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昭和博覧会④ 占領とドッジライン

2022-10-18 15:44:18 | Bibliomania
11月14日(1945・昭和20年)
外へ出ると細雨。「銀座見物に行きましょう」と伊東君を誘った。雨でもアメリカ兵は銀座に 土産物買いに出ていた。小箱をかかえているのにつづけて会った。人形の箱だ。鳩居堂が開いている。薄暗く倉庫のようだ。地面が(註=店のなかが地のままなのである。)でこぼこしている。筆、線香、日本紙の書翰紙と封筒、そんなものがわずか並べてある。
松坂屋の横にoasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下にR・A・Aとある。Recreation & Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。
「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が、
「地下2階までは行けるんですよ」
地下2階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の3階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、3階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇撰夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人問が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が──。支那ではなかった。南方でもなかった。壊柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐兵御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。 ─(高見順/敗戦日記/文春文庫1981・原著1959)



1945年8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー米陸軍元帥は神奈川県厚木の海軍飛行場に降り立ち、7年近くにおよぶ日本の占領が始まった。9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号にて降伏文書の調印式、27日には吉田茂外相との話し合いに基づき、昭和天皇がマッカーサーを訪問、長身のマッカーサーが略装で腰に手をあて、小柄な天皇がモーニング姿でかしこまっている会見写真は国民に衝撃を与えた。その後のマッカーサーは強烈な自負心と恵まれた容姿、威圧と寛容両面の統治により日本国民の心をつかみ、英雄視・偶像化されてゆく。



物不足により戦前から続くコメなどの配給が乏しくなり、物価のインフレが極度に進んでヤミ市の値段に反映、飢える都市住民は生産地まで「買い出し」することに。列車の乗客は乗降口や連結器にまでしがみつく。配給品だけで生活した裁判官が餓死するという事件も(1946年の東海道線)



【左】戦災車や老朽車を再生したバス住宅が東京の焼け跡のあちこちに出現。炊事場つきの独立家屋が羨望された(1946年)【右】家も壕舎もなく、吹きさらしのトタン囲いで4度目の冬を迎える人も(1948年・東京鍛冶橋下)



1946年、大阪で。全滅を玉砕と言い換えたように日本人は占領軍を「進駐軍」と和らげて呼んだ。アメリカでは、日本人というのは戦争でそうであったように最後の一兵に至るまで死に物狂いで戦う民族だと考えられており、降伏してもゲリラ戦やテロが起って統治は困難であろうと、当初80万人の兵力上陸を計画していたが、日本人は彼らに対して思いがけず温和で行儀よく、子どもたちとはチューインガムやチョコレートを介した交歓、夜にはパンパンと呼ばれた女たち、うち固定的にGIのアパートに住むようになった女はオンリーさんと呼ばれ、抵抗はないとみたマッカーサーは占領直後の9月に「兵力は20万で十分」とワシントンに打電、それほど日本人の気持ちの切り替えは早かった。



1948年1月、戦中の44年から211人の乳幼児を養育費つきで引き取っていた東京新宿区の寿産院が103人を栄養失調などで死なせていたことが発覚。逮捕された院長とその夫は配給のミルクや砂糖、さらには死なせた子の葬儀用特配清酒まで横流ししていた。写真は同院の竹製ベッドで眠る乳幼児。



1949年7月、国電三鷹駅で無人の電車が車庫から車止めを破って暴走、駅舎を壊して民家に飛び込んだ三鷹事件。1946年2月からの預金封鎖・新円切り替え・財産税によっても激しいインフレは収まらず、45年9月から48年8月にかけ物価は700%の上昇、都市住民を中心に深刻な社会不安を巻き起こす。一方ソビエトによる東ヨーロッパ諸国の占領、中国の内戦が共産党優位となるなど、新たに東西冷戦の緊張が高まり、米政府とGHQは戦犯を罰して日本を弱体化させることより日本を経済復興させて冷戦の味方として強化する統治に移行する。これは同時に、失業と飢餓による社会不安から、台頭する労働組合と左派政党が革命を志向するようになることを防ぐ意味もあった。GHQはデトロイトの銀行家ジョセフ・ドッジを経済政策顧問として迎え、49年3月、1ドル360円の固定相場と増税を軸とする「ドッジ・ライン」と呼ばれるデフレ政策を実施。中小企業の倒産が相次ぎ、国鉄の従業員大量解雇をめぐって労働争議が頻発、国鉄総裁が変死体で見つかった下山事件や三鷹事件・松川事件、ほか光クラブ事件や金閣寺放火などまるで革命前夜のような社会不安が増幅。

1950年6月、朝鮮半島の南北の境界となっている38度線付近で戦火が勃発、やがて国連軍の編成、建国したばかりの中共軍の参戦により戦闘が拡大、収束まで3年を要する動乱となる。この間、国連軍の兵站基地となった日本は特需の外貨流入によりドッジ・デフレの沈滞を払拭する恩恵に預かったが、警察予備隊の創設(のち自衛隊)により再軍備のスタートを余儀なくされる。戦争は懲り懲りと誓った筈が、わずか数年で旧植民地の戦争を経済復興のきっかけとする皮肉なめぐり合わせ。


画像出展:①朝日新聞社・戦争と庶民1940-49・3巻②戦争と庶民1940-49・4巻③⑤朝日新聞社・アサヒグラフに見る昭和の世相・6巻④⑥⑦毎日新聞社・決定版昭和史・13巻
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