今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

視聴率不況

2008年10月19日 | 時事
デジタル放送の推進とそれに伴う受像機の進歩…これだけなら、テレビの未来は明るそう。
ところが現実は、その逆を行っている感じ。
「最近のテレビはつまらない」、とは私個人の感想だけではなく、ネット上の若者しかり、我が母しかり。
良質なドラマがなくなり、芸人のくだらないバレエティとクイズばかりらしい。
もともとドラマを見ない私は、テレビはニュースとスポーツ中継が中心だった。

ところが、そのスポーツ番組(プロスポーツ)が観る気を失わせている。
相撲、プロ野球、サッカー日本代表、ボクシング、K-1,いずれもつまらなくなった。
それぞれにつまらない原因は異なろうが、共通しているのは、観たい選手がいなくなったのと、試合を観ることが時間の無駄に感じる点。

それに映画も観ていたが(地上波とNHKBS)、最近はDVDにはない観たい映画が放送されることはなくなったため、昨年までは毎号欠かさず買っていたテレビ情報誌を、ここ数ヶ月は買っていない。

テレビを観なくなった分、その時間はネットに費やすことになった。
ネット(ポッドキャストを含む)の方が高質で楽しい情報を得ることができるから。
生活に密着するメインのメディアから、テレビは脱落したわけだ。

私の消費不況

2008年10月18日 | 時事
消費不況といわれている。
一般的には収入の不安定化と諸物価の値上がりのせいでもあるが、それらの影響をさほど受けていない私も、ここんとこずっと買い物が低調。
買いたいものがないから。

トヨタがコンパクトカーiQを発表した。
車をはじめとする消費不況を打開するための窮余の策ということらしい。
私は寿命に達しつつある愛車ローバー・MINIの後継を探しているのだが、その第一候補はメルセデスのスマート、第二はスズキのジムニー(林道を走りたい)だった。
さてiQは候補に入るか。
残念ながら、リッターカーとしてはスマートもiQもMINIの品格を越えてはいないので、積極的な買い替え対象にはならない。
買い替えの真の対象は「電気自動車」。
多くの人はこれを待っていると思う。
だから今更ガソリン車なんて、ブラウン管アナログテレビの新製品みたいなもんで食指を動かされない。

銀座に開店したH&Mはまだ行列をなしている。
二回目に並んで行った時は、買うものがなかった。
むしろ隣のZARAの方が買えそう(でも買わなかった)。
メンズファッション(靴・帽子なども含む)って、なんでこう既存のパターンに拘束されているんだろう。
自分がほしいものは頭の中に描かれているのだが、そのデザインのものは市場には存在しない(自分のデザインを越えたものでもいいのに)。
パターンが限定されているから、もうすでにそのパターンのを持っていると、買い足す必要がない。
逆に言えば、メンズは、さほど流行に左右されないから、昔のものを着続けられる。
だから、新しいものを買わない。
デザイナーが臆病なのか、ユーザーが保守的すぎるのか。
女性の多様な服や靴を眺めていると、買い足す楽しみを奪われている男という存在が悔やまれてしまう。
21世紀にもなってスーツにネクタイという格好はもうしたくないんだが。

パソコンもデジカメも基本性能は充分なレベルに達している。
高速化・大容量化・高精細化の”量的”進歩は剰余なレベルとなった。
デジカメ写真は、紙に出力することなく(飾る場所がなくなる)、液晶フォトスタンドで楽しんでいるので(色はインクより光の方が美しい)、カメラも数百万画素レベルで充分。
フォトスタンドは、有機ELなど他の技術での高精細化と大型化の可能性がある、私にとっては有望市場。

パソコンは、旧型MacBookレベルならWindowsも使え、DVDも焼け、もちろん無線LANも最初から使えるので満足。
3DCGも3Dゲームも今はやらないから、描画スピード性能は求めない。
最近は、ネットで無料でダウンロードできるソフトでマイクロソフトのOfficeも要らないくらい。
買い替えるとしたら、ノートパソコンのバッテリがへたった時か。
いや、バッテリを買い替えるだけで済むな。

外食も減った。
カロリー・塩分コントロールをしたい私は当然、外食から遠のく。
それに最近では食材が不安。
無駄な出費を抑えて、その分、安全な食にお金を出す傾向になっていると思う。
99円ショップと「成城石井」が併存できている(名古屋宅近所では99円の方が撤退)。

バブルの頃は、高価であることそのものを自慢していた成金趣味が横行していたが(高品質を知った効果はある)、バブル崩壊で高価志向が廃れ、そして最近の騒ぎで、単なる安物志向も反省され、表面的ブランドに惑わされない実質的に良質なものが志向されている。
21世紀にふさわしい、生活を変えてくれるイノベーション・デザインを待ちわびている状態なんだな。


またビジネスホテル

2008年10月13日 | 名古屋周辺
岐阜羽島駅前のビジネスホテルに泊った。
場所からいっても宿からいっても旅行ではない。
連休最後の日に、部屋に篭って仕事(講義ノート作成)をするため。

3日も家にいると、だらけて集中できない。
午後3時にチェックインして部屋にこもれば、計6時間ほど集中作業ができる。
一日の集中量としてはこれが限界値。

集中できるだけではない。
リフレッシュも兼ねる。
人工ながらラジウム温泉の大浴場に入り、食事も普段よりはちょっと豪勢にして、寝る前は酒を飲みながらDVD鑑賞。

近場とはいえ、風景も異なるので気分的に転地効果もある(13階から伊吹山を望む)。
オープン記念で今回は一泊5000円(朝食付)なので、レンタルオフィスを借りるよりお値打ち。
観光地でないビジネスホテルだから、連休だとかえって部屋をとりやすい。
明日はここをチェックアウトした足で職場に向い、昼過ぎからの会議に出る。

名古屋まつり

2008年10月11日 | 名古屋周辺
名古屋に棲んで17年になるが、「名古屋まつり」を初めて見ることにする。
見ものは「郷土英傑行列」らしい。
尾張名古屋で”三英傑”と言えば、戦国の英雄、信長・秀吉・家康のこと(厳密には家康は三河以東だが)。
毎年、市民からこの三英傑役(と姫役)を募集する(写真は今年の秀吉)。
というわけで、地味な名古屋の中では、派手な行事。
だが見物した印象は、やはり「祭り」としては地味だった。

三人の行列の間隔が、ちょっと開きすぎて、時間的・空間的に無駄な間がある。
密度が薄く、また「おー!」と感心する・目を見張らせるものが欲しい(栄の大通りでは合戦のアトラクションがあったようだが)。
どうせなら、もっと行列の密度を高くして、ぞれぞれのパートをもっと個性的にして派手にしたらどうか(ただし「よさこい」は勘弁)。
三英傑のそれぞれを郷土の英雄として顕彰する意気込みがちょっと足りない。
尾張・三河出身でその後大名になったような家臣(日本史上の有名人)の存在感ももっと強くして、彼らを準主役にした方が楽しい(そうすれば行列の密度が高まる)。
また、”名古屋まつり”なら、尾張藩主徳川宗春も家康の後に加えたらどうか(宗春なら派手な衣装に踊りが合う)。
行列が通る街も、行列を楽しく見物できるために、協力したらいい。
今の状況では、行列を見るために、わざわざそこにとどまるのだが、半分退屈してしまう。

「祭り」なんだから、また来年も見たいという気分にさせてほしい。
そのためには予算がかかるが、”サムライ都市”名古屋の名物として外国からも観光客を呼ぶくらいになってほしい。

パニック売りって

2008年10月10日 | 時事
世界的金融危機の原因はどうあれ、
それを不必要に拡大して、不況・恐慌の危機に導いているのは、投資家たちの”パニック売り”だろう。
自分は損したくないと、皆が同時に思って、恐怖心に駆られて資金を市場からいっせいに引き揚げる。
すると株価が暴落し、市場の資金は枯渇し、投資家自身の資産の問題を越えて、金融機関からはじまり、メーカー・小売り業に至るまでの企業の連鎖倒産が始まる。
そして投資とは無関係の末端の労働者が職を失う。
失業者が街にあふれ、その子どもたちは勉学をあきらめ、政治・経済への不満が社会不安を増大させる。

まさに、昭和恐慌時の「銀行取り付け騒ぎ」パニックと同じで、自分で自分の首をしめていることになる。
資本主義社会では、市場の資金は血液そのもの。
失血状態は死を意味する。
不良債権問題の処理は必要だが、大騒ぎして社会全不況にもっていって社会全体を苦しめるのはおかしい。
政府の緊急にして大規模な政策(公的資金投入)ももちろん必要だが、
市場参入者たちも、投資という行為の社会性を自覚したいものだ。

マツタケ三昧

2008年10月06日 | 歳時

日頃はつつましい生活をしているが、ときたま贅沢をしていい思いをするのは悪くない。
食欲の秋にちなんで、9月の弟の誕生日には松阪牛、そして今月の母の誕生日には、マツタケをふんだんに食べることにしている(いずれも私が担当)。

マツタケは、デパートで見ると食べずに床の間に飾りたくなる値段だが、アメ横なら国産でも手が出る範囲内になる(店頭表示ではなく、交渉の結果)。
今年は茎がぶっとく片手ほどの長さの奴を18本買ってきた。
茎が太いので、一本を4枚に縦切りにしても充分な厚さ。
18×4=72枚のマツタケが大皿に盛られた風景は壮観。
これを大人4人と4歳の子で、炭火焼きにして、スダチ+塩コショウで食べた。
あまり焼き過ぎず、ちょっと固めで食べた方が香りが口の中に拡がる。

マツタケを(この日だけは)飽きるほど食べたが、それでもカロリーが0というのもうれしい。
さらに、日頃は喜んで食べるエリンギもついでに焼いたが、マツタケの後に食べると、味も香りも歯触りもない、なんとも無味乾燥なつまらんキノコだという印象になってしまう。
といっても、エリンギを喜んで食べる日常にすぐに戻るが。


近所の防災チェック

2008年10月05日 | 東京周辺
週末帰京したら、「防災士」の認証状が届いていた。
フリーの防災士として、手始めに、自分の家から一時避難場所を結ぶ地域の防災チェックをして、最適な避難ルートを検討してみる。

Googleで近所の拡大地図を取り出して印刷し、固い台紙にはさんで、外に出る。
すべての「通り」をチェックするので、近所とはいえ時間がかかる。
地図に書き込みをいれる項目は以下の通り
1.ブロック塀
2.屋外設置の消火器
3.消火栓・防火水槽
4.ピロティ構造(下で説明)の建築物
その他に、燃えやすく倒壊しやすい古い木造建築など新耐震(1981年)以前の建築物もチェックすべきだが、それは省略。

まず、1.のブロック塀は、戦後からの住宅地であるためとても多く、高さが2mに達するのもあった。
道幅が狭い(車の通れない)所ほど、古い住宅のブロック塀が多い感じ。
耐震補強が明らかなものは少なく、透かしブロックを使っているものやひびの入っているものすらあった。
これらは、地震時に塀ごと道路側に倒壊するおそれがある(人が下敷きになって死ぬ)ので、避難時には(余震に見舞われることもあって)避けた方がいい。

2.の消火器は、自治体(区)が道路脇のここかしこに設置している。
これからは各家に消火器の設置が義務づけられるが、家庭用消火器は十数秒しかもたない(あなたの家の消火器は、何秒使えるのか、表示を確認しよう)。
足りなくなったら、外に出れば、近所の数ヶ所の消火器にアクセスできる。
また近所の火事に駆けつける時、これらの消火器を使えばよい。
ただ、これらの消火器はそのほとんどがブロック塀に設置されているため、ブロック塀の倒壊によって利用不可となる可能性もある。
設置場所が安全な近くの消火器を確認しておくとよい。

3.の消火栓・防火水槽は、消防署や消防団の消火活動に使われるものだが、大切な水の供給源としてチェックしておいた。
学校や大きなビルには採水口がついている。
また公共のものではないが、住宅の駐車スペースなどに水道の蛇口を備えた所もある(うちもそう)、これらも緊急時には利用させてもらうかもしれない。

4.のピロティ構造とは、1階部が駐車場など柱だけの開放空間になっていて2階以上が建物になっているもの。
たとえ鉄筋でも(てか、木造では無理)地震の横揺れに脆弱なのは素人でもわかる。
1階部を押しつぶす座屈ならまだしも、バランスを崩して道路側に倒壊すると、避難・救出路を塞ぐことになる。
道路側だけがピロティになっている建物は、そうなりやすい。
けっこう広い道路に面した鉄筋建築に多かった。

以上、近所を見て回って、消火器と消火栓が狭い間隔で思いのほか多数あることがわかった(今までまったく気づかず)。
ただ古い家屋はブロック塀が多く、新しい家屋は(部分的にも)ピロティ構造が多いので、これらを避けると避難路は最短距離というわけにはいくまい。
ただし、わが家から、ブロック塀の脇を全く通らずに避難所に達するルートは、1つもないことがわかった

もせるゴミ

2008年10月04日 | 作法

ちょっと前の事なんだが、箱根の帰り、湯本と小田原の間の旧東海道を歩いていたら、写真のような看板があった。
「もせるごみ」とはいわゆる「もえるゴミ」のことで、変な看板の一種としてカメラにおさめた。

最初は小田原あたりの方言か、と軽く考えたが、
歩きながら考えてみると、もしかしたら「もえる」より「もせる」の方が適切な表現かもしれない。
「燃える」とは、「燃えない」の対立表現で、「燃やせる」という”可能”の意味で使っているのだが、「燃える男」というように、「燃えている」という”状態”をも意味できる。
すなわち、多義的であいまいな表現なのだ。
その多義性が含蓄という深みをもつならいいが、そうでなければ、意思伝達の表現としては純粋に”悪い”性質になる。
それに対して、「燃せる」は「燃す」の”可能”として一義的だ。

さらに、「燃す」には、人間が点火するという使役性を含意しているが、「燃える」にはそのニュアンスはなく、むしろ自発的燃焼の方を含意する。
人間が焼却処理するゴミに使うなら、「燃える」より「燃す」の方が現実を正しく表現する。
以上の観点から言って、「燃えるごみ」より「燃せるごみ」の方が、一義的でかつ現実に即しているということで、より優れた表現といえる。

「燃えるゴミ」は全国の自治体に広まっているはずだが、その趨勢に抗(あらが)ってもなお、より正しい表現を選んだ小田原市の姿勢には敬意を表する。

日本では唯一の”町を守る”城壁を築き、豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した小田原北条氏の矜持を思い出す


ゴーヤーが破裂して

2008年10月03日 | 生活
名古屋の棲み家のベランダに、
7月にゴーヤーの種を植えた。
それが発芽して、蔓をどんどん伸ばし、
9月になると、こぶし小の実がなった(写真)。
食べるにはまだ小さすぎるので、さらに肥大するのを待った。
でもなかなか大きくならない。
昨晩まではその姿だった。

ところが翌朝、ベランダに出て驚いた。
昨晩までは緑色のゴーヤーの実が、黄色い葉のようになって裂けて四方に拡がり
(写真)、
裂けた空間から赤くなった種がぶら下がっている。



もしやゴーヤーの実の末路ってこうなの?
ごつごつした厚い実の皮が緑が突如黄色に変色して、勢いよく裂けて、中の肉が飛び散り、最奥の種が飛び出してくる。
裂けっぷりから見て、きっと破裂音がしたに違いない。
なんかすさまじい生態。
映画「トレマーズ2」に出てくる”グラボイズ”の繁殖の仕方を思い出させる。
そしてゴーヤーを食べ損なった。

実感のない大損失

2008年10月02日 | 時事
Edyでの5000円の損失にブーブー言ってるさなか、アメリカの金融危機のあおりを受けてのわが投信での損失は、本当はその比ではないのだ。
本当なら、携帯電話の復旧どころではない。
ところが、それに対しては、あまり実感がわかない。
単なる数字上の増減にすぎない存在感。

現金化する予定は当分ないので、いつかはその数値が回復してくれるのでは、という期待がある。
変動が激しいということは、回復する可能性だったあるということだし…

取引している銀行の宣伝文句では、過去のブラックマンデーやバブル崩壊の洗礼をもろに受けても、数十年スケールでみると、つまり”長期”には利益をあげているというグラフを出している。
それを頼りに、短期の変動(暴落)には動揺しないようにしているのだが、
今回の株価暴落は、これだけで済みそうではなさそうだし…。

ブラックマンデーもバブル崩壊も、その頃貧しかった自分には無縁(無傷)だった。
今は、持てる分だけ、余分な傷を受けている。

資金を市場に提供して経済を活性化させることは、資本主義社会では”善行”ともいえるが(悪行なのはタンス預金)、
社会の”欲”の塊に一銭を投じたわが煩悩に自ら悩まされるハメになったともいえる。