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Sumo Decade - 1978

2013-11-14 19:28:55 | Bibliomania
北の湖が初場所から秋場所まで5連覇し、大横綱の地位を固めたこの年(1978・昭和53)、優勝こそ阻まれたが大関・若三杉が初場所から13勝・13勝・14勝と好成績をあげ横綱昇進し若乃花を襲名。九州場所では北の湖の年6場所制覇を阻止する全勝優勝と気を吐いた。若手の中からも蔵間、玉ノ富士、尾形、千代の富士、出羽の花、琴風らが活躍し新風を送り込んだ




初場所の優勝争いは輪島が脱落し、全勝の北の湖と1敗の若三杉が対決した13日目が天王山。北の湖が勝ってそのまま全勝で10度目V




春場所7日目、魁傑と旭国の一戦は水入り2度、10分後に取り直しという大相撲になった。SUMO DECADEでも随一の、両者死力を振り絞った熱戦は、魁傑のすくい投げで決着




初場所で敢闘賞を獲得した蔵間が春場所は新小結でも技能賞と、大関候補に名乗りを上げた。端整な容姿で人気が高く、引退後はタレントとしても活躍したが、現役中に発症した白血病のため42歳の若さで世を去った。
優勝争いは千秋楽に若三杉が北の湖を下し2敗で並んだが、決定戦は北の湖に軍配




夏場所も本割(14日目)は若三杉に屈した北の湖が1敗同士の決定戦を制し3連覇。連続して優勝同点の若三杉も場所後に56代横綱に推挙された




待望の新横綱は当代きっての人気力士とあって、相撲誌総集号もややフィーバー気味に伝える。自らの現役時代のシコ名を襲名させた二子山親方が、雲龍型の土俵入りを指導




名古屋場所初日、新横綱の若乃花は硬くなったのか立ち合いに飛んで自滅、富士桜に金星を提供した。若乃花は11勝にとどまり、北の湖が全勝で名古屋初V




秋場所9日目、高見山に寄り切られて北の湖の連勝は24でストップ。が、そのまま1敗で5連覇




春場所に幕下付け出しでデビューした学生横綱の長岡(後の朝潮)は、幕下と十両を2場所ずつで通過し、新入幕の九州場所も9勝6敗と勝ち越して大きな期待を集めた




九州場所千秋楽、終始積極的に攻めて北の湖を下し、全勝で横綱初賜杯の若乃花。年6場所完全制覇の夢がついえた北の湖は11勝にとどまったが、82勝8敗で大鵬の年間勝利記録(81勝)を更新。同い年で全盛期が北の湖とぶつかったのは不運だが若乃花の78勝も立派な成績といえよう
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Sumo Decade - 1977

2013-10-24 20:38:01 | Bibliomania
前年から続く「輪・湖」の伯仲。76年は輪島が優勝2回、北の湖が3回で年間最多勝は輪島(77勝)。この年(1977・昭和52)は逆に輪島が3回、北の湖が2回の優勝を果たし最多勝は北の湖(80勝)




初場所13日目、横綱・輪島が大関・貴ノ花を破る。輪島は千秋楽に北の湖との2敗同士の対戦を制し10度目の優勝。貴ノ花は12勝、翌春場所も13勝を挙げ綱取りに期待を抱かせたが夏場所10勝にとどまった




初場所後に若三杉と魁傑が大関昇進し(魁傑は2度目)、春場所は2横綱5大関という豪華番付になったが…




春場所、北の湖が大横綱への関門の一つといわれた全勝優勝を果たす。大阪場所を制するのも初めて




夏場所、病み上がりで稽古不足と、下馬評は芳しくなかった若三杉が13勝2敗で初優勝。画像は13日目に北の湖を破った一番




名古屋場所、綱取りを狙う若三杉を吊り出した輪島。千秋楽には1敗の北の湖を破って4年ぶりの全勝優勝。大関陣に比べ横綱が強すぎた場所との評も




秋場所初日、若三杉が波離間投げの珍手で鷲羽山を下す




6日目、高見山が輪島を押し出して連勝を20で止める。この時点で対戦成績も18勝18敗と輪島の最大の苦手であった。北の湖が再び全勝優勝し、魁傑は2度目の大関陥落となった




九州場所4日目、琴風が鋭い出足で北の湖を寄り倒して初金星。優勝争いは三重ノ海に敗れたのみの輪島と琴風に敗れたのみの北の湖が1敗同士で前年から4度目となる相星決戦を争い、輪島が勝って12度目の優勝




輪湖時代を築いた両横綱の三段構え。この年、大鵬以来、年間80勝の大台に乗せた北の湖は、以降5年連続で年間最多勝と、衰えの見え始めた輪島を引き離すことに
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Sumo Decade - 1976

2013-09-29 20:57:52 | Bibliomania
前年は3場所連続休場と大不振におちいった横綱・輪島が完全復活し、輪島と北の湖の両横綱が並び立つ「輪湖時代」が名実ともに幕を開けた。ほか旭国の大関昇進や、ケガ・病気に苦しんだ魁傑や若三杉が復調して活躍するなど明るい話題の多い1年となった




初場所は両横綱が前半戦で2敗を喫したが、その後は勝ち進んで千秋楽に優勝を賭けて激突するという、11年63場所ぶりの相星決戦となり、「大一番に弱い」と言われてきた北の湖が頭を付ける必死の相撲で優勝を決めた




春場所11日目、前頭11枚目の北瀬海が輪島を破って初金星。この場所は殊勲賞の北瀬海、敢闘賞の鷲羽山、最後まで優勝を争った技能賞の旭国と小兵力士が旋風を巻き起こした




千秋楽、2敗同士の優勝決定戦で旭国を破った輪島が9場所ぶりの賜杯。旭国も場所後に大関昇進




実力は大関級といわれ、優勝も果たしたことがある長谷川が夏場所5日目に引退。幕内出場回数は歴代3位(当時)の1024回に及んだ。優勝争いは千秋楽で輪島に敗れ並ばれた北の湖が「鬼門」の決定戦を初めて制した




名古屋場所、立ち合いの「待った」問題が7日目の金城×荒瀬では7回、8日目の若三杉×荒瀬では6回と深刻化し、審判団が異例の勧告




千秋楽、1敗の輪島が2敗の北の湖を下し優勝




秋場所11日目、三重ノ海が蹴たぐりで北の湖を這わせる。三重ノ海はこの年、春・夏と連続休場して大関陥落したが名古屋場所で10勝して大関復帰を果たした




魁傑が北の湖に敗れたのみの14勝1敗で平幕優勝。大関陥落した力士の優勝は史上初




九州場所、1敗同士でまたも相星決戦となり、北の湖が輪島を下して7度目の優勝。翌年の1977年と合わせた2年間で、輪島と北の湖の優勝は5度ずつ、相星決戦が4回、決定戦も1回と、2人の横綱が君臨したいくつもの時代の中でも稀にみる実力伯仲であった
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Sumo Decade - 1975

2013-09-05 21:38:53 | Bibliomania
この昭和50年、大関・貴ノ花が春場所に初優勝を果たし、彼の人気は社会現象と呼べるまでに沸騰したものの、後の千代の富士や小錦の時代、あるいは若貴ブームの頃と比べ、相撲界全体の話題性としてはそうでもなく、プロ野球や芸能界より一歩引いた地味な存在にとどまっていたように記憶する。
私の相撲観戦歴は小5へ上がったこの年の名古屋場所に始まり、以降、主に応援していた横綱・北の湖は1985年1月場所を最後に引退するので、名実ともにスモー・デケイドの始まりということに




初場所、前年九州場所で優勝した魁傑が千秋楽に貴ノ花を下して11勝をあげ、場所後に大関に昇進した。輪島と貴ノ花は10勝にとどまり、北の湖が独走で横綱昇進後初めて優勝した(12勝3敗)




全国が貴ノ花優勝なるかに沸いた春場所。いよいよ千秋楽、大阪府立体育館内の熱気はすさまじく、NHKの中継放送も視聴率50%に達した。本割りで北の湖が貴ノ花を破り2敗同士の決定戦に持ち込むと、場内の声援は悲鳴にも似ていっそう激しさを増した。
決定戦の貴ノ花は本割りと同様、立ち合いで右上手を取られ、あわやと思わせたが、北の湖の上手投げを残すと左下手を深く取り、右からしぼり上げながら西土俵へ寄り切って、ついに初優勝。場内は興奮の極に…




師であり兄である二子山親方から貴ノ花へ優勝旗が




夏場所、8日目に昭和天皇が観戦され、麒麟児と富士桜による激しい突っ張り合いの熱戦に身を乗り出されて楽しまれた。貴ノ花は前半で3敗を喫して綱取りの期待はついえ、北の湖が13勝2敗で4度目の賜杯




のちに横綱となる隆の里が新入幕(7勝8敗)




輪島全休、貴ノ花途中休場、北の湖9勝、魁傑8勝と上位陣がさんざんな成績で「史上最低の場所」といわれたのが、私のTV桟敷が始まった名古屋場所。口の達者な金剛が勝ち込むにつれいよいよ言行一致、13勝2敗で平幕優勝を飾った




金剛は3月に急逝した二所ノ関親方の次女と婚約し、将来部屋を継ぐことが約束された形となったが、前年に引退した大関・大麒麟の押尾川親方が不満をもって9月4日に青葉城ら16人の弟子を連れて脱走、台東区の寺に籠城する騒動となった。↑秋場所を控えた8日、ひとまず和解の会見が行われ、紛糾は続いたものの、場所後に押尾川部屋として独立した




秋場所は北の湖と貴ノ花が12勝3敗で並び、再び貴ノ花が決定戦を制し2度目の優勝。↑この場所に新入幕した千代の富士は96キロの軽量で注目を集めたが5勝10敗にとどまり、脱臼グセもあって78年初場所に再入幕するまで低迷が長引いた




九州場所13日目に北の湖を下手投げに下した関脇・三重ノ海。速攻が冴えて13勝2敗で初優勝し、場所後に大関昇進




相撲誌総集号の裏表紙は毎年日本酒の広告が飾り、この年は「火宅の娘」檀ふみが起用された。当時、二子山親方(初代若乃花)っておじいさんだなァ、貴ノ花とはずいぶん年の離れた兄弟なんだなと思ったものだが今の私より若い47歳だったのだ。ちなみに栃錦の春日野理事長(当時)も50歳で大して違わない。つくづく年寄りになったものだと
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Sumo Decade - 1974

2013-08-18 22:14:32 | Bibliomania
相撲界にとって昭和49(1974)年はまさに新旧交代の1年となった。大関・清国からはじまって、元大関・前の山、横綱の琴桜と北の富士、そして大関・大麒麟が引退。代わって横綱まで一気に駆け上がった北の湖や魁傑、若三杉らが台頭した




初場所・初日に輪島を寄り切りで破った関脇・北の湖。14勝1敗で初優勝を遂げ、場所後に大関に昇進




春場所は輪島が5度目の優勝。この場所から元・栃錦の春日野親方を理事長とする新体制がスタート(↑千秋楽の協会挨拶)




夏場所は三保ケ関と花籠の部屋対抗戦のごとき様相で、大関・北の湖が優勝し、横綱近しを思わせた




名古屋場所は千秋楽に横綱・輪島が大関・北の湖を下して共に2敗で並び、優勝決定戦でも輪島が勝って逆転優勝。優勝同点の北の湖は場所後に21歳2ヵ月の史上最年少で横綱に推挙された(↑本割の一番)




名古屋場所途中に引退した横綱・北の富士は井筒親方として独立、8月22日に部屋新築の上棟式と婚約発表を行う。相手の女性は19歳!?の短大生だったが後に破談に




秋場所は輪島が14勝1敗で連続優勝した。新横綱・北の湖は11勝4敗




九州場所・7日目、小結・魁傑が北の湖を下す。この2人の優勝争いは千秋楽に輪島(魁傑と同部屋)が北の湖を破ったことにより優勝決定戦に持ち込まれ、再び魁傑が勝って初優勝




春場所で再入幕した若三杉は以降5場所連続で勝ち越して、魁傑に次ぐ大関候補に。甘いマスクで人気もうなぎ上り




後列左より麒麟児、若三杉、金城、前列左より大錦、北の湖。そろって昭和28年生まれの「花のニッパチ」として期待を集めた




私が相撲誌の年末に出る総集号を買うようになったのは翌昭和50年からのことで、たいへん信頼していたのだが、前年にとんだ手落ちが。初場所の写真特集のキャプションが春場所のものと入れ替わっており(↑右)、さらに春場所の星取表が丸ごと前年昭和48年春場所のものになっているという(↑左)。印刷物は証拠が残ってしまうからこわい
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日本幻景 #6 - GHQの見たニッポン

2013-08-15 21:33:30 | Bibliomania
終戦の日を控え、やはり気になるのだろうか、先日「100 Best Jewish Songs」で触れた、『終戦のエンペラー』なる映画で占領軍の立場が妙に弱く描かれているという件を、検索してこられるお客さんがちらほら。
そも侵略を「進出」と、占領軍を「進駐軍」と言い換えるなども、痛みを伴う歴史の不都合な部分を隠蔽し先送りしがちなわれわれの心理の表れといえよう。

きょうの安倍晋三首相の式辞においても、「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊(たま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられたみ霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます」との言葉は、20万以上に及ぶ日本軍の死者の半数が、戦闘中の死でなく、餓死や、栄養失調状態が招く伝染病などによる病死だということに蓋をし、死者の尊厳を汚すというだけでなく、彼らをそうした状況に追い込んだ無能な戦争指導者を同じ「英霊」として靖国神社に祀るような、内向き・国粋主義的な人気取りこそ安倍内閣の支持率を支えているという、われわれ自身の問題に他ならない。

例えば北朝鮮のひどい指導者は言うに及ばず、韓国や中国の企業経営者も、海外進出して現地人を雇ったり、あるいは自国の農民や貧困層を扱うやり方がおおむね日本の経営者よりひどいとは耳にする。
この場合、韓国や中国の政治家やロビー団体が戦争や領土問題について反日宣伝活動を言い募ることには、そうした自国の恥部を隠すねらいもあるだろうから、わが国としては過去の後ろ暗い部分についても堂々と証拠を明らかにして、謝罪なり補償なり誠意を尽くしてこそ、国際的にわが国の立場を強め、短期的に痛みと直面しても長期的には最終解決して名誉ある道を歩むことを可能にするのではないだろうか。





ポツダム宣言を受け入れ連合国に対し無条件降伏した日本の占領・統治の権限は、連合国最高司令官に任命された米太平洋陸軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥に委ねられた。
マッカーサー元帥は1945年8月30日午後2時5分、愛機バターン号から神奈川県・厚木飛行場に降り立ち、日本占領が始まったのである




焼却処分のためガソリンをかけられる陸軍航空機(1945年11月)




国会議事堂前で切腹自殺をはかった元陸軍少佐の決意書と刀を調べる鈴木幹雄警視総監(中央・1946年6月)




旧陸軍衛生試験所で発見されたモンゴルからの生アヘン792キロ(中央下部の缶)と満州からの生モルヒネ500キロ(左側の缶)。他にも多量のヘロイン、アヘン、未精製の麻薬類が後ろの箱に詰められている。この麻薬類は北京と天津の日本軍司令官により徴発されたもの(1945年11月)




敗戦に伴い満州国は消滅し、東京・麻布の大使館も廃墟となった(1947年3月)。この場所には後に中国大使館が設けられた




1946年元旦にいわゆる「人間宣言」を行った昭和天皇は、翌2月から全国巡幸を行った。爆撃で家を失った人びとのための仮設住宅を視察する昭和天皇(1946年2月)




浅草の東本願寺で共同給食を受け取ったあと2人で話をする戦争被災者(1946年5月)




日本の深刻な食糧不足を憂慮したGHQ(連合国最高司令官総司令部)が米政府に掛け合い、食糧の緊急輸入が行われた。↑米軍から放出された1000トンの携帯口糧の積み出しについて話し合う缶詰会社の幹部たち(1946年4月)




衛生状態が悪化して発疹チフスが流行し、媒介するシラミを殺すためDDTが各所で散布された(↑駒込・1946年12月)。DDTは体内で毒性が持続するとして1971年に使用が禁止された




食糧不足の中で高値のヤミ取引が横行、ヤミ市の強制捜査を激励する田中栄一警視総監(1948年12月)。ちなみに田中総監はこの約ひと月前に上野公園を視察中、男娼ら約30人に殴られたばかりだった




1945年10月当時のヤミ価格を基準価格と比べた表




「海の幸」を積んで南極海から帰ってきた捕鯨船・日新丸。東京芝浦ドックでGHQや政府関係者を集めて慰労パーティーが開かれた(1948年4月)




日米の模型飛行機同好メンバーが集まり、各自の飛行機を見せ合う(1947年6月)




政治犯として拘禁されていた在日朝鮮人たち。解放され、GHQ司令部の前で万歳を叫ぶ(1945年10月)




朝鮮戦争勃発に伴い、マッカーサー元帥は在韓国連軍最高司令官を兼任することになり、当地へ乗り込んで指揮をとったが、後にトルーマン大統領との確執から解任される。日本は米軍への補給物資特需で湧いた。↑東京兵器廠センターの革工場で働く従業員(1952年、以上の写真はGHQおよび米陸軍の写真部が撮影したもので『GHQの見たニッポン 戦後ドキュメント1945~1952』、世界文化社、2007年、より)
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東京ウシジマ新聞 #40 - 日中戦争

2013-08-01 20:55:37 | Bibliomania
天津は、気違い騒ぎだった。すでに、そこにあつまってきているおびただしい数の日本人は、火事場どろぼうであり、侵略した中国をどこからかぶりつこうかと、下見に来た連中であった。大阪の道頓堀から進出してきた大きなキャバレーは、夜も昼もなく、そういう連中で芋を洗うようであった。酒と女の渦巻きのなかで、浮きつ沈みつしながらの商談である。前線から交代してきた若い将校たちは、蒙古帽と泥靴で、傍若無人にふんぞり返り、鯨飲し、気にさわれば何をするかわからない剣幕なので、客のなかには、こそこそ逃げ腰になるものもあった。

日本の有名なデパートも店を開いて、姑娘(クーニャン)たちが、片言の日本語で、愛嬌笑いをふりまいた。目ぬき通りの店は、日本の雑貨や、みやげもの店まで軒を並べ、まるで日本の町を歩いているようであったが、それよりも目にたつのは、日本の料亭や、一杯飲み屋、喫茶店、バー、おでん屋などのごみごみした商売と、町をうろうろしているぽん引きや、ばくち打ちふうな、怪しげな連中であった。

どこでも、夜中の2時、3時まで、前線を見に来て記事を書くつもりの連中や、知識人たちが、殺気立って議論を戦わしていた。僕はそこで杉山平助や、松葉杖を突いた早坂二郎に巡り会った。早坂は、昔の友である北中国の傀儡政府の要人によばれて、政府顧問格を約束されて渡ってきたが、その要人が北京から新京まで、飛行機で鮪の鮨を食いに行って帰ってくるなり、赤痢にかかって、あっけなく死んでしまった。そこで、彼自身も、ご破算になって日本へ舞いもどるやさきとかで、ここ2、3日酒びたりになって、八つ当たりをしている最中であった。

早坂は、日本の資本家に対して、とりわけ激しい怒りをもやしていた。戦場で敵味方の撃ち出した砲弾の殻を、一手で回収する権利をつかんだとかで、「三井ともある日本の大財閥も、死人の金歯をとる隠亡(おんぼう)にいつ成りさがった?」とののしった。そして、その余禄でわずかなふるまい酒にありついて、しっぽを振ってる軍の幹部なんて、哀れなやつだと放言した。魏の国の王曹操をののしった禰衡(でいこう)のように、その後、彼もまた、自分の発言が招いた災いのために命を落とした。皇后について不敬なことを放言したというので、憲兵に殺されたのだ。しかし、彼の言葉が根のないでたらめでないことは、僕が北京から奥地にはいっていったとき見聞したすべてで、うなずけた。 –(金子光晴 『絶望の精神史』より、1965年)





外国貿易は、1978年の中国の国民総生産(GNP)のわずか7%を占めるにすぎなかったが、1990年代の初頭にはその割合は40%に急上昇し、その後もこの水準を保っている。同時期、世界貿易に占める中国のシェアは4倍になった。2002年の時点ですでに、中国の国内総生産(GDP)の40%以上が海外直接投資によるものだった(その半分が製造業である)。その時までに中国は、発展途上国の中で最大の海外直接投資受け入れ国になっており、多国籍企業は中国市場を開拓して利益を上げてきた。GMは、1990年代初頭に中国での事業に失敗して撤退したが、90年代の終わりに中国市場に再進出し、2003年には、アメリカ国内での事業よりもはるかに大きな利益を中国での事業であげていると発表した。

輸出主導型の発展戦略は見事に成功したかのように思われた。しかしこれは、1978年にはまったく予想されていないものだった。鄧小平は、毛沢東の自力更生政策と決別する姿勢を示したが、外国への最初の開放は試験的なものであり、広東の経済特区に制限されていた。広東の実験の成功に注目した共産党が、成長は輸出に主導されるということを受け入れたのは、ようやく1987年になってからのことであった。さらに、1992年の鄧小平の「南巡」後に初めて、中央政府は、外国貿易と海外直接投資への開放を全力で支援した。たとえば1994年に、二重為替相場(公式レートと市場レート)が、公式レートの50%切り下げによって廃止された。この切り下げは国内に多少のインフレ局面を誘発したが、これによって、貿易と資本流入がいちじるしく拡大する道を準備し、中国は今では世界で最も成功した経済としての地位を固めた。このことが新自由主義化の将来にとってどのような意味を持っているかはまだ未知数である。なぜなら、それは競争的な地理的不均等発展を通じて絶えず変化する傾向があるからである。

鄧小平の戦略が当初成功を収めることができたのは香港のコネクションのおかげであった。アジアの「タイガー・エコノミー」の先頭グループの一つである香港は、すでに資本のダイナミズムの重要な一中心地であった。国家計画性にかなり頼っている他のアジア諸国(シンガポール、台湾、韓国)とは異なり、香港は国家による大した指導もなく、より無秩序で企業主導的な方向で発展した。都合の良いことに、香港は、重要な世界的コネクションをすでに有していた華僑の拠点であった。香港の製造業は、労働集約型の低付加価値路線で発展した(筆頭は繊維産業)。しかし、1970年代末にはすでに、外国との厳しい競争と深刻な労働力不足に苦しんでいた。ちょうど国境を挟んで中国側にある広東には、低賃金の労働者が豊富に存在していた。それゆえ、鄧小平の開放は思いがけない幸運となった。香港資本はこの機会を捉えた。彼らは、国境を越えて中国とつながる多くの秘密のコネクションを活用して、中国がすでに行っていたあらゆる外国貿易の仲介役として機能するとともに、グローバル経済へと通じる彼らの市場販売網を通じて、中国製品をやすやすと流通させることができた。

1990年代半ばになっても、中国における海外直接投資の約3分の2は、香港を通じて行われていた。その一部は、外国資本のより多様な源泉を仲介する香港ビジネス界の手腕によるものであったが、いずれにせよ香港に近接しているという幸運な事実が全体としての中国の経済発展にとって決定的であったことは疑いない。たとえば、深圳の都市部に省政府が設定した経済開発特区は、1980年代初めにはうまくいっていなかった。香港の資本家を引きつけたのは、農村地域に新たにつくられた郷鎮企業であった。郷鎮企業が仕事をし、香港資本が機械や投入物や販路を提供した。こうした事業スタイルがいったん確立すると、他の外国資本化もそれを模倣した(とくに台湾資本は開放後の上海を中心にこうした事業方法を展開した)。海外直接投資の出資国は、1990年代にはるかに多様なものとなり、アメリカの企業だけでなく、日本と韓国も、中国を海外生産の拠点として大々的に利用するようになった。

1990年代半ばにはすでに、中国の巨大な生産市場が、外国資本にとってますます魅力的なものになっていることが明らかになった。生まれたばかりの成長しつつある中産階級の購買力を有しているのが人口のわずか10%にすぎないとしても、10億人以上の人口の10%は十分巨大な国内市場を構成するであろう。ショッピングセンターやハイウェイや「豪華な」マイホームばかりでなく、自動車、携帯電話、DVD、テレビ、洗濯機を彼らに供給するために、競争戦が展開された。自動車の月間生産量は、1993年の約2万台から徐々に増えて、2001年にはちょうど5万台を突破した。しかしその後、2004年半ばには、月産約25万台にまで急上昇した。制度の不安定さや、国の政策の変わりやすさ、過剰設備投資の明らかな危険性が存在したにもかかわらず、将来の国内市場の急速な発展を期待して、外国投資が=ウォルマートやマクドナルドから、コンピュータ・チップの生産まであらゆるものについて=中国へ殺到した。

海外直接投資に大きく依存している点は、日本や韓国と比べて、中国のケースの特殊性である。その結果、中国の資本主義はあまり統合されていない。新しい交通手段に莫大な投資が行われてきたが、国内の各地域間の取引はあまり発展していない。広東省などの地方の場合、中国の他の地域とよりも外国との取引の方がはるかに多い。昨今、企業合併の動きが猛烈に進み、各省の間に地方間の提携を生み出そうと国家主導の努力がなされているにもかかわらず、資本が中国のある地域から別の地域へと移動することは容易なことではない。したがって、海外直接投資への依存が減るのは、中国の国内において資源配分と資本間の提携が改善される場合のみだろう。

中国の対外貿易関係は時とともに変化してきたが、とりわけこの4年間の変化は顕著であった。2001年にWTOに加入したことがそれに大いに関係しているが、他方で中国国内における経済発展の激しいダイナミズムと国際的な競争構造の転換によって、貿易関係の大規模な再編が不可避となった。1980年代には、グローバル市場における中国の位置は主として低付加価値生産によるものであり、国際市場で安い繊維製品やおもちゃやプラスチック製品を大量に売っていた。かつての毛沢東主義的政策のおかげで、中国は、エネルギーと多くの原材料(中国は最大の綿花生産国の一つである)を自給することができた。それゆえ中国にとって必要だったのは、機械や技術を輸入し市場にアクセスすることだけであった(都合のよいことに香港の厚意があった)。中国には、安い労働力を利用することができるという大きな競争上の優位性があった。繊維産業における時給は、1990年代末の中国で30セントであり、これに対して、メキシコと韓国は2.75ドル、香港と台湾は5ドル前後、アメリカは10ドル以上であった。しかしながら、最初の段階において中国の生産はたいてい台湾と香港の商業資本に対して従属的な地位にあった。これらの商業資本はグローバル市場へのアクセス経路を掌握しており、貿易で得られた利益の最大部分をかすめとるとともに、郷鎮企業や国有企業を買収するかそこに投資することによって、生産の後方統合をしだいに達成していった。珠光(じゅこう)デルタ地帯では、4万人もの労働者を雇う生産施設もめずらしくない。さらに低賃金は資本節約型の技術革新を可能にしている。生産性の高いアメリカの工場は、高価なオートメーションを用いているが、「中国の工場はこの過程を逆転させて、生産過程から資本を引き上げ、より多くの労働をそこに再導入している」。必要な投下資本量が3分の1ほど少ないのが普通である。「より低い賃金とより少ない資本の組み合わせによって、おおむね、アメリカの工場の水準を上回る資本収益をあげている」。

中国は、賃労働に関してこのような途方もない優位性を持っているおかげで、低付加価値生産部門(たとえば繊維)において、メキシコやインドネシア、ベトナム、タイといった他の低賃金諸国を向こうに回して互角に競争することができるのである。アメリカ市場における消費財の主要供給国として中国がメキシコに追いついた時、メキシコはわずか2年間で20万人の雇用を失った(NAFTAがあったにもかかわらず)。1990年代、中国は生産の付加価値度の序列を昇りはじめ、電子機器や工作機械などの分野で、韓国や日本、台湾やマレーシア、シンガポールなどと競争しはじめた。こうしたことが起こった理由の一つは、これらの国の企業が、中国の大学システムが大量に生み出している低賃金で高度な技術をもった労働者の巨大な予備軍を活用するために生産を中国に移転しようと決めたからである。当初、最も多くの資本が流入したのは台湾からであった。今では100万人もの台湾人企業家と技術者が中国に移り住んで働いていると考えられており、それにともなって高い生産能力も中国にもたらされた。韓国からの流入も大きかった(↑図参照)。韓国の電子機器会社の事業展開は今では実質的に中国でなされている。たとえば2003年9月にサムソン電子は、パソコン製造業務を、すでに25億ドルを投資した中国に全面移転し、「販売子会社を10、生産会社を26つくり、トータルで4万2千人を雇用する」と発表した。日本の生産の中国へのアウトソーシングは、日本における製造業の雇用を、1992年の1570万人から2001年には1310万人へと減少させる一因となった。また日本企業は中国へと移転するために、マレーシアやタイその他から撤退しはじめた。日本企業は現在では中国に膨大な投資を行っており、「日中貿易の半分以上が、日本企業同士の取引である(※2004年時点)」。アメリカでもそうなのだが、企業は繁栄しているが、その本国は苦境にあえいでいるわけである。中国は、アメリカから奪った雇用よりも多くの雇用を日本や韓国、メキシコその他から奪い取った。国内的にも、また国際貿易上の地位においても中国のめざましい成長は、日本の長期にわたる景気後退や、東アジアの他の諸国や東南アジアにおける成長の遅れ、輸出の停滞、周期的な危機を軌を一にしていた。多くの国に及ぼすこうした否定的な競争上の影響は、おそらく時とともにますます深刻になるだろう。 –(デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義 その歴史的展開と現在』より、2005年)


◆郷鎮企業:人民公社解体後に設立された村営・町営の企業のこと。郷も鎮も村や町を意味する下位の行政単位。業種は農業・工業・商業・建設業・交通運輸・飲食業など多岐にわたり、中国経済の中心を担うようになった



冒頭写真:カッパブックス『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』より、中国の農民を日本軍人が試し斬りにした瞬間とされる
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Sumo Decade - 1973

2013-07-24 21:36:03 | Bibliomania
私が大相撲を見始めたのは小5の1975(昭和50)年・名古屋場所のことで、おそらくきっかけとして、ベースボールマガジン社から出ていた専門誌・相撲の同・春場所での貴ノ花初優勝についての増刊号を父親が買ってくれたのに感化されたのだろう。
同誌は必ず年末に「相撲界総集号」として一年を振り返る増刊号を出しており、75年から80年あたりまで毎年買っていた記憶が。
とっくに手放していたが、このほど1973年~1982年という10年分の総集号を古本で入手することができたので、1年ずつ紹介してゆきたい。




初場所11日目、大関同士の対戦で輪島を破る琴桜。14勝1敗で2場所連続優勝を果たし、場所後、53代横綱に推挙された




後にプロレスで名をはせる天龍源一郎がこの場所新入幕




春場所は横綱・北の富士が14勝1敗で10回目の優勝




夏場所11日目、新入幕で100キロにも満たない小兵の鷲羽山が大関・清国を破る




輪島が全勝で2回目の優勝を果たし、場所後に54代横綱に推挙された




3横綱となった名古屋場所は優勝決定戦で琴桜が北の富士を破った。押し相撲の関脇・大受が13勝2敗の好成績で殊勲・敢闘・技能の三賞独占し(史上初)、場所後に大関に昇進




秋場所は横綱2場所目の輪島が全勝優勝。新入幕の大錦が1横綱1大関を倒す殊勲で三賞独占したが、その後は病気などで伸び悩んだ。新大関の大受も自律神経失調により休場して早くもカド番に追い込まれており、機が熟するのを待たずに花形力士を作ろうとする相撲界の事情がかいま見える




九州場所6日目、期待の若手だった関脇・北の湖が横綱・北の富士を破る。それにしても「もっとじっくり取るべきだ」とはやや失礼なキャプションで、他の座談記事などを見ても新聞記者たちが偉そうに介入してスモー・インサイダーを気取る態度に昭和の香り




輪島と貴ノ花は前年そろって大関昇進したが、この年は輪島が横綱昇進して77勝で年間最多勝と花開いたのに対し、貴ノ花は1度も10勝に達せず差が開いた。12日目の対戦では輪島が吊り出したが、序盤の突き合いで右手の指の間が割ける怪我を負い、14日目から休場、しかし12勝2敗1休で優勝した。この時の負傷を直接知らない私は「差し手争いで貴ノ花の指の間が割けた」と間違って記憶していた–
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お座敷2 - 真っ赤なウソ(朝日)

2013-06-27 20:43:40 | Bibliomania
この『櫻画報大全』(著:赤瀬川原平、1985)を手に取って、購読した時の充実感は、ラインナップが衰えつつあった当時の新潮文庫としては抜きんでたものだったように思う。
1970年7月に「野次馬画報」、4号目から「櫻画報」というマンガ記事として朝日ジャーナルの誌面で異彩を放ち、同誌の回収騒ぎを招いてからもゲリラ的にいくつかの雑誌をにぎわせた、その内容のすべてとそれにまつわっての赤瀬川氏の日記などを収める、ぶ厚い文庫本。

同氏のグラフィック的なセンスに影響された私は、自分でも似たようなものを作ってみようと試みたのだが、すぐにとうてい無理だと悟ることに。
題字一つとっても、たいへんな修練のたまものなんだよ。
パソコンのない頃に、独力で新聞の体裁のマンガ記事を作り上げた赤瀬川氏は、すごい人だとうならされたものだ。




↑櫻義勇軍襟章、チリガミ交換券、さくら紙、櫻画報永久保存版のダイレクトメール


その14年後くらいの私は長期入院中で、入院先のそばにある図書館で時間つぶしの本を探して赤瀬川氏と再会。
『超芸術トマソン』『老人力』とかね。
テーマ、目の付けどころは面白い。時間つぶしにはなる。
しかし、ナンシー関や辛酸なめ子にも言えることだが、本の単位で持っていたいと思わせる完成度に達したものは1冊もない。

そも『櫻画報大全』も手放してしまい、このほど古書市で買い直したもので、今の私にとって、赤瀬川氏の技術がすごいことは認めるとしても、本当に面白い人物かどうかは疑問である。
いや楽しい人物なのでしょうが、それはいろんなことを「面白がる能力」が高く、周囲の人物を巻き込んで、雑誌媒体や現代アート界のにぎやかしとして重宝されるタイプの人物に過ぎなかったのではないかとも思う。

呼んでくれる媒体、お座敷ありき。
ゆえにこそ逆説として掲載誌を「櫻画報の包紙」と主張し、アカイ アカイ アサヒ アサヒという最後っ屁(↓画像)による朝日ジャーナル回収事件を招き寄せたのではないだろうか。




↑「アカイアサヒ」が朝日新聞上層部を刺激したのか真偽は定かでないが、連載最終回の朝日ジャーナル1971年3月19日号は同社により回収されることに。
以降、月刊漫画ガロ、日本読書新聞、小説新潮、現代の眼などに散発的に掲載され、1977年に青林堂により単行本化、85年に新潮文庫となる
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日本幻景 #4 - 伝単

2013-05-30 20:44:39 | Bibliomania
信田真一 @nobushin
Amazonでこの本を買ったら、こんな切り抜きが挟まっていた。気持ち悪い。新品で買ったから、Amazonか取次か印刷所か版元の従業員が挟んだのだろう。文面を検索しても出てこない。なんだ、これ? pic.twitter.com/W5oVwn7Kyo 16-May-2013


この紙片と同様のものが「図書館で借りた本に挟まってた」との目撃情報もあるそうだが、ツイッターから各種まとめサイトに転用されるなど急激に広まることになったのは、やはり「Amazonから送られてきた本」に挟まってたというところがミソでしょう。

経営者目線というより、Amazonの倉庫・配送所みたいな多国籍企業の過酷な現場で働く日本人労働者が意趣返しで妙な紙片を作って無差別にバラまいた、どこか秋葉原事件のKATOにも通じるおもむきがあり、画像を目にして私が連想したのが「伝単」という言葉。
過去さまざまな戦争でバラまかれた、敵兵や敵国民の戦意を失わせるための宣伝・謀略ビラを、特にわが国では中国由来の伝単という名で呼んできた。




第一次大戦以降、盛んに用いられるようになった宣伝ビラを、日本軍は日中戦争で多用した。
当初は制作を各地の派遣軍が担当したが、やがて参謀本部に一本化され、↑このように貞操帯を描いて妻の不倫をほのめかすようなポルノまがいのものは「皇軍の威信失墜」として禁止された




代わって、国民党と共産党による「国共合作」の離反を狙って、「蒋介石の命運尽きれば、今度は共産党にしゃぶられる」といった反共宣伝が増えたものの、抗日意識に燃える中国人を宣撫することは困難だったとみられる。 ─(以上2点:『世界史の中の1億人の昭和史【4】日中戦争から第二次大戦へ』 毎日新聞社、1978年)




米英に宣戦して戦域が東南アジア~太平洋に拡大すると、日本軍は次第に物資に事欠くようになり、宣伝ビラによる心理戦でもアメリカに圧倒される状況に陥る。
空襲などで既に東京も戦場になりつつあることを兵士に知らせて戦意を挫くこのビラは10万部が投下された




戦線が分断され、孤立して情報の乏しい日本軍に対しては新聞形式のプロパガンダが効力を発揮。
プロパガンダといっても、日本軍のやり方と比べ、歪曲や誇張を排して可能な限り「事実」を伝える方針がとられており、この琉球週報では日本軍の中国での攻勢など日本にとって有利な情報が掲載されることもあった。

また絵と言葉を組み合わせたビラでも、日系米兵や捕虜を協力させることにより、いったん撒いたビラの誤字や不自然な部分を修正した改良版が作られるなどした。
層が厚い欧米のジャーナリズムを前にして、みじめな撤退戦を強いられる橋の下の虫さんが二重写しになりますなァ ─(以上2点:土屋礼子 『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』 吉川弘文館、2011年)
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