霊界について、神道の立場からそれを理論化したのは19世紀の国学者・平田篤胤だが、
篤胤自身、構築した霊界論『霊の真柱』(たまのみはしら)には事実的な根拠が不足しているのを痛感していた(吉田,2017)。
そこで得たのが、生まれ変わりを経験したという八歳の勝五郎少年の証言。
その面談記録を『勝五郎再生記聞』(文政六年:1826)として著した。
私が興味あるのは、霊界論という想像だけで創作できる”物語”ではなく、霊界の体験談という一次データである。
なので『霊の真柱』ではなく、『勝五郎再生記聞』を紹介する。
生まれ変わりの証言者は、八歳の男児・勝五郎。
前世は、武蔵国多摩郡小宮領程久保村(現、東京都日野市程久保)の百姓の子・藤蔵で、六歳の時(文化七年)に死去(知行所にて事実確認済)。
その六年後の文化十二年※、同中野村(現、東京都八王子市東中野)の百姓家に勝五郎として生まれ、
※:計算では五年後だと思うが、本書に「六年後」とある。年忌では死んだ年を含めるためか。
八歳(文政五年)の時に、姉に前世のことを話したのがきっかけで、世間に知れ渡り、篤胤らが面談するに至った。→勝五郎生まれ変わり物語(日野市郷土資料館)
以下、篤胤らが記した面談記録からピックアップしたもの。
前世の藤蔵は、六歳の時、疱瘡(天然痘)で死んだ際の記憶として、絶命する時は、苦しみはなかったが、その後しばし苦しかったこともあった。がその後は苦しいことはなかった。
納棺の時、(体から)飛び出で遺体の傍にいた。
山への葬送(土葬)の時は、白く覆った棺おけの上に乗った。
すなわち、納棺の時に遺体から魂が抜け出て、自分の葬儀に同行したのだ。
その後は、不可視の魂として、この世にとどまり、
家では机の上にいたが、人に物を言っても聞こえないようだった。
食べ物を食べることはできなかったが、暖かいものはその匂いでおいしく感じた。
そして、長い白髪で黒い着物を着た翁が手招きしたのでついていき、きれいな場所で遊んだ。
この翁は、後の話と総合すると産土神(熊野権現)らしい。
まず死後に、この世に止まってる点がはっきりしている。
すなわち、霊界に行かない。
これはスウェーデンボルグの説と合わないし、死者が行くとした篤胤の「幽冥界」にも該当しない。
夭折したから再び人間をやり直させるのかもしれないが、篤胤自身そのような解釈をしていない。
翁は、神道的神の様相である。
これは篤胤の思想世界と整合し、いいかえればスウェーデンボルグ的世界とも仏教的世界とも異なる(かように”論”の世界はバラバラ)。
そして6年後、翁がきて連れて行かれ、「あそこの家に入って生まれよ」といわれた。
まずはその家の庭に三日いて、家に入ってから竃(かまど)のそばにまた三日いた。
その家の母が遠くに行くことを父と話し合っていた(実際に奉公に出る予定で、夫婦間でのみ話合った:勝五郎が知っているわけがない)。
その後、母の胎内に入ったと思うが、その過程はよく覚えていない。
胎内では、母が苦しむときは、脇に寄っていたことを覚えている。
生まれる時はちっとも苦しくなかった。
ちなみに生まれ変わるまでの六年間は、”しばしの間”程度の感じだったという。
勝五郎は、人は皆前世を覚えているものと思って姉に話したが、それは自分だけだと知った。
彼の再生譚は家族に共有され、周囲にも知れ渡った頃、祖母と一緒に程久保村の前世の家に行くことにした。
勝五郎は、生まれて初めて尋ねる元の家に迷わずに達した※。
※:両地の間は今の中央大学八王子キャンパスで、キャンパス内に当時の道が発見されたという。
感激の再会をした折り、勝五郎が藤蔵の時にはなかった向かいの煙草屋の屋根と木を指摘したが、それは事実だという。
再生記の記録部分は以上で終えるが、これだけでは篤胤が最も知りたい「霊の行方」についての情報に乏しい。
そこで同書(岩波文庫)に所収されている『仙境異聞』の主人公寅吉に登場してもらう。
寅吉は、天狗の世界(仙境)にしばらく住んでいた十五歳の少年で、勝五郎同様に篤胤らが面談した。
この少年は百姓の出ながら、賢く、異界での経験が豊富で、弁も立つので、篤胤らとその後も行動を共にし、なんと勝五郎の面談にも同席していた。
篤胤が寅吉に魂の行方について尋ねた際の返答は、
人の魂は、凝り固まるので、消えることない、
悪い魂は、妖魔の群れに入って、神明の罰を受け、
善い魂は、神明の恵みを受けて、無窮に世を守る神となる、
固まらない場合は、散じて消えるが、他の魂と混ざって、人にも物にも生まれ変わる、
というもの。
勝五郎として再生した魂は、固まらない魂だったのかもしれない。
ちなみに、鳥獣の魂は、遂に消える。強いものは天狗※になるが、これもいずれ消える。
※:天狗(山人)は神由来、人間由来、鳥獣由来の3種があるという。天狗という名称は鳥獣由来のもの。
スウェーデンボルグの霊界も人間だけだった。
寅吉は全てを心霊的に解釈するようなことをしない。
例えば、寅吉の師の杉山山人(山人=天狗)の山は信州の浅間山なのだが、
その浅間山の噴火について、それは神の怒りではなく、硫黄が多いためだと科学的な回答。
また地獄は、師によれば、愚なる者を威すために、後人の作言したものという(スウェーデンボルグと同意見)。
さらに地震の原因は、「地下に大鯰がいて、鹿島の要石が云々」というのは盲説だと聞いたという。
このように当時の庶民の常識レベルより上をいっている。
ただ寅吉の話には眉唾的なものもある。
例えば、異国の人間としてあり得ない習俗はもとより、月に接近した時の様子として、
兎の餅つきといわれる場所は、二つ三つ穴があいていて、その穴から月の後ろの星が見えたという。
また 他の星については、近づくほどぼーっとした気に見え、その中を通り抜けた事もあったという。
これについては、面談同席者でオランダ経由で当時の天文学の知識を持っていた佐藤信淵が以下の反論をした。
「星は地球と同じ組成なので、通り抜けられない
惑星の光は、自分で光っているのではなく、太陽の反射だ」
それに対する寅吉の弁明部分については、資料が欠落している。
まさにこのような点が18世紀のスウェーデンボルグの
惑星人の話と同じく、19世紀以降の科学知識と矛盾し、一挙に信憑性を落とす。
ここでは紹介していないが、勝五郎も寅吉も、篤胤自身の価値観(仏教嫌いの神道理論)と不自然なまでに一致している点も気になる。
それは彼らの生の証言が、篤胤によって著作化された過程で変容したためであろうか。
ということで、資料(データ)としての価値が劣るのが残念だ。
ちなみに勝五郎は、その後、まっとうな人生を送り、明治2年まで生きたらしい(上のリンクサイトによる)。
文献
⚫︎平田篤胤 『仙境異聞・勝五郎再生記聞』 子安宣邦校中・解説 岩波書店 2000
⚫︎吉田真樹 『平田篤胤—霊魂のゆくえ』 講談社 2017 電子版