1970年の大阪万博で誕生した岡本太郎の代表作「太陽の塔」の謎を徹底調査!太郎の業務日誌、構想スケッチなどから、誕生の秘密、形の謎、永久保存が決まった理由に迫る
日本で始めて開かれた大阪万博(昭和45年:1970年)、当時のシンボル・タワーであった「太陽の塔」を見た。

何回か観ました
太陽の塔(たいようのとう、英: Tower of Sun)は、芸術家の岡本太郎が制作した芸術作品であり建造物である。岡本太郎の代表作として同時期に制作された『明日の神話』とで双璧をなす。1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)のテーマ館の一部として建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。2020年に国の登録有形文化財に登録された。
高さ70メートルの塔で、正面中央・上部・背面に付いた3つの顔と左右の腕が外観上の大きな特徴である。塔の内部は「生命の樹」と呼ばれる生物の進化というテーマに沿った展示物が置かれており、万博後非公開とされたが、何度かの限定公開を経て2018年3月19日に再び公開された。これに合わせて万博開催当時、テーマ館地下展示「いのり」に設置されていたが、閉幕後行方不明となっていた「地底の太陽」が復元された。
岡本敏子によれば、その正体はカラスとされる
秘書の岡本敏子さんの業務日誌によると
ある人物の名が頻繁に出てきました。
日本を代表する建築家・丹下健三です。
二人は1ヶ月半で18回の打ち合わせを行っていました。
大屋根の模型を目にした時、この世界一の大屋根を生かしてやろう。
それを突き破って伸びる塔を作ってやろう。
設計締め切りまでわずか2か月、穴を開けるには構造計算からやり直さなければなりません。
しかし、この太郎のアイデアを受け入れたのが丹下健三でした。
丹下健三は万博全体のことを考えたらないよりあったほうがいい、と考えたに違いないのです。
建築✕芸術 旧東京都庁舎、万博前からコラボレーションしていました。
佐藤所長「真逆なものを持っていくことによって両方生きる、印象に残りました」
平野暁臣さん「力付くでねじ伏せたと思っている人が多いのですが、真逆です」
「完成後、丹下さんがふしぎだなあと言ったら、そうだろうと太郎が言いました」
「太郎は普通の男です。決意して、歯を食いしばって岡本太郎をやり通したのです」
「あなたの本業?ばかばかしい、強いて言うなら人間だ」
■なぜ塔は残ったのか?
日本万国博覧会一般規則に6か月以内に撤去とあります。
太郎は撤去に反対しませんでした。
太陽の塔についても、「永久に残すことなど微塵も考えなかった」
その手がかりが、万博記念公園事務所にありました。
保存を求める署名とか投書などの要望書です。
多くの人々が残してほしいと訴えていたのでした。
子どもたちが作品を残してほしいという投書が寄せられていたのです。
「そんな子どもたちが生きているあいだ、100年くらいは残したい」
1975年、世論におされ太陽の塔の永久保存が決定しました。
小生の岡本太郎のホームページ
ここ
岡本太郎のガチャガチャも沢山掲載してます

2004年10月11日撮影
太陽の塔の表側

太陽の塔の裏側
万博記念公園
街で見かけた岡本太郎の作品

「明日の神話」
JR渋谷から徒歩5分。マークシティーの通路
2008.12撮影 ブログピカソ展 は、
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展覧会 「太陽の塔」 あべのハルカス美術館 2018-10-31
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