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幻想の横浜

2022-04-04 19:16:16 | Weblog
1998~99年、父母が相次いで自殺し、長期入院中だった私はケースワーカーの助力を得て幡ヶ谷の実家と、4歳から11歳まで住んでいた横浜市六ツ川台団地の住戸を処分、その代金などで都内のマンションを買って01年に退院してずっと住んでいるのである。実家の整理もままならず、遺品はほとんどが置き去りで、横浜時代の家族のアルバムも。

思い出がいっぱい。子どもって何をしでかすか分らない。父母にとっては驚きの連続、映画やドラマどころでない、家族としては最も幸福だった時期。昭和の一億総中流を体現するような郊外ベッドタウンの団地。引っ越してきた当時は付近に山林・竹ヤブ・水田・家畜小屋などあり、それらは宅地化スプロールでみるみる姿を消していった。アルバムの演出された光景でなく、父母と歩いた近所の空気、みるみる変って2度と見られなくなってしまったそれらと夢で逢えたら素敵なことね。



1973年、日本地図㈱発行の横浜市区分地図より南区。南北を垂直に表すため傾けています。69年に六ツ川台団地が竣工して4年経っているが建設工事中となっている。


横浜市が旧都市計画法に基づいて測図制作した3000分の1地形図、昭和初期~中期のものを市のサイトで公開しており、1954年測図・61年修正測図となっている「永田」「大久保」をつなぎ合わせ、↑と同じく傾けたもの。六ツ川台団地の区域は白抜きになっており、このときには宅地化計画・整地が進んでいたとみられる。


戦後間もない1949年に神奈川新聞社が発行した1枚ものの横濱市街図。狩場町の児童遊園地の敷地の一部を占領軍が接収して(ヘッダー画像の)英連邦戦死者墓地になったとのこと。



1927年、東京日日新聞が発行した大横濱地図。横濱市土木局校閲・横須賀鎮守府検閲済とものものしい。今の六ツ川1丁目の県道沿いは既に市街地になっていた様子。南区はできておらず中区の一部になっていて、港南区の西側や戸塚区の域は市に編入されていない。
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