鵜川昇先生は東京高等師範学校の出身です
東京高等師範学校は後の東京教育大学、現在の筑波大学です
お別れの会で、筑波大学のOB会の会長の方のお話の中で
筑波大学創設時の興味深いエピソードがありました
東京教育大学は、戦後に発足した寄せ集めの大学でした
東京高等師範学校と東京文理科大学を中心として
東京農業専門学校、東京体育専門学校が合併して出来たもので
総合大学には程遠いものでした
昭和39年、政府は東京の過密対策の一環として
筑波山麓に研究学園都市を作る計画を発表しました
その中心となったのが
東京教育大学の発展的解消による筑波大学の創設でした
筑波大学の創設に積極的に協力したのは
東京高等師範学校のOB会である茗渓会(めいけいかい)です
鵜川先生はこの茗渓会の有力メンバーでした
一方、和歌森太郎部長の文学部は強硬に反対しました
おりから、学生運動の激しい時代であり
教授会を開こうにも、学生が嗅ぎつけては乱入し、占拠してしまうのです
大学側も、大学の自治の建前で、警察を学内に導入しないため
学生達のやりたい放題でした
賛否二分した文学部の他に、理学部にも三分の一ほどの反対がありました
そこで賛成派は宮島龍興という人を理学部長とし
やがて学長にしようと考えました
しかし、そんな学部長選びを学生達に知られたら大変なことになります
当時の状況では、命の危険すらあったのです
そこでなんと!鵜川先生は
やがて学長になるであろう、東京教育大学の理学部長選びの教授会を
桐蔭学園でやることを提案したのでした
東京高等師範学校は後の東京教育大学、現在の筑波大学です
お別れの会で、筑波大学のOB会の会長の方のお話の中で
筑波大学創設時の興味深いエピソードがありました
東京教育大学は、戦後に発足した寄せ集めの大学でした
東京高等師範学校と東京文理科大学を中心として
東京農業専門学校、東京体育専門学校が合併して出来たもので
総合大学には程遠いものでした
昭和39年、政府は東京の過密対策の一環として
筑波山麓に研究学園都市を作る計画を発表しました
その中心となったのが
東京教育大学の発展的解消による筑波大学の創設でした
筑波大学の創設に積極的に協力したのは
東京高等師範学校のOB会である茗渓会(めいけいかい)です
鵜川先生はこの茗渓会の有力メンバーでした
一方、和歌森太郎部長の文学部は強硬に反対しました
おりから、学生運動の激しい時代であり
教授会を開こうにも、学生が嗅ぎつけては乱入し、占拠してしまうのです
大学側も、大学の自治の建前で、警察を学内に導入しないため
学生達のやりたい放題でした
賛否二分した文学部の他に、理学部にも三分の一ほどの反対がありました
そこで賛成派は宮島龍興という人を理学部長とし
やがて学長にしようと考えました
しかし、そんな学部長選びを学生達に知られたら大変なことになります
当時の状況では、命の危険すらあったのです
そこでなんと!鵜川先生は
やがて学長になるであろう、東京教育大学の理学部長選びの教授会を
桐蔭学園でやることを提案したのでした