昭和20年3月28日
渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が
島北部の山中の谷間で手榴弾のほか、鎌、鍬などを使い自決しました
なぜ、このようなことになったのでしょう
座間味島で先に集団自決があり、それを聞いた島民は混乱していました
沖縄には、一門で同じ墓に入ろう
どうせ死ぬなら家族みんな死のうという考えがあったそうです
いずれにしろ切羽詰った、戦場の集団心理です
今の私達には想像できません
渡嘉敷島の悲劇は、これで終わりません
もう一つの悲劇が戦後に始まるのです
敗戦後、米国支配下の沖縄の人々の生活は悲惨を極めました
米軍支配下の琉球政府に、それを救う手立てはありませんでした
本土で戦傷者戦没者遺族等援護法が施行されると
沖縄県民も対象となりました
しかしこれは、あくまで軍命令で行動した人々が対象となるもので
自発的な集団自決は援護法の対象にはならなかったのです
渡嘉敷島は貧困にあえいでいました
沖縄の担当部署の人々は泣きながらお願いしたのですが
当時の厚生省は突っぱねました
同様のケースは本土でも認めなかったからです
渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が
島北部の山中の谷間で手榴弾のほか、鎌、鍬などを使い自決しました
なぜ、このようなことになったのでしょう
座間味島で先に集団自決があり、それを聞いた島民は混乱していました
沖縄には、一門で同じ墓に入ろう
どうせ死ぬなら家族みんな死のうという考えがあったそうです
いずれにしろ切羽詰った、戦場の集団心理です
今の私達には想像できません
渡嘉敷島の悲劇は、これで終わりません
もう一つの悲劇が戦後に始まるのです
敗戦後、米国支配下の沖縄の人々の生活は悲惨を極めました
米軍支配下の琉球政府に、それを救う手立てはありませんでした
本土で戦傷者戦没者遺族等援護法が施行されると
沖縄県民も対象となりました
しかしこれは、あくまで軍命令で行動した人々が対象となるもので
自発的な集団自決は援護法の対象にはならなかったのです
渡嘉敷島は貧困にあえいでいました
沖縄の担当部署の人々は泣きながらお願いしたのですが
当時の厚生省は突っぱねました
同様のケースは本土でも認めなかったからです