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「父母状の碑」, 武徳殿,「あおい茶寮」 和歌山

2014-11-22 | 街角の話し
先日、和歌山で法事があり、「あおい茶寮」を訪れた。

あおい茶寮は江戸時代、和歌山城の一角に位置し、400年以上前に造られた名庭を有する和歌山随一の料理屋。調理の顧問は、「現代の名工」を受賞した尾崎滋氏。地元の豊かな海山の幸を生かした伝統の日本料理は、「素材料理」と賞される。
和洋折衷のモダンな門構え。岡崎公園の南側にある。
庭園は素晴らしい落ち着きがある。

そのあおい茶寮の門の近くにあるのが「父母状の碑」です




「父母に孝行に法度を守り 奢らすして面々 家識を勤 正直を本とすること 誰も存たる事なれと
弥能相心得候様に常々可申聞者也」

万治三年(1660)熊野の山奥で父親殺しの事件が発生。捕えた若い男が親殺しの大罪にも悔いないさまを聞き、藩主徳川頼宣(吉宗の祖父)は 「藩の教育に問題があった。彼一人の罪でない。私の不徳を恥じるのみだ....」 大変心をいためた頼宣は藩民のために 「訓論」 の筆をとった。「父母に孝行に法度を守り奢らずして面々家職を勤、正直を本とする...」漢文学者・李梅渓に浄書させたのがこの父母状です。その後頼宣紀州入国記念祭を機にこの碑が建立されました。

和歌山城天守閣



和歌山城の歴史

和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎でした。
その後、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男頼宣が入城し、紀州藩55万5千石の居城となり、以来、尾張・水戸と並び、徳川御三家のひとつとして長い歴史を刻んできました。
明治となってから和歌山城は和歌山公園として公開され、昭和10年には天守閣が国宝に指定されました。
その貴重な文化遺産は、昭和20年7月9日の戦災によりその英姿を一夜にして焼失してしまいましたが、市民の熱意と浄財によって昭和33年10月1日、天守閣は見事に再建されました。
その後も一の橋・大手門の再建や御橋廊下の復元はじめ、整備が続けられています


そのあおい茶寮のすぐ前にあるのが 武徳殿です



そもそも武徳殿とは平安時代、平安京大内裏にあった殿舎の一つで宮中で競馬や騎射などを観覧する際に用いられた建物でした。明治28年(1895年)に設立された「大日本武徳会」の道場はそれに因んで称され日本各地に建設されます。現存する武徳殿は佐賀や山口など計11ヶ所ありその内9ヶ所が現在でも道場として使われているとのことです。和歌山の武徳殿もその内の一つで前を通りかかると子供達が武道の稽古で汗を流しています。和歌山武徳殿は「第日本武徳会和歌山県支部」によって明治38年(1905年)和歌山市真砂町に建設された後、和歌山大空襲を免れ昭和36年(1961年)現在の場所に移築されます。そして昭和37年には和歌山警察義勇会より和歌山市に寄贈され現在に至ります。

建物の外観は重層切妻屋根の桟瓦葺きの本体に入母屋屋根の車寄せが突き出しています。この形は現存する各地の武徳殿もおおむね類似してるらしい。

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