天津は、気違い騒ぎだった。すでに、そこにあつまってきているおびただしい数の日本人は、火事場どろぼうであり、侵略した中国をどこからかぶりつこうかと、下見に来た連中であった。大阪の道頓堀から進出してきた大きなキャバレーは、夜も昼もなく、そういう連中で芋を洗うようであった。酒と女の渦巻きのなかで、浮きつ沈みつしながらの商談である。前線から交代してきた若い将校たちは、蒙古帽と泥靴で、傍若無人にふんぞり返り、鯨飲し、気にさわれば何をするかわからない剣幕なので、客のなかには、こそこそ逃げ腰になるものもあった。
日本の有名なデパートも店を開いて、姑娘(クーニャン)たちが、片言の日本語で、愛嬌笑いをふりまいた。目ぬき通りの店は、日本の雑貨や、みやげもの店まで軒を並べ、まるで日本の町を歩いているようであったが、それよりも目にたつのは、日本の料亭や、一杯飲み屋、喫茶店、バー、おでん屋などのごみごみした商売と、町をうろうろしているぽん引きや、ばくち打ちふうな、怪しげな連中であった。
どこでも、夜中の2時、3時まで、前線を見に来て記事を書くつもりの連中や、知識人たちが、殺気立って議論を戦わしていた。僕はそこで杉山平助や、松葉杖を突いた早坂二郎に巡り会った。早坂は、昔の友である北中国の傀儡政府の要人によばれて、政府顧問格を約束されて渡ってきたが、その要人が北京から新京まで、飛行機で鮪の鮨を食いに行って帰ってくるなり、赤痢にかかって、あっけなく死んでしまった。そこで、彼自身も、ご破算になって日本へ舞いもどるやさきとかで、ここ2、3日酒びたりになって、八つ当たりをしている最中であった。
早坂は、日本の資本家に対して、とりわけ激しい怒りをもやしていた。戦場で敵味方の撃ち出した砲弾の殻を、一手で回収する権利をつかんだとかで、「三井ともある日本の大財閥も、死人の金歯をとる隠亡(おんぼう)にいつ成りさがった?」とののしった。そして、その余禄でわずかなふるまい酒にありついて、しっぽを振ってる軍の幹部なんて、哀れなやつだと放言した。魏の国の王曹操をののしった禰衡(でいこう)のように、その後、彼もまた、自分の発言が招いた災いのために命を落とした。皇后について不敬なことを放言したというので、憲兵に殺されたのだ。しかし、彼の言葉が根のないでたらめでないことは、僕が北京から奥地にはいっていったとき見聞したすべてで、うなずけた。 –(金子光晴 『絶望の精神史』より、1965年)
外国貿易は、1978年の中国の国民総生産(GNP)のわずか7%を占めるにすぎなかったが、1990年代の初頭にはその割合は40%に急上昇し、その後もこの水準を保っている。同時期、世界貿易に占める中国のシェアは4倍になった。2002年の時点ですでに、中国の国内総生産(GDP)の40%以上が海外直接投資によるものだった(その半分が製造業である)。その時までに中国は、発展途上国の中で最大の海外直接投資受け入れ国になっており、多国籍企業は中国市場を開拓して利益を上げてきた。GMは、1990年代初頭に中国での事業に失敗して撤退したが、90年代の終わりに中国市場に再進出し、2003年には、アメリカ国内での事業よりもはるかに大きな利益を中国での事業であげていると発表した。
輸出主導型の発展戦略は見事に成功したかのように思われた。しかしこれは、1978年にはまったく予想されていないものだった。鄧小平は、毛沢東の自力更生政策と決別する姿勢を示したが、外国への最初の開放は試験的なものであり、広東の経済特区に制限されていた。広東の実験の成功に注目した共産党が、成長は輸出に主導されるということを受け入れたのは、ようやく1987年になってからのことであった。さらに、1992年の鄧小平の「南巡」後に初めて、中央政府は、外国貿易と海外直接投資への開放を全力で支援した。たとえば1994年に、二重為替相場(公式レートと市場レート)が、公式レートの50%切り下げによって廃止された。この切り下げは国内に多少のインフレ局面を誘発したが、これによって、貿易と資本流入がいちじるしく拡大する道を準備し、中国は今では世界で最も成功した経済としての地位を固めた。このことが新自由主義化の将来にとってどのような意味を持っているかはまだ未知数である。なぜなら、それは競争的な地理的不均等発展を通じて絶えず変化する傾向があるからである。
鄧小平の戦略が当初成功を収めることができたのは香港のコネクションのおかげであった。アジアの「タイガー・エコノミー」の先頭グループの一つである香港は、すでに資本のダイナミズムの重要な一中心地であった。国家計画性にかなり頼っている他のアジア諸国(シンガポール、台湾、韓国)とは異なり、香港は国家による大した指導もなく、より無秩序で企業主導的な方向で発展した。都合の良いことに、香港は、重要な世界的コネクションをすでに有していた華僑の拠点であった。香港の製造業は、労働集約型の低付加価値路線で発展した(筆頭は繊維産業)。しかし、1970年代末にはすでに、外国との厳しい競争と深刻な労働力不足に苦しんでいた。ちょうど国境を挟んで中国側にある広東には、低賃金の労働者が豊富に存在していた。それゆえ、鄧小平の開放は思いがけない幸運となった。香港資本はこの機会を捉えた。彼らは、国境を越えて中国とつながる多くの秘密のコネクションを活用して、中国がすでに行っていたあらゆる外国貿易の仲介役として機能するとともに、グローバル経済へと通じる彼らの市場販売網を通じて、中国製品をやすやすと流通させることができた。
1990年代半ばになっても、中国における海外直接投資の約3分の2は、香港を通じて行われていた。その一部は、外国資本のより多様な源泉を仲介する香港ビジネス界の手腕によるものであったが、いずれにせよ香港に近接しているという幸運な事実が全体としての中国の経済発展にとって決定的であったことは疑いない。たとえば、深圳の都市部に省政府が設定した経済開発特区は、1980年代初めにはうまくいっていなかった。香港の資本家を引きつけたのは、農村地域に新たにつくられた郷鎮企業であった。郷鎮企業
◆が仕事をし、香港資本が機械や投入物や販路を提供した。こうした事業スタイルがいったん確立すると、他の外国資本化もそれを模倣した(とくに台湾資本は開放後の上海を中心にこうした事業方法を展開した)。海外直接投資の出資国は、1990年代にはるかに多様なものとなり、アメリカの企業だけでなく、日本と韓国も、中国を海外生産の拠点として大々的に利用するようになった。
1990年代半ばにはすでに、中国の巨大な生産市場が、外国資本にとってますます魅力的なものになっていることが明らかになった。生まれたばかりの成長しつつある中産階級の購買力を有しているのが人口のわずか10%にすぎないとしても、10億人以上の人口の10%は十分巨大な国内市場を構成するであろう。ショッピングセンターやハイウェイや「豪華な」マイホームばかりでなく、自動車、携帯電話、DVD、テレビ、洗濯機を彼らに供給するために、競争戦が展開された。自動車の月間生産量は、1993年の約2万台から徐々に増えて、2001年にはちょうど5万台を突破した。しかしその後、2004年半ばには、月産約25万台にまで急上昇した。制度の不安定さや、国の政策の変わりやすさ、過剰設備投資の明らかな危険性が存在したにもかかわらず、将来の国内市場の急速な発展を期待して、外国投資が=ウォルマートやマクドナルドから、コンピュータ・チップの生産まであらゆるものについて=中国へ殺到した。
海外直接投資に大きく依存している点は、日本や韓国と比べて、中国のケースの特殊性である。その結果、中国の資本主義はあまり統合されていない。新しい交通手段に莫大な投資が行われてきたが、国内の各地域間の取引はあまり発展していない。広東省などの地方の場合、中国の他の地域とよりも外国との取引の方がはるかに多い。昨今、企業合併の動きが猛烈に進み、各省の間に地方間の提携を生み出そうと国家主導の努力がなされているにもかかわらず、資本が中国のある地域から別の地域へと移動することは容易なことではない。したがって、海外直接投資への依存が減るのは、中国の国内において資源配分と資本間の提携が改善される場合のみだろう。
中国の対外貿易関係は時とともに変化してきたが、とりわけこの4年間の変化は顕著であった。2001年にWTOに加入したことがそれに大いに関係しているが、他方で中国国内における経済発展の激しいダイナミズムと国際的な競争構造の転換によって、貿易関係の大規模な再編が不可避となった。1980年代には、グローバル市場における中国の位置は主として低付加価値生産によるものであり、国際市場で安い繊維製品やおもちゃやプラスチック製品を大量に売っていた。かつての毛沢東主義的政策のおかげで、中国は、エネルギーと多くの原材料(中国は最大の綿花生産国の一つである)を自給することができた。それゆえ中国にとって必要だったのは、機械や技術を輸入し市場にアクセスすることだけであった(都合のよいことに香港の厚意があった)。中国には、安い労働力を利用することができるという大きな競争上の優位性があった。繊維産業における時給は、1990年代末の中国で30セントであり、これに対して、メキシコと韓国は2.75ドル、香港と台湾は5ドル前後、アメリカは10ドル以上であった。しかしながら、最初の段階において中国の生産はたいてい台湾と香港の商業資本に対して従属的な地位にあった。これらの商業資本はグローバル市場へのアクセス経路を掌握しており、貿易で得られた利益の最大部分をかすめとるとともに、郷鎮企業や国有企業を買収するかそこに投資することによって、生産の後方統合をしだいに達成していった。珠光(じゅこう)デルタ地帯では、4万人もの労働者を雇う生産施設もめずらしくない。さらに低賃金は資本節約型の技術革新を可能にしている。生産性の高いアメリカの工場は、高価なオートメーションを用いているが、「中国の工場はこの過程を逆転させて、生産過程から資本を引き上げ、より多くの労働をそこに再導入している」。必要な投下資本量が3分の1ほど少ないのが普通である。「より低い賃金とより少ない資本の組み合わせによって、おおむね、アメリカの工場の水準を上回る資本収益をあげている」。
中国は、賃労働に関してこのような途方もない優位性を持っているおかげで、低付加価値生産部門(たとえば繊維)において、メキシコやインドネシア、ベトナム、タイといった他の低賃金諸国を向こうに回して互角に競争することができるのである。アメリカ市場における消費財の主要供給国として中国がメキシコに追いついた時、メキシコはわずか2年間で20万人の雇用を失った(NAFTAがあったにもかかわらず)。1990年代、中国は生産の付加価値度の序列を昇りはじめ、電子機器や工作機械などの分野で、韓国や日本、台湾やマレーシア、シンガポールなどと競争しはじめた。こうしたことが起こった理由の一つは、これらの国の企業が、中国の大学システムが大量に生み出している低賃金で高度な技術をもった労働者の巨大な予備軍を活用するために生産を中国に移転しようと決めたからである。当初、最も多くの資本が流入したのは台湾からであった。今では100万人もの台湾人企業家と技術者が中国に移り住んで働いていると考えられており、それにともなって高い生産能力も中国にもたらされた。韓国からの流入も大きかった(↑図参照)。韓国の電子機器会社の事業展開は今では実質的に中国でなされている。たとえば2003年9月にサムソン電子は、パソコン製造業務を、すでに25億ドルを投資した中国に全面移転し、「販売子会社を10、生産会社を26つくり、トータルで4万2千人を雇用する」と発表した。日本の生産の中国へのアウトソーシングは、日本における製造業の雇用を、1992年の1570万人から2001年には1310万人へと減少させる一因となった。また日本企業は中国へと移転するために、マレーシアやタイその他から撤退しはじめた。日本企業は現在では中国に膨大な投資を行っており、「日中貿易の半分以上が、日本企業同士の取引である(※2004年時点)」。アメリカでもそうなのだが、企業は繁栄しているが、その本国は苦境にあえいでいるわけである。中国は、アメリカから奪った雇用よりも多くの雇用を日本や韓国、メキシコその他から奪い取った。国内的にも、また国際貿易上の地位においても中国のめざましい成長は、日本の長期にわたる景気後退や、東アジアの他の諸国や東南アジアにおける成長の遅れ、輸出の停滞、周期的な危機を軌を一にしていた。多くの国に及ぼすこうした否定的な競争上の影響は、おそらく時とともにますます深刻になるだろう。 –(デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義 その歴史的展開と現在』より、2005年)
◆郷鎮企業:人民公社解体後に設立された村営・町営の企業のこと。郷も鎮も村や町を意味する下位の行政単位。業種は農業・工業・商業・建設業・交通運輸・飲食業など多岐にわたり、中国経済の中心を担うようになった
冒頭写真:カッパブックス『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』より、中国の農民を日本軍人が試し斬りにした瞬間とされる