臨死体験は、それなりに強烈な体験で、体験者は死生観・人生観が変化するという。
それと、強い光
など共通した体験要素が注目されている。
では臨死体験は、死後の世界を見た体験といえるのか。
言い換えると、臨死体験は死後の世界の証拠となるのか。
結論から言うと、臨死体験は臨死状態での主観的体験という心理現象であり、外界としての”死後の世界”が実在するという”直接”の証明にはならない。
なぜなら臨死体験は、死者ではなく、その手前で戻ってきた生(還)者の体験だから。
すなわち、完全に死に切った人(埋葬済みの死者)の体験でないことで、死後の世界の体験とはいえない。
これは存命中に幾度も霊界に行ってきた(戻ってきた)というスウェーデンボルグの経験談についても同じ。
例えば私自身は、「霊を視る」(霊視認)現象の研究に手を染めているが、
この特異な心理現象が実在したとしても、それが直ちに霊の実在の証拠にはならない。
主観的な心理現象は客観的な物理現象ではないからである。
個々の臨死体験に共通性があるのは、臨死という身体の限界状況における脳の固有の状態によるものと思われている。
そしてその体験は文化的文脈で”解釈”される。
例えば強烈な光の体験
は、大乗仏教徒なら無量光仏=阿弥陀仏の来迎と解釈される(キリスト教徒にはそう解釈されない)。
私の父も生前、肺梗塞によって血圧が0になった時に特殊な夢を見た(その時、私も父の病室にいて血圧0を確認)。
それは、陰鬱で黙然としている人たちと川の辺りで小舟に一列に乗せられ、やはり黙然とした陰気な漕ぎ手が漕ぐ小舟の霧の中をゆっくり進んでいくという夢で、その際「あけの(明野?)に行け」※という声がしたという。
※:明野は、茨城・山梨・三重に実在する地名だが、父にとっていずれも縁がなく意味不明で、回復してから仕切りに気にしていた。
川というのも、臨死体験によく登場するアイテムの1つだ(他にお花畑)。
実は夢にも「定型夢」といって、多くの人が共通して見る夢がある(人の心の構造は共通している)。
典型的なのは「歯が抜ける夢」で、これは実際に乳歯が抜ける幼児期に見るのではなく、すっかり永久歯に入れ替わった思春期以降に見る。
でもその夢を見たからといって実際に永久歯が抜けるわけではない(歯は心理的な何かを象徴している)。
ちなみに臨死体験が通常の夢と違うのは、映像と記憶の鮮明さで、本当は夢も映像的には鮮明なのだが、夢見(レム睡眠)時は脳内の海馬(短期記憶の場)が休んでいるので記憶されにくい。
一方、臨死体験は強烈な記憶として残るため、その後も影響力を維持する。
(心のサブシステムである)システム2(自我・思考的心)において、自我と想念(思考・イメージ表象)は本来的には独立していることを主張したい(論文執筆中)。
覚醒時は自我が想念を制御していることが多いが、(臨死体験を含む)夢見では想念が自我から独立して作動し、あたかも自我にとって外部世界であるかの状況を作る。
そもそも人間の想念は科学的論理的思考が苦手で、古代からの神話的思考に馴染んでいるので、神話的言説の方に惹かれる。
ただし洗練されたシステム2(自我)は、自らの経験を疑うことも可能で、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という江戸時代の句は、その知性レベルを示している(同時代の多くの人は幽霊・妖怪を本気で怖がっていた)。
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは次の書『ホモ・デウス』で、
人間にとっての現実には、客観的現実と主観的現実の他に、みんなで作った共同主観的現実があるとしている。
多くの人は前の二者だけしかないと思っているが、実際には3つ目の共同主観的現実がその人にとってリアルな現実となっている。
共同主観的現実は貨幣、国家、法律、神などを構成しているが、煎じ詰めれば”虚構(物語)”で、(個人ではなく)みんなにとっては外部に存在している(と思っている)が、客観的には存在していない。
皆が経験するのは、枯れ尾花を幽霊として見ることだ。
ちなみにハラリは、今ではネットワークが共同主観的現実になっているという。
神経心理学的にも、我々が”見て”いるのは網膜上の外界の映像ではなく、その情報をもとに脳によって再構成された映像である。
それを利用したのがステレオグラムで、また錯視図形は皆が同じように誤って見える。
右図の中央に三角形が”見える”かもしれないが、そう見えるのは脳の再構成(存在しない輪郭を結ぶ)の結果で、画面には三角形はまったく実在しないことは”正体見たり枯れ尾花”的態度で確認できる。
ましてや臨死体験時は開眼すらしておらず、夢見と同じく閉眼した状態で(脳内の)映像を”見て”いる状態である。
人間は閉眼した状態で客観的な外界を見ることはできない。
ついでに仏教の「唯識思想」は、開眼での知覚対象でさえも客観的実在ではなく、心が構成したものであることをずっと昔に主張している(”実在”に固執することが迷いなのだという)。
科学的論理においては、存在の証明はできても(観測※1されればよい)、不存在の証明はできない※2。
※1:”正体見たり枯れ尾花”的態度で機器を使って正確に測定することで、素朴な態度でボーっと見ることではない。
※2:観測されないのは見つかっていないだけかもしれないから。宇宙人のように。
なので、科学においては、不存在をデフォルトにして、存在が証明されたものだけを、あらためて「存在する」と認めることにしている。
存在が証明(観測)されない場合は、デフォルト状態のままという意味での不存在という”設定”(≠証明)となる。
あの世が実在するなら、それを積極的な証拠で存在証明しなくてはならないが、臨死体験は上述の理由で積極的な証拠にはならない。
ただし、臨死体験があの世の証明にならないことは、あの世が実在しない(不存在)ことの証明にもならない。
あの世の存否を問題にしたいなら、むしろ、死後の霊の存在を確認する方が有意義である。
私が、閉眼での臨死体験に興味を示さず、開眼での(枯れ尾花の錯覚でない)霊の目撃(霊視認)の証拠を集めているのも、この方向に通じる。
なので、霊を見たこともないくせに、観念的に霊を論じる神話的言説※にも興味がない。
※:たとえばプラトン(『パイドン』)。一方、釈迦は沈黙し、孔子は知らんと言った。