄り、そこで当地で生まれ当地に墓もある中里介山の展示に接し、
介山を特集した冊子まで購入した。

その冊子にはもちろん『大菩薩峠』の話も載っていて、その記事を読むと俄かに『大菩薩峠』が身近になってきた
(読みたくなった理由がもう1つあるのだが、それは読破後の記事で述べる予定)。

実は、介山の『大菩薩峠』は、ネットの青空文庫、すなわち著作権の切れた作品を無料で電子書籍として公開するサイトに41巻全てリストアップされている。
すなわち、電子書籍で全巻無料で読めるのだ
(長大小説に手を出しにくいのは、読む時間以外に、全巻揃える配架空間と金額の問題もあったのだが、
青空文庫は後二者の問題を帳消しにしてくれた)。

そのことは前から知っていたので、早速第1巻をダウンロードし、試しに読んでみた。

話はまさに大菩薩峠から始まり、そこと旧青梅街道で繋がっていた奥多摩の沢井や御岳山に場面が移る。
御岳山での剣術の奉納試合で竜之介はここより世に知られる”音無しの構え”を示す。

第1巻を軽く読み終えると、続けて第2巻が読みたくなった。
コミックスのノリである(『家康』にはこれがなかった)。

むしろ家康は、読まずともすでに彼の人生を私は知っている。
だが机竜之介がその後どうなるかは読み進めないとわからない。

ということで、思い(覚悟)もよらず、『大菩薩峠』を読み始めてしまったのだ。
当時の冊子には、挿絵があったのだが、青空文庫は文字部分だけなのでそれがない。

ただ、以前映画版(1960年作)を観たので、
文字上の「机竜之介」は、それを演じた市川雷蔵の姿となり、
「音無しの構え」も映像化できる。

幸い、じきに春休みを迎えるので、東名間の往き来も新幹線ではなく「18きっぷ」の利用となる。
そうすれば片道6時間を車中の読書に使える(18きっぷ5回分で30時間)。
これを使えば”長期入院”を待つ必要がない。

『大菩薩峠』を読んでみたら


『サピエンス全史』の先にあるもの

2024年02月16日 | 作品・作家評

イスラエルのマクロ歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福(2011年ヘブライ語版、2014年英語版)を今頃になって読んだ(上下全巻の2023年電子版)。

20-15万年前に出現した現生人類(ホモ・サピエンス)のトータルな歴史を論じた、人間についての最もマクロな視点の書なので、出版後10年たって読んでも遅くはない。
大袈裟に言えば、現生人類だったら、ぜひ読むべき本だ(と思っていた)。

サピエンス=賢いの名のとおり、現生人類(以下、サピエンス)は、7万年前の認知革命によって、思考能力を元に想像の世界を構築できるようになった。
それすなわち心のサブシステムの「システム2」である(もう1つの「システム1」は動物と共通の、条件づけられた反応様式)。
サピエンスのサピエンスたる所以は単なる言語能力ではなく、むしろ物語創作能力にあることを示している。

私が本ブログでシステム2のパワーとして強調しているのもその能力だ。

本書によれば、サピエンスはその能力を駆使して、物理世界には存在しない、貨幣・国家・宗教を作り、人間自身をその物語内で生かした。
そういうわけで、私から見れば本書は『システム2全史』に他ならない。
すなわち、システム2のパワーと罪禍(他民族や他の動物に対する)、そして限界を知ることができる。
※:システム2の欠点は、思考の自縄自縛性と、感情(システム1)の制御が下手なこと。

そして、著者が最後に問題にしたのは、果たしてサピエンスは幸せになったのか、ということ。

そもそも、幸せとはどういう状態か。
願いが叶う、願望が実現する、欲求が満たされることは、確かに幸せかもしれない。
サピエンスはそう思って、資本主義という欲求充足システムを開発し、その結果経済的・物質的・エネルギー的繁栄を謳歌した。
それで、サピエンスは満ち足りたか。
欲求はさらなる欲求を生み、サピエンスは常に欲求不満状態になっているのではないか。
すなわち果てしない欲望の無限循環に陥っているのではないか。
サピエンス固有のシステム2が動物的なシステム1の道具に成り下がったのである。

面白いことに著者は2500年前の仏教に特別な注目をしている(一方、ユダヤ教にはほとんど触れない)。
人々の苦の原因が、飽くことのない欲望(渇愛)にあると見透し、その苦しみからの脱出、すなわち真の幸福の道を探求した仏教は、物語の強化に過ぎない他宗教とは一線を画すことを著者も理解している。

そして本書では、サピエンスの行く末を生命工学の進歩の問題と絡めて終わっている。
そこが10年後の2024年の時点では不満だったが、著者の2023年の文庫本あとがきで、AI(人工知能)の進歩の問題に触れているので納得した。

といっても、「心の多重過程モデル」の視点からは、こういう心の”単層”モデルによる論議は、人間の心の一面しか見ていない不満が残る。

私から見れば、認知革命以降から今後のAIまで全てシステム2内の問題に過ぎない(生命工学はシステム0の問題だし)。
著者の仏教への注目はいい線いっているのだが、心≒システム2という視点なので、仏教がトライしているシステム3というサピエンス(システム2)を超越する心の開発という脱サピエンス的志向が見えていない。
※:本ブログのあちこちに記したように、サピエンスのほとんどがシステム3と無縁だが、瞑想という方法で作動可能となる(それを自ら体験して発見したのが釈迦)。システム3によって思考と感情それぞれの暴走から脱せる。

すなわち「心の多重過程モデル」から見た人類の進化は、システム2主導のサピエンスから、システム3主導のポスト・サピエンスへの方向が見えている(釈迦の示した道が、大多数のサピエンスにとって実行困難なのはそこが理由でもある)。
なので、AIもシステム2(情報処理)の高度化に過ぎないので脅威でない。
むしろ、システム2の作動で一生を終えるサピエンス的生き方から解放される機会がやっと訪れつつあるように思える。
私が本ブログでその辺の話題を繰り返しているのも、そのためだ。→AIと心の進化


コロナ禍後の『免疫「超」入門』

2024年01月21日 | 作品・作家評

新型コロナに対するワクチン接種の可否について、ネットでは賛成派(ワク信)と反対派(反ワク)が対立してきた。

私自身は現代医学を信頼し、怪しげな陰謀論は信じず、しかも「基礎疾患のある高齢者」に該当しているので、自治体からのワクチン接種の通知にすべて応じ、計6回のワクチン接種を済ませた。
果して、当日の腕の痛み以外の副反応はなく、家庭や職場周囲の人々が次々とコロナ感染する中、孤然と非感染を維持してきた。

そもそも私は、花粉症などのアレルギーとは無縁な一方、帯状疱疹には罹っている。
すなわち、免疫反応が過敏となった免疫疾患には無縁で、その逆の免疫力低下による体内ウイルス疾患になったので、免疫力は健常者を0とした場合のマイナス側にあるといってよい。
そういう訳なので、免疫力を高める措置には積極的でありたい。

免疫学についてのブルーバックス(講談社)レベルの本は次々読んできて、最新の2023年刊なのが吉村昭彦著『免疫「超」入門』(講談社)。

コロナ禍が一応の収まりを見せた後の本なので、免疫学の最新の知見だけでなく、コロナ禍でのワクチン対応についても専門的立場で論じている。

成書の多くは、免疫(=ワクチン)の効果ばかりが強調されるきらいがあったが、この書ではサイトカインストーム(免疫機能の暴走)など免疫機構がもたらす疾患についても多くのページを割いており、

例えばコロナ禍でのワクチン対応について(もちろんmRNAワクチンの説明を加えて)、

「60歳未満の健康な成人は追加接種を推奨しない」というWHOの宣言は、広く報道されず、このコロナ禍で明らかになったのは、「感染症の専門家といわれる人たちですら免疫学を理解していない」ことがわかったという。
すなわち、免疫学者としての著者の見解では、高齢者や基礎疾患のある人以外のワクチン接種は必要以上の頻度が求められたという(私に関してはこの頻度でよかった)。

こう警鐘を鳴らすのも、著者の研究分野がサイトカインのメカニズムであるためだ。

さらに本書では、免疫学の今後の発展方向として、がん・老化・脳についても論じている。
すなわち、がんの免疫療法(本庶博士のノーベル賞受賞研究)、”慢性炎症”として理解されるようになった老化(免疫老化)、そして精神障害を含む脳障害における免疫(ミクログリア)の役割についての最新の知見を紹介している。

私の「心の多重過程モデル」における心の最深層(心身相関層)である「システム0」に相当する研究領域は、既存の心理学や精神医学そして脳科学ではなく、生命維持のためのホメオスタシス機構を扱う「精神神経免疫学」である。
※:中枢神経系・自律神経系(循環器系・消化器系を制御)・内分泌系・免疫系、これらの相互作用システムが対象

その中で免疫系は、意識(システム1)や自我(システム2)発生以前のより根源的な”自己認識”システムに他ならない。

すなわち、当モデルは、”心”というものを”意識”以降の中枢機能に限定せず、生命活動とりわけその半分を担う情報処理活動として捉える視点に立っている。
この視点は、アリストテレスに由来する→アリストテレスの『心とは何か』
という理由もあって、心理学の私は免疫学の本を読む。


ゴジラ-2.0へ

2024年01月16日 | 作品・作家評

『ゴジラ -1.0』のモノクロ版が公開されたので、あえて観に行った。→ゴジラ-1.0観てきた
その行為が、この映画に対する私の評価を示している。

そしてこの映画を2回観て思ったことを記す。

ゴジラ映画は原点(1954年の第一作)を忘れてはならないが、同時に単なるリメイクやオマージュであってもならない(モノクロ版という部分はオマージュ的だが)。

その一方で、(シン・ゴジラのように)”現代的”にこだわる必要もないことも示された。

そうなると、ゴジラの原点をより遡ってみてはどうだろう。

すでに第一作において、ゴジラは水爆実験によって”誕生”したのではなく、それ以前に大戸島の伝説として認知され、地元の神事にすらなっていた。

すなわち、水爆実験によって巨大化する以前の、ジュラ紀の恐竜の生き残り(進化形)として、大戸島で伝説として認知されていた荒ぶる神・呉爾羅こそが、真の原点であるはず(この呉爾羅は-1.0で登場)。

となると時代設定は少なくとも江戸時代以前に遡るから、タイトルは「ゴジラ-2.0」となる。

そこでは怪獣というより荒ぶる神、といっても(放射能前ということもあって)超越的なパワーなしの、神道的神としての神性にウエイトをおく。

そもそも呉爾羅は人類最大の愚行である”戦争”の象徴・怒り(第一作でのゴジラの東京襲撃は東京大空襲の再現)であるから、時代設定は”戦国”末期にして、大戸島を支配しようとする北条水軍、そしてその北条を滅した秀吉配下の九鬼水軍に襲いかかる(最終的には江戸を開府した家康によって封印され、太平の江戸時代とともに長い眠りにつく)。

尤も、時代設定的にも怪獣ゴジラの前身である点でも、現代装備の軍隊あるいは他の怪獣とのバトルのような迫力ある映像は望めない。
それでも-1.0の呉爾羅も対人間では迫力あったので(まるで『ジュラシック・パーク』)、当時の合戦シーンレベルは凌駕できる(たとえば、小田原を囲んだ20万の秀吉軍との対決)。

私の構想はこの程度で尽きるので、あとはどなたか作品化するストーリーを作ってほしい(こうしてネットに公表しているので私の案の権利は主張しない)。


『戦国武将列伝2関東編上』を読む

2024年01月03日 | 作品・作家評

正月三が日は、箱根駅伝以外にテレビは見ず、例年関東戦国史の本を読むことにしていて、今回は『戦国武将列伝2(関東編上)』黒田基樹編 戎光祥出版(2022年)を読んだ。

このシリーズは、いわゆるメジャーな戦国大名クラスではなく、そのクラスに至らない国衆レベルの全国網羅集で、関東だけでも上・下2冊になっている。

関東編の上巻は、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の戦国大名3傑が揃う前の、足利公方家と上杉管領家との対立から始まり、それら双方が分裂していくという混沌状態の中で生きた土着の武将たちが上巻だけで38の章で紹介されている。

これらの武将レベルは、大河ドラマはもとより、映画や小説の題材にもならないので(小説になっているのは太田道灌くらい)、彼らのリアルな生き様がわからなかった。
いわば、私が一番知りたい部分を集めた本だ。

そういう期待を込めて3日の間、460ページの上巻を読んだが、正直辛かった。

というのも、結局、彼らのレベルって、実現したい国家・社会観があるわけでなく、ただ父祖伝来の所領の維持拡大に汲々としている生涯だから。
その目的のためだけに、あっちについたりこっちについたり、そして親兄弟、親類縁者、主人と家臣の間で骨肉の争いを演じる。
しかも決定的な強者がいないダンゴ状態なので、互いに勝ったり負けたりで、ちっとも事態が別次元に展開しない。
※:唯一の例外的強者は太田道灌(勝率100%)。逆にいくら負け続けても死なないのが長尾景春。

そのような煮え切らない生涯の例を40人以上(1章につき2人の例も)続けて読むのが辛かったのだ。

それだけでなく、彼らの史料が乏しいこともあって、人物・事績の学術的確認が精一杯で、人間的なエピソードなどが残っていない(これも唯一の例外が太田道灌)のも、読むのが辛い理由。

戦国末期の忍城の成田氏(「のぼうの城」で映画化)のような痛快なエピソードを期待したのだが、見当たらなかった(かように私も”物語”を求める一人だった)。

記録に乏しく、エピソードも残っていないということは、これらの人々が当時の人にとっても印象に乏しかったということの証左かもしれない。

手元にある下巻はしばらく読まないでおき、関東戦国史後半の主人公『北条五代』を先に読もうか。


ゴジラ -1.0観てきた:ネタバレなし

2023年12月04日 | 作品・作家評

あえて平日の昼に、「ゴジラ -1.0」を観てきた。☞公式サイト

ゴジラが誕生して70周年にして30作目である(なお、本作はコロナ禍によって制作が中断され、そのコロナ禍が作品のテーマにも影響を与えたという)

映画館で映画を観るのは久しぶりで、もしかしたら2016年の「シン・ゴジラ」以来かも。
すなわち、敢えて映画館で観たい映画はゴジラとかに限定されている。

そもそも映画がメジャーな娯楽であった時代に小学生だったので、近所の映画館に子どもだけで観に行った世代で、
学生時代は名画座(過去の名作専門の映画館)に入り浸って、1日に映画館のハシゴをしたくらいだったのだが、
レンタルビデオ・DVDの普及と家のテレビの大画面化によって、映画は家でくつろいで(私は寝る前に)観るものになってしまった。

その鑑賞パターンに慣れると、日中に丸々2時間映画鑑賞だけにつぶすのはもったいない気がするし、
アカの他人たちと同席して観るのも色々気が引ける。

ということもあって、人が少なそうな平日の昼に、事前にネットで席を予約して鑑賞に臨んだ。

映画館だと、まずはポップコーンとドリンクを購入するのが定番だが(私も子供の時はそれが楽しみだった)、
この歳になるとトイレが近くなるのが嫌なので、飲食はしない(家だと飲食しながら観れる)。

そういうストイックな環境で観た「ゴジラ -1.0」。
前知識は0だったので、まずは時代設定に驚いた(タイトルのマイナス符号がそれを暗示)。
VFX(3DCG)の技術もすごく、身長が初期設定の50mながらゴジラの迫力も充分。

ゴジラ映画に欠かせない要素、すなわち火器にはびくともしない強靭さ、有楽町付近で平然と走行している鉄道車両を襲うこと、戦争や環境破壊などの人類の業と関連していること、単なる恐竜的な野獣ではなく(ハリウッド版ゴジラはこのレベル)、荒ぶる神としての神々しさがあること、そして何より伊福部昭のゴジラのテーマ曲が山場で流れること、これらが満たされていた。

さらにそれらを満たした上でのオリジナリティが重要で、ゴジラ単独の場合は、人間側がどのような手段でゴジラを退治するかが問われる。

私が小学生の時夢中になった「キングコング対ゴジラ」(3作目)以来、ゴジラ映画がこうやって作り続けられ、しかも下手にシリーズ化せずに(そうなるとどうしてもキングギドラやメカゴジラを出さざるをえなくなる)、1954年以来の”ゴジラ第1作”(ゴジラの原点)が再制作され続けられていることに、ゴジラ(映画)と共に生きてきた我が身にとって、限りない幸福感を感じた。
ゴジラと共に、これからも生きていけるんだと。
この幸福感こそ、私にとってのこの映画の感想である。
この幸福感を与えてくれた監督(山崎貴)・俳優(主演:神木隆之介)を含め、制作に携わったすべての人たちに感謝の意を表したい。