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中産階級ハーレム② - テニス

2012-09-17 21:49:56 | 中産階級ハーレム
日本テニス界の伝説的な名選手、佐藤次郎。早大在学中に日本ランキング1位となり、1930年代前半に4大大会のうち全米を除く3つの大会で5度準決勝に進出した。32(昭和7)年のウィンブルドン選手権では準々決勝で前年覇者のウッド(米)を破りベスト4、翌33年にも全仏・ウィンブルドンでベスト4となり、ウィンブルドンではダブルスでも決勝進出。その年に世界3位にランクされたものの、翌34(昭和9)年、遠征からの帰途に船上から謎の投身自殺を遂げた。


オリンピックで全競技を通じて日本に初のメダルをもたらしたのは、1920(大正9)年アントワープ大会で熊谷一弥がシングルス、ダブルスとも2位となったテニスである。
世界最古のウィンブルドン大会が始まって2年目の1878(明治11)には日本に伝わったとされるが、輸入品の用具が高価なため、当初はもっぱらゴムボールで代用した軟式テニスが普及した。のち慶大の熊谷選手らが海外での対戦を通じて軟式で培った技術が硬式でも通用すると証明し、日本庭球協会の設立や全日本選手権大会の開催(共に1922、大正11年)へと発展した。


戦後の昭和期、日本テニス界をリードしたのが加茂公成と宮城淳で、この2人はペアとして1955(昭和30)年の全米選手権ダブルスに優勝した。日本人同士のペアによる4大大会優勝は現在まで唯一。


今上天皇は皇太子時代の1947(昭和22)年頃からテニスをたしなまれ、トーナメント大会にも出場されるほどで、民間人の正田美智子さん(現・皇后)と昭和34年ご成婚にいたったのもテニスコートで知り合ったのがきっかけ。


国別対抗戦デビスカップは予選ゾーンとして当初アメリカンゾーンと欧州ゾーンの2つしかなく、アメリカンゾーンに出場していた日本の提唱で東洋ゾーンが設けられたものの、そこでもフィリピンとインドが大きな壁となり、特にインドのラマナサン・クリシュナンは日本勢に対し13勝1敗と立ちはだかった(手前、向こう側は日本の宮城淳、1963年)。


1968年から4大大会がオープン化され、世界から大きく水をあけられていた日本勢の中にあって、沢松和子は1975(昭和50)年のウィンブルドンでアン清村(米)と組んだダブルスで優勝するなどトッププレーヤーと互角に渡り合った。おそらく『エースをねらえ!』の主人公・岡ひろみの原型でしょうが、自宅にコートを持つテニス一家ってところはお蝶夫人。


沢松和子が岡ひろみとすれば、さしずめこの2人=坂井利郎(左)と神和住純が「藤堂 or 尾崎」といったところか。1972年のデ杯東洋ゾーン決勝で、ペアとしてオーストラリアから唯一の白星をあげた。


萩尾望都さんのマンガ「マリーン」(原作:今里孝子、1977)より。上流階級のたしなみとして厳格なアマチュアリズムを守ってきたテニス界が、やがて実力ではるかにまさるプロに4大大会も門戸を開かざるをえなくなる背景を感じさせ─っていうより、このディデットっていう金持ちの高飛車女がえろいな。


皇太子ご成婚の頃は高額な会員制のテニスクラブが主で、ブームが大きく広まることはなかったが、70年代に入ると全国各地で雨後の筍のようにテニスコートが作られ、やがて大学生の合コン目的サークルの活動の場にもなっていったのである。 ─(マンガ以外の画像は『激動の昭和スポーツ史8・テニス』『写真と記録で見る近代オリンピックと日本』より)
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