今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

新幹線放火事件に遭遇

2015年06月30日 | 失敗・災難

今日の昼、新幹線で名古屋に帰ろうとしたら、とんでもない事に遭遇した。

正直言って、死ぬ思いをした。 

会議専用日の火曜の今日だが、月末週なので会議がない。 
なのでゆっくり名古屋に帰れる。 

10:50の広島行きに間に合うが、次の11:00発のぞみ225号新大阪行きにしたほうが空いていると思い、あえて1本遅らせた。
乗るのはいつもどおりの1号車(自由席)。
これが運命の選択になるとは…

東京駅では空席が目立ったが、品川駅でかなり乗客が増えた。
でも二人掛けの自分の隣席は空いているので、その席側にキャリーバッグを置き、買ってきたサンドイッチを頬張った。
新横浜でまた人が乗ってきた。
席は8割方埋った。
新横浜を出てから、身なりが他とは違う小柄な初老の男(後に71歳と判明)が通路を往復した。
身なりが他と違うというのは、新幹線の乗客は会社員か観光客なので、それなりによそ行きの格好と大きめの荷物をもっている。
ところがその人は、室内着のようなラフな格好で、新幹線で遠方に行くとは思えない姿だった。
もっとも私はiPadの地図を見入っていて、彼を注視したわけではない。
ただ、 席を探すでもなく通路を往復しているのが少し気になった。 

新幹線は時速250kmを超えて相模平野を疾走している。

そしてある時、1号車の私より前方の席に座っている人たちが、一斉に通路に出て、我先に後方へ走り出した。
「油をまいた」とか「ガソリンまきやがった」とか叫びながら。

iPadを見ていた私も立ち上がり、前方を見ると、さっきの初老の男が1号車の前側のデッキドアに背を向けてこちらをむいて立っていて、白いポリタンクから液体を肩にふりかけている。
咄嗟に「新宿バス放火事件」を思い出し、 身の毛がよだつ思いをしながら、素早く1号車の後ろのデッキドアに逃げた。
我に返ると、大事なキャリーバッグを持っていなかった(カメラや名古屋に持ち帰るべきものがたくさん入っている)。

この男がガソリンをまき終わって、自分に火をつけようとしているのがわかった。
今が、その一瞬の間(ま)だ。
私は躊躇せず、キャリーバッグを取りに席に戻った。
キャリーバッグに手をかけた瞬間、前方のデッキドア付近から大きな火の手が上がり、男の姿はオレンジの炎の中に消えた。
目の前全部が炎になった。

こういう時、火と自分の荷物と避難先しか 目に入らない。
あと何人1号車に残っていたのか記憶がない。
私の後ろの席が派手に弁当がちらばっている風景だけが印象に残った。

キャリーバッグを持った私は他の乗客と一緒に2号車に逃げ込んだ。
今、この緊急事態を知っているのは1号車の乗客しかいない。
新幹線は通常走行している。 

1号車と2号車の座席間にはトイレや洗面所があり、1号車の惨状は2号車の客にはわからない。
1号車から殺到した乗客たちに唖然としている2号車の乗客に対して、
事態を説明する余裕がない私は、ただ「逃げて、逃げて」としか言えなかった。

2号車の乗客も逃げ始める。もちろん避難路は中央の通路しかない。
途端に通路は人でいっぱいとなり、避難の速度が停滞する。
そこに背後から熱風と猛烈な黒煙が追いかけてきた。
あっという間に2号車は黒いススを含んだ煙で充満した。
熱く、息苦しい。
新幹線だから窓が開かない。

後ろで、幼児をかかえた若い父親が「子どもだけでも通してください!」と叫ぶ。
でも私を含めて、この黒煙と熱風から逃げるのに必死で、しかも思うように身動きがとれない(ただし、列を乱す人はおらず、いわゆる”パニック”には至っていない)。
この2号車を抜ける間が一番苦しく、つらかった。 

2号車を抜けると喫煙ルームがあった。
その扉を開けると空気清浄機が作動している。
後ろから来た幼児連れ
を入れた。
3号車に入ると、乗客はもうすでに後ろの車輌に避難したらしく、ほとんど空席だった。
そして煙も熱もほとんど来ていないので、
横の座席に入り、周囲の大人たちにも脇へ入るよう促し、子供連れの避難を優先させた。

ここにきて初めて他者を優先する余裕ができたわけだ。
気づいたら列車は停まったようだ(後で確認したら、この間は2分らしい。小田原の平地に出る弁天山トンネルの手前。トンネル内を避けて停車したという)。 

私は5号車まで達し、ホントは指定席だが、空席に腰を降ろした。
何が起こったんだろうという感じの人と、命からがら逃げてきた人が同席する。

この後、やっと本格的な救助が始まる。
消防と警察が来た。
報道ヘリが飛び交う音が聞こえる。 

ここでやっと東京の実家に携帯をかける。
もうこの件はテレビで臨時中継されているらしい。
ただ、情報不足なようで、車内から出火して、臨時停車しているという程度の認識らしい。 

車内は停電しているので、暑苦しく、息苦しいため、開いたドアに行き新鮮な空気を吸う。
少々煙を吸ったのでちょっと咳込む。
消防士が具合の悪い人がいないか探し回る。
精神的ショックで気分が悪くなった女性が出る。
2号車の方から ぐったりした女性がかかえられて来る(自殺者の他に、女性客が1号車で死亡したのは後で知った)。

ここかしこに、顔やシャツがススで黒ずんで、トリアージタッグをつけた人がいる。

近くにいた消防士の1人に、1号車に荷物を取りに行きたい旨を話すと、先導してくれた。
消防士に先導されて1号車に入ると、室内が異様に熱く、窓も座席もススで真っ黒になっている。
さっきまで自分が居た車内とは思えない。 
人間が生存できる場所ではなくなっていた。 

自席付近で持ち忘れた充電器を拾う。これもススで真っ黒になっている(後で確認したら、使えなくなっていた。私にとってこれが実質的な被害)

自席の後ろの席にはスーツの上着がかかっていたが、一部が黒焦げになっていた(マスコミに画像が出ている)。
あの瞬間、キャリーバッグを取りに戻って正解だった。 

14:20、列車がゆっくり動き出す。
小田原について、全員降ろされる。
ホームに降りると、待機していたマスコミのシャッター音を浴びる。
そしてホームで警察の事情徴収に応じる(1号車にいたので)。

自分の心拍数を測ってみたら100になっていた。
自分の普段の安静時は50だから(ちょっと徐脈気味)、2倍になっている(2時間以上たっているのに)。 

もちろん、この間新幹線は不通だった。
われわれが乗った事故車がゆっくり発って、やっと不通が解除される。

でも小田原だから、「こだま」しか停まらないのか。
名古屋まで行くのはたいへんだ。 

幸い、復旧最初の2本の「のぞみ」は小田原に臨時停車してくれた。
名古屋に停車する2本目の「のぞみ」に乗るが、さすがに今回は”1号車”に乗る気になれないので、
2号車の後ろのドアから乗ったが、超混雑していて足の位置もずらせない。
その態勢でずっと立ちっ放し。
不通は解除されたが、事故車が前を走っているので、三島までは超ゆっくり。 

なんとか18:25に名古屋に着いた。
ここにもマスコミが大勢いた。
東京駅から7時間半かかった。
心身ともに疲れた。

自分がいた同じ車輌で2名が死亡したのだ…。
今、こうしているのも、命がけで脱出できたからだ。
たいへんな一日だったと、一人、名古屋宅で振り返る。

誰かに話さずにはいられない気分なので、さっそくこうして記事にする。 


システム0:二重過程モデルを越えて①

2015年06月29日 | 心理学

心理学に内在していたさまざまな二元論を統合する視点が「二重過程モデル」である。
その二つの過程は、スタノビッチが命名した「システム1」と「システム2」という名称が定着している。

システム1は自動化された認知−判断過程で、処理は迅速だがバイアスなどの歪みが発生する。
社会心理学の古典的な「認知的不協和」やバイアス研究の端緒を開いた帰属理論などはこのシステム1の具体例として整理される。
またアフォーダンスなどの視覚情報処理が(思考を経由せず)直接適した行動を導く現象もここに入る。

システム2はより知性的な思考活動であるが、ここにもバイアスが存在することが行動経済学で確認されている。
結局、われわれの判断(意思決定)に潜むバイアスは、損失回避などの感情的要因と、時間選好などの認知的要因によることがわかる。
あと、統計的思考がわれわれの思考的バイアスを補正してくるものとして有益であることも。

心理学という範囲に留まっていればこの二重過程の話ですむが、人間存在を対象にするなら、心身二元論による分業の枠を超えた視点が必要になる。
すなわち心と身体との関係である。
こう言ってもいい。
システム1・2を可能にしているより根源的なシステムがあるはずだ。
それはシステム1より根源的な領域で、ほとんど身体の領域に等しい。
心が身体に出会う領域、それを私は「システム0」と名づける。

脳でいえば、システム2は大脳皮質の前頭前野が中心、システム1は大脳辺縁系(海馬や扁桃体)が中心、、そしてシステム0は大脳ではなく間脳・脳幹が中心となるシステム(ただしこれらシステムは機能に基づき、解剖学的単位を基準にしているのではない。機能は本質的に脳の多層的ネットワークで作動している)。

スタノビッチの数値的命名が幸いして、システム1・2のいずれかに還元する二元論(陰陽思想のような)に陥らずにすむ。
1と2は数の集合の中の単なる要素にすぎない。
システム0は、心においては無自覚で自明視された領域であり(それゆえ0という番号が合っている)、心理学の領域外になっている。
現状でそれを扱っているのは「精神神経免疫学」である。
すなわち、自律神経系と免疫系と内分泌系という身体のホメオスタシスシステムが心(精神)と相互作用をしている領域だ。
精神的ストレスが身体疾患を引き起す問題が典型である。
あるいはplacebo効果など、”信じる”という心理作用が免疫系に影響する現象も含まれる。

この心身相互作用の注目すべき現場が「呼吸」だ。
呼吸は根源的な生命維持作用であるにもかかわらず、自律神経だけでなく、随意的にも制御できる特異な生理作用だ。
深呼吸などの呼吸の随意的制御が、心身に好影響を与える事実に私も着目して、さまざまな呼吸法の中でどれが効果的か、修論と卒論で指導している。 

心理学は人間存在の根源である身体を除外したまま成立してしまった。
今のままでは、神経科学(脳科学)の目覚ましい発展を指をくわえて見ているだけだし(行動経済学は認知的過程をスルーして神経経済学になろうとしている)、精神疾患ではなく、身体疾患で心を痛めている多くの人にも貢献しない。
システム1からシステム0へと視野を拡げることで、心理学が自ら課している分業の壁をのり超える時だ。

続く


ナス日の茄子

2015年06月23日 | 歳時

私一人やっている活動に、「ナス日の茄子(なすび)」がある。
自由の利かない給与生活者が、年2回だけ自身の身分に幸福感を痛感する6月と12月のその日(ナス日)に、
季節感を無視ししてもとにかく茄子にこだわった料理を食して、半年に1度の幸福感を味わうというもの。

ベストの茄子料理はなんといっても「麻婆茄子」!
名古屋の棲み家近くでは成城石井の総菜売り場にあった。
あと生の茄子を一本買って、縦に4つに割って、フライパンでしぎ焼き風にした。

それに祝杯。
今回はバリ島でよく飲んだBintanビールを瓶から口のみ。

酒の肴は賞与明細書1枚でいい。


伊良湖での一日

2015年06月22日 | 

今日は伊良湖に滞在。
午前中は、海辺の満喫と買物のため、宿で自転車をレンタルして、サイクリング。
海岸沿いの道は、車だとわき見もできずあっという間に通り過ぎ、歩くには単調で長すぎる。海風を頬に受けての自転車が丁度いい(平坦だし)。

伊良湖岬周辺はサイクリングロードが整備されているので車を気にせず走行できる。
三河湾側は潮騒と呼ぶには静かすぎる波だが、太平洋(遠州灘)側に出るとさすが波がくだける。
オフシーズンの平日なので、ロードはずっと一人。
折り返し点のコンビニで今晩の酒・つまみを調達して宿に戻る。

昼からは、宿の屋上のテラスでロングチェアに足を投げ出してノートパソコンでの作業。
海風が肌に、小鳥のさえずりが耳に心地よい。
目を画面から上げれば、海が拡がる。
いやまったくリゾートの気分。

弱いが日差しがあるので、日除け用の笠をかぶる。
この笠、紫外線と日射熱を跳ね返し、風は通り抜けるので、いたって気持ちよい。
これからの季節、屋外での作業にうってつけだが、街中でつける勇気はない。

この後は、炭酸泉の風呂に入り、大アサリを思いきり食べた。


夏至の伊良湖

2015年06月21日 | 

週末帰京しない時は、土曜も出校して研究室で夕方まで仕事をする。
そして日曜に旅に出て、2泊して火曜の会議前に戻る。
これで月曜を旅先ですごすことの言い訳終了。

さて、今回は”夏至の旅”となり、行き先は伊良湖。
伊良湖は渥美半島の先端で、名古屋から陸路だと豊橋経由で大回りになる(渥美半島部分だけでも車で90分を要す)。
なので知多半島の河和から、高速船で日間賀島と篠島を経由して、三河湾を縦断しての船旅がいい(所要50分)。
行き先が島でないのに船旅を経験できるのも貴重だ。

宿は休暇村伊良湖(共済の関係で割引料金で利用できる)。
ここは温泉でないが、全身に泡がつく人工の炭酸泉が気に入っている。

夕食はバイキングで、ここの目玉は三河湾名物大アサリ!。
炭火で焼かれたハマグリ大(ダイ)の大(オオ)アサリの、身も貝柱も貝殻に残った汁も味わう。
この大アサリを好きなだけ食べるのが、私が遠路はるばるこの宿にやってくる目的だ。
今日は10枚食べた(明日もあるから、食べ飽きない程度に抑えた。ちなみに外の店で食べると2枚で500円ほど)。
ちなみに大アサリの殻は、泊まり客によるマジックでのシェルペイントに使われる。

夕食後、屋上のテラスに出て、一年で一番遅い日の入りを味わう。
ここ伊良湖は、渥美半島と知多半島と志摩半島の三つの岬が頭を合わせる所。

なので、伊勢湾や三河湾を航行する船の明り、神島や野島の灯台の明り、そして対岸の知多半島や篠島の街明りが、それぞれ間近に点在して、海しかない景色よりは見飽きない。

私は一日のうちで、日没直後の”たそがれ”時がいちばん好きだ。
たそがれの海の、静かでしみじみとした雰囲気をいつまでも味わっていたいのだが、やがて不気味な暗さが勝って夜になってしまう。  
蚊も出てきたので、部屋に戻る。 


素人確率論の誤り

2015年06月20日 | 心理学

このブログは私の公的でない部分を表現したいのだが、たまには公的な情報、すなわち、授業や研究に関連する内容も披露したい。
といっても誰でも気楽に読めるブログにふさわしい「軽さ」は堅持する。

社会心理学周辺で最近一番ホットなのは「行動経済学」であり、それがさらに人間の意思決定の”二重過程モデル(システム1、システム2)”として一般化されている。
この流れの牽引役は、ノーベル経済学賞を受賞(2002年)した心理学者D.カーネマン(経済学はまったくの素人)で、彼の近著『ファスト&スロー』が上のモデルの詳細な紹介となっている(日本語版は早川書房から,文庫版あり)。

私個人は、二重過程モデルを拡大した人間存在の真の内的モデルを構想しているが(来春公開予定)、ここでは二重過程モデルの1トピックを紹介したい。

人間の意思決定過程は、直感的・自動的なシステム1と、推論的なシステム2の二重過程からなっているというのがこのモデルの骨子。
システム1は処理は速い(ファスト)が不正確。システム2は精度は高いが処理は遅い(スロー)。

ただシステム2は知性的ながらも、システム1の影響からまぬがれ得ないという残念な性質をもっている。
今回はこの部分を紹介する。
具体的には、確率論という数学的思考の部分だ。

自分の意思決定の問題として、次の文の正否を2択で判断してほしい。

①「一等が出た宝くじ売り場がある。どうせならここで買ったほうがいい気がする」

(はい いいえ)

②「100年に一度の大雨が去年、この地方であった。だから今年はその規模の大雨はこの地ではないだろう」

(はい いいえ)

多くの人は、①も②も「はい」と答えたくなるのではないか。

実は上の①と②は確率的現象に対して同じ思考が使われているが、結論に至る論理は真逆だ。
だから、まず論理が真逆なので、肯定文の①に「はい」と答えたなら、否定文の②では「いいえ」と答えないと論理矛盾を犯したことになる。
なぜなら、文の前半で、事象の生起が示され(条件)、それを受けた後半(結論)で①は生起する傾向を、②は生起しない傾向を予想しているのだから、すなわち条件が等しいのに、両方「はい」(結論が異なる)だと論理矛盾となる。
たとえば、②が「はい」なら、①はむしろ同じ売り場で”買わない方がいい”と判断すれば論理は整合的だ。 

論理矛盾を平気で犯してしまうことは、それだけで人間固有のシステム2がまともに作動していないことだから深刻だ。

では正解は

確率論的には、もちろん、①②ともに「いいえ」である。
前回と今回は、独立した(前回の結果が今回に影響しない)事象なので、確率に変化はない。
①は売り場によって確率に差ははないし(年による差はありうる)、②は年によって確率に差はない(場所による差はありうる)。 

この独立性を否定する誤った思考が、①②両方に「はい」と答えることになる。

これは少なくとも中等教育の確率論を知っていれば、納得できるはずだ。
なら、「この売り場で一等が出ました!」 という宣伝文句はまった効果がなくなるはずだが、感情的にはそうとは言えない。

なぜ①は事象の生起、②は不生起に(誤って)心惹かれるのだろうか。
これが論理でない心理の部分である。
すなわち、システム2に対するシステム1の影響である。 

①は快となる事象で、②は不快の事象である。
これが効いている。

快となる事象は、できるだけ生起しやすいと思いたがる。
不快となる事象は、できるだけ生起しにくいと思いたがる。
感情が入るとわれわれは冷静ではいられなくなるのだ。 

宝くじの一等が当たる確率は、客観的には、交通事故に遭う確率どころか、大地震(日本で)に遭う確率よりもたぶん低く、 おそらく自宅の床下から火山が噴火する確率に近いくらいなのだが、
主観的には、交通事故に遭うより高く見積もっている(私も例外でない)。

人間の通常の可能性に対する思考が、数学的な確率論的思考といかにズレやすいか、これは心しておく価値がある。
曲がりなりにも科学を志す者が、確率論をベースにした統計学を論拠にするのは、通常思考では論理の誤りを犯すからである。

ついでに、確率論的思考は、肝心の数学者でさえ誤ってしまうことは、「モンティホール・ジレンマ」の話に出てくる。
この話題は、上の書を含めた行動経済学の本(あるいはネット)にたいてい載っているので、そちらにまかせる。 
ようするに数学者も人の子で、日常に作動するシステム2の精度は”並み”なのだ。
宝くじを買って一等を夢見ている数学者もいるに違いない。 

実は私は二重過程理論を超えたモデルを構想している。
☞「システム0:二重過程モデルを超えて①


お値打ちの温泉宿

2015年06月14日 | 温泉

月1回の2泊の”温泉旅”枠ではないが、どうしても気分転換に温泉に泊まりたくなった。
帰京せずに名古屋宅で週末をすごしても、ちっとも気分転換にならないからだ。

毎月の旅費予算外の支出になるので、なんとか出費は4桁で抑えたい。

そりゃ、ビジホならどこでも5,6千円に抑えられるが、温泉である所はほとんどないし(私が利用済みなのは3件)、夕食がつかない。
ビジホでコンビニ食という手もあるが、 それでは肝心の気分転換にならない!

そのような時に使える宿がある。
1泊8000円程度で2食ついた、れっきとした温泉宿だ。
この値段で民宿ではなく、ちゃんと洗浄器付きトイレもあるのがうれしい(これ重要)。

1つは、三重の新湯の山温泉にある「ホテルウェルネス鈴鹿路」。
シングルルームでも、長ソファがあり、机も広いので、ビジホのシングルより居住性がいい。
元は公共の宿だったので、設備とサービス体制は質素だが、
食堂での食事は宿屋的な夕食で、旅の気分に浸れる。
近鉄湯の山温泉駅から徒歩で行け、名古屋から気楽にいける。 

もう1つは、岐阜県恵那峡にある「恵那峡国際ホテル」。
ここは安宿チェーンの湯快リゾート系列なので、食事は他の系列館と同じくバイキング。
倒産したホテルを買い取ったので施設は古いが、一人でもツインの部屋。
ここは温泉が濃厚で、そこが一番気に入っている。

そして今、そこにいる。
ネットが通じるロビー(ホテルで一番リッチな空間)のゆったりしたソファに浴衣姿で身を委ねて、この記事を打っている。

夕食のバイキングは安いだけあって種類が少なく楽しめないが、オフシーズンの今はズワイガニがメニューに追加されている分、 少しはマシ。
カニは食べるのに時間がかかることもあり、脚を10本も平らげると「カニを食べた~!」という満足感を得られる。

温泉以外にこの宿を気に入っている点は、チェックアウトが12時と遅く(朝食後の朝風呂が楽しめる)、しかもチェックインも準備次第でOKという点。
こういう金のかからないサービス向上に努めているのがうれしい。
それに甘えて、今回は14時に入ったので22時間すごせる。
それに足も腕ももんでくれる立派なマッサージ機が無料で使えるのもありがたい。

食事はイマイチで客室の居住性もさしてよくないので、連泊する気はおきないが、一泊なら上の理由でお得感を得られる(同じ恵那峡なら隣接する「かんぽの宿」の方が居住性がいい。この宿は「かんぽ」の中では別格。惜しむらくは温泉が薄い)。 

あとは愛知の奥三河あたりに1件ほしいところだ(温泉がない地帯だから無理かな)。


ドローンの身になる

2015年06月03日 | 雑感

我がドローンもどき(マルチコプター:以後マルチコ)の操縦練習に励んでいる。

全自動の本物ドローンとちがって、マルチコは手動操縦なので、業務用ではなく完全な趣味のものだ。
操縦して自在に操る楽しさは、勝手に飛んで行く本物ドローンでは味わえない。
問題はその操縦技術が難しいこと。
といっても今までのminiヘリに比べればバランスがいいだけにかなり楽なので、なんとかなりそう。

超初心者の時は、機体の正面と自分(操縦者)の正面を同方向にして(操縦方向と運動方向が一致)、それでホバリングができたので、屋外デビューをして、機体を空に見失った。
機体の水平での向きが変化すると、もう操縦が混乱してしまった。

そこで、機体の水平の向きのいかんにかかわらず、自由に操縦できる必要を感じた。

だが、これが難しい。
たとえば、機体の向きが自分と向かい合わせの時は、前進後退、左右の移動の操縦が操縦者の視点とはすべて逆になる(前進は後退、左は右)。
さらに機体が自分と直角の向きの時は、操縦者の視野と前進後退と左右の移動が入れ替わる(機体が右向きの時は、前進は右、後退は左、そして機体が左向きの時は…)。

これらの4方向のそれぞれの変換式を頭に入れるだけでも混乱するのに、機体の向きが勝手に変化してしまうともう頭がパニック。

機体の向きを操縦者と同方向に固定すれば簡単だが、それでは前方についたカメラの撮影が制限される。
撮影するには、機体の正面を自在にして操縦したい。
それがドローン(マルチコ)の楽しみだからだ。

そこで思いついたのは、人間だけができるワザ。
自分が機体の身になることだ。
操縦者の視点ではなく、機体の視点で方向を判断すれば、前進はいつも前進ボタンでいい。
たとえ操縦者からは、それが右方向であっても 。
すなわち操縦者の視点を忘れて、ひたすら機体の視点を操縦者が取り入れる。
これは実際には、二重の視点になるので、その混在はどうしても整理する必要がある。

そこで、機体が右に行きたいときは、心の中で「右」と言語化することで、自然に作動する操縦者の視点(システム1)より、意識的に採用した機体の視点(システム2)を優位にして、その指令を動作化する。
言語による脳の支配力はかように強い。 

こうすることで、複雑な変換式をそのつど当てはめるよりは、ずっと直感的に操縦できるようになった。

これが人間だけができるワザというのは、他人の身(視点)になれる能力そのものだからだ。
この能力は、対象が人間である必要はない。
モノでも単なる空間でも可能(自分を天井から見下ろす視点)。 

 安永 浩(精神医学者)の理論で説明すると、本来の主体たる極自我と視点の立脚点である現象学的自極、この2者は通常は一致しているのだが、それを意識的に分離できるのが人間なのだ。


茶臼山のあちこちを測る

2015年06月02日 | 茶臼山カエル館計測

今回の茶臼山行きの主目的は別にあった。
1つは、カエル館での計測を追加する事。

館内の直流磁場(地磁気)異常スポットの範囲を確定し、その原因を探る。
スポットである椅子の窓側にはトタンの雨戸が重ねて収納されており、その雨戸が磁性体になっていた。
雨戸の面の途中で極性が変わるので、磁石そのものだ(鉄をひきつけるほどには強くない)。
また床面では窓側が通常の2倍強く、その反対側が0に近い。 
つまり椅子に座った右側の床が強磁場で、左側の床が0磁場になっている。

そして、私自身は何も感じないが、この椅子に座ると、手足に暖かみを感じたり、しびれを感じる人が後を断たないという(感じ方に左右差はないらしい)。
ただし、今回新装備のサーモグラフィでそういう人の鼻部や掌を測っても表面温度に変化はなかった。
いわゆる電磁波過敏の人たちかというと、電磁波による交流磁場はいずれも0なので、それでない。
直流磁場に敏感な人たちがいるのだろうか。そういう人たちは高緯度地帯に行くと身体異常が出るかも。

生体計測で結果が出なかったのが残念。 

 

もう1つの目的は、茶臼山山麓の宿「清水館」周囲を測る事。
これは宿の女将からのリクエストである。

宿裏手の鼓の滝に行く(ごくまれに鼓の音がするという。宿の主人夫婦もそれぞれ1度ほどしか聞いていないという)。
深い森に囲まれたなだらかな滝で、脇に不動の文字が刻まれた岩もある。 
バケタンで霊気を測ったが「何もない」と出た。 
地磁気も異常なし。
ただし、静電位は、周囲は-0.1kVに対して、滝つぼに向けると-0.3kVに上る。
いわゆる”マイナスイオン”が高いと解釈もできる(イオンカウンタでないので直接測っていない)。

次は宿から山側に上がった川宇連神社
南朝の尹良親王を祀ってある神社で、ここを御所としていたという(南朝方は中央構造線に沿って移動している)。
碁盤石の近くの平らな岩の放射線がやや高かった。 
神社本殿にバケタンを向けると、「あまり良くない状態」と出た。
神社としては不本意な結果だ。
でも昔ここのハナノキを切った結果、よくないことが起こったと女将に聞いたので、ハナノキの不足が災いしているのかも。
なので、ハナノキ自生地でもあることから、境内の中で一番立派なハナノキを選んでバケタンを向けたら、「守り神を期待していい」と出た。
この木は神木になれる。
境内のハナノキをもっと大切にすれば、神社全体の霊気がよくなるのではないか。

宿に戻って、広い客室(合宿などに使われる)内でドローンの操縦練習をした。
あわよくば、鼓の滝をドローンで上から撮影したかったが、操縦技術が足りないことを痛感したので、こうしてただ練習に励む。

茶臼山は長野側、愛知側それぞれ見所があり、植物も動物もいろいろで実に味わい深い。
日帰りではもったいなく、私は必ず泊まる。
今回は山上と山腹に2泊したので、なおさら堪能できた。 

☞次の記事『茶臼山カエル館内外の磁場を測りまくる


茶臼山高原で瞑想

2015年06月01日 | 茶臼山カエル館計測

茶臼山高原で迎えた朝、今日は一日中ここにいる。
高原の宿をチェックアウトして、空身で宿の裏手にある丘(茶臼山の斜面)に登る。
草原状の丘の上に一本の木があり、その下の平たい石に腰を下ろす。
半跏趺坐になり、半眼でヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)を始める。
意識を集中するのではなく、気づきながら流す瞑想だ。

まずは自分の自然な呼吸に気づく。
これが結構むずかしい。
なぜなら、気づかれた途端、呼吸はこの普段の存在感のない呼吸を恥じるかのように、改まって深呼吸を始めようとするからだ。
なにも”健康的な”深呼吸などしなくていいのに。

目の前は雑草なので、視線を集中してしまう対象がない点もいい。
さわやかな風が草々を揺らし、私の頬をなでる。
小さい虫が首元に止ったのが触覚でわかる。
それらすべてが存在(有ること)を実感させている。
草が有ること、虫が有ること、私が有ること。
これら生命との一体感を味わう。

思考は連想と論理によって勝手に進行していくが、それをあえて止めることなく、その流れを見つめる。
すべてが雲のように流れて行く。

流れる雲が自分でないように、流れていく思考も自分自身ではない。
ただそれを見つめているのが自分だ。
思考を眺めることで、それを見ている自分がいることを実感する。
あれ?、これってまるでデカルトの「我れ思う、ゆえに我れあり」だ。
もちろんデカルトは方法的懐疑という思考実験をしたのであるが、
我れという存在をハナから自明視しなかった点は同じだ(その後我れを実体視するが)。

 かように、思考は流れて行く。
そして、その思考に集中して(乗って)しまっている自分に気づいたら、そこから降りる。

なんて気持ちいいんだろう。
自分の部屋でこの瞑想をすると、すぐに脚が痛くなり、やる気も続かず退屈してしまう。
ところが、ここで坐っていると、ずっとこのままこうしていられるし、ずっとこのままこうしていたい。
最高に気持ちいいからだ。
あ、この気持ちよさにふけって(乗って)しまってはいけない。
そこから降りる。

なんとはなしに、腕時計を見たら、丁度目安にした15分経過した。
もっと続けたかったが、見切りをつけて瞑想をやめた。
ここでこうしていることに執着してしまいそうだから。 

日頃の生活を一生懸命こなすことは、生産活動や消費活動として有意味であっても、ハイデガーに言わせれば”存在忘却”していることになる。

経験の感度を上げるヴィパッサナー瞑想は、存在に立ち返る貴重なひとときを与えてくれる。

ただし、これだけをしているわけにはいかないのが在家(普通の社会人)のつらいところだ。