先日、三宮の東遊園地で加納 宗七モニュメントに出会いました。
そこに陸奥宗光の字がありました。
ブログはここ 三宮アチコチ散策
陸奥宗光は和歌山の偉人です、早速銅像を見に行きました。
和歌山城の近くの岡公園にあります。
岡公園の駐車場の南端です。
陸奥宗光は紀州藩士の第6子として弘化元年(1844)和歌山城下に生まれました。15歳で紀州藩を出て、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、その後坂本龍馬の海援隊に入隊しました。倒幕運動に尽力した結果、明治新政府になってからは岩倉具視の推挙で官僚の道を進むことになりました。陸奥宗光は明治25年(1892)伊藤博文内閣の外務大臣に就任して、欧米列強との間に結ばれていた不平等条約の改正(治外法権の撤廃)に成功し、後にその手腕を称えて「剃刀(かみそり)大臣」と呼ばれました。明治30年(1897)、54歳でなくなりました。
岡公園にはSLがありました。思い出のSL ここ
生誕地は和歌山県和歌山市吹上3丁目記念碑が小松原五丁目にあるとネットに載っていたが、残念ながら見つけられなかった。元銀行の跡地が更地になっていた。ここかも知れない(勝手な推測ですー笑ー)
モニュメントの加納宗七も和歌山の生まれです。和歌山市北ノ新地分銅町の生まれです
神戸では、宗七は17万坪に及ぶ旧生田川の埋立地や堤防跡を娘婿の有本明とともに兵庫県から落札し、区画整備を行った。一帯には国道の幅が2間(約3.6m)であった時代に南北10間(約18m)、東西6間(約11m)の道路5本が敷設された。土地の一部には宗七の名にちなんで「加納町」という地名がつけられた
実は和歌山市にも加納町があります
大浦街道の築地橋付近に位置してます。
明治四年。湊御殿のお舟入りを埋め立てて道を造った加納宗七の名前をとって加納町という名前になったそうです。
湊御殿(奥御殿)とは、紀ノ川河口に近い現在の和歌山市湊御殿の広大な敷地にあった紀州徳川家の別邸の一部です。奥御殿は明治初年に和歌浦東四丁目に移築されたが、その後西浜の養翠園(国指定名勝、大名庭園)に再移築し、平成18年(2006)から一般公開されている。
去年 湊御殿に行ってきました
ブログはここ 養翠園 かきつばた
加納宗七、陸奥宗光 は討幕の仲間だったのです。
大阪の天王寺には家隆塚〔藤原家隆の墓〕があります
ブログはここ
そこに 清地蔵(さやじぞう)というのがあります
明治10年、陸奥宗光と亮子夫人の娘、清(さや)が20歳で他界し、その死を悼んで等身の地蔵尊として建立されたという。
和歌山と大阪そして神戸市に連なるお話です。
そこに陸奥宗光の字がありました。
ブログはここ 三宮アチコチ散策
陸奥宗光は和歌山の偉人です、早速銅像を見に行きました。
和歌山城の近くの岡公園にあります。
岡公園の駐車場の南端です。
陸奥宗光は紀州藩士の第6子として弘化元年(1844)和歌山城下に生まれました。15歳で紀州藩を出て、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、その後坂本龍馬の海援隊に入隊しました。倒幕運動に尽力した結果、明治新政府になってからは岩倉具視の推挙で官僚の道を進むことになりました。陸奥宗光は明治25年(1892)伊藤博文内閣の外務大臣に就任して、欧米列強との間に結ばれていた不平等条約の改正(治外法権の撤廃)に成功し、後にその手腕を称えて「剃刀(かみそり)大臣」と呼ばれました。明治30年(1897)、54歳でなくなりました。
岡公園にはSLがありました。思い出のSL ここ
生誕地は和歌山県和歌山市吹上3丁目記念碑が小松原五丁目にあるとネットに載っていたが、残念ながら見つけられなかった。元銀行の跡地が更地になっていた。ここかも知れない(勝手な推測ですー笑ー)
モニュメントの加納宗七も和歌山の生まれです。和歌山市北ノ新地分銅町の生まれです
神戸では、宗七は17万坪に及ぶ旧生田川の埋立地や堤防跡を娘婿の有本明とともに兵庫県から落札し、区画整備を行った。一帯には国道の幅が2間(約3.6m)であった時代に南北10間(約18m)、東西6間(約11m)の道路5本が敷設された。土地の一部には宗七の名にちなんで「加納町」という地名がつけられた
実は和歌山市にも加納町があります
大浦街道の築地橋付近に位置してます。
明治四年。湊御殿のお舟入りを埋め立てて道を造った加納宗七の名前をとって加納町という名前になったそうです。
湊御殿(奥御殿)とは、紀ノ川河口に近い現在の和歌山市湊御殿の広大な敷地にあった紀州徳川家の別邸の一部です。奥御殿は明治初年に和歌浦東四丁目に移築されたが、その後西浜の養翠園(国指定名勝、大名庭園)に再移築し、平成18年(2006)から一般公開されている。
去年 湊御殿に行ってきました
ブログはここ 養翠園 かきつばた
加納宗七、陸奥宗光 は討幕の仲間だったのです。
大阪の天王寺には家隆塚〔藤原家隆の墓〕があります
ブログはここ
そこに 清地蔵(さやじぞう)というのがあります
明治10年、陸奥宗光と亮子夫人の娘、清(さや)が20歳で他界し、その死を悼んで等身の地蔵尊として建立されたという。
和歌山と大阪そして神戸市に連なるお話です。