江戸時代には、従来の常識を打ち破り、斬新で個性的な表現に挑んだ「奇才」と呼ぶべき絵師たちが、全国で活躍していました。昨今注目を集める伊藤若冲、長澤蘆雪、曾我蕭白、歌川国芳ら、過激で強烈な個性を放つ絵師にとどまらず、従来の江戸絵画史において"主流派"として語られてきた、俵屋宗達や尾形光琳、円山応挙らも新しい表現に挑み続けています。
本展では、北は北海道から南は九州まで、全国から35人の奇才絵師を集め、その個性溢れる作品を選りすぐり紹介します。東京が世界の注目を集める2020年にまさしくふさわしい特別展です。
絵師紹介
葛飾北斎「上町祭屋台天井絵 男浪 」
八十六歳前後に信州小布施に赴いて祭屋台天井絵を描く。その「恕涛図」に描かれた異空間へ入り込むような感覚は、北斎晩年のイリュージョンの世界を代表している。葛飾北斎は以前に観ました
大英博物館 国際共同プロジェクト 北斎-富士を超えて- ハルカス美術館 ブログは
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伊藤若冲「鶏図押絵貼屛風」 六曲一双 紙本墨画 個人蔵
三十七歳以前に若冲と号し、家督を譲ってからは画業に没頭し「動植綵絵」三十幅の寄進を決意する。四十四歳で鹿苑寺ろくおんじ大書院に水墨障壁画五十面を描き、五十五歳の時、父の三十三回忌に合せて「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三十幅の寄進を完了した。六十一歳頃より石峯寺裏山に釈迦の一生を構成する石像群の制作に着手。
伊藤若冲は大ファンなので小生のホームページにもコーナーがある
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片山楊谷
「竹虎図屛風 ちっこずびょうぶ」
六曲一双 紙本着色 鳥取県・雲龍寺
楊谷は長崎で、医師洞雄山の子として生まれた。幼くして父が没すると十三歳頃から諸国を遊歴し、十七歳には鳥取の黄檗宗寺院興禅寺に滞在した。この折、医師中山東川が楊谷を歓待し婿養子となったという。
現在知られる二十一歳の若書「猛虎図屛風」や二十四歳の「猛虎図」をみると、長崎では唐絵派からえはや沈南蘋派の絵を学んだのではないかと推定される。
ところで、驚くのは十九歳の時点で楊谷が五人の門人を抱え、そのうちの一人は備前岡山川崎里の人間だということだ。この楊谷門人譜の『画伝誓文』には他に甲州、但馬の門人も記されている。二十代後半にも各地を遊歴したのだろう。三十三歳で鳥取藩池田家の茶道家の片山家の養子となった楊谷は、京都画人にも知られ、四十一歳で但馬山路寺の障壁画を描いて翌年急死した。
「鷲図」の奇趣あふれる迫力、「竹虎図屛風」にみる前代未聞の緻密な毛描きに楊谷の異才が看取される。
毛に圧倒されますよね
絵金「伊達競阿国戯場 累」
二曲一隻 紙本着色 高知県・赤岡町本町二区
絵師の金蔵略して絵金は土佐高知城下新市町(現在の高知市はりまや町)に町人木下専蔵の子として生まれた。幼少より絵を好み、十六歳の頃、土佐山内家の御用絵師池添楊斎いけぞえようさいに学んで画才を認められ美高よしたかの号をもらう。十八歳の時師の勧めで江戸へ行き、江戸の土佐山内家の御用絵師前村洞和まえむらとうわに学び、二年後洞意とういの号をもらって二十一歳で帰国。家老桐間家の絵師となり林洞意を名乗った。
三十三歳の時、贋作事件に巻き込まれ、林姓を奪われて城下追放となる。そこで、町医者の弘瀬姓を買い取って弘瀬柳栄ひろせりゅうえいと名乗って町絵師となった。その後の動向は定かでなく上方に上って歌舞伎芝居の絵看板などを描いたとも言われる。
四十代半ば前後には土佐に戻り、二曲一隻の芝居絵屛風を盛んに描く。題材を歌舞伎の場面にとり、切腹や敵打ちなどの血しぶきに満ちた場面を躍動感あふれる筆致で活写し、泥絵具どろえのぐともいわれる独特の赤・緑・青を刺激的に配した絵は、土佐の祭りを盛り立てている。
林閬苑「鹿図」
一幅 紙本墨画 大阪歴史博物館
閬苑は大坂の人で、名を又新ゆうしん、通称周蔵といい、安永四年(1775)以降閬苑と号したとみられる。諸書から推定される生年は寛保二年(1742)から寛延二年(1749)、没年は安永九年(1780)から天明七年(1787)の間で三十九歳以前に没したようだ。
はじめ狩野派に学び、後大雅の弟子福原五岳に就ついた。二十歳前後と思われる明和三年(1766)刊行の『和漢舩用集』十二巻の挿絵を担当しているが、当時の様々な画譜類を学んだとみられ、画風はやや生硬だ。
安永二年(1773)から四年まで、京都に滞在し、相国寺の狩野孝信筆襖絵の修復に携わるかたわら、諸寺に収蔵されている和漢の名画を閲覧し、画嚢を肥やした。また京都遊学中の東東洋あずまとうように画技を伝授したと言われる。
「鹿図」や「騎鹿人物図」、「漁夫図」などの水墨画にみられる奇抜な対象の捉え方には奇才があふれているが、蘭の鉢植えを描いた極彩色の巨大で精緻な描写にも驚かされる。
印象に残る絵です 以前に見た時のブログは
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大阪歴史博物館 で開催された 唐画(からえ)もん-武禅(ぶぜん)に ろう苑 、若冲も でした
曾我蕭白 そがしょうはく 重要文化財 「群仙図屛風」
京都の丹波屋又は丹後屋の屋号を持つ商家の出で、本姓は三浦氏らしい。十代の頃より画を学び始めたようだが、師は狩野永敬に学んだとみられる個性派の高田敬輔説が有力。二十代後半には曾我蛇足十世孫と称した。
蕭白はたびたび地方を遊歴した。二十九歳から三十歳にかけての伊勢地方を皮切りに、三十三歳で播州高砂へ、三十五歳で再び伊勢へ、三十八歳で再び高砂、四十二歳で三度伊勢へというように。そして四十六歳頃、ようやく京都に落ち着いたようだ。
蕭白作品の一つのピークは三十五歳である。「群仙図屛風」や「群童遊戯図屛風」にみる強烈な色彩の対比には黄檗絵画の影響がみられ、奇嬌な人物の形態は彼独自のものだ。それ以前、三十歳の作「林和靖図屛風」の横にうねる梅の大樹は朝鮮絵画の刺激を受ける。四十代前半の「楼閣山水図屛風」には奇怪な岩や樹木が描かれながら、静謐でスケールの大きな空間が構築されており、蕭白画の振幅の大きさがみられる。
林十江 はやしじっこう 蜻蛉図
十江は、水戸城東第七街で酒造業を営む高野惣兵衛之茂の長男として生まれた。父は同じ町内で醤油業を営む林家から婿に入り、文雅風流を好み、俳句を学んで梧井と号した。その後、高野家は次弟長吉に継がせ、十江は林家の養子となった。
十歳の時、立原翠軒が彰考館総裁となり、十二・三歳の時には翠軒の家にしばしば遊びにゆき、雷が墜落したり、犬が喧嘩をして嚙み合ったりするところを難なく描いた。また翠軒の息子杏所に絵の手ほどきもした
醤油屋を継いでからは利益を目当にせず、人の意表をつくことばかりしたため、家産を傾けてしまう。
蜻蛉や鰻、蝦蟇、烏天狗など、通常の南画家が描かない主題に挑み、意表をつく筆の走りで対象を描写した。「松下吹笛図」では静かな世界を構築し、「花魁・遣手婆図」では毒のある世界を皮肉に描いてみせた。三十七歳で江戸へ上るも理解者を得られず、失意のうちに帰郷して没した
とんぼを ここまで書く? 圧倒されますよね
展覧会のカタログ
会場で買ったガチャのピンバッヂ
若冲 北斎