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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私が唯一観ないジブリ作品は

2025年08月15日 | 作品・作家評

ジブリアニメは後から好きになり、DVDなどで見まくっているのだが、唯一観ていない作品がある。

高畑勲作品の「火垂るの墓」だ。

観たくないのではなく、観れない。
悲劇、とりわけ幼子の悲劇がダメだから。

「この世界の片隅に」さえ、そのシーンは辛い。
でもこの作品は最後に救いがあるからなんとか観れる。

というわけで8月15日の終戦の日は、「日本の一番長い日」(1967年・東宝版)を観ることにする。

ついでに、1回だけ観てもう観なさそうなのは「ポニョ」。


アルゴリズムが人類を支配する?

2025年08月09日 | 作品・作家評

AI革命が進行する現在、われわれはそれとどう付き合ったらいいのかが喫緊の課題だと思う。

そこで、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ(イスラエルの歴史学者)による、人類の未来を論じた『ホモ・デウス』と『NEXUS』を続けて読んだ→『サピエンス全史』評

ここでは2015年に書かれた『ホモ・デウス』(2022年邦訳 河出書房文庫版)について紹介する。


サピエンスが、デウス(神)にならんとする過程を描いた『ホモ・デウス』での第一のキーワードは、アルゴリズム(algorithm)。

21世紀はアルゴリズムに支配されるという。

アルゴリズムとは、「計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序立ったステップ」の意味で、料理のレシピもその一つだが、実際にはコンピュータ・プログラムの作動の流れのことをいう。

ここで個人的に思い出すのは、イギリスの喜劇俳優ローワン・アトキンソン主演のコメディ映画、「ジョニー・イングリッシュ」シリーズの三作目『アナログの逆襲』(2018年)で、悪役のアメリカのプラットフォーマー(IT長者)が世の中を動かしているのは「アルゴリズム」だと盛んに論じていたこと。
またその言葉こそ出なかったが、細田守のアニメ映画『サマーウォーズ』(2009年)もデジタル・アルゴリズム支配下の世界を前提にしていた
※:「その言葉こそ出なかった」と書いたが、映画を確認したら、主人公が「shorの因数分解アルゴリズム」の本を読んでいるシーンがあった(文字では出ていた)。

ハラリは、これを広義にとって、人間自体も「感覚、情動、思考によって機能するアルゴリズムが制御」しており、その情動も感覚情報を計算して作動する生化学的アルゴリズムであるという。
これって言い換えれば、既存の生物メカニズムがデジタル・アルゴリズムに置き換え可能であることを示唆するか。


次に重要な指摘として、サピエンスが生きている現実には3つあって、1つは客観的現実、次に主観的現実、そして3つめが共同主観的現実である。
共同主観的現実は、大勢の共通の物語(虚構=神話)のネットワークによって生み出されたもので、貨幣、国家、法律、神などが該当する。
我々の生活を支配しているのは、この共同主観的現実であることがわかる。

かつては宗教がこの現実を強固に秩序化してきたが、近代以降は、神の座に人間自身を据える「人間至上主義」になったという。
そこでは人間の自由意志が最も尊重される。
ところが、最近の脳の研究では「自由意志」もまた神話であることが曝露されている。

そして現代、それに代わる原理となりつつあるのが「データ至上主義」。
これは、データを所有し処理できるアルゴリズムが、人間の知識や知恵を凌駕する段階になったことの反映である。
データ至上主義においては、人類は単一のデータ処理システムであり、(かつては至上価値であった)個々の人間はそのチップ(部品)に成り下がる。
言い換えれば、人間はデジタル・ネットワークにデータ化されることではじめて存在意義をもつようになる。

これは私自身が痛感することで、私がこのブログを営んでいる理由がまさにそれだ。
私だけでなく、ユーチューバ−やティックトッカーも同じだろう。
それは、単なる承認欲求ではない。
いや、承認欲求とするなら、欲しいのは生身の他者から承認以上に、デジタル・ネットワークからの承認(居場所)だ。


最後の章でハラリは、世界を席巻しつつあるこのデータ至上主義に疑義を呈する
「この世界にはデータに還元できないものがあるのでは?」と。
たとえば、意識を持つ知能(人間)が、意識をもたないアルゴリズムに取り替えられることによって失うものがあるのではないか。
あるいは、生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか。
生命は本当にデータ処理に過ぎないのか。
そして、知能と意識のどちらのほうが価値があるのか。

特に「生命は本当にデータ処理に過ぎないのか」という問いは、心を生物の情報処理機能とみなす現代”心理学”(私もその一員)に対する疑義としても受け取りたい。

※:デジタル・アルゴリズムの支配に対して、”アナログの逆襲”は可能か、という視点ともいえる。


巻末の謝辞で、ハラリが長い間ヴィパッサナー瞑想を実践してきたことが記されていた。
『サピエンス全史』で彼が仏教に好意的だったのも、その関係かもしれない(ユダヤ・キリスト教には醒めた目で見ている)
そして、ヴィパッサナー瞑想によってシステム3(ハイパー意識)が作動できたからこそ、サピエンスのシステム2(物語が大好きな思考癖)を客観的に眺めることができたに違いない。
但し『サピエンス全史』でも本書でもシステム3というサピエンスの可能性を論じていないことから、彼自身にシステム3という意識レベルの自覚はないようだ。


ミロTを着てミロ展に行く

2025年06月28日 | 作品・作家評

先日22日に八王子に行くために新宿駅で京王線に乗り換える通路を通った時、
私の大好きな「ミロ展」が都美術館で開催中であることを知った。
結構大規模な回顧展なようで、しかも7月6日までなので、週末の本日土曜の午前中に行くことにした(午後より混まないはず)。

ちなみに、ミロ展ではミロの絵がプリントされたTシャツ(ミロT)を買うのが楽しみで、すでに2着持っている。
もとより美術展ではその作家作品のTシャツが販売されるものだが、着用を前提とすると、ミロ以外は買う気になれない。
逆に言えば、ミロTならぜひ欲しい。

そのミロ展なので、ここぞとばかりに(日頃はもったいなくて着ない)ミロTを着て行く事にした。
ただし、モロにミロT着用でミロ展に行くのはいかにもミーハーチック(死語?)なので、上にベストを羽織る。


さて、そのミロ展だが、最初期の、ピカソ・セザンヌ風の自画像・風景画から始まり、
それが次第にミロ独自の絵画言語が形成されていく過程がよくわかる
(さらに彼が90歳で亡くなるまで、現代美術の最先端を突き進んでいたことがよくわかる)。
そして記号化された描画が何を意味するかという記号解読(ある意味、芸術鑑賞をぶち壊す作業)をしながら観て回る。

ただ「星座シリーズ」(右図)は具象画とも抽象画ともつかない線画が集まった世界なので、記号解読を諦めると、その途端、絵がまるで現代音楽のような不協和音たちの協奏による不思議な調和を醸し出し、とても心地よくなった。
この”目で見ただけで心地よくなる”ことが、私がミロの絵を好きな理由で、ミロの絵は、聴くように観ればいいのかと思った。


展示コーナーが終わってショップコーナーに達すると、ミロTが幾種類もあったが、いずれも適したサイズがなく、
またプリントもシャツの前全面ではなく、小さい四角に収まっているので、サイズが合っても欲しい類ではなかった。
その代わり、いつもは買わない図録を買った。
図録って、一度読んだだけで書棚の肥やしになるだけなので極力買わないようにしているが、
考えてみれば、ミロほど好きな画家なのに、彼の図録は持っていなかった(ミロT購入を優先したから)。

帰宅して、その図録を読むと、ミロは絵画の中に「沈黙の音楽」を探していたという。
ならばミロの絵を音楽的に観ることは、的外れな鑑賞態度ではなかったようだ。


雑誌『談』の休刊に思う

2025年04月01日 | 作品・作家評

知的刺激として唯一読むに値する雑誌といえる『談』が、132号(2025年の3月)をもって無限休刊するということを、
132号の編集後記で知った。

ここは発行元が「公益財団法人たばこ総合研究センター」という、あのタバコ販売の元締め(旧専売公社)系列なのが意外中の意外だが、逆に商業主義に走る必要がないという点が強みだったかもしれない。

自分が愛読(定期購読)する雑誌は、次々と廃刊の目に遭うという経験をしてきたが、
それは何も私に限った現象でなく、広く雑誌一般が受難の時代だからだろう。

確かに言える事は、紙媒体は私にとっても不要だということ(ただし雑誌は読書用のiPad miniには大きすぎる)。

実は、『談』は私が定期購読していたのではなく、今から10年前、私自身が”談”の一人として掲載(104号)されて以来、
毎号送ってくれていた。

この雑誌は、編集スタッフが、毎回テーマとする問題の専門家3名とのインタビュー(質問に対する返答)からなっている。
私の場合は、お茶の水の山上ホテルの一室で”談”をし、謝金もいただいた。

インタビューの依頼を受けた時、スポンサーが気になって「私タバコは吸わないんですが、それでもいいんですか」と尋ねたが、
当時の担当者から、別にタバコのPR誌ではないので、全く問題ないということだった(もちろん、インタビューの中でタバコには一言も触れていない)。

そのテーマが毎回変わり、担当者は少なくともその分野の著作を読んで相手を選定し、
さらに読み込んで質問をするわけだから、彼らの知的レベルと勉強量は相当なもので、それが雑誌の質を維持してきた。

前回131号で「空」(くう)がテーマになった時、私もその内容にインスパイアされて本ブログで「空」を話題にした→空とは何か

そして今回132号のテーマは「死者と霊性」。
末木文美士氏の書に触発されたということで、もちろん末木氏の談で始まる。

私自身も本ブログで霊性について盛んに話題にしているが(たとえば→の進化としての霊性)、
怪しげな”霊界”を直接問題にするのではなく、
末木氏のように「他者の死」(誰もが存命中に経験できる死)を通しての接近(体験)こそが、王道だと思っている。

本誌の3人目(最後)の安藤礼二氏の”談”において、”霊性”とは、(我々に巣食っている最も根源的な二元論である)生/死の対立を超越(無化)するものということが印象に残った。

この雑誌がなくなるのは寂しいが、私の残りの人生のテーマである”霊性”を最後に扱ってくれたことは、僥倖この上ない。🙏


『睡眠の起源』:脳がない生物も眠る

2025年03月31日 | 作品・作家評

『睡眠の起源−なぜ眠り、なぜ起きるのか−』 金谷啓之 2024 講談社

本書では、神経系はあっても脳がない生物であるヒドラが睡眠・覚醒のサイクルを示すという著者の画期的な研究が紹介されている。

ということは、睡眠に脳は必須ではなく、むしろ睡眠の方が脳よりも生物にとって必須な営為であるということだ。

人間だと、睡眠(レム睡眠+ノンレム睡眠)は脳波によって確認されるが、脳のない生物ではこの指標が使えない。
その代わりとして、より一般的な指標として、以下が適用される。
①行動の静止と可逆性:刺激があれば覚醒する
②反応性の低下:なので身を守る姿勢で眠る
③眠りのホメオスタシス:眠りが少ないと睡眠圧が高まる

そして著者は、ヒドラから離れて、全身麻酔という睡眠に似て非なる状態を研究するため、
九州大学から東京大学の大学院に進んだ(現役の大学院生)。
※:睡眠圧の解消にならないという点で睡眠と異なる。

人間の全身麻酔に使用する吸入麻酔は、単細胞のゾウリムシや植物のオジギソウまで作用するという。

ということは睡眠は、生物であることの基本機構であるホメオスタシス(恒常性維持)の一部を構成するレベルの現象のようだ。
すなわち物質・エネルギー代謝などとともに”生きていること”そのものにかかわる根源的な現象ということになる。


このような根源的現象としての睡眠は、私の「心の多重過程モデル」では、心のサブシステムの最も根源的なレベルであるシステム0に割当てられる。

著者は、睡眠の対極にある「意識」をも問題としているが、残念ながら、相変わらず従来型の意識観、
すなわち「意識がある」(覚醒)レベル(システム0)と「意識する」(知覚・記憶)レベル(システム1)、
それに自我意識(思考・表象)レベル(システム2)が一緒くたになっている。

著者の研究対象はシステム0のレベルであることは明白で、だからこそ脳に還元されない現象としてとらえるべき問題となる(脳に還元できるのはシステム1・2)。

ちなみに心の多重過程モデルでは、自我意識よりも高次(自己超越レベル)の、ハイパー意識(システム3)、
さらにトランスパーソナル意識(システム4)まで視野に入っている(意識現象は5重構造としてとらえるべき)。

私自身は、心の多重過程における睡眠の役割、すなわち心理現象としての睡眠(夢を含む)に関心がある。
※:心は意識の上位概念であり、意識以外も心の現象としてありうる。


スウェーデンボルグ終了

2025年03月17日 | 作品・作家評

卒業式が終わって実質的にも春休みに入ったので、スウェーデンボルグについての20年にわたる霊界経験の日記をじっくり読もうと思った。
全十巻に及ぶ『霊界日記』は昭和55年に邦訳されている(柳瀬芳意訳 静思社)。
こういう大量の資料は、国会図書館で読むに限る。

ということで、国会図書館に行き、デジタル資料となっていたので、館内のパソコン画面でまずは第一巻を閲覧した。

眠気に堪えて読んだ結果、第二巻以降を読むことは取りやめ、これ以上彼に付き合うこともやめることにした。


なぜなら、第一巻で彼の霊界での具体的な経験を追っていたら、ヨーロッパ人以外のイスラム教徒やアフリカや西インド諸島の偶像崇拝者の霊界でのあり様までは普通に読めたが、それに続いて、なんと木星人が登場したのだ。
木星人は、地球人と同じ形態で、地球人より美しいという。
その木星人の記述がやたら長く、我慢の限界を超えたので読むのを放棄した。
これ以上の読書は時間の無駄だから(時間の無駄と思う行為は即刻中止すべき)。
第二巻以降、他の惑星人、月の住人も登場するはず。

18世紀は地動説に基づく太陽系についての知識は常識化していた(ただし木星の大気までの知識は無し)。
なので、この世と霊界を統べる”神メシア”(本書の表現)(=キリスト)は、リアルな意味で宇宙神でなくてはならない。
そのため、当時の視野でいうと太陽系の諸惑星にも神メシアの威光が届かなくてはならない。
なので木星人もキリスト教徒となるべきのだ。

そもそもスウェーデンボルグはいかにして霊界を経験したかというと、彼がいう「死の技術」、すなわち自分の霊を自分の体から離脱させるテクニック、いわゆる”幽体離脱”による。
彼によると、離脱した体が見えることがポイントで、慣れるにつれて霊界が徐々に見えてくるという。
これはすなわち彼が特殊な覚醒水準の状態(≒睡眠)になっている時の経験である。


実はスウェーデンボルグの霊界経験について、当時の大哲学者カントが論評している。
二人は奇しくも同世代でしかも同名(Immanuel)で、互いに活躍は耳にしていた。
カントは論評を著すに当たってスウェーデンボルグとの面会を打診したが、スウェーデンボルグの方で断ったという(彼はドイツ語は話せるが、彼の方でカントに会う意味を見出せなかったという)。
そのカントの論評を読むと、もって回った言い回しながら、スウェーデンボルグの霊界経験を夢想と解釈している。
なので論評のタイトルはズバリ『視霊者の夢』(金森誠也訳 講談社)
これは霊視認現象についての現代科学での見方と同じ。

私の解釈は、いわゆるレム睡眠での夢の経験ではなく、もっと覚醒状態に近い意識的な空想に近いものだと思う。
なぜなら彼自身の意識レベルの価値(宗教)観が濃厚に投影されているから。
だから彼の意識にない、日本人や太陽系外の宇宙人は登場しない。
離脱を伴う状態では、夢のように身体ごと空想の世界に入ることができたのだろう。
これは離脱経験固有の状態といえる。

言い換えると、私が研究対象としている通常の覚醒時に風景の中で霊を視る”霊視認者”とは異なる。
この意味でも関心を失った。


ということで、スウェーデンボルグの霊界経験について、昨今の霊能者の言との照合などをやるつもりでいたが、前者が価値を失ったので取りやめにする。
また彼の宗教観に内在する二元論バイアス(西洋思想そのものに胚胎)を批判する予定もあったが、批判する価値すら無くなったのでこれも取りやめ。
※:ヘレニズム・ヘブライズム双方による、自他二元論を前提とする自己愛と対象愛(隣人愛)の峻別。愛は存在レベルの現象で、そのレベルに自他の区別はない。東洋思想はそれ(二元論バイアス)を乗り越えている(陰陽思想、空、不二一元論)。


『死とは何か』を考えよう

2025年01月20日 | 作品・作家評
『死とは何か—宗教が挑んできた人生最後の謎』(中村圭志 2024年 中公新書)の紹介と私なりの付加。

「死」は、本書の副題にあるように人生”最後”だけでなく、”最大”の謎でもある(実際、この問題を卒論に選ぶ学生もいる)。
なのに、それに真正面に立ち向かおうとすると気が引ける。
正直、どう考えていいのかわからないから。
そして結局、その謎を頭から消して、日常の「忙しさ」と「暇つぶし」に心を費やしてしまう(それがハイデガーのいう”存在忘却”)。
ただ、それでも頭の片隅からは離れないはず。
なので、本ブログでもいずれきちんと問題にするつもりでいるが(もちろん「心の多重過程モデル」を使って)、その前に参考になりそうな文献に当たっている。

本書は、人類は「死」をどう理解(説明)してきたかという視点で、死の問題を直視する。
実際、この問題に対峙してきたのは各地の宗教なので、必然”諸宗教の死生観”の概観となる。
※:死生観とは、死の理解を前提としてどう生きるかを考える態度
ということで、本書は表面的には古今東西の「死後の世界」の諸言説の紹介となり、例えば仏教の地獄話のように物語的に読めるので、この問題に入るのに敷居が低い。
※:これに特化した本として、大角修『地獄の解剖図鑑』(エクスナレッジ)
では逆に、死を自分の死として実存的に、しかも科学的に捉えたいという人には無用かというと、著者の立場も実はそこにあるので、既存の宗教的物語に対しても現代(脱宗教)的視点から批判的に接していて、その点で既存宗教の死生観の限界を乗り越えることができる(これが重要で、この視点がなかったら紹介しなかった)。
 
具体的には、古代ギリシャから始まり、中東のユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教へと続き、輪廻転生説の本家であるインドのバラモン・ヒンズー教から仏教(とりわけ浄土思想)、さらに儒教・道教、そして神道(古事記の”黄泉”から平田篤胤まで)に至る。
なので、キリスト教とイスラム教の天国、さらに仏教の極楽との違い、あるいは3宗教間の地獄の異同なども理解できる。
これらの中で死後の世界(あの世)について意外に無関心なのはキリスト教以外の一神教(ユダヤ教・イスラム教)で、ご存知のように儒教や神道も関心が薄い(これらは現世の在り方を重視)。
プラトン的な霊魂不滅論も仏教的な六道輪廻の物語も素直に受容できなくなった現代人には、19世紀以降のスピリチュアリズム(心霊主義)という選択肢も紹介されている。
 
そして結局、我々に与えられているのは、死後の世界(冥界、天国・地獄)の物語とこれらの物語を一切否定して死後の世界を無しとする希望もへったくれもない唯物論的な死生観の2つに集約される。
ただし、現代人の死生観はこの2つに引き裂かれているのではなく、「自然に還る」という発想やかつてヒットした「千の風になって」という歌にあるように、「『死後はない』『死後はある』の境界線について言挙げしない態度」になっているという。
※:私の大学の恩師の墓碑銘は「地に還る」
なぜなら、「死後の意識の存続の証拠はないとしても、死後の消滅が完全に立証されているわけでもない」からだ。
このあえて宙ぶらりんな死生観で本書は終っている。

この結末に接して、私はほくそえまざるを得なかった。
実はこの結論は、2500年前の釈尊(ブッダ)が在命中に達していたものだから。
本書で紹介された後世の物語化された仏教ではなく、その開祖釈尊こそが、21世紀の死生観レベルに達していたことが確認できた。
 
2500年前のインドでもすでに死後の世界は無い(死で全ておしまい)とする「断滅論」と、霊魂不滅を標榜する「不滅論」とがあり、真っ二つに意見が分かれていた。
この問題に対し、いわゆる”宗教”を形成する神話的思考を排し、リアルな経験論に徹していた釈尊は沈黙で答えた(無記)。
なぜなら、生者の中に死を実際に経験した者がおらず、「断滅論」「不滅論」いずれの観念論も証明することはできないためだ(その意味では、孔子の不可知論的弁明も納得できる)。
※:唯一の例外と言えるのが、生きながら死者が赴く天国・地獄を往復してきたというスウェデンボルグか。
 
釈尊のこの態度は、実証性を重視するという点で唯物論的断定よりも科学的だ(だから現代でも通用する)。
 
そこであえて、本書の結論からさらに一歩を進めるために現代に釈尊をよみがえらせば、解答を「断滅論」「不滅論」という両端の中間、すなわち”中道”に求めたであろう。
すなわち絶対無と絶対有の中間、「空」の状態(この論理については→空とは何か1)。
生が「空」なら、死も「空」ではないか。
では死の「空」とは、いかなる状態か。
これについては本記事の書評から離れるので控えておく。
もちろんこれも証明されないから、観念論にすぎない。
ただし「断滅論」でも「不滅論」でもない第3の観念論である。

ちなみに、死の問題について、死を看取る(脳死判定する)医師の立場から、人が死にゆく過程を現象学的に論じた脳神経外科医・安芸都司雄の『死の体験』(世界書院)についてはこのブログですでに紹介した(→記事)。
宗教的神話に興味のない現代人にとっては、むしろこちらの本から「死」に対峙する方が真っ当なアプローチといえる。
ただその医学的立場といえども、安芸氏がイエスとブッダに言及せざるをえなかったのは、唯物論的死生観(断滅論)に立ち切れないためだろう。

『自分とか、ないから』を学生に読ませたい

2024年11月25日 | 作品・作家評

『自分とか、ないから:教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)1500円+税

著者しんめいp氏は、東大法学部を出ながら、仕事ができなくて無職になり、さらに離婚して、実家に引きこもって、東洋哲学の書を50冊読んだという。
これは、その結果達した境地の本。

このタイトルを見て、もちろん仏教の「無我」や「空」のわかりやすい解説だとわかるので、これ絶対学生に読ませたいと思い、即座に大学図書館に注文した。

20歳前後の学生ってたいてい”自分”にこだわって、”自分”に悩んでいるから(心理学科の学生はなおさら)、その”劇薬”(東洋哲学に対する著者の言葉)となるに違いない。
そして図書館から「配架した」との知らせを受けたので、まずは自分が本学で最初の読者になった。


そもそも、その道の専門書を10冊読めば、その道についていっぱしの知識人として人に語れると思っている。
と言うのも、実践すればわかるが、それくらい読むと、得られる情報が飽和して、例えば10冊めの本は、すでに知っている事ばかりという状態になるから。

この著者はその5倍の50冊も読んだので、たとえ身分は素人(フリーター)であろうと、人に語る資格は充分にある。
仏教について本ブログで語っている私よりも多く読んでいるかもしれない(自分で数えたことないがおそらく45冊程度だろう)。


そしてタイトルから予想できるように、若者にとって等身大の言葉(口語)で語ってくれている(著者は30代なかば)。
もちろん、表現だけでなく、発想・感想自体が若者等身大なので、目の前で面白おかしく語られている気分になる(著者はお笑い芸人も目指して挫折経験あり)。

例えば、本ブログでも先日記した龍樹(ナーガールジュナ)について、その論破王ぶりに、2ちゃんのひろゆき氏に(外見も)似ていることを指摘している。

実際、読んでいて笑い声をあげたこと数度に及ぶ。

こういうノリで仏陀(釈迦)、龍樹、老子・荘子、達磨、親鸞、空海を紹介していく。
もちろんそれらに通底しているテーマは「自分とか、ないから」。

ページ数は360ページほどあるが、あっという間に読み進め、最後の空海の章は、ワインを飲んだ食後だったこともあり、半分眠りながら読んだ。

これは退屈したのではなく、酔いながら密教曼荼羅の心地よい世界に入り込んでしまったため。
仏教の最終形態である密教(空海)においては、欲望を含む人の心の全てが肯定される。
これは低次の心に高次の心が追加される私の「心の多重過程モデル」に一致している。
すなわち低次の心(欲望や迷いに満ちている)を否定せず、それをそのままにして高次の心の要素とするという心の成長(超越)モデルなのだが、本書を読んで改めて、空海の思想(十住心論)こそ、本モデルの理想的範型(モデル)だと認識した。

言い換えれば、仏教そのものが精緻な心理学であるから、私は仏教的言説を宗教的(絶対的)教えとしてではなく、心理学理論として再構成したいのだ
※:例えば唯識思想を無批判に心理学化するのではなく、科学理論として批判的に再構成する。なので阿頼耶識などは採用しないだろう。


はにわ展観てきた

2024年11月04日 | 作品・作家評

「文化の日」代休の今日、前から行こうと思っていた東博(東京国立博物館)の「はにわ展」。
混むのはわかっているので、開館の9時半めがけて出発するつもりだったが、入り口に着いたのはそれを過ぎてしまった。
案の定、当日券売り場は行列になっていたが、スムースに流れ、会場となっている平成館に向かうところで入館の長い行列の最後尾に加わる。
それでも同じく開催されているハロー・キティ展に比べれはマシな方か。
この行列も順次捌けていき、20分ほどで入館できた。


まずは2体の踊る埴輪(6世紀)がお出迎え。
展示は、ほとんどが撮影OKなので、私もiPadで撮影する。
展示の順を追っていくと、埴輪の原型である円筒埴輪が、弥生時代(2-3世紀)の儀式的器が下に伸びた結果であることが示される。
中でも愛知の円筒埴輪(6世紀、以下同)は、須恵器の材料で精巧に作られており、ここでも焼き物いや物作り先進地の面目躍如。

畿内の埴輪は権力者(大王)の権威を示すためのものだったが、それが関東に広まると、造形そのものを楽しむかのように、埴輪の表現力が開花する。

ここでまず見たかったのは、千葉出土の山高帽を被り顎髭を蓄えた男性像(写真)。
これを見ると古代のユダヤ人渡来説を信じたくなる。

今回の目玉は、群馬太田の1つの工房で作られた国宝級の武人埴輪5体の集結(見出し写真はその1体)。
これに群馬の観音塚古墳出土のもう1つの国宝武人埴輪も加わる(合わせて国宝2体、重文2体)。
後者は、群馬県立博物館でお目にかかり(→記事)、その際、映画『大魔神』のモデルと記したが、むしろ前者の全身武装の国宝武人埴輪(東博所蔵)の方が近い(同じではない)。
といえるのも、この埴輪を見ることがわかっていたので、三日前から映画『大魔神』シリーズ3作※を観ておいたのだ。
※:「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神の逆襲」

さらに、本来の埴輪の目的から外れる、日常の母子を示した埴輪(写真)や、ただ笑っているだけの埴輪まで現れた(踊る埴輪も末期の作品)。

埴輪は古墳の主(死者)を祀る儀礼的なものから、当時を生きる人間の表現になったことで、現代人にも親しまれる存在となったわけだ。

さてミュージアムショップだが、埴輪が描かれたTシャツやトートバッグ、武人埴輪を模した室内着(兜のキャップ付き)などがあるが、私が欲しいのは埴輪のミニチュア・レプリカ(もちろん素焼)。
それが1つもなかったのが残念(山高帽埴輪とか巫女埴輪とか幾つかは持っている)


ハイデガーから道元へ

2024年10月12日 | 作品・作家評

著作的には、『存在と時間』から(正法眼蔵)の『有時』(うじ)へ。

もちろんハイデガーの思想はこの書の後も進展しているし、道元の思想もこの巻に尽きるのではない。

ハイデガーを読解するだけでも苦労するのに、さらに道元という苦労を背負い込むことになる。
なぜなら、ハイデガーだけでは足りないから。
この世を生きる現存在の基礎的存在論の後に続く、より先の方向性が欲しいから。

なら、道元だけではどうなのか。
道元の書(正法眼蔵)は弟子に対して書かれたので、仏道修行者が前提されている。
なので凡夫がただ表面的に読んでも、高踏的な教説として頭の上を通り過ぎてしまう。

衆生(凡夫)が陥っている状態を明確に自覚し、そこを出発点にしたい。
すなわち、”世人”(私でない人一般)として頽落(たいらく)している(非本来的様態の)現存在(=私)は、いかに時を生きればいいのか、
「いかに生きればいいのか」という問いに対する回答を、特定の行為に帰すのではなく、「時を生きる」という基本的在り方として確立したいから。

先走って示すと、ハイデガーが示唆した「本来的」ということが、道元の示す「悟り」に繋がるのではないか。

なぜなら、人は本来(可能性として)悟れる存在で、悟り続けることこそが、存在を自覚している稀有な存在者たる現存在の本来的な在り方なのではないか、と思うから(仏道修行者が前提)。

その悟りとは、”存在”(在ること)に対する認識(思い込み・臆見)の変様を意味する。
ご承知の通り、仏教は(ハイデガーが及びつかないような)ラディカルな存在論(縁起-無自性-空)を擁している。

その悟り(存在の新たな認識)によって、現存在として時を生きる在り方(=存在の仕方)が変われるのではないか。

「時を生きる」という点に即していえば、死という絶望(将来の途絶)を終点として生きるのではなく、死を超えた先(永遠の将来)を目指して生きたい。
死を現存在の衰弱の果てとして迎えるのではなく、向上(変様)の果てとして迎えたい。

これは(世間に適応するために)世人として生かざるを得ない様態からやっと解放される(定年の)時機に達するが故に、実行可能となる課題だ。

ただし『有時』の前に道元の存在論である『現成公案』の巻と格闘する必要がある。

さらに長期的には、道元で終わらずに、私の「心の多重過程モデル」で説明したい(既存の心理学モデルは存在者レベルに留まっていて、存在レベルに達していない)。
ハイデガーは哲学者としてシステム2(思惟)の極限に達した。
道元は仏道行者としてシステム3(メタ思惟)に達した。
この境地の違いを私の心理学モデルで説明したい。


『存在と時間』と再格闘へ

2024年09月29日 | 作品・作家評

我が大学院の後期授業『社会心理学特講』に久しぶりに受講生がついた(公認心理師指定科目でないので、受講が必須でない)
実はその授業は、表向きは社会心理学と称しているが、裏のテーマは心理学批判で(学部の授業では不可能)、科学的と称する現代心理学が無視している人間の”存在”の問題(人が一番気になっている問題)に焦点と当てるものだ(以上をシラバスに明記)。
そしてその問題のアプローチとして、ハイデガーの『存在と時間』の論旨を紹介する。

そもそも現象学派だった私が、フッサール(認識論)からハイデガー(存在論)に宗旨替えをしたのはこの書のインパクトだった。

その後は、ハイデガーの後続する書(日本語訳)を読み進め、後期思想のキーワードである「性起」(しょうき)に関心が映ったが、彼のその後の作業は、未完で終わった『存在と時間』の追補とも言える。

言い換えると、ハイデガーの思惟の展開を知れば知るほど、その原点と言える最初のこの書をもう一度(幾度も)読み直したくなる。
今回の受講生の出現は、その後押しとなった。


このように私にとって『存在と時間』は今後も再格闘する書なのだが、実はそういう書、すなわちまだ読みこなし切れていない(格闘し続けている)書がもう1つある。
道元の『正法眼蔵』、とりわけその中の「現成(げんじょう)公案」と「有時」の巻。

なんと後者「有時」って「存在・時間」ではないか。
実際、『存在と時間』を『有と時』と訳している翻訳書もあり(日本語としてはその方がしっくりくる)、性起は”現成”することと説明される。

奇しくも、20世紀最大の哲学者と日本史上最高の鎌倉時代の仏教哲学者が同じテーマを問題にしているのだ(人間にとって最重要の問題だから当然か)。
古今東西の智を総動員して存在の問題と格闘すること自体が、この世に人間(自分が存在していることに薄々気づいている稀有な存在者)として存在している意味の理解にも繋がり、やり甲斐を感じる。


そして、道元からではなく、ハイデガーから始めたいのは、ハイデガーの人間(現存在)モデルが、本当は”存在(自分が在る)”のことを真剣に考えたいのだが、その先にある「死」の不安に怯えてしまい、日常の忙しさに身を委ねて、結局時間を無駄にして歳だけとってしまった自分に焦る、という実に自分に等身大の姿だから。
このような現存在(私)でありながら、存在を考える、いや存在を噛み締めて生きていくにはどうしたらいいか、そこを一緒に考えてくれそうなのがハイデガーだから。
でもハイデガーの中だけでは回答が見つからず、きっと道元に行かなくてはならない気がするのだ。
※:ハイデガー自身が、西洋(古代ギリシャ)的思考だけでは無理で、その枠を脱して惑星(地球)的思考で取り組むべきだという地点まで達して息絶えた。

☞関連記事:書評『世界はなぜ「ある」のか』

☞次のステップの記事:ハイデガーから道元へ


大全集を持つ意味:追記

2024年09月20日 | 作品・作家評

しつこくで恐縮だが、読破した『大菩薩峠』を紙の本で所有していたら、1冊の厚さ1cmと少なめに見積もっても全巻41cmの分量になる。
小説は大作ほど二度とは読まないので、揃えて所有することに意味がない。
なので無料の青空文庫の電子書籍だから読破する気になれた次第。

こういう大全集を実際に持っているかというと、例えば雄山閣の『新編武蔵風土記稿』は索引冊含めて箱入り全13巻でこれも厚さ40cm近い。
ただこちらの本は旧武蔵国内の訪れた寺社の歴史を知る上でよく参照するので、持っていて損はない。

専門の心理学に関する本では、人文書院の『フロイト著作集』もほぼ全巻持っているが、重要なもの以外は読んでいない。
学術書の全集は、頭脳で格闘する必要があるので小説と違って暇つぶしで読み通すことはできない。
その著者自身を研究対象とするのでない限り、どうしても上のような状態になる。
なので『ハイデッガー全集』などは図書館に通って読もうとも思わない。


ちなみにコミック(漫画)は、繰り返し読めるので全巻揃えて損はない。
理由は、マクルーハンの表現で情報が”ホット”(高精細)であるため、一回の読書で全ての情報を認識できないためだ(読むたびに発見がある)。
といっても一般的に巻数が多いので、特に『ゴルゴ13』や『こち亀』を揃える気はしないし、コミックこそ電子書籍の方が読みやすい(持ち歩きもしやすい)。

それに今年は国会図書館でコミックを閲覧する機会を得て、これは今後も続けたい。


コミック以上に揃える価値があるのは音楽家の全集CDだ。
音楽こそ幾度も繰り返し聴けるので全く無駄にならない。

私は、『モーツァルト全集』CD170枚のボックス、『バッハ全集』もCD170枚のボックスを持っている(ともにドイツ製)。
この二つの全集を聴き通すだけで膨大な時間を要し、実際に自宅で聴くのはこの二人の全集ばかりとなっている。
むしろ、残りの人生も、この二人の全集を繰り返し聴くことで足りそうに思っている。

実際、『モーツァルト全集』はすでに聴き通し2巡目を終え、3巡目に入っている。
ただ少年時代のオペラ群(「イドメネオ」以前)は、音楽がたいして劇的でなく、素のセリフが多いので、セリフの内容がわからないと辛い。
一方『バッハ全集』は、170枚のうち70枚以上が同工異曲のカンタータなので、2巡目以降はカンタータ以外(「コーヒーカンタータ」を除く)の主に器楽曲を中心に聞いている(もちろん「マタイ受難曲」も含む)。


追記:記事のアップ後、思い出したことには、かつてアメリカテレビドラマのDVDにハマって連続して箱買いしていた(『ER』『Frends』)。
レンタルで借りる時間のズレさえ我慢できなかったため。
考えてみれば散財的にはこのDVD全集が一番大きい。
これは一種の熱病症状で、今は発症しない。


『大菩薩峠』を薦めるか

2024年09月16日 | 作品・作家評

昨日読了した中里介山の『大菩薩峠』の最後の記事。
その名は知っていても(昔は演劇や映画にもなったが今ではそれもないので知る人も少ないかも)、全巻読み通す人は稀だと思うので、その数少ない経験者の一人として、読書選択の一助となればと思い、読書案内で締めくくる(もちろんウィキペディアも参考に)。


まず、皆さんに読むことを薦めるか。
この本は今ではネットの「青空文庫」で無料で読めるので、仮に1巻500円とすると、41巻分20500円浮くし、1巻の厚さ1cmとすると41cmのスペースを使わずに済む。
即ちコスパは青空文庫の中でも群を抜いた最高レベル。
まずコスパ基準で”読まないと損”、と思う人は読むといい。
文体は口語で読みやすく、それでいて語彙の勉強にもなる。


次に、中身の吟味に入ろう。

⚫︎まず情報的価値として、歴史や地誌などの知識になるかというと、登場人物の皆さんが日本各地(北は青森の恐山から、南(西)は京都山科・大原、奈良の十津川まで)を転々とするものの、私にとっては情報として得たのは前の記事で示した愛知・名古屋についてのみ。
むしろ時代考証については、三田村鳶魚の批判(「中里介山の『大菩薩峠』」昭和7年:同じ青空文庫に所収)もある通り、はっきり言ってである。
なのでいわゆる”歴史小説”には属さない。
また各人物にゆかりのある地の中で、表題の大菩薩峠以外に、登場地として今でも名を馳せている(現地がこの小説と因縁付けている)のは、東京青梅の海禅寺(作中では海蔵寺)、同じく青梅の御嶽神社、山梨上野原の保福寺(作中では月見寺)、信州白骨温泉(この小説がこの温泉を一躍有名にした)などがある。
また青梅の裏宿にある七兵衛公園は、裏宿の七兵衛という実在した義民の地だが、小説にその名のまま登場して、大菩薩峠でお松を助け、多摩川沿いで竜之介の太刀をかわす。

⚫︎文学的価値として、感動があるかというと、ないことはない。
ただし最後の41巻まで待つ必要がある。

⚫︎娯楽的価値として、笑えるかというと、介山の解説に冗談・駄洒落はあるが、声を出して笑うほどではない。
またスリル・サスペンス、あるいはミステリーなどの要素もない。
机竜之介はいつの間にか人を切っているし、彼を仇として追う宇津木兵馬は、一向に追い付けない。
藤沢周平が得意とするような躍動的剣劇シーンはない。


人間描写については、時が幕末だけに、変革せざるを得ない人間が表現されている。

一番印象に残ったのは、自立した女性がきっちり描かれていること。
例えば、冒頭から登場するお松は、当初は周囲の言いなりだったが、次第に精神的に自立し、明治女性のように開明的に成長していく。
唯一の身寄りだった祖父が竜之介に惨殺されるシーンから始まるこの小説では、一人残された少女お松のその後の人生こそ本作の最も重要なストーリーともいえる。
あるいは、男たちを使いこなす経営手腕を誇るやり手興行師のお角。
登場人物のうちで誰よりも自我が強く(ただし屈折したメンタリティ)、実家の財をベースに理想郷を建設しようとする覆面のお銀様(作者はこの人だけ「様」付けで呼称)
いずれの女性も、経済的にも精神的にも男に依存しない(むしろ男の上に立つ)自立した女性たち。

一方、最初の数巻での主人公、血に飢えた剣豪・机竜之介は、次第に幽霊のように影が薄くなっていく(記述も幻想世界と混沌化していく)。
洋学を研究した駒井甚三郎は、ひと足さきに近代人となり、自作の蒸気船で日本を脱出するが、西洋人に西洋文明の限界と大乗仏教の空(くう)の哲学を教わり、茫然となる。
※:介山自身は、この大著を大衆小説ではなく「大乗小説」と性格づけている。私がこの大著を読みたくなったもう1つの理由(記事「『大菩薩峠』を読み始める」で言及)が、この大乗仏教的部分。

即ち、江戸から明治への変革期に相応しい、新しい日本人が描かれている。
といっても、みんなあちこち旅をしながら一筋縄では行かない人生を送る。
むしろ、それこそ、予定調和的物語とは異なる、リアリティある人間描写(あるいは大乗小説の主題)なのではないか。
介山にとって彼らは、作者から独立して、それぞれの人生(物語)を送る存在になっていく(だから収拾がつかなくなった)。
それを読む私にとっても、半年間を共にした愛すべき人たちだ。

かくも、『大菩薩峠』はこれほど私を語らしめる作品だった。


『大菩薩峠』全巻読破!

2024年09月15日 | 作品・作家評

世界最長の小説と謳われる中里介山著の『大菩薩峠』全41巻を、本日読了した。

これを読み始めたのは、今年の2月下旬→『大菩薩峠』を読み始める
その間、「18きっぷ」での東名間の片道6時間の鈍行車内を読書空間としたので、春・夏あわせて10往復すなわち60時間をこの読書に充てた。
今までの『ドグラマグラ』、『死霊』、『カラマーゾフの兄弟』などは、この18読書で間に合った。
ところが『大菩薩峠』はそれではとうてい足りず、ちょっとした電車やバスの車内でもこの読書に充てた。
言い換えると、通常の時間は、仕事や研究に関するするものに充てるので、暇な時間専用としたのだ。


さて、世界最長の小説を読破した、ということは果たして自慢になるか。
いや、日本文学に一定の知識ある人たちからは、「なんと、暇なこと」「ほかに読むべきものがあるだろう」とあきられること必定。
※:例えば『旧約聖書』『史記』『源氏物語』などが該当しよう。
確かに、これを読まずして「日本近代文学は語れない」というシロモノではなく、たぶん高校の”文学史”でも素通りされているだろう。
では、10000ページ、500万字を越えるという長さだけが取り柄なのか。


まず話の時代は安政5年(1858)から慶応3年(1867)年までの幕末の10年。
その10年を介山は30年以上かけて記した。
なぜ書く時間の方が長くなったのか。

それは、主役級の人物がどんどん増えていき、それでも当初は、それらの人びとが、不自然にも同じ地域に集まって出会っていたので、場面は1つで良かったのだが(→『大菩薩峠』を読んでみたら)、
その不自然さにきづいたのか、いやむしろ物語の自律性でそれぞれの主人公がそれぞれの人生を歩みはじめて離散していったため、主人公ごとの記述を、時間を重複してそれぞれ語り尽くすことになってしまったためだ。

言い換えれば、冒頭の大菩薩峠上で邂逅する、机竜之介と、彼に祖父を斬り殺されたお松と、お松を助けた七兵衛の3名を中心とした話で進まずに、彼らはその後出会う人たちの主人公群に埋没していく。
悪く言えば、収拾がつかなくなってしまった
その結果、1つの物語としての終結(落とし所)を見失うことになるわけで、
結果的に最長の小説、しかも作者の死によって未完となった訳だ。

なので実際、41巻目の最後の記述も、終息を示していない。
その意味で読後感はすっきりせず、読み終えたという達成感も得られない。
※:ただしこの拡散事態は、ある意味必然で、致命的欠点とはしたくない。その理由は次の記事で。


正直、読破して一番不満に思ったのは、表題の大菩薩峠(1897m)が、初回の竜之介の刃傷場面と、後にそこに地蔵を安置する場面しか登場しなかった事。
表題に惹かれて読んだ者として、これは裏切られた感が強い(介山自身は決して山岳に無関心な人でないのに)。

ならなぜ介山はこの表題をつけたのか。
ウィキペディアによると、介山が実際にこの峠を訪れたのは、執筆開始後12年経ってからという。ということはこの峠に特別な思いがあったわけではないようだ。

挿入追記:小説とは別の介山の『峠』という一文(青空文庫所収)によると、峠の原音は「たむけ」で、越える人が行く道・来た道に手をあわせる場所だという(柳田國男の説)。
すなわち、峠は上りと下りの中間にあり、象徴的には天上と地獄との間の人間の立場、更には上求菩提・下化衆生の菩薩の地位を示すという。
人生は旅であり、旅では峠を越える。
そこは回顧の場であり、希望の場である。
すなわち、峠こそ人生そのものを象徴しているという。
そして菩薩が遊化に来、外道が惑わしに来る場。
介山が前者への期待を込めるとすれば、なるほど『大菩薩峠』という表題が最も相応しい。
この表題は人生そのものを意味し、単なる固有名詞のあの峠を限定したものではなかったのだ。


筋(ストーリー)を追うことに意味がないならば、この小説を読む意味は那辺にあるか。
実はこの読書と一時期並行して読んだ本に、宮崎哲弥氏の『教養としての上級語彙』(新潮社)がある。
その書で紹介されている語彙に、『大菩薩峠』からの引用例があった。
それに触発されて、『大菩薩峠』で使われていて、私が意味を把握していない語彙を抜き出していったら、出てくるわ出てくるわ。
元々、専門の学術用語以外の語彙を増したいと思って宮崎氏の本を読んだのだが、その目的なら『大菩薩峠』こそぴったり(う〜ん、この場で自分の語彙力不足を痛感)

電子書籍なので、表記された単語はその場でネット検索でき、やってみるとネット辞書にもない語彙がずいぶんある。
もちろんその時代(明治〜戦前)を反映しての事情もあろうが、さらにネット検索して使用例を探すと、なんと『大菩薩峠』だけが使用例、という語彙の多いこと。
中には『大菩薩峠』での使用例のみで、意味の説明がないものも複数あった。

介山は作家デビューの前は小学校の国語教師をやっていて(ただし大学は出ていない)、その後新聞記者になったので、面目躍如というところか。
この小説は、発表当時、世間的に注目されたものの、”大衆小説”として文学作品の”格”が一段下に見られていた点で、介山は不満だったようだ
※:同じ青空文庫に『余は大衆作家にあらず』という一文がある。

介山自身の学歴コンプレックスもあって、あえて語彙力を衒(てら)ったのかとも思ったが、むしろ介山の語彙力を総動員した結果というべきだろう。


ちなみに、本書で使われた語彙・成句の中で、私が思わず膝を打ったものを紹介する。

まず「後ろ弁天前不動」。
これは後ろ姿が弁天様のように美しい女性を見て、期待して前にまわると…という場面に使う成句。

次に「一瓢を携えて」。
これは瓢箪に酒を入れて外出し、行き先でそれを味わう楽しみを含意している表現。現代人の行動表現には使えなさそうだが、実は瓢箪好きな私は、酒を入れて携帯できる瓢箪を入手しているので、これをぜひ実行して、ブログでこの表現を使ってみたい。

その他として、愛知県の”愛知”の由来は高尚な「フィロソフィ(知を愛す)」ではなく、年魚市(あいち)だということ。
そして名古屋は都会なので「名府」とも表現できること(これも使ってみたい)。
さらに、「天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作られる」と介山に言わしめている点も、かの地で女子教育に携わっている身として励みになった。

あるいは「火事の時は、明るい方へ逃げないで、暗い方へ逃げるもの」という教えは夜間の宿泊ホテル火災時に役立つ。

面白いと思ったのはオノマトペ(擬音語・擬態語)で
戸を叩く音はトントンではなく「ホトホト」(安普請の薄い戸だとこっちの音に近いか)。
硬いものが触れる音はカタカタではなく「戞々(かつかつ)」。
ゆっくり歩くのは「ホクホク」。
よろめきながら歩くのは「タドタド」(ドタドタとは正反対の様態で、「辿々しい」から来ているようだ)。

あと自分が今まで勘違いしていた言葉として
飯事(ままごと):幼児とりわけ女児の遊びの「おままごと」は、ママ(母)の真似をすることかと思っていたが、ちゃんとした日本語で、飯(まま)即ち食事の真似事ということだった。「まんま」という表現もここから来ているようだ。
ふり(振り)の客:フリー(無料:買い物をしない)の客という言葉ではなく、これも歴とした日本語で「紹介や予約なしに来た客」という意味。

かように、長くつきあっただけに、出会った語彙も多く、語彙収集という思わぬ余禄にあずかることができた。
語彙を増やしたかった私に、渡りに舟だった。

『大菩薩峠』を薦めるか


国会図書館で25冊読み通したコミックは

2024年08月26日 | 作品・作家評

この8月、国会図書館に通って、今携わっている「霊視認」研究の参考のために、毎日コミックを読み通してきた。
なにしろ霊視認という現象は論文はもとより、活字本でも扱いが少ない。
一方、コミックだとかなり資料がある。
その元となっているのが、『HONKOWA—ほん怖—』という実話心霊コミック誌らしい。
もちろん霊の存在を前提とする「心霊科学」(と称する心霊論)についてはいくつか目を通して来たが、
本来的に幽霊話(怪談)は好きでない(映画もホラーは絶対観ない)。
個人的に恐怖を楽しめない私は、上のコミック誌を手にしたことはなかった。
※:そのくせ、楽しまれる恐怖の論文を書いて、注目された(雑誌掲載、テレビ出演)ことがある。


知りたいのはホラーではなく、あくまで実話としての霊現象なので、
それに相応しいコミック(掲載済みの単行本)をまずは読むことにした。
読んだ順に示すと、
永久保貴一『阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末』全6巻、
同『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』5巻、
伊藤三巳華『視えるんです。』全7巻、
山本まゆり・寺尾玲子『会社員だけど霊能者修行始めました』5巻,
これらを電子書籍版で購入して読んできた。
※:「全」がついているのは終結した作品、それ以外は読んだ巻数

これらの中で霊視認者自身のものは『視えるんです。』だが、
より広く実際の霊の挙動や霊能者による霊に対する対応例を知りたかった。


そこで霊能者・寺尾玲子氏の心霊相談を描いた『魔百合の恐怖報告』シリーズ(山本まゆり画)を読みたくなったのだが、
量(巻数)の多さに怖気付いて個人購入は諦め、国会図書館での閲覧と相なった。
この本は、上の雑誌に掲載された作品を後年になって編集したもので、
国会図書館にある蔵書は2009年から2023年までの分。
その量全部で25冊!
どれもが1冊400ページ強、もちろんコミックなので、ページあたりの文字数は少ないが、
それでも昼前から夕方までの図書館内で1日あたり3冊読むのが限度だった
(本編に付随している関係者(登場者)たちの裏話である「TeaTimeTalk」もとても参考になった)。
研究の参考として読むのだから、漫然と読むのではなく、私のいつもの読書パターン通り、
ワードのアウトライン画面で、構造的に記録すべき内容を抜き出す(書き写す)。


一番参考にしたコミックが、購入せずに図書館で閲覧しただけというのも申し訳ないが、いかんせん購入するには量が多すぎた。
そしてこの25冊をその場で無料で読めるのだから、国会図書館ってほんとにありがたい。

これを読んでいる期間中は、頭の中が心霊現象で充満した。
せっかくなので霊視認者を含めた霊の在り方・関わり方を整理してみる。
霊についての概観