今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

作法・礼法講座2:マナーとルール

2020年09月28日 | 作法

作法(マナー)の”法”は文字通り”やり方”(manner)であって、法(ルール)を意味するのではない。
つまり、作法は、やらなくてはいけない”決まり”ではない。
むしろ法(ルール)による強制を拒否する精神の現れだ。
この問題を論じたい。

【法治主義】
日本は「法治国家」である。
法による支配を謳う法治主義は、権力者の恣意的な支配、すなわち人治主義に対する意味で使われており、その意味においては、私も是とする。
ただ、法治主義は、一段具体的には、たとえば「罪刑法定主義」であり、法文に載っていない禁止行為を罪とすることはできないものである。
この論理の裏を返すと、法文に載っていない行為は、違法行為にならないので、罪とならない。
ぶっちゃけていえば、法律で禁じられていない行為は、何をやってもいいということだ。

なので当然、現行法の網をくぐって、グレーゾーンでやりたいことをやる人が出てくる。
それで迷惑・不都合が発生するので、法改正して、新たな禁止行為が法律で規定される。
これが繰り返されると、結局、どんどん法規制が増える一方となり、人々の行為はがんじがらめにされる。
無節操と厳罰化のシーソーゲームだ。

以上が、法治主義の論理だ。

【礼治主義】
実は法治主義という言葉は近代的概念ではなく、古代中国からあった。
儒家と法家との論争のテーマとして。
周の時代の礼治(徳治)を模範としたい儒家は、その実現に礼をもって治めることをよしとする。
これを礼治主義という。
そこには人々は、率先してきちんとふるまうという性善説が前提になっている。

それに対し、性悪説にたつ法家は、人の心に期待せず、一律の法による規制での治世を主張した。
これが法治主義である。
韓非子の法治主義を採用した秦が、初めての統一王朝を樹立したのだから、ここまででみると争鳴した諸子百家の中で法治主義が最終勝利したといえる。

だが、秦は始皇帝の一代で滅んだ。
つまり上の意味の法治主義による支配は支持されなかった。
それに続く漢王朝は、儒教を国教として(ということは礼治主義を奉じて)400年も続く※。

※漢の前期王朝(前漢)を滅ぼし「新」を打ち立てた王莽も儒教主義だったので、文脈上は漢の続きでよい。

では、儒教が理想とする礼治主義とはいかなるものか。
『礼記』によれば、民を刑罰をもって治めれば、民は恥を知ることもないが、礼をもって治めれば、恥を知って行為も正しくなるという。
その礼とは、節、すなわち過大と過小を慎み、中庸に収まる態度で、その逆は”無節操”である。

つまり法治主義は、民の無節操状態を刑罰によって力まかせに抑制しようとするものだが、礼治主義は民に節度を育むことによって、無節操を内側からなくそうとするものである。
だから礼治主義が実現すれば、皆、自発的に節度を守るため、刑罰が不要になる。
無節操と厳罰化の法治社会とどっちが住みよいだろうか。

もっとも、儒家もすべての民に礼を身に付かせることは現実的には無理だとわかっていた。
「衣食足りて礼節を知る」(論語)と孔子が言ったように、衣食を賄うだけで精いっぱいの庶民(下層民)には、「悪い事をしなければそれでいい」という法治主義でよいとした。
そして庶民の上に立つ士(大夫)に限って、礼でもって身を修めることを求めた。
すなわち「礼は庶人に下らず。刑は大夫に上らず」(礼記)と、庶民に対しては法治主義、士に対しては礼治主義の使い分けを求めた(そして礼治者には法治が不要であることも含意されている)。

ところが、長い目でみると、社会階層は流動化する。
生産性が高まり、衣食が足りると、庶民階級も上昇志向をもち、「士」を目指すようになる。
そこで庶民は士が占有していた礼を率先して身につけようとする。
日本の江戸時代がそうだった。
当時、武士階級は、藩校などで礼法を学んだ。
農民は、子女を武家に奉公に出して、武士から礼法を学んだ。
裕福になった町人は町の礼法教室に通うようになった。
その結果、”礼を身につけた庶民”という、大陸の儒家が想定しなかった人たちが、この島国日本に誕生した。

幕末、日本にやってきた西洋人が、一様に驚いたのは、庶民階級の女性たちが、母国の貴婦人(レディー)のように優雅な立ち居振る舞いをすることだった(日本女性の高評価はここから始まる)。
彼女たちは、テーブルマナーも完璧で、無学どころか、ひらがなの字を読み、和歌や俳句という韻文詩を吟じる。

嬉しいことに、現代においても、日本人は一定水準以上の礼を保っている。

道路脇の無人販売所が存在し、街中の至る所に自販機がおいてある。
これは世界でも類をみない風景だ。

この風景は、「道に金が落ちていても、誰も拾おうとしない」という、古代中国でたとえられた、民の生活が満ち足りて礼が行きわたっている理想状態に等しい。
その状態が日本で実現しているのだ。

”法治主義”が社会のあるべき最終形ではない、とうことを日本が示していると思う※。

※孔子様が現代に蘇ったら、私は、「あなたの故郷の国とこの日本と、どちらがあなたの理想に近いですか?」と問うてみたい。

今年においても、日本は法的に外出禁止措置などを取らず、すなわちルール化しないでマナーレベルでの対応を求めるに留まった。
そして見事にほとんどの日本人は、自発的にマスク着用というマナーを実行している。

これを日本社会の「同調圧」と解釈する向きもあるが、私は日本人の高度なマナー意識の現れと見ている。

こんなすばらしい日本だからこそ、それを数百年間育んできた日本オリジナルの伝統的礼法を、今一度きちんと理解するのも無駄ではないと思う。

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作法・礼法講座1:礼とは

2020年09月26日 | 作法

このブログでは、私にとって専門的ながら学術論文よりは一段一般向けの話題、しかもデータやテキストの分析を要しない、自分の頭だけで語れる内容を開陳している。
今まで、本来の専門である心理学(たとえば「心の多重過程モデル」)や、気象・防災、あるいは温泉について、連載などにして、ある程度つっこんで語ってきた。

それらを含む私の一定以上の専門領域の中で、作法についてだけは、積極的に語ってこなかった。
世間のマナー的問題を口酸っぱく語ることは極力したくなかったためだが、作法の研究者の一人としては、作法の”本質的な問題”というのが、世間ではなかなか論じられていないことも気になっていて、細かな作法より、もっと基本部分を語った方が、意味がありそうな気がしてきた。

そいういうわけで、まず、自分が準拠している小笠原流礼法をベースにして語りたいが、小笠原流礼法の伝達者(教室の先生)としてではなく、より一般的な作法の視点を付け加えていく。

まず、作法(manners)とは、動作(行為)のやり方(manner)の集合を指す一般名称とする。
なので作法は、世界中にそれぞれの作法が分布している。
その作法の中で、「礼法」と名乗るのは、儒教の「礼」という価値の実現を目的とする作法の1つに限定する。
そういうわけで、本記事でも作法と礼法を上の意味で使い分ける(礼法は作法の部分集合なので、礼法は作法でもある)。
小笠原流礼法もその意味での礼法である。

このように、学術レベルで論じるには、定義をきちんとしなくてはならない。

では礼法とは何か。
法は”やり方”であるから、問題は”礼”だ。

礼の定義は、まさに『礼記』(らいき)※に載っている。

※礼記:儒教の教典で、礼についての基本テキスト(三礼)の1つ(他に周礼、儀礼)。前漢時代(前1世紀)に編纂された世界最古の作法書といってもいい(礼記より古いといわれる周礼・儀礼は作法の個別書で一般書ではない)。

『礼記』の冒頭(曲礼・上編)は、「敬せざるなかれ」で始まる。
すなわち、敬の二重否定(不在の否定)という強い肯定である。
礼とは、する、という心の表現行為と規定されている。
敬という気持ちを、形にして表現したものである。

言い換えれば、敬のない形だけでは礼ではない。
形だけの作法は、動作法の練習、身体運動でしかなく、それは礼を満たしていない。

また、内心に敬があっても形としないのも礼ではない。
心(気持ち)さえあれば形はどうでもよいという心理主義が否定される。
礼とは、表現行為、コミュニケーションなのだ。
そもそも、気持ちは内に満ちているなら、表にあふれ出るものである。
そこまでいかずに抑制できるレベルの気持ちは”無い”に等しい。
すなわち心理主義は、心理学的に否定できる。

なので、敬の気持ちがあれば、それは表現せずにはいられない。
それが本来の人の心であり、その素直な心を「」という。
この誠が敬を形にさせる力である。
敬と誠が、礼を実現する。
礼は敬と誠から成っている。

以上が、『礼記』による礼の説明である。
礼法を教える先生方も、礼法をここから初めてほしい。
そして自分の礼法が敬と誠を準拠にしているか、自問してほしい。

礼=敬
この図式は、東洋の「礼法」だけに限定されない。
16世紀にヨーロッパ中にひろまった作法書『ガラテーオ』※は、もちろん儒教の礼とは無縁だが、

※ガラテーオ:Il,Galateo. Della Casa(1503.1556)の作。 以来この書名が作法の代名詞となり、イタリアでは作法のことをgalateoという。実際、私がイタリア人から大学で何を教えているのかと尋ねられた時、mannersと答えても相手はピンとこなかったが、galateoと言い直したら納得してくれた。池田廉氏の邦訳(春秋社)がある。

その『ガラテーオ』は、最も不作法(非礼)なこととして、「人を軽蔑すること」を挙げている。
人に対して怒ることは、まだこちらに正義があるから許される。
しかし、人を軽蔑することは、こちらにまったく正義がなく、この行為が許される理由がないという。
もちろん軽蔑は、敬の正反対の気持ちであるから、感情−論理的に『ガラテーオ』も人を敬すべしと言っていることになる。
礼は、儒教的礼法を超えて、普遍的作法の真髄に達している。

では敬の対象は何か。
『礼記』が説くには、他者はもちろんであるが、自分自身、自分の身体をも敬せという。
なぜなら、親からもらった我が「身体髪膚」は、(最重要の儒教倫理)の対象※となるからだ。

※:この理由部分の出典は『孝経』。日本人が入れ墨(タトゥー)を嫌うようになったのは、室町以降に成立し拡散した儒教的礼法の影響といえる。なぜなら卑弥呼の時代や縄文時代は入れ墨や抜歯を習慣としていた。

まず、自分を敬す、そして自分の周囲、物を含めて、すべてを敬す。
かくして、自分の生きている世界が、敬するものに囲まれていることに気づく。
だから、礼法をやると、敬や誠の心が活性化し、その結果、幸せな気分になる。

作法家はどうしても世の不作法について文句を言いたくなるものだが、それに専従すると肝心の敬の心から離れてしまうので要注意。

作法家ならずとも、上から目線で、作法を知らない人をバカにする人がいたら、その人は、作法の知識だけはあっても、敬という作法・礼法の心とは無縁で、しかも幸せではなさそうなことが、以上からわかる。

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研究より授業

2020年09月22日 | お仕事

勤務先の大学の後期授業が始まった。
そう、この連休中に!(授業回数を確保するため、連休返上)。

私の授業は明日が初日だが、その準備のため私も連休返上で出勤。

対面併用のオンライン授業の準備。
前期は、教員も出校がままならなかったので、自宅でオンデマンド授業の教材をアップし続けた。

後期は、少しは本来あるべき対面に近づけるべく、登校可能な学生には対面で授業をし、そうでない学生には、オンラインで同時に配信する(ネット負荷をさげるために、画面資料は事前にネット配信し、音声のみリアルタイム)。

こういう準備をしている最中に、なんと研究室のデスクトップパソコンが起動不能に陥った。
泣きっ面に蜂というヤツだ。
使っていなかった旧式のノートパソコンをモニターにつないで、なんとかしのいでいる(パソコンは予備が必須)。

さらに、今日は、論文原稿の締め日だったが、8,9月とそれどころでない事態が続いたため(記事にはしていない)、投稿は諦めていた。

コロナ禍による授業形態の変更で、すべての担当授業を再構築しなければならない。
なので自分の研究は、しばらくおあずけだ。


半沢の”倍返し”は行動経済学的に正しい

2020年09月13日 | 心理学

前回の記事に続いて、テレビ放映でも「半沢直樹」はクライマックスに向っていることもあり、”旬”なうちに記事にしておきたい話題がある。

半沢で一番有名なセリフは「やられたらやり返す。倍返しだ!」(現シリーズではあまり出ないが)。

このセリフが共感を持たれていることもわかるが、なぜ”返し”、すなわちやられた分の2倍の報復をしたいのか、それって過剰な報復ではないのか、という疑問は湧かないだろうか。

実は、半沢の倍返しは、行動経済学で理論的に正当化できる。
「価値関数の損失回避性」という人間の行動心理傾向によってである。
この現象は、「損失は同額の利得よりも強く評価される」というもの。

※1:行動経済学は、合理的行動しかしない経済学的人間を前提とした従来の経済学に対して、感情や認知の偏り(バイアス)を含めた心理学的人間をモデルにした新しい経済学。21世紀になって発展した経済学で、経済学に無縁だった心理学者がノーベル経済学賞を受賞した。現在、バナナマンが出演しているCMにもこの言葉が使われている。ちなみに、本記事の内容は、大学での1年生向けの社会心理学の授業で紹介している。

抽象的で判りにくい表現なので、具体的に示すと、
仮に1万円得た”喜び”を数値化して+1とすると(オトナにとってはみみっちい額だが、例としてわかりやすくするため)
その逆の1万円損失した場合の”苦痛”は、従来の合理的経済学では、同じ1万円だから−1と換算される(お金に色はついていない※)。

※2:行動経済学では、お金に色がついている。苦労して得た10万円は大事に使うが、偶然得た10万円は、パーッと使ってしまう。同じ10万円でも心理的価値が異なるのだ。だから給付金は消費効果がある。

ところが、人間の経済行動の心理的原因を探る行動経済学が実証的に研究したところ、人は損失の苦痛を過大に評価し、それを避ける行動を優先するという※
たとえば、利得を得ようとリスクをとるよりも、損失を避けることを優先する。
また損失が”確定する”のを避ける傾向もある。
これが「損失回避性」である。
ここまででは、まだ「倍返し」に結びつかない。

※3:この理論は一般状況向けであり、損を覚悟で大穴に賭けたり、当らないのに宝くじを買い続ける行動については、行動経済学の別の心理メカニズムで説明される。

そこで、先の「損失の苦痛は過大に評価」という部分に着目する。
まずこの心理傾向が、損失回避性の原因であることがわかる。
実証的な行動経済学では、実際の人間を使って心理学的手法でデータをとるのだが、それによると、
損失の苦痛の”強さ”は、利得の喜びの”強さ”に比べて2倍から2.5倍強いことがわかった。
これが”過大に”という部分になる。

すなわち、1万円得した場合の喜びが+1とした場合、同額の損失した場合の苦痛は−1ではなく−2以上なのだ。
ということは、1万円損失した心的被害が、それ以前の0に回復するには、損失額と同額の+1では足りず、少なくともその倍の+2が必要となる。

だんだんわかってきたでしょう?

実際、1万円盗まれた後、犯人から1万円返却されれば、盗まれた側は、それで気がおさまるだろうか。
法律(民法)の世界では、すでにこの心理メカニズムが考慮されていて、損害を受けた場合、同額の賠償に、”慰謝料”すなわち精神的苦痛の相当額が加算される。
ただ法的には、慰謝料の換算(精神的苦痛相当額)は、過去の判例が基準になるだけで、心理的苦痛の固有の計算式はない。

それに対して、21世紀の行動経済学は”価値関数”という心理量を表す関数(実証結果で得た関数)によって、実損に対する精神的苦痛部分を算出できる。
この価値関数は、利得(2次元座標空間における横軸の右側)の場合の価値評価(縦軸の上側)に対して(y=x)、損失(横軸の左側)の場合の価値評価(縦軸の下側)は2倍の傾斜になる(y=-2x)。
この関数で利得が1万円(x=+1)のとき、価値評価を1万円分(y=+1)とした場合、損失額が1万円(x=-1)のとき、価値評価は−2万円分(y=-2)となる。
その内訳は、実損(賠償)額は-1万円で、実損に付加させる精神的苦痛(慰謝料)の加算部分が同額の-1万円である。
1万円盗まれたら、倍の2万円もらわないと、心理的には割りが合わない、ことになる。
だから、やられたら、やり返すのは「倍返し」となる。
というわけで、半沢の「倍返し」は、行動経済学的に正当化できる。

ところが、半沢は時に調子に乗って「10倍返し」だの「100倍返し」だののたまうことがあった(過去シリーズ)。
残念ながら、これは理論的には正当化されない(せいぜい2.5倍の繰り上げである3倍まで)。

ついでに、われわれが損失の”確定”も回避するのは、使わなくなった購入品が高額であるほど、捨てる(=損失の確定)までの期間が長いことで実証されている。
私自身もユニクロレベルの古着は簡単に捨てられるが、バブルの頃に大枚はたいて買ったブランド物のスーツはいまだに捨てられずにワードローブに下ったままだ。

行動経済学は、損をしたくないと切に願う人間が、それなのに平気で損をする行動をとってしまう哀しい性(さが)を見事に説明してくれる。
言い換えれば、合理的経済学が、経済学的には”正解”であることには変りがない。
さらに言い換えれば、生身の人間は、経済合理性だけでは動かないよ、ということだ。


虹を2倍楽しもう

2020年09月07日 | お天気

台風周辺域のような所では、雨が降ったり止んだり。
降る時はドバーッと降り、止むと日が差す。
水平よりも垂直に拡がった積乱雲のためだ。
こういうメリハリのある雨の日は、虹が発生しやすい。

実際、夕方に東京で虹が見えた。
虹は出ている太陽を背にして、正面の雨雲がスクリーン状に拡がった側に見える。
要するに、天の前半分が雨雲で、後ろ半分が晴れの状態。

グレー系の雲が拡がる空に、カラフルな虹が天をまたぐのだから、その物理現象を知っていても、不思議な気持ちになる。
少なくとも”見て得した”と思うはず。

その得した気分を二倍にできる。

虹を見つけたら、その外側にもうひとつ虹を探そう。

その虹、ちょっと薄めなので、あると信じて目を凝らして探してほしい。
色の並びが、内側の虹(主虹)の逆順になっている。
ということは主虹の一番外側はだから、その外側の虹、すなわち副虹の内側もになっていて、二つの虹はで向かい合っているのだ(ネットで見つけた右図は図式的で、実際には外側の副虹はかなり薄い)。
主虹の赤からちょっと離れた外側に、うすい赤があるものと思って探してみよう。

※「副虹」の読みは、主虹 (シュコウ)に対しては”フクコウ”だが、発音的にピンとこないので、それ単独なら”ふくにじ”でいい。私はそう呼んでいる。

そして副虹が見つかったら、今一度虹のある空を見渡してみる。
主虹の外側にさらに直径が大きな副虹が拡がっていて、
天空に架かる壮大な”虹の二重橋”を見ることができる。
これで眼福も二倍というもの。

関連記事→虹の色はいくつ?


なぜ台風の進路がわかるのか

2020年09月06日 | お天気

地震と違って、気象災害は予測可能である。
もちろん100%正確ではないが、雨量や風速、それに台風を含む低気圧の移動方向・速度まで予測可能である。
だからこそ、気象災害はもっと被害を防ぐことが可能だ。

さて、過去最大級といわれている台風10号が、北西方向の進路を北に切り替えて、九州の西側を通過すると予測されている。
なぜその方向転換まで予測できるのか。

根拠は、台風を動かす力の分布による。
台風は地上から上空10000メートルに達する超巨大な積乱雲の塊で、自ら反時計回りに回転しながら、海上の水蒸気を吸い上げ、それが雨滴に相変化する時の熱エネルギーによって強い上昇気流(=積乱雲)を発生して周囲の空気を吸い上げ、さらにそれが莫大な空気の運動エネルギーを生み出している。

台風本体は回転しているだけなのだが(この回転〔スピン)力は地球の自転(スピン)に由来)、台風自身が吸い込むのは温かく湿った南風成分が多いので、自ら北上する運動性をもつ(速度は遅い)。
ただ、今の時期は、北側に大きく張り出した太平洋高気圧に邪魔され、高気圧からの風でその切れ目である西側に方向転換させられる。
その方向の先が日本なのだ。
南東の太平洋から日本に接近してきた台風10号は、奄美諸島に達すると、今度は北に方向転換して、九州に向う。
なぜか。

高気圧圏から離れて、台風を動かす別の力が新たに働くから。
その仕組みがわかるのが、通常の天気予報には紹介されない、高層天気図
気象予報士のアンチョコといってもいいくらい重要な情報源。

高層天気図にも幾つかあるが、台風進路予想に使うのは、最も高層の上空300hPaの図(右は5日21時の図の一部)。
左上の9600というのが地上からの高さ9600mで、すなわち上空9600m前後の等圧面の図。
九州の南には、台風10号を示す実線の円が地上天気図ほどの存在感はないが、明確に存在している(逆にそれ以外の地上低気圧は存在していない。ついでに右端のHが太平洋高気圧で、左側9600の下の太線内がチベット高気圧。先月まで両高気圧が日本の真上で合体していた)
海抜0mの等高面である地上天気図と同じく風を示す矢羽根がある。
台風の真北にある矢羽根は、南東風なので進路でいうと北西を指しているが、その北の九州上空の2つの矢羽根は南南東から南、進路にすると北北西から真北になっている。
ここが台風の進路変更のポイントだ。
ではなぜ、そこで風向が変化するのか。

九州の左(西)に目をやって、東シナ海・揚子江の河口付近まで垂れ下がった太い実線を見てほしい。
これはまさに9600mの等高線なのだが、その等高線の左(西)側も右(東)側もほぼ線と平行に矢羽根が並んでいる。
つまり、揚子江の河口上空で風が北向きから南向きに折り返している。
しかも周囲より風速が高い(図の点線が等風速線で、線上の数値は風速(ノット))。
東アジア上空を横断するこのダイナミックな風こそが、「ジェット気流」だ(点線が平行に混んだ部分)。
地上では過去最大級を騒がれる台風10号といえども、この大気圏最強のジェット気流には逆らえない。
点線の等風速線を見ると、台風の東側は40ノット(20m/s)だが、朝鮮半島北東のジェット気流は60〜100ノット(30-50m/s)。
このように上空のジェット気流は、常時地上の”強い”台風並みの強さで吹いている。

つまり、奄美諸島に達した台風10号は、それまでのマイペースを維持できず、ここから先はジェット気流に吸い込まれる運命なのだ。
ジェット気流に吸い込まれるので、台風は風向だけでなく、移動速度も高まる。
そして朝鮮半島に上陸してからは、海上からのエネルギー供給がなくなるので、急速に衰弱する。
以上の過程が、この図からわかる(より正確な予測は、この後の高層天気図によるべき)。
少なくとも台風10号が近畿以東に来ることはないと断言できる。

テレビのお天気番組は、せっかく国家試験に合格した気象予報士さんがいるのだから、こういう詳しい情報を解説してくれた方がいいと思う。
なぜなら、これら高層天気図など専門的気象情報は今では、ネットで誰でも見ることができるのだ。
地上天気図と3時間ごとのピンポイント予報以上の詳しい情報を得ようと思えば、今は誰でも得られるのだから。


閉園を惜しむのはなぜか

2020年09月01日 | 時事

東京民には感慨深い「豊島園の閉園」。
私も子どもの頃は、行った頻度は近場の後楽園遊園地が多かったが、好きだったのは豊島園だった。
ただ大きくなって、とりわけ TDLがオープンしてからは、選択肢から外れて久しい。
そんな自分でも、昨日の豊島園閉園のニュースに心痛めた。

実はこの”終焉”に対する哀惜は、豊島園に限った話ではない。
こういう終わり事(廃線、取り壊し)が起きるといつも哀惜の情が湧き上がる。
格別思い入れがない対象に対しても。

なぜそうなるのか。
希少性が増すほど(終了は希少性が無限大)主観的価値が上がるという行動経済学的説明も可能だが、
ここではあえて存在論的説明をしたい。

存在とは、存在し続けることなので、在ることが当たり前(デフォルト)になっていく。
永遠に存在するかのように。

ハイデガーによると、われわれ"現存在 "という存在者(存在するモノ)は、同じ存在者でも机やゾウリムシと違って、
存在を了解する能力があるのに、その存在についてきちんと対応しないで、「存在忘却」してしまうという。
"それが存在すること"の驚異や唯一性が忘却される。
その結果、あふれるほどの存在するモノに囲まれながら、われわれはそれらの存在を忘却している
(存在をデフォルト化し、なんとも思わない)。

それが存在の終焉を迎えてはじめて、
遅まきながら、その存在を、慌てて実感、いや痛感する。
存在忘却していたことの後悔を伴って。

日頃は存在忘却しているから、失わないと気づけない。
私も「豊島園」を存在忘却していた。

失って気づく、それが在ることの”有り難さ”。
「ありがとう」の語源である”有り難し”とは、存在論的用語なのだ。

もっと日頃から存在を実感していたらよかったのに。
誰しもがそう後悔する。
ハイデガーによれば、存在忘却せず、存在に直面し実感することが、われわれ”現存在”の本来的在り方だという。
だから後悔は、自分が非本来的な生き方をしてきたことをも後悔しているのだ。

ただ、”忙しさ”と”暇つぶし”で埋めてしまう日常生活は、われわれを非本来性に頽落させてしまう
(このブログの読者にはお分かりのように、だから「瞑想のスゝメ」につながる)

すべての存在は、永遠ではなく、”無くなること”から免れえない。
だから存在は本質的に”有り難い”。
無くなる前に、普段、在るうちに、感謝できたらいいのに。