今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

夢を見る心②:多重夢、金縛り

2021年09月24日 | 心理学

特徴的な夢の続き。

【多重夢】
明晰夢も不思議な現象だが、その逆方向の夢もまた不思議。
それは、夢の中で夢を見て、目が覚めてもそれはまだ夢の中という夢。
多重夢だ。
これも幾度が見た事がある。
その中でも鮮明に覚えている多重夢を紹介する。
大学1年の時、サークルでの飲み会の後、先輩(♂)の部屋に泊った時に見た夢。

「夢の中でおしっこがしたくて、トイレに入って勢い良く排尿をした。
そうしたら、別次元の所から生暖かいものが漂ってきて、その異様な感覚で目が覚めた。
目を開けると、すで夜が明けていて、先輩の部屋にいて、隣には別の布団で先輩が寝ている。
私が寝ているのはもちろん先輩の部屋にある布団。
その布団の中に手をさしこむとべっとりと湿り気を感じた。
まずい事態になった、どうしよう、と思っていると、もう一度、目が覚めた。
すでに夜が明けていて、さきほどとほとんど同じ風景。
今一度、自分の布団の中に手を差し込んだ。
すると、今度は湿り気がまったくない。
こちらが、本当の目覚めで、私、いや先輩の布団はまったく無事だった。」

これほど目覚めを有り難く感じた夢も珍しい。
この夢では夢の中でも触覚などの体性感覚(排尿感、暖かさ、湿り気)があるということが、夢らしからぬリアリティを与えていた。
理屈ではこれは当然で、五感はすべて脳内の感覚なので、視覚・聴覚以外も夢で感じることは本来的に可能なのだ。
ということは、ほっぺたをつねっても痛いからといって、夢ではなく現実だという確証はないのだ。
このように多重夢が恐ろしいのは、夢から覚めて現実だと思っているそれがまだ夢である可能性があるということ(しかも触覚を伴って)。
明晰夢とは逆に、夢の力が覚醒意識に勝っている状態である。

結局、現実と夢の区別は、とにかく夢から"本当に"覚めない限り、わからないということだ。
たとえ明晰夢を見ても、見ている本人はその夢から覚めることができないし。
夢の力って恐ろしい。

【金縛り】(睡眠麻痺)
これは覚醒状態のまま夢見の生理的状態(レム睡眠)が作動してしまう現象。
入眠時で閉眼しているものの、まだ覚醒意識があるうちにレム睡眠に陥り、幻覚だけでなく、手足の麻痺、呼吸困難の身体現象を伴う異常現象である。
私はこれを中学から高校にかけて幾度も経験した。
その最初の経験を示す。

閉眼している状態で、まずゴーという音が近づいてきて、あれっと思って目を開けようとするが、瞼が開かない。
焦って声を出そうとするも、口も開かず咽喉から声も出せない。
そして手足を動かそうとしても、動かない。
さらに、胸の上に何ものかが乗っかっている感じで、息苦しく、首を絞められる恐怖を覚える。
そうしている間に、音が遠のき、体の自由が戻ってくる。

私は経験ないが、この時目を開けると目の前に不気味な顔があるような幻覚を見る場合もあるという。
最初に経験した時は、地縛霊か何かに襲われたと思ってびっくりするが、幾度か経験していくうちに慣れてきて、
まず、「あ、来たな」とわかり、少々の間、麻痺状態を我慢して(じっくり味わって)、過ぎ去るのを冷静に待つことができるようになる。
私の場合、高校生の時、金縛りにならなくなったのと入れ替わって睡眠時無呼吸症を発症しだす。

そもそもレム睡眠時は、筋肉が弛緩して電位がなくなることで、夢(幻覚)の中では大騒ぎになっていても、大声が出ず、体も動かない(寝言や夢中遊行はノンレム睡眠での行動)※。
※:なのでレム睡眠の夢で排尿しても無事ですむ。ノンレム睡眠の場合はたいへんなことに…。
だから覚醒状態が残っているうちにレム睡眠の筋弛緩が起きると、身動きがとれないことを”経験”するのだ。


ちなみに、普通の睡眠サイクルでは、睡眠はノンレム睡眠で始まるので、寝入りばなにレム睡眠が来ることはない。
レム睡眠は、睡眠サイクルの繰り返しの最後に来るもので、しかもサイクルが繰り返されるとだんだん時間が増えてきて、覚醒前が最も長い。
明け方以降の起床直前の夢がとても印象に残るのは、それが最も長いレム睡眠による長編の夢だからだ。
夜中に目覚めた直前に見るノンレム睡眠での夢は、静止画的(音や動きに乏しい)で地味なので、その後のレム睡眠の劇的なストーリーの夢によって記憶が消されてしまう。

また、レム睡眠では筋弛緩だけでなく(無呼吸症もレム睡眠時の舌根や呼吸筋の弛緩による)、自律神経が乱れて、体温調節機能や心拍なども乱れるため、人は明け方(一日の最低気温時)に風邪を引きやすく、さらには心停止(死)が起きやすい※。
※:やはり睡眠は死に近い。可逆的な臨死体験ともいえる。いや臨死体験の方が夢の一種だ。

睡眠に掛け布団・毛布が必要なのは、日の出前の最低気温とレム睡眠のタイミングが重なることで、低体温になってしまうからだ(雪山での遭難時に「眠るな!」というのも、レム睡眠に陥ると凍死するから)。


夢を見る心①:昼の名残、明晰夢

2021年09月23日 | 心理学

フロイトが『夢判断』(1899年)で夢は無意識によるものとして以来、夢は無意識を知る王道として重視された。
彼の説によれば、夢がへんな内容になっているのは、無意識の内容が超自我の検閲によって無理矢理改変されたためで、夢解釈でその改変の逆過程をたどれば、無意識の内容がわかるという。
フロイトは夢の真の内容を抑圧された願望(性的、親への憎悪など)に還元する傾向を示したが、ユングは個人的無意識に還元する以上に、さらに深層の集合無意識による元型的・神話的解釈の可能性を示している(私個人はユング的解釈が好み)。

科学的には、脳波等の生理的指標によってレム(REM)睡眠とノンレム睡眠の二種類の睡眠が分離され、夢見は主にREM睡眠での現象とされている。
最近では脳神経科学によるさらに詳細な睡眠中の脳活動が研究されている。

しかし、夢を見ているか否か、さらにはその内容にいたっては、客観的な測定は無理で、本人の報告に頼るしかない。
私は大学での以前担当していた心理学の授業で夢の分析法(個人的連想を使う)を紹介した後、学生に自分の夢を分析するレポートを課していた(現在は、この内容の授業はやっていない)。
それによって、自分以外の夢の報告例を沢山得ることができた。

その中での特徴的な夢のパターンを紹介し、夢という心の現象の可能性を考える材料としたい。

【昼の名残】
夢には、昼(当日の寝る前)の経験がそのまま出現する場合がある。
これはフロイトが「昼の名残」と命名したもので、深層心理的な意味はなく解釈に値しないとした。
 その後、DNA発見者の一人である生物学者のクリックが、夢は昼間に経験したことの中で記憶する必要のないものを消すための作業だという”逆学習説”を唱え、これが心理学者の間に一斉を風靡した時期があった。
つまり夢は心にとって価値のない記憶の廃棄作業であり、その夢には深い心理意味などはなく、解釈は無意味だということである。
テレビでこの説を主張していたある心理学者に、テレビスタッフはでも前日の経験にはない、もっと昔の知人などが夢に登場する場合があることを反証として挙げたら、
逆学習説に固執するその先生は、前日に一瞬でもその人を思い出したかもしれない、とへ理屈で反論した。
前日よりずっと過去の記憶が夢の材料になるのなら、それは逆学習を乗り越えて記憶された対象であるわけで、前日にその人を思い出す必要もなく、単純にその人の記憶が素材になったということで済む話だ。
第一、上に記した通り、「昼の名残」は解釈するに値しないことは、フロイトも認めている。

昼の名残は、クリックがいうほど毎回見るものではない。
なので逆学習が夢の本質とは認めがたいが、珍しくない程度には見る夢ではある。
学生の夢解釈レポートでは、前の晩にテレビで観た芸能人がよく夢に登場する。
特別ファンでもない芸能人が登場するのは、このような「昼の名残」である場合が多い。
私自身では、学生時代にコンパ(飲み会)の後の酒の入った睡眠では”必ず”コンパの続きの夢を見た。
これは楽しかったからもっと続けていたいという願望の現れだ。
まさに分析の必要がない単純な夢だ。

【明晰夢】
明晰夢は夢の中で、これは夢だと気づく現象。
睡眠中の覚醒というだけでパラドクシカルな夢なのに、さらにその中で、これは幻想にすぎないと、その幻想内で気づくという二重にパラドクシカルな体験である。
私も幾度か明晰夢の経験があり、鮮明に記憶に残っている数十年前の例を挙げる。

「仲間たち数人でオープンカーに乗って、奥多摩の渓谷脇の露岩(道路ではない)の上をガタガタ揺れながら車を飛ばしていたら、勢い余って車が断崖を突っ切って、空中に飛び出してしまった。
うわっまずい、と思ったが、車は落ちることなく、そのままの高さで空中をふわふわと進んでいる。
その時、これは夢だと気づいた。
そして、車が空中を走るなんて、さすが夢だなーと同乗者たちと言い合って笑った。」

この場合、私だけでなく、夢の中の他の登場人物も夢であると自覚したことになる。
ということは、自分で気づく以前に、夢の登場人物から、これは夢だと教えられることもありうる。

明晰夢自体はめったに見るものではないが、面白い体験なので、あえて見たいという人もいるようで、明晰夢を見る技法というものがある(興味ある人はネットで検索してみよう。寝る前に「明晰夢を見る」という強い意思をもつことが基本だ。明晰夢を見る装置※というのもある)。
※:今でも販売されているか知らないが、それは目を覆うバンドにセンサーが着いていて、それを装着して睡眠し、REM(急速眼球運動)になるとそれが反応して、小さく点灯し、夢の中でその点灯がわかるというのだ。私も購入して、装着してみたが、バンドの装着感が邪魔で、寝ている間に外してしまった。

では明晰夢の最中に、その夢から覚めることはできるのか。
私が最初に明晰夢を見たのは小学校入りたての頃で、夢の中で近所の銭湯にいて体を洗っていた。
その時、これは夢だと気づいた。
当時私は眠ることが嫌いだったので(幼い子供に多い)、夢から覚めようと思って、丁度裸なので出ているお尻に手をもっていき、思い切りつねってみた。
残念ながら、まったく触感がなく(指にもお尻にも)、夢から覚めることができなかった。

現実では、ほっぺたをつねって痛ければこれは夢でないと分かるが、夢の中では体をつねっても無駄なようだ。

実は上記した大学で授業の学生に対して、私は図らずも明晰夢を見やすくする負荷を与えていた。
学生に自分の見た夢を解釈する課題を出していたわけだが、
そうすると、学生にとっては見た夢をレポートにするというプレッシャーを抱えて睡眠に入ることになる。
その結果、学生の出したレポートには、
夢の中で、今自分が見ているこの夢を課題のレポートにしようと思い、その場でレポートを書きはじめる、という夢のレポートが散見した(決して多くはないが毎回複数出る)。
この場合も、レポートの負荷が夢にまで作用して明晰夢化したわけだから、上で紹介した明晰夢を見る方法と同じく寝る前の意識が明晰夢を見やすくするのは確かだ。

【回帰夢の明晰夢化】
繰り返し見る夢を「回帰夢」というが、客観的に繰り返し見ているかは不明だが、夢の中で、「この夢、前にも見たぞ」と確信する時がある。
その感覚は覚醒時のデジャブー(既視感)と同じで、具体的な過去の経験は思い出せないが、”このシーン前にも経験した”という確信的に強い想起感を伴っているのが特徴。
これは夢であることを気づいている点で明晰夢なのだが、強い想起感(回帰夢)の方に気持ちがとらわれているため、本人が明晰夢であることに気づいていない。
その意味で、明晰夢であることに気づかない明晰夢である(トリプル・パラドックス)。
ちなみに、実際に回帰夢であるかどうかは、夢日記をつけていないと確かめられないが、回帰夢である場合、夢は無意識からのメッセージとみなすユング的には、無意識が意識に対していいかげん気づいてくれ!と焦っているためであるという(きちんと解釈すべき夢だということ)。

続く。


夢を見る心・序:睡眠

2021年09月21日 | 心理学

私の「心の多重過程モデル」では、知・情・意に代表される心の諸機能がそれぞれ多重構造をなしており、意識も例外ではない。
心を幅広く捉えるこのモデルでは、覚醒時だけでなく、睡眠と夢という現象(体験)も意識の多重性によって説明できるのではないかと考えている。
それについて論文作成時よりも自由な思考でここにシリーズ化してみたい。

まず睡眠から始めよう。
睡眠は、覚醒にとっては、自らを否定する不気味な状態だ。
私もそうだったが、子どもは眠るのが嫌いな傾向がある。
楽しいことは起きている時に経験でき、眠ると二度と起きられないかもしれないという不安があった。
睡眠の果ては死である、ということにうすうす気づいていたようだ。
大人になって、睡眠は無駄な時間でしかないという考えが加わると、睡眠嫌悪はさらに高まり、「睡眠恐怖症」となる場合がある。

確かに睡眠は、昼間の活動に対する休息・内的修復の時間という意義は分かるが、人生の1/3もの時間を占めるのは多すぎる気がしないでもない。
忙しい現代人にとっては、睡眠はできるだけ短時間で済ませたいという思いになるのも分かる。

では、睡眠は不快で無駄でしかないのか。
欲求の階層構造で有名なマズローは、最下層の生理的欲求に、睡眠の欲求を入れている。
欲求が満たされる時が快である。
眠気にゆだねて睡眠に入る時、それは恍惚の時間ともいえる。
われわれが死を迎える時、眠るように死ねたら、どんなにいいか(多くの死は死ぬほどの苦しみの果てにある)。

さらに、熟睡の時こそ、すなわち意識が完全になくなっている時こそ、真の自分になっているという考えがある。
ヒンズー教の根本教典である『ウパニシャッド』だ。
覚醒時の雑念だらけの意識は、真の自己ではなく、意識が機能停止した状態こそ真の自己(アートマン)が作動し、宇宙の原理であるブラフマンと交流できるというのだ。
熟睡したあとの心地よさは、アートマンになっていたためであるという。
そして、覚醒時にも、表層的な自我意識から脱してアートマンの作動を可能にするのが”瞑想”であるという。
つまり覚醒時の意識こそ邪魔だという思想だ。

私の「心の多重過程モデル」では、睡眠は「システム0」という心の基底的サブシステムの作動によっている。
睡眠とは心の一つの状態である。
ただ、深い睡眠での徐波(δ波という脳波)は周波数が1㎐を切り、時に0.5㎐というとても緩い波になる。
そして周波数がさらに減って0になると、それは脳死を意味する。
なので睡眠は死に繋がるというのも、脳波的には理解できる(もちろん両者には質的な相違はあるのだが)。
この死に近い睡眠をきちんと取ることが、かえって健康にいい(長寿)という客観的事実も面白い。
睡眠は短い”生”を延長してくれる効果があるのだ。

そしてその睡眠と覚醒の間にあるのが、夢という不思議な体験。
睡眠の中で、目覚めているというパラドックス。
これは固有の意識現象といえる。
次回から夢の話に入る。


ある目的で高尾山に行く

2021年09月20日 | 山歩き

台風一過の秋の連休最終日。
ある目的で山に行きたい。

その目的とは、健康診断で、体重は増えていないものの、腹囲が増えてしまったのをなんとかしたい、ということ。
腹囲の増加=内臓脂肪の増加なので、有酸素運動で脂肪を燃焼させるのが一番手っ取り早い。

平地の歩きだと負荷が低いので、傾斜のある山にする。
といっても3月下旬に姪を連れての超低山に行って以来(→6歳の姪と天覧山に登る)、運動といえるものをまったくしていないため(だから内臓脂肪が増えた)、久々の山といっても、気楽に(ゆっくり起きて)安心していける高尾山(599m)しか選択肢がない。
ここは山中・山頂に店があって、昼食の持参が不要なのを幸い、できたらカロリー補給なしに歩きたい。

日曜の京王線に乗ろうとしたら、なんと新宿から高尾山口までノンストップの京王ライナー(Mt.TAKAO号)が9時00分に出るところ。
座席指定410円かかるが(フェリカ可。乗車後だと700円)、二人掛けのクロスシートでもあり、空いているので飛び乗った。
そうでないと今日の高尾山口までは立ちっ放しになる(アレ?今日は身体に負荷与えた方が…)。
この電車なら、広い車窓から景色を見ながら(ロングシートだと座った状態で車窓の景色は見れない)、車内で朝食のおにぎりを食べることもできそう。

10時前に高尾山口に着いて、いつものようにケーブルカー駅の脇を通って谷沿いの6号路を進み、病院手前で6号路から別れて、琵琶滝道へのショートカットルートを取り、琵琶滝からの道と合流したら、稜線へ直登する高尾山の中で一番の急斜面ルートを登る。

樹林帯の山道を登っていると、なんとミンミンゼミの声がする。
盛夏の象徴のあの蝉の声。
山は里より早く秋が訪れるはずなのに、むしろ山に夏が置き忘れられたようだ。

久しぶりの山の登りで、すたすた歩けず、息というより心臓がちょっと苦しい。
実際、どんどん追い抜かれていく(昔はどんどん追い抜いていったのに)。
スマートウォッチで心拍数は管理していて、それが異常を知らせることなく、
稜線上に出て、高尾山のメインルートである1号路と合流する。
ここからはベビーカーも通れる舗装道路で、ケーブルカーに乗ってきた観光客と一緒に進む。
服装・装備は区々(まちまち)なれど、マスクは歩いている全員に共通(ただし山だし、息苦しいので鼻出しでもOK)。

出がけにおにぎり一個食べただけなので(もちろん内臓脂肪を減らすため)、空腹で力が出ない。
せめて胃に何か入れようと、薬王院手前の茶屋に並んで、冷やしきゅうり(200円)を食べる(これならカロリーほとんどなし)。

やはり高尾山に来たからには、ここを霊山※にしている薬王院を参拝したい。
※:高尾山は2020年に文化庁から日本遺産に認定された。
薬王院では予約すれば精進料理が食べれるのだが、登山のついでというわけにはいかない。
すると、季節限定の「そば御膳」セット(1900円)が予約なしで、食べれるというサービスをやっているではないか。
高尾山は麓も山頂も蕎麦が売り物だが、薬王院で食べれるならそれにこしたことはない。
いずれこのサービスを味わいたい(山頂に達しての帰りがいい)。

薬王院境内の石段もきつく感じたが、なんとか正午前に山頂に達した。
台風一過で天気はいいので、雪がまったくない今の時期だけの富士山がよく見える(写真)。
ただし、いつもどおりの混雑が復活しており、腰を下ろす場所がない。

空腹なので、山頂にある蕎麦店で、軽く「もりそば」をと思ったが、人出が多く、その一方で店は室内の客数を制限しているため、外に行列が伸びている。
行列自体好ましくはないので、すぐにあきらめ、下山して食べることにする。

下山路は、いつものように高尾山では一番長い稲荷山道。
あえて長い山道を下って左脚の腸脛靱帯の様子を見るのだ。
といっても、靭帯が痛みだすと途端に歩行困難になるので、専用のサポーターを装着し、ストックを右手に持つ。

この道は樹の根や露岩がずっと地面を覆っているため、膝に負荷がかかる。
それでも、靭帯が痛むこと無く、無事にケーブル脇の麓に降り立った。

時刻はまだ13時台なので、いまから登る人もいる(ケーブルカーは夕方まで)。
また麓の蕎麦屋はこの時間でも軒並み行列。
こういう時は、一件だけ離れた所にある日光屋しかない。
案の定、そこは入れてすんなり、もりそば(550円)を注文したら、私の後から客が流れてきて、ここも店の外に行列ができた。

あとは駅前の案内川の河辺に腰掛けて缶ビールで下山を祝いたいのだが(高尾山は山中の店でも酒を売っているが、登山中に飲酒はありえない)、河辺が改修工事中で入れない。
なので、駅の売店でチーズちくわも買って、駅のホームのベンチで祝杯。
かくして無事歩き通せたのはいいが、内臓脂肪を減らす目的はどこへやら…。


平常時に戻った人出

2021年09月19日 | 時事

台風一過、晴天の日曜、池袋に買い物に行った。
駅構内は、混んでいる。
人出が平常時に戻っている。

駅近くの蕎麦屋に入ったら、昼食時ということもあり、カウンター席を一つ置きにすることができず、アクリル板で仕切られているものの、隣に客が座った。

サンシャイン60通りも、かつての人出が戻り、歩行者同士がぶつかりそうなほどの混雑。
ただし、全員マスクをしているのがかつてとは違う。

サンシャイン60通りを歩くのは、サンシャイン60に行くためではなく、その手前の東急ハンズに行くため。
10月末で閉店が決まっているので、機会を見つけては足を運びたい。
館内はすべて10%引きで、空の棚も出始めている。
せっかくなので、いくつあってもいいブックカバーを複数購入。

駅に戻って、東武デパートに行く。
前回デパートに入ったのは、9ヶ月前の昨年末だったか…。
今回の目的は、ここの8階でやっている大北海道展で、母との夕食用にホタテが3つ入った海鮮弁当を2つ買う(保冷剤を入れてくれた)。
ここも人気の店は行列ができている。

エスカレーターで降りながら各階を眺めると、こういう質の高い商品に満ちた空間で買い物をする楽しみから、だいぶ遠ざかっていたことに気づく。
なにしろここんとこ、スーパー、100円ショップ、ネット通販ばかりだったから。

かくして、久しぶりに繁華街の混雑と百貨店の雰囲気を味わった。

人流そのものが危険なのではなく、マスクを外しての接近が危険なのだから、人出だけで感染が広まるわけではない(実際、感染者数は連日減少中)。
ワクチン+マスクという防御策を維持しながら、皆で経済を回していきたい。


スマホ生活1ヶ月

2021年09月18日 | 生活

長年のガラケーからスマホ生活(機種は富士通のarrowsBe4Plus)に入って1ヶ月。
もっとも、iPad(Wi-Fiモデル)を初代から使ってきているので、スマホの電話機能以外はすでに経験済みだが、電話とフェリカ(Suica)とタブレット機能が一体化したスマホ生活はそれなりに新鮮だった。

ガラケー時代は、たまに使う通話(家族と金融機関)以外は、もっぱら用途はフェリカだけなので、折畳みの携帯を開くこともなく、鞄に入れっ放しだった(ドコモメールは見ない)。

そのフェリカの使い勝手だが、ガラケーは折り畳んだままで通過できたが、スマホ(アンドロイド)は、初期設定だといちいち画面をスリープ解除してオンの状態にしないと通過できなかった(つい最近これに気づいて設定し直した)。
しかも手の中にすっぽり入るガラケーとちがって手からはみ出るスマホは、背面部分のセンサー部分をきちんと当てる必要がある(ズレると通せんぼされる)。
はっきり言って改札の通過はガラケーの方が楽だった。

次に通話。
折畳みガラケーはスピーカとマイクの間が適度に曲がってくれるので、違和感なかったが、直線型のスマホを耳を当てると口元が遠ざかって相手に聞こえているのか不安になる(問題はないようだ)。
あと電話帳アプリのデータ形式がドコモとGoogleの二種類あり、番号データは共有されるのだが、名簿の分類基準は共有されないため、どちらか1つに絞って電話帳を作らざるをえない(Googleに絞りたい)。

それから、初期設定になっている、目障りなおせっかい機能(昔のWindowsにあったイルカみたいな)は真っ先にオフにした(Appleにはこういうのがない)。

いろいろアプリをインストールするのだが、パソコンとの連携上、まずはGoogleアプリとなる。
これらのダウンロード作業は、Wi-Fi接続時のみに設定しているので、最低料金契約での月1GBの容量を超えなくてすむ。
iPodtouchで使っていたポッドキャスト、スマートリモコンなどもこちらでも使えるので、iPodtouchを持ち歩く必要がなくなった(大きさ的にはtouchの方がいいのだが)。

一番使ってるのは、iPadminiで使っていた、スマートウォッチ連携アプリ(健康管理情報)と、業務用メールの二重認証機能。
iPadminiは、それなりの大きさの画面で見たい電子書籍と地図、それに講義画面に使うが、それ以外はこのスマホでいいかもしれない。
特に散歩でのナビはiPadminiでは大きすぎるので、スマホの月1GBの容量をこれに使いたい。


本日は台風の特異日

2021年09月17日 | お天気

台風14号が、珍しいことに福岡に上陸し、東行して日本を横断しつつある。
この進路自体は珍しいが、

実は、9月17日は台風の特異日。

11月3日(文化の日)が「晴れの特異日」というのは有名だが、過去の統計から台風の特異日というのもあるのだ。

なので私のカレンダーでは、本日は台風が来ることになっていた。
今日のほかに、来週末の9月25日、26日もそう。
9月26日は伊勢湾台風が上陸した日でもある。

今が台風シーズン真っ盛りということ。
くれぐれも油断めさるな。

 

 


ユーザーイリュージョン:意識という幻想

2021年09月11日 | 作品・作家評

最新の科学をきちんと解説してくれる科学ジャーナリストは貴重な存在で、この『ユーザーイリュージョン』の著者トール・ノーレットランダーシュはデンマーク人ながら、国際的な活躍をしているようだ(デンマークというとヨーロッパでもマイナーな印象だが、実存哲学者キルケゴールを輩出し、量子力学の中心地にもなっている)
和訳(柴田裕之訳、紀伊国屋書店)で500ページを超えるこの本は、電磁気学のマクスウェルから始まり、情報理論のシャノン、数学者のゲーデル、そして脳内の0.5秒の遅れを明らかにしたリベット、あるいはこのブログでも紹介した意識は3000年前に発生した説(→その記事)のジェインズの研究を紹介している(ジェインズの説を補強するものとして、ヨーロッパでは西暦500-1050年の間も意識は消滅したという説が紹介されている。これがいわゆる”中世の暗黒時代”)。

論点は多彩ながら、メインは、我々が自分自身だと思っている意識(自我=私)が、いかに「自分」の上澄み部分でしかないかを(フロイトやユングと異なり)科学的に説いている。

最も分かりやすいのは、意識の情報量と感覚の情報量の比較の箇所。
意識というのは、注意集中という情報の選択(=捨象)を伴うものであるから、感覚より処理する情報量が少ないのは当然だが、bit換算すると視覚情報においては百万分の1にすぎないという(他の感覚相ではそれほどではない)。
われわれが絵画や映画を幾度観ても見飽きないのは、意識が一度に処理できる情報量があまりに少ないためである(観るたびに発見がある)。
逆にテキストは一読で情報が100%伝わるので、繰り返し読む必要がない。

著書は1997年発行なので、21世紀の「二重過程モデル」以前、ましてや私の多重過程モデル以前なので、意識とそれ以外(補集合)という二元論的発想段階ゆえ、多重過程モデルから見ると「それ以外」が未整理(システム0,1,3が混在)だが、二重過程モデルでのシステム1とシステム2に置き換えると、システム1の情報量はシステム2の情報量の100万倍ということになる。

要するに、心を構成している2つのシステムがあるのに、システム2だけに依存していることがいかに非効率的かということだ。
たとえば「意識による管理がないときに、最高の頭脳労働がなされることがある」、「人生は意識していない時のほうがずっと楽しい」という。

ちなみに、表題の「ユーザーイリュージョン」とは、「パソコン」のコンセプト(パソコンは計算機ではなく、パーソナルでマルチなメディア)の提唱者アラン・ケイ(マーシャル・マクルーハンのメディア観をスティーブ・ジョブズに伝えた仲介者)の用語で、本来は複雑なブログラム(マシン語)で動くコンピュータをユーザーにはそれを意識させずに、日常的な発想(たとえばファイルやフォルダーなどの文具)で反応するマシンと思わせる仕組みのこと(それを製品として最初に実現したのがApple社のMacintosh。私がマカーであり続けているのも、アラン・ケイの「パソコン」コンセプトに共感しているから。ビル・ゲイツにはこういう哲学もジョブズのような美意識もなかった)
著者は、意識そのものも、感覚経験のほんの一部を概念的に解釈しているという意味で、ユーザーイリュージョンにすぎないという。
ちなみに、ユーザーもイリュージョンもない状態が「瞑想」だという(これは多重過程モデルでは「システム3」として明確に位置づけている)

著者は、意識がいかにわれわれから世界を切り離し、自己疎外をもたらしているかを説き、意識を自己と同一視している(3000年来の)現代人の在り方に警鐘を鳴らしている。

だがこの問題(意識の幻想性)は、すでに2000年前の大乗仏教で指摘されていることで、だから仏教はシステム2に依存しないためにシステム3(瞑想)を主たる行としている。
私の多重過程モデルでも、ここでいう意識(システム2)は、システム0〜システム4の中の1つ(心のほんの一部)にすぎないという相対化がベースとなっている。

だが未(いま)だに意識を自己(私)と同一視している人は多いだろうから、この本の存在価値は衰えていない。
なにより、意識現象を脳科学の世界に閉じこめず、情報理論や数学(非線形数学、カオス理論など)で論じることで、科学一般の現象として扱っている視点がいい(先に紹介した自由エネルギー原理もそれに該当する)。


健康診断を受ける:2021

2021年09月10日 | 健康

本日は年に一度の職場の健康診断。
これは確定申告とならぶ、一年間の2大プレッシャーの1つ。

なぜなら、この日に合せて、前々日は晩酌の発泡酒350ml1缶だけに抑え、前日は完全禁酒を実施し、2日間とも寝酒とともにつまみ菓子類もとらなかった。
これはγ-GTP(アルコール性肝炎・脂肪肝の指標)の検査値(と体重)を抑えるため。
かくも健康診断には、年に一度の”休肝日”という禁欲生活というプレッシャーが伴うのだ。

ただ、こうして実行できるのだから、こういう健康的な生活を日頃も続ければいいと”理性”は提案するのだが、それでは毎日の生活上の楽しみが無くなる!と”感情”は反発する。

理性の言い分も分らなくはないが、諸悪の根源である精神的ストレスは感情由来なので、行動主体としての”私”は感情の意見に従うことにする。
なので今晩から酒解禁!

それから、日頃は降圧剤のおかげで正常範囲の血圧だが、坂道を上って達する校舎で始めの方の検査項目であるため、血圧が上昇した状態なので再検査となることが多かった(再検査すれば下る)。
今日はまずは研究室でスマートウォッチを使って呼吸トレーニングをし、それと検査受付で長時間並んだこともあろうが、上が100、下が60台と異常に低かった(これは二回目で、1回目は上が90台)。
これでは逆に低血圧症だ。
こんな低い値は初めてで理解できない(体調に異状はない)。

あと体重は昨年並みだったのに、腹囲だけ7cmも増加(これも二度計測)。
メタボ基準(♂85cm〕を突破してしまった。
これは内臓脂肪が増えたせいだろう(家の体重計でそれは判っていた)。
今年の8月は極端な運動不足(ほとんど自宅に篭り)だったからなぁ。
それで体重が変わらないということは筋肉量が減ったのか?(家の体重計では変っていない)。

酒は解禁しても、腹囲はなんとか減らさなくては。
ただし今晩は、健康診断終了を祝して和幸の豚カツ盛り合わせ弁当!


安物スマートウォッチに過分な機能

2021年09月08日 | 生活

1年使っていた中国製の安いスマートウォッチが壊れたので(時計の裏面が剥がれた)、今まで通り、心拍と睡眠を計測できる安いスマートウォッチを購入した。

本来なら、マカーの私はアップルウォッチが第1候補になってしかるべきだが、バッテリの持ちの悪さで対象外(それにスマホがアンドロイドだし)。
次に同じくSuicaが使えるガーミンに食指が動いたが(こちらはアンドロイド対応)、ガーミンなら地図表示がほしくなり、またバッテリが劣化するという評価を見て躊躇。
そこで当面は、心拍数と睡眠の2つが測れりゃいいや(Suicaは諦め)と安い中国製(ただし今までとは違う製品)にしたわけ。

買ったのはWINS-JPというブランドのVIRMEE-VT3Plusという製品で、価格は4990円でしかも買った時はクーポンで2000円引き。
同梱の説明書には一通りの操作法しか書いてなかったが、連携するスマホアプリ(2つのどちらにも対応)をダウンロードして接続し、一晩自動計測して驚いた。

まず心拍数は普通に測れて、それがスマホでは時系列データとなると思った(前の製品はこれ)。
ところがスマホ画面だとそれで終らずに、2次元散布図が出て、心臓の健康度が評価される。
この散布図、ローレンツプロットといって2心拍間(n,n+1)の変動(RR間隔)の差異(単位はmsec)をnとn+1の2次元(それぞれ0-2000msec)でプロットしたもの。
こんな専門的グラフが出るなんてすごい。

次にストレスチェックなるものをやってみた。
時計の指示に従って呼気と吸気を同じ秒数繰り返す。
時計には結果の判定だけが出たのだが、スマホでは「心拍変動 (HRV)に基づいて算出される」という説明が出ていた。
やはり、心拍ではなく、心拍変動を計っているなんて。

心拍変動は、心拍間隔の時間変動のことで、この変動は拍動をコントロールしている自律神経(交感神経と副交感神経)の活動バランスによるもの。
それゆえストレスの生理的指標(システム0)として注目されていて、私は研究で被験者のストレスを計るために専門の心拍変動計(チェック・マイハート)を10万円以上出して購入しているほど。
ただしそちらの装置はセンサーを腕に装着して5分間安静にするので、手軽にいつでもというわけにはいかない。

心拍変動がストレス指標として優れているのは、交感神経の活動と服交感神経の活動を別個に測定できる点(幾種もの統計指標が算出されるが、この時計はそこまでは出ない)。
おおざっぱに言えば、心拍変動が大きいほどストレス(交感神経興奮)が低いという評価(つまり心臓が規則正しく波打ちすぎているのはストレス状態)。
統計的には、男性の高齢者ほど心拍変動が小さく、また寿命とも関連があるという。

さらに心拍変動の散布図で、心臓の健康状態(心室か心房かなどの心臓のより細かな問題)も判定できる(右図。ただし医療用ではないと明記)。
心拍変動は、不整脈のように自覚できるほどの(周波数の)大きな振動ではなく、普通に波打っている時の自覚できないレベルの振動(だからこそ計器による分析が必要)。
狭心症を患った者であることを加えて、心拍変動がいつでも計測できるのは二重に嬉しい。

まさか、こんな安物で心拍変動が計測されるとは驚き。
もっともメカ的には心拍が計れるなら当然心拍変動も計れるので難しくない。
後は心拍変動の価値を知って解析ソフトを作ればよいだけ。
なにしろ、Amazonサイトでは「心拍数」としか触れていない(寂しいことに心拍変動を求めるユーザーがいないか)。
さらに今話題の血中酸素濃度(これはコロナ過でやっと世間に価値が認められた)もいつでも計れる。
さらにさらに、睡眠の経時的集計も、今までの製品は浅い睡眠と深い睡眠の二種類だったが、こちらはレム睡眠とノンレム睡眠の浅い/深い※の計3種(覚醒を入れると4種)に別れるので、こちらも嬉しい。
※ノンレム睡眠は細かくは浅い睡眠のS1とS2、深い睡眠のS3とS4 の4つに別れるが、S1とS2およびS3とS4 の違いは特定脳波の出現頻度の違いなので、質的なものではない。

以上をまとめる
常時自動計測:心拍、心拍変動(ローレンツプロット)、歩数(距離)、消費カロリー、睡眠段階(睡眠中のみ)
任意計測(記録は経時):血中酸素濃度、心拍変動によるストレス評価

ということで、とりあえずは期待以上のスマートウォッチをゲットした。


閉眼片足立ちが困難な理由2:より学術的説明

2021年09月05日 | 心理学

眼片足立ちが困難な理由(→閉眼片足立ちが困難な理由)について、「自由エネルギー原理という脳の理論を使って、もう少し学術的に説明できそうなので、その論理で説明してみる。
※:『脳の大統一理論:自由エネルギー原理とはなにか』乾敏郎・阪口豊 岩波書店 2020

これはものすごくかいつまんで言うと、ビートたけしの定番のギャグで、手に持ったコップが、口にではなくおでこにあてる動作があるが、逆にわれわれが普段、なぜ思った通りにコップを口元に持っていけるのかを説明できるもの(ホントはもっと数学的)。

まず感覚レベルで、コップの位置・形の感覚情報が与えられ、それに向って手を伸ばす運動をするのだが、つかんで移動する間のコップの位置の予想と現実との感覚の差が最小になるように運動制御され、コップの位置が目標となる口元に達するまでこの誤差の最小化が維持され続けるためというわけ。
そしてその誤差は無自覚レベルで”計算”され、最小化についても同様。
すなわちわれわれは意識レベル(システム2)で数字を使って計算するだけでなく、意識下レベル(システム1)で情報にもとづいて自動的に”計算”しているのだ
※:野球の打者が打上げた飛球を、外野手は、システム2で運動方程式を解くことはせず、打球の視覚的軌跡による予測誤差を最小化する方向に向って走り続けて(=システム1で"計算”しながら)、落下点に達する。”目測”を誤るとすれば、それはシステム1の計算ミスによる。

ちなみに、この計算にはベイズ統計学※が使われる。
※:我々が無自覚的にベイズ統計学を知っているのではなく、主観的確率を考慮するベイズ統計学が心理学的なのだ。


さて、改めて言うが、そもそも「片足での直立の維持」は、力学的にとても難しいことを前提にすべきである。

実際、関節を曲げられるフィギュアでトライすればわかるが、両足立ちでさえバランス確保に慎重になるのだが、ましてや片足立ちにさせようとすると、足首あたりの特定関節に負荷が集中して、その関節が動いてしまって、片足立ちはほとんど不可能であることがわかる。

では、なぜ生身の人間は可能なのか(ただし開眼で)。

片足立ちは、本来的に不安定であるため、身体はそれを維持するために”動的に”バランスを取り続ける。
すなわち重心は一定範囲内で揺動し続けている。

われわれの場合、フィギュアと違って特定関節に負荷が集中しないのは、重心の揺らぎに対する反射的な(意識を経由しない)姿勢制御によって、揺らぎの方向が戻されるという微調整が繰り返されるためである。

その制御努力すら自覚されないほどバランスが維持できている開眼時は、姿勢制御が多方向から同時に発生するため、身体がほとんど静止している状態を達成できている。
すなわち、無自覚レベルの”計算”が持続されている。

フィギュアにはこの計算機能がない(アシモなどのロボットは計算可能)。

この計算の対象が、視野による外環境(視野)の安定性だ。

視野が固定される方向で、重心のゆらぎ(姿勢誤差)が意識(システム2)を経由せずに意識下の機構で連続的に補正(計算)される。
それによって視野の揺動の予測誤差が最小化される。

そもそも姿勢を維持する直接の機能は筋肉と平衡感覚であり、これらはともに「自己受容感覚」という。

片足立ちの維持は、視覚情報という外受容感覚信号の誤差最小化(視野の安定)を達成することを目標として、自己受容感覚の揺らぎ(誤差)の制御(最小化)が達成されている結果である。
すなわち視覚的誤差は姿勢誤差によって発生するため、視覚的誤差をモニターしながら、それを最小化することで姿勢誤差を制御するのである(乗物の運転制御もそうやっている)。


以上を前提として、眼するとこれが困難になる理由を考えてみる。

開眼時の姿勢維持は、視野の安定という目標のため(視野)の予測信号と実際の揺れを通した視覚信号との誤差(視覚的誤差)を最小にすることで達成できたが、
眼によってこの外受容感覚信号が遮断されれば、視覚誤差がまったく計算できなくなる。
そのため、それにもとづいて計算されるはずの姿勢誤差も計算できなくなってしまう。

身体の重心の揺れは、実際には方向や大きさはランダムではなく、限られた範囲の方向のズレとその揺り戻しであることが多い。
それなのに、視覚信号という根拠を失った姿勢の予測信号は、メクラメッポウ(ランダム)な方向で揺動に対する制御をしようとするため、一定の確率で、揺動と同じ方向のズレ、すなわちかえって揺動(誤差)を拡大してしまう事がある。
なので、眼片足立ちをしていると、開眼時の微細な揺動に留まらず、不自然に身体が大きく動揺することがある。
そして重心(からの垂線)が基底面(片足の裏面)を外れたら、もう物理法則によって転倒するしかない。

ただし、その重心を支えきれない時の内受容感覚信号はとんでもなく大きい誤差信号(緊急事態)として適時に脳に伝わるため、反射的に浮いていた残りの足を地面につけて転倒を防ぐことはできる。

眼片足立ちの時、視覚からの信号の代わりに使えそうなのは、まずは体重を支えている足の筋紡錘からの自己受容感覚信号(重心の偏りによる負荷の増大)である。
その信号を読み取ることで、姿勢制御のために運動野からの予測信号が発するのだが、この感覚信号の解読がうまくできていないと、予測制御がうまくいかない。


以上、説明は学術的になった。
が、理論を使うことで事態は改善できるか。

この理論では、信号に注意(システム2)を向けるとその精度が上がるという。
仰せの通り、足の筋肉に注意を向けているが、精度を上げるための材料(外環境情報)がないためか、うまくいかない。

そもそもこの理論は人間の認知システムを大脳皮質〜辺縁系で説明するものなので、肝心の姿勢制御センターである小脳が含まれていない(私も説明自体も小脳部分を省略している)。
この理論が扱う無自覚な計算過程は大脳でのシステム1であり、大脳の外にある小脳はむしろシステム0に当る。→閉眼片足立ちでシステム0を鍛える

小脳は認知−運動系における完全無自覚な過程を大脳からの外部委託として専門的に担当している。
自分が(システム2を使って)自覚的にトレーニングできるのは、大脳の認知−運動系だけなので、小脳のトレーニングは大脳経由で間接的にやっていくしかなさそうだ。
ただしネットで検索できた”小脳トレーニング”は、いずれも視覚(眼球運動)を使ったものなので、眼の本課題には向かなそう。
残った可能性として、視覚以外の空間知覚である内耳の平衡感覚を感覚信号として使えるようにしたい。


『菜根譚』の知恵

2021年09月02日 | 作品・作家評

心理学の知識は、メンタルヘルスなどには役立つが、残念ながら”人格の陶冶”には向かない。
人間の完成を目指すには、参考になるべき人類の知恵といえる書物がたくさんある。

その代表は東洋では『論語』だが、それと並んで江戸〜昭和の日本人に影響を与えたのが『菜根譚』だという。
本書(『菜根譚コンプリート』野中根太郎訳・解説 誠文堂新光社)の前書きによると、著者である洪自誠は明末の人で(徳川家康と同世代)、まず中国で刊行され、それが日本に伝わって加賀藩の儒者・林蓀坡によって復刻版が広められ、結局、地元中国よりも日本人の精神性に深い影響を与えたらしい(菜根譚の愛読者:新渡戸稲造、五島慶太、田中角栄、野村克也など)。

著者・洪自誠は、儒家を任じているが、道教(老荘の教え)と仏教(特に禅)の視点にも立って、東洋の知恵をバランスよく配置している。 
このバランス感覚は、ややもすると常識的な適応主義に見えてしまうが、威勢のいい極論に走らず、また高尚すぎて実践困難な理想主義でもない、等身大の行動指南を与えてくれる。

まず感心したのは、すでに500年前からパワハラを諌めていること。

「厳に難からずして悪(にく)まざるに難し」(厳しい態度で接するのは易しいが、人格を否定するのは難しい)、とパワハラ・モラハラになりがちな事は認めている。
だからこそ、慎まねばならない。
どうすればいいか。
「人の悪を攻むるは、はなはだ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す」(人の悪を責めるときは、厳しすぎてはいけない。相手が受け容れられる程度を考えよ),ということである。
パワハラが日常化していた昨今の日本を見ると、本書の教えは庶民の間には浸透していなかった事を痛感する。

それから共感したのは、突き詰めない、満ち足りた状態を目指さないという態度。
「花は半開を看、酒は微酔に飲む」と、楽しみに溺れない(満開の桜の下で大酒飲んでどんちゃん騒ぎをしない)。
これは小笠原流礼法における「残心」に通じる(まだ居たいという心が残っているうちに訪問先を辞去するのがよい=まだ居てほしいと家人が思っているうちに客は帰るのがよい=互いに名残惜しい気持ちを残して別れるのがよい)。
まずは節度を守るわけだが、かといって節度を守ることを自己目的化しない(「操守は厳明を要して、しかも激烈なるべからず」)。

もちろん禁欲を勧めいてるわけではなく、
「欲にしたがうも是れ苦、欲を断つも亦た是れ苦なり」と、そのどちらにも傾かない釈尊の”中道”を紹介している。

基本は精神の自由を謳歌し、「家庭に個の真仏有り、日用に種の真道有り」(家庭に一個の仏がおられ、日常に一種の道がある)と、俗世間の中に道(タオ)を見出し、隠遁主義・超俗主義の自己満足性を批判する。

それでいて「安きに居りて危うきを思う」と、日頃の防災の心得もできている。

人格の陶冶を目指すのはいいが、高尚さが出過ぎるのもよくないという。
さすがバランス感覚。
「行誼は宜しく過ぎて高かるべからず」とあり、行誼を行儀と読むと、礼法の話になる。
小笠原流礼法の教えに「躾とて、目に立つならばそれも不躾」とあり、正しいからといって作法通りの所作をこれ見よがしに示すのは、場の雰囲気を壊し人に違和感を与えるという理由で、高次の不作法とされる。
正しい作法は、”作法が見えて”はいけないのだ。

あと自分の心に響いたのは、「水木落ちて石痩せ崕(がけ)枯れて、わずかに天地の真吾を見る」ということば。

茶の湯の祖・珠光の美意識「冷凍寂枯」は、利休的な「和敬静寂」に比べて理解しにくいものだが(わが小笠原流の茶は珠光直系)、
このことばによって、花も葉も落ちた冬枯れのその姿こそ、余分なものをすべて削ぎ落とした真実の姿であり、一見最も美から遠いそこにこそ美を見出せ、ということだとわかる。

本書のような箴言集は一気に読み進めるべきものではなく、
日めくりカレンダーのように、一日一文ずつじっくり"噛みしめて味わう"のがいい(なので”菜根”譚)。

 ただし、原文(漢文)の書き下しだけでは、現代日本と表現が異なるため、意味が通りにくい。
本書のような、用語解説と現代語訳が必要。