マガジンひとり

自分なりの記録

中産階級ハーレム⑫ — 婚活殺人

2017-08-06 20:21:23 | 中産階級ハーレム
「女は昏睡強盗をしている。身は安全ですか。もしかすると、殺されていたかもしれない」

2009年9月21日千葉県内の警察署の一室。当時、木嶋佳苗容疑者(当時34、現在は死刑確定)と交際していた同県の男性会社員(当時46)は、同容疑者の別の男性への結婚詐欺疑惑に絡んで事情を聴かれた際、刑事からそう諭された。

男性は、体内から睡眠導入剤が検出されないかを調べるため尿検査を受け詐欺での被害届を出すようにも言われた。だが「彼女を全面的に信用している」。4時間余りの刑事の説得にも動じず、木嶋容疑者と暮らす自宅に帰った。実はこのとき、男性は木嶋容疑者と出会ってまだ6日しかたっていなかった。

「メールありがとう」。インターネットの結婚紹介サイトで同容疑者にメールを送っていた男性に、返事が届いたのは9月15日。「私は真剣にお付き合いしたい」と返信すると、同容疑者は「私も真剣です」。

翌16日には、木嶋容疑者から東京・池袋のマンションに招かれた。男性はせんべいや紅茶、麦茶など3種類の飲み物をごちそうになりながら、同容疑者から支援を懇願された。「料理教室ができなくなり、マンションを出るのに違約金が必要」「家政婦を雇ったと思ってほしい」

「彼女はこまやかな気遣いがあり、一緒に家で安らげたらいいな」。男性は困っている様子の木嶋容疑者を、一人暮らしの自宅で同居するよう誘った。次の日、要望通り250万円を渡すと、同容疑者は2日後、2トントラックにテーブルや食器などを積み、男性宅に引っ越してきた。

ソーセージとキャベツを煮たスープ、炊き込みご飯、パスタ…。木嶋容疑者は食事や洗濯に加え、2時間置きに床に掃除用のローラーをかけた。「すぐに子どもがほしい。家庭を作りたい」と繰り返し、30年以上の返済が残る男性の住宅ローンに「私が稼げば半分で返せるね」。「46歳でもいいのか」と聞くと「私は年上が好き」と笑い飛ばした。 —(東京新聞2010年2月2~6日の連載記事「偽りの婚活・連続不審死」より冒頭を抜粋。↑画像=高校2年の木嶋容疑者がボランティアの部活動でお年寄りと交流する様子)




キャバクラでモテた話など、聞いていられない。気のあるような素振りやLINEでのやり取りも含めて接客である。また、見た目のアンバランスさから、あからさまな同伴出勤であるにもかかわらず、美人を連れて歩いている俺と誇らしげなおじさんは見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。同伴出勤は決してプライベートではなく、キャバクラという空間が街にまで延長している状態なのだ。

(中略)マスコミ報道を通じて援助交際が当たり前になってしまったから、1990年代の中頃には、すでに、女子高生というブランドが陳腐化し、商品としての価値が女子大生やOL、あるいは主婦と同程度にまで下落したとされている(宮台真司『まぼろしの郊外』)。果たして、本当だろうか。

2010年代に入ってからも、JKビジネスと名称を変えて同じことが行われている。JKリフレやJKお散歩といったワードがメディアを賑わせた。女子高生にマッサージをしてもらったり、一緒に街を歩いたりすることが商売として成立している。女子大生やOLであることを売りに同様のサービスを展開しても、女子高生ほど客を集めることはできないだろう。

(中略)女性の価値は若さと美しさである。こうした一つの考え方を盲信し、世に広め、彼女たちにあのベッカム(のファッションセンス)を批評する立場を与えているのは、40男を含めた中高年の男性たちなのだ。キャビンアテンダントも同じである。スチュワーデスと呼ばれていた昔から、おじさんが勝手に彼女たちを特別な存在としてイメージしてきた。

 僕ら40男が若い女の子に振り回されているのではない。女性の魅力を若さや職業、あるいは制服といった要素で計っているのはこちら側である。勝手な基準を押し付けて女性に迷惑をかけているだけではなく、男性は自らが作り出したルールに縛られ、自分を追いつめている。自縄自縛とはまさにこのことである。 —(田中俊之 『40男はなぜ嫌われるか』 イースト新書・2015年)


そもそも、家事や育児というのは男女の分け隔てなく、すべての人間が、生きることの傍らに行うべきものです。

おんぶひもで赤ん坊を背中に背負いながら、家業を手伝う。子守をしながら店番をする。前に述べましたが、結婚した女というのが、ファミリービジネスの「労働力」として認められていた時代では、家事や育児は「労働」として認められておらず、「当たり前にやること」という位置づけでした。

そんな家事・育児を「仕事」としたのが、高度経済成長期の自民党政権でした。

「標準労働者」という言葉を生み、サラリーマン化社会を生み出すことで、女性を「主婦」として労働の現場から隔離して、家庭という「箍(タガ)」をはめて「保護」の対象としました。要するに、女性をうまくいけば遊んで暮らせる「囲われもの」へと変えてしまったのです。

とはいえ、これでは単にサラリーマンに扶養されているだけの存在です。かつての妻のように労働者やビジネスパートナーという役目がなければ、いつポイ捨てされてもおかしくありません。

そこで、主婦たちはかつて仕事と認められなかった家事・育児を「重労働」とふれまわるようになりました。家庭内の大事な労働を担っている存在であれば、夫もなかなか縁を切ろうとは思いません。こうして、日本の長い歴史のなかで初めて「家事・育児を専業として担う女性」が誕生したのです。

そして、このような専業主婦が「タガメ女」として全国に繁殖をしていくわけです。一見すると彼女たちは家事や育児というものを、家庭内の「労働」という位置づけに押し上げたように見えますが、本当のところはカエル男から搾取して、自ら生きながらえるための「手段」に変えたと言っていいかもしれません。 —(深尾葉子 『日本の男を食い尽くすタガメ女の正体』 講談社+α新書・2013年)


社虫太郎‏ @kabutoyama_taro 8月3日
真面目な話、フェミニズムにはシスターフッド(女縁;端的にはレズビアン分離主義)の思想があるのに、弱者男性論には(ホモソーシャルはあっても)そうした相互扶助思想の片鱗すら見えないのは面白い。老後の介護は息子ではなく娘や嫁にやってもらうのを自明視してる爺さんみたいな


新潮文庫の『ヴィヨンの妻』に収められた太宰治の後期の短篇に「いわく、家庭の幸福は諸悪のもと」という、警句のような言葉が。街で太宰が、役人が一般人に対して返答する言葉に「保身」の色濃いことに嫌悪を覚え、いわく~といった文脈で発せられるのだが、タガメ女の本が問題にするような、標準労働者=妻と子ども2人で、家事育児は妻に委ねて会社中心の生活を送り高度成長を支えた=の存在さえ予見するかのよう。

あるいは健康な男のみ従軍する戦争体制が、少し姿を変えて高度成長モデルとなっただけのことなのかも分らない(だから太宰は見通せた)。先日、横浜市長選が行われ、自公推薦で現職の女性市長が三選を果たした。投票率は37%と低く、組織票がものを言い、対立候補の「カジノ反対、中学校に給食を」という訴えは無党派層を投票させるに至らなかった。

公明党=創価学会の組織票の実効性が、選挙直後のツイッターで紹介されており、それによれば創価学会婦人部のおばさんがたが、高齢者=とくに独居の男性を戸別訪問し、車で期日前投票所へ送迎、帰りにはお食事会が用意されているのだという。厳密には選挙違反ではないかと思うが、あらゆる選挙での公明党の勝負強さ、そしていまや盤石の国政与党であることにかんがみ、さもありなんと。

私は小6の途中まで横浜市に住んでいたのだが、恥ずかしながら同市の中学校に給食がないことを初めて知った。「弁当は母の愛」などと称し、女性の社会進出に嫌がらせ。自民党と公明党になすりつけるつもりはない。かつては社会党の市長が長かった。あれほどの大都市で、40年も手つかずの政策。政治経済の男支配はゆるぎない。高市・山谷・稲田・丸川といったコイズミ以降自民党で頭角を現した女の政治家はみな似たような人相の国家主義者になり、一方では、子どもが制服で歌い踊り「握手会」なるものでCDを売るグロテスクなAKB商法がまかり通る。

性差別は再生産され固定化する。北海道出身で、料理やピアノが得意、高校ではボランティア活動の裏で、30~40代の男と交際しているという噂のあった木嶋佳苗は、わが国のいびつな「性役割」の縮図だ。同じ頃に明るみに出た鳥取県の事件は、5人の子どもを抱え、スナックで男をたらし込み、被害者には刑事や全国紙記者もいて、欧米や新興国で起こっても不思議でないように思うが、木嶋の、高額の料理学校へ通いベンツを乗り回しながら、「家政婦を雇ったと思って」と言える媚態。犯行で使う練炭をインターネットで買うずさんさの一方で、冒頭記事の男性宅でも火災報知機をいち早く取り外す、婚活サイトやブログを舞台に次々と男を毒牙にかけながら、自転車操業で破滅へ突っ走る、エゴイズム・承認欲求。実に日本人的である。

高度成長モデルが経済的に機能していれば女の方が「売れ残る」焦りを覚えるが、同モデルが温存されたまま失われた20年を経たいま、コミュニケーション能力が低く、女性経験の乏しい高齢男が結婚を焦って深みにはまる。わが国の行く末を象徴する事件と申せましょう—
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