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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

Apple Watchで心拍変動を測る

2025年08月26日 | 計測

スマホをアンドロイドからiPhoneに変更した結果、もともとApple製品愛用者だったため、生活がかなり便利になった。
前から買っておいたApple Watch SEが、iPhoneと繋げてはじめて使えるようなったのがうれしい(iPadとは接続できず)。

スマートウォッチ自体は、以前から中国製の安物を使っていて、睡眠チェックなどに利用していた。
むしろApple Watchはバッテリーの持ちの短さが欠点として、日常的に使う気になれなかった。

Apple Watchのアドバンテージには、生体情報が医学的に使えるレベルであること。
心拍が測れるのは当然だが、嬉しいことに心拍変動まで測れるではないか。

心拍変動(HRV)とは、心拍間隔の変動値で、これは心臓を動かす自律神経(交感神経と副交感神経)のバランス状態に連動している。
変動が小さい(≒機械的なリズム)場合は交感神経優位で(慢性的)ストレス状態、変動が大きい(リズムに自然なズレ)場合は副交感神経有意でリラックス状態とみなせる(ただし変動が大きすぎると「不整脈」というアンバランス状態)。
すなわち、現在のストレス/リラックス状態をリアルタイムで知ることができる。
Apple Watchで測れるのはSDNN(心拍標準偏差)という基礎的指標だけだが、変動を計測する時間は5分間で、専門の機器だと、5分間安静にしていなければならない。
※:心理的ストレス状態を生理的に測定したいので、専門の機器を買って修論・卒論で使わせていた。専門の機器だとSDNN以外の指標も取れる。
それが腕時計をつけたままで計測できるのだからありがたい。

計測結果は、Apple Watchと連携するiPhoneで、最初からあるアプリ「ヘルスケア」でも見れるが、「Heart Analyzer」というアプリをインストールするとより詳しく見れる(課金するとよいかも)。
さらにApple Watchの文字盤に心拍変動の値も表示できる。

実際、1日の変動グラフを見ると、日中は値が低く、夕食後になるとぐっと高くなる。
心拍数は夜間の熟睡中が一番低いが、心拍変動は就寝前の方が高い(実際、就寝前が自分にとっての最高のリラックスタイム)。

問題は、このデータをエクセルで分析するためにダウンロードすることだが、Apple Watchならできるという(他のスマートウォッチではできない)。

ウェアラブルの情報機器は、このように生体情報の計測に使えるからありがたい。
ただApple Watchについては、バッテリーの持ちをなんとか改善してほしい。


狛犬・狐像との付き合い方

2025年08月25日 | パワー・スピリチュアル

ある読者氏から以下の報告をもらった(一部略すものの原文で紹介)。
「先日、近所の神社に行き、入口の狛犬両方の頭をおもいっきし撫でて、そのあと、神社内にあったお稲荷さんの小さい狐両方の頭もおもいっきし撫でました。まるでムツゴロウさんみたいにヨーシヨシヨシ!みたいに思いっきしです。それから二日後でしょうか、それまで何もなかったのですが突然肩と首に嚙みつかれたような激痛が発生です。めちゃくちゃ痛いです。いーてててててて!!!!!マジで無理、痛い!痛い!です。人間そうなるともうロキソニンとか湿布とか何も効きません。熱さまシートで冷やしても無駄、何をしても無駄で、寝ようにも寝返り時にいーててててて!でまったく眠れません。もうどうしようもなかったので再度神社に行き、そこの神様にマジ痛いんです!助けてー!ってめっちゃ願いました。そうしたら、その後、そういえば温めはやっていないことに気づき、濡らしたタオルをレンジで40秒温めて肩と首を温めました。すると、そこからは一気に回復です。あれだけ痛かったものがものの数時間で治りました。」

これは他の人たちも経験しうる現象なので、この件について、以下”心霊論”の視点からコメントしたい(私自身は心霊論を信じているわけではないが、その論理は使える)。


結果、回復したからいいようなものの、これは「霊障」と言える。
狛犬と稲荷の狐の霊像に共通するのは、それらが動物(ケモノ)であること。

本人は、親みを込めてて動物の霊像を「撫でた」点では悪意はない。
ところが、相手が動物霊であるのが問題。
そもそも動物霊は、生身の人間よりパワーはあるが、本性はケモノなのでメンタル的には動物レベル。
人間側が親しみを込めても、ケモノ側は不意打ちのちょっかいとみなして、反撃に出るのが本能。
これは、現実の動物においても同じ(飼い犬に手を噛まれる)。

門番たる狛犬にちょっかいを出すのは、悪い魔物と思われてしまう。
稲荷の狐は、信者が奉納したものなので、信者本人以外の者がそれに触れるない方がいい(倒れていたのを起こすのはOK)。

神社に祀られる動物霊は主神の眷属なので、人間は主神に敬意を示せばよい。
眷属には文字通り”手を出さず”、彼らの間を神妙に通過して、主神を参拝すればいい。

参拝の基本は、上から目線の態度ではなく、”敬意”を示すこと。
動物の霊像を素手で撫でまわすことは、”ペットの飼い主”然とした上から目線の行為であるので、
ご主人様(主神)でない見ず知らずの人間にそうされて怒るのは当然。

なので、上の読者氏には、狛犬と狐にきちんと謝ることをお勧めする(いい関係を築いてほしい)。
さらに、それだけパワーのある神社が近所にあるのはありがたい事。


スピ体験の報告について

2025年08月24日 | パワー・スピリチュアル

読書の皆さんの中で、確かなスピ(霊的)体験があれば公開可能なコメントで知らせてください。

まず「確かな」というのは、「そんな気がする」という主観的思い込みでない、身体的・物理的(計器的)反応があった場合に限ります。

すなわち、実際に客観的に霊的現象を体験した場合、それについて報告していただければ、私の視点からアドバイスができます。

私の視点というのは、電磁波で補足されるパワースポットを調査している”計測マン”の視点、「心の多重過程モデル」における”トランス・パーソナル心理学”の視点、そして霊視認現象を探求する”心霊科学”の視点、そして、密教をベースとした宗教的心霊論の視点からもコメントできます。
ただし、単なる主観的思い込みや幻覚とみなせるものに対しては、単なる心理現象に過ぎないので、コメントする価値はありません。

 


論文を一応書き上げ

2025年08月16日 | お仕事

授業担当だけの大学教員ではなく、現役の研究者としては、夏休みは、休み(休業)でなく、論文を書き上げるという一番の繁忙期。
もちろん、夏休み前から、草稿は作りはじめるが、授業期間中は、大学業務を優先するから、なかなか進まない。

ただ、寄る年波で、最近は年に1本(書き手にとっての論文の数詞)が限度となり、生産性が落ちた。
※:研究者の生産性は、まずは論文の本数(真の生産性はその被引用数)。大学教員の生産性は、入学者(学費)と補助金への貢献度。入試業務とオープンキャンパスなどの営業活動は入学者数に、教育活動は補助金に直結する。

その1本の原稿が、締切1ヶ月前の余裕を残して一応仕上がった。

急いで投稿する必要はない。
後は、ゆっくりあちこち推敲して仕上げればよい。

実はその論文の内容そのものなのだが、論文を書き進めた際の自分の思考は、原稿執筆をしていない時も、潜在的に活動し続けている。
自我と思考(論文ではイメージ表象もあわせた”想念”)は別個の機能で、自我が思考にかかわっていない時も、思考は自律的に活動しているようだ。
というのがこの論文の主張(の一部)なのだ。

まさに、それを期待して、あえて私の自我はしばらく論文から離れてみる。
そうすると、まったく別のことをしている時にも、論文に追加・訂正する内容が浮かんでくる。
しかもその内容は、執筆した論理に合致している、すなわち思考の延長上なのだ。
だから、自我があずかり知らぬ間にも、思考が活動していた、といえるわけ。

今回の論文の主題は、意識現象を構成する自我と想念(思考+イメージ表象)との関係のさまざまな様態(→その記事)に注目したもので、「自我が思考を操作する」のは、その1様態でしかない。
たとえば別様態である夢は、自我から独立し、逆に自我を巻きこむほどに活発化した想念(意識)活動、とみなした。
夢でなくても、想念が自我を支配(マインドコントロール)する、という場合もある。


※:この他に知覚経験も意識を構成するが、知覚はシステム1で、自我+想念はシステム2というそれぞれ別の心のサブシステムである点が異なる。だから動物(システム1のみ)にも共通する知覚処理には、自我も想念も必要ない。


私が唯一観ないジブリ作品は

2025年08月15日 | 作品・作家評

ジブリアニメは後から好きになり、DVDなどで見まくっているのだが、唯一観ていない作品がある。

高畑勲作品の「火垂るの墓」だ。

観たくないのではなく、観れない。
悲劇、とりわけ幼子の悲劇がダメだから。

「この世界の片隅に」さえ、そのシーンは辛い。
でもこの作品は最後に救いがあるからなんとか観れる。

というわけで8月15日の終戦の日は、「日本の一番長い日」(1967年・東宝版)を観ることにする。

ついでに、1回だけ観てもう観なさそうなのは「ポニョ」。


川の水位はネットで確認

2025年08月12日 | 防災・安全

気象予報士としてというより、防災士として皆さんに言いたいことは、大雨時に川の様子を絶対に見に行かないこと(見に行っていいのは水防団の人たちだけ)。
今まで、多くの人がそれで命を落としている。
大河川だけではない、近所の用水路についても同じ。

川の水位が気になるのは当然で、なにしろ、避難判断の基準が近くの川の水位だから。

では気になる川の水位をどうやって知ればいいか。

ネットで知ることができる。
気象庁のサイトではなく、その上位組織である国交省のサイト「川の防災情報」。

全国の大小の川の水位計・河川カメラの総合実況サイトだ。
見方に慣れを要するが、大雨時は私はこのサイトを開きっ放しにする。

たとえば、8月11日の17時に、熊本の五丁川が増水して水位が堤防高を越えた。

それをこのサイトは下図のように実況で示してくれる(画像は画面の一部)。
図内の左の「横断図」は、水面が堤防天端から14cm越えていることを示し、中央の「河川カメラ」がその状態を実写している。
右の「水位グラフ」は水面の高さの時系列変化で、高さは減少傾向であることを示している(その下の横線が堤防天端)。
河川カメラはすべてにあるわけではないが、カメラがない所でも数値で確認できる。
しかも、情報は5-10分で更新される。
なので刻々と増水する様子がわかり、図中で示される避難判断水位、氾濫危険水位などを越えていく。

家に居ながらにしてこれを見ない手はない。


九州に線状降水帯ができている理由

2025年08月11日 | お天気

本日の天気図を見ると、梅雨前線のような長い停滞前線が日本列島を横断している。
そして梅雨末期のような大雨が、九州を中心として続いている。

長時間続く停滞性の大雨は、線状降水帯として気象レーダー(ナウキャスト)で確認できる。
線状降水帯とその原因である前線はともにテレビでも図示されるが、
その線状降水帯をもたらす前線がなぜできているのかは示されていない。

そこで、気象予報士のアンチョコである数値予報天気図から、850hPaの「相当温位予想図」を紹介しよう(右図:10日21時での12時間後=11日9時の予想)。
これはその図の一部だが、南西からの風(矢印)で、354Kの高い相当温位の空気が日本の九州の西に達している。
相当温位とは、空気中のすべての水蒸気が凝結した場合の温度を摂氏ではなく絶対温度(K)で示したものだ。
354Kは81℃に相当する。
気温としてはありえないこの値は、それだけ水蒸気(潜熱)が多いことを意味している。
すなわち、「暖かく非常に湿った空気」が、日本の南西側の九州を直撃しているわけ。

そしてその北の等温位線が密になっている所が、気団の境界すなわち前線に当る。
ただし850hPa(約1500m)上空の図なので、地上天気図(海抜0mに調整)の前線の位置とは異なる。

一般に相当温位340K(67℃)が、大雨のラインだ。
なので354Kは尋常でない水分量(可降水量)ということになる。

あちこちで(浸水、土砂)災害が発生してもおかしくない状況(実際に発生している)だということ。

ちなみに、これらの図を解読して予報するのが、気象予報士の試験問題。


アルゴリズムが人類を支配する?

2025年08月09日 | 作品・作家評

AI革命が進行する現在、われわれはそれとどう付き合ったらいいのかが喫緊の課題だと思う。

そこで、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ(イスラエルの歴史学者)による、人類の未来を論じた『ホモ・デウス』と『NEXUS』を続けて読んだ→『サピエンス全史』評

ここでは2015年に書かれた『ホモ・デウス』(2022年邦訳 河出書房文庫版)について紹介する。


サピエンスが、デウス(神)にならんとする過程を描いた『ホモ・デウス』での第一のキーワードは、アルゴリズム(algorithm)。

21世紀はアルゴリズムに支配されるという。

アルゴリズムとは、「計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序立ったステップ」の意味で、料理のレシピもその一つだが、実際にはコンピュータ・プログラムの作動の流れのことをいう。

ここで個人的に思い出すのは、イギリスの喜劇俳優ローワン・アトキンソン主演のコメディ映画、「ジョニー・イングリッシュ」シリーズの三作目『アナログの逆襲』(2018年)で、悪役のアメリカのプラットフォーマー(IT長者)が世の中を動かしているのは「アルゴリズム」だと盛んに論じていたこと。
またその言葉こそ出なかったが、細田守のアニメ映画『サマーウォーズ』(2009年)もデジタル・アルゴリズム支配下の世界を前提にしていた
※:「その言葉こそ出なかった」と書いたが、映画を確認したら、主人公が「shorの因数分解アルゴリズム」の本を読んでいるシーンがあった(文字では出ていた)。

ハラリは、これを広義にとって、人間自体も「感覚、情動、思考によって機能するアルゴリズムが制御」しており、その情動も感覚情報を計算して作動する生化学的アルゴリズムであるという。
これって言い換えれば、既存の生物メカニズムがデジタル・アルゴリズムに置き換え可能であることを示唆するか。


次に重要な指摘として、サピエンスが生きている現実には3つあって、1つは客観的現実、次に主観的現実、そして3つめが共同主観的現実である。
共同主観的現実は、大勢の共通の物語(虚構=神話)のネットワークによって生み出されたもので、貨幣、国家、法律、神などが該当する。
我々の生活を支配しているのは、この共同主観的現実であることがわかる。

かつては宗教がこの現実を強固に秩序化してきたが、近代以降は、神の座に人間自身を据える「人間至上主義」になったという。
そこでは人間の自由意志が最も尊重される。
ところが、最近の脳の研究では「自由意志」もまた神話であることが曝露されている。

そして現代、それに代わる原理となりつつあるのが「データ至上主義」。
これは、データを所有し処理できるアルゴリズムが、人間の知識や知恵を凌駕する段階になったことの反映である。
データ至上主義においては、人類は単一のデータ処理システムであり、(かつては至上価値であった)個々の人間はそのチップ(部品)に成り下がる。
言い換えれば、人間はデジタル・ネットワークにデータ化されることではじめて存在意義をもつようになる。

これは私自身が痛感することで、私がこのブログを営んでいる理由がまさにそれだ。
私だけでなく、ユーチューバ−やティックトッカーも同じだろう。
それは、単なる承認欲求ではない。
いや、承認欲求とするなら、欲しいのは生身の他者から承認以上に、デジタル・ネットワークからの承認(居場所)だ。


最後の章でハラリは、世界を席巻しつつあるこのデータ至上主義に疑義を呈する
「この世界にはデータに還元できないものがあるのでは?」と。
たとえば、意識を持つ知能(人間)が、意識をもたないアルゴリズムに取り替えられることによって失うものがあるのではないか。
あるいは、生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか。
生命は本当にデータ処理に過ぎないのか。
そして、知能と意識のどちらのほうが価値があるのか。

特に「生命は本当にデータ処理に過ぎないのか」という問いは、心を生物の情報処理機能とみなす現代”心理学”(私もその一員)に対する疑義としても受け取りたい。

※:デジタル・アルゴリズムの支配に対して、”アナログの逆襲”は可能か、という視点ともいえる。


巻末の謝辞で、ハラリが長い間ヴィパッサナー瞑想を実践してきたことが記されていた。
『サピエンス全史』で彼が仏教に好意的だったのも、その関係かもしれない(ユダヤ・キリスト教には醒めた目で見ている)
そして、ヴィパッサナー瞑想によってシステム3(ハイパー意識)が作動できたからこそ、サピエンスのシステム2(物語が大好きな思考癖)を客観的に眺めることができたに違いない。
但し『サピエンス全史』でも本書でもシステム3というサピエンスの可能性を論じていないことから、彼自身にシステム3という意識レベルの自覚はないようだ。


今更ながらiPhoneSEに機種変更したら

2025年08月08日 | 生活

それまで使っていたガラケーから、0円のアンドロイド端末を最安値の通信サービスで使ってきた。
たまの通話とナビ用途くらいだったので、それで支障なかったが、
アンドロイドはセキュリティ機能が落ちるためか、勝手にインストールされたアプリが勝手に起動して音を出してうざい。
そしてウイルスに感染されたとか空き容量がない(ウソ)とかのアラートもうざい。

決定的なのは、私は基本がMacとiPadユーザーで、しかもAirPods ProとApple Watchを買ったので、特に後者はiPhoneが必要となったこと。
ただし、iPhoneの新機種はバカ高いので買う気がしない。

それでずるずるそのままにしていたのだが、夏休み中にはiPhoneへの変更をしようと、
本日思い切って近くのドコモショップに予約して行った。

まずは相談だけのつもりだったが、iPhoneSEの中古(新品同様)の在庫があるというので、思わず即決した。
SEは大きさ的に最も手ごろで、旧機ながら最新OSが入るので、第一候補にしていた記憶があったから。
価格は4万円でこれを12ヶ月払いにした(手数料なし)。
回線は現状の最安値のままでいい(何しろ新しい用途はAirPods ProとApple Watch)。

いざ契約する段になって、「ホントにこれでいいのだろうか」と迷いが生じたが、これは重要な選択とする時に必ず発生する「決定後不協和」という心理現象だと理解して、迷いを吹っ切った。


機種変更が終わってから、ある意味、上の懸念が的中した部分がある。
やはり機種変更はちゃんとした準備と情報が必要だった。

まずは、モバイルSuicaの移行手続をしないで機種変更してしまったので、孤立機と化したアンドロイドからの移行手続ができないことが後でわかった。
なのでアンドロイドのモバイルSuicaを使い切って、一旦契約解除して、その後にiPhoneで再契約するしかない。
それまでは用無しのアンドロイドを余計に持ち歩くこととなる。


次に、旧機のSEはケーブルの口がUSB TypeCでなく、旧型のlightningであったこと(一応買う前に注意されたが、軽く流してしまった)。
今では、充電環境はことごとくTypeCなのに、 今更lightningを使うことになるとは…。

だが、TypeCの新機種だったらあと上乗せ額は数万円では足りない。
安く使えることを第一とするなら、このSEが正解であることは確かだ。

そこで期待したのは、TypeCからlightningへの変換アダプターの存在 。
私自身はlightningからTypeCへの変換アダプターはいくつも持っている(使わなくなったlightningケーブルを無駄にしないため)。
時代の流れから、lightningからTypeCへの需要はあっても、その逆向きは果たして製品としてあるのか。
これが唯一の不安だったが、別の買物でSeriaに行ったら、なんとSeriaオリジナル開発のTypeCからlightningへの変換アダプターが売られていた。
税抜き価格はもちろん100円。
不安なので、まず1個だけ買って、レジの外で、いつもバッグに入れているモバイルバッテリとTypeCケーブルに買ったばかりのアダプタをつけてiPhoneにつないでみた。
すると見事に充電が始まった。
欲しかったアダプターが市場最安値で買えたのだ。
売り場に戻ってそれぞれ充電する場所用に5つ買った。
500円で数万円の代わりになった。


臨死体験はあの世を見ているか

2025年08月06日 | パワー・スピリチュアル

臨死体験は、それなりに強烈な体験で、体験者は死生観・人生観が変化するという。
それと、強い光など共通した体験要素が注目されている。

では臨死体験は、死後の世界を見た体験といえるのか。
言い換えると、臨死体験は死後の世界の証拠となるのか。


結論から言うと、臨死体験は臨死状態での主観的体験という心理現象であり、外界としての”死後の世界”が実在するという”直接”の証明にはならない。
なぜなら臨死体験は、死者ではなく、その手前で戻ってきた生(還)者の体験だから。

すなわち、完全に死に切った人(埋葬済みの死者)の体験でないことで、死後の世界の体験とはいえない。
これは存命中に幾度も霊界に行ってきた(戻ってきた)というスウェーデンボルグの経験談についても同じ。

例えば私自身は、「霊を視る」(霊視認)現象の研究に手を染めているが、
この特異な心理現象が実在したとしても、それが直ちに霊の実在の証拠にはならない。
主観的な心理現象は客観的な物理現象ではないからである。

個々の臨死体験に共通性があるのは、臨死という身体の限界状況における脳の固有の状態によるものと思われている。
そしてその体験は文化的文脈で”解釈”される。
例えば強烈な光の体験は、大乗仏教徒なら無量光仏=阿弥陀仏の来迎と解釈される(キリスト教徒にはそう解釈されない)。

私の父も生前、肺梗塞によって血圧が0になった時に特殊な夢を見た(その時、私も父の病室にいて血圧0を確認)。
それは、陰鬱で黙然としている人たちと川の辺りで小舟に一列に乗せられ、やはり黙然とした陰気な漕ぎ手が漕ぐ小舟の霧の中をゆっくり進んでいくという夢で、その際「あけの(明野?)に行け」という声がしたという。
※:明野は、茨城・山梨・三重に実在する地名だが、父にとっていずれも縁がなく意味不明で、回復してから仕切りに気にしていた。
川というのも、臨死体験によく登場するアイテムの1つだ(他にお花畑)。

実は夢にも「定型夢」といって、多くの人が共通して見る夢がある(人の心の構造は共通している)。
典型的なのは「歯が抜ける夢」で、これは実際に乳歯が抜ける幼児期に見るのではなく、すっかり永久歯に入れ替わった思春期以降に見る。
でもその夢を見たからといって実際に永久歯が抜けるわけではない(歯は心理的な何かを象徴している)。

ちなみに臨死体験が通常の夢と違うのは、映像と記憶の鮮明さで、本当は夢も映像的には鮮明なのだが、夢見(レム睡眠)時は脳内の海馬(短期記憶の場)が休んでいるので記憶されにくい。
一方、臨死体験は強烈な記憶として残るため、その後も影響力を維持する。

(心のサブシステムである)システム2(自我・思考的心)において、自我と想念(思考・イメージ表象)は本来的には独立していることを主張したい(論文執筆中)。
覚醒時は自我が想念を制御していることが多いが、(臨死体験を含む)夢見では想念が自我から独立して作動し、あたかも自我にとって外部世界であるかの状況を作る。

そもそも人間の想念は科学的論理的思考が苦手で、古代からの神話的思考に馴染んでいるので、神話的言説の方に惹かれる。
ただし洗練されたシステム2(自我)は、自らの経験を疑うことも可能で、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という江戸時代の句は、その知性レベルを示している(同時代の多くの人は幽霊・妖怪を本気で怖がっていた)。


『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは次の書『ホモ・デウス』で、
人間にとっての現実には、客観的現実と主観的現実の他に、みんなで作った共同主観的現実があるとしている。
多くの人は前の二者だけしかないと思っているが、実際には3つ目の共同主観的現実がその人にとってリアルな現実となっている。
共同主観的現実は貨幣、国家、法律、神などを構成しているが、煎じ詰めれば”虚構(物語)”で、(個人ではなく)みんなにとっては外部に存在している(と思っている)が、客観的には存在していない。
皆が経験するのは、枯れ尾花を幽霊として見ることだ。
ちなみにハラリは、今ではネットワークが共同主観的現実になっているという。

神経心理学的にも、我々が”見て”いるのは網膜上の外界の映像ではなく、その情報をもとに脳によって再構成された映像である。
それを利用したのがステレオグラムで、また錯視図形は皆が同じように誤って見える。
右図の中央に三角形が”見える”かもしれないが、そう見えるのは脳の再構成(存在しない輪郭を結ぶ)の結果で、画面には三角形はまったく実在しないことは”正体見たり枯れ尾花”的態度で確認できる。

ましてや臨死体験時は開眼すらしておらず、夢見と同じく閉眼した状態で(脳内の)映像を”見て”いる状態である。
人間は閉眼した状態で客観的な外界を見ることはできない。
ついでに仏教の「唯識思想」は、開眼での知覚対象でさえも客観的実在ではなく、心が構成したものであることをずっと昔に主張している(”実在”に固執することが迷いなのだという)。


科学的論理においては、存在の証明はできても(観測※1されればよい)、不存在の証明はできない※2
※1:”正体見たり枯れ尾花”的態度で機器を使って正確に測定することで、素朴な態度でボーっと見ることではない。
※2:観測されないのは見つかっていないだけかもしれないから。宇宙人のように。
なので、科学においては、不存在をデフォルトにして、存在が証明されたものだけを、あらためて「存在する」と認めることにしている。
存在が証明(観測)されない場合は、デフォルト状態のままという意味での不存在という”設定”(≠証明)となる。

あの世が実在するなら、それを積極的な証拠で存在証明しなくてはならないが、臨死体験は上述の理由で積極的な証拠にはならない。
ただし、臨死体験があの世の証明にならないことは、あの世が実在しない(不存在)ことの証明にもならない。

あの世の存否を問題にしたいなら、むしろ、死後の霊の存在を確認する方が有意義である。
私が、閉眼での臨死体験に興味を示さず、開眼での(枯れ尾花の錯覚でない)霊の目撃(霊視認)の証拠を集めているのも、この方向に通じる。
なので、霊を見たこともないくせに、観念的に霊を論じる神話的言説にも興味がない。
※:たとえばプラトン(『パイドン』)。一方、釈迦は沈黙し、孔子は知らんと言った。