今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私がまわる会津若松

2007年08月30日 | 小笠原氏史跡の旅

雨の裏磐梯の宿を午前10時にチェックアウトして、その足で帰ると帰宅が早すぎる。
なので会津若松に出ることにした。
会津若松と言えば、一般的には”戊辰戦争の白虎隊”の地だろうが、私にとって小笠原家ゆかりの地のひとつ。
なぜなら、そこは小笠原流礼法の大成者である小笠原長時(室町末期の信濃守護)終焉の地であり、研究半分で「小笠原氏史跡の旅」をしている私としては、ぜひその墓参をしたい。

若松駅で旅荷をロッカーに預け、レンタサイクルを借りようとしたら、降水確率で雨になりそうだからと言って貸し渋られる(予報士の判断としては、この空模様では本格的な雨にはならないのだが)。
なので駅前から出ている市内周遊バスに乗った。
ところが、この周遊バス、他地域のコミュニティバスと同じで、停留所がやたら多く、ものすごく時間がかかる。
しかも降りたいバス停でいうと反対廻りの便なのでなおさら。
後悔先に立たずだが、「慶山入口」で降りて、バス停数個分を歩く。
慶山のバス停をすぎて大龍寺に到着(白虎隊の墓と武家屋敷の間にあるのだが観光客はいない)。
境内に入ると、左手に「小笠原長時と室・息女の墓」と立札がある。
その真後ろ、意外に古びていない立派な2つの墓がそれ。
線香の跡と枯れた花があった。私はまたしても(毎度のこと)花を持参せず。
せめても線香代にとコインを両墓に置いてきた。

つぎは南の天寧寺。
ここには近藤勇の墓がある。
こっちは完全な個人的興味で、土方歳三を皮切りに新選組など佐幕派の跡も追っている。
ポケットパソコンMioのGPSナビによると、バス道を通らなくても、山側の細い道伝いに行った方が近い。
Mioのナビを頼りに、愛宕神社の参道を横切り、細い道を進むと舗装でなくなってくる。
墓地に出くわした所で、道は完全な土の山道(レンタサイクルでは無理だった)。
登る方の道は廃道みたいなので、下る方の道をとると正伝寺という手前の寺に出てしまった(つまり墓地は正伝寺の)。
登り直して、「近藤勇の墓」という道標をたよりに、山道を登ると、墓の案内板があり、近藤辞世の漢詩の碑があり、その奥に立派な墓が建っている。
その脇には、近年、地元のライオンズクラブの人たちが建てた土方歳三(会津藩のためにこの地で戦った)の供養塔が並んでいる。
近藤の墓は、三鷹の竜源寺(胴体が埋葬)と板橋にあるが、ここは頭部が埋っているという(異説あり)。
少なくとも建立時期は一番早く、生前に土方が墓参した唯一の墓。
「貫天院殿純忠誠義大居士」という近藤の生きざまそのものの戒名によって斬首された勇の霊も少しは浮かばれよう。
長時の墓と異なり、こちらは献花も真新しく、新選組ゆかりの地には必ずある墓参者が書き記すノートも数冊分たまっている。
私が去る時にも、父娘連れがやってきた。
新選組は会津の人たちには人気ないと思ってたが、今では他の地と同様な人気らしい(新選組ファンが全国からやってくるともいえる)。
今では、4月25日の命日には供養祭も行われるという。

墓を後にして、天寧寺の本堂に近づいた時、「豊津南高梅」なる札があり、脇に「福岡県立 豊津高等学校」と書いてある。
福岡の豊津といえば、われらが”小笠原藩”ではないか。
「なぜここ会津に豊津高校が…」と解せないまま、更に下り、境内の案内として「萱野権兵衛父子の墓」の説明板があった。
それを見ると、会津藩敗戦の責をとり自害した萱野権兵衛の次男、郡(こおり)長正は明治3年に会津から豊津小笠原藩の藩校育徳館に留学した(なぜそんな遠くへ?)。
郷愁を母に訴えた手紙の母からの返事を同輩たち見られ、面前でののしられた。
長正はそれを苦に切腹したという。
ある意味立派に士道を貫いたが、夫と息子を亡くした母の心境はいかばかりか。
この話、そういえば昨年出張で行った福岡県豊津町の図書館で、地元の人が書いた本に載っていた。
豊津には小笠原流礼法の資料を探しに行ったので、このエピソードはその場で読んだだけだったが。

今会津若松に来てみると、長時とは別の会津と小笠原の縁として意味をもっていることが分かった。
その藩校の後裔である豊津高校から記念樹ということなのか。
それならば長正の墓に手を合わせないわけには行かない。
墓地への坂を登り直して、汗だくになりながら、きれいに管理されてはいるが参拝者の形跡は乏しい郡長正の墓前に達した(写真)。
献花も線香もないまま、彼の無念(母の無念も)を少しでも慰めたく、ただ手を合わせた。

実は会津と小笠原との関係はこれだけではない。
長時がこの地でどれほど礼法を広めたかは、まったく不明だが、江戸時代にはいって藩校などで小笠原流礼法が教えられ、また奥の只見地方でも小笠原流礼法の巻物が残っている。
葦名氏と同時期の小笠原長時の足跡はほとんど忘れられているが、武士道を重んじる風土ゆえか、ここ会津には確かに小笠原流礼法が残っている。
県立博物館には、その巻物の展示はなかった(鶴ヶ城には昔行ったのでオミット)。
隣の図書館にいって「只見町史」を探したら、資料編に小笠原流礼法の書が少しだけ翻刻されていた。
それをコピーできたのは「小笠原氏史跡の旅」として成果。
結局、雨らしい雨は降らないまま、タクシーを拾って駅に戻った。


惜夏之旅

2007年08月29日 | 
勤務先は9月下旬から後期授業開始で、それまでは一応「夏期休業」なので、夏休みでいえばまだまだ中間といったところなのだが、
心が少年の私には、やはり8月末になると夏休みが終りの気分。
往く夏を惜しんで少々センチ(感傷的)になる。
それなのに8月に入って旅行に行かず、”これぞ夏休み”という体験をしなかった。
そこで、急きょ裏磐梯に2泊しに行った。

往く夏を惜しむロケーションには、ひと足先に秋の気配がやってくる”高原”が最適。
裏磐梯は、高原というには、標高がちと低い(800m)が、磐梯山という風景の主役の下、森林の中に大きな湖が点在し、バカみたいな観光開発がされていない。
そしてなによりリーズナブルに利用できる休暇村があり、そこには源泉かけ流しの温泉がある(写真)。

最近の休暇村は、泊る候補として急上昇。
なぜならツインの洋室を用意するようになっており、また温泉設備も増えているから。
私にとっては和室よりも断然洋室。
でもビジネスホテルのようなシングルは狭すぎて居住性が悪く連泊する気がしない。
室内をゆったり使えるツインの洋室がベスト(ソファがあるのがいい)。
休暇村は家族連れか、2人でも年配夫婦が多いから、和室が先に埋る。
温泉も、無理に大深度を掘削した「アルカリ単純+塩素」泉だとありがたみがないが、ここは硫酸塩の源泉かけ流し。
ただし加水・加温しているが、消毒用の塩素が入ってないだけ温泉としてマトモ(あがり湯をかけなくてよい)。
それに食事が朝夕バイキングというのも、ついつい心躍らされる。

着いた日はあいにくの雨天なので部屋にこもって論文の原稿チェック(これが最低限進めるべき仕事)。
翌日は、曇りだが雨の気配はないので、桧原湖畔の遊歩道を通って、周遊の遊覧船に乗り、
五色沼を巡って、磐梯山火山記念館と3Dワールドを観て、コンビニで買物してそのまま宿まで徒歩で帰った。
計10km以上は歩いたが、飯がバイキングなのでこれくらい歩いておいた方がいい。
残るは磐梯山登山だが、これは次の機会に。

谷中で幽霊見学

2007年08月27日 | 東京周辺
台東区の谷中(やなか)は寺町。
それは墓の多さをも意味する。
谷中から千駄木に下りる三崎(さんさき)坂の上にある「全生庵」は、幕臣山岡鉄舟が幕末維新で国事に殉じた人々の菩提を弔うために開基した曹洞宗の寺。
鉄舟の墓も当然あるのだが、もう一つ、三遊亭円朝ゆかりの寺でもある(墓がある)。
怪談噺を得意(創作)とした円朝は、幽霊を研究するためか、江戸~明治期の幽霊画を集めていた。
その幽霊画コレクションは8月の間だけ公開される。
そのことをつい最近知り、月末なので急いで見に行った。

円山応挙作と伝えられる有名な幽霊図を筆頭に、円山派・狩野派などの幽霊画が本堂横の一室に展示されている(500円)。
まぁ夏にふさわしい所ともいえようか。
行くのなら今のうち。
どうせなら谷中界隈の散策も兼ねるといい。

諏方神社大祭

2007年08月26日 | 東京周辺
昨日と今日は、台東区と荒川区にまたがる谷中の総鎮守、諏方神社(お諏方様)の大祭(註:なぜかここの神社は諏訪ではなく諏方と書く。祭神は同じ)。
諏訪台通り(通り名には諏訪を使う)一帯に屋台が並ぶ夜店の数は、この付近では最大規模。
でも、どうせなら店をハシゴしたいので、一人前をもうすこし少量にして、もう100円ほど安いといいのに。
日暮里・西日暮里駅の両駅から近いこともあり、電車で訪れる人もいる。

神社の神楽殿では都内随一の松本源之助社中がお囃子を演奏。
甚平で下駄姿の3歳の甥っ子柊(しゅう)ちゃんを連れた私は、柊ちゃんと同じ色の下駄と単衣の着物に角帯を結び、パナマ帽の組合せ。
柊ちゃんが一人前の氷レモンを小さな手を冷やしながら平らげていると、姪の乃の佳ちゃんをベビーカーに乗せた弟夫婦が合流。
夏祭りの雰囲気を楽しんで、実家で寿司をとって乾杯。
もう夏も終りだな。

ミスト日傘の試み

2007年08月22日 | 生活
昨日のブログで提案したミスト効果のあるハイテク日傘が可能か
自分なりに試してみた。
日傘は昨日と同じ500円の超ミニタイプ。
そいつに、”Misty Pomp”という以前から持っていた、ミスト冷却装置をつける。
この装置、プラスチックの水筒に手押しポンプがついていて、それを押すと、水筒から出ているチューブの先が霧吹きになる、電力を使わない、いたってローテクな仕組み。
で数回の手押しで10分は霧状が出るので、半自動といっていい。
水筒には布ベルトがついていて、肩にかける。

これ、本当はジョギングなどのアウトドアスポーツ用。
難点は、霧吹きの口が狭いので、顔なら顔しかかからず、局部冷却効果しかない。
チューブの先を手で移動できるので、手動で冷却場所を移動できるが。

霧吹きを傘側に向けてみたが、やはり傘の内側の一部だけに水滴がしたたり落ちて、
傘全体を冷やさない。
傘だったら最低4箇所には必要だな。
それに出口はもっと細かくして、すぐ水滴になる霧吹きではなく、
水滴になる前に蒸発するドライミストにしないと。
誰か、ちゃんとした試作品作ってくれないかな。

日傘をさして秋葉

2007年08月21日 | 東京周辺
今年になって男向けの日傘が出回っているときく。
確かに、”日傘は女専用”とする伝統的発想は、一種の性差別で、非科学的で納得できない。
でも実際には”日傘を差している男”を見たことがない。
ならば自分でやってみよう。
でも、多少勇気がいるので、秋葉に行く時にやってみた。
何しろ、あそこなら、女の格好した男も歩いてるし、身なりに関心ない男が大勢いるから。

でも最近の秋葉は、女っ気が多くなったのはいいが、それを追って新たな男ども、
ストリートファッションで、ケータイを耳に当ててしゃべりながら歩く男どもの流入が聖地を汚している。
ケータイしか使えそうもない奴らなので、電気街・パーツ街には用無しのはず。
めざすはメイドなんだろうな。
そもそもメイドを呼んだのは、萌え系のオタクたちで、かれらは本来はアキバ系ではないはず。
でも筋金入りのアキバ系よりは社会性はあるかもな。

さて、その街で、500円の超ミニタイプの傘をさして歩き出す。
普通の雨用の傘なだが、超ミニという形の不自然さがむしろ日傘として使って許される気がした。
愛用のパナマ帽はファッション的には気に入ってるが、やはり帽子はどれでも蒸れる。
それに日除けになる場所が頭部だけなので、肩や腕が暑い。

日除けとは、何も紫外線だけを目的としない。
日射による加熱効果を避ける意味もある。
日傘は、自分の周囲に日陰をつくるわけだから、理論的には気温だけの暑さですむ。
このように考えると日傘は帽子より勝る。

だが、実際やってみて、いくつか問題点も見出した。
まず、雨用の傘は生地が薄いため、日射の加熱を防ぎきれない。
やはり日傘専用の生地が厚いものにすべきだ。
あと、雨傘の場合と同じなのだが、日陰を歩いている時に日傘を差しているのは、なんだか馬鹿みたいなので、それを閉じる。
すると傘を開いたり閉じたりするのが面倒になってくる。
また、帽子と違って風が素通りする分涼しいのだが、傘が風の抵抗となって歩きづらく、向い風が強いと後ろに押されてしまう。
そもそも片手がふさがったままとなり、ずっと持っているのも気分的に疲れてくる。
と結局、一長一短て感じだった。

日傘が進化して、傘の内側に霧(ミスト)を出して、その蒸発による冷却効果を積極的に感じられるんならいいのだが。
と”ハイテク日傘”を思いついたのも秋葉ならではか。
実は水筒みたいなのを身につけて霧を出して冷をとる装置を持っているのだ。
それと日傘をドッキングすればいいと思ったわけ。

夏風邪か熱中症か

2007年08月19日 | 健康
19日の明け方は熱帯夜とはいえ、30℃を下回った分、涼しかった。
エアコンつけて寝る私は、思いのほか冷えすぎて、朝起きたら、頭痛と喉の痛み。
でも熱いシャワーを浴び、昼には近所の温泉に入ったら元に戻った。

ニュースをみると、エアコンなしの老夫婦が熱中症で死亡とのこと。
特に老人の室内での死亡が目につく。

「エアコンは体によくない」という風説が幅をきかせて、死者を増やしている。
エアコンつけて寝れば、寝不足にもならず、熱中症で死ぬこともない。
確かに温暖化とヒートアイランドを促進はするだろうが、自分の命には替えられない。

それに私は寝酒によって水分はたんと補給する(夜中にトイレに目覚めるが)。
もちろん成分の薬理効果で眠りにつきやすい(寝不足知らず)。

最近のエアコンや扇風機はタイマー機能が充実しているので、夜明けの体温が最低になる頃はオフにすればいい(でも熱帯夜は暑い)。
夏風邪なんてその日のうちに治せるんだから恐れる必要なし。
人間が生存するのに適した環境を維持する努力の一つが、この「空調」であることを肝に銘じるべし。

UVケアは危険!?

2007年08月17日 | お天気
8月も後半となるが、梅雨明けが遅かっただけに、気温は今が最高潮。
東京でも、湿度を考慮する体感気温(熱指数)は熱中症危険値の41℃を超える。
これに太陽日射による加温効果を追加したTHSWという体感気温だと、
昼前には50℃に達する(車の車内温度に近い)。
つまり、37-8℃の気温は日陰の温度であって、日差しを浴びた皮膚の表面は50℃になるわけ。
この温度差が、日差しによる暑さ分に相当する。
すると人は、8月の日差しをとてつもなく強いと感じてしまう。
なので、この蒸し暑い中、UVケアのために黒い袖や帽子で皮膚を覆っている女性が目につく。
でも客観的には日射量そのものは6月よりも弱っている。
たとえば、この記事を書いている午後4時現在、気温は36℃もあるが、晴天にもかかわらずUVindexはたったの1.0。
12月の日中よりも低い値。
つまり真冬にUVケアしない人なら、今もする必要ないはず。

今(午後4時以降)必要なのは、もちろん「熱中症」予防。
そのためには、風通しのいい服装に、日射を反射する白い生地。
つまりUVケアとは逆のこと。
不必要なケアを万全にして、熱中症を誘発する愚を犯さないように。
正確なUVindex値を把握しましょう。
もっとも昼前後の外出にはUVケアをお忘れなく。

文士の散歩

2007年08月16日 | 東京周辺
東京の西日暮里で39.1℃(日射を考慮した体感温度52℃)を記録した今日、岐阜県多治見市で埼玉の熊谷とともに40.9℃の日本記録を樹立した。
まずはおめでとう。
市民のみなさん、よく耐えました。
多治見は盆地で、唯一名古屋からの口(土岐川)が開いている。
南西の風だったので、たぶん、名古屋からのヒートアイランドの流入(熊谷などが暑い理由と同じ)の影響だな。
つまり今回の記録樹立は名古屋の協力のおかげだからね。

さて、原稿も一段した私は、酷暑の下、東京都北区の歴史の勉強に出発した。
さて出で立ちは、
黒に白糸柄の涼しげな単衣(ひとえ)の着物(浴衣じゃない)に、江戸紫の半襟をのぞかせ、
角帯の結びは町人風の「貝の口」ではなく、ハの字に下がった「浪人結び」(市川雷蔵の『眠り狂四郎』風)。
帯の左腰に鉄扇を差し込む(脇差の代わり)。
間違っても白足袋は履かず、素足に下駄(新選組風)。
このような首から下の侍仕立てに
頭には白いパナマ帽をすっぽりと被り、ぐっとハイカラ風に。
唯一の悔いは、メガネのフレームが丸眼鏡でないこと。

この姿で、まずは田端駅前の「田端文士村記念館」に入る。
館内にある芥川龍之介らの当時の写真を見ていると、見学者の私の姿と違和感ないではないか。
いやむしろ、この私こそ、大正時代の文士村からタイムスリップしてきた同人の一人と思われそう
でも、館内には他に見学者はいなかった。

次は、京浜東北で2駅先の王子。
ここもめったに来ない所なので、まずは昼食の店を探す。
この姿ゆえ、和食か蕎麦がふさわしいのだが(といっても立ち食いは×)
37℃を超えた正午過ぎには見当たらず、すこしは涼しげな音無川沿いの中華料理屋に入る。
メニューを見たら、目が「生ビール」の所から動かない。
仕方なしに、禁断の昼ビールを注文。
食事も餃子定食なので、ビールに合う!

更に気温が上がる外に出ると、ビールの恩恵も消滅。
でも着物の生地はお気に入りのポリエステルなので風を通し(浴衣生地の綿は暑い)、飛鳥山公園の日陰に入れば気持ちいい。
「渋沢栄一史料館」は工事中で入れず、「北区飛鳥山博物館」に入る。
さらっと見学した後、ここに来た主目的のミュージアムショップへ。
期待通り、都立中央図書館で見つけた『田端冨士三峰講調査報告書』が売っていた。
冨士講にも近所の神社にも興味がある私には、180ページにおよぶこの書が700円とは安すぎる。
その他に田端文士村関係の本を買い、資料室で論文をコピーした。
近所の史跡が専門家に詳しく解説されるのは、とてもうれしい。

でもちょっと気になることがある。
こういうのを研究する人は、若い院生でもいいけど、定年退職後の郷土史家であってほしい。
近所の歴史という近視眼的過去志向につかるのは、暇になった老人が趣味としてやるべきで、
若い人は、生産的・創造的な未来志向の仕事についてほしいから。

定年後の一日?

2007年08月14日 | 生活
図書館での論文作成作業は、環境がよすぎるせいか意識集中が限界近くまで達するので、連日だと頭も目も疲れる。

なので今日は気分転換の日にして(論文は順調だし)、ちょいと気になっていた足立区の郷土博物館(大谷田5)に行く。
足立区って、名所的にも買物的にもぜんぜん足を運ばない地なので、それが逆に気分転換にうってつけ。
そこに行く気になったのは、うちの近所の浮世絵を所蔵していることを知ったから。

35℃の夏空の下、強い日差しを避けるため買ったばかりのパナマ帽をかぶった私は、常磐線(電車は千代田線)の亀有に降り立った。
亀有駅自体は南の葛飾区。そう、ここは「葛飾区亀有駅前」なので、”両さん”の銅像がお出迎え。
亀有は初めて降り立つ所なので、まずは昼食の店を探す。
どこにでもあるチェーン店を避けて、地元の庶民的なラーメン屋に入る。
店内のおばさんも庶民的な応対だが、サービスは丁寧。

駅前から東武バスに乗って(SUICAが使えない)、まっすぐで平坦な道路沿いの郷土博物館前で降りる。
足立区全体が23区では最も遅く都市化した所で、しかもこの東部は更に開発が遅かった所。
新興開拓地の雰囲気が残っている。

郷土博物館では、期待の浮世絵の実物は見れなかったが、以前特設された新選組(綾瀬を屯所とした)特集の図録をゲットできたのは収穫。
裏の東渕江庭園(写真)にまわると、今を盛りのアブラゼミたちが私のまわりを飛び回る(ちょっと不気味)。
地面には蝉の幼虫が出てきた穴があちこちに。
夏だな~

帰りは綾瀬に出て、ついでに「土方歳三を追って」の旅(わがサイト内にある)で入り損ねた、駅前の観音寺(屯所跡)に立寄る(境内にはそれに関するものは何もない)。

まだ昼過ぎたばかりなので、そのまま巣鴨に出る。
もちろん地蔵通りに。
この通りは、アキバに次ぐ私のショッピングストリートになっている。
ここでしか買えないのは、お気に入りの「越中褌」(紐の太さと生地がいい)。
あと、ドラッグストア街でもあるので、それぞれの店で買いたい薬の値段を見比べる。

元気な老人たちにまじって通りを歩きながら、ふと思った。
郷土資料館で地元の歴史を味わい、その後は巣鴨で買物なんて、まるで定年後の優雅な一日ではないか。

18きっぷで帰京

2007年08月10日 | 
名古屋で小用を終えて、また18きっぷで帰京。
まず予定より早めに名古屋駅に着いたので、1本早めの快速を待つ。
ところが6分遅れている。
名古屋からは浜松までの快速便がなくなったので、豊橋で浜松行きに乗り換えなくてはならなくなった。
遅れたものの接続にはなんとか間に合う。

浜松では電車を1本見送り、改札を出て、うなぎで昼食。
構内が全面改装していてとまどったが、目当ての「浜名湖漁業組合」の浜名湖産ウナギ弁当をゲット。
ホームのベンチで食べて、静岡行きの6輌編成に乗る。
島田で降りて、3輌編成の熱海行きに乗り換え。
ところが、清水駅手前の踏み切りトラブルで10分の遅れが発生。
熱海からの快速アクティの待ち時間が10分だからあせる。
結局、熱海まで遅れを回復できなかった。

熱海では乗り換えホームが違うので、人が密集するエレベータを降り、また駆け上がる。
先を行く若い女の子がエレベータの降り口でベッタリ転んでしまったので、余計にあせる。
待っていたJR東日本の快速アクティ東京行きは、出発のベルを何度も鳴らしながら、遅れてきた乗客を待っている。
その間に前の方の車両に移動して、ガラガラの席に座る。
15輌編成の快速アクティは、結局4分遅れで出発。

3輌編成のJR東海の電車の遅れを待っていてくれたのだ。
二日前のJR東海の対応とは大違い。
JR東日本とJR東海のサービスの差をはっきりと体験した18きっぷの往復だった。

18きっぷで名古屋

2007年08月09日 | 
18きっぷで名古屋に帰った。
東海道線経由で。
東京駅で崎陽軒の「特製焼売」(¥1300)を昼食代わりに買いこみ(再び「ひょうちゃん」を集めたくなった)、快速アクティのグリーン車二階席に陣取る。
焼売を食べ終り、広い車窓から間近に迫る相模湾を眺める。
と、ここまでは順調で快適。

ところが静岡県に入りJR東海の領域になると、とたんにサービスが悪化する。
なにしろ熱海までは15輌編成(グリーン車付き)だったのに、熱海から西はたった3輌と1/5。
しかも、それでいてボックスシートがなくなり、ぜんぶ旅情のないロングシートに。
それだけでなく、熱海から豊橋行きがあったのに、それでなくても普通に浜松行きがあったのに、それら長距離路線はすべてなくなり、三島(沼津)、興津、浜松、豊橋で近距離便を乗り継がなくてはならなくなった。
JR東海って、ホンネは東海道新幹線以外は、やりたくないんじゃない?

さらに今日はその上、熱海発の折り返しの電車が来る最中に、吉原付近の踏み切りで車の脱輪事故に遭遇して、30分も発車が遅れた。
でも次に乗る電車が沼津でたった数分間だけ停車時間を延ばして接続待ちをしてくれれば、乗れたのに、
それをしてくれず、さらに次の電車を待つことに。
融通きかないなぁ。
でも豊橋以西になると、名鉄と競合するので、車両の質や快速の便など少しはサービスが向上する。
つまり、静岡県内(JR東日本の東伊豆は除く)は無愛想な殿様商売。
こういう仕打ちを受けると、静岡県が第2東名と静岡空港作りたくなる気持ちもわからんでもない。
それとも因果が逆でJR側が仕返ししてるのかな?

サンダルの歩き方

2007年08月07日 | 生活
夏は素足にサンダル履きがメインとなる。
でも踵の薄いサンダルで踵着地の洋式歩行をすると、踵が痛くなる(痛くならない人は、ちゃんとした洋式歩行をしていない)。
サンダルは足の中足骨部分から先だけで足についているため、着地も土踏まずから先でやらないといけない。
ここで求められる歩行は、まさに足半(あしなか)での歩行。

すなわち、股関節と膝をかるく曲げたまま歩き、着地は足の前半部だけで踵はほとんど着地しない。
さらに上体をやや前傾して、重心を着地点より前方に置いておくと、着地後の次の足を出すのに自分の筋力を使わないですむ。
こうするとサンダルでもだらしないズルズル歩きではなく、颯爽とスタスタ歩ける(というより、若干早歩きになる)。
ただし歩容(歩き姿)は、洋式歩きのように体も膝も伸びないので、あまりかっこよくないが。

階段の昇降はナンバ式がおすすめ。
昇りは、前傾をさらに強くして、前に倒れるまで重心を前方に出す。
すると自然に足が出て階段をスタスタ昇れる。
大腿四頭筋を使わないので、筋力的に楽。
その代わり速度が上がるので、心肺機能は使う。
下りは、上体を後傾ぎみにすると、膝にかかる負荷が軽くなる。


猛暑到来

2007年08月04日 | お天気
本日の最高気温は、東京大手町の気象庁本庁で34.8℃、アメダスの練馬で35.8℃、
そして我が”ひぐらし気象台”では36.6℃を記録した(気温は地点差が大きい)。
日射を考慮した体感気温(THSW.屋外で日射を浴びた皮膚の熱さ)は、なんと48℃!
日射病の危険温度だ。
こんな時は外出したくないが、冷房の効いた図書館で仕事するため、日比谷線の広尾に降り立ち、有栖川公園を通ったら、上半身裸で日光浴をしている男たちがいる。
紫外線に無頓着だった昔ならわかるが、今の時代にやる事じゃないでしょ。
日光浴なら、紫外線が一番弱い冬至の頃にすべき。
まぁ、いまだに喫煙している人間がいるくらいだから…(最低限、歩きタバコはやめて)。

毎日、都立中央図書館で、昼前から夕方まで、ノートパソコンで論文作成の作業をしている。
終わる頃は集中しすぎで頭がくらくらになる。
でもその分、確実に進展しているから。

画面を見つめるだけの同じ焦点で目を使いすぎるから、遠近両用メガネをやめて、
近眼用のコンタクトを片目にして、強度1.5の老眼鏡(105円)をかけて
画面を見つめ、目の気分転換に遠くを見ると、目がリフレッシュする。
遠近両用メガネは便利すぎて、目の毛様体が怠ける。

ここの図書館は、土曜は17時半までなので、終了時間までいて、退館しようとすると、
受付けの館員から警備員までがロビーに並んで、次々と「ありがとうございました」とお礼を言ってくる。
快適環境をありがたく利用させてもらったのはこっちの方なのに。
無愛想を絵で描いたような公共図書館は昔話。
今はサービス精神が徹底してやけに腰が低い。

藤沢周平を愛読中

2007年08月03日 | 作品・作家評

映画にもなった、あさのあつこの『バッテリー』が人気あるという。
書店で文庫本を手にしてみたが、読んでみようという気にはならなかった。
熱くなりたい10代向けの感じだから。

そういう私が今ハマっているのは、藤沢周平。
私を藤沢周平に導いたのも映画、映画界での藤沢周平ブームだった。
『たそがれ清兵衛』(監督山田洋次、主演真田広之 2002年)
『隠し剣鬼の爪』(監督山田洋次、主演永瀬正敏 2004年)
『蝉しぐれ』(監督黒土三男、主演市川染五郎 2005年)
『武士の一分』(監督山田洋次、主演木村拓哉 2006年)
これらに描かれる、政治権力的使命感ではなく、情(愛情)に流されずに情を生きる武士の姿、
私風に言わせてもらえば「純情武士物」が気に入った。

『藤沢周平という生き方』(PHP新書)の著者、高橋敏夫氏によれば、
時代小説ファンが求める生き方のひとつは「かっこよく生きて、かっこよく死ぬ」だという。
上杉謙信や土方歳三が好きな私が時代小説に求めていたのは、ひたすらこれで、
戦国や幕末のように時代そのものが激動で、その激動に果敢に飛び込む人たちの生きざまにあこがれる(謙信なら海音寺潮五郎の『天と地と』、歳三なら司馬遼太郎の『燃えよ剣』)。
だから司馬遼太郎の時代小説は読んでも、太平の世の江戸時代物は読書の対象外だった。

でも武士の在り方・生き方には関心あったので、映画での武士物として上の映画を観て、やっと藤沢周平の世界に出あえたわけだ。

彼の描く主人公(典型的には、雪の月山を望む庄内の海坂(うなさか)藩の下級藩士)は、時代小説におけるもう一つの生き方、「かっこ悪くても、なんでも、辛抱強く生きる」を表現している(高橋氏が同書で『三屋清左衛門残日録』について論じた章)
藩政をめぐる権力争いの権謀術数に翻弄されながらも、武士として品格を保った生き方を貫こうとする。
この藤沢作品における「品格」は、湯川豊氏(東海大学教授)によると、凛とした自己抑制だけはなく、他者や社会への想像力、思いやり、ゆとりが必要だという(『ラジオ版学問ノススメ』より)。
すなわち、単純に主君のための武士道に殉じるのではないのだ。
偏狭な武士道を越えた、人間として自然で成熟した姿がそこにある。
それがあるから、私にも魅力に映るのだろう。
しかも、必ず最後あたりに決着をつけるような意味合いで、激しい剣戟のシーンが登場する(主人公は基本的に剣の腕がたつ)。
やはり、武士は弱くてはダメだ。

私が最初に読んだのは長編の『風の果て』。
短編より長編の方が読みごたえがあると思ったので、春の銚子旅行用として買った。
でやはり、ハマった。
彼の時代考証は歴史学者からも太鼓判を押されていて、その文章から江戸時代のリアルな風景がきちんと浮かんでくる。
ただ個人的には、代表作とされる『蝉しぐれ』は映画の感動が強かったので(岩代太郎の音楽がまたいい!)、原作はそれほどでもなかった。
(私にとって、この作品は、「結ばれ得ぬも真実の大人の愛」の映画『カサブランカ』・『マディソン郡の橋』に列せられる)

今は『用心棒日月抄』(NHKのドラマになった)を読んでいる。
ファンになった作家の作品数が多いと、楽しみが長続きしてありがたい。