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ウ・スンシル”別れの終着駅” ”忘れられた傘”

 

「MBC大学歌謡祭」出身のウ・スンシル。歌の上手さはわかっていましたが、ブルージーな歌いっぷりにはただただ感激して聴き入ってしまいました。
 
      別れの終着駅
 
  行けども行けども果てしない 孤独な旅人の道
  霧深い夜明けに 私は去っていく 別れの終着駅
  人々は行き交うのに あの人だけはどうして帰らない
  ほのめく月の下で 私は涙ぐんでいる 別れの終着駅
*ああ いつも私の胸の 霧がすっきり晴れて
  ああ いつこの胸に 明るい日が昇るのか
  行けども行けども果てしない つらい旅人の道
  雨風が吹く 吹雪が荒れ狂う 別れの終着駅 *
*〜*
 
 
 
 
 
  
ウスンシルの「忘れられた傘」は、1982年の「MBC大学歌謡祭」の銅賞受賞曲です。チョジョンヒの「雀と案山子」はその年の大賞受賞曲で、1992年の歌謡祭メドレーでは、ウスンシルが「雀と案山子」を歌っています。それを聴くとウスンシルは声量があるので、チョジョンヒより良い歌に聴こえます。
  1982年の歌謡祭の歌を聴くとアマチュアの大学生が歌っている感じですが、30年も経つとこんなにムーディーになるのですね。
 
   「忘れられた傘」
 
 霧雨が白く降っていた夜 
 あなたが暮らす小さな島に 連れられた日から
 あなたは私のたった一つの 傘になったけれど
 今 雨の中を歩く 私には傘が無い
 過ぎ去った物語は 私には夢のようだけれど
 白い紙の上に描ける 小さな愛だわ
 忘れ去ったあの日の思い出は
 今 雨の中へと歩いていく私には 傘となる
 
 
 ウ・スンシルに関する韓国記事がありました。
 
 ”忘れられた傘”で 1982年大学歌謡祭で銅像を受けて派手にデビューした歌手ウ・スンシル。歌詞の “忘れ去ったあの日の思い出は 今雨の中へと歩いていく私には傘となる”と言う印象的なリフレーンとともにヒットを記録しました。
 そして 30余年が経ち、歌のタイトルのように ”忘れてしまった 30年”を暮して来たウスンシルをインタビューしました。
 ウ・スンシルに会った所はとある小さなライブカフェー。彼女は歌手デビュー以来歌を止めたことがないと言いました。息子の介抱のために、29億の借金を返すために呼ぶ所があればどこでも駆け付けて ”忘れてしまった傘”を歌いました。彼女は “このごろもカフェーで歌いながら暮している。「忘れてしまった傘」という代表曲があるというのも幸運です。 過去は忘れようと努力しながら楽しく暮しています”と話しました。
 ウ・スンシルは1991年結婚し、出産した息子が脳水腫判定を受けて、2005年世を去るまで 13年の間看病をしました。ビョングスという名前の息子は陣痛が起きて病院に行く車の中で生まれてしまいましたが、へその緒を切って息をすることができませんでした。病院に到着して集中治療室で治療しましたが、すでに脳機能の 80~90%が損傷された後でした。
 重度の障害を持つ息子とともに歩んできたウ・スンシル。10年しか生きられないと医師の宣告をうけたウ・スンシルは、息子をライブ公演の時も連れて直接面倒を見るほどに手厚く看病していました。13年の間面倒を見た息子は 2005年に亡くなりましたが、3年も長く生きたという事実はウ・スンシルには慰めになりました。彼女は “子供は私に多くのことを教えてくれて去った。育てながら大変ではあったが, 子供から初々しい純粋な愛を学んだ”と話しました。
 不幸は息子だけではなく夫の事業が何度も失敗し、引き受けた借金が 29億ウォンまで増えてしまいました。ウ・スンシルは姙娠 9ヶ月まで歌を歌いながら休みなしに借金を返す生活が続いたのでした。夫は借金だけ残したまま中国へ
行ってしまい結局 2009年離婚しました。
 ウスンシルはビョングス以外にも娘一人, 息子一人がいます。中学 2年の娘は中国にいる元夫と一緒に暮らしながら勉強しています。 ウスンシルは “娘が小学校 4年生の時中国で勉強したいと言った。初めは驚きましたが、今思えば利口な選択だったと思う”と話しました。
 今はソウル松坡区バンイ洞のアパートで、小学校 1年生の息子と一緒に住んでいます。 彼女は伝統ヨガセンターを開院して院長として、冥想と丹田呼吸で身と心を取り纏め方を教えています。
 “ある人々は私が経験した事の中で一つだけ経験しても、自暴自棄になるかも知れないが、私はそれらの困難にも常に感謝の気持ちで生きてきました”と話しました。
 
 
 
 
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